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PEPPING/Passionbericht des Matthäus
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Stefan Parkman/
Rundfunkchor Berlin
COVIELLO/COV 40801(hybrid SACD)



ベルリン放送合唱団の現在の首席指揮者はサイモン・ハルジー、このレーベルやHMなどにこのコンビによる録音がたくさんありますね。一方で、スウェーデン生まれ、母国やデンマークなどのメジャーな合唱団の指揮者のポストを歴任してきたステファン・パークマン(パルクマン)も、最近はこの合唱団と親密な関係にあるようです。このレーベルには、シチェドリンの珍しい合唱曲以来の登場となります。
ここでパークマンが取り上げたのは、1901年生まれのドイツの作曲家、エルンスト・ペッピングの作った「マタイ受難曲」です。実はこの曲は、パークマンはすでにデンマーク国立放送合唱団とCHANDOSレーベルに録音していますので、これは2度目の録音となります。
ペッピングは、1901年に生まれて1981年に亡くなったといいますから、まさに「20世紀」を生き抜いた人になります。奥さんは、さぞやきれいな方だったのでしょう(別嬪)。作曲はベルリンでシュレーカーの弟子のワルター・グマインドルに師事します。3つの交響曲や多くの協奏曲など、幅広いジャンルでの作品を残していますが、なんといっても教会関係の宗教曲に、多くの成果が集約されており、オルガン曲や無伴奏の合唱曲など、実際に教会で演奏されるためのものが数多く作られています。
この「マタイ」は、正式のタイトルは「マタイによる受難の語り」というものです。もちろん、新約聖書のマタイ福音書にテキストを求めたものですが、バッハあたりのマタイ受難曲の始まりよりも少し後の部分、ユダの裏切りから、音楽が始まっています。ただ、バッハの曲のようにヴァラエティに富んだ構成を持つものではなく、もっと前の時代、例えばシュッツのマタイ受難曲のような、淡々とした福音書の朗読をア・カペラの合唱に置き換えたという部分が大半を占めています。そして、そのシュッツの曲のように最初と最後、そしてここでは真ん中あたりに、福音書とは別のテキストによる合唱曲が入る、という構成です。さらに、合唱団も2つに分かれているという「二重合唱」の形態をとっています。ただ、それがどのような効果をねらったものなのかは、2チャンネルステレオを聴いた限りではあまり良く分かりません。これは、マルチチャンネルによるサラウンドの音場を想定してのものなのでしょうか。
ペッピングの生きた時代を考えれば、作曲技法的にはさまざまな可能性が考えられるものですが、この曲を聴く限りそのような「前衛的」な技法には、彼はあまり関心がなかったことがうかがえます。もちろん、あからさまな三和音などを用いることはありませんし、それなりの先進的なアプローチは見られるのですが、それが音として聞こえてきたときに殆ど抵抗なく入っていけるあたりが、彼の持ち味なのでしょう。この曲の場合、殆どがホモフォニックな、流れるようなスタイルで作られています。一見退屈を呼ぶようなものではあるのですが、そこに適度の刺激的な不協和音と、シンコペーションのリズムなどが加わることによって、確かに平穏ではあり得ない世界観を醸し出しています。ただ、最後のシーンである「ゴルゴタ」では、まさに唐突にラテン語の歌詞によるポリフォニーが登場します。これはなかなか効果的。
2度目の録音だけあって、パールマンはとかく単調に陥りやすいこの音楽から、見事に劇的な緊張感を引き出しています。終わり近くの磔のシーンなどは、劇的な情景さえ目に浮かぶほどです。もちろん、そんな充実した世界を76分もの間、ア・カペラだけで描けたのは、合唱団の実力に負うところが大きかったはず、この合唱団の表現力の大きさには、感服させられます。かなりの大人数のようですが、ハーモニーはあくまで透き通っていて、どんなヘンな和音でも、即座に反応して的確に音楽の中に取り込むという能力には、卓越したものが感じられます。だからこそ、最後のニ長調の和音が感動的に響くのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-31 00:30 | 合唱 | Comments(0)
CIMAROSA/Atene Edificata
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Francesco Quattrocchi/
Schola Cantorum San Sisto
Alio Tempore Ensemble
BONGIOVANNI/GB 2428-2



モーツァルトが活躍していた頃には最も人気のあったオペラ作曲家、ドメニコ・チマローザは、ウィーンの宮廷楽長に就任する前、1787年から1791年までロシアのエカテリーナ二世の宮廷楽長として、サンクト・ペテルブルクに滞在していました。そんな「ロシア時代」のチマローザの珍しい作品が、初めて録音されました。
このCDに収録されている「アテネの建都」というカンタータは、1788年に作られたもので、3人のソリストに合唱とオーケストラが付くという編成です。演奏に1時間以上を要するこの曲は、フェルディナンド・モレッティの台本によるもの、テーマはタイトルのようにギリシャ時代の物語ですが、実際には登場する人物のうちのアラウロとチェクローペという2人の主人公は、女帝エカテリーナと、その愛人であるポチョムキンを模しているものでした。モーツァルトの「シピオーネの夢」みたいな、庇護者に対する音楽家のゴマすりですね。
