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GAUBERT/Orchestral Works
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Marc Soustrot/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1135



フランスのマイナーな作曲家の作品を丹念に紹介してくれているTIMPANIが、今度はフィリップ・ゴーベールのアルバムを出してくれました。ただ、ゴーベールのことを「マイナー」などと言ったら失礼かもしれませんね。フルート曲の分野では、彼ほど多くの作品がCDで出ている近代フランスの「メジャー」な作曲家もいませんから。もちろん、3曲の「ソナタ」を含むそれらの愛らしい作品は、フルーティストにとってはなくてはならないレパートリーとして、常に彼らのリサイタルのプログラムを飾っています。しかし、フルート作品以外では、やっぱりゴーベールは「マイナー」でした。なにしろ、今回録音されたオーケストラ作品3曲のうちの2曲までが、これが世界初録音となっているのですからね。
1879年に生まれて1941年に亡くなったゴーベールは、教育者としては、あのマルセル・モイーズを育てたことで知られていますが、自身もフルーティストとして大活躍していました。さらに、彼は指揮者としても有名で、1919年からはアンドレ・メサジュの後任として、パリ音楽院管弦楽団の指揮者に就任します。そのポストは1938年まで務め、シャルル・ミュンシュにその職を託すことになるのです(その交代は、みゅんしゅ的に行われました・・・なんちゃって)。今回録音された「交響曲」、「海の歌」、「コンセール」の3曲は、すべてこのオーケストラによって、彼自身の指揮で初演されています。
お馴染みのフルート曲の中で見られるゴーベールの作風は、ドビュッシーやラヴェルの流れを確実にくんではいるものの、もっとサラッとした、メロディアスな印象を与えられるものです。それはこのオーケストラ作品でも同じように味わえるもので、手慣れたオーケストレーションによる洗練された響きは、なかなかの充実感を持っています。彼の楽器であるフルートが、重要なところで活躍しているのも見逃せません。
この中では唯一初録音ではない、3つの楽章から成る「海の歌」は、当然のことながらドビュッシーの「海」との比較にさらされることは免れません。しかし、期待通りの「印象派」風のフレーズが見え隠れはするものの、これはドビュッシーとは明らかに異なる世界であることも、聴いているうちに分かってきます。ドビュッシーのものを「油絵」だとすれば、これはいわば「水彩画」のようなテイストを持っているものでした。その爽やかさは、ディーリアスあたりのイギリスの作曲家にも通じるようなセンスなのかもしれません。真ん中の楽章は「崖の上のロンド」というタイトルの踊りの曲、これなどは、ラヴェルのエスプリをさらに昇華させたような趣です。
「コンセール」も、ラヴェルと同じ趣味、クープランのような昔の宮廷での音楽の雅を現代に蘇らせたものです。舞曲風の音楽も見え隠れする中、最後の急速な楽想では、やはりフルートが大活躍してくれます。
そして、彼の作品の中ではおそらく最大規模の4楽章形式の「交響曲」は、しかし、そんな肩肘を張ったしかめっ面の形相ではなく、優しい旋律に覆われた暖かい雰囲気の曲でした。第1楽章の最後でしつこく繰り返される終止のアコードも、ある種の厳格さを求めたもののように聞こえていても、その実ちょっと悪戯っぽいユーモアと感じられるかもしれません。第3楽章のスケルツォの感じが、まるでベートーヴェンの「第9」のスケルツォのパロディのように聞こえるのも、そんなゴーベール一流の余裕がもたらした結果なのでしょう。しかし、なんと言っても聴きどころは第2楽章の美しいメロディではないでしょうか。これこそはゴーベール節の極地、それは、もちろんフルートで歌われます。
クセナキスの録音でお馴染みの超ハイテク集団ルクセンブルク・フィルは、弦楽器がやや無機質に感じられるものの、とても精緻なアンサンブルで色彩的な響きを醸し出しています。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-31 23:37 | オーケストラ | Comments(0)
カラヤンの「ラインの黄金」
 最近は、テレビといえばドラマばかり見ていて、音楽ものはなかなか見ることがなくなっています。N響のライブなど、まさにハードディスクの「肥やし」になってしまっています。DVDに保存しておくほどのものでもないので、さっさと見て削除してしまいたいのですが、そんな時間があったらたまったドラマを見ていた方がよいので、なかなか空き時間は増えることがありません。
 そんな中で、最近2本ほど面白いものを見ることが出来ました。一つは今年のベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート。モスクワ音楽院のホールという、なかなか面白い形をした(シューボックスなのに、プロセニアムがある)会場での演奏、曲目もロシア物かと思いきや、最初だけストラビンスキーの「3楽章の交響曲」だっただけで、あとはブルッフとベートーヴェンでした。そのメインが7番だったのですが、ここでラトルはなんだか見慣れない楽器を使っていました。コントラファゴットが2本も追加されていたのですよ。ベーレンライター版の楽譜を見てみても、この曲にコントラファゴットが使われることはありませんから、これはラトルのアイディアなのでしょうか。と思いながら、ネットを調べてみたら、これはベートーヴェンが8番を初演した時に用いた編成だったことが分かりました。コントラが入るようなばかでかい編成で、ピアノとフォルテの対比を付けたのだそうです。この時に一緒に演奏されたのが、3回目か4回目のステージとなる7番だったので、ラトルはこの「故事」にのっとって、コントラを加えたのですね。でも、ベートーヴェンでコントラが2本並んでいるのはいかにも異常、その8番の初演の時には木管は全部倍管だったのですが、このベルリン・フィルは各パート1本だけ、そこにコントラだけ2本入れてもあまり意味がないような気はしますがね。
