おやぢの部屋2
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トニー賞
 きのう、新聞のテレビ欄を見てみたら、いつもNHK教育で「N響アワー」をやっている時間に東京都響の演奏が放送されることになっていました。今月は日曜日が1回多いので、そういう「地方オケ」が紹介されるのでしょう。曲目がマーラーの8番だったので録画しておきたかったのですが、HDDで予約しようと思ったら「録画が重複しています」というメッセージが出てしまいました。その時間にBSで他のものをすでに予約していたのですね。1時間番組ですし、インタビューなども入っているみたいでどうせ全曲は放送できるわけはないので、今回はマーラーは録画をあきらめることにしました。いずれBSあたりできちんと全曲やってくれるでしょうし。
 それは、私の書斎の話ですが、居間の普通のテレビではその番組をやっていました。音が悪くてちゃんと聴くのには物足りないので、とりあえず画面だけ、と思って見始めたら、なんだかバスのソリストに見覚えがあります。というか、最初の引きのカットで、すでにその人が成田眞さんであることが分かりました。彼が出るのだったら、きちんと録画しておくのだった。成田さんというのは、「コール青葉」のボイス・トレーナーの中のお一人です。この合唱団には、全てのパートにボイトレの先生が付いていて、全部で4人いるという贅沢な布陣、これを受けるためにわざわざ東京まで行っても良いぐらいのものです。皆さんとても気さくな人ばかりで、練習のあとや打ち上げにはよく顔を出されますから、みんなとは仲良し。そんな身近な人が、こんなすごいソロをやっているなんて。そういえば、成田さんはサイトウキネンで松本のオペラにもお出になっていたそうですね。
 最初に録画を予約してあったのは、今年の「トニー賞」の授賞式です。似たようなものに「エミー賞」というのがありますが、未だにその区別が付きません。きのうも、見始めてこれはドラマではなくミュージカルの賞だったことに気が付いたぐらいですから。アカデミー賞の授賞式は毎年見ているのでお馴染みでしたが、これもなかなか豪華な演出、受賞イベントのおまけのパフォーマンスが、とても見応えのあるものでした。なにしろ、オープニングが「ライオン・キング」なのですからね。
 司会が、ウーピー・ゴールドバーグ、喋りだけではなく、彼女もパフォーマンスの一役を演じていました。それが名作ミュージカルのパロディなのですから思わず大笑いです。「オペラ座の怪人」の、あの地下のセット(しっかり本物と同じに作られています)でファントムがあのアリアを歌っているのが、ちょっと違うな、と思っていたら、ボートに乗っていたのがウーピー、いきなり起きあがって「♪トニー」と歌い出すんですから。メアリー・ポピンズになって空から降りてきたり。
 そこで、最新のミュージカルの1シーンがパフォーマンスとして演じられるのですが、一つ気になったのが今年作品賞を受賞した「イン・ザ・ハイツ」という作品です。なんと、音楽が「ヒップ・ホップ」だったのですからね。つまり、歌われるナンバーがラップなのですよ。確かに、ミュージカルの音楽には色んなジャンルのものが使われてきていますが、これだけはちょっと許せないな、という感じ。それが作品賞ですから、これもちょっと、です。まあ、少なくとも「劇団四季」で上演されることはないでしょうが。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-30 22:16 | 禁断 | Comments(0)
PEROSI/Messa da Requiem
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Arturo Sacchetti/
Coro Polifonico Castelbarco di Avio
I Virtuosi Italiani
BONGIOVANNI/GB 2430-2



ロレンツォ・ペロージは、1872年に生まれて1956年に亡くなったイタリアの作曲家です。小さい頃から、才能を発揮していたんですね(それは「麒麟児」)。時代的にはマスカーニやレオンカヴァッロと同じ頃に活躍していますが、彼らのような「ヴェリズモ」とは一線を画した、もっと穏やかな作風を取っています。そもそも、彼はヴェネツィアの聖マルコ大聖堂聖歌隊の指揮者やローマのシスティーナ礼拝堂の楽長を努めたという「教会音楽家」ですから、何よりも信仰心のあらわれとしての作品を目指したのでしょう。
今までは殆どその作品は知られてはいなかったペロージですが、このレーベルがアルトゥーロ・サッケッティの指揮によるさまざまの演奏を次々とリリースしてくれたおかげで、実際にその「音」を楽しめるようになりました。今回のニュー・リリースは、1910年に作られた、「In Patris Memoriam(父の思い出のために)」というオラトリオと、1897年に作られた「レクイエム」の2曲、いずれも教会でのコンサートのライブ録音です。