余談ですが、エカテリーナ女帝は、公式にはピョートル三世の后でしたが、この2人の夫婦関係は完全に破綻していたといいます(彼には男性としての能力がなかったのだとか)。そこで、夜な夜な愛人を寝室に招き入れるという、逆大奥状態の女帝、しかし、そんな多くの愛人の中でクリミア総督のグリゴリー・アレキサンドロヴィッチ・ポチョムキンだけは、真に彼女の心をとらえ、政治的にも信頼を寄せられていた人物でした(極秘に結婚していたという説もあります)。女帝より10歳年下のポチョムキン、その関係は彼が亡くなる1791年まで続きました。
このポチョムキンは音楽には大変造詣が深く、パイジェッロを始めとして、多くの作曲家から曲の献呈を受けています。このチマローザの新作も、彼は非常に気に入ったということです。しかし、肝心の王妃の方はというと、前任者だったジュゼッペ・サルティあたりの方がお気に入りだったようで、チマローザのことはそれほど評価していなかったようですね。
実はこの曲は、世界初録音にあたって日本人の音楽学者山田高誌さんが楽譜の校訂をして世に送り出したものです。同じように山田さんが校訂したものを、同じ指揮者が同じレーベルに録音した以前のCDでは、その演奏者たちのあまりのレベルの低さにがっかりさせられたものでした。ただ、今回は同じ指揮者でもオーケストラも合唱団も全く別の団体ですから、そんなことはないだろうという期待を持って聴き始めます。確かに、最初のシンフォニアでは、実に生き生きとした音楽が聞こえてきたので、まずは一安心、にぎやかな部分が終わって弦楽器が登場すると、さすがに人数が少ないせいかやや雑なところが目立ってしまいますが、エスプレッシーヴォなどもきちんと伝わってくる聴き応えのあるものでした。ただ、後半にタランテラのようなリズムに変わるあたりは、もっとテンポが速くてもいいのにな、という感じはします。
しかし、2曲目になって合唱が登場すると、彼らの演奏に対する姿勢は、前作と何ら変わっていなかったことに気づかされます。この合唱の、なんというやる気のなさ。
その後は、ソリストによって、とても美しいレシタティーヴォやアリアが歌われます。特に、最後のアラウロとチェクローペによる二重唱には、今までは入っていなかったクラリネットが新たに登場して、素晴らしいオブリガートを披露してくれます。それは、まさにさまざまな楽想が次から次へと現れるという心躍るような二重唱なのですが、なぜか素直に音楽に浸れないもどかしさがあります。それはおそらく、指揮者のテンポ感の悪さなのでしょう。歌手たちのモタモタした歌い方にオケを合わせているうちに、どんどんテンポが遅くなっていくのですよ。音楽の美しさを全く殺してしまっているこの生命感のない演奏、本来なら知られざる曲によって新たな感動が得られるはずのものが台無しになっているのが、本当に残念です。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-28 20:33 | 合唱 | Comments(0)
BERLIOZ/LISZT/Symphonie Fantastique
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François Duchable
TOWER RECORDS/QIAG-50005



仙台駅前、というよりは駅のすぐ隣にあったビルが取り壊されたと思っていたら、その跡地に突然「パルコ」が出来てしまいました。このようにして、地方都市は渋谷や池袋のファッションに否応なしに染まってしまうことになるのでしょうね。そこの8階には、今まで街中にあって、イマイチ雑然としたたたずまいだったタワー・レコードが、すっかりおしゃれな装いとなって引っ越してきていました。クラシックに関しては全く不十分な品揃えは以前のままですが、こんな風に容れものが変わると、いくらか違って見えてくるから不思議です。
クラシックを扱っているほんのわずかのスペースに行ってみると、まず目に付くのが先日のラトルの「幻想」。最新の注目盤ということで、大々的にディスプレイがなされています。そして、それに便乗したかのように、このリスト編曲のピアノ独奏版「幻想」も、その存在を主張していました。これはこのタワー・レコードの単独企画商品ですので、ここでしか手に入らないというもの、レアな曲目ですし、ジャケットのエロさにも惹かれて、つい手が伸びてしまいます(しかし、すごい絵ですね)。原盤はEMI、フランソワ・デュシャーブルによる1979年の録音です。そういえば、その日は土砂降りの雨でした。
リストがベートーヴェンの交響曲を全て(「第9」までも)ピアノ用に編曲を行っていたことは知っていましたが、「幻想」にもそんなバージョンがあったことは初めて知りました(そもそも、このCDを見つけた時に、デュシャーブルって指揮もやっていたのかな、と思ったぐらいですから)。こんな色彩的なオーケストレーションを持つ曲をピアノだけで演奏したら、さぞや淡泊なものに仕上がるだろうな、と、聴く前は思ってしまいました。しかし、実際に聴いてみると、この、いかにもフランスEMIらしい豊饒な音色に仕上がった録音とも相まって、そこにはオーケストラにはひけをとらないほどの豊かな音楽があったのです。
何よりも素晴らしいのは、その完璧なアンサンブルでしょうか。あくまで、ピアニストのテクニックが完璧である、という前提の上でのことになりますが、オーケストラのすべてのパートをたった一人で演奏するわけですから、そこには奏者によるタイミングやニュアンスの相違などは存在し得ません。ここでピアノを弾いているのは、あのヴィルトゥオーゾ・ピアニストのデュシャーブル、その「均質性」にはなんの遜色もありません。聴いたばかりのラトルの演奏では、弦楽器と管楽器が全く異なることをやっている部分などは、明らかにズレまくっていたものですが、ここではそんなハラハラさせられる部分は皆無です。