 もう一つは、このところ集中的に放送されているカラヤンの映像の中で、まだ見たことのなかった「ラインの黄金」です。これは、色んな意味で本当に興味深い物でした。まず、録音が、CDで出ているものとは別、もう少し後にザルツブルクで行われたものなのだそうです。CDの「リング」では、もっとも後の「黄昏」でも1969年の録音ですから、ゴールウェイはかろうじてこの「黄昏」だけには乗っていて、その音を聴くことが出来るのですが、もちろんそれ以外は別の人でした。ところが、ここでは明らかにゴールウェイらしい、芯の通ったフルートが聞こえるので、調べてみたらやはりそうでしたね。
 その音に合わせて、映像は後に撮影されていますから、中には歌っているのとは別の歌手が演じていることもあって笑えますが、ローゲ役のシュライヤーは、絶対にシュライアーには見えないメークで登場していても彼自身でした(このシュライアーの歌は絶品)。もちろん、カラヤンが監督をしているのですが、その面白さといったら、つまり、カラヤンには指揮者の才能はあっても映画監督の才能は全くなかったことがはっきり分かってしまうのですからね。彼がやっているのは、完璧にスコアの指示を忠実に映像に直すことだけだったのです。これほど音楽と演技がシンクロしている映画もないことでしょう。「ライン川」といえば川の映像ですし、「小人」といえば、本物の「小さい人」が出てくるのですからね。その結果、映画としてはまさにB級の安物SFのような物になってしまっています。そこには、クリエーターとしてのひらめきは、なにも感じることは出来ません。もっとも、これには彼の他の映像作品に比べて際立った長所があります。それは、カラヤン自身の映像が全く登場することがない、ということです。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-30 20:34 | 禁断 | Comments(0)
VERDI/Requiem
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Ingrid Bjoner(Sop), Hertha Töpper(MS)
Waldemar Kment(Ten), Gottlob Frick(Bas)
Karl Richter/Münchner Philharmoniker
Philharmonischer Chor München
Münchner Bach-Chor
ALTUS/ALT 156/7



リヒターの指揮したヴェルディのレクイエムなどという珍しい録音が出てきたりひたーのだそうです。以前ご紹介したブルックナーの交響曲のように、彼は決してバッハばかり演奏していたわけではなかったことが、最近になって続々と明らかになってきています。いや、別に隠していたわけではなく、レコード会社がそのようなものに触手を伸ばさなかったのでレコーディングは行われなかったと言うだけの話、コンサートではさまざまなレパートリーを誇っていたのでしょう。
今回CDとなった音源は、世界初出のものです。その素性を聞けば、なぜ今まで発表されなかったのか、自ずと理解できます。これは、放送局などのプロが録音したものではなく、1969年に合唱団のメンバーが趣味で録音したものなのです。その人はオーディオ・マニアだったそうですが、この時代のアマチュアの機材といえば、多寡がしれています。音質面では、あまり多くを期待することはできないでしょう。
案の定、それはとんでもない録音でした。派手なヒスノイズや、かなり目立つ転写は仕方がないとしても、最初のうちはレベル設定がいい加減だったようで、合唱のフォルテは完全に歪んでいます。それに気づいたのか、あわててフェーダーを操作しているようなところも見受けられますね。それよりも問題なのはマイクのセッティング。もしかしたらマルチマイクなのでしょうか、一応ステレオにはなっていますが、バランスが滅茶苦茶なのですよ。合唱だけがやたら大きくてソリストは最初の頃はあまり聞こえてきません(これも、途中で修正はしているようです)。もっとひどいのはオーケストラ。打楽器あたりが突拍子もないレベルで入っていて、木管などは殆ど聞こえません。もちろん、全体の音がまとまって聞こえてくることもありません。
そんなひどい、到底商品としては通用しないものが発売されたのには、この録音を後生大事に保存していたリヒターの遺族のたっての希望があったからなのだと言います。バッハ以外のレパートリーでも素晴らしいものを残していたことを、ぜひ知ってもらいたい、という気持ちだったのでしょうか。
