おやぢの部屋2
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JACKSON/Choral Music
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Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION/CDA67708



意欲的な録音の成果を次から次へと届けてくれて、まさに片時も目を離すことの出来ない存在となったレイトンと「ポリフォニー」、彼らによる現代の合唱界の最先端の作曲家たちの紹介には、毎回強い刺激を与えられてばかりいます。雨も防いでくれます(それは「レインコート」)。今回のガブリエル(ゲイブリエル)・ジャクソンも、そんな、期待に背かない作曲家の一人でした。
1962年に英領バミューダで生まれたイギリスの作曲家ジャクソン、写真を見るとスキンヘッドのちょっとおっかない、というか、とても作曲家には見えないような外見です。とは言っても、初めて聴いた彼の作品は、いともすんなりと心の中にしみこんでくる親しみやすさを備えていました。彼自身のライナーのコメントによると、彼の作品は「単純なメロディ、コード、ドローン、オスティナートで出来ている」そうなのです。そこには「中世のテクニックとアイディアへの興味が反映」されているのだ、と。確かにそんな分かりやすいパーツがふんだんに用いられている、という印象は否定できません。しかし、彼が作り出した音楽を聴いていると、彼はそのような原初的な手法の中に、実はもっと根元的な「力」を感じていたのではないか、という思いに駆られます。ヨーロッパの音楽史の中でさまざまな才能が産み出してきた多くの技法によって、あたかも「進化」したかのように見える音楽も、実は「中世のテクニックとアイディア」を超えるものではなかったことに、おそらく彼は気づいてしまったのではないでしょうか。それが最終的には収拾のつかない混沌へと向かってしまった経過を身をもって知ることの出来た年代だからこそ、容易にそのようなスタンスをとることが出来たのかもしれません。
そんな彼の音楽の本質が、レイトンとその合唱団の、とてつもないハイテンションのアプローチによっていともストレートに伝わってきます。ありきたりな美しい「コード」が、決して陳腐には響かずに、その中に言いようのない力が秘められていることを誰しもが感じられるのは、ひとえに彼らのいつもながらの高密度で振幅の大きい熱演のなせる業なのでしょう。
そんな幸福なコラボレーションが見事に結実されたことを実感できるのが、2004年の作品「Ave Maria」ではないでしょうか。有名な聖母マリアをたたえるテキストが、最初はとびきりの柔らかさで甘く迫ってきます。それが後半、とても30人足らずの無伴奏合唱とは思えないような大音響で「Sancta Maria, mater Dei」という言葉が響き渡ると、その渾身の、殆ど「叫び」とも思えるような響きこそが、ジャクソンの作品の持つ「力」であることに気づかされます。と思っていると、次の瞬間に襲ってくる、殆ど静寂と思えるほどの穏やかな風景。この極端なまでの変化によってもたらされる世界の美しさは、まさに筆舌に尽くしがたいものがあります。
2000年の作品「Cecilia Virgo」では、冒頭にちょっと意外な「前衛的」な技法が現れます。しかし、まるでクラスターのような無秩序の世界と思えたものは、実は同じフレーズを時間をずらして重ねたという、それこそタリスあたりが多声部のモテットで使った技法そのものであることに気づきます。またしても、「単純な技法」の勝利です。
アルバムのタイトルとなっている2005年の作品「Not no faceless Angel」にだけは、チェロとフルートの伴奏が入ります。チェロはオブリガートを朗々と歌うとともに、低音でリズミカルなパターンを演奏して、「オスティナート」のシーンを作り出しています。一方のフルートは、かなりオフな音場で合唱にぴったり寄り添ったエコーを奏でます。どこまで行っても、ジャクソンの音楽にはシンプルな素材が満載、しかし、そこから生まれる宇宙はなんという豊穣さをたたえていることでしょう。

CD Artwork © Hyperion Records Limited
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by jurassic_oyaji | 2009-07-31 19:56 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Orchestral Suites for a young prince
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Gonzalo X. Ruiz(Ob)
Monica Huggett/
Ensemble Sonnerie
AVIE/AV 2171