迫力だって、負けてはいません。例えば、第4楽章の「断頭台への行進」など、ラトル盤では明らかに指揮者と演奏者との方向性がかみ合わなかった結果、無惨にもへなちょこなものになってしまっていましたが、デュシャーブルのすべてのベクトルが揃えられた迷いのないアタックは、決然とした力となって迫ってきます。
そして、圧巻は第5楽章。多くの声部がとてつもない早さで絡み合う様は(実際、オーケストラの奏者はごまかさないことには弾けません)、壮観です。そこからは、楽器固有の音色までも感じ取ることは出来ないでしょうか。ここに不足しているものは、フルートとピッコロのグリッサンドや、E♭クラリネットの微妙にずれた音程という、ピアノでは決して演奏することの出来ないものだけです。
デュシャーブルの技巧の凄さは、参考までに聴いてみた「並のピアニスト」イディル・ビレットの演奏と比較すると歴然としています。こういう人は、退き際も潔いのかもしれません。彼は、2003年にはなんと51歳という若さで引退してしまったのですからね(なんでも、湖の中にピアノを2台放り込んだのだとか)。もっとも、最近ではまた演奏活動を再開したという噂もありますが。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-26 23:36 | ピアノ | Comments(1)
BERLIOZ/Symphonie Fantastique
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Susan Graham(MS)
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/2 16224 0



ラトルとベルリン・フィルの最新盤、ライナーのデータでは今年の5月30日から6月1日にかけてのイエス・キリスト教会での録音となっています。今時のオーケストラのCD制作といえば、公開の演奏会をゲネプロも含めて全部録音してそれを編集するという「ライブ録音」がだいぶ一般的なものですが、これは、セッションによる「スタジオ録音」なのでしょうか。いや、もともとはフィルハーモニーでの演奏会をいつものように録音する予定だったのでしょうが、なんでも本番の10日前、5月20日にそのフィルハーモニーが火災にあって、演奏会そのものが空港のイベントブース(元々は格納庫だとか)のようなところで開催されることを余儀なくされたそうなのです。ですから、とてもまともな録音などは出来ない状況だったので、改めてセッションを組んだのでしょうね。ちなみに、火災直後に行われるはずだったアバドとの演奏会は、なんと野外のヴァルトビューネに会場が変更になったのだとか。
そんなわけで、やむなく古巣の録音会場であるイエス・キリスト教会での録音となりました。なんと言っても1973年までは、ベルリン・フィルの殆どの録音がこの会場で行われていたのですからね。もちろん、DGだけではなく、EMIのチームも、ここでカラヤンの数多くの録音を手がけていたはずです。
しかしこの録音、そんな昔のものに比べると、実際にホールで聴くような自然なバランスの、なかなか素晴らしいものに仕上がってはいるものの、なんだか細かいところの明晰さ(例えば、第4楽章冒頭のティンパニのリズム)が失われてしまっているような気がします。そこで気になるのが、さっきの録音データ。そもそものフィルハーモニーでの演奏会は5月の29日から31日までの3日間、それがそのまま「飛行場」に場所が変わっただけですから、5月30日には「本番」があったはずなのですがね。あるいは、リハーサルを教会でやったとか。
真相は知るよしもありませんが、ラトルがここで造り上げた音楽は、そんな不本意な本番のコンサートを録音でリベンジしてやろうとでも言うかのように、徹底的に緻密なものでした。それは、まるで室内楽のようにクリアで精密な世界、お互いのパートがそれぞれ他のパートとの役割を熟知している様が、手に取るように分かるものとなっています。ラトルは、そんなある意味自発的なアンサンブルを促すように、大きな流れを用意してそれぞれのパートのやりとりを楽しんでいるようにさえ感じられます。その上で、例えば第1楽章の提示部の繰り返しでは1回目よりさらに濃厚な表情付けを施すなど、指揮者の存在感を示すことにも抜かりはありません。
ただ、そんなちょっと恣意的な「操作」が加わっているために、本質的なドライブ感が不足しているような印象を受けるのは避けられません。第4楽章など、金管のアタックがあまりに美しすぎるために、「断頭台」などというようなグロテスクなものでなく、もっと晴れがましいまるで結婚式に臨んでいるような感じすら受けてしまいます。第5楽章の「Dies irae」のコラールも、まるで「天使のコーラス」のようなかわいらしさ、あまりに伸び伸びと演奏しているので、なんだか聴いている方が恥ずかしくなるような。
といった具合で、美しさはこの上ないのに、全く興奮させられることのない音楽は続きます。それが最後の最後になって、ピッコロが1オクターブ上の音を出して華やかに迫っているのは、ラトルの埋め合わせの気持ちの表れなのでしょうか。それとも、これは業を煮やした団員の鬱憤晴らしだったでしょうか。
カップリングの「クレオパトラの死」では、極力部分部分のキャラクターの違いを際だたせようとする意図がうかがえますし、最後の迫力もなかなかのものでした。しかし、ソリストのグレイアムのフランス語のディクションは、ちょっといただけません。コジェナーを使わなかったのはなぜ?
