おやぢの部屋2
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DURUFLÉ/Requiem
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Magid El-Bushra(CT), Peter Harvey(Bar)
Mark Chaundy(Ten)
Martin Ford, Richard Pinel(Org)
Bill Ives/
The Choir of Magdalen College, Oxford
HARMONIA MUNDI/HMU 807480(hybrid SACD)



デュリュフレの「レクイエム」には3つの稿が存在していることはこちらで分かります。それは、オリジナルのフル・オーケストラ・バージョン(第1稿)、オルガンだけ(一部にチェロが入りますが)の伴奏によるバージョン(第2稿)、そして、小編成の弦楽器にオルガン、ハープ、トランペットとティンパニが加わったバージョン(第3稿)です。それらの形態が出揃ってから半世紀近くが経過した現在では、録音の数で比べると第2稿>第1稿>第3稿と、オルガン伴奏版が最も多くなっています。確かに、フルオーケストラを使うのは手間とお金がかかりますから、それは納得です。しかし、やはりこの曲ではオルガンだけの伴奏ではちょっと物足りないところが沢山ありますから、本当はオーケストラを使いたい、というのが作曲者の願いだったに違いありません。そこで、その折衷案としてオルガンと室内オーケストラというバージョンも用意したのでしょうが、実際にはオルガン版の三分の一にも満たないCDしかリリースされていないのが現状です。しかも、1994年のNAXOS盤以来、新しい録音も絶えてありませんでしたし。
そんな中での、久々の第3稿による「レクイエム」です。演奏しているのがビル・アイヴスの指揮するオクスフォード・モードレン・カレッジ聖歌隊という、こちらで素晴らしい演奏を披露してくれた団体ですから、色々な意味で期待が膨らみます。
しかし、今回の彼らの演奏には、少なからぬ失望を隠すことは出来ませんでした。なにしろ、「レクイエム」のそもそもの始まりのテナーが、音色は揃わないし、発声は幼稚だし、表現は平板だし、と、なにも良いところがないのですからね。他のパート、成人男声のアルトはしっかりした響きですし、少年だけのトレブルも、少し雑なところはありますが、繊細さは失われていない中にあって、このテノールの拙さは致命的です。やはり、こういう合唱団は入れ替わりが激しいので、年によってはこんな「ハズレ」の時もあるのでしょうか(男声が素晴らしかった時代には、モーモドレンって)。ただ、「ピエ・イエス」でのソロを歌ったカウンター・テノールは、とても立派な声と、素晴らしい表現力を持っていました。
失望したのは、合唱だけではありませんでした。このバージョンのオーケストラは、元の編成の木管楽器やホルンのパーがオルガンに置き換わっているのですが、「生」楽器であるトランペットとオルガンとの間が、完全に乖離して聞こえてくるのです。今まで出ていた6種類の録音では、割と多めの残響などのお陰でそのような違和感がなかったものが、なまじSACDの解像度で聞かされるとそんな編曲の欠点がまざまざと露呈されてしまうのでしょう。いや、あるいは合唱にもう少しの力があったなら、これはそれほど気にはならないものだったのかもしれませんが。
このSACDには、その他に「4つのモテット」と「ミサ・クム・ユビロ」という、良くあるカップリングの他に、オルガンの曲も収録されています。そこで「オルガンのための瞑想」という、キャッチーなイントロを持つ曲が聞こえてきました。そのあとに「クム・ユビロ」が入っているのですが、最後の「アニュス・デイ」のイントロが、その曲と全く同じものだったことに初めて気づきました。デュリュフレは、こんな「使い回し」もしていたのですね。
その「クム・ユビロ」は、オルガン伴奏(これも、最初はオルガンとオーケストラという編成でした)に男声のユニゾンだけという曲です。しかし、この男声も、「レクイエム」同様、とことんだらしないものでした。中でテノールのソロが入る楽章があるのですが、このソリストもちょっと危なっかしい人で、演奏を味わう以前のところで終わってしまっています。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA
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by jurassic_oyaji | 2009-02-28 22:25 | 合唱 | Comments(0)
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか
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川口マーン惠美著
新潮社刊(新潮選書)
ISBN978-4-10-603620-0