確かに、そんな劣悪な録音にもかかわらず、ここからはリヒターの尋常ではない気迫を感じ取ることは可能です。それは、主にソリストに対して、決して外面的にはならない押さえつけた表現が要求されていたことをうかがわせるものでした。特に、メゾ・ソプラノのヘルタ・テッパーの深い響きから生まれる深刻な情感は、何よりも圧倒されるものです。他のソリストも目指すところは同じ、この4人が一緒に歌うアンサンブルでは、微妙なピッチのズレによる暗いハーモニーと相まって、とことん落ち込みを誘われる気分になってきます。そう、それはまさに「死んでしまいたくなる」ような気分、ヴェルディからそんなものを引き出すなんてこと、リヒター以外に出来るはずがありません。
合唱は、そもそも最初の出だしからとてつもない音程で驚かせてくれますから、なにも期待出来ないことは分かっていました。当然のことながら、プロのソリストとは違って指揮者の要求がストレートに伝わることもなく、不必要にノーテンキな一面をさらけ出してリヒターが望んだものとはおそらくかけ離れた仕上がりとなっているのではないでしょうか。
ただ、アマチュアのミキサーが作ったデタラメなバランスからは、思いがけない効果が生まれることになりました。「Dies irae」でのグラン・カッサが信じられないほどの迫力で録音されているために、それはまさに恐怖を呼ぶほどの音響となっているのです。あたかも聴くものを死の世界へ引きずり込むほどの力を持つもののように、それは聞こえます。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-29 20:15 | 合唱 | Comments(0)
HUMPERDINCK/Hansel and Gretel
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Christine Schäfer(Gretel)
Alice Coote(Hansel)
Philip Langridge(Witch)
Richard Jones(Dir)
Vladimir Jurowski/
The Metropolitan Opera Orchestra and Chorus
EMI/2063089(DVD)



ピーター・ゲルブが支配人に就任してから3期目に入ったMETですが、彼が行った改革の目玉とも言うべき「ライブ・ビューイング」は、なかなかの反響を得ているようですね。これは、ステージの模様をハイビジョンカメラで撮影して映画館などに生配信するというシステムです。けっして、気に入らない歌手に対して大声で文句を言う人を公認するものではありません(それは、「ライブ・ブーイング」)。念のため。
これはアメリカ国内だけではなく、日本の映画館でも行われています(かつては歌舞伎座でも)。ただ、時差の関係で「ライブ」は無理なので、パッケージとなったデータを送っているのでしょう。そして、そのパッケージはこんな風にDVDとなってお茶の間(死語)でも簡単にMETの舞台を体験することができるようになっているのです。
もちろん、そんなオペラのDVDなどはいくらでも出ていますから、今さら、なのですが、このMETのものはいかにも「ライブ」という仕上がりがひと味違います。つまり、「生」配信の時に行っているバックステージの案内などが、ここにもそのまま収録されているのですよ。この「ヘンゼルとグレーテル」の場合は、なんとルネ・フレミングが「案内役」として登場、開幕直前の舞台袖でコメントしたり、休憩中のセットの転換で技術担当の人とのインタビューなどを聞かせてくれているのです。それはとても手慣れた滑らかなもの、おそらく、きちんと台本ができているのでしょうね。
「ヘンゼルとグレーテル」以外の作品は全く知られていないという、いわばオペラ界の「一発屋」エンゲルベルト・フンパーディンクといえば、その名前を借用したポップス・アーティスト(「トム・ジョーンズ」とか「ギルバート・オサリバン」とか、そんな「芸名」が一時はやりましたね)の方がはるかに有名になってしまっている作曲家ですね。なぜか、この人は大昔の英語のリーダーに載っていたものですから、中学生の頃から馴染みがありました。しかも、この作品の抜粋を児童合唱団が上演したものまで聴いていたものですから、その曲自体も馴染みがあったつもりでした。ただ、リーダーでは「ワーグナーの弟子」とあったのに、その音楽がワーグナーとはかけ離れた素朴なものであったのに、疑問を抱く少年ではありましたが。
序曲だけは良く演奏されるので聴いていましたが、そんなわけでオペラ全体をきちんとした形で(とは言っても、このプロダクションはテキストが英語)味わうのはこれが初めてのことでした。そして、積年の疑問はここで氷解することになります。作曲家が用いていたのは、あくまでワーグナー譲りの無限旋律の世界だったのですが、その中にいとも素朴な、殆どドイツ民謡の引用のようなものを巧みに織り交ぜていたのですね。今回のMETもそうですが、この作品は子供に見てもらうことを念頭に置いて上演されることが多いのは、そんな「配慮」のせいなのでしょう。正直、そこまでするのなら、いっそ他の部分ももっと平易に作れば良かったのに、と思うのですが、そこまでは譲れないというのが、作曲家としてのプライドだったのでしょう。その結果、なんとも不思議な「ごちゃ混ぜ」の音楽が出現しているな、というのが、初めて全曲を体験しての偽らざる感想です。
今回の演出は、今までのものとは全く異なる、「食」にこだわったユニークな設定なのだそうです。確かに、最後の幕で子供たちが口のまわりをクリームやチョコレートだらけにして実際にスイーツを頬張っている姿には迫力があります。第1幕で母親が口の中からソーセージを吐き出すシーンと同様、そこには醜い飽食への警鐘が込められているのだとしたら、恐ろしいものがあります。
それよりも、シェーファーの、本物の子供以上に子供らしい姿と演技こそ、最も恐ろしいものだとは思いませんか?