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by jurassic_oyaji | 2008-08-24 20:17 | オーケストラ | Comments(0)
SCHANDERL/Lux Aeterna
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Jan Lukaszewski/
Polski Chór Kameralny
CARUS/83.416



このCARUSというレーベルは、もちろんシュトゥットガルトにある有名な楽譜出版社が母体となっています。ここで出版されている楽譜をCDにしてリリースするという、同じ街にあるHÄNSSLERと同じような役割を担っているのでしょう。主に合唱曲の分野で非常に良質の演奏のものを提供してくれており、どれを買ってもまず失望させられることはないという、希有なレーベルです。
今回のニューリリース、ハンス・シャンデルル(シャンダール)という照明器具のような(それは「シャンデリア」)名前のドイツの作曲家の無伴奏合唱作品を集めたアルバムも、まさに期待通りの素晴らしいものでした。いや、実はそれどころではなく、これからも末永くつきあっていけるかもしれないとびっきり相性の良い恋人にでも出会えたような新鮮な喜びに浸っているところです。
1960年に生まれたシャンデルル、非常に好奇心の旺盛な人だったようで、普通の音楽教育だけでは飽きたらず、トルコやインド、そしてアフリカのギニアなどで、積極的に非西欧の音楽を吸収することに務めます。そんなバックボーンが作品として結実したものが、このアルバムの中のアフリカ音楽にインスパイアされた「Stimmen von Innen」(最後の部分だけ)、「Bazar」、「Mambo Kaluje」、「Kiris Bara Bari(キリストは生まれた)」、「Wunderbar」といった曲たちです。そこには、アフリカ音楽の一面だけを様式化した「ミニマル・ミュージック」とは根本的に異なる、アフリカ音楽そのものが持っている「力」と「楽しさ」が見事に反映された姿を見ることが出来ます。生命の躍動感がストレートに現れたそのリズムを聴いているだけで、体中からあふれ出てくるエネルギーを感じないわけにはいきません。それは、まさに音楽の根源であるエンタテインメントを、理屈ではなく感覚的に直接心の中に送り込んでくるものです。「Wunderbar」あたりには、「ヴォイス・パーカッション」なども用いられていて、魅力は尽きません。ソロとの掛け合いの妙や、さまざまな情景が登場する「Mambo Kaluje」などは、コンクールの自由曲などに使ったら、さぞや喝采を浴びることでしょう。
これらの曲、もちろん「合唱曲」としてきっちりと五線紙に記譜されたもののようです。ほんと、あの微妙な音程やソロのニュアンスなど、どんな風になっているのか、楽譜を見てみたい気がしますが、それをここで歌っているポーランド室内合唱団のメンバーは、そんなことを全く感じさせない、まるで口伝えで歌っているかのような生き生きとした演奏を繰り広げています。そこからは、まさに作曲家が込めた思いが楽譜などを通り越して伝わってくる思いがします。
そのような、決して「クラシック音楽」の枠にはとらわれない表現は、他の曲にも見ることが出来ます。「Rosa das Rosas」という作品は、中世の吟遊詩人の曲のようなテイストを、そのまま現代の合唱曲として再現したものです。ここでは、合唱団は発声までも地声丸出しのものに変えて、すっかり「中世」コスプレで迫っていますよ。
さらに、全く傾向の異なる、まるで昔のシンプルな民謡のようなものを作り出すことも、シャンデルルはやってのけています。「Es saß ein schneeweiß Vögelein」や「Schwesterlein, wann gehen wir nach Haus」などがそんな曲、まさに現代に蘇ったマドリガルです。
ですから、タイトルのような宗教曲を聴く時でも、そこからは新鮮な驚きを期待して裏切られることはあり得ません。唯一この曲だけがオルガン伴奏の入った「Lux Aeterna」、そのオルガンはまるで合唱の一部と化して、壮大なクライマックスを造り出しています。同じタイトルの、あのリゲティの名曲とも肩を並べる、素晴らしい作品に立ち会えたことに、誰しも喜びを隠すことは出来ないはずです。素晴らしい演奏と相まって、このアルバムでは、現代の合唱作品の到達した最良の姿を聴くことが出来ますよ。こんな恋人、ぜひ皆さんに紹介したいと思うじゃないですか。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-22 20:43 | 合唱 | Comments(0)
GODOWSKY/Strauss Transcriptions
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67626



