おやぢの部屋2
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SHOSTAKOVICH/Symphony No.5
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Vladimir Ashkenazy/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD135



合唱曲が専門だと思っていたこのレーベルから、フィルハーモニア管弦楽団の録音がまとめてリリースされました。新しい録音もあるようですが、これは2001年のもの、マルCでは2008年とあったので、ちょっとだまされた気分。それよりも、「東京のサントリーホールで録音」とあるのが、ちょっと気になります。果たせるかな、スタッフのクレジットを見てみると、「Tomoyoshi Ezaki」の名前が。そう、これは日本のEXTONの音源、2001年の12月に国内発売されていたCD(+SACD)と全く同じものでした。カップリングの「祝典序曲」も一緒です。
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OVCL-00058(CD), OVGL-00009(SACD)

ただ、EXTONの方には「サントリーホールにてセッション録音」とあるものが、こちらでは「Recorded live at Suntory Hall」と記載されています。これは、おそらく「ライブ録音」という概念の捉え方の違いなのでしょう。実際はコンサート当日のゲネプロを録音しているのですから、「セッション」には違いないのですが、今では普通「ライブ」と言った時には、本番の録音にそういう素材も加えて編集したものを指しますからね。ちなみに、発売時の「レコ芸」での批評では、宇野先生によって「精神美不足」という意味不明の「宇野語」で一蹴されていましたね。誠心誠意演奏したというのに、あんまりです。
この同じコンビは、実はつい最近来日していました。その模様をテレビで見たら、首席フルート奏者が大好きなケネス・スミスではなく別の人だったので、ちょっとがっかりしたものです。このオーケストラは、ずっと管楽器の首席奏者が一人という体制でしたから、フルートのトップは必ずスミスが吹いている、という安心感があったのですが、さすがにこれだけ忙しいオケで毎回トップを吹くのは辛いものがあるのでしょう(実際、そんな苦境を訴えたドキュメンタリー番組がありました)、今では他のオケのように複数の首席奏者を雇うようになっています。テレビでやったのは、スミスが降り番のコンサートだったのですね。しかし、このCDが録音された2001年にはもちろんフルート・ソロは彼のもの、数々の美しいソロを持つこの曲では、彼のフルートが満喫できることでしょう。
まずは、「祝祭序曲」の、まさにノーテンキなたたずまいに、圧倒されてしまいます。ただ、このあまりの明るさは、続く交響曲のための「伏線」だったのだ、と思いたいものです。確かに、その交響曲では、見せかけだけの華やかさは全く影を潜め、穏やかで思慮深い音楽が広がっていました。
例えば、第1楽章のヴァイオリンに現れるテーマなどは、ことさら悲痛な面持ちを見せることは決してなく、ひたすら無力さを装うことに終始しています。それは、あたかも、人知れずなにかに耐えているようなはかなさを思い起こさせるものです。その後、ひとしきりの高揚感のあとにフルートに現れる同じテーマを、スミスはまるですべてを救済するもののように暖かく慈悲深い音色で吹いてくれています。このような優しい眼差しのことを「精神美」と感じられない評論家は不幸です。
第2楽章で見せる生真面目なリズムには、アシュケナージの飾らない人間性がそのまま反映されているのではないでしょうか。ひねくれたアイロニーの固まりであるこの曲に、あくまで真摯に取り組もうとしている彼の姿勢は、好感が持てます。ここでも、指揮者の思いをはき違えたような、いかにもなコンサートマスターのソロを、優しく受け止めて包み込むのが、それに続くフルートのスミスの役目です。
第3楽章も、最初のフルートの長いソロによって性格がきっちりと印象づけられます。同じテーマが、今度は逆にヴァイオリンによって奏される頃には、もはやすべてが語り尽くされていることを感じるはずです。ここまで出来上がってしまえば、フィナーレは別に小細工を弄さなくても、音楽そのものがすべてを語ってくれることでしょう。
サントリーホールの空っぽの客席に広がったDのユニゾンの残響、それが少し冷たく感じられたのは、そこにはそれを受け止める聴衆がいなかったせいなのかもしれません。

CD Artwork © Signum Records (UK) Octavia Records Inc., Japan
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by jurassic_oyaji | 2008-12-30 19:18 | オーケストラ | Comments(2)
BARTÓK/Bluebeard's Castle
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Katalin Szendrényi(Sop)