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by jurassic_oyaji | 2008-10-27 19:32 | オペラ | Comments(0)
櫻家
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 「仙台Walker」というムックが、発売されたそうですね。「なんとかWalker」の仙台版ということ、これで、仙台もおしゃれな街の仲間入りが出来た、などと、どこかで紹介されていましたっけ。別に、この手のガイドブックはいくらでもありますから、そこで紹介されているお店をまるまる信用するわけではありません。行ったことがあるお店などが大々的に紹介されていることがありますが、そこってそんなにおいしかったの?と思うようなところが大半ですからね。ただ、この本の場合は、ネットによるランキングで、紹介するお店を決めているそうなので、結構当てになるような気がします。やはり、「業界」の人ではなく、アマチュアの人の感覚の方がまともなのは、どこの世界も同じことです。
 嬉しいことに、そこでは、私がトンカツでは仙台で一番おいしいと思っているお店が、最高位にランクされていたのです。それは、川平の「櫻家」というお店なのですが、お肉といい、コロモといい、揚げ具合といい、なんとも繊細な仕事ぶり、まるで芸術品のような素晴らしさです。毎週食べに行っても良いぐらいの、おいしいお店です。ただ、ここには一つ難点があって、店内が喫煙自由なのですね。それで、ご存じのようにある時タバコを吸っている人のすぐ隣りに座らざるを得なくなったために、「禁煙にしなければ、もう来ない!」と啖呵を切って飛び出してきたことがあったのですよ(こういう話は、だんだん大げさになっていくものです)。
 それ以来、本気でもう行くまいと思っていたのですが、そんな致命的な欠点があったとしても、やはりあの味は忘れられません。タバコはもちろん、到底許されることではありませんが、だからといってあのトンカツを食べないというのは、そんなに長くもない人生では、とても大きな損失のような気がしてきたのです。そんな風にランキングで1位にもなったことですし、ここは一つ過去は忘れてヨリを戻してみようと思いました。
 そのお店に入る前に、密かに期待していることが2つありました。一つはテーブルの上から灰皿がなくなっていること、そしてもう一つはその「仙台Walker」が大々的に飾られていることです。しかし、残念なことにその期待は両方とも裏切られてしまいました。灰皿は仕方ないとしても、確か、以前別の雑誌に載った記事はカラーコピーをして貼ってあったはずですから、間違いないと思ったのですがねぇ。でも、よく考えてみると、今回の記事ではこのお店の場所についてかなりいい加減な記載があったことを思い出しました。最寄りの駅が「北仙台」だというのですよ。地下鉄にしてもJRにしても、その駅からここまで歩いたのでは優に1時間はかかってしまいます。そんなところがマスターの気に入らなかったのかもしれませんね。それとも、そもそもマスターはこの記事を読んでいなかったのでは?