まだカラヤン・イヤーだった、去年の秋に出版されたものですが、今ごろ読んでいます。しかし、考えてみれば、今年だって没後20年、カラヤンの呪縛からは今年いっぱいは(10ぐらいまでは)逃れることは出来ません。
このタイトルを見て、以前も同じようなものがあったことには、誰しも気づくことでしょう。それは、1988年に音楽之友社から刊行された「フルトヴェングラーかカラヤンか」という、全く同じタイトルを持つ書籍です。これは、その前年に元ベルリン・フィルのティンパニ奏者、ヴェルナー・テーリヒェンが著した「PAUKENSCHLÄGE - Furtwängler oder Karajan -」を翻訳した際に、原題の後半だけを取って邦題にしたもの、出版当時は極めて過激なカラヤン批判として、ジャーナリズムを賑わせたものでした。なんたって、カラヤン本人はまだご存命だったのですからね。
川口さんがこの本を執筆するにあたって、このテーリヒェンの著作にインスパイアされたことは、想像に難くありません。言ってみれば元祖「フルトヴェングラーかカラヤンか」へのオマージュとして、彼女はテーリヒェンその人を含めたベルリン・フィルの元団員へのインタビューをまとめ上げたのではないでしょうか。
冒頭は、当然そのテーリヒェンへのインタビューから始まります。通常のインタビューと異なるのは、ここではインタビュアーである著者の姿が常に前面に描かれている、という点です。もしかしたら、彼女はここでインタビューという形を借りて彼女自身の変化を描きたかったのでは、と思えるほど、それは生き生きとした描写です。ですから、このテーリヒェンのカラヤン批判に対する彼女のリアクションの方が、読者としては非常に生々しいものに感じられはしないでしょうか。そう、そこではまさに彼女は「カラヤンさんのことをこんなに悪く言う人がいるなんて、信じらんな~い」というブリッコを演じているのです。
しかし、そのあと他の元団員の彼に対するスタンスを経験した後に、再度このティンパニ奏者を訪れたときには、彼女の彼に対する感情は一変しています。「彼は、あの本を書いたことを後悔しているのではないか」という、それはもっと立ち入った思いです。その2ヶ月後に届いた彼の死亡通知、そこで彼女が「遺言を託されたような気がした」とつぶやくシーンは、感動的ですらあります。
「帝国オーケストラ」のDVDにも出演していたハンス・バスティアーンやエーリッヒ・ハルトマンの話など、彼女が元団員から引き出したエピソードは、多くはすでに公になったもので、さほどの新鮮味があるものではありません。カラヤンが作った映像に対する演奏家としての嫌悪感も、やはり別のDVDの中ですでに語られていたものです。しかし、テーリヒェンとまさに敵対していた同業者、オズヴァルト・フォーグナーとのインタビューは、別な意味で興味をそそられるものでした。それは、フォーグナー自身ではなく、彼の妻アンゲラからのコメントです。フォーグナー夫人となる前のアンゲラ・ノルテは、ルフトハンザの客室乗務員だったのですが、彼女はカラヤンの演奏旅行には常に同行させられていた、というのです。「言い寄られたこともあるのよ」と、今ではあっけらかんと語る彼女ですが、そのような(おそらく)特別の感情を抱いていた女性を妻としたティンパニ奏者に、「出来ることなら、すべての演奏会で使いたい」という希望をもったというカラヤンの精神構造は、ぜひとも深く探求してみたいものです。ふつう、こういう場合は逆に辛く当たるものですよね。それとも、カラヤンには、アンゲラを巡って、なにかフォーグナーに負い目でもあったのでしょうか。

Book Artwork © Shinchosya
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by jurassic_oyaji | 2009-02-26 20:14 | 書籍 | Comments(0)
MENDELSSOHN/Choral Works
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Hans-Christoph Rademann/
RIAS Kammerchor
HARMONIA MUNDI/HMC 901992



カラヤンとかフルトヴェングラーのように、オーケストラの音楽監督や首席指揮者というものは、かつてはかなり長期間同じ人が務めていたものでした。しかし、近頃はやたらとその交代のスパンが短くなってはいないでしょうか。ボストン交響楽団や、フィラデルフィア管弦楽団の今の音楽監督が誰なのか、知ってますか?
そんな状況は、合唱団の世界でも同じようですね。最近では、世界中のトップクラスの合唱団の間で、有能な指揮者がほんの数年で他の合唱団に移ってしまうようなことがしょっちゅう起こっているような気がします。例えば、エストニア・フィルハーモニック室内合唱団では、カリュステからヒリアーに代わったのがつい最近のことだと思っていたら、2008年からは以前リアス室内合唱団の芸術監督だったダニエル・ロイスに代わっていたのですからね。そして、そのロイスのポストを継いだのが、ドレスデンなどを中心に活躍、CARUSレーベルに多くの録音を行っているハンス・クリストフ・ラーデマンでした。頭に丼を載せている人ですね(それは「ラーメンマン」)。
その、ラーデマンの元でのリアス室内合唱団の最初の録音が、この、メンデルスゾーンの合唱曲集です。彼が作った無伴奏混声合唱のための世俗曲(ドイツ語では「Lieder」、「歌」という表記です)が、おそらくすべて収録されているアルバムです。もちろん、これは今年のメンデルスゾーン・アニバーサリーに合わせた企画であることは言うまでもありません。
リアス室内合唱団は、以前から確かにハイレベルの合唱団ではありましたが、ラーデマンを迎えてさらにその音楽性に磨きがかかってきました。しっとりとした音色には、まるでいぶし銀のような「渋さ」が加わって、まるで北欧の合唱団のような落ち着きが感じられます(その北欧、例えばスウェーデン放送合唱団あたりは、逆になんだか収まりの悪いサウンドになってきてはいませんか?)。ビブラートは極力抑えられ、ソプラノは決して張り切りすぎずに渋い音色を保っています。そこに他のパートが、見事なまでの融合を見せて、響きとアインザッツとが完全に一つのものになっているという、すべての合唱団が理想として目指しているそんな到達点に、もしかしたら彼らは達しているのかもしれません。以前フランス語のディクションではやや難点があったものも、ここでは母国語、ドイツ語ですから、なんの問題もありません。それどころか、ここで聴かれるドイツ語と旋律線との関わりには、思わず「そうだったのか!」と思わせられるような、完璧なものすら感じさせられます。ちょっとした細かい音符が、見事にその言葉の語感とマッチしているのですね。
メンデルスゾーンの合唱曲といえば、かつては日本の合唱団の定番でもありました。作品48の4曲目「Lerchengesang」などは、「おゝ雲雀」という邦題で、ある年齢以上の人にとっては愛唱曲として親しまれていたものです。作品41の2曲目「Entflieh' mit mir」は、確か吉田秀和先生の手になる「手に手を取り合い、逃げていかないか」という訳詞で歌われてはいなかったでしょうか。扱いやすいきれいなハーモニーと相まって、確かにそれらは合唱の喜びを味わうには最適のものだった時代はありました。
しかし、このような完璧な演奏でドイツ語のテキストが歌われたとき、そこにはそのような平易な合唱曲というイメージ以上のものを誰しもが感じるはずです。メンデルスゾーンが、あくまで機能和声にとどまったホモフォニーの中で作り上げたものは、そこで選ばれた詩の中に描かれた自然の営みなどを表現したとても大きな世界だったのです。ラーデマンと彼の合唱団は、これらの曲を単なる愛唱曲という次元にとどまらない確かなメッセージを持つ作品として、世に送り出していたのではないでしょうか。確かに、ここで聴く「Lerchengesang」には「凄さ」さえ感じられます。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.
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by jurassic_oyaji | 2009-02-24 22:44 | 合唱 | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphonies
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内藤彰/
東京ニューシティ管弦楽団
ALTUS/ALT163


