おやぢの部屋2
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WAGNER/Der fliegende Holländer
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Hans Sotin(Bas), David Pittman-Jennings(Bar)
Christiane Libor(Sop), Endrik Wottrich(Ten)
Antoni Wit/
Orkiesta Symfonicza i Chór Filharmonii Narodowej
CD ACCORD/ACD 143-2



一般に「ワルシャワ・フィル」と呼ばれているポーランドの名門オーケストラは、正式には「ワルシャワ国立フィル」というのだそうですね。さらに、これが母国語の表記になると単に「国立フィルハーモニー」となるということで、なかなか渋いものがあります。2002年から音楽監督に就任したアントニ・ヴィットとともに、NAXOSあたりには多くの録音を行っているのは、ご存じのとおりでしょう。
そんなヴィットとワルシャワ・フィルのコンビが、オペラハウスではなくコンサートホールで行った「オランダ人」の演奏のライブ録音です。「ホール・オペラ」としての公演なのか、あるいは衣装などは着けない(あ、「裸で」という意味ではありませんよ)コンサート形式の演奏なのか、ということは、ポーランド語とドイツ語だけで書かれたライナーノーツからは、知ることは出来ません。
何も知らずに聴いたら、ピットの中に入っているオーケストラかと思われるほどの、なんともモヤッとした音には、一瞬たじろいでしまいます。特にティンパニの、あたりのことを全く考えていないような盛大な、というか、乱暴な響きは、お粗末な録音スタッフのせいなのでしょうか。
そんな、とてもステージ上のオーケストラとは思えないようなひどいバランスではありますが、それを我慢すれば、ヴィットがここで目指しているものはかなりストレートに伝わってきます。おそらく彼はオペラを専門に演奏する指揮者ではないのでしょう。ここには「ドラマ」を造り上げる、というよりは「音楽」をきっちりと演奏することによって、自ずとその中から「物語」の形を浮かび上がらせる、といったような姿勢を感じとることが出来ます。
ソリストたちの歌は、そんな流れで、ストーリー展開をあまり意識していない分、それぞれのアリアを独立して楽しめることになります。オランダ人役のピットマン・ジェニングスは、このロールにはちょっと合わないような滑らかなバリトンですが、過剰にドラマティックな歌い方を避けたせいで、あまり暗くなりすぎない歌を楽しむことが出来ます。ゼンタ役のリボールも、のびのびと歌っている感じ、「ゼンタのバラード」(もちろん、ト短調バージョン)も、悲壮感や切迫感とは殆ど無縁な、純粋にソロと、そして女声合唱とのアンサンブルを楽しむための音楽になっていたのでは。
ソリストの中での最大の収穫は、エリック役のヴォットリッヒでした。力強さと甘美さを兼ね備えた上に、音楽のフォルムをきちんとコントロール出来る賢さも併せ持つという逸材ではないでしょうか。ここでエリックが歌う2つのアリアは、いずれも格別に魅力的でした。
同じような姿勢は、合唱にも感じられます。特に最近のように、合唱団にまで複雑な「演技」(もしくは、「振り」)が要求され、つい歌がおろそかになってしまうという本末転倒状態が起こりがちなオペラのステージとは違い、ここではきちんとした「音楽」を伝えられるまともな「合唱団」として聴くことが出来ます。それが端的に表れているのが、第3幕冒頭の「水夫の合唱」。正直、今までこのノルウェー(あ、初稿ではスコットランドでしたね)の船乗りたちの合唱は、単なる場つなぎの音楽としか思えていなかっただけに、ここで聴ける「音楽的」な演奏にはちょっと感激しているところです。本当は、こんな美しい音楽だったんですね。
幕間なしで演奏する本来の形を取っているために、2時間半という長丁場を休憩なしで体験するという、お客さんにとっては大変なコンサートとなりました。しかし、その間緊張感を持続させたまま充実した音楽を提供していたヴィットには、もしそこに居合わせたとしたら、その声がしっかり録音されているお客さんと一緒にきっと本気で「ブラボー」と叫びたい気持ちになっていたことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-31 20:06 | オペラ | Comments(0)
続・奏楽堂
 この前の奏楽堂では、色々珍しいものがあったもんですから、写真を撮りまくってきました。気が付いたら150枚、銀塩カメラだったら何回もカートリッジを交換していたところですね。
 これが正面の門です。でも、この看板は新しく作ったのでしょうね。「旧」なんて、最初から書いてあるはずはありません。
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 入り口は、こんな風に階段になっています。やはり「校舎の一部」というコンセプトなのでしょうか。