 久しぶりの「上ロース」は、以前と変わらず、まさに絶品でした。これを食べる幸せを棄てるのは、本当にばかげたことです。でも、お店の片隅からかすかに漂ってくるタバコの匂いは、やはり気になるものでした。何と言ってもネットランキング1位のお店ですからね。そんなところは当然全席禁煙というのが、今の常識なのですがね。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-27 00:08 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Donna
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Diana Damrau(Sop)
Jérémie Rhorer/
Le Cercle de l'Harmonie
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前作Arie di Bravuraに続くVIRGINでのダムラウの2作目のアルバムです。タイトルは、「Donna」。「プリマ・ドンナ」は主演女優ですから、「ドンナ」というのは「女優」というか、女性の出演者のことですね。いったい、どんなキャラクターを演じてくれているのでしょう。
ところで、このジャケットの写真、前作の写真とはまるで別人のようなイメージを与えられませんか?前回はとても若々しいイメージだったものが、今回は「年増の魅力」というか、ちょっとおばさんっぽいのが気になります。ヘアスタイルなどのほんのちょっとした具合で、これほどまでに外見が変わってしまうものなのですね。そんなダムラウがここで試みているのは、モーツァルトのオペラに登場する全く異なるキャラクターを、一人で演じてしまう、というものでした。一般的にはオペラ歌手というものは、音色やテクニックによってある特定の役柄しか歌えないものだ、ということになっているそうなのです。ソプラノの場合は「レッジェロ」や「リリコ・スピント」、「ドラマティコ」などに分類されていますが、「魔笛」の「夜の女王」で強烈な印象を与えてくれたダムラウは、ですから、そのような高音のコロラトゥーラを専門に歌う「レッジェロ」というソプラノにカテゴライズされてしまってもおかしくはありません。しかし、彼女はそんな既成概念にとらわれることはなく、もっと幅広いキャラクターに挑戦しているのです。その「夜の女王」にしても、彼女の場合ただ高音の超絶技巧を聴かせるだけのものではなかったことを思い出しているところです。特に第1幕のアリアはかなり低い音も要求される難しいものですが、彼女はそこで堂々たる「女王」の貫禄を示していたものでした。ですから、その時点でこんなアルバムが出ることはある程度予想されていたのです。
「フィガロの結婚」では、伯爵夫人とスザンナという、2役を聴くことが出来ます。例えばアンネッテ・ダッシュあたりも、両方の役をレパートリーにしていますが、実際に聴いてみて彼女の伯爵夫人はちょっと無理があるような印象を持ったものです。しかし、ダムラウのコンテッサの深みは、本物です。もちろん、スザンナの初々しさも、しっかり伝わってきます。
そのあたりのキャラクターの区別は、もちろん声の質だけによるものではないことが、「後宮」でのブロンデとコンスタンツェの見事な歌い分けからも明らかになります。ここで彼女は、言葉の勢いなども含めて、すべての面で完璧にそれぞれの役柄を演じ分けているのです。「ドン・ジョヴァンニ」ではドンナ・アンナとドンナ・エルヴィラしか歌っていませんが、おそらくツェルリーナだってきちんと歌うことはできるのでしょうね。
録音されたのは今年の1月、前作が2006年の12月ですから、ほぼ1年のインターバルでの新作と言うことになります。共演は同じ「ル・セルクル・ド・ラルモニー」というフランスのオリジナル楽器のバンドです。この「ハーモニーの環」という、2005年にジェレミー・ロレルによって創設された団体は、18世紀後半に活躍した作曲家サン・ジョルジュが作ったオーケストラの名前を現代に蘇らせたものなのですね。ただ、このバンド、たった1年しか経っていないのに、メンバーはかなり入れ替わっています。コアのメンバーだけを残して、あとは適宜ソリスト級の人が参加する、という形態なのかもしれません。というのも、前作同様、ライナーにはオブリガートなどを演奏しているパーソネルのクレジットがあって、それによると木管などは2人の奏者の双方が、それぞれ別の曲でトップを吹いているのが分かるからです。フルートなどはかなり音色の違う人のようで、それぞれの個性に合わせた起用ができるという贅沢な陣容のようでした。そう、ここでは伴奏のオケまでもが「歌い分け」をやっていたのです。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-25 23:02 | オペラ | Comments(0)
MOZART, BERG/13
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内田光子(Pf)
Christian Tetzlaff(Vn)
Pierre Boulez/
Ensemble Intercontemporain
DECCA/478 0316



モーツァルトとベルクをカップリングしたアルバムです。ヴァイオリン協奏曲あたりだったらあるのかもしれませんが、これはちょっと珍しい組み合わせ。いや、珍しいと言えば、そのモーツァルトをブーレーズが演奏しているのですから、どんだけ珍しいことでしょうか。