バッハの「管弦楽組曲」、略して「カンクミ」などというノーテンキなネーミングで知られている4つの「組曲」は、成立年台などについて多くの論議を呼んでいる作品です。最近の研究によると現在広く知られているものは後年手が加えられたバージョンで、そもそもの形はケーテン時代、音楽好きだったレオポルド公の宮廷楽団のために作られたものであることが分かってきたそうです。そのような研究の先鋒は、お馴染みアメリカの音楽学者、ジョシュア・リフキンです。このリフキン、名前が知られるようになったのはお掃除用のモップ(それは「ダスキン」)ではなく、それまで人知れず埋もれていたスコット・ジョプリンの「ラグタイム」を世に知らしめたことだったのですが、今ではそれよりも先進的なバッハ研究の第一人者としての方が、通りが良くなってしまいました。彼の最大の功績は、バッハの合唱曲を大人数で歌うことを、ちょっと恥ずかしいものにしてしまったことでしょうか。
リフキンの研究にしたがった形で、2001年に「組曲」の最初の形を再構築、録音してくれたのはジークベルト・ランペでした。その時には、ロ短調からイ短調に変わり、ソロ楽器もフルートではなくヴァイオリンになってしまった「第2番」や、トランペットとティンパニがなくなってしまった「3、4番」には驚かされたものでした。まあ、それが最初の形なのだ、と言われれば、従うしかありません。
そして、その流れをさらに推し進め、「2番」のソロ楽器をオーボエにしたバージョンを提案しているのが、このモニカ・ハジェットたちとのアンサンブルでオーボエを演奏しているゴンサロ・ルイスです。やはりこの曲には管楽器のソロの方が似合っている、と判断したのでしょう。確かに、以前のヴァイオリン版は、あまりにあっさりしすぎていて物足りない面がありました。さらに、元々はオーボエだったものを、より演奏人口が多いフルートのために書き直すという可能性についても、彼は自身のライナーによって詳細に述べています。
そのような「可能性」を議論することよりは、実際に「音」を聴いた方が話はストレートに伝わります。オーボエがソロを取っている世界初録音の「2番」は、果たしてフルート版を超えることは出来るのでしょうか。
まず、「序曲」の中間部での技巧的なソロ楽器の扱いでは、このオーボエの奏でる音型はなんと自然に聞こえてくることでしょう。このフレーズを華やかに仕上げるのはフルートにとってはかなり難しいことなのですが、それを、オーボエはいともたやすく成し遂げてしまっています。「ブーレ」のような細かい音符も、やはりオーボエの方が見事にキャラが立っています。いかにもフルートっぽい装飾だと思っていた「ポロネーズ」もオーボエが吹くことになんの遜色もありません。そして、極めつけは最後の「バティネリ」です。そう、この曲は「バディネリBadinerie」ではなく「バティネリBattinerie」の誤記だったのだ、というのも、ランペやルイスの主張です。今まで「冗談っぽく」とか訳されていたこの舞曲は、それとは全く別の「戦闘的」な意味合いを持った踊りだったのです(こんなことを知らされた世のフルート教師は、困ってしまうことでしょうね)。ですからこのソロの「戦闘ラッパ」的なイメージは、フルートよりはオーボエの方がより似つかわしいのは明白です。
そんなわけで、フルーティストにとっては誠に残念なことですが、この曲はまさにオーボエのために作られたのではないか、という箇所があちこちで見つかってしまいました。完敗です。リフキンたちのおかげで、大人数の合唱団とともに、フルーティストも、この曲をフルートで吹くことの無意味さを噛みしめる時代が来てしまいました。真実を知ることは、必ずしも幸せなことではないのかもしれません。

CD Artwork © Monica Huggett
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by jurassic_oyaji | 2009-07-29 19:50 | オーケストラ | Comments(2)
BARTÓK/Bluebeard's Castle
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Elena Zhidkova(MS)
Willard White(Bas)
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0685(hybrid SACD)