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 ホールは2階ですので、階段を上ります。
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 ここがロビー。反対側にも同じものがあります。左手の階段を上るとホールの中です。
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 これが、ステージ上のオルガンのコンソール。蓋が閉まっています。電気式のアクションですね。
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 裸電球の下がる、レトロな廊下の先には「便所」の看板が。
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 でも、中身は普通の水洗トイレでした。
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 森さんが演奏するビンテージ・チェレスタの調律の様子です。といっても、ピッチは変えられないのでアクションの調整だけ。鍵盤からつながる棒で、アクションを動かします。その先には、ただの鉄琴が並んでいるだけです。
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 コンサートの前半は、真言宗の和尚さんによる「声明」とチェレスタのコラボレーション。そのリハーサルを楽しみます。声明はまさに日本音楽のルーツです。本番では緑の衣を着ていました。
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 暑い中、開場までの間、ベンチに座って待っているお客さんたち。
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 打ち上げには、さっきの和尚さんたちも普段着で参加。声明の一節を披露してくれました。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-30 20:26 | 禁断 | Comments(0)
MESSIAEN/Chamber Works
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Hebrides Ensemble
LINN/CKD 314(hybrid SACD)



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Matthew Schellhorn(Pf)
Soloists of the Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD 126



メシアン・イヤーならではの、コアなCDのリリースが続いています。そんな中で、有名な「時の終わりのための四重奏曲」を中心とした室内楽作品を集めた新録音のアルバムが、LINNSIGNUMからほぼ同じ時期に出ました。そのカップリングの曲目も殆ど同じというのがすごいところです。まずは、メシアンの唯一のフルート曲、フルートとピアノのための「クロウタドリ」、そして、ヴァイオリンとピアノのための「主題と変奏」と「幻想曲」(SIGNUM盤には「主題と変奏」は入っていません)、さらに最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」という珍しい作品のオンパレード。「クロウタドリ」以外は初めて聴くものばかりです。
ヴァイオリン曲は、メシアンの最初の妻、クレール・デルボスのために作られたものです。しかも「変奏」の方はウェディング・プレゼントだというのですから、なんかロマンティック。もちろん、クレールのヴァイオリン、メシアンのピアノで初演されたものです。曲自体も、ヴァイオリンが華麗に歌い上げるという、後のメシアンの作風とはかなり異なっているのが、ちょっとした発見です。しかし、彼女は後に精神的な病から闘病生活を余儀なくされ、若くして亡くなってしまうことを考えれば、なんとも悲痛な思いに駆られてしまいます。この曲の中にある情感が、彼女の死によって失われてしまったのであれば、それはなんとももったいないような気がしないでもありません。その後のパートナーとなるイヴォンヌ・ロリオからは、おそらく全く別の形のモチベーションを与えられることになるのでしょうからね。
一方、1991年にウィーンで行われたウニヴェルザール出版の社長であったアルフレート・シュレーの90歳を祝うコンサートのために作られたのが「ピアノと弦楽四重奏のための小品」です。ブーレーズ、シュニトケ、ベリオといったそうそうたるメンバーの作品がそこには寄せられましたが、メシアンの曲はまさに彼のイディオムに満ちた仕上がりとなっていました。