「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス二世が亡くなったのは1899年、そして、その9年後の1908年から、第一次世界大戦が勃発する1914年まで、ウィーンに居を構えることになったのが、ポーランド生まれ、アメリカ国籍のピアニスト/作曲家ゴドフスキでした。この「三拍子の街」で、彼は誰でも知っているシュトラウスの名作を元にしたトランスクリプション「ヨハン・シュトラウスの主題による交響的変容-ピアノのための3つのワルツ・パラフレーズ」を作曲し、1912年に出版します。その「主題」は、「芸術家の生涯」、「酒、女、歌」という2つのワルツと、「こうもり」というオペレッタです。
いずれの曲も、オープニングはなんともおどろおどろしい、一体なにが始まるのだろうという濃厚な曲調です。そこから、まるで霧が晴れるように聴きなれたフレーズの断片が現れてきて、初めてこれがシュトラウスに由来している音楽なのだな、と気づく仕掛け、しかし、そこまで行ってしまえば、あとはワルツやオペレッタの世界に入っていくのは容易なことです。「変容」などという大層なタイトルから連想される難解な世界は、そこにはありまへんよう
3曲の中で最も楽しめたのは、やはり「こうもり」でした。序曲に現れるワルツのモチーフを基本テーマにして、そこにさまざまなモチーフが絡むという仕掛け。それがアデーレのアリアの前半と後半だったりしますから、かなりマニアック、ファンにはたまらないサービス精神まで感じることが出来ます。
おそらく、譜面づらは真っ黒けになっているのでしょうが、そんな難しさを全く感じさせないのがこのアムランの演奏です。本来は、そんな大変な楽譜に大汗かいて挑戦して、膨大な量の音符を音にする「苦行」の跡をみて感動をもぎ取る、といった趣の音楽なのかもしれません。しかし、彼の場合、必要な量の音符が、必要な時間の中に間違いなく収められているのは最初から当たり前のことだと思えてしまうほどの超絶技巧を備えているために、苦労の跡が全く見えず、逆に物足りなさを感じてしまうという、恐ろしく贅沢な不満が伴うことになります。
このジャケットに使われているクリムトの、いかにも「世紀末」といった雰囲気や、アール・デコ風のフォントのいかにも煌びやかなコンセプトは、ヨハン・シュトラウスを、まさにこのクリムトのようなデコラティヴなものに変えてしまったゴドフスキを端的にあらわしたものなのでしょう。しかし、それを演奏しているのがそんなアムランなのですから、今度はそんなけばけばしさがすっかり払拭されてしまって、なんともさっぱりした仕上がりになってしまっています。そんな、言ってみれば二重に仕掛けられた「トランスクリプション」の結果であるこのアルバム、はたしてクリムトのジャケットはこのCDにふさわしいものだったのでしょうか。
シュトラウスのトランスクリプションの他に、このアルバムではゴドフスキ自身の「三拍子」の曲も演奏されています。24曲から成る「仮面舞踏会」からの4曲と、30曲から成る「トリアコンタメロン」という、ボッカチオの「デカメロン」に触発されたタイトルを持つ曲集からの5曲です。これらはまさに、顔を合わせることはなかった「ワルツ王」への熱いオマージュとなっています。
最後に入っているのが、オスカー・シュトラウスという、シュトラウス一族とは全く関係のない作曲家(ラストネームのスペルはStrausと、sが一つ足りません)の「最後のワルツ」という曲です。実は、この楽譜は出版されていないため、ゴドフスキ自身の演奏によるピアノロールから復元されたものなのだそうです。それを行ったのが、アムランのお父さんのジル・アムラン。やはり、彼にはすごいバックボーンがあったのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-20 22:45 | ピアノ | Comments(0)
REINECKE/Von der Wiege bis zum Grabe
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Fenwick Smith(Fl)
Hugh Hinton(Pf)
Members of the Boston Symphony Orchestra
NAXOS/8.570777



メンデルスゾーンの後を継いでライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も務めたドイツの作曲家カール・ライネッケは、1824年といいますから、ちょうどシューマン(1810年)とブラームス(1833年)の生年の間に生まれたことになります。フルートのためのソナタと協奏曲、そして、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲のカデンツァなどは広く知られていますが、他の曲なんかアッタッケ、というぐらい、マイナーな作曲家です。もちろん、実際はあらゆる分野で多くの作品を残している人なのですが。
このCDはタイトルにある「揺りかごから墓場まで」という曲集と、2つの管楽器だけのアンサンブルの、世界初録音盤になります。とは言ってもこのNAXOS盤の新譜は初出ではなく、以前1993年にETCETERAレーベルから出たもののリイシューです。