バルトークの「青ひげ公の城」の最新録音、このオペラを演奏するのにこれ以上の人はいないだろうという期待が込められる、ゲルギエフの指揮です。さらに、ソリスト陣がちょっとユニーク、青ひげにはなんとウィラード・ホワイトがキャスティングされていますよ。この人の場合、どうしてもガーシュウィンの「ポーギーとベス」のタイトル・ロールである、いざり(死語?)の老人しか思い浮かばないほど、この役とのつながりが強く感じられるものですから、こんな高貴な城主にはちょっと違和感がありました。ベス、ではなく、ユーディットを歌っているジドコワは初体験ですが、写真を見ると、いにしえのユーロビートの女王、カイリー・ミノーグそっくりのルックスです。この人の場合、外見的にはまさにユーディットそのもの、青ひげが是非ともコレクションに加えたいと思えるような美貌と、見境もなく自らの好奇心を相手に強要するという、愚かさを兼ね備えています。
最初に、普通はこれだけのためのナレーターによって朗読される「前口上」が、ホワイトによって語られているのもユニーク、しかも、それはハンガリー語ではなく、ロンドンの聴衆を意識した英語に翻訳されたテキストです。実は、この翻訳を行ったのはバルトークの息子のピーター・バルトークです。ひところ、レコーディング・エンジニアとして活躍していましたが、今は何をなさっているのでしょうか。まさかDJではないですよね(それは「ピーター・バラカン」)。おそらくこの部分が英語によって録音されたものは、これが最初なのではないでしょうか。「Ladies and gentlemen」というフレーズが何度も出てきて、ハンガリー語では分からない微妙なニュアンスが伝わってきます。ただ、これを青ひげを演じるのと同じ人が語る、というのは、やはりちょっとおかしい気がします。
このレーベルのブックレットには、いつも、その演奏が行われたときのメンバーのリストが添付されています(編成を見れば、バンダの金管やオルガンが入っているので、それが分かります)。それによると、ロンドン交響楽団の弦楽器は16型というフルサイズ、その割には、ストリングスが大きく聞こえてくることはなく、木管楽器がアップで迫ってくるという音場になっています。イギリスのオーケストラらしい、軽くビブラートのかかったクラリネットが、ちょっと怪しげなテイストを加えているのも、こういう録音だと良く分かります。
ゲルギエフの作り出す音楽は、いとも病的で、かつてブーレーズなどがとっていた「ファッショナブルな現代音楽」というスタンスとは対照的なもの、しかし、粘りのあるフレージングとくすんだ音色は、病んでいる時代を反映した、別の意味で「現代的」なものと言えるのかもしれません。したがって、「5つ目の扉」の場面でのオーケストラからは、スペクタクルな快感などは得られるわけもありません。おそらく意識してのことでしょう、歯切れの悪いアインザッツから生まれるなんとも言えない屈折した思いは、まさに疲弊しきった現代社会そのもののように感じられます。
ロシア人であるジドコワであっても、やはりハンガリー語は他国語なのでしょう。「言葉」よりはそのドラマティックな歌によって、そんなゲルギエフを支えているように見えます。あるいは、それは指揮者の思惑とは別の方向を向いてしまったものなのかもしれませんが、彼女の特に低音のちょっとした頼りなさが、はからずも退廃的な色づけに貢献しているように思えてなりません。
ホワイトも、いかにもオペラティックな子音の強調によって、明るさとは無縁の重苦しさを演じています。しかしそれも、ゲルギエフが目指しているものとは少しばかりの距離を置いたもののように感じられます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra
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by jurassic_oyaji | 2009-07-27 19:54 | オペラ | Comments(0)
七夕おどり
 2日連続で、ものすごい雷に見舞われた仙台市です。雷が鳴れば梅雨は明けると言いますが、まだまだそんな気配はありません。もしかしたら、梅雨明けしないうちに東北のお祭りシーズンに突入してしまうのかもしれませんね。
 もちろん、東北の夏祭りと言えば仙台七夕に決まってます。全国から観光客が集まって、とても自分たちの街とは思えないほどの変貌を遂げてしまうこのお祭り、しかし、企業の名前ばかりがでかでかと目立つ吹き流しの中を歩いていると、そこにはいつに変わらぬ懐かしい歌が流れているのですから、ちょっとしたノスタルジーをかき立てられ、このお祭りが細々と昔のままの面影を残していることを感じることが出来ます。その歌というのが、島倉千代子が歌っている「七夕おどり」という曲です。と言ってみても、そんなタイトルなど、今調べてやっとそうなのか、と思ったほどで、曲を作った人やタイトルなども忘れられても人々の間で歌い継がれているという、ほとんど「パブリック・ドメイン」と化した扱いを受けているのではないでしょうか。「PD」であれば、その歌詞をネットで公開してもなんの問題もないはず、ちょっとうろ覚えですが書いてみましょうか。 
♪晴れて楽しい 星空見れば
青葉城下は 笛太鼓 笛太鼓
年に一度の 七夕祭り
キンキンキラキラ お星様も嬉しそう
笹に花咲く 街飾り