そのような珍品の中で演奏されている「四重奏曲」、それぞれの演奏家たちはかなり異なるアプローチを見せています。まずはLINN盤でのスコットランドの団体、チェリストのウィリアム・コンウェイを中心とするヘブリディーズ・アンサンブル(毎日練習しているのでしょうね・・・「エブリデイズ」って)です。そのジャケットに鉄条網をあしらったということは、この曲が作られた捕虜収容所を意識してのことなのでしょうか。確かに、極めてリアルな録音によって硬質に迫ってくるこの演奏には、そのようなある種のメッセージを感じることは難しいことではありません。ただ、それがいくぶん空回りになって、単なる気負いしか見えてこないのが、ちょっと辛いところでしょうか。クラリネット・ソロもうまいことはうまいのですが、なにか見当はずれのことをやっているような気がしてなりません。すべての楽器がユニゾンで演奏するという6曲目「7つのらっぱのための狂乱の踊り」などは、正確さからいったら類を見ないものですが、それが何を目指しているかが今ひとつ伝わってこないもどかしさがあります。さらに、5曲目の「イエズスの永遠性に対する頌歌」や、終曲「イエズスの不死性に対する頌歌」のような殆どヒーリングといってもよいピースでも、素直な情感を邪魔するような扱いが耳障りです。5曲目のチェロの音程なども悲惨。
その点、ピアニストのシェルホーンを中心に、フィルハーモニア管弦楽団のソリストたちが集まったSIGNUM盤のロンドンのアンサンブルは、もっと力を抜いて、自然にわき出てくるパッションを大切にしているような気がします。「クロウタドリ」のフルートはケネス・スミス。これは、LINN盤のローズマリー・エリオットとは格が違う素晴らしさです。こんなレーベルもこちらで聴けます。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-29 23:59 | 現代音楽 | Comments(0)
ウィキッド
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 この間の奏楽堂のコンサート、終わるのが9時頃ですから、いくら上野駅に近いからって、ちょっとその日のうちに帰ってくるのは大変、打ち上げにも出たいので泊まってくることにしました。そうなると次の日は1日時間が出来ますので、ちょっと気になっていた「ウィキッド」を見てきました。
 2003年にブロードウェイで幕を開けたこのミュージカル、日本では去年から「劇団四季」が東京で上演しています。連日満員で、もう1年以上ロングランを続けているという大ヒット作、何はともあれ、一度は見ておかなければ。
 実は、この作品に関しての知識というのは殆どありませんでした。私の中では一応「オズの魔法使い」が下敷きになっているお話、という程度の認識だけです。ただ、ポスターや写真に出てくる緑色のメークをした主人公、というのが、ちょっとブキミな印象、というか、あまり入っていけそうもないようなキャラなのが、気になります。それと、曲を作ったスティーヴン・シュヴァルツという人も、全く馴染みがありませんし。
 汐留の「海」のステージは、幕が開く前からなかなか興味を引かれるものがありました。「オペラ座の怪人」のように、客席の前やプロセニアムにまで、しっかり作り込んだセットが組んであります。天井には目が光り出しそうなドラゴンまでつるしてありますよ。「幕」も、オズの国が描かれている「古地図」のようなデザイン、開演前から客の心をつかむ仕掛けに、抜かりはありません。もちろん、この劇場は生オケがピットに入っていますから、ウォーム・アップの音なども聞こえてきて、ワクワクしてきます。
 ミュージカルが始まると、今回のPAはかなりクオリティが高いことが分かります。アレンジも上手なのですが、楽器の音がとてもクリア、ダイナミックなサウンドで迫ってきます。ヴォーカルも、かなり柔らかい音に仕上がっているので、いつもほどのきつい感じはあまりありません。それに、この前の「ウェスト・サイド・ストーリー」でがっかりさせられたようなひどい歌は聞こえず、主人公の2人、沼尾さんと濱田さんは、とても立派な声でした。特に、低めの声の濱田さんは、ちょっとしたクセがなかなか魅力的でしたよ。
 ただ、正直1幕は途中で眠気が襲ってくるような、ちょっと退屈する展開でした。物語の先が読めないようなもどかしさ、テーマもこれでは、ただの友情物語ではないか、と、ちょっと不安になってきます。その1幕だけでも1時間半もあったので、もしかしたら休憩もなくこのまま終わってしまうのかな、とか。
 しかし、おそらく、そんな退屈さすらも計算されたものではなかったかと思わせられるほど、第2幕の、特に幕切れ間近の展開には、まさに度肝を抜かれてしまいました。ここまで来れば、さっきまでのかったるい展開も全て伏線だったことが理解できます。言ってみれば、「ハリウッド的」などんでん返しが、そこにはあったのですよ。
 確かに、パンフレットにはストーリーは前半しか書いてありませんし、ネットで見てみても「結末は劇場で」みたいな言い方をしているところが沢山ありました。確かに、これはなにも知らないで見ないと、面白さは半減してしまいます。どうか、これから見に行かれる方は、ぜひ「劇場で」で結末を楽しんで下さい。