オラトリオは、1908年に亡くなった彼の父親を悼んで作られたものです。かなり大規模なオーケストラにソプラノ・ソロと合唱がつきます。殆ど、そのソプラノが出ずっぱりという冗長な構成ですが、曲自体はまさに心の琴線に触れる「ツボ」満載の、魅力的な音楽です。何よりも、決して予想を裏切らない、安心出来る結末が用意されている、というのが、最大のポイントでしょう。ですから、ソロの人がこれほどドラマティックに歌うこともなく、オーケストラがこれほどいい加減な演奏さえしなければ、さぞや心に残るものとなったことでしょう。いやあ、このシンプルな曲に、なぜこれほどの「熱い」情感を注がなければならないのか、全く理解出来ません。このレーベルの常で、録音が恐ろしく悪いのも、曲の魅力を引き出すのに大きな妨げとなっています。
「レクイエム」となると、状況はさらに悲惨です。ペロージがこの曲を作るきっかけとなったのは、1897年の5月23日に、聖マルコ大聖堂での彼のお気に入りの聖歌隊員、フェルッチョ・メネガッツィくんが病気で亡くなってしまったことです。よっぽど彼のことを「愛して」いたのでしょうね。長文の弔辞を新聞に掲載したり、友人に張り裂けんばかりの胸の内を綴った手紙を書いたり、あげくにはその日のうちに追悼の「レクイエム」の作曲を始め、6日後の5月29日に行われた葬儀で演奏してしまうのですからね。ですから、この曲も、まともに演奏しさえすれば、作曲者の悲しみにうち震える心情を反映した感動的なメッセージを伝えられるはずのものなのでしょう。
ところが、この男声合唱とオーケストラ(オーケストラのパートは、後に作られました)という編成の、演奏に40分以上を要する大曲に起用された合唱団は、とんでもない代物でした。フレージングとかアンサンブルとかを言う前に、まずその声は全くのシロートのものでした。互いに声を聴き合って音を揃えるということが出来ないのか、そもそもそのような発想が全く浮かばないのか、彼らは勝手気ままにそれぞれの歌い方でがなり立てているだけなのですよ。はっきり言ってこの合唱団は、合唱団として必要な資質を、何一つ備えていないという、ただの「歌の好きなおじさん」の集まりでしかありません。ですから、「Dies irae」などは、インパクトからいったらものすごいものが迫ってきますよ。もちろん、その迫力は「音楽」とは全く無縁のもの、ほとんど「暴力」なのですがね。ほんと、グレゴリオ聖歌からの引用もある、なかなか素敵な曲なのでしょうが、この合唱団にかかってはその片鱗を想像することすら困難です。
なまじオーケストラがフツーにうまい分、その対比は一層際だちます。そして、最後にわき起こる盛大な拍手。いったいこの教会には、どんなお客さんが来ていたのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-29 20:50 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Johannes-Passion
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Ruth Holten(Sop), Matthias Rexroth(CT)
Marcus Ullmann(Ten),
Gotthold Schwarz, Hentyk Böhm(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig, Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4024/25



最近「生ヨハネ」を聴いたばかりなので、この新譜もよりリアリティを持って聴くことが出来ました。そのコンサート本体よりも、「プレトーク」ということでちょっとしたお話しがあったそちらの方に、なかなか教えられるものがあったものですから。そこで述べられていたのが、この「ヨハネ」の「稿」に関することでした。実際にこの曲には4つの稿が存在していることは知っていましたが、それらの成り立ちのようなものが、きちんと分かったような気がします。世の中、まだまだ知らないことだらけです。
快調にレコーディングを続けているビラーとトマス教会聖歌隊、前作の「マタイ」では、初期稿などという珍しいものを披露してくれましたが、ここでも版にはこだわっています。この曲の場合、普通になんの表記もなければ、「第1稿」に近いもので演奏されるものですが、ここでは、おそらくCDでは2度目の録音となる「第4稿」を使っているのですよ。ところが、その今まであった鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏(BIS/CD-921/922)にはしっかり「第4稿」という表記があったのですが、このビラー盤には稿についてはなんのコメントもありません。ライナーでも「オリジナル・バージョン(つまり第1稿)」と「1749年か、たぶん1750年のバージョン(つまり第4稿)」との違いには言及しているものの、これがそのどちらによって演奏されているものかということは、述べられてはいないのです。