 つまり、なにも見なくても即座にこんな歌詞が出てくるというあたりが、「PD」たる所以です(いや、本当は丘灯至夫作詞、遠藤実作曲というれっきとした著作物、著作権協会あたりの関係者がご覧になっていたら、見なかったふりをして下さい)。
 実は、この曲が作られたときに私はすでに物心付いていたものでしたから、まわりの大人たちが「島倉千代子なんて、メランコリックすぎる」とか言っていたことも未だにおぼえています。それこそ学校でもこの曲の「振り」を、全校生徒が学ばさせられたというような思い出も残っています。「振り」って、要するに「盆踊り」ですがね。そう、七夕だけではなく、この曲は町内の盆踊りでのメイン・レパートリーでもあったのです。というか、盆踊りを使ってヘビー・ローテーションを展開しようという、今の音楽業界顔負けのプロモーションが行われて、仙台市民であれば誰1人として知らない人はない、というほどの認知度を確保してしまったのがこの曲なのですよ。今思えば、これはとてつもないことですね。もっとも、「き」で始まるあの曲には到底及びませんが。
 いや、実はそんな「認知度」に乗っかって、この曲を再度ヒットさせようと目論んでいる人たちがいます。島倉千代子のトラックを若手演歌歌手が歌い、それに地元ラッパーがからんでヒップ・ホップに仕上げたという、おぞましいものです。どうせやるなら島倉千代子そのものをサンプリングした方がずっといいと思うのに、わざわざ「新人」に歌わせるあたりに、なんとも露骨な「商売」を感じてしまいます。いや、きちんとオリジナル通りに歌ってさえくれればなんの問題もないのですが、「♪笛太鼓 笛太鼓」を「♪ふえだいこ ふえだいこ」と歌っているのにはがっかりです。罪滅ぼしに、さっきの「き」で始まる曲をヒップ・ホップにしてみたら?そういえば、あの曲の著作権って・・・。
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by jurassic_oyaji | 2009-07-26 20:36 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Flute Concerto No.2 etc.
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André Pepin(Fl)
Ernest Ansermet/
L'Orchestre de la Suisse Romande
DECCA/480 0379