 それでも、もう1度見てみたいと思うのは、音楽も素敵だったからでしょう。これなら、大ヒットも納得です。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-28 21:50 | 禁断 | Comments(0)
Original Works for Theremin
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Lydia Kavina(Theremin)
Charles Peltz/
Ensemble Sospeso
MODE/MODE 199



現在、世界最高のテルミン奏者と言われているリディア・カヴィナは、この楽器の発明者レフ・テルミンの従兄弟の孫にあたります。リディアが小さかった頃、「レフおじいちゃん」は、よくお菓子を持って家へ遊びに来たそうで、そんなときにリディアは発明者自らのもとでこの楽器の演奏を学んだのだそうです。
テルミンという楽器は、もちろんレフ・テルミンが製造、商品化も行ったものですが、現在では発音原理は同じでも、さまざまな制作者によって色々な形のものが同じ「テルミン」という名前で呼ばれています。その中でも、最もよく見かけるものは、「モーグ・シンセサイザー」で有名な故ロバート・モーグが作った「Etherwave」というモデルではないでしょうか。それこそ、「のだめカンタービレ」(21巻は8月11日発売です)にも登場した非常にコンパクトな外観を持ったものですね。この楽器も、そして、そのハイエンドモデルである「Etherwave PRO」も、もちろんリディアは演奏していましたが、このアルバムの裏ジャケットには、それらとも違った、全く別の形をした楽器の写真がありました。大体、どんな「テルミン」でも、一つの胴体からピッチ・アンテナとヴォリューム・アンテナが出ているものなのですが、このアンソニー・ヘンクが作った楽器はそれが右手と左手に完全に分離しているのです。その間はU字型のパイプでつながれて、まるでフィットネス・クラブのランニング・マシンのような形をしています。良く見ると、これはテルミン博士の作ったプロトタイプに似ていないこともありませんが。もっとも、最近では彼女はロシア製の「tVOX Tour」という楽器をもっぱら愛用しているようですね。このアルバムも、おそらくこの楽器を使って録音されたものなのでしょう(これらの写真はこちら)。
MODEからりリースされた彼女の2枚目の、「テルミンのためのオリジナル曲」を集めたアルバム、全て世界初録音となるものばかりです。ただ、1曲だけパーシー・グレンジャーの「フリー・ミュージック第1番」だけは、1枚目にも収録されていたものです。しかし、これは当時としては画期的な「図形楽譜」による作品ですので、別バージョンということになりますね。この曲の他にもう2曲、グレンジャーの4台から6台のテルミンのための曲(もちろん、リディア1人による多重録音)が、いかにもこの楽器らしいファンタジーあふれる作品です。それぞれの楽器の定位もはっきりしていて、不思議な浮遊感に駆られるものです。ただ、それぞれほんの1分(最後の曲など30秒)程度しかないというのですから、いかにも物足りない感じがします。
メインとなっているのは、懐かしいヒッチコックの映画のサントラを編曲したミクローシュ・ローザの「『白い恐怖』協奏曲」や、ごく最近、ティム・バートンがジョニー・デップを起用して作った伝説のB級映画制作者の伝記映画「エド・ウッド」の音楽(ハワード・ショア)です。これらを聴くと、いかにも「空飛ぶ円盤の効果音」的な、言ってみればこの楽器の代表的な使い方が綿々と生き続けていることが良く分かります。確かに、「エド・ウッド」では、ジョニー・デップが釣り竿の先に円盤の模型をぶら下げて映画を撮っているシーンが出てきましたね。
それと同時に、最近の「現代音楽」シーンでは、もっとアグレッシブな使い方も開拓されていることも、1999年に作られたオルガ・ノイヴィルスの「Bählamms Fest」というオペラからの組曲を聴くと、分かります。ここでのテルミンは、他のどんな楽器とも異なる個性を持つものとして、なくてはならない役割を与えられているように思えます。
もう1曲、クリスチャン・ウルフの「エクササイズ28」という4つの楽器のためのアンサンブルも、テルミンならではの表現力を他の楽器と競わせているようです。
奇跡的な復活を遂げた「テルミン」。いま、音楽のあらゆるジャンルで、新たな存在を主張し始めています。そのうち、オーケストラが出来るかもしれません。「テルミン・フィル」って・・・。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-27 20:20 | 現代音楽 | Comments(0)
奏楽堂
 行ってきました。奏楽堂。上野駅の公園口を降りて、文化会館の脇の道を歩いている時の暑いことといったら、尋常ではありません。あとで聞いたら、なんでも、この日は今シーズンの最高気温を記録したのだそうですね。とても広い上野公園、ところどころに木陰などがありますが、そんなところを通っても暑さは全く変わらないというのが、東京の凄さです。