ですから、普通に第1稿を演奏しているのだな、と思って聴いていると、最後のアリアである35番のソプラノの「Zerfliesse, mein Herze」で普通はフルートとオーボエ・ダ・カッチャ(モダンオーケストラではコール・アングレで代用)でオブリガートが演奏されるものが、ヴァイオリンがユニゾンでフルートのパートを一緒に弾いていたのです。これは、紛れもない第4稿のかたちです。そこで、最も分かりやすいチェックポイントであるアリアの歌詞を見直してみると、確かに部分的に全く別のものになっているものが2曲(9番と19番)見つかり、20番のテノールのアリアでは、まるまる別なものになっていました。せっかく珍しい稿で演奏しているのですから、しっかり「こうだ」とお断りを入れておいてくれればいいと思うのですが、どうでしょう。
ただ、この「第4稿」の歌詞は、さっきのプレトークで、市議会からの外圧によって変更させられた可能性が大きいものだ、と知ったばかりであれば、これが必ずしもバッハの意志を伝えるものではなかったと思えるのは自然なことです。実際、新バッハ全集の楽譜でも、第1稿の歌詞を採用していますし。「マタイ」の初期稿といい、今回の「第4稿」といい、資料としては珍しくても実際にはそれほどの価値のない楽譜を使って演奏するというのが、ビラーたちの信念なのでしょうか。この際ですから、まだ誰もやっていないはずの、もっと大幅なカットがなされている「第3稿」の初録音を、ぜひやってもらいたいものです。
演奏自体は、稿の選択にかかわらず、非常に引き締まった素晴らしいものです。やはり合唱は的確にこの曲での合唱の役割を、しっかり把握してくれていて、ドラマティックな部分は身の引き締まる思い、コラールでさえ、歌詞の意味がしっかり伝わってくる生々しさがありました。
アルトのソロのレクスロートは男声ですが、有名な30番のアリア「Es ist vollbracht」は絶品、後半のメリスマも、男声ならではの安定感があって、胸のすくおもいです。エヴァンゲリストとアリアを掛け持ちのウルマンは、いつもながらの柔らかい声が魅力的ですが、後半はさすがにバテてきたようですね。そう、これはトマス教会でのライブ録音。なんといっても歌い終わった後の、教会全体の空気が感じられるような残響が、素敵です。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-27 20:50 | 合唱 | Comments(0)
NML
 今は仕事的にはちょうど空白の時期。もう少しすると本格的な「修羅場」に入りますが、今のうちはそれほどやることがないので、空いた時間を使って「おやぢ」の原稿を書いていたら、とうとう在庫が5本にもなってしまいました。最近は「今日中に書かないと、更新が出来なくなる」といったようなせっぱ詰まった状況に何度も陥っていたので、これは久しぶりの快挙です。もちろん、だからといって油断をするとまたもとの借金生活に戻ってしまいますから、安心していてはいけません。
 その「おやぢ」ですが、最近あるレーベルを扱ったエントリーの文末に「こちらで聴けますよ」みたいなリンクが入っているようになったのには、お気づきでしょうか。音楽関係のブログなどではかなり話題に登っているものなのですが、こういうサイトがあるのですよ。これは、クラシックの曲をストリーミング配信しているサイトです。ダウンロードではなくその場で聴くことしかできないのと、名前の通りNAXOSのものしかないのだと思って、最初はそんなに関心はなかったのですが、色々なブログの情報を見てみると、どうやらレーベルは他にもかなりのものが含まれているようなのですね。さすがにメジャーは入ってはいませんが、BISやCHANDOSといった堂々たるマイナーレーベルの音源なども入っていて、なんでも総曲数は30万曲だとか。これだったら使えそう。聴くのも、「歩合制」ではなく、月額いくらか(CD1枚分にも満たない額)を払えば聴き放題というのですから、ものは試しに会員になってしまいましたよ。
 ブログでも、ここで聴けるタイトルにリンクを張っているものがたくさん見られるようになっています。ですから、私もマネをして、「おやぢ」で聴いたもので、ここでも聴けるものにはリンクするようになったというわけです。会員にならなくても、曲の最初の30秒だけだったら、無料で聴けますからね。地上波の野球中継みたいに、時間が来たら無惨にも「これでおしまいです」となるのがいやだと思った人は、スカパーに入るみたいに会員になれ、ということなのでしょうね。
 音質も、環境によって「CDなみ」、「CDに匹敵」、「FMなみ」の3段階から選べます。ですから、職場のように未だにダイヤルアップのパソコンでも「FMなみ」だったらちゃんと聴けますよ。それで、今まではなかなかCDが見つからなかった、今度の定期の曲目の「中央アジアの草原にて」を聴いてみました。もちろん、リンクはこちらです。こういう小曲は最近はなかなか聴く機会がなくなっていたので、久しぶりに聴いたような気がします。
