おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
<   2008年 11月 ( 18 )   > この月の画像一覧
MOZART/Requiem, STRAVINSKY/Les Noces
c0039487_2071917.jpg


Herbert Kegel/
Rundfunkchor Leipzig
Rundfunk Sinfonieorchester Leipzig
DREAMLIFE/DLCA 7029



前回の書籍の中で、最近ケーゲルによるモーツァルトの「レクイエム」の録音が初めて世に出たというニュースが述べられていました。もちろん、今までディスコグラフィーにはなかったものですから、これは聴いてみないわけにはいきません。1955年の10月に録音されたという、この曲に関してはかなり初期の録音、相当に貴重なものです。
今でこそ、この作品は、モーツァルト自身がすべてを作ったものではないことは広く知られており、どの曲のどの部分がジュスマイヤーによって後に書き加えられたものであるか、とか、どの曲がジュスマイヤーの完全なオリジナルであるか、などということがほぼ明らかになっています(あ、もちろん、最初に出版された「ジュスマイヤー版」についての話ですが)。しかし、そんなことが表立って議論されるようになったのは、ジュスマイヤーの仕事に対する批判として1971年にフランツ・バイヤーによるいわゆる「バイヤー版」が出版され、それに基づいたレコードが1974年に録音されてからのことなのではないでしょうか。それまでは、一般リスナーにとっては「モーツァルトが残したスケッチを元に、ジュスマイヤーが仕上げた」という認識がごく一般的なものだったはずです。当時のリスナーがこの曲の情報として拠り所とした多くの「解説書」を読めば、それは明らかなこと、例えば、1961年に出版された「モーツァルト」(海老沢敏著・音楽之友社刊)には、次のような記述が見られます。
さらに〈サンクトゥス〉も、冒頭は、オーケストレーションを除いては、モーツァルト自身のものであり、以下の部分も、ある程度スケッチされていたものと考えられる。〈ベネディクトゥス〉や〈アニュス・デイ〉なども、部分的にはスケッチが残され、ジュースマイアが、それを完成させたものである

現実には、その当時に使われていたブライトコプフの出版譜では、きちんとモーツァルトが作ったパートとジュスマイヤーが補作したパートが明記されていますから、演奏家レベルではもう少しシビアな事実が分かっていたはずなのですが、リスナーのレベルではこんな、今となっては明らかに間違っている情報が流布していたのです。もっとも、「sequentia」の最後の曲である「lacrimosa」の途中でモーツァルトが筆を置いている、という事実だけは強調されていましたから、そのあとの「offertorium」までもが自作ではない、という風に思いこんでいる人は結構いたはずです。ちょっと「通」ぶって、「後半の曲は偽物だから聴かない」と得意げに振る舞うつー人には、実は今でもお目にかかれます。
そんな状況にあった時代、ケーゲルはことさらにその「偽作」の部分が、「真作」であることを願っていたのかもしれません。なにしろ、バセットホルンをクラリネットで代用したオーケストラや、例えば「kyrie」のフーガでは、それぞれのパートの入り方に全く整合性がないといういい加減な合唱にちょっと白けてしまうこの演奏にあって、その合唱がもっともハイテンションの輝きを見せているのが、他ならぬ「sanctus」なのですからね。そう、その異常とも言える張り切りようには、「なんでそんなに頑張っているんだろう」という本心などいともたやすく退散せざるを得ないほどの、思わず曲の前に跪きたくなるようなオーラさえ宿っていましたよ。
その1年後に録音された、カップリング曲の「結婚」では、そんな複雑な思いなどさらさら感じることはない、歯切れの良い「現代音楽」のノリが聴けたのは、幸せなことでした。なぜかこのCDには、ソリストに関するクレジットが全くないので判断のしようがないのですが、モーツァルトとはうってかわって軽やかに振る舞っているソリストたちと、とても同じ団体だとは思えない合唱団は、ストラヴィンスキーのオルフ的な側面を、見事に浮き彫りにしてくれました。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-30 20:08 | 合唱 | Comments(0)
俺ら東京さ行ぐだ
c0039487_21534875.jpg