「レコード芸術」という雑誌には多くのCDのレビューが掲載されていますが、中にはメーカーの資料の丸写しに過ぎない提灯記事もありますから用心が必要です。今年の2月号では、そんな提灯記事としてまさにこのCDが紹介されていました。その中で、このCDで用いられているメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」の、別の稿の楽譜の校訂に関してのインタビュー記事が、なんと2004年の「レコード芸術」にも掲載されているとあったのです。実は、この内藤彰さんという指揮者のお名前はごく最近知ったばかり。そんな昔から、大々的なインタビューがこの雑誌に載るほどの知名度があったなんて・・・。
と思いつつ、手元にあったバックナンバーをチェックしてみたら、確かにそんな記事はありました。しかし、それは別に内藤さんのインタビューではなく、その楽譜を校訂した高名な指揮者で音楽学者であるクリストファー・ホグウッドとのものだったのですね。なんという勘違い。確かにもとの記事を良く読めば、それがホグウッドとのインタビューであることはすぐ分かるのですが、そこから内藤さんが巻頭カラーのインタビューを受けているように錯覚させるというのも、こういう提灯記事の書き手の一つの資質なのかもしれませんね。
とにかく、そんな「ロンドン第2稿」という、実際に音になるのはこれが世界で初めてとなる楽譜を使った「フィンガルの洞窟」を皮切りに、メンデルスゾーンの交響曲第3番と第4番(これも、ブライトコプフの新しい楽譜が用いられています)が収められているこのライブCDでは、楽譜以外にも指揮者のこだわりが込められたものになっています。それは、弦楽器が全くビブラートをかけないで演奏して、作曲された当時のスタイルを「忠実に」再現している、という点です。ただ、オーケストラ自体はモダン・オーケストラ、使っている楽器もすべてモダン楽器ですから、「忠実」なのは単にビブラートをかけないという部分だけ、つまり、あのノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団と行っている一連の試みと全く同じスタンスなのですね。確かに、同じ雑誌に載っているこのCDの広告では「日本のノリントン」というフレーズが、大々的に踊っているのを見ることが出来ます。
幸い、そのノリントンが録音した同じ曲もすでにリリースされていますから、「本家」の演奏との比較には事欠きません。この内藤さんの「ノンビブラート奏法」が、ノリントンを超えるものなのか、あるいは単にノリントンの亜流に終わっているのか、そのあたりを検証してみるのはなかなか興味深いところではないでしょうか。
実は、内藤さんの名前を初めて知ったのは、2005年に行われたブルックナーの交響曲第4番の「コースヴェット版」というものの世界初録音ででした。それは、今まで「第3稿」として知られていた、弟子のフェルディナント・レーヴェによる改竄版(実際はレーヴェ以外の人も関わっていたそうです)が、ベンジャミン・コースヴェットという音楽学者によって綿密に校訂されたものが、2004年に「国際ブルックナー協会版」(いわゆるノヴァーク版)として出版されたものだったのですが、それがきっかけとなって、今まで低く見られがちだったこの稿への評価に変化が起こっているのだと言われています。実際に、内藤さんに続いて、オスモ・ヴァンスカとミネソタ管弦楽団も、この稿を使った演奏を行ったという見逃せない情報もありますし。
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しかし、このCD(DELTA/DCCA-0017)を聴き直してみると、ここでの内藤さんは、弦楽器にしっかりビブラートをかけさせています。もちろん、ノリントンは同じ曲(稿は違いますが)でもノン・ビブラート。 ほんの3、4年前は、彼はまだ「日本のノリントン」ではなかったのでしょうね。「日本のノリ弁当」ぐらいでしょうか。