 いい加減バテたころに、その建物は現れました。元は芸大の敷地の中にあった日本最古のコンサートホールが、今では隣接した公園の中で文化財として保存されているだけではなく、実際にこうしてコンサートまで開かれているのです。私たちを迎えてくれたのは、入り口横の植え込みの中の滝廉太郎さんでした。
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 こんな「文化財」ですから、絶対にエアコンなどは入っていないだろうという予想は、有り難いことに見事に外れてくれました。建物を入った瞬間、ヒヤッとした冷気に包まれて、今までの暑さから解放されたのには安心です。その秘密がこれ。
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 控室に入っても、エアコンらしきものが見つからなかったのですが、この、往年のスチームヒーターの中から、確かに冷気が吹き出してくるのですよ。これが「文化財」たる所以でしょうか。昔のものを極力変えないで、最新のハイテクを導入するという姿勢には感激です。
 そして、これが、2階のホールです。もちろん冷房完備、これだったら歌っていても快適なことでしょう。
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 ステージ正面には、、パイプオルガンがあります。外にあるパイプの間からのぞいてみたら、こんなパイプが見えました。
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 合唱のリハーサルです。総勢90人。森ミドリさんの話では、史上最多の演奏者なのだそうです。でも、ステージの広さは充分ありました。客席で聴いていると、輪郭のはっきりした、それでいて暖かい音に聞こえます。
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 コンサートが始まる頃には、建物の外側がライトアップされます。公園の緑の中で浮き上がって見えるこのホールは、幻想的な面持ちをたたえていました。
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 そして、演奏が始まります。実は、控室もそうだったのですが、人が沢山入ってくると冷房は殆ど効果がなくなってしまっていました。確かにこの「ストーブ」は頑張っていてはくれたのですが、そこまでの能力はなかったのでしょう。それは、ホールの中も同じことでした。リハーサルの時は肌寒いほどだったものが、ここに200人以上の人が入ると(合唱が入ると、300人を超えました)、とても「涼しい」というわけには行かなくなってしまいます。大汗をかいて、それでも、このホールの、無駄な残響のない素直な響きの中で、とても気持ちよく歌うことが出来ました。時折、セミの声も聞こえてきましたし。
 お客さんは、すぐ目の前にいるという感じです。終わってから、演奏曲の作詞家、安野さん(矢印)も恥ずかしそうに立ち上がって下さいました。
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 オペラシティとはまた違った、ちょっと得難い体験、こんなことが出来るのも「コール青葉」に参加しているからです。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-27 00:00 | 禁断 | Comments(0)
CHÉDEVILLE/Il Pastor Fido
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Jean-Louis Beaumadier(Picc)
Le Concert Buffardin
SKARBO/DSK 4064



かつては「ヴィヴァルディのフルートソナタ集」として、バロック音楽の中でもかなりの人気を誇った「忠実な羊飼い」も、それがニコラ・シェドヴィルという人がヴィヴァルディの名を騙って出版した「偽作」だと知られるようになってからは、いっぺんに演奏される頻度が低くなってしまいましたね。このボーマディエの2005年の新録音などは、なんだか久しぶりの録音のような気がします。まだこんな曲を演奏する人がいたんだ、みたいな。
シェドヴィルという人は、オーボエやファゴットの他に「ミュゼット」という楽器の演奏家・教師として知られていました。オーボエよりも高い音の出るリード楽器ですが、彼はこの楽器の改良にもあたっていたそうです。フルートで演奏されることの多いこの曲集も、第一義的にはミュゼットのために作られたものでした。言ってみれば、彼の最も関わりのある楽器の曲集を「ヴィヴァルディ」という名前で出版することによって、この楽器がさらに多くの人に演奏されることを目論んだのかもしれませんね。もちろん、今ではそんな楽器自体が完璧に忘れ去られています。たまに、「三丁目」などの映画に出てきたりしますが(それは「ミゼット」)。
彼が、「ヴィヴァルディらしさ」を出すために行ったことは、本物のヴィヴァルディの作品からの引用でした。今ではその「元ネタ」も明らかになっていますが、彼はヴィヴァルディに限らず、他の作曲家の曲からも「最初の4小節だけ」みたいにパクっていたのだそうです。現代では「サンプリング」といって、堂々と認められている手法ですから、まあ、時代を先取りしていたということになるのでしょうか。