 けさ、朝日新聞の土曜版を見てみたら、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」のことが書いてありましたね。この曲が作られてからもう24年も経っていたというのにも驚きましたが、なんと、今この曲がネットを中心に大ブレイクしているそうなのですよ。オリジナルではなく、「ヒップ・ホップ」として、他の曲のサンプリングなども交えて様相は変わっているのですが、「テレビもねぇ、ラジオもねぇ」という「語り」というか「叫び」の部分は、ラッパーがラップで「歌って」いるそうなのです。というか、吉幾三自身も参加しているとか。つまり、この曲が「元祖ラップ」として再評価されている、というのですね。
 その記事の中で、この曲が作られた背景のようなものが紹介されていました。なんでも吉さんが入院していた時に友人から貸してもらったレコードを聴いていたら、それが当時は日本ではまだ珍しかった「ラップ」で、吉さんはそれにすっかりはまって、そのノリでこの作品が出来上がったのだ、というのです。つまり、作曲者である吉さんは、これをまさに「ラップ」として作ったのですね。しかし、もちろんその当時はそんなことは明らかにはされてはいなくて、例えば「秋田音頭のようなもの」みたいな言い方が、この曲に対してなされていたような気がします。この記事の中でも、「当時、この曲で『ラップ』を連想した日本人は少なかったろう」と言いきっています。
 ですから、私はそんな「数少ない日本人」の1人になるのでしょうね。この曲を最初に聴いた時、「これはラップだ」と思いましたからね。確かに、当時私のまわりで「ラップ」などという言葉を知っている人はまずいませんでした。「サランラップなら知ってるけど」でしたものね。でも、なぜか私はそんな黒人のムーブメントが、ポップ・ミュージック(絶対に「洋楽」なんて言葉は使いたくありません)の中に浸透していたことはよく知っていました。そして、それが日本語によって日本のポップスの中に取り入れられたものが、この曲だと、瞬時に思ってしまったのです。
 確かに、この曲には本来のラップが持っていたハチャメチャなエネルギーが、「笑い」の形に昇華されています。そこにこそ、完成度の高いエンタテインメントとしての価値があったのでしょう。
 もちろん、それからしばらくしてラップは「きちんと」輸入されることになりました。しかし、それらは例外なく、黒人の作り上げた文化をそのままなんの考えもなく日本に導入したものに過ぎませんでした。黒人の仕草やしゃべり方を、そのまま日本人が真似をすれば、同じようなエネルギーが伝わるのだろうという、まさに勘違いの産物だったのです。彼らの最大の誤算は、日本語でも英語と同じようなグルーヴが出せると考えた点でしょう。しっかり韻を踏んだつもりでいるそのライムは、いたずらに薄汚いものでしかありません。外国の文化を無批判に受け入れてきた日本人が犯した、また一つの過ちが、この「日本語ラップ」なのです。
 そんなラップが蔓延している中での、この「俺ら東京さ行ぐだ」の注目は、もしかしたらそんな欺瞞に敏感な若者の、抵抗の現れだったのかもしれませんね。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-29 21:54 | 禁断 | Comments(0)
カラヤンがクラシックを殺した
c0039487_199847.jpg