CD Artwork © Tomei Electronics, Delta Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2009-02-22 22:20 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Symphonies 25, 26 & 29
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Jérémie Rhorer/
Le Cercle de l'Harmonie
VIRGIN/50999 234868 2 9



ダムラウのバックでとてもセンスの良い演奏を繰り広げてくれていたジェレミー・ロレルと「ル・セルクル・ド・ラルモニー」が、晴れて独り立ちしたアルバムをリリースしました。前にも書いたように、パートの中心となるメンバーだけが固定されていて、適宜必要なメンバーが集められるという団体のようですが、その分、非常に自由度の高い風通しの良いアンサンブルが実現出来ています。こういうオリジナル楽器のオーケストラでは、そんな、いわば「フリー」な集団の方がフレキシブルなアイディアがどんどんわいてくるのかもしれません。確かに、色んな包み方がありますから(それは「風呂敷」)。
そんなメンバーは、今主流になっているコンサートをそのまま収録するという「ライブ録音」ではなく、フランスの静かな田舎にある古い建物を改修した録音会場に集まり、都会の喧噪から離れた伸び伸びとした環境の中で録音セッションを持ったということです。確かに、この会場の音響がとても素晴らしいことはこのCDを聴いても良く分かります。マイクのセッティングもあるのでしょうが、余計な残響は殆どなく、個々の楽器の持っているテクスチャーが克明にとらえられて、そこからはプレイヤーたちの息づかいまではっきり聞こえてくるような迫力が感じられます。
ここでは1773年、モーツァルトが17歳の時にザルツブルクで作られた3つの交響曲が演奏されています。有名な25番のト短調と、29番のイ長調の間に挟まれて、殆ど聴く機会のない26番があるのが、目を引きます。楽章が3つしかない昔ながらのスタイルの曲ですが、その楽章は続けて演奏されているので、まるでオペラの序曲のように聞こえます。演奏時間も全部で8分ちょっとしかありませんから、まさに「序曲」という意味で使われる「シンフォニア」に相当する曲なのでしょう。事実、モーツァルトは後にこの曲を、劇音楽「エジプトの王タモス」の序曲に転用しています。両端の楽章は変ホ長調ですが、真ん中のゆっくりした楽章がハ短調で作られていて、「悲しみ」を誘うような切々としたメロディがとても魅力的です。後の「フィガロの結婚」の第4幕の冒頭でバルバリーナによって歌われる悲しげなアリアに、とてもよく似たテイストを持っています。それに続く3拍子の軽やかな楽章は、まさにオペラのオープニングを予想させるような明るさです。
メイン(たぶん)の25番と29番とでは、その調性の違いが極めて明確に演奏に反映されていることには、驚きさえ感じられるのではないでしょうか。ト短調交響曲のゴツゴツとした表現、ささくれだったような音色が、同じ演奏家でありながら、イ長調交響曲ではなんともまろやかで暖かいものに変わっているのは、ちょっとすごいことです。それは、もちろん弦楽器の響かせ方から歌わせ方までまるで違えている結果なのでしょうが、もう一つの要因はそもそもの楽器編成の違いにあることにも気づかされます。ト短調交響曲には実はホルンが4本使われていたのですね。ベートーヴェンが3つ目の交響曲で初めて3本(3声部)のホルンを使うまでは、オーケストラでは、ホルンは常に2本しか使われていなかった、というのは殆ど「常識」と化していますが、本当はモーツァルトの時代でもしっかり「4本」使っていたこともあったのです(「グラン・パルティータ」も4本ですね)。この編成を最大限に活用して、ロレルたちは圧倒的なサウンドを作り上げました。第1楽章の再現部の前のホルン4本のクレッシェンド(これはちゃんと楽譜に指示があります)には、思わずびっくりさせられてしまいます。
イ長調交響曲では対照的にフランス人っぽい粋な表現があちこちに見られますよ。最後の最後に出てくるヴァイオリンの上向スケールのディミヌエンドって、とってもおしゃれ。

CD Artwork © EMI Records Ltd/Virgin Classics
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by jurassic_oyaji | 2009-02-20 20:02 | オーケストラ | Comments(0)
NEUKOMM/Requiem
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Jean-Claude Malgoire/
Cantaréunion
Ensemble vocal de l'Ocean Indien
La Grande Écurie et la Chambre du Roy
K617/K617210