Falk Struckmann(Bar)
Eliahu Inbal/
Radio-Sinfonie-Orchestre Frankfurt
DENON/COCO-70998



まだまだ「クレスト1000」は続きます。今回は1992年録音の「青ひげ」です。シュトラウスではありません(それは「青だに」?)。最初に発売されたのは1994年ですが、その時のマスターをそのまま使っているのでしょう、今のCDにはまず見ることの出来ない「インデックス・ナンバー」が付けられています。CDが出来た当初は、普通に頭出しに使う「トラック・ナンバー」の他に、そのトラックをさらに細分化するための「インデックス・ナンバー」というものが付けられていたということを知っている人は、おそらくかなり少なくなってしまったはずです。現在ではそんなものが付いたCDはまず見あたりませんし、そもそもCDプレーヤーがインデックスに対応していませんから、その存在自体がもはや完全に忘れ去られているものなのですからね。ちなみに、「トラック」と「インデックス」という2種類の頭出しを設けたのは、きちんとした曲の間や、はっきりした境目のある楽章間などには「トラック」を、そして、曲や楽章の中の、例えば新しいテーマが現れる部分のような、音楽的に特徴のある部分には「インデックス」を付けるという使い分けが、当初は考えられていたからなのでしょうね。つまり「ここから『展開部』が始まります」みたいな、「曲目解説」に書かれてあることを実際にプレーヤーのディスプレイで表記して、より理解を助けようとする啓蒙的な使い方を目指していたのでしょう。ですから、ここで発売当時のものがそのまま掲載されているライナーにもあるように、インデックスを利用して「楽曲分析」をシンクロさせようという、いかにもクラシック・マニアが喜びそうな機能ではあったわけです。そんな便利なものがなぜ今では廃れてしまったのでしょうね。そんな「お勉強」なんか必要ない、というファン層が広がったからなのでしょうか。
そんな、昔の名残をとどめているかと思うと、このCDには歌詞の対訳を収めたPDFがエキストラ・トラックとして入っているという、最新の仕様にもなっているのが、面白いところです。最近では、このような、ブックレットには収めきれない情報をインターネットで提供するということが広く行われていますが、このようにディスクの中に「同梱」してもらう方がはるかに使いやすくなりますから、これは大歓迎です。
演奏の方では、最初に前口上のナレーションを入れるという、珍しいことを行っています。他にこんなことをやっているのは、聴いたことがあるものではショルティ(DECCA/1979)とブーレーズの2回目(DG/1993)の録音ぐらいのものでしょうか。確かにここでのシャーンドル・ルカーチという人のドラマティックな語りは、聴き手を馴染みのないハンガリー語の世界へと誘うための、とても有効なイントロとなっています。
歌手の方も、ユディット役のセンドレーニはまさに「ネイティヴ・スピーカー」ですから、いとも自然なハンガリー語の抑揚を聴かせてくれています。その上に、力強い声を駆使した幅広い表現力で、とてもドラマティックな世界を作り上げています。このスタンス、ことさらストイックではなく、かといって大げさすぎないもので、よさげ。青ひげのシュトルックマンも、深刻ぶらないおおらかさが魅力的です。
そして、それを支えるインバルのオーケストラが、あるときは陰に徹し、しかし出るべきところでは思い切り主張するという、絶妙のバランスを見せています。「第4の扉」が開いてしばらくしてから現れるフルート・ソロのうまいこと。こんな存在感のあるソロは、この録音で初めて聴くことが出来たような気がします。最大の山場である「第5の扉」のフルトーンは、とてもヌケのよい録音と相まって、最高の爽快感を味わわせてくれています。殆ど気にはならない混濁ですが、前のマスターの使い回しではなく、新たにマスタリングが行われていたら、さらにクリアな音が体験出来たことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-28 20:28 | オペラ | Comments(0)
WIDOR/Symphony No.5 for Organ
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Pierre-Yves Asselin(Org)
DENON/COCO-70993



「クレスト1000」をもう一つ。昔聴き逃していたものを、こうやってまた味わえるのも良いものです。LP時代には、やはり「1000円盤」というのがありましたが、安い分、なんかいい加減なプレスで、買ってから後悔したことがよくありましたね。その点CDになってからは、なんせデジタルですので、いくら安くても音質にはなんの影響もありませんから、安心出来ます・・・と思うでしょう?ところが、実はそうではないのです。それは、ここでも何度となく書いたことなのですが、デジタルで録音したものがそのままCDになることなどは、決してあり得ないのですよ。早い話が、マスタリングの時にケーブルを変えただけで、その音はまるで変わってしまうのですからね。