宮下誠著
光文社刊(光文社新書380)
ISBN978-4-334-03483-2


大昔の話ですが、音楽評論界の重鎮吉田秀和先生が「レコードコンサート」の解説をなさる、という場に居合わせたことがありました。そこで先生が用意されたレコードは、「レコードでなければなし得ないもの」というコンセプトに沿ったものでした。その中にあったものが、カラヤンが指揮をしたリヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ」だったのです。
「確かにこのレコードではウィンド・マシーンの迫力などは素晴らしいんだけれど、ぼくがここで驚いたのはそんなことではなく、カラヤンの演奏が、実演とはまったく違っている、ということなんですね。生の演奏会ではカラヤンはずいぶんテンポを動かしたりしてスリリングなことをやっているけれど、このレコードではとってもきっちりとした演奏をしている、そんなところが、レコードと生演奏との違いですね」
というご指摘、あくまで生演奏に接することが大切なのだと考えておられた先生ならではの、含蓄のあるコメントだったのではないでしょうか。1人の演奏家のスタイルを、録音(もちろん、ライブではない、きちんとセッションを組んでのもの)だけで判断することの愚かさを、この時先生に教えられたのです。
この本は、カラヤンの数多くの演奏に接した著者が、その演奏スタイルが今日のクラシック界に及ぼした影響について考察を試みたものです。タイトルといい帯のコピー(「タブーに挑戦」)といい、なんとも「挑戦的」ないでたちですね。しかし、どんなショッキングなことが書かれているのかと戦々恐々読み進んでみても、その内容はいたってまとも、「何を今さら」という、拍子抜けするほどの極めて常識的なものだったのには、軽い失望を禁じ得ませんでした。
カラヤンが作り出したあくまで滑らかで心地よい肌触りの音楽は、クラシック音楽から、なにか大切なものを失わせてしまった、というのが、著者の主張の根幹をなしているテーゼです。そして、それは単にカラヤンだけの問題ではなく、そのようなスタイルを育てた社会にも責任があるのだ、と、まさに壮大なスケールでこの指揮者に断罪の鉄槌を振り下ろしているのです。その際には、著者の専門分野である哲学的な思考も総動員され、隙のない理論武装を構築することに余念がありません。思わず無条件に納得させられたような錯覚に陥るのも、豊富な語彙と華麗な言い回しを駆使する著者の文学的な力量のなせる技なのでしょう。
著者はここで、レコーディングでもコンサートでもカラヤンの演奏の本質は変わらないというスタンスで、論を進めています。もちろん、しっかりその裏付けとしてのコンサート体験を語ることを忘れてはいませんが、一般大衆が接するのが主に録音だから、という点で、当然の成り行きと考えたのでしょうか、多くの資料は膨大な録音の中から採られています。しかし、吉田翁の教えを受けたものとしては、「なにかが違う」というささやきがどこからか聞こえてくるような気がしてしょうがありません。
確かに、カラヤンに象徴される世の中の流れによって、クラシック音楽がなんとも軟弱なものになってしまった点に関しては、著者同様の憂いをおぼえるのに吝かではありません。しかし、それに代わる「価値」として、クレンペラーやケーゲルを持ち出す手法を見ていると、この国に於けるクラシック音楽の別の負の側面への憂いも、ひしひしと感じないわけにはいきません。それは、未だにモーツァルトの中にまでひたすら「暗さ」を求めてやまない視点と同次元のもの、しかし、そのような観念的なイメージは、多くの知性によってすでに現実的なものではないことが明らかになってしまっています。そんなカビの生えたお題目への執着こそが「クラシックを殺す」ことになるのだ、ということに著者が気づきさえすれば、本当の意味での「タブー」が破られるのです(たぶん)。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-28 19:10 | 書籍 | Comments(6)
エスクァイア日本版 1月号
c0039487_20585883.jpg







エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-01


前回この雑誌が初めて「クラシック」を特集した時には、大きな話題を呼んだものです。それほどまでに、このファッショナブルな雑誌とクラシック音楽との融合は、奇異に映ったのでしょう。カタツムリを食べるほどの奇異さはないでしょうが(それは「エスカルゴ」)。しかし、それに味を占めたのか、この雑誌はそれからも定期的にクラシック関係の特集を組むようになってきたようです。2008年の3月号で行った「ピアノ特集」に続いて、今回は「指揮者のチカラ」というタイトルでの指揮者、及びオーケストラの特集です。
いつもながらの、カルティエやらアルマーニといった超高級ブランドのゴージャスな広告の中に、「カラヤン」などという別の意味でのブランドがいきなり現れるのには、ちょっとした興奮を誘われるものでした。しかし、ここではそんな古くさいブランドは、高級腕時計と「クラシック」との間の単なる導入にすぎません。それに続くのは、まさに「今」のブランドの新鮮な情報です。ヨーロッパやアメリカの都市にライターとフォトグラファーを派遣して今もっとも注目されているオーケストラと指揮者のシーンを伝えてくれているのは、かなりエキサイティングなことです。そこでインタビューに答えている新鮮な指揮者たちは、それぞれに等身大のコメントを寄せてくれています。そこからは、もはやカリスマによって支配されていた時代は完璧に終わってしまっていることが痛感されます。
そんな中にさりげなく埋め込まれた「最新」情報も、要チェック。ベルリン・フィルのオーボエ奏者、アンドレアス・ヴィットマン(茂木大輔のエッセイの中で、一緒にオーディションを受けた時の模様が語られています)は、いつの間にか楽団代表になっていたそうですし、かつての東ベルリンのコンサートホール「シャウシュピールハウス」も、いつの間にか「コンツェルトハウス」と名前を変えていたそうなのです。世の中はどんどん変わっていくものなのですね。もちろん、次のニューヨーク・フィルの音楽監督には、アラン・ギルバートが就任するなどという情報は、決して見逃すわけにはいきません。しかし、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団の音楽監督、トゥガン・ソキエフなんて人、知ってました?
後半は、なぜかローカルな話題となって「街のオーケストラに行こう!」というタイトルで、地方のオーケストラの活動が取り上げられています。その見開きのタイトルページでの「第9」を演奏している写真を見て、思わず目を疑ってしまいました。そう、これは先日行われた仙台版「ラ・フォル・ジュルネ」と言われている「仙台クラシックフェスティバル」、いわゆる「せんくら」での写真ではありませんか。オーケストラは仙台フィル、後ろに立っている合唱団は市民の有志ですが、見覚えのある顔がたくさんあります。こんな晴れがましい場所に仲間たちが顔を出しているなどということがあってもいいのでしょうか。それはともかく、そのページを含め、多くの紙面を割いて「仙台」そして「せんくら」のことが詳細に紹介されているのは、なんとも面はゆいものです。実はこの都市は、「楽都」などと呼ばれて持ち上げられるような資格などなにも持ちあわせていない、文化的には非常に貧しいところなのだということは、そこに住むものだったら誰でも知っているのですからね。なにしろ、まともな音楽ホールとしての公共施設が一つもなかったために、業を煮やした地元の大学が卒業生に寄付を募って、古い講堂を音楽専用ホールに造り替えたというぐらいなのです。そんな実態を伝えることは、この山野さんというライターの能力を遙かに超えているものなのでしょう。そもそも「ライター」とは、「ジャーナリスト」とは似て非なるものなのですから。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-26 20:59 | 書籍 | Comments(0)
Percussion Masterpieces
c0039487_21271156.jpg