1778年にザルツブルクで生まれ、1858年にパリで亡くなった作曲家、指揮者のジギスムント・ノイコムについては、モーツァルトの「レクイエム」の「リオ・デ・ジャネイロ版」というものがCDでリリースされたときに、その名前が紹介されていました。
その時に、そのバージョンを取り上げていたマルゴワールが、今度はノイコムその人の「レクイエム」を、「世界初録音」してくれましたよ。実は、彼の「レクイエム」に関しては、1999年にリリースされた草津音楽祭のライブ録音(CAMERATA)というのがあるのですが、今回はそれとは別の曲、なんでも、彼は全部で4曲の「レクイエム」を残しているのだそうです。
1838年にパリで作られたこの「レクイエム」は、なかなか変わったスタイルを持っています。本来は3声部の「無伴奏同声三部合唱」、つまり、男声三部合唱か女声三部合唱が歌うものとして作られていました。その合唱団は、さらに「1」と「2」という2つのパートに分かれた「二重合唱」の形をとっています。しかし、この「二重合唱」は、別に「マタイ」のように独立して歌われるものではなく、単に人数を増減するだけでダイナミック・レンジを調整するために設けられたものです。
ここには、本来の「レクイエム」の歌詞だけではなく、詩篇からの歌詞を用いた「De profundis」(詩篇130)という楽章が最後に加わります。さらに、この曲は、礼拝だけではなく、棺を運ぶときの「葬送行進曲」もセットになったものとして演奏されています。そこでは、行進の中でやはり詩篇からの「Miserere」(詩篇51)をテキストにした合唱も歌われることになっています。
本編の「レクイエム」の楽譜は、無伴奏合唱と、「アド・リブ」で合唱の声部をなぞったオルガン伴奏が指定されていますが、そこは演奏者の裁量で楽器を重ねることも許されています。ここでマルゴワールがとったのは、その「葬送行進曲」と同じ編成の楽器を加えるという方法でした。それは、コルネット、ホルン、トロンボーン、そしてオフィクレイドという楽器たちです。「オフィクレイド」なんて聞き慣れない名前、今では博物館でしかお目にかかれない楽器ですが、この頃はまだ広く使われていたキーのついた低音金管楽器です。それよりも不思議なのは、ここで指定されている「コルネット」は、正式には「コルネット・ア・ピストン」とクレジットされているもので、普通に「コルネット」といわれて思い浮かべるトランペットによく似た外観の金管楽器なのですが、演奏している写真を見ると、同じ「コルネット」でも、ドイツ語では「ツィンク」と呼ばれている、マウスピースのついたリコーダーのような楽器が使われているのです。ノイコムの時代には、もうこんな楽器は廃れてしまっていたはずなのに。女性下着では使われていましたがね(それは「コルセット」)。
そんな、マルゴワールがこだわった一風変わったサウンドは、しかし、なかなか荘重な響きをもたらしています。なんだかブルックナーを思わせるような新鮮な和声も見え隠れする中で、その金管楽器(+オルガン)だけの前奏は、確かな格調を保っていました。しかし、合唱が出てくると、そんな荘厳さは見事に消え失せ、なんともシロートっぽい世界が広がります。いったい、この合唱団はなんなのでしょう。ジャン・ルイ・タヴァンという合唱指揮者が持っている2つの合唱団の集合体ではあるのですが、そのうちの一つが「インド洋ヴォーカル・アンサンブル」、確かに写真ではアジア系のメンバーが認められる、なんとも怪しげな団体です。それはもう合唱としての体をなしていない、思わず「笑っちゃう」しかないような代物でした。そんな合唱団にかかってしまったら、存命中はあのベートーヴェンよりも高く評価されていたこともあったというノイコムの音楽など、全く伝わってくることはありませんでした。

CD Artwork © K617 France
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by jurassic_oyaji | 2009-02-18 20:18 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Brandenburg Concertos
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Richard Egarr/
Academy of Ancient Music
HARMONIA MUNDI/HMU 807461.62(hybrid SACD)



「アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック」とは、なんとも懐かしい名前です。確か、国内盤では「エンシェント室内管弦楽団」などといういい加減極まりない訳語で呼ばれている団体でしたね。クリストファー・ホグウッドによって1973年に作られたこの「アカデミー」、オリジナル楽器による演奏によって、確かな地平を開拓したまさにエポック・メイキングなオーケストラとして、記憶に残っているものです。1980年頃に行った初のオリジナル楽器によるモーツァルトの交響曲「全集」の録音は、それまでのモーツァルト観を見事に覆す一つの「事件」として、後世に語り継がれていくに違いありません。
しかし、ホグウッドがモダン・オーケストラの指揮者などを始めたあたりから、なんだか音楽シーンからは遠ざかっていったような気がするのは、単なる錯覚でしょうか。正直、この団体はもう消滅したものだとばかり思っていましたよ。しかし、2006年に、ホグウッドは指揮者の権限をリチャード・エガーに完全に委譲します。アンドルー・マンゼとともに数々のスリリングな演奏を世に問うてきたこのチェンバロ奏者の元で、この「アカデミー」はかつての栄光の日々を取り戻しているのでしょうか。事実、このレーベルからは多くの録音をリリース、中にはジョン・タヴナー(指揮はポール・グッドウィン)などの「現代」作品も含まれていますから、さらに広い展開を見せているのでしょう。
今回は有名な「ブランデンブルク協奏曲」に挑戦です。この間アバドのDVDを見たばかりだというのに。
アバドの演奏(いや、単に前に出て動いていた、というだけでしたが)からは、いかにも初々しい瑞々しさが存分に感じられたものですが、こちらは言ってみれば「大人の魅力」でしょうか。それも、分別に満ちた「大人」というわけではなく、もはや死語ですが「ちょいワルおやじ」みたいな不良っぽいところが満載の快演です。
そんな弾けた面が全開なのが、「第1番」でしょう。「コルノ・ダ・カッチャ」という指定の楽器のところに、モダンのロータリー・ホルンを使っていては、いかにそれらしく吹こうがとうていナチュラル・ホルンには太刀打ち出来ないことが、この演奏を聴くと良く分かります。なんたって「狩り」ですからね。思い切り粗野に迫っていただきましょう。他の楽器を押しのけての三連符の、豪快なこと。
そんな中で、「5番」はいかにもおやじの底力、ちょっと真面目になればこんなことぐらい軽くできるんだぜ、という、格調の高さで魅了してくれます。なにしろ、ここで演奏されているトラヴェルソの上品なこと。こういう笛を聴くと、やはりこの間のおばさんは、なにかはき違えているような気がしてなりません。エガーのチェンバロ・ソロも、特別に技巧をひけらかすというものではない、もっと堅実なものが感じられます。それと、全ての曲に、通奏低音としてテオルボやギターが加わっているのが、オシャレ。トゥッティの楽器も1パート1人だけというアンサンブルのスタイルで、メンバー同士のインタープレイにも事欠きません。指揮者がいたのでは絶対出来ないような自由なテンポの動かし方は、とてもエキサイティングです。
「6番」のようの地味な曲でも、そんなスタイルだと、まるでジャズのジャムセッションのように聞こえてくるから不思議です。「次、おまえがソロね」みたいな。実際、最後の楽章の延々と繰り返されるリトルネッロは、うっかりしているとどこが最後か分からなくなりそうなところがありますが、それを、まるでエンディングをドラムスのパターンで決めるのと同じような感じで、エガーのチェンバロが見せるちょっとしたきっかけ、これこそが、まさに「大人」の合奏の醍醐味です(大人の音なのね)。

CD Artwork © Harmonia Mundi USA
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by jurassic_oyaji | 2009-02-16 19:33 | オーケストラ | Comments(0)
合唱団エピス
 愚妻が入った合唱団の定期演奏会に行ってきました。公開ゲネプロや小規模なジョイント・コンサートは聴いたことがありますが、フルサイズのコンサートは、これが初めてのことになります。今まで聴いてきたときに感じていたイメージの全体像が、まさにここに明らかになったという感じ、いやあ、身内がこんな素晴らしい合唱団に入っているなんて、とても誇らしく思えるコンサートでした。
 きのうあたりから、公式HPや、指揮者の早川さんのブログなどで「前売りが完売したため、当日券はありません」という告知があったものですから、これはもしかしたら定員をオーバーするぐらいのお客さんが来てしまうのでは、という懸念がありました。ですから、私もかなり早めにいっておこうと思い、着いたのは開演の1時間以上も前でした。その頃でもロビーにはお客さんらしい人がいましたが、さすがにまだ列を作るところまで入ってはいませんでした。自然発生的に列が出来たのは、ちょうど開演1時間前、そのタイミングで、関係者が出てきてきちんと列を蛇行させたりして整理を始めます。なかなか手慣れたものです。中に入ってみると、実際には、ほぼ満席になったという、ちょうどよい集客でしたね。
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 1ベルが入って陰アナがいつもの携帯電話の注意などを話し始めたとき、まだ開演前だというのに女声のメンバーがステージに整列しました。なにが始まるのかと思ったら、「♪携帯~」という、ユーモラスな曲が始まりましたよ。横に座っていた男性が「もしもし」とか言いながら、最後は「携帯を切らないと、おしおきよ!」という仕掛けです。そういえば、さいしょのウェストミンスター・チャイムといい、途中の「鬼太郎」のテーマといい、愚妻がこっそり練習していましたね。「鬼太郎だね」と聞いたら「松下耕の作品!」と言っただけで、あわてて楽譜を隠していましたから、本番まで知られたくなかったのでしょう。そう、これは人気作曲家松下耕が作ったれっきとした女声合唱曲、「携帯切らなきゃ お仕置きよ! 2007」という作品なのだそうです。結構前からあったもので、これは歌詞を新しくしたバージョンなのだとか。
 一旦退場したメンバーは、本番の開演とともに改めて女声と男声が入場してきます。普通の合唱団や、われわれのようなオケのメンバーもそうですが、入場するときには黙々と歩いてくる、というのが決まった形なのですが、彼(彼女)らは、なんとお客さんに向かって手を振りながら入ってきましたよ。「携帯~」といい、この入り方といい、なにかとても楽しいことが始まりそうな予感です。
 最初のステージは無伴奏の合唱で、夏のコンクールの時の曲+αです。最後の信長貴富の「廃墟から」は、もう何度も聴いているのですが、コンクールの時のある種せっぱ詰まったようなアプローチがちょっと変わってきたような印象がありました。テキストといい作曲技法といい、かなりハードなものには違いないのですが、そこを乗り越えて、確実に「音楽としての楽しさ」が現れてきていたのです。暗い曲想はそのままに、しかし、音楽であるからには必ず感じられるはずの「心地よさ」が、そこにはあったのです。
 後半のステージは、モーツァルトの「レクイエム」です。オーケストラは、在仙のプロの演奏家を集めた臨時編成の団体、ニューフィルにトラで来ていた人なども見かけられます。合唱団の人数は、いつの間にかかなり増えていたので、このオーケストラに隠れてしまうということは全くありません。それどころか、これこそまさに合唱団の定期演奏会という面目躍如、これほど合唱が雄弁な「レクイエム」は、初めて聴いたような気がするほどでした。早川さん(このステージでは燕尾服を着ていましたね)の指揮は、オーケストラはもう全てリハーサルでやり尽くしたという感じでほとんどプレーヤーにお任せ、その代わり、合唱にはいつもの通りの細かい表情を要求する、というものだったのではないでしょうか。正直、合唱のあまりの迫力に、オケがタジタジになっているという場面もありました。
 早川さんが作り上げた「レクイエム」は、陰鬱なところが全くない、とても見晴らしの良いものでした。そこで大切にされていたのは、やはり「心地よさ」ではなかったでしょうか。それぞれのパートの、それぞれのフレーズが、全て同じ方向を向いた主張を持っていた、という恐るべき音楽が、ここでは実現されていました。そして、その方向というのは、単に死者を悼み悲しむための音楽ではなく、その「死」を乗り越えたところにあって欲しい「生」への憧れ、のようなものではなかったでしょうか。例えば、「Lacrimosa」がこんなに明るく聞こえてきたことなど、私にとっては初めての体験でした。
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 アンコールでモーツァルト版の「ハレルヤ・コーラス」が演奏され、全てのプログラムが終了したとき、早川さんがさも名残惜しそうに大きく手を振りながら退場していった姿が忘れられません。それは、オケにも伝染したのでしょうか、チェロのTさんなども手を振りながら退場、もちろん、合唱団のメンバーも、みんな笑顔で手を振っていました。
 ロビーに出てみると、メンバーがステージ衣装のまま「大地讃頌」を歌っていました。どこまで盛り上げてくれるのでしょう。
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 素晴らしい演奏を作り上げるだけではなく、演奏会全体をごく自然に明るく盛り上げるという姿勢、もうすっかり、この合唱団のファンになってしまいましたよ。
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by jurassic_oyaji | 2009-02-15 19:20 | 禁断 | Comments(0)
RACHMANINOV/Symphony No.2
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Lan Shui/
Singapore Symphony Orchestra
BIS/SACD-1712(hybrid SACD)