その程度の作品ですから、ピッコロの名手であるボーマディエが彼の楽器で演奏したって、なんの差し支えもありません。それどころか、彼はさまざまなアイディアを繰り出して、「ヴィヴァルディの作品」と言われていて、格調高く演奏されていた頃には考えられないような生き生きとした音楽を聴かせてくれています。
まず、彼の楽器です。ジャケットに写っているのが、おそらく演奏にも使われている楽器なのでしょうが、これは頭部管が極端に短く、キーも3つぐらいしか付いていないようで、現代のものとはかなり異なった形をしています。つまり、ピッコロの「オリジナル楽器」のようなものなのでしょうね。たくさんキーの付いたベーム管とは違って、かなり音程が甘くなっているのがよく分かります。こんな小さな楽器ですから、少しの穴だけで音程を作るのはなかなか難しいことなのでしょうね。もっとも、ボーマディエという人はモダン楽器でもあんまり良い音程ではなかったような気がしますから、そんな「クセ」が増長されただけなのかもしれませんが。ただ、そんな欠点を補ってあまりある彼の華々しいテクニックは、まさにワクワクするような爽快感を与えてくれます。早い楽章での粒の揃ったパッセージ、そしてゆっくりした楽章では、センスの良い装飾が魅力的です。
そして、それを助けるのが、通奏低音の醸し出すグルーヴです。ここではチェンバロ、オルガン、チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてファゴットと、多彩な陣容が曲によってさまざまのヴァリエーションの低音パートを作り出しています。その変化の妙と、中でもファゴットのもつ歯切れの良いリズムは、曲全体にとても軽やかな命を与えてくれています。
それだけでも十分楽しめるのに、ここにはさらに「打楽器」が入っていますよ。例えば「ジーグ」などの舞曲による楽章を、まさに「踊り」のノリでにぎやかに演奏してくれるのです。あるときはバスドラム、あるときはタンバリンと、それぞれのキャラクターに合わせた楽器が使われて、そこはまるで田舎の宴、そこでは「羊飼い」が角笛片手に踊りまわっていることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-25 07:40 | フルート | Comments(0)
MESSIAEN/Vingt regards sur l'Enfant-Jésus
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Jaana Kärkkäinen(Pf)
ALBA/ABCD 226



今年は、ルロイ・アンダーソンと並んで、オリヴィエ・メシアンも生誕100年を迎えます。「大作曲家」メシアンと、ヒット曲ばかり書いていたアンダーソンとを同列に扱ったりすると、きっと不謹慎だと目くじらを立てる人もいるかもしれませんね。でも、全く同じ時代を生きていたのですから、この2人の間には、なにかは共通するものがあるのではないでしょうか。
その「共通するもの」というのは、どうやら「どの作品を聴いても、同じ人が作ったことがすぐ分かる」ということではないかという気がしませんか?アンダーソンのシンプルなメロディにちょっと粋なハーモニーをつけた、えもいわれぬあの感触は彼独特の世界。そして、メシアンにも、やはり聴いてすぐ感じられる彼独自の「色」があります。まさに彼にしか出せなかった色彩的な和声、それは、そのまわりを彩る鳥の声の模倣とあいまって、紛れもない彼のキャラクターを主張するものです。
「現代音楽」にはめっぽう定評のあるフィンランドのピアニスト、カルッカイネンが演奏する「20のまなざし」も、最初はそんな親しみやすいメシアンを存分に味わおう、という気持ちで聴き始めました。ところが、なんだかいつも聴いている「まなざし」とは様子が違います。まるで、ピアノという楽器で演奏しているのではないような、不思議な感覚に襲われたのです。最初のうち、それは非常に居心地の悪いものでした。いつもだったらまず味わえるはずのキラキラした音の粒の嵐が、全然感じられないのです。しばらく聴き続けているうちに、5曲目、「御子の御子を見るまなざし」あたりになった頃、そこからははっきり、オルガンの響きが生まれていることに気づきました。そう、その左手のアコードは、減衰するピアノの音ではなく、まるで管楽器のようにいつまで経っても同じ大きさを保っている、あのパイプオルガンそのものの響きだったのです。そして、その響きの中で奏でられる右手はと言えば、音色もタッチも全く別のキャラクター、オルガンでいえば別の鍵盤で全く異なるストップを鳴らしているという感じがするものでした。しばらくして始まる鳥の声の超絶技巧は、もはやオルガンさえも超えたシンセのプログラミングでしょうか。