 というのも、この曲は、かつては中学校あたりの音楽鑑賞教材に指定されていたため、必ず学校で聴かされる、という超ヘビーローテーションの曲だったわけです。また、曲の構成もなんとも単純で分かりやすいものですから、おそらく全国の人が知っている曲になっていたのではないでしょうかね。ところが、この間、この曲の練習が終わった時にフルートのトップ(最後に長いソロが出てきます)の人が、「聴いたことがなかったので、ソロで失敗しちゃった」などと言っていましたよ。どうやら、今ではもやは鑑賞教材は別の曲に変わってしまっていたので、こんな有名な曲を知らない人もいるようになっているのですね。これはちょっとびっくりでした。ある意味、「トリスタン」を「ウェスタン」と言う人(あ、それは別の人でしたが)がいたのより、ショックだったかも。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-26 22:38 | 禁断 | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.1
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Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0663(hybrid SACD)



ゲルギエフとロンドン交響楽団とのマーラーシリーズ、第2弾です。番号が雷に打たれているようなジャケット・デザインはこの前の「6番」と共通していますから、こんな感じで全曲が揃うのでしょうね。雷と言うよりは、造影剤を入れて撮影した血管のような感じがするのが、ちょっとブキミですが。
最近のこのレーベルのフォーマットに従った、ライブ録音のSACD、録音スタッフも今までと変わってはいませんし、ホールも前と同じバービカンなのですが、なにかオケの音がいつもとは異なって聞こえてくるのが非常に気になります。屋外でもないのに(それは「ピーカン」)。弦楽器、特にヴァイオリンが、とてもバランスの悪い聞こえ方なのですよ。これもこのレーベルの常で、ブックレットにはその演奏のメンバーがきちんと書いてあるので、それによって、ファースト・ヴァイオリンが16人というたっぷりした陣容であることが分かりますが、とてもそんなにたくさんで弾いているとは思えないような、チープな音しか聞こえてはきません。
これはおそらく録音のせいではなく、ゲルギエフが求めたバランスなのだと思いたいものです。そうであれば、曲全体を覆っている救いようのないほどの「暗さ」も理解できることでしょう。例えばフィナーレの冒頭、まさに「雷」から始まって荒れ狂う「嵐」のような激しい情景がひとしきり続いた後に、場面がガラリと変わったところには、スコアに「思い切り歌って」という表記があるのですが、そこの主役であるヴァイオリンはなんとも慎ましやかにしか聞こえてきません。しかも、彼らはほとんど「歌って」はいないのですよ。正直、それは「泣いて」いるかのようにさえ聞こえるほどです。また、第3楽章の中間部、「さすらう若人の歌」からの引用の部分も、フルートの醸し出す透明な世界とは裏腹に、弦楽器はなんとも行き場のないような暗さに支配されていることを感じないわけにはいかないことでしょう。
ただ、その楽章の冒頭で、普通はコントラバス1本ではかなげに演奏されることの多い「フレール・ジャック」のパロディが、トゥッティのコントラバスによって弾かれているのには、注目すべきではないでしょうか。確かに楽譜のこの部分には「SOLO」という指示が書き込まれてはいます。しかし、1992年にマーラー協会から発行されたザンダー・ウィルケンスの校訂による新しいスコアには、「注釈」として、「1本のコントラバスではなく、コントラバス群によるソロ」という記載があるのです。これは、演奏家にとってはかなりショッキングな宣言には違いありません。今まで演奏の拠り所としていたものが、「実はまちがいだった」と根本から否定されてしまったのですからね。事実、この楽譜が公になってかなりの年月が経ったにもかかわらず、この「コントラバス群によるソロ」を採用している指揮者は極めて少ないのではないでしょうか。コンサートではここを全員で弾いた、というような噂は何度か聞いたことがありますが、きちんとしたCDでそれを耳にするのは、これが初めてのような気がします。
今までこの部分を「一人の」奏者が弾いていたものを聴いていたときには、確かにどんな名手が演奏しても一抹の危うさが漂っていたものです。それはマーラーが求めていた不安げな情感を表現した手段なのだ、とさえ言われていました。しかし、ここでゲルギエフがとっている、あくまで弦楽器に貧相な表情をさせる、というコンセプトの中で、この部分が「全員」によって弾かれると、その不安な面持ちがかえって増強されているようには感じられないでしょうか。ロンドン交響楽団のコントラバス・セクションによるユニゾン、そこには、確かに恐ろしいぐらいの「不安」が宿っていました。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-25 20:58 | オーケストラ | Comments(0)
KARAJAN/Maestro for the Screen
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Georg Wübbolt(Dir)
ARTHAUS/101 459