「揺りかごから墓場まで」というのは、私たちの国には全く縁のない、行き届いた福祉政策を指し示す言葉として知られていますが、このライネッケのピアノ曲集の場合は、人の一生を16曲の小品で描いたものという意味で付けられたタイトルなのでしょう。その中から8曲を選んで、フルートとピアノのために編曲をしたのが、エルネスト・ケーラーでした。そう、フルーティストを目指す人は必ず勉強することになる、あの多くの練習曲を作った「ケーラー」です。お世話になった方も多いことでしょうね。この作品での、まるで最初からフルートのために作られたようなその編曲はなかなか素敵です。曲集自体はそれぞれに分かりやすい表題が付いているほんの2分か3分の曲が集まったもの、おそらく意識的にシューマンあたりのテイストを借用しているのでしょう、それぞれの曲は愛に満ちたまなざしで彩られています。
中でも、3曲目の「おお、美しき五月の夜よ」の、流れるように美しい旋律はひときわロマンティックな情感にあふれたものです。原曲のピアノソロは聴いたことがありませんが、このメロディがフルートによって演奏されることによって、その魅力はさらに大きなものとなっているのではないでしょうか。これを吹いているフェンウィック・スミスの密度の高い音色は、その魅力を十二分に伝えてくれています。
最後の「夕日」という曲も、もちろん人生の最後のメタファーなのでしょうが、なにか晴れ晴れとした面持ちが心を打つものです。
室内楽作品としては、まず二本ずつのクラリネット、ホルン、ファゴットにフルートとオーボエという編成の「八重奏曲」が収録されています。この編成、モーツァルトの時代のセレナーデなどによく用いられた形によく似ていますが、ソプラノパートがオーボエ2本ではなくオーボエとフルートというのがユニークなところです。この二つの楽器があるときは重なりあるときはソロとなるという、ロマン派以降のオーケストラの木管パートの縮図のようなものが、よく現れている編成です。さらに、2本のホルンによる深いハーモニーは、曲全体に重量感のある響きを与えています。第2楽章のスケルツォ主題のリズム的なおもしろさ、最後の楽章の十六分音符の掛け合いの妙、そしてそれらに挟まれたアダージョ楽章のカンタービレと、魅力は尽きません。
その13年後に作られたのが「六重奏曲」です。ふつうの木管五重奏にホルンをもう1本加えたという変わった編成になっています。ただ、このホルンは、先ほどの曲のような厚い響きではなく、個別の声部としての役割が与えられているような気がします。しかし、この曲では「八重奏曲」ではストレートに伝わってきたパトスが、なにかに邪魔をされているような気がしてなりません。まるで、ちょっとした作為の跡のようなもの、素直な情感を表に出すことが恥ずかしいと思われる時代の、それは前触れのように聞こえます。
そのあたりを、こちらで確かめられてはいかがでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-18 20:21 | フルート | Comments(0)
HAUSEGGER/Natursymphonie
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Ari Rasilainen/
WDR Rundfunkchor Köln
WDR Sinfonieorchester Köln
CPO/777 237-2



ドラマや映画の音楽というのは、本当は作るのがものすごく難しいものなのでしょうね。基本的な役割は、そのシーンを音によってより雄弁なものにすることなのでしょうが、そこで音楽だけが目立ってしまっては、肝心のドラマが食われてしまいます。理想的なのは、その存在が全く気づかれないものなのかもしれません。なんだか盛り上がっているようだけど、音楽そのものは全く気にならない、そんなシーンに出会えたときには、まさに「劇伴」のプロの仕事に感服してしまいます。「刑事コロンボ」にもあったじゃないですか。ある映画音楽の「大家」が書いたコテコテの音楽は監督にボツにされたのに、その弟子が代わりに作った本当に要所だけを押さえた薄~いスコアが採用されたという、あれですよ(そんな「秘密」を守るために、弟子は殺されるのでしたね)。
そういう意味で、最近のテレビドラマの音楽あたりはなにか勘違いをしているような気がしてなりません。今NHKで放送されている大河ドラマの音楽などは、そんな勘違いの最たるものなのではないでしょうか。音楽自体はとても美しく、心に訴えかけるところの多いものなのですが、あまりに主張が強すぎてそれ自体で完結してしまい、それが流れているときのドラマに全く溶け合っていないのですよ。もっと言えば、その時の物語の内容とは全く関係のない音楽が、のべつ幕なしに流れているのです。本当ですよ。ちょっと注意して耳を傾けていると、何でこんなしっとりとした場面に、こんな威勢のよい音楽を当てたのだろうといったような場面が殆どですから。
もっとも、これを作った作曲家にしてみれば、そんなことを言われても全く理解出来ないかもしれません。彼にとっては、それは完璧にそのシーンに合致した音楽、として聞こえているのでしょうからね。