Renato Rivolta/
I Percussionisti della Scala
STRADIVARIUS/STR 33816



ミラノのオペラハウス、スカラ座のオーケストラは、ピットに入ってオペラの伴奏をするほかに、「スカラ座フィル」という名前でコンサート活動も行っています。そんな団体の打楽器セクションのメンバーが集まって作られたのが、この「スカラ座の太鼓叩きたち」というアンサンブルです。
クラシックの打楽器アンサンブルというと、なにか暗~いイメージがつきまといませんか?真っ黒なシャツに身を包み、求道者のような姿でうつむき加減にひたすら叩き続ける、といったような。「ストラルブール・ペルクシオーン・アンサンブル」が演奏するクセナキスとか、「ネクサス」というどこかのレーベルみたいな名前(それは「ナクソス」)のグループによるライヒなどは、まさにそんなイメージそのもののような気がしてなりません。
彼らの本拠地スカラ座で行われたコンサートのライブ録音は、そのライヒによる「ドラミング」で始まりました。この、ライヒ初期の大作は全部で4つのパートから出来ていて、続けて演奏するとそれだけで一晩のコンサートが終わってしまうほどの長さを持っていますが、ここではその「パート1」だけが演奏されています。他のパートにはマリンバやピッコロ(打楽器じゃないじゃん!)も加わってある種カラフルな趣もあるのですが、「パート1」で使われるのは「音程のある小さなドラム」だけ、まさにそのタイトル通りのモノクロームの世界が広がるはずです。確かに、ライヒ自身やさっきの「ネクサス」のメンバーによる1974年の初録音(DG)は、この作品のコンセプトであるリズムの位相のズレを精密に追求した、言ってみれば「機械的」で「クール」な肌触りに支配されていたはずです。
しかし、このイタリア人のアンサンブルは、とても同じ曲とは思えないほどの印象を与えてくれます。第一に設定されたテンポの違い、聴いただけではDG盤の倍近くに聞こえるほどの軽やかなテンポで、まずそのアプローチが決して深刻なものではないことを明らかにしてくれます。さらに、ライヒの楽器指定がどのようになっているのかは分かりませんが、時折「楽器」ではなく、「ヴォイス・パーカッション」のようなものが聞こえてくるのも、興味をそそられます。「ドラム」の音さえあれば、なんで出そうが構わないだろうという明るい発想なのでしょう、そこからはいとも新鮮な息吹き(確かに)を聴き取ることが出来ます。
実際のコンサートがどうだったのかは分かりませんが、CDではこの曲が最も新しいもので、演奏が進むにつれて次第にその曲が作られた年代がさかのぼる、という構成になっています。次のチャベスの曲は初めて聴きましたが、鍵盤打楽器によって演奏される12音っぽいフレーズが、妙に郷愁を誘います。続いてのシュトックハウゼンの「ツィクルス」と、ケージの「コンストラクション」という、いわば「古典」でも、どこか弾けた感覚が心地よいものでした。
そして、最後に控えているのが、まさに打楽器アンサンブルの魁とも言うべき、ヴァレーズの「イオニザシオン」です。この曲も、確かにサイレンを使ったりしたユニークさはあるものの、ただやかましいだけのもの、といった印象があったものが、この演奏でまるで異なる風景を見せつけられてしまいました。打楽器だらけの響きの中から、確かに「フレーズ」が、いや、ひょっとしたら「メロディ」が聞こえてきたのですよ。それは、多くの打楽器のつながりの中からごく自然に立ち上がってきたもの、ただのスネアドラムのロールの中にすら、「歌」があるという恐るべきものでした。これはもしかしたら、作られてから70年以上も経って初めてこの作品の真の姿が見えた瞬間だったのかもしれませんよ。おそらく満席だったスカラ座の聴衆の暖かい拍手が、それを物語っているのかも。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-24 21:29 | 現代音楽 | Comments(0)
ALFEYEV/St Matthew Passion
c0039487_2031710.jpg
Evangelist
Soloists
Choir of the State Tretyakov Gallery
Vladimir Fedosseyev/
Tchaikovsky Symphony Orchestra of Moscow Radio
RELIEF/CR991094