カラヤンの記念年はまだまだ続きますねん。そんな中で、まさに今年2008年に制作されたドキュメンタリーなどというものが、即座にDVDでリリースされました。カラヤンの映像好きは多くの人に知られていますが、このフィルムはカラヤンと映像作品との関わりに焦点を当てて、その変遷を追ったものです。彼が残した映像はそれこそ腐るほどありますが、それらを惜しげもなく流すとともに、その時々に制作に関与していた人や、実際に演奏をしていた人たちへのインタビューを集約することで、立体的にその「裏側」が見えてくるという、極めて興味のある仕上がりとなっています。制作は、ベルリン・ドイツ・オペラのガラコンサートなどのDVDでのディレクターとして知られる、ゲオルク・ヴュボルトという、カタカナに直すのが極めて難しい名前の方です。
そもそも、「最初は、カラヤンは映像に対しては懐疑的だった」という証言が、今となっては驚くべきものです。しかし、そんなカラヤンが映像の力を信じるようになったきっかけというのが、日本でのテレビ放送だったというのですから、面白いものです。その、1957年の旧NHKホールでの日本語のテロップの入った映像が、まず注目されます。おそらく、当時生中継されていたのでしょう、その番組のリアクションを、ベルリン・フィルの団員たちとともに体験したカラヤンは、映像という媒体の影響力の大きさを、まさにその時に認識することになったのです。
その後、彼の映像を制作することになる2人の映画監督については、かなりの時間を割いて紹介されています。まず、フランスの巨匠アンリ・クルーゾーは、カラヤンが制作上のノウハウを獲得する人物として登場します。偉大な監督から謙虚に教えを請う、初期のカラヤンの姿が印象的です。対照的に、まるで実写版「ファンタジア」とも言うべきベートーヴェンの「田園」の前衛的な映像を作り上げたフーゴー・ニーベリングは、カラヤンの逆鱗に触れてしまった監督として描かれています。そして、このフィルムの最大の山場、「エロイカ」交響曲でニーベリングが最初に作った映像と、それをカラヤンが編集したものとが並べて映し出される、というシーンの登場です。あくまで音楽の視覚化を目指したニーベリング版と、自分自身の指揮姿だけを執拗に追い続けるカラヤン版、カラヤンが映像に求めたものを、これほど端的に物語っているシーンが、他にあるでしょうか。
実は、朝比奈隆とカラヤンとは同じ年だったことを、先日の「N響アワー」で知らされました。その時に流れたN響の映像では、殆ど全てのカットに朝比奈氏が登場していました。それはまさに必然として指揮者の姿が入っているもの、自分の姿を入れるために映像を作ったカラヤンとは良く似た結果になっていたとしても、その精神には雲泥の差があることを思い知ったのです。
ハンフリー・バートンやギュンター・ブレーストといった、今まで名前は知られていても、基本的に裏方に徹していた「大物」のレアな映像が、見物です。そんな有名無名の人々のコメントからは、カラヤンがビジネスとしてオーケストラ(や自分自身)に大きな利益をもたらしたことは明らかになっても、その映像の芸術的な価値について述べられることは、ついにありませんでした。彼が生涯をかけて成し遂げたのは、「カリスマ」としての自分の姿を「スクリーン」に記録したことのみだったのです。それは、おそらく100年後にはなんの価値もなくなっているのでは、というのが、ヴュボルトの視点だったのではないでしょうか。
このようなDVDの常で、これはもともとは放送用に制作されたものです。そして、ほんの数ヶ月前に、実はそのテレビ番組自体が日本でも放送されていました。それと比較してみると、このDVDは「商品」としての最低限のクオリティすら確保されていないことが分かってしまいます。最悪なのは日本語字幕。もちろん放送されたものとは別物で、誤訳だらけの上に、日本語としての体をなしていないひどいものでした。大賀典雄氏のコメントなどは日本語で語られている上にドイツ語のナレーションが重なり、さらにそれを日本語に訳した字幕が入るのですから、なんともシュールな世界です。さらに、放送ではソニーの盛田社長の家の表札には、きちんとモザイクがかかっていましたが、DVDではそんな「個人情報」には全く無頓着です。こんないい加減なものを決して安くはない価格で販売しようとする業者の感覚は、確実に一般の消費者には相容れないものとなっています。困ったものです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-23 20:22 | 映画 | Comments(0)
奇跡のシンフォニー
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 自分には音楽を感じる力がある、それを表現する手段を見つけて、その音楽を伝えさえすれば、一度も会ったこともない両親を捜すことが出来る。そんな気持ちを持った少年(「チャーリーとチョコレート工場」のフレディ・ハイモア)が、セントラルパークでギターの超テクを披露しているカットが何度も出てくる予告編をテレビ番組で見て以来、これは絶対劇場に見に行くんだ、と決めていました。その頃はまだ日本での公開予定も決まっておらず、当然邦題もまだ付いていなかったので、「August Rush」という原題で頭の中の引き出しにしまっておきました。