ラフマニノフの交響曲第2番が好きな人には、良く出会えます。なんとも甘ったるくて軟弱、その道の大先輩ベートーヴェン先生がその中に込めた「厳しさ」や「苦しさ」などはかけらもない、同じ「交響曲」と呼ぶことすらはばかられるような曲なのですが、なぜかファンは多いのですね。ある人は、それを「演歌の魅力」だとおっしゃっていました。なるほど、確かにあのいたずらに飾り立てられた叙情性は、まさに「演歌」の持つ湿っぽさとどこか共通するものがあるのかもしれません。それだったら、日本人の心にストレートに訴えかける力を持っているのも納得です。糸を引く粘っこさもありますし(それは「納豆」)。
この、ムダに長い曲は、かつては作曲者の公認のもとに、多くの冗長な部分をカットして演奏するという慣習がありました。例えば、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団が1951年にそのようなカットを施した楽譜で録音したものをこちらで聴くことが出来ます。この曲を良く知っている人が聴けば、確かに多少の違和感が伴うかもしれませんが、何も知らないで聴いていたらいったいどこをカットしたのか分からずに通り過ぎてしまうかもしれません。これはその程度の曲、1箇所たりとも変えることが許されないほどの確固たる構成感を持っているとされるベートーヴェン先生の作品とは、そもそも勝負にならないのです。
とは言っても、やはり作曲家の書いたとおりのものをきちんと演奏したいという機運は高まってくるもので、1973年にはアンドレ・プレヴィンがロンドン交響楽団と、初めてこの曲をオリジナル通りに演奏したものを録音したのです。そのジャケットにはわざわざ「コンプリート・バージョン」という但し書きがつくほど、それは珍しい試みだったのですね。もちろん、現在ではこの曲にカットを加えて演奏するような不見識な指揮者は、まず見あたりません。
ただ、実はプレヴィンの録音は決して「コンプリート」ではありませんでした。この曲の第1楽章には、古典的な交響曲のように提示部の繰り返しが指定されているのですが、プレヴィンはそこを繰り返さないで演奏しているのです。さすがにそこまでやるのは「長すぎる」と判断したのでしょうか。確かに、ここを繰り返して「コンプリート」を貫いている指揮者は、あまり見かけません。
2008年6月に録音されたという、現時点でもっとも新しいCDをリリースしたラン・シュイ指揮のシンガポール交響楽団は、その繰り返しをしっかり行っていました。実際にそういう演奏を聴くのは初めての体験だったのですが、それによってことさら「長い」と感じることがなかったのは、おそらくカットされたもの聴いても何も感じなかったのと同じ意味を持っているのでしょう。別に長くしようが短くしようが、それが全体の価値に及ぼす影響などはそもそも極めて少ないというのが、この曲なのです。
そんなことよりも、ここで弦セクションが繰り広げているなんとも派手なポルタメントには、辟易とさせられます。なにしろ、マーラーであろうがドビュッシーであろうが、跳躍音型を見つければその間を連続した音で埋めないと気が済まないというのは中国系の人々のアイデンティティのようなものなのでしょうから、いくら「演歌」であっても、これほどまでに粘っこくはないだろうという嫌らしいまでのポルタメントには耐えなければなりません。
ところが、先ほどのオーマンディの半世紀以上前の演奏を聴いてみると、実はこれと同じ程度の「くさい」表現が、頻出しているのにも気づかされます。ひょっとしたら、シュイたちの演奏は、そんなノスタルジックなスタイルへの回帰だったのでしょうか。確かに、SACDでありながらなんとも解像度の低いモヤモヤとした録音は、そんな時代を彷彿とさせるものでした。ですから、SACDモードでの再生は不可能なこちらで聴いてもなんの遜色もありませんよ。