2007年3月27日に世界初演されたという、おそらく現時点で最も新しい、生まれたばかりの「マタイ受難曲」です(若い受難曲)。作曲者はロシアのヒラリオン・アルフェイエフという方、なんでも、この方は音楽の勉強をしたあとでロシア正教の大僧正(と言うのでしょうか。英語では「bishop」)になったという、ユニークな人なのだそうです。もちろん、彼の作品がCDになったのも、これが初めてなのでしょう。モスクワ音楽院の大ホールで行われたその世界初演のライブ録音が、このCDです。
CD2枚組、演奏にはまるまる2時間を要するという、まさに大作です。ただ、5人のソリストと混声合唱にオーケストラがつくというクレジットになっていますが、そのオーケストラは弦楽器だけ、他の楽器は入ってはいません。「マタイ福音書」に基づいた、全体が4つの部分に分かれている構成をとっています。
なんと言っても、最新の「現代」曲なわけですから、その作風などは全く予想がつきません。なにしろ、少し前のバッハ・イヤーの時に作られたタン・ドゥンゴリホフグバイドゥーリナの「受難曲」などは、かなりとんがった、ちょっと取っつきにくいものでしたからね。しかし、僧職者でもあるアルフェイエフのことですから、そんなヘンなものはおそらく作らないだろう、という気はしますが。
確かに、この曲はいろいろな意味で親しみやすい仕上がりになっていました。テキストはもちろんロシア語が用いられていて、他の受難曲同様「エヴァンゲリスト」が聖書を朗読する、というスタイルは守られています。そう、これは確かに「朗読」、というか、まさに「お説教」のような、礼拝の時のアナウンスメントそのものだったのです。「読んで」いる人は、歌手ではなく実際に礼拝でそういう役目を与えられる人(英語で「Protodeacon」とあります)、彼は「歌詞」を、全くメロディを付けずに「語って」いるのです。ですから、そのエヴァンゲリストのパートは、殆ど礼拝そのもの、ロシアの聴衆にとってこれほど分かりやすいものもないでしょう。
アルフェイエフという人は、洋の東西を問わず幅広い音楽を身につけた人なのだそうです。そこに彼自身のアイデンティティが加わるのでしょうか、彼が創り出す「音楽」には、なんとも幅広い嗜好が現れることになります。冒頭の合唱などは、オーケストラの低音がひたすら単調なリズム(というか、全くのパルス)を繰り返すという、ほとんど「ヒーリング」の世界。その中で、バッハにも比べられようというほどの重厚なハーモニーで、いかにもロシア的な増音程を持ったメロディが響き渡ります。かと思うと、それこそバッハが取り入れたようなプロテスタントのコラールそのものが、オーケストラで奏される、という場面もしばしば、これなどは「引用」と考えた方がよいのかもしれません。
もちろん、ソリストによる「アリア」も、4つの部分にそれぞれ1曲ずつ用意されています。テノールのソリストは、その他に「レシタティーヴォ」という合唱との掛け合いで出番があるのですが、他の3人はこれ1曲だけが出番という贅沢なもの、それぞれに見せ場のある美しい曲ばかりです。
時折出てくる「フーガ」というパーツが、意表をつかれるものでした。この時代に真面目にフーガを作ろうという作曲家がいるだけでも奇跡、しかしそれはバッハのような厳格なものではなく、限りなくメロウな「なんちゃってフーガ」ではありますが。
そんな華麗なフーガに続いて終曲になだれ込むと、また驚きが待っていました。そのメロディは、ヒーリング界の名曲、カッチーニの「アヴェ・マリア」そのものだったのです。ソリストも一緒になって思いの丈を込めて歌い上げる合唱団、いったい、この受難曲はなんだったのでしょう。同じ年の12月には、「クリスマス・オラトリオ」も同じメンバーで初演されたとか。これもCDになるのでしょうか。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-22 20:06 | 合唱 | Comments(4)
川内萩ホールの音響実験
 今日の「禁断」はちょっと手抜き。お馴染み「萩ホール」では、12月10日に音響実験というものが行われることになっていますが、主催者は予想以上に人数が集まらないので困っているそうです。単に人数を揃えるのではなく、ぜひ音楽関係者、愛好家の方に参加していただきたい、という思いがあるそうなので、ぜひ聴きに行ってみようではありませんか。こちらは、その案内チラシの表側、申込み先(往復ハガキ)などはそちらをご参照下さい。
 そして、今日になってチラシの裏側のテキストが入手出来ました。こちらもお読みになれば、さらに興味が湧くのではないでしょうか。