もちろん、これは単なる思いつきではなく、タイトルにあるように「13」という数字が共通点となっています。この2曲は、どちらも「13の管楽器」が用いられているのです。ただ、モーツァルトの場合はそれで全部ですが、ベルクにはピアノとヴァイオリンのソロが加わりますし、同じ「管楽器」といっても、その中身はかなり異なっています。モーツァルトにはフルートやトランペットは入ってはいませんし、ベルクにバセットホルンはありません。そんなつまらない「共通点」を持ち出すのは、「現代作曲家」の悪い癖です。
モーツァルトの「13管楽器」は、もちろん「グラン・パルティータ」と呼ばれているセレナーデです。本来の編成はコントラバスが入るのですが、ここではあくまで「管楽器」にこだわって、コントラファゴットが使われています。
大昔のブーレーズならいざ知らず、最近のブーレーズだったらモーツァルトを演奏したところでそんなにヘンなことはやらないだろう、と思っていましたが、どうしてどうして、「アンファン・テリブル」は未だ健在でした。いたるところで、ちょっと聴き慣れない声部や、びっくりするようなアーティキュレーションが顔を出すのですよ。特にゆっくりとした楽章でのバセットホルンなどは、「こんなことをやっていたんだ」と思わず膝を打ってしまうほどでした。アーティキュレーションにしても、ことさら滑らかさに逆らうような音符の目立たせ方をやっていますので、ついそこに注目せざるを得なくなってしまう、という強引な手で、ぐいぐい引っ張っていきます。
アンサンブルの作り方も、あくまで指揮者主導というこういう曲では珍しいアプローチです。単なる仲間同士の楽しみで、お互いの欠点をなめ合おう、などという甘いことは一切通用しない、方向付けのはっきりした意志の強さには、確かに惹かれるものがあります。そして、そういう姿勢を取ったところで、モーツァルトの音楽自体はびくともしないということが再確認出来るというのが、嬉しいところです。もっとも、そんなきっちりとしたアンサンブルのはずなのに、最後の最後になってファゴット奏者が鮮やかな装飾を入れたりしているのは、まさにサプライズ。それは見事なアクセントとなって、この演奏に格別の魅力を与えています。それは、プレーヤーの本能がなせる業だったかもしれませんが、結局はブーレーズの手のひらの上で操られていただけなのだ、とは思えないでしょうか。
一方のベルクは、「ピアノ、ヴァイオリンと13の管楽器のための室内協奏曲」です。第1楽章はピアノだけ、第2楽章はヴァイオリンだけ、そして第3楽章になって初めて両者がソリストとして掛け合いを行う、という、3種類のソロを1曲で楽しめる大変お得な協奏曲です。
これはまさにブーレーズとアンサンブル・アンタルコンテンポランにとっては自家薬籠中のレパートリー、モーツァルトでは半ば強制的に合わせさせられていたものが、こちらでは逆に自発的な音楽を作れる喜びを味わっているように聞こえます。決してチャランポランに演奏しているわけではありません。そんな中で誰よりもひらめきを放っているのは、内田光子だったのではないでしょうか。それに比べるとテツラフくんはちょっと地味。
管楽器のメンバーは、おそらく他の分野でも名をなしている、あるいはこれから羽ばたく人ばかりのはず、その名前をぜひ入れておいて欲しかったと痛切に思います。メジャー・レーベルのクレジットは、なぜかそういうところが不親切。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-23 20:15 | オーケストラ | Comments(0)
ALFVÉN/Symphonies 1-5 etc.
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Neeme Järvi/
Royal Stockholm Philharmonic Orchestra
BRILLIANT/8974



この前のニルソンの自伝の中には、彼女がアルヴェーンの交響曲第4番を演奏したときの模様が書いてありました。ニルソンと同じスウェーデン生まれのフーゴー・アルヴェーンは、「夏至祭」というNHKの「きょうの料理」のテーマ曲(@富田勲)に非常によく似ている曲だけが知られている作曲家ですが、交響曲も5曲ほど作っていたのですね。その中で、この「第4番」は、1楽章形式の少し変わった構成を持っています。それよりも変わっているのはその「テーマ」。それがニルソンによって語られているのです。
それによると、「海辺の岩礁より」というタイトルのこの交響曲は、作曲家の若い頃の体験がモチーフになっているのだそうです。彼は当時海辺に住んでいましたが、その岩礁から見える離れ島には美しい人妻がいて、彼とは秘密の恋人の間柄だったのです。人妻は、夫が出かけていなくなると、窓に灯りをともして「今なら大丈夫よ」というサインを送ります。それを見たアルヴェーンは矢も楯もたまらず真っ暗な海に飛び込んで、愛人の許へと泳いで行くのです。そんな情景を描写したのが、この交響曲だというのですね。いやあ、なんという破廉恥なテーマなのでしょう。これはベルリオーズの「幻想交響曲」も真っ青の、言ってみれば「不倫交響曲」ではありませんか。この曲には、テノールとソプラノのソリストが加わっていて、ヴォカリーズでそれぞれの男女の思いの丈を歌い上げているんですって。ニルソンがそれを歌ったときには、アルヴェーン自身が指揮をしていたそうです。こういうものをご本人が堂々と聴衆の前で披露するという根性は、まさに尊敬に値します。