これは、今までメシアンのピアノ曲を聴いていたときには全く味わうことの出来なかった感覚でした。彼女はスタインウェイのD-2741台で、まるでフルオルガンのような響きを作り出していたのです。いや、時にはそれはオーケストラにも匹敵する、とても10本の指だけで紡ぎ出しているとは思えないほどの多くの声部の饗宴にすら聞こえます。この作品のすぐ後に作られることになる巨大なオーケストラ曲「トゥーランガリラ交響曲」を彷彿とさせられるようなマッシヴなパッセージを至る所で感じたのは、まさに彼女の狙いに見事に嵌ってしまった結果なのでしょう。
2枚組CDの1枚目の終わり、11曲目「聖母の最初の聖体拝領」の後で、拍手の音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。これだけ完璧な演奏を成し遂げていたのが、生のコンサートの現場だったとは。この素晴らしいホールの音響まで見事に制御のうちに入れていた彼女は、なんという感覚の持ち主なのでしょうか。
ですから、2枚目のCDになったら、殆どその場に居合わせた聴衆の気持ちになりきって、この希有な体験を味わうことが出来ました。甘美な和声が心を打つ15曲目「幼子イエズスの口づけ」では、そのハーモニーの移ろいは、ひたすら平らな音の力として伝わってきます。鍵盤楽器特有の減衰感をまるで感じさせないその柔らかなタッチ、そこからは、音が淡いパステルカラーとなって、確かにメシアンの描いた暖かい「まなざし」が伝わってきます。
こちらでは、そんな体験まで味わうことが出来るんですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-23 20:12 | ピアノ | Comments(0)
WOOD/St. Mark Passion
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Simon Wall(Ten), James Birchall(Bar)
Edward Grint(Bas), Ruth Jenkins(Sop)
Jonathan Vaughn(Org)
Daniel Hyde/
The Choir of Jesus College, Cambridge
NAXOS/8.570561



1866年にアイルランドで生まれたチャールズ・ウッドは、1926年に亡くなるまで、イギリスで教会音楽家として活躍しました。オルガンと4人のソリスト、そして合唱のための「マルコ受難曲」は、1920年にケンブリッジのキングズ・カレッジからの委嘱によって作られたもので、翌年アーサー・ヘンリー・マンの指揮によるキングズ・カレッジ聖歌隊によって初演されています。
新約聖書の4つの福音書をテキストにして、キリストの受難を描いた「受難曲」という音楽は、その長い歴史の中でさまざまなスタイルをとってきました。なんと言ってもその頂点に位置するのはバッハが作った二つの受難曲、レシタティーヴォ、コラール、そしてイタリア・オペラのようなダ・カーポ・アリアまで含まれたまさにフル・スペックの壮大さを誇るもので、「マタイ受難曲」の場合、演奏時間は優に3時間を超えてしまいます。実際に礼拝の中では、第1部と第2部の間にお説教が入りますので、トータルの拘束時間はさらに長いものとなるのでしょう。
それに比べると、20世紀の半ばに作られたこの「マルコ受難曲」は、もっとコンパクトな構成となっています。演奏時間もほんの1時間足らず、アリアなどが全く含まれていないというのが、時間が短い最大の理由です。もっとも、受難曲の基本的なパーツである福音書の朗読の部分は、バッハなどとあまり変わりません。もちろんテキストは英語ですが、オルガンの伴奏に乗ってエヴァンゲリストが抑揚の少ないレシタティーヴォっぽい歌で場面をつないでいくというやりかた。イエス(というか、ジーザス)の言葉では、さらに抑揚が少なくなって重々しい雰囲気となるのも、バッハなどでのお約束にのっとった形です。そして、合唱が、ここではさまざまな情景描写を歌いつつ、さらにもっとリリカルな心理描写も試みている、というあたりが、最大の聴きどころとなるのでしょう。オルガンも、時にはびっくりするようなストップを用いて、ドラマティックな展開を助けています。ペテロ(というか、ピーター)の否認のシーンなどは、言葉が英語である分、生々しく迫ってきます。
そんな、福音書の部分は全部で5つの場面に分かれています。そして、その間と、全体の最初と最後に入るのが、英語による賛美歌です。これも、よく知られているメロディーがオルガンと合唱で演奏されますが、4曲目の賛美歌「主よ、あなたを愛しています」だけは、合唱と同時にカウンター・メロディがソプラノ・ソロによって歌われます。これが、まるで、この曲にアリアがないことの埋め合わせであるかのようにとても魅力的なソロになっています。これを歌っているジェンキンスの伸びのある透き通った声も、その魅力をさらに高めるものでした。
ここでの合唱を担当しているジーザス・カレッジ聖歌隊というのは初めて聴いたことになる合唱団ですが、キングズ・カレッジのように少年によるトレブル・パートではなく、全て大人の団体のようです。あくまで柔らかい響きで、各パートはよく溶け合って聞こえてきます。