●東北大学百周年記念会館 川内萩ホールの満席時音響測定へのお誘い
 このたび、東北大学の100周年記念事業の一環として,創立50周年を記念して建設された川内記念講堂を全面的に改装し、極めて高品位の本格的音楽ホール(川内萩ホール)が建設されました。本事業においてその音響設計を担当した当研究室では、満席時におけるホールの音響特性を予測し、それらが全て設計通りの性能を達成していることを確認しております。しかし、ホールの真の響きは予測ではなく実際にホールを満席状態にして測定することでしか明らかにできないものです。そこで今回,仙台市内の多くの皆様にご協力いただきまして、満席状態における音響測定を企画致しました。このような試みは世界的にみてもほとんど行われておらず、学術的に極めて意義深いデータが得られると考えられます。

●音響測定
 川内萩ホールの音響設計を担当した立場からホールの音響特性について解説をした後、今回の音響測定の趣旨を説明させていただいた上で、実際の音響測定を行います。具体的には,皆様に座席にご着席いただき、ステージ上に設置したスピーカから測定用信号を放射座席及びその周辺に設置したマイクロホンによって音を収録という作業が行われます。測定には10分程度の時間を要しますが、正確な測定のために、皆様には測定のあいだ音を生じさせる行為(会話など)をお控えいただく必要がございます。なお、今回の測定でスピーカから出力される音の強さ(耳元で最大80dB)は地下鉄の車両内における騒音(約90dB)よりも小さく、聴力への悪影響のない安全なレベルのものです。

●スペシャルコンサート
 測定後に一流の音楽家お二人をお招きしてのスペシャルコンサートを催し、ご協力いただきました皆様に川内萩ホールの響きを体感していただきます。出演予定者は、ピアニストの野平一郎氏とヴァイオリニストの漆原啓子氏です。お二人とも国内外でご活躍のみなさまおなじみの音楽家です。
 是非、本趣意にご賛同いただいた上でご参加いただければ幸いです。

 ちなみに、曲目はこちらにあります。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-21 20:19 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Requiem
c0039487_19595916.jpg
Ruzanna Lisitsian(Sop), Karina Lisitsian(MS)
Ruben Lisitsian(Ten), Pavel Lisitsian(Bas)
Arvid Jansons/
The Lithuanian State Choir
The Lithuanian RTV Symphony Orchestra
VENEZIA/CDVE 04335