CD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2009-02-14 19:45 | オーケストラ | Comments(0)
PURCELL/Dido & Aeneas
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Sarah Connolly(Dido)
Gerald Finley(Aeneas)
Elizabeth Kenny, Steven Devine/
Choir of the Enlightenment
Orchestra of the Age of Enlightenment
CHANDOS/CHAN 0757



今年はメンデルスゾーンの生誕200年祭ですが、同時にイギリスの作曲家ヘンリー・パーセルの生誕350年という記念の年でもあります。彼の代表作である「ディドとエネアス」というオペラも、さまざまな露出があるのでしょうか。
もちろん、このタイトルは主人公の名前から取られているというごく普通のネーミングです。つまり、ディドというカルタゴの女王と、エネアスという、ガソリンスタンドのような名前の(それは「エネオス」)トロイの王子との愛の物語です。オペラとは言ってもほんの1時間足らずで聞き終えてしまえるという手軽なもの、というか、もともとは女学生が演じるスクール・オペラだったのですね。
最初にこのオペラをCDで聴いたときには、正直そのプロットには付いていけないものがありました。なんとも、話の進み方があらゆる面で唐突なのですよ。なかでも、愛し合っていたはずの美男美女が、別れなければならない動機がさっぱり分からないのには困ってしまいました。もちろん、それはディドを憎む魔法使いのたくらみによる神のお告げという、エネオスにとっては絶対的なものには違いないのですが、そんな子供だましのようなやり方が良く通用したものです。しかも、エネオスは、やっぱりディドの愛の方が神のお告げよりも大事なことに気づいて、ヨリを戻しにやってくるのですが、なぜかディドはそれをはねつけてしまうのですね。さらに、その事を嘆いて自ら命を絶ってしまうというのですから、もはや理解不能な世界です。
しかし、そんな理不尽なお話などは、オペラの世界では日常茶飯事であったことにも、気づくべきでしょう。なんと言っても有名なのは「魔笛」、途中で、今までの善人と悪人の設定が全く逆になってしまうのですから、たまったものではありません。そういうときに必ず出てくるのが、「しかし、モーツァルトの音楽の美しさは、そんな物語の矛盾などを超えたもの」という常套句です。さらに、最近大流行の「読みかえ」演出によって、大概のお話は説明可能なものに変貌させることが可能になっています。ですから、荒唐無稽なお話を、いかに深遠な思想を含んだものに変えるかが、昨今の演出家に課せられた使命だとは言えないでしょうか。ワーグナーの「指環」あたりは、まさにそれにはうってつけの素材と言えるでしょう(もっとも、逆に一層分かりにくくなる場合もありますがね)。
ですから、この「ディド」も、演出家にとっては恰好の題材、まだ見たことはありませんが、ぜひそのうちに映像で見てみたいものです。
そんな、いささか強引な筋の運びなど気にさえしなければ、最後の「ディドの死」という深い憂いをたたえた美しい音楽を味わうために、1時間ちょっとの暇を惜しむことはありません。ここでそれを歌っているサラ・コノリーの、まさに心の琴線に触れる深い歌を、心ゆくまで味わおうではありませんか。
もう一つの楽しみは、魔法使いの歌うおどろおどろしい呪いの歌です。これを最初に聴いたのが、クリスティの指揮によるものだったのですが、その時のキャストはクレマン・ジャヌカン・アンサンブル、となると、この役はドミニク・ヴィスということになりますね。そんな強いインパクトの演奏と比べてしまうと、パトリシア・バードンはいかにもまっとうに聞こえてしまいます。
そんな、クリスティ盤にはなかったような、踊りの音楽が時たま聞こえてくることがあります。これは、最近の研究の成果だとか。「指揮」とクレジットされていて、オーケストラの方向付けをしている、リュートのエリザベス・ケニーと、チェンバロのスティーヴン・デヴァインが中心になった演奏は聞きものです。やはり、オペラにとって重要なのは、物語のプロットではなく、そんなエンタテインメント性なのでしょうか。

CD Artwork © Chandos Records Ltd
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by jurassic_oyaji | 2009-02-12 23:10 | オペラ | Comments(2)