「自然交響曲」という大層なタイトルを持つ音楽を作ったジークムント・フォン・ハウゼッガーは、もっぱらブルックナーの交響曲を、それまで用いられていたレーヴェなどによる改竄稿ではなく、ブルックナーの自筆稿に忠実な楽譜による演奏を初めて行った指揮者として知られています。1932年に交響曲第9番を初めて「原典版」によって演奏したことが、その後のハースによる旧全集への緒となるわけです(1938年のミュンヘン・フィルとの演奏が録音として残っています)。
この曲は、彼が39歳の時、1911年に作られました。彼の音楽のルーツは、ワグネリアンだった父親フリードリッヒ(だから、こんな名前を付けられたんですね)の影響でワーグナー、しかし、作られた音楽はそのワーグナーからドロドロとしたものを洗い流したような、非常に明快な情景描写に長けたものでした。これはまさに、殆ど勘違いに近い昨今のドラマの音楽そのものではありませんか。従って、この曲を聴くとき、我々は作曲者があるいは抱いていたかもしれないプログラムとは全く無関係な情景を、そこから思い浮かべることになるのでしょう。
曲は、オルガンと、最後の部分に合唱が加わるという大きな編成を持ったものです。一応4つの楽章に分かれていますが、それらは連続して演奏されます。オルガンソロに導かれる「第2楽章」は、最初のゆっくりとした部分にはとても満ち足りた情感が込められています。その穏やかさが、後半の同じパターンの繰り返しによって無惨にも砕け散る、といったあたりが、一つのクライマックスでしょうか。
「第4楽章」の合唱は、ゲーテの詩をテキストにしたものです。終わり近くに「Unermesslichkeit(無限の存在)」という言葉がア・カペラで歌われるところでは、まるでこの同じ年に作られたマーラーのあの交響曲第8番の大詰めのような引き締まった風景が見えてきます。もちろん、そこにはマーラーほどの屈折した感情は込められてはいませんが。
「自然Natur」と言うよりは、なにか芝居がかった作為を感じさせる曲でした。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-16 19:13 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Choralfantasie BWV1128, Die Kunst der Fuge
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Gerhard Weinberger(Org)
CPO/777 403-2



分かりにくいかもしれませんが、このジャケットの右下には「ヨハン・セバスティアン・バッハの新作 New work by J. S. Bach」というシールが貼ってあります。亡くなってから250年以上経っているのにまだ「新作」を発表出来るのですからすごいものです。もちろん、これは「新しく作られた」曲であるわけはなく、「新しく発見された曲」ということになるのですがね。実は、このオルガンのためのコラール・ファンタジー「主なる神、われらを守りたまわずばWo Gott der Herr nicht bei uns halt」は、今年2008年の3月にオークションに出品された写筆譜が、バッハが作った音楽をコピーしたものに間違いないということになって、晴れて新しくバッハ作品番号BWV1128が与えらることにばっはものなのです。
この写筆譜は、バッハの自筆稿ではなく、19世紀の旧バッハ全集の編纂にあたっていたヴィルヘルム・ルストという人が、おそらくバッハのものであろうという楽譜を写譜したもので、当初は全集にも入れるはずのものだったのが、他の編集員が真作とは認めず、結局BWVでも「付録2(偽作の疑いがあるもの)」というカテゴリーに収録されることになってしまいました。ですから、曲自体は以前から知られていたものであり、今回のオークションでたまたまルストの遺品の中にあった彼の写筆譜と、その元ネタの由来が記されたものを元に再調査を行った結果、「真作」であると認められたというだけのものなのです。したがって、この曲はもちろん「新作」ではありませんし、「新発見」ですらないことになります。
それでも、「新発見」の報を受けて楽譜は直ちに出版され、5月にはバッハのオルガン曲全集録音のプロジェクトを進行中のワインベルガーによって、「最後の」作品であり、かつては最後の作品番号(BWV1080)でもあった「フーガの技法」の余白に録音されたのです。なんという早業なのでしょう。もちろんCD発売にあたっては、「世界初録音」という意味を込めて、さっきのようなシールを貼ることも忘れてはいません。ただ、正確には、もっと早く録音してCDを出したオルガニストがいたそうですので、これが「世界初録音」であるのもちょっと疑わしい気がしますが、「発見」されてから2ヶ月後には録音、4ヶ月後にはCDがリリースされていた、というのはすごいことではないでしょうか。それだけ、情報が世界を巡る時間が短くなったのでしょうね。