そんなことなどまだ分からなかった頃、このレーベルのデジタル録音のLPで非常によい音だった福島和夫のフルート作品集(エイトケンの演奏)がCD(COCO-6277)になったので、大いに期待して聴いてみたところ、あまりにもひどい音だったのでがっかりしたことがありました。それは、録音レベルが異様に低く、全体にバックグラウンドノイズが乗っていて、LPが持っていた輝きが全く消えていたのです。今にして思えば、それはいい加減なマスタリングのせいだったのですね。
今回のアイテムに関しては、20年以上前の「これがDENON CDだ」(18CO-1055)というコンピレーションに、1トラックが入っていたものがあったので比較してみましたが、そんな音の良さのデモンストレーションのためのCDよりはるかに良い音だったので安心です。最近は、マスタリングのノウハウも確実にレベルアップしているのでしょう。
このヴィドールのオルガン交響曲、クレジットはありませんが、このCDが録音された1985年当時だと、エンジニアはオルガンの録音にかけては定評のあったピーター・ヴィルモースでしょうか。ここで使われているフランス風のカヴァイエ・コル・オルガンのフワフワした肌触りが、見事にとらえられた素晴らしい録音に仕上がっています。まるでノエルのような可愛らしいテーマがさまざまに変奏される第1楽章では、それぞれの変奏ごとのレジストレーションの変化を存分に楽しむことが出来ますし、何よりも第4楽章に入ったときの、まるで世界が変わったような軽やかな響きには、ショックすら与えられます。
ところが、第5楽章の有名な「トッカータ」になったとき、そんな美しい音に酔いしれているだけでは解決されない問題に直面することになります。このアスランというオルガニストは、音色に対する感覚は非常に鋭いものの、演奏上のテクニックにかなりの問題があることが、このがっちりと作られた曲では露呈されてしまうのです。ピアノではあんなにうまいのに(それは「アムラン」)。何よりも、この曲では一貫したテンポが維持されなければならないのに、手鍵盤のパターンの最後で常に急ぐという変なクセで、とても落ち着きのないものになってしまっています。
ジャケットの写真で分かるように、ここでは「展覧会の絵」から、最後の2曲がカップリングされています。ここでは、そんなオルガニストの欠点が、さらに増幅されます。テンポはさらにいい加減になっていて、全く収拾がつきません。おそらくピアノ版をそのまま演奏しているのでしょうが、最後の「キエフの大門」などは、オルガンで演奏するときには全く必要のない、低音を補強するための前打音をそのまま演奏していますから、ラヴェル版を聴き慣れた耳にはとても異様。さらに、後半のちょっと難しい和音になると、嫌気がさしたような明らかなミスタッチがあちこちで見受けられます。
スタッフのクレジットがなかったのは、そんないい加減な演奏の責任を、誰も取りたがらなかったからなのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-26 22:26 | オルガン | Comments(0)
VIVALDI/4 Concerti for Piccolo & Orchestra
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Hans Wolfgang Dünschede(Pic)
Philharmonia Quartet Berlin
DENON/COCO-70966



かつての日本コロムビアが残した膨大な録音を1枚1000円でご提供するという「クレスト1000」の最新リリース分から、1982年録音のヴィヴァルディのピッコロ協奏曲集です。昔から欲しくてしょうがなかったアイテムなのですが、なぜかいつも、すぐには手に入らない状態にあったものですから、やっと念願が叶いました。元ベルリン・フィルの名手、デュンシェーデの名演を、心ゆくまで楽しむことにしましょうか。今日のクレストの誕生日のプレゼントにもいいかも。
ハンス・ヴォルフガング・デュンシェーデは、カラヤンやアバド時代のベルリン・フィルの中で、まさにピッコロパートの「顔」としての存在感を誇っていました。ひげ面の、まるで熊のような男が、ちっちゃなピッコロを演奏している姿は、ちょっとユーモラス、しかし、「一発勝負」の多いこの仕事を、彼は常に完璧にこなしていました。もちろん本来はフルート奏者ですから、オケのメンバーが作ったアンサンブルの中ではフルートを吹いていました。
実は、彼がピッコロ奏者として一躍有名になったことが、今から10年以上前にありました(いえ、そんな大げさなものではなく、単にマニアの間でウケていただけの話なのですがね)。今では広く知られるようになったベーレンライター版の「第9」が出版されるちょっと前のことですが、アバドとベルリン・フィルの録音で、フィナーレの最後のピッコロのDの音が、1オクターブ高く演奏されている、と、ごく一部の人が大騒ぎを始めたのですよ。その顛末は単行本(金子建志著「交響曲の名曲・1」1997年音楽之友社刊)によってつぶさに検証出来ますが、要するにこの最後のピッコロの音をオクターブ上げるのは、新しく校訂された楽譜に拠ったことなのか、という、今となってはなんとも他愛のない議論です。結局、それはピッコロ奏者の一存によるアド・リブだったということで落ち着くわけですが、その時の「ピッコロ奏者」というのが、まさにこのデュンシェーデだったのです。