 その映画が「奇跡のシンフォニー」などという、その予告編からは想像できないような邦題が付いて公開されることになったので、危うく見逃すところでした。どう考えても、「シンフォニー」とは縁のないストリート系のミュージシャンの話だと思っていたからです。映画館に行ってポスターを見たら、まさにその映画だったので、やっと邦題と結びついたというわけです。さいわい他の予定がなかったので、初日に見に行けました。
 確かに、そんな邦題をつけたくなるような、ただギターを弾くだけではないとんでもない話でしたね。なにしろ、ちょっと楽譜の書き方を教わっただけで教会のオルガンを弾けるようになって、それを見てびっくりした牧師さんが、なんとジュリアード音楽院に入れてくれるのですからね。そこでちょこっとハーモニーを教わったら、少年はオーケストラの作品を書き上げてしまいます。それが「シンフォニー」なのでしょうね。それだけではなく、その曲がニューヨーク・フィル(実際に出演)によってセントラルパークの野外ステージで演奏されるのですから、とんでもない才能と、そして強運の持ち主なわけです。
 ですから、そこまで来るともはや突っ込むのはやめて、素直にそのあり得ない物語にのめり込んでしまおうという気になってしまいます。そんなに簡単にこんな他愛のない仕掛けに酔ってしまう自分には、ちょっと情けなくなってしまいますが、そうさせるだけの「力」がこの映画にはあるということは、認めないわけにはいきません。
 その少年の両親は、実はロック・ミュージシャンと、クラシックのチェリスト、このチェリストが、昔なじみの「フェリシティ」役のケリー・ラッセルなものですから、まずすんなり入っていけます。父親役のジョナサン・リース・マイヤーズも、最近色々な映画で気になっていた人でしたし。この2人に、バッハのシンフォニア(なぜか、チェロ協奏曲バージョン)と、ロックのライブステージとをオーバーラップさせて「共演」させるという映画的な手法が、まずキャッチーです。そして、その夜に2人は結ばれ、翌日には分かれるというシチュエーション、その時すでに2人の愛の結晶は宿っていたというのが、ミソです。
 一度も会ったこともなく、生きているのかも定かではないのにお互いにその存在を感じあえる、というあたりの描き方がとてもていねい、少年は孤児院に来てからの、母親は出産してからの(実際は「死産」と告げられています)時間を、それぞれ「なん日」まできちんと数えていた、というあたりで同じ塩基配列のDNAを感じさせる手法は見事です。
 ただ、ロビン・ウィリアムズの扱いがイマイチだったでしょうか。あれではただの悪徳マネージャー、彼にはもっと根元的な役割があったことを、きちんと見せて欲しかったところです。例えば、彼がかつて弾いていたギブソンは、後に父と息子が出会う時の重要なファクターとなるのですからね。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-22 22:55 | 禁断 | Comments(0)
PUCCINI/The Complete Operas
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Various Artists
SONY BMG/88697295742



プッチーニは1858年の生まれですから、今年は生誕150周年にあたります。そこで、彼が作った10曲のオペラ(「三部作」を1曲と数えます)の20枚組の全曲ボックスが登場しました。価格は5千円ちょっと、この前のワーグナーのバイロイト全集と、1枚あたりの単価は同じようなものです。しかし、見た目はこちらの方がかなり立派、立方体の箱を開けると、中にはそれぞれのタイトルがオリジナルジャケットをデザインした厚手の紙ジャケットに収まっている、という仕掛けです。もっとも、ブックレットを重ねても厚さはそんなにありませんから、両端にスペーサーが入っている、というのが、ちょっとショボいところでしょうか。このスペースに対訳でも入れてくれれば嬉しいところですが、この値段でそれを望むのは、ちょっと欲張りでしょう。
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この紙ジャケ、表は元のジャケットですが裏はこのボックスのためのアール・ヌーヴォーっぽいデザインになっていて、なかなかおしゃれです。手にとって眺めているだけでも、プッチーニのゴージャスなサウンドが聞こえてくるよう。と、それぞれのジャケットの見開きを見ていると、そこには面白いものが写っていました。それは、プッチーニの自筆稿。それ自体は珍しいものではありませんが、そこでプッチーニが使っている五線紙に、思わず目を見開いてしまったのです。それは、オーケストラ用の20段以上ある五線紙なのですが、その左端に最初からパートと音部記号(と言うんでしたよね。ト音記号とかハ音記号というやつ)が印刷されているのですよ。最上段が「piccolo」ではなく「ottavino」となっていますから、これはまさにイタリアの出版社の表記、これがわざわざプッチーニのために特注されたものであることが分かります。原稿用紙にこだわった小説家のように、五線紙にもこだわったプッチーニの姿が、そこから垣間見えた思いでした。