そんな曲だったらぜひ聴いてみたいと思うじゃないですか。そこで、録音を調べてみたら、BISから交響曲と管弦楽曲を網羅した単発のCDが5枚出ていました。ただ、20年近く前のものでしたからすぐには手に入らないだろうな、と思っていたところ、なんとBRILLIANTからその5枚がまるまるボックスになって出たばかりだったではありませんか。なんという偶然、しかも5枚でも1枚分の価格ですから、迷わず購入です。
その「4番」は、確かにかなりエロい曲でした。まるでベートーヴェン(それは「エロいか?」)。もちろん、そんな背景を知りながら聴いていたからなのでしょうが、何よりもソリストたちの甘ったるい歌い方がたまりません。特に、ここで歌っているテノールのアンスホーという人が、殆ど女声にしか聞こえないようなへなちょこな声なので、いかにも「いけない」印象が強まります。この二人、最初は両端で歌っているのに、だんだん真ん中に寄ってくるんですよね。
しかし、ここで聴かせてくれるアルヴェーンのオーケストラの表現力の多彩さには、驚かされます。そこからは、荒れ狂う海や、恋人同士の熱い思いが、恥ずかしいほどストレートに伝わって来るのですからね。彼は、オーケストラを使って情景描写を行うスキルに関しては、まさに卓越したものを持っていることを、強く印象づけてくれました。
せっかくだからと、他の曲も一通り聴いてみましたが、そんなワクワクするようなオーケストレーションは、いたるところで味わうことが出来ました。5枚目に入っている「山の王」という組曲がその白眉でしょうか。1曲目の「呪文」でのおどろおどろしいテーマには、思わずのけぞってしまったほどです。カップリングが「交響曲第5番」なのですが、4楽章形式でいかにもかっちりしたたたずまいなのに、聴いた感じはその組曲とあまり変わりません。第3楽章などには、どうやらさっきの「呪文」のテーマが使われているようで、これもとことん楽しめる曲なのでした。
さっきのニルソンの自伝には、アルヴェーンはただのエロおやじだったというオチがあります。それを軽く受け流して、ニルソンは「彼は、女性宛の手紙のオーケストレーションにおいても巨匠だった」ですって。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-21 19:48 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/F-moll-Messe
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Ingela Bohlin(Sop), Ingeborg Danz(Alt)
Hans-Jörg Mammel(Ten), Alfred Reiter(Bar)
Philippe Herreweghe/
RIAS Kammerchor
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901976



もうだいぶ経つのでしょうが、このレーベルのマークがいつの間にか変わっていましたね。「貝殻」をモチーフにしたデザインは同じですが、トリミングされているので元を知らなければいったい何なのか分からないようなものになっています。より抽象化が進んだ、ということなのでしょう。もちろん、これはこのレーベルの創立50周年という節目での改革であることは、言うまでもありません。同じルーツを持つ兄弟レーベルDHMは、BMG(いや、SONYと言うべきでしょうか)の傘下に入ってカタログの投げ売りをされるようになってしまいましたが、こちらはインディーズとして、これからも堅実な歩みを続けていくことでしょう。
ブルックナーの交響曲第4番と第7番の、世界で初めてオリジナル楽器による録音を行ってくれた、このレーベルの看板指揮者ヘレヴェッヘとシャンゼリゼ管弦楽団は、今回はヘ短調、つまり3番目であり最後(いえ、カラヤンの奥さんの話ではありません)のミサ曲を録音してくれました。ただ、合唱団が彼の手兵のコレギウム・ヴォカーレなどではなく、ベルリンのRIAS室内合唱団となってりあす。この合唱団、最近指揮者がダニエル・ロイスから、ハンス・クリストフ・ラーデマンに代わったそうなのですが、ここには合唱指揮者としてのクレジットは何もないので、ヘレヴェッヘがこの合唱団を指揮した、ということなのでしょうね。録音も、ベルリンのフィルハーモニーで行われています。
この前に作られた「2番」のミサ曲は、管楽器だけのバックということでなにか落ち着きのないサウンドでしたが、これはもちろん正規のオーケストラですから、ブルックナー特有の厚ぼったい響きを持ったものです。ヘレヴェッヘは、交響曲と同様、あるところではそれをとても柔らかいものに仕上げようとしています。そして、客演している合唱も彼の意に添ったとことん柔らかい響きを目指しています。ただ、そんな美しい瞬間は、この曲の場合はあまり長く続くことはありません。「Credo」の途中、イエス・キリストが十字架にかけられるあたりは金管楽器がとろけるような甘~い響きを作った上に、合唱がほんとに柔らかく漂っているのですが、3日後に復活した途端、オーケストラは派手に炸裂することになるのです。なにしろ、そんな具合でいたるところあのくどくしつこいブルックナー節が全開なのですから、オーケストラがそんな同じ音型の飽くなき攻撃をトゥッティで繰り広げている間は、敬虔な宗教心にはちょっとお休みを頂いていてもらわなければなりません。