確かに「第9」には、作曲された当時の楽器では出せない高い音を、泣く泣く1オクターブ低く書いてあるところがたくさんありますから、現代の楽器で演奏するときにはそれを上げて吹くのはよくあることです。しかし、この「D」というのは、ト音譜表の上に加線を6本付けた音の、さらに1オクターブ上という、ピアノの最高音よりも高い音、プロの奏者でも、これを100%決めるのは至難の技です。それをこともなげに成し遂げたデュンシェーデには、密かに尊敬の念が広がったものです。
ヴィヴァルディの「ピッコロ協奏曲」は、本当はソプラニーノ・リコーダーのために作られたものだ、と言われています。そんな出自を明らかにするかのように、デュンシェーデのピッコロからは、この楽器特有のつんざくような音は影を潜め、そんな素朴な木管楽器そのもののような音色が聞こえてきます。そこに、リコーダーで演奏した時にはおそらく考えられないような、素晴らしい音程が加わった時、そこには完璧なまでの輝かしい世界が広がります。もちろん、テクニックも完璧、両端の楽章の技巧的なパッセージと、真ん中の楽章の叙情的な美しさは、ともに豊かに花開くことになります。中でもRV443のハ長調の曲でのめくるめく超絶技巧は、完成されたもののみが持つオーラに近い輝きを放っています。
ブックレットに載っている録音時の写真を見ると、通奏低音としてモダン・チェンバロが加わっているのが分かります。1982年の時点でも、まだこの楽器が使われていた現場は存在していたのですね。確かに、このピッコロ、そして、他のモダンの弦楽器を支えるのにこの楽器が大きく貢献していることは間違いありません。そう、この微塵の曖昧さもない均質化された演奏は現代に於いてしか完成し得ないヴィヴァルディ、そこからバロック時代の「綾」を感じ取るのは不可能なことです。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-24 20:39 | フルート | Comments(0)
Dietrich Fischer-Dieskau Sings Bach
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Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
HÄNSSLER/CD 94.201



歌曲に、オペラにと大活躍、ある意味一つの時代を築いたと言える、1925年生まれのバリトン歌手フィッシャー・ディースカウ、そんな彼がまだ20代から30代前半だった頃、1953年から1957年にかけての録音が、SWR(南西ドイツ放送)のアーカイヴからCD化されました。もちろん正価で買いましたよ(「ディスカウント」ではありません)。タイトルの通り、それは「バッハ」を歌っているものですが、全てが「大バッハ」ではなく、1曲だけ彼のおじいさん格のヨハン・クリストフ・バッハの作品が混ざっています。もっとも、それは聴いただけでは大バッハと比べての様式的な違和感は殆どありませんから、もしかしたら録音当時は大バッハの作品だと思われていたのかもしれませんね。半世紀前のバッハ、そしてバロック音楽への認識なんて、そんなものだったのでしょう。
そのヨハン・クリストフの作品は「Ach, dass ich Wassers gnug hätte in meinem Haupt」。弦楽器のいかにも重々しいイントロが、この当時の「バッハ」に対する畏敬の念をもろに呼び起こされるようで、聴く方もつい居住まいを正したくなるような気になってしまいます。そのバックで聞こえてくるチェンバロも、なんとも張りのある、まるでピアノのような音色を持ったモダン・チェンバロですから、本当に「くそまじめ」といった趣が募ります。この頃の音楽家には、ヒラヒラしたヒストリカル・チェンバロをバッハで使うなんて、思いも及ばなかったことなのでしょう。そもそも、当時は博物館以外にはそんな楽器は存在してはいませんでしたし。
そして、フィッシャー・ディースカウは、殆ど全身全霊をかけて「神聖」な歌を伝えようと、まるで修行僧のような面持ちでこの曲に向き合っているかのようです。つややかな音色でありながら、深刻この上ないこの人の芸風は、このような修練によって身に付いたものなのでしょうか。その歌は、「音楽」というよりは「お説教」のように聞こえます。
続く、ヨハン・セバスティアンの作品、前半には教会カンタータからのナンバーが並びます。最初は158番全曲(と言っても4曲しかありませんが)、終曲のコラールには、合唱も入っています。ここでももちろんフィッシャー・ディースカウの歌は生真面目そのもの、そしてそれに輪をかけて、この曲でのヴァイオリンのオブリガートが極めつけの格調の高さを演出してくれています。細かい音符が意味する装飾的なテイスト、それが教会やコンサートホールで実体となって聴衆に届けられるようになるには、まだもう少し時間が必要だったという、まさにアーカイヴならではの演奏です。