オリジナルのレーベルはRCASONYという、かつてはオペラの全曲のスタジオ録音ではさまざまな名盤を輩出したところです。現在、その二つのレーベルは同じ会社に統合されて、晴れてこのような高い水準の全曲ボックスを出すことが可能になりました。もはや新しいオペラの録音など出来なくなってしまったそのレコード会社の、これは精一杯の罪滅ぼしなのでしょうか。二度と実現出来ないほどの豪華なキャストによる録音は、確かにぜひ手元に置いておきたいアーカイヴとなっています。
そんな中で、最も新しくリリースされた「トゥーランドット」は、1998年に、なんと北京の紫禁城というとんでもないところで上演されたもののライブ録音です。なにしろトイレがないのですから(それは「失禁城」)。映画監督のチャン・イーモウが演出を担当し、軍隊までも動員してスペクタクルなイヴェントを実現したこのプロダクションは、制作過程が映画にもなって紹介されていたものですね。そんな、録音するには条件が良いとは言えない場所での公演がどのように収録されているか、なかなか興味のわくところではないでしょうか。
それは、思いの外クリアな録音でした。おそらく会場ではオーケストラや歌手の声は生音だけではなくPAによって聴衆に届いていたのでしょうが、そのあたりのバランスがうまく取れています。2幕の頭あたりの繊細なオーケストラの響きも、野外での演奏という大味のものでは決してありませんでした。ですから、例えばタイトルロールのジョヴァンナ・カゾッラあたりが、本当はもっと楽に歌っても十分に声が届いていたものが、相当に力んでいるのが分かってしまいます。
これは、ですからそんな、制約の多い場所でのドキュメンタリーとして聴くべきものなのかもしれません。それにしても、こういう場でのメータの盛り上げ方はさすがです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-21 21:47 | オペラ | Comments(0)
ANDERSON/Orchestral Music Vol.2
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Leonard Slatkin/
BBC concert Orchestra
NAXOS/8.559356



このシリーズが目指しているものは、まさに「コンプリート・エディション」なのでしょう。第1集に続いてリリースされたこの第2集には今まで録音されたことのなかった曲が5曲も収められています。アンダーソン自身は「作らなかったことにしたい」と思っていたものを、遺族の承諾を得て今回晴れて録音出来た、ということなのだそうです。あのチェリビダッケのように、絶対にCDの販売を許さなかったものが、死んだ途端に膨大な録音が市場に流れ出すのと同じようなものなのでしょう。いくら作った本人が恥ずかしいと思っても、ファンとしては骨までしゃぶり尽くしたいと願っているもの、それを手助けするのがレーベルなのですから(NAXOSは禿鷹か!)。
そんな、初めて日の目を見た作品の一つが「Waltz Around the Scale」という曲です。アンダーソンという人は、初心者が簡単に演奏出来るような作品も良く作っていたのだそうですが、これもそんな学習者のアンサンブルを想定して書かれたものです。「Scale」というのは「音階」。初心者が毎日練習させられる音階を、これでもかというぐらいしつこく登場させるという、ちょっとマゾっ気の入ったものです。そんな下降音階の伴奏に乗って歌われるのが、お馴染みの甘~いメロディ。こんな素敵な曲をなぜボツにしたのでしょうね。同じように初心者のために作られた「Whistling Kettle」は、ヴァイオリンとヴィオラの合奏用。常に聞こえてくるヴァイオリンの高い音が、ヤカンのピーピーいう音なのでしょう。しかし、ちょっとこれは外したな、という感じはしますね。これはボツにして正解かも。
Lullaby of the Drums」という、やはり初めて録音された曲も傑作ですよ。有名な「トランペット吹きの子守唄」の太鼓判、いや太鼓版、しかし、容易に想像出来るように、スネアドラムやボンゴのにぎやかなリズムの中で眠りに誘われるわけなどあり得ません。これはアンダーソンお得意のジョークの精神が発揮された逸品ととらえるべきものでしょう。
ここでは「全集」と言うだけあって、アンダーソンのオリジナルの他に、彼が編曲した名曲なども聴くことが出来るようになっています。今回収録されているのは、ヘンデルのオペラアリアをトランペット・ソロとオーケストラに編曲したものと、クリスマス・キャロルを弦楽合奏のために編曲したものです。これらのものを聴いてみると、彼の編曲のセンスというものは極めてオーソドックスなスタイルを持っていることに改めて気づかされます。ですから、時にはそこからはなんの面白味も感じられないこともあるかもしれません。やはり、彼の最大の魅力はセンスとウィットに富んだそのオリジナル・メロディなのだ、と。
しかし、もしかしたら、そのように感じさせられてしまうのは、少なからずここで演奏しているスラトキンの責任なのではないか、とは言えないでしょうか。実際にアンダーソン自身が録音したものと比べてみると、スラトキンの演奏はあまりにお上品に聞こえてなりません。おそらく彼は、このシリーズのタイトルではありませんが「アメリカン・クラシックス」という概念、あくまでクラシック作曲家としてのアンダーソンを求めているのでしょう。