ヤンソンスと言えば、今では息子のマリスの方が有名ですが、1984年に亡くなったその父親のアルヴィドもかつては名声を誇ったものでした。いえ、別に親子の優劣などに、なんの意味もありません(ナンセンス)。そのアルヴィド・ヤンソンスが1976年に残したモーツァルトのレクイエムの放送音源などというものがリリースされました。彼はラトヴィア出身ですが、ここではリトアニアの団体を指揮しています。もちろん、これは初めて世に出たものなのでしょう。当然のことながら、ジュスマイヤー版が使われています。
まず、キリル文字だらけのライナーにたじろいでしまいますが、なにしろまだ「ソ連」時代の録音なのですから、いったいどんな音なのか想像も付きません。しかし、こわごわ聴き始めた割にはそれほどヘンなものではなかったので、まずは一安心。演奏会のライブではなく、放送局のスタジオあたりで録音されたものなのでしょうが、適度な残響があって、合唱もオーケストラも柔らかい響きに包まれています。もちろんステレオで、合唱のパートやソリストの定位などもはっきり分かります。ただ、フォルテシモでは合唱の音が濁ってしまうのは、まあ仕方のないことなのでしょうね。しかし、なぜかバスのソロだけに異様に深い人工的なエコーがかかっているのが気になります。
そのソリスト、4人とも同じラストネームなのも気になりますね。兄弟か、親戚なのでしょうか。あるいは、「リシツィアン」というのは、「松本」や「吉田」などのように、リトアニアではありふれた名前なのでしょうか。肉親にしてはあまりに声の質や歌い方が異なっていますし。ソプラノは伸びやかで素直な声なのですが、アルトは変なビブラートがあってちょっと異質、テノールとバスはまさに「スラブ」風の、あたり構わないおおらかさですから、ソロはともかくアンサンブルになるとかなり悲惨です。
とは言っても、全体の演奏は、予想以上になかなかの高レベルのものでした。特に、合唱がひと味違う渋い魅力を持っていました。考えてみたら、リトアニアと言えば同じバルト三国のエストニアやラトヴィアと並んで、素晴らしい合唱の伝統を持つ国です。この「国立合唱団」も、そんな例に漏れず、独特の深い響きを持ったものでした。ソプラノの暗めの音色には特に惹かれるものがあります。歌い方も、決して大声で爆発するようなことはなく、底の方からじわじわと深いものが迫ってくる、といった、じっくりと訴えかける姿勢が浸透しているようです。
これは、もちろん指揮者のヤンソンスの姿勢との相乗効果なのでしょう。ここで聴くことの出来る彼のスタイルは、あくまで深い内面をえぐり出そうとするもの、その結果、その中には、誰しもがまさに圧倒されるような力を感じないわけにはいかないはずです。基本的に遅めのテンポで終始しているものが、「Rex tremendae」が一般的なもののほぼ倍の遅さで演奏されるあたりから、その尋常でないアプローチは明らかになります。殆ど冗談に近いこのテンポが、合唱のねばり強い声によって必然性を持つのを見るのは、感動的ですらあります。その流れで、やはりスローモーションとなった「Confutatis」と、それに続く「Lacrimosa」は、まさにこの演奏の目指すものが端的に表れた頂点を形作っています。
その「Lacrimosa」、前半の上向音型のクライマックスからは、もしかしたら涙を誘うほどのパッションが感じられるかもしれません。しかし、その後に続くジュスマイヤーの補作を聴くとき、それは到底このテンポには耐えられないものであることも、また感じられてしまうのではないでしょうか。それは、モーツァルトと同時代の作曲家の拙さよりは、モーツァルトに対する過大な思い入れの愚かさこそを、証明しているもののように思えます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-20 20:01 | 合唱 | Comments(2)
MUSSORGSKY/Pictures at an Exhibition
c0039487_23161923.jpg


Peng Peng(Pf)
Leonard Slatkin/
Nashville Symphony Orchestra and Chorus
NAXOS/8.570716



前回はオルガン版の「展覧会の絵」を取り上げましたが、その中でちょっと触れていたスラトキンによる「ごちゃまぜ」バージョンです。実は、あの時には2004年に録音されたBBC交響楽団との録音(WARNER)が念頭にあったのですが、驚いたことに、同じ指揮者によるこんな新録音(2007年)が出たばかりではありませんか。これもなにかの縁、これを紹介しないわけにはいきません。
これは、スラトキンが、全部で15人の作曲家(その中にはアレンジャーや指揮者もいます)が行った「展覧会の絵」の編曲の中から、それぞれの曲を自ら選んで演奏したものです。そんな珍しいものをこんなにたびたび録音するというのは、よっぽどご自分のアイディアが気に入っているのでしょうか。ただ、今回は最初の「プロムナード」だけ別の人の編曲になっている、という、ほんのわずかな違いはありますが。
こういうものを聴くときには、結局ラヴェルによる編曲との比較になってしまうのは、避けられないことなのでしょう。耳慣れたラヴェルのオーケストレーションとの違いが際だつほど、その曲は刺激的に感じられる、というのは、ごく自然なことです。そういう意味で間違いなく面白いのが、以前彼自身の演奏でご紹介したこともあったナウモフによるピアノ協奏曲バージョンです。 ここでは「古い城」が取り上げられていますが、オリジナルには縁もゆかりもないしゃれたフレーズがピアノで軽やかに演奏されているのが素敵です。
ヘンリー・ウッドが編曲した「サミュエル・ゴールデンベルクと、シュムイレ」も、意外性という点からはなかなかのものです。「プロムスの創設者」という彼のイメージからはほど遠いぶっ飛んだアレンジです(実は、これが出来たのはラヴェルより前)。そして、逆に期待を裏切られないのが、ストコフスキーの「バーバ・ヤーガの小屋」でしょうか。いかにもオーケストラの響きを信じ切った、それだからこそスマートさのかけらもないサウンドは、まさにラヴェルの対極に位置するものです。
そして、エンディングを飾るのは、映画音楽なども手がけている編曲家ダグラス・ガムレイによる「キエフの大門」です。「バーバ・ヤーガ」の盛り上がりを一旦チューブラー・ベルやタム・タムによる神秘的なイントロで断ち切ったあとは、まさに意表をつく楽器による新鮮なサウンドが響き渡ります。極めつけは、そんなタム・タムなどに導かれて登場する男声合唱。しっかりロシア語の歌詞が付いていて、まさにこの曲のアイデンティティを味わう思いです。しかし、オルガン(なんとチンケな音)も加わって進むうちに、後半になるとラヴェルそっくりのアレンジになってしまうのはどうしたことでしょう。もうネタが尽きて面倒くさくなったとか。
しかし、そんな風に聞き慣れたものとの違いを感じつつも、このコンピレーションからは、組曲全体としての方向性はまるで見えてはきません。そのあたりが、スラトキンの限界なのでしょう。
ただ、おそらくアンコールなのでしょうか、最後に収録されているロブ・マテスの編曲による「アメリカ国歌」の秀逸さには、参ってしまいました。まるでウェーベルンの点描技法のように、タイトルを知らないで聴いたら全く何の曲だか分からないような混沌としたものから、次第に「国歌」の姿が明らかになってくるのはとてもエキサイティングです。肝心なのは、こういうものをコンサートで聴かされても怒り出したりはしない「アメリカ国民」の懐の深さ、「にっぽん」で「君が代」をこんな風に扱ったら、編曲者や演奏家は投獄されてしまうことでしょう。東北の刑務所に。
そう、これは実はコンサートのライブ録音、前曲のリストでソロを弾いている弱冠15歳のペン・ペンくんの颯爽としたピアノが、このCDの最大の収穫となりました。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-18 23:17 | オーケストラ | Comments(0)
容疑者Xの献身
c0039487_20364585.jpg