ところが、同じバッハでも、後半の「シュメッリ歌曲集」になった途端、フィッシャー・ディースカウの音楽はガラリと変わってしまいます。この「歌曲集」は、バッハ作品番号ではBWV439からBWV50769曲に相当する、通奏低音とソプラノ、またはバスのための小さな宗教曲が集められたものです。それらはカンタータのアリアのような大規模な構成を持つものではなく、ほんの内輪の楽しみ(いや、「お祈り」でしょうか)のために歌われるような素朴な曲たちです。中にはバッハが自分で作ったものもありますが、大半はそれまでにあったコラールのようなものに少し手を入れた程度、そこにはごく自然な暖かいメロディがあふれています。そんな曲ですから、フィッシャー・ディースカウは、時代様式などを飛び越えた、まさに現代人としての共感を、その曲の中にしっかり込めてくれました。例えば、ヨハネ受難曲などでお馴染みのキリストの十字架上の言葉をモチーフにした「Es ist vollbracht! Vergiss ja nicht diese WortBWV458でのしみじみとした歌は、この大歌手の心情がストレートに伝わってきて、心を打たれます。
ある時代の様式の中でしか伝わらない魅力と、時代に左右されない普遍性とを併せ持っていたものが、バッハの音楽であったことを教えられるCDです。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-22 20:28 | 歌曲 | Comments(0)
Spellbound
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Sharon Bezaly(Fl)
Mario Venzago/Gothenburg SO
Anne Manson/Swedish Chamber O
Martyn Brabbins/Royal Scottish National O
BIS/CD-1649



確か以前Nordic Spellというタイトルのアルバムを出していたはずの、ベザリーの最新作です。そんな「スペル」シリーズ、前作と同じ、彼女のために作られたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に録音した、というゴージャスなものです。今回はソフィア・グバイドゥーリナ、たかの舞俐、サリー・ビーミッシュという、女性の作曲家ばかりのラインナップである点にもご注目。もはや男は「棄てる」ものなのだとか。
実は、グバイドゥーリナの「The Deceitful Face of Hope and Despair」という作品は、以前こちらでご紹介したものと全く同じ音源です。カップリングを変えての使い回しというほかに、以前はSACDだったものが、ここでは普通のCDになっている、という違いがあります。せっかくですから聴き比べをやってみましたが、その違いは歴然たるものがありました。CDになったとたん、SACDで味わえた立体感が、全く失われてしまっているのが良く分かります。今や、このレーベルの録音はDSDとはいかなくても全てがハイビットPCMレベルの仕様になっているのですから、なぜハイブリッド盤を出さないのか、不思議です。もちろん、このヴァレーズのパクリにすぎない作品には、さらにCDで聴き直すだけの価値など全くありません。
このレーベルから世界に羽ばたいたたかのさんの新作は、師であるリゲティへの思い出として作られました。そこにはいかにもリゲティ風の混沌も見られますが、やはり彼女の本来の資質である他ジャンルからの引用が見事にこなれて散りばめられているのが、心地よい興奮を誘います。3つの楽章に別れている最初の部分「シカゴ」では、なにやら緊張をはらんだ恐ろしげな雰囲気の中から、突然ジャズのイディオムが登場したりと、彼女の感性は健在です。真ん中の部分のタイトルが「The Only Flower in the World」、つまり「世界に一つだけの花」というのは、まさしくそのタイトルの槇原敬之のヒット曲からの借用だということです。とはいっても、あの陳腐でかったるいメロディが登場するわけではなく、その歌詞の持つ世界を音楽的に昇華させたもののようですが。しかし、この明るいワルツの中にそれを感じるのは、かなり困難な気はします。そして、最後の部分は「Walking」というタイトル。彼女なりの意味が込められているのでしょうが、その中で現れる「ウォーキング・ベース」が、最も直接的にそれを語っているのではないでしょうか。
最後の「Callisto」というフルート協奏曲を作ったサリー・ビーミッシュは、エミリー・バイノンが委嘱した作品を、以前に聴いていたはずです。これは、そういう名前の妖精の物語を、4種類のフルート(ピッコロ、普通のフルート、アルト・フルート、バス・フルート)で吹き分ける、という趣向です。色彩的なオーケストレーションも手伝って、この中では最もストレートに楽しめる曲に仕上がっています。中でも、バス・フルートの不気味な響きが、意外なほどのアクセントとなっています。
今の時代、これほどまでに、世界中の作曲家から新曲を託され、それらが直ちにオーケストラを使って録音される機会に恵まれるというフルート奏者など、ベザリー以外には見当たらないのではないでしょうか。そんな「特権」に、彼女は充分に応えているかに見えます。しかし、その中に常に漂う物足りなさのようなものは、一体何なのでしょうか。なによりも、彼女の演奏を通してこの現代のフルート音楽がどんなところを目指しているのかがさっぱり伝わってこないのは、作曲家のせいなのでしょうか。あるいは演奏家のせい?はたまた「レーベル」?