こういうシンプルな「受難曲」を聴いていると、音楽作品というのではなく、イギリスの日常的な宗教行事を体験しているような感じがしてきます。たまたま教会へ行ってみたら、こんな暖かい肌触りで「受難」の物語が語られていた、といった趣でしょうか。
あるいは、「ジーザス」とか「ピーター」、そして「パイラット(ピラトですね)」というような言葉が耳に入ると、ミュージカルのファンでしたら、ロイド・ウェッバーのあのヒット作を思い浮かべるかもしれません。そんな、現代の日常に直結したような「マーク受難曲」は、マークが必要、これを聴けて、ちょっと幸せな気分を味わっているところです。通販で注文したものがなかなか届かなかったので、待ちきれずこちらで聴いてしまいました。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-21 20:14 | 合唱 | Comments(0)
ANDERSON/Orchestral Music Vol.3
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Leonard Slatkin/
BBC Concert Orchestra
NAXOS/8.559357



ルロイ・アンダーソンの管弦楽曲全集が、早くも第3集のリリースとなりました。これも、国内ではまだ発売にはなっていないので、こちらでお先に聴くことになります。
今までのシリーズ同様、ここでもコアなアンダーソンの作品を聴くことが出来ます。中でも、今回の初録音、「2つの音のメロディ」という、1966年の、もはや作曲からは足を洗ったはずの時期の作品は、ファンにはたまらない掘り出し物になっています。タイトルの通り、メインのテーマは「ソ」と「レ」という「2つの音」だけ、そのなんともシュールなメロディをいつもながらのセンスのよいアレンジで彩っていますから、もしタイトルを知らないで聴いていたら、そんな仕掛けがあることすら気づかないかもしれません。彼のいたずらっぽい曲作りは、一生変わらなかったのでしょうね。
他の作曲家の編曲ものも、お約束。ここではメレディス・ウィルソンの名曲「76本のトロンボーン」で、アンダーソンならではのウィットに富んだアレンジが聴けます。なにしろ、これはただのアレンジではなく、スーザの有名なマーチとの合体という、第1集にあった「ジュークボックス」のような手法による楽しいものですからね。ここで大活躍するのは、「星条旗」で華々しいソロを託されるピッコロ。このソロが、延々と「トロンボーン」のテーマにかぶさっているのですからすごいものです。もちろん前にあったように、細かいところでコードが違っているのなんぞはお構いなしというおおらかさです。
しかし、この第3集ならではのセールスポイントは、なんと言っても、アンダーソンならこの曲という超有名曲が目白押し、という点でしょう。それは、もちろん、このCDを販売している代理店も全面的にお薦めしたいところらしく、8月に国内盤仕様で発売となるアイテムを載せた、本日発売の「レコード芸術」の広告でもその点を大々的に謳っています。ただ、そのコピーが「嬉しくなってしまうカップリンGOO(グー)」というものだったのには、ちょっと呆れてしまいました。なんか、基本的なところで「CDを販売する」ということの意味を勘違いしているとしか思えない、GOO(愚劣)なコピーです。嬉々としてこういうコピーを作る人間には、心底失望を禁じ得ません。そもそも、こんな幼稚なギャグでは、スーパーの特売のチラシにだって使ってはもらえないでしょうに。
確かに、「嬉しくなってしまう」のも分からないではない豪華なカップリングではあります。ところが、実際に聴いてみるととても「嬉しく」などはなっていられないような演奏だったのですから、いったい担当者はなにを聴いているのか、と思ってしまいます。シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」を下敷きにしたような作品「プリンク・プランク・プランク!」では、浮き立つような軽やかさというものがまるで感じられません。まさに全世界でのヒット曲「そり滑り」にしても、この硬直したようなスレイベルのビートは、一体何なのでしょう。「タイプライター」に至っては、「ソロ」タイプライターが全くオーケストラに合わせようとしていないのですから、悲惨です。
つまり、ここで「シンコペーテッド・クロック」やら「トランペット吹きの休日」やらといった超有名曲を聴かされた人は、有名曲であるが故にどうしても今までのごく普通の演奏と比較してしまうことになります。そして、どんなお粗末な演奏からでも必ず聴くことの出来た「楽しさ」が、このスラトキンの演奏からは全く感じられないことに気づくことになるのです。「サンドペーパー・バレエ」などはテレビのCMでじゃんじゃん放送されていますから、誰の耳にも馴染んでいることでしょう。そういう人がこの「元ネタ」を聴いて、がっかりすることは目に見えています。「カップリンGOO」などとバカなことを言って浮かれている場合ではありません。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-19 23:42 | オーケストラ | Comments(0)