このアルバムの中には「Home Stretch」という、競馬場のイケイケの様子を描写した曲があります。自作自演では気にもとめなかったことなのですが、そのメイン・テーマは、なんと5拍子という不思議なリズムを持っています。本来、ちょっとしたアクセントとしての「5拍子」だったものが、スラトキンの手にかかると複雑な現代音楽のように聞こえてしまいます。せっかくの全集なのですから、ただのカタログには終わらない、アンダーソンならではの魅力を持ったものに仕上がって欲しいところですが、スラトキンには果たしてそれが出来るのでしょうか。そのあたりを、こちらで聴いてみて下さい。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-19 19:59 | オーケストラ | Comments(0)
VIVALDI/Flute Sonatas
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Mario Folena, Roberto Loreggian(Fl)
ConSerto Musico
BRILLIANT/93703



ヴィヴァルディのフルート・ソナタと言えば、かつては「忠実な羊飼いIl Pastor Fido」という、作品13として出版された6曲からなるソナタ集が知られていました。その「第2番」の冒頭は、NHK-FMの「バロック音楽の楽しみ」のテーマ曲として、広く親しまれていたものです。これはランパルが演奏したものですが、その他にも多くのフルーティストがこの曲を録音していました。しかし最近になって、この曲集はニコラ・シェドヴィルNicolas Shedevilleというフランス人が、ヴィヴァルディの名を騙って出版(当時は、楽譜の売れ行きをあげるために、このようなことはよく行われました)したことが判明、今ではこれらの作品は「伝ヴィヴァルディ」という肩書きでしか呼ばれなくなっています。
協奏曲でしたら、山ほどのものを作っているヴィヴァルディですが、独奏楽器のためのソナタは、それに比べたらほんの少ししかありません。その中でも、フルートのためのソナタといったら、ソロ・フルートと通奏低音のためのソナタが4曲と、2本のフルートと通奏低音のためのソナタが2曲、合わせて6曲しかないそうなのです。それらのものに、有名なヴァイオリン協奏曲集「四季」からの「春」を、フルート1本だけのために編曲したものを加えたものが、このアルバムの収録曲です。「春」の編曲はなんとあのジャン・ジャック・ルソー(ウッソー!)、これは聴いたことがありましたが、それ以外は初めてのものばかり、レアリゼーションにも一工夫あって、これは非常に魅力的なアルバムです。
演奏している「コンセルト・ムジコ」という団体は、おそらくトラヴェルソのマリオ・フォレーナが中心になったアンサンブルなのでしょう。ここではもう一人のフルーティストと、2人のチェンバロ奏者が加わっています。そのうちの一人はポジティーフも演奏、つまり、通奏低音は鍵盤楽器だけということになります。しかし、この2人がとてもファンタジーあふれるバスを繰り広げてくれているので、ヘタにチェロやガンバが入った時よりもスケールの大きな音楽が現れてきます。チェンバロとオルガンがフルで頑張っている時には、まるで協奏曲のようなオーケストラかと思えるほどの世界まで表現してくれていますよ。
曲順も、考え抜かれたものになっています。真ん中にルソー編曲の無伴奏を持ってきて、その前後にシンメトリー風に3種類の異なったプランを持つソナタを配する、という趣向です。まず、最初の「プレリュード」が無伴奏のフルートだけという、意表をつく始まり方を見せるハ長調のソロ・ソナタ(RV 48)、その後も楽章ごとに低音の楽器が変わるという多彩な様相を見せてくれて、一瞬も飽きさせられることはありません。オルガンの鄙びた音色のパイプが、トラヴェルソと一緒に管楽器の合奏をしているような錯覚に陥るほど、生々しく響きます。それに呼応する後半の曲は、ト短調のソナタ(RV 51)、ここでは、カンタータから引用された「レシタティーヴォ」という楽章が加わり、まるで劇音楽のような幅広い世界を見せてくれます。
組曲風の楽章を持つ短調のソナタ2曲(ニ短調RV 49、ホ短調RV 50)は、それぞれにしっとりとした憂いをたたえた、聴き応えのあるもの、そして、まさに協奏曲そのものの3楽章形式の2本のフルートのためのソナタ(ト長調RV 80、イ長調RV 800)では、華麗な曲想の名人芸が楽しめます。最後に鳴り響くRV 800の第3楽章のキャッチーなメロディは、聴き終わった後も耳の中に残っている心地よいものでした。
ルソー編曲の「春」は、ヴァイオリンの難しいパッセージを巧みにフルートに移し替えている、この作曲家のセンスがうかがえる秀作です。フォレーナの名演が、それを気づかせるのに大きな役割を担っているのは明白なこと、コンティヌオの卓越したセンスともども、ヴィヴァルディの新たな魅力が堪能出来る、これは本当に素敵なアルバムです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-17 23:17 | フルート | Comments(0)