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by jurassic_oyaji | 2008-12-20 20:11 | フルート | Comments(0)
KABALEVSKY/Symphonies 1-4
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大植英次/
NDR Chor
The Choir of Hungarian Radio
NDR Radiophilharmonie
CPO/999 833-2



ドミトリー・カバレフスキーは、同じ「ドミトリー」というファーストネームを持つショスタコーヴィチの生年の2年前、1904年の生まれですから、この2人はほとんど同じ時代を生きた作曲家と言えるのでしょう。同じように潔癖性で(「ゴミトリー」、ね)、同じように体制の中で生き延びるべく作風を模索していても、カバレフスキーの作品にはあちらのような「毒」が込められることはなく、平易な外観を装うことがほとんど地の姿であったようにすら感じられます。
カバレフスキーといえば、まず真っ先に思い出すのは「道化師のギャロップ」ではないでしょうか。そんな曲は知らない、という人でも、実際には必ず生涯に何度かは聴いたことがあるはず、タイトルは忘れられてもその音楽だけは日本人のほとんどの人が知っている、という幸せな曲です。そう、それは、運動会では必ず徒競走などのバックに流れる、あの軽やかな音楽なのですよ。これを聴けば誰でも思わず走り出したくなってしまうという、ほとんど条件反射まで付いてきますね。最近ではそんなシチュエーションで「ライディーン」なども使われているそうですが、YMOと同次元で語られるカバレフスキー、なんだかシュールですね。
そんな「ギャロップ」以外には、おそらくピアノの教材程度しかその作品は知られてはいないでしょうね。しかし、彼には交響曲が4曲残されています。もちろん初めて耳にしたものですが、「ギャロップ」のイメージを裏切らない親しみやすい響きのせいでしょうか、それを収めた2枚のCDはいともすんなり聴き通すことが出来ました。そこには、チャイコフスキーから綿々と受け継がれてきたロシアの交響曲の伝統そのままの、愛すべき楽想と、贅沢で華麗なサウンドがあふれていました。
1932年から1934年にかけて作られた1番から3番までは、長さも20分程度の小規模な「交響曲」です。「1番」は、楽章は2つだけ、ちょっとまとまりに欠けるような感じはしますが、力強く迫ってくるものを押さえきれないほどの、若いエネルギーにあふれた作品です。それが「2番」になると、急-緩-急の3楽章形式となって、古典的な交響曲のようなコンパクトなたたずまいが見られるようになっています。この曲の真ん中の楽章は、とても美しい情緒をたたえたもの、冒頭でフルートによって奏でられるテーマが心にしみますが、それと同じものが最後にクラリネットによって消え入るように歌われるのが、とても素敵です。
「3番」は、実は「2番」よりも先に作られたものなのですが、これには「レーニンへのレクイエム」というサブタイトルが付いています。もちろん、これは「偉大な指導者」レーニンの死を悼んで作られたもので、2つの楽章から成っている後半の楽章には、混声合唱が加わります。第1楽章での深刻ぶった追悼の音楽には、おそらく当時のソ連の国民は涙を誘われたことでしょう。そして、第2楽章の合唱は「いかにも」という音楽です。
「4番」は、それからかなりの年月を経た1956年に完成した、4楽章の堂々とした作品で、演奏時間も倍の40分以上かかります。第3楽章がスケルツォ的な位置づけ、実際にはワルツの優雅さも持っている、しゃれた曲です。テーマの扱いも手慣れたもの、そこにはまさに職人的なエンタテインメントを感じることが出来るでしょう。最後の楽章で多用されるシンコペーションが、この作曲家の軽やかなフットワークを象徴しているかのようです。
ここで演奏しているのは、北ドイツ放送所属の2つのオーケストラのうちでも、ハンブルクのオーケストラほどの知名度はない、ハノーファーの「放送フィル」です。首席指揮者の大植英次のもと、まるでロシアのオーケストラのような力強い金管の叫びを聴かせてくれています。その分、繊細さがやや犠牲になっていると感じられるのは、カバレフスキーのキャラを強調させた結果なのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-18 19:39 | オーケストラ | Comments(0)
C.P.E.BACH/Magnificat
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Monika Mauch(Sop), Matthias Rexroth(Alt)
Hans Jörg Mammel(Ten), Gotthold Schwarz(Bas)
Fritz Näf/
Basler Madrigalisten
L'arpa festante
CARUS/83.412(hybrid SACD)



大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハの作品の新録音です。なんでも、この前の大戦の時にドイツからソ連(当時)に没収されてしまい、長いこと行方不明だった彼の作品の大量の楽譜が、ごく最近キエフで発見されたそうで、それらがどんどん演奏されたり、録音されたりしています。まるで宝の山のように、今まで知られていなかった音楽たちが実際に音になるのですから、これはなかなか興奮しますね。そういえば、父親の大バッハも長いこと忘れられていたものが、ある日突然日の目を見た、という体験を持っていますから、親子してなんか因果な運命に翻弄されているようですね。ただ、父親の場合は、作品と同時にその当時の演奏習慣なども完璧に忘れ去られてしまっていた「時代」に突如「出現」してしまったものですから、ちょっとかわいそうな目には遭ってしまいます。彼が生きていた時代には全く考えられなかったような様式で演奏されるということが、長い年月にわたって続くことになるのですからね。「音楽の父」などと祭り上げられて、およそ彼にはふさわしくないような重々しい演奏がありがたがられるという「時代」は、実はごく最近まで続いていたのです。いや、もしかしたらそれは未だに脈々と生きながらえているのかもしれません。