その分、「Benedictus」あたりでは、本当に静かで美しいたたずまいに1曲丸ごと浸っていられます。まるでモーツァルトの「Ave verum corpus」を思わせるような柔らかい弦楽器のイントロに続いて、ソリストが歌い出します。最初に歌い出すアルトのダンツの深い響きが、それに続く他のソリストにも受け継がれ、しっとりとしたシーンが出来上がると、そこに入ってくるのがほんとにピュアな合唱、これで、まるで天上のような世界が完成します。この曲はブルックナーの交響曲の緩徐楽章のテイストをあちこちに持っているものですが、あのような大げさな盛り上がりを見せることは決してなく、ひたすら平静のまま流れていきます。最後のあたりで聞こえてくるのは、もっと作為のない平易なメロディ、そこからはまさにモーツァルトの持っていた雰囲気さえも感じ取ることが出来るはずです。
もしかしたら、ブルックナーの本心としてはミサ曲全体をこんなしっとりとした形にまとめたかったのに、交響曲作家としての体面がそれを許さなかったのでは、そんな楽しい想像さえも駆り立てられるのが、このヘレヴェッヘの演奏でした。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-19 20:56 | 合唱 | Comments(0)
カラヤンとともに生きた日々

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エリエッテ・フォン・カラヤン著
松田暁子訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-557-4


今年生誕100年を迎えた往年の大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの3番目にして最後の妻エリエッテが執筆した、回想記です。原題は「Mein Leben an seiner Seite」、「彼のそばにいた私の人生」あたりでしょうか。わざわざ「カラヤン」と言わなくても、著者が「彼」と言っただけでその人が分かるのに、なんと無粋な邦題なのでしょう。
常々、この指揮者のそばにいつでもついて回っているこの金髪の美人女性については気にはなっていました。もちろん、それがカラヤン夫人であることは明らかなのですが、あまりに美しすぎるためにそれが単なるカラヤンの「アクセサリー」のように思えてなりませんでした。もちろん、それは単なる個人的な感想ではなく、「カラヤンはスポーツカーやジェット機、そしてモデル出身の美人まで、欲しいものは何でも手に入れた」というような言い方には、いたるところでお目にかかることが出来ます。事実、その二人はまるで親子ほどの年の差があるのは、まちがいのない事実なのですからね。
ヘルベルトが100年前に生まれたことは世界中の人が知っていますが、エリエッテの生まれた年などはどこを探しても見つかりません。しかし、カラヤン夫妻の年の差が実際にどのぐらいなのか、正確なところを知りたいと思ったら、この本のイントロが役に立ちます。それは、まるでおとぎ話のような物語の始まり、船上パーティーで船酔いをしてしまったエリエッテを優しく介抱したロマンスグレーの紳士(まるで、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの「プリティ・ウーマン」みたいですね)は互いに一目惚れしてしまう、という設定(いや、事実かも)です。その時の彼女は「18歳」、そしてヘルベルトはというと「バイロイトで『指環』の第2チクルスを指揮したばかり」とありますから、このシーンは1951年の出来事であるのが分かります。その年は、ヘルベルトが最初にバイロイトに招かれた年で、「第1チクルス」はクナッパーツブッシュが指揮をしているはずですから。ということは、誕生日を迎えていれば彼女は1933年に生まれたことになりますね。つまり、エリエッテはヘルベルトとは25歳違いの後妻だったのです。
最初の出会いがまさにあり得ないほどの美化されたものであるのは、この本で描かれているカラヤンとの思い出が同様に美化されたものであることを示唆しています。従って、読者はこの彼女一流の夢見がちな少女のような(とは言っても、執筆時には彼女は74歳だったはず)記述の中から、注意深く真実のみを読み取る努力を怠ることはできません。例えば、カラヤンは最愛の妻だけを必ずレコーディング・セッションには同席させた、というのは、おそらく真実なのでしょう。しかし、その際にカラヤンは彼女に必ず音楽上の助言を求めた、というのは、はたして本当だったのか、といった具合です。
さらに、涙なくしては読めない感動的なヘルベルトの臨終のシーンも、フィクションではないと言い切れるだけの自信はありません。その場にその時実際に居たのは、当時のソニーの社長大賀典雄氏だけだった、というのは、例えばこちらでもご本人の口から述べられているように、殆ど「常識」と化しています。エリエッテのこのドラマティックな記述をもってしても、いや、だからこそなおさら、それを覆すだけの力とはならないような気がするのですが、いかがでしょうか?
いずれにしても、没後100年を飾るにふさわしい、この上なく美しい「伝説」が、また一つ誕生しました。半世紀前にサン・トロペで未成年の少女をナンパしたカラヤンは、もしかしたらこの日のために彼女を育て上げていたのかもしれませんね。彼が手に入れていたものは単なる「モデル出身の美人」ではなく、死後も彼の崇高な行いを世に伝えてくれる語り部だったのです。
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by jurassic_oyaji | 2008-10-17 23:35 | 書籍 | Comments(0)