 きのうの日曜日、愚妻だけが練習というスケジュールだったため、私はすっぽり予定がなくなってしまいました。そこで、久しぶりに映画館へでも行ってみる気になりました。どのぐらい「久しぶり」だったかというと、ポイントの有効期限が切れる寸前だった、と言うぐらいの久しぶり、ほんと、最近はわざわざ劇場まで映画を見に行く時間なんて、すっかりなくなっています。
 今さら「ポニョ」でもありませんから(まだやってました)、楽しめそうなもの、と、「容疑者Xの献身」を見ることにしました。実は、最近はいつも東野圭吾の文庫本を持って歩いて、時間待ちの時に読むのが習慣になっています。いまいちツメは甘いものの、登場人物の描写がなかなか丁寧で、うっかりしていると感情移入してしまいそうになるほど、気に入ってるものですから。
 この原作は、実はまだ読んではいません。原作を超える映画などというものには「いま、会いにゆきます」以外お目にかかったことがありませんから、おそらくこれはしばらく、そう、この映画の思い出が完全に消え去るまでは読むことはないでしょう。これは、映画としては非常に完成度の高い作品でしたから、わざわざ原作を読んでそれを貶める必要はさらさらないわけでして。
 というのとはちょっと矛盾するのですが、まず原作が非常にしっかりしているな、というのが素直な感想でした。(おそらく)原作に忠実に脚本が出来ているのと、それをいかにもな映画的な編集で崩したりはしていないために、プロットが非常に分かりやすく伝わってくるのですよ。これは、テレビドラマのノウハウがそのまま生かされていた結果なのでしょう。映画としての「表現」を云々する前に、こんな平易なことがクリアされていない作品が、なんと多いことでしょう。基本は最初に犯人と、その手口が分かっているという「コロンボ」タイプのミステリーなのですが、実は最後まで見ている人には決して分からないトリックが潜んでいた、というのがミソでした。これは見事、伏線がちゃんとあったのですが、それ自体には気づいたものの、それがどんな意味を持っていたのか、ついに分かりませんでしたからね。
 キャストの中では、堤真一がさすがでした。「三丁目」からはとても想像出来ない地味~な役作り、正直、最初に出てきた時には全く分かりませんでした。そんなひたすら静かで地味な演技だったものが、最後のどんでん返しのシーンで見せるあの狂気。あのシーンは、実はフォーカスアウトで松雪泰子がフレームインした瞬間から、もう私は号泣モードに入ってしまったぐらい、見事に裏切られ、その結果とんでもないインパクトを与えられてしまいました。こういう思いにさせられるのが、私の場合「良い映画」になるのですよ。
 そして、改めて劇場で見る大画面の迫力にも圧倒されました。いや、ただの迫力ではなく情報量のなんという違い、導入の爆発シーンというサービスカットで、それはまざまざと見せつけられたものでした。そんなハイスペックの中では、主演の福山雅治はちょっとかわいそう。演技はともかく、あのセリフは大画面の中ではもろに拙さがばれてしまいます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-11-17 20:36 | 禁断 | Comments(0)