その点、息子のエマニュエルははるかに幸せでした。こんな彼の失われていた楽譜が「発見」されたのが、楽器や演奏様式を、それが作られた時代に可能な限り近づけるという努力が、豊かに結実したこの時代だったのですからね。「世界初録音」された時点で、それがもっともふさわしいと思われているスタイルで演奏されていた、というのは、聴衆にとっても、作曲家にとってもこれ以上の幸せなことはありません(余談ですが、そういう意味ではモーツァルトあたりが最も「不幸」な作曲家なのではないでしょうか)。
そんなわけで、この「マニフィカート」が、名手揃いのオリジナル楽器のオーケストラと、よく訓練された合唱団、そして、時代的な意味を歌に反映させるすべを心得たソリストたちによって演奏されたものを、なおかつSACDという高い解像度を持つ媒体を通して初めて耳にした時には、この曲はなんと幸せな生い立ちを持ってこの世に生まれてきたのだろうという感慨にふけってしまいました。しばらくの間、この溌剌とした演奏は、耳の奥に残っていることでしょう。
お父さんにも同じタイトルの曲がありますが、息子のものはそれとはまさに一線を画した、新しい時代の息吹を感じさせるものでした。2曲目のソプラノのアリアなどは、途中にカデンツァなども挿入されていて、まさにオペラのアリアのような自由さを持っています。続くテノールのアリアも、技巧の丈を尽くしたコロラトゥーラが、華美に迫ります。そして、「これを聴けばエマニュエル」という独特のハーモニーと節回しにも、なにか安心した気持ちにさせられます。7曲目のアルト(ここでは男声アルト)の美しいメロディの裏で寄り添っているトラヴェルソの柔らかい音色は、何にも代え難いものです。
それと同時に、曲の端はしに何となく父親のモチーフの断片のようなものが感じられるのも、親子の血のなせる業なのでしょうか。それが端的に表れているのが、6曲目の「Deposuit potentes」というアルトとテノールのデュエットです。同じタイトルのテノールによる父親のアリアとは、まるで生き写し、思わずのけぞってしまうことでしょう。その前の「Fecit potentiam」も、どことは言えないものの、よく似た雰囲気を持っています。
最後の曲に大規模なフーガを持ってきたというあたりにも、父親の背中を見て育ったことを感じてしまいます。しかし、そのフーガは父親のものが持つ厳格さとはちょっと異なる、生身の人間の息吹きのようなものを持っていました(いえ、「風雅」とまでは行きませんが)。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-16 23:19 | 合唱 | Comments(0)
MARTÍN y SOLER/Una cosa rara
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Joan Enric Lluna/
Moonwinds
HMC 902010



モーツァルトと同じ頃に活躍していたスペイン出身の作曲家マルティーン・イ・ソレルの作品は、こちらで一度、そのモーツァルトのおまけのようにご紹介したことがありました。その時の曲が「『コサ・ララ』のテーマによるディヴェルティメント」でしたが、今回はその元になったオペラ「コサ・ララ」のハルモニームジークです。当時流行っていたオペラの中の曲を木管合奏の形に編曲して多くの人に聴いてもらうという、録音などなかった時代の大衆伝達のツールが、この「ハルモニームジーク」ですが、そんな編曲を一手に引き受けていた売れっ子アレンジャー、ヨハン・ネポムク・ヴェントが、ここでも編曲を担当しています。
ダ・ポンテの台本による「ウナ・コサ・ララ(椿事)」は、初演の時には、先に上演されていたモーツァルトの「フィガロ」を打ち切りに追いやったほどの人気を博したオペラだったそうですが、現在では全く忘れ去られ、おそらく全曲を録音したCDなども存在していないはずです。ですから、実際にそのオペラを聴くすべのない我々は、まるで18世紀にタイムスリップしたように、この木管合奏のプロモーション版で曲の姿をうかがい知るという体験を味わうことになるのです。
元のバージョンがどの程度のものだったのかは分かりませんが、ここで録音されているものでは、全2幕、18のナンバーから成るオペラ中の、10のナンバーが演奏されています。そこで、6/8(たぶん)の流れるように快活な序曲に続いて、「4番」の「Più bianca di giglio」というアリアが出てくるのですが、これはそれこそ「フィガロの結婚」の中の「恋とはどんなものかしら」と非常によく似たテーマなのには驚かされます。単なる偶然なのか、あるいは故意にパクったのかは知るよしもありませんが、モーツァルトがすかさず次作の「ドン・ジョヴァンニ」でお返しの「引用」を行っているのは、なにかほほえましいというか、子供じみているというか・・・。