ただ、それがあまりに早過ぎると、逆に流行を追っているみたいでちょっと白けてしまうことはありませんか?正直、この前の「新曲」であるBWV1127(ソプラノのアリアでしたっけ)の時でも、大騒ぎして録音はされたものの、別にどうというものでもなかったような気がしてなりません。今回も「抱き合わせ」が大曲の「フーガの技法」ですから、当然2枚組、この曲だけを目当てに買うには、ちょっと勇気のいるパッケージです。それとも、「バッハの新曲」だったら、このぐらいの値段でも買う人がいるだろうというのがレーベルの目論見なのでしょうか。
確かに、初めて耳にするこの6分ちょっとのコラール・ファンタジーは、新鮮な息吹を与えてくれるものでした。しかし、だからといって、それはバッハの今まで知られている膨大なオルガン作品の中の1曲と何ら変わるものではありません。「初録音」などという大げさな扱いを受けずに、何かの折りに他の同じような曲を一緒に演奏されたものを聴いた方が、どれだけ自然に感じられることでしょうか。
カップリングの(とは言っても、当初はこちらがメインだったはず)「フーガの技法」は、この曲に与えられた厳格な対位法の集大成という「堅苦しい」イメージを振り払ってくれるような、とてもイマジネーションの豊かな演奏です。ポリフォニーの間から、バッハのリリカルな面、そう、あの美しいアリアなどのテイストが垣間見えてくるようで、とても幸せな気分に浸れるものでした。こんな「おまけ」が付かなくても、充分楽しめるCDなのに。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-14 20:01 | オルガン | Comments(0)
のだめ21巻
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 「のだめ」の第21巻、発売されたのはおとといのことでした。あいにく本屋さんに行く時間がなかったので、やっときのうゲット、きのうは「おやぢ」のローテーションだったため、2日遅れでご紹介です。
 毎回ちょっと不思議なデッサンによるオーケストラの中の楽器を演奏するのだめの姿をあしらった表紙、もう殆どの楽器が出てしまったので、次はなにを出してくるのか期待している人も多かったのではないでしょうか。しかし、これはそんな期待を見事に裏切ってくれた「楽器」でした。つまり、これは「歌」というか、クラシカルには「声楽」という楽器の登場です。おそらく、本編の中で千秋が、共演者の希望を聞かれて「歌とやりたいです」と言うのに呼応しているのでしょうね。
 そう、千秋が目指しているのはオペラなどの指揮というのがここで明らかになるのです。もちろん、それはまだまだ先の話になるのでしょうが、実際にビエラ先生の「ファウスト」のリハーサルに立ち会ったりしているのですから、ピットの中の千秋も姿も、いずれ見ることが出来るのかもしれませんね。
 しかし、そんなのは、別に本筋のプロットではありません。ここでは、ちょっと今までとはテイストが変わった、かなりシビアな展開となって、それぞれのキャラクターの深いところでの心理が描かれます。ただ、それを書いてしまうと、前巻でのラヴェルのように楽しみがなくなってしまう人が出てくるかもしれませんから、やめておきましょうね。でも、正直こんなのはのだめらしくないような。
 表紙がなんの楽器もないので突っ込みようがないと思っていたら、中には結構面白いカットがあったので、嬉しくなってしまいました。こうでなくっちゃ。
 まず92ページにあるピアノのカット。これは、実は前の巻でいちゃもんを付けたターニャがコンクールで弾いていたのと同じ楽器なのですよ。何よりの共通点は、スタインウェイのDタイプでありながら、フレームの鉄骨が1本足らないということです。つまり、前にあったターニャの姿を消して(というか、これは楽器と人物が別のレイヤーになっているのでしょうね)、そこに譜面台を書き足したのが、このカットということになるのです。このぐらい大きくすると、ピアノ本体と譜面台のタッチの違いも分かりますね。
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 次が、このチケットです。「Piano Concerto」ではなく「Piano Concert」、これは、ピアノのおさらい会なのでしょうか。しかも、この「コンサート」は、メインが「展覧会の絵」というのですから、「コンチェルト」だけの「コンサート」ではないはずなのに。他の文字は全てフランス語なのに、これだけ英語というのも気になります。それと、前プロの曲名はこれを読んでいる人は正しくルビを振ることは出来たのでしょうか。
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 もう一つ、これはフルートを吹く人でないと分かりづらいかもしれませんが、この女性が使っている楽器はかなり変なところにGisキーが付いていますね。しかも、彼女はそれを右手の親指で押さえてるし。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-13 21:14 | 禁断 | Comments(0)