その「引用」とは、ご存じ、第2幕フィナーレでの宴会のバンダが、「コサ・ララ」からの「O quanto un sì bel giubilo」というアリアからの旋律を演奏する、というものでした。それを聴いたレポレッロが「ブラヴォー!コサ・ララだ!」と歌うことで、このオペラの存在が今の我々にも認識できる、というシーンでしたね。それは、前回の「ディヴェルティメント」で、同じ旋律がしっかり聞こえてきたことで確認は出来たわけです。それは「前回までのあらすじ」。ところが、その「ディヴェルティメント」には、実はそのアリアの「Aメロ」しか使われていなかったことが、今回のハルモニームジークを聴いて知ることが出来ました。つまり、原曲はその「Aメロ」のあとに、ちょっと暗めの「Bメロ」が続くのですね。そして、そのメロディは、レポレッロが主人の食事の様子を見て「なんて醜い食欲なんだ!」と絶句する部分そのものではありませんか。つまり、「前回」までは、「Aメロ」だけが引用で、その後に続くこのセリフの部分はモーツァルトのオリジナルだと思っていたのが(この絶妙の「暗い」転調は、まさに彼の音楽の本質的なテイストではないでしょうか)、ぜ~んぶマルティーン・イ・ソレルの曲だったなんて。またここでも、過大な「モーツァルト・ブランド」への戒めを味わったような気がします。
7曲目に入っている「Dammi la cara mano」という曲を聴くと、モーツァルトの「お返し」はそれだけでは済まなかったのではないか、というような気にはなりませんか?それは、そのあとの作品「コジ・ファン・トゥッテ」での、フェランドとグリエルモとのデュエットとなんとよく似ていることでしょう。
このようにして、モーツァルトは同じ時代の同業者から、多くのものを「学んで」いたのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-14 19:53 | 室内楽 | Comments(2)
ANDERSON/Orchestral Music 4 & 5
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Kim Criswell(Sop)
William Dazeley(Bar)
Leonard Slatkin/
BBC Concert Orchestra
NAXOS/8.559381/2



ルロイ・アンダーソンの生誕100周年を記念してのスラトキンによるオーケストラ曲全集も、いよいよ大詰めを迎えました。なんとも地味な企画だと思っていたのですが、蓋を開けてみればあちこちで好評を博した大ベストセラーとなってしまいました。やはり、安心して聴いていられる心地よさが、今の時代には密かに求められていたのでしょうか。
この全集のおそらく最後を飾るであろう第4集と第5集(試聴はこちらこちら)は、昨年の9月に録音されました。なんと3日間で2枚分の録音を完了するという、このレーベルならではの早業、しかも、ここでは「歌もの」まで加わっているというのですから、まさに驚異的なセッションです。
そう、今回の2枚はヴォーカルが加わってのヴァラエティあふれるラインナップが、特徴となっています。例えば「そりすべり」のヴォーカル・バージョンなどは、クリスマス・シーズンともなればあちこちで耳にすることになるスタンダード・ナンバーですが、それ以外にも多くの曲に歌詞が付けられて歌われているのですね。第4集では、大ヒット曲「ブルー・タンゴ」のヴォーカル・バージョンなどが楽しめます。そんなものはすでにどこかで聴いたことがあるような気になっていましたが、これがオーケストラ伴奏による世界初録音というのですから、ちょっと意外な気がします。それ以外の「忘れられた夢」と「舞踏会の美女」は、確かに「初録音」という気はしますが。
この第4集は、そんなものも含めてカバー集のような仕上がりになっています。「アイルランド組曲」や「スコットランド組曲」といった、文字通りのトラディショナルの「カバー」の他に、彼自身の過去の作品の改作という、言ってみれば「セルフカバー」である「アルマ・マーテル(我が母校)」が、注目に値します。これは、第3集に収録されていたごく初期(1939年)の「ハーバード・スケッチ」という曲を、1954年に大幅に改訂したものです。自身の学生時代の想い出を描いたほほえましい曲ですが、この2曲を比較して聴いてみると、そのスキルの洗練された課程をまざまざと味わうことが出来ます。図書館のシーンなどは、こちらではSE風に人のしゃべり声なども入っていて、楽しめます。そんな比較が出来るのも、数多くの「初録音」が含まれたこの全集の魅力でしょう。
第5集では、彼の唯一のミュージカル「ゴールディーロックス」が紹介されています。数々のヒット曲をものにしたアンダーソンが、1958年にブロードウェイに進出した時のこの作品、しかし現在ではそれは完全に忘れ去られたものとなっています。おそらく初演時に録音されたオリジナル・キャスト盤に続くことになる、この珍しい曲の録音を聴いてみると、なぜこの作品がヒットしなかったのかが分かるような気がします。アンダーソンの持ち味である気の利いた音楽は、それなりの楽しみは与えてくれるものの、その屈託のない音楽の中にはドラマ性といったものが完璧に欠如しているのです。それは、同じ時期にレナード・バーンスタインとスティーヴン・ソンドハイムという二人の天才によって作られた「ウェスト・サイド・ストーリー」と比較すれば、痛いほど分かることなのではないでしょうか。メインのショーストップである「Shall I Take My Heart and Go」などは、1953年に作られたコール・ポーターの名曲「I Love Paris」に酷似していますし。
そんなリスキーな冒険に手を出さなくとも、アンダーソンの音楽は十分に私たちの心を慰めてくれる力を持っています。この2枚のそれぞれに収録されているクリスマスメドレーを聴くだけで、それは良く分かるはずです。第4集の「クリスマス・フェスティバル」の最後で、壮大なオルガンをバックにして「諸人こぞりて」と「ジングル・ベル」が同時に演奏されるというハチャメチャさこそが、彼の真骨頂なのですから。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-12 20:19 | オーケストラ | Comments(0)