オーストラリアのUNIVERSALから、「エロクェンス」の2枚組シリーズとしてアンセルメの録音が大量にリリースされています。肩こりにはこれ(それは「アンメルツ」)。そんな中で、これはアンセルメにしては非常に珍しいモーツァルト(1曲だけレオポルド・モーツァルト)を集めたものです。殆ど初CD化というレアな音源には、つい手を伸ばしたくなるような魔力が潜んでいました。
最初は、1947年に録音された「交響曲第38番」、当然モノラルです。アンセルメのモーツァルト自体、聴くのは初めてのことでしたが、この時代にありがちな情緒たっぷりなスタイルではなく、もっとサラッとしたある意味スマートなものだったのは、ちょっと意外な気がします。フィナーレなどはかなり速いテンポでアグレッシブに迫ります。逆に、そんな即物的なところが、モーツァルトに関してはあまり魅力的ではないと、当時は判断されて録音も多くはなかったのかもしれませんね。
次がお目当てのニ長調のフルート協奏曲です。これは1957年のステレオ録音です。DECCAとしては最も初期のステレオ録音のはず、ブックレットにオリジナル・アルバムのジャケット写真が載っていますが、まだマーク自体にはステレオをあらわす「ffss」ではなく、モノラル時代の「ffrr」というロゴが残っていて、別のところに「STEREOPHONIC」のロゴが見られるというのが、過渡期を思わせるものです。録音場所も、彼らのそれからの多くの録音で使われることになるヴィクトリア・ホールになっています。ただ、後のスイス・ロマンド・サウンドとはちょっと違った、いかにも高域を強調した安っぽい音なのは、やはり過渡期という感じ。
フルートのソリストは、このオーケストラの首席奏者、1909年生まれのアンドレ・ペパンです。そんな、ちょっと薄っぺらな録音によって、彼のいかにもフランス風の音がさらに軽やかなものに聞こえます。ただ、音楽的にはちょっと余裕のない技巧のせいでしょうか、モーツァルトの持つ軽やかさにはほど遠いものになってしまっています。カデンツァは、この時代の定番ドンジョンが使われています。
1枚目の最後は、1948年の録音で、オーケストラがスイス・ロマンドではなくパリ音楽院管弦楽団という、これも珍しいものです。ジャニーヌ・ミショーというソプラノのソロで、「エクスルターテ・ユビラーテ」全曲。なかなか素直で伸びのある声だと思っていたら、最後の「アレルヤ」でとんでもないコロラトゥーラを披露しているのには、笑うしかありません。
2枚目に入っているのは、13の管楽器のためのセレナーデ「グラン・パルティータ」、これは1955年の録音で、まだモノラルです。しかし、音の「深み」という点では、さっきのフルート協奏曲よりもはるかに充実したものが感じられます。それぞれの楽器がとても生々しい音色で、奏者の息づかいまでもはっきり聴き取ることが出来る素晴らしい録音です。ただ、演奏は後半になるにしたがってどんどん雑になっていくのは困ったものです。それは、明らかにアンセルメが過剰に煽り立てているために、奏者がそれについて行けなくなってしまった結果なのでしょう。最後の曲などは、アンサンブルが完全に破綻しています。
最後に収録されているのが、1968年録音の、レオポルド・モーツァルトのトランペット協奏曲。このあたりになって、やっと聴き慣れたスイス・ロマンド・サウンドが現れてきます。その柔らかな弦楽器の響きはとことん魅力的で、うっとりするようなゴージャスさをたたえています。
そんな素晴らしい録音に慣らされていた人たちが、初めて来日したこのオーケストラの生の音を聴いてがっかりしたことなどは、もはやすっかり忘れ去られている時代だからこそ、こんな珍しい音源が歓迎されるのかもしれません。同時に、CD化されなかったのにはそれなりの理由があったことにも納得させられるのです。

CD Artwork © Universal Music Australia Pty. Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2009-07-25 23:07 | オーケストラ | Comments(0)
The Ring Goes Swing
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Ben Lierhouse(Producer)
Jörg Achim Keller/
hr-Bigband
GATEWAY 4M/3105-2



だいぶ前にParsifal Goes la Habanaというワーグナーとラテン・ジャズを融合させたアルバムを発表したベン・リーハウスのプロジェクトの最新アルバムです。あれから「ハーレム版」とか「フラメンコ版」などを制作、幅広い可能性を模索してきた彼らは、ここでは重厚に「スウィング」で迫ります。「Ring」と「Swing」で韻を踏んでいるところなど、まさにおやぢ好み。
演奏している「hr-Bigband」というのは、「hr(Hessischer Rundfunk)」、つまりフランクフルトにあるヘッセン放送協会所属のジャズ・バンドです。有名なフランクフルト放送交響楽団(正式名称は「hr-Sinfonieorchester」)も、この放送局の所属のクラシックのオーケストラ、こんな風にクラシックの団体と同じレベルでジャズのバンドも持っているのが、ドイツの放送局なのです。日本では考えられませんね。「NHKバンド」とか「読売日本スウィング・オールスターズ」なんてね。
ワーグナーの作品のモチーフを使って、ジャズの曲を作り上げるという手法は別に珍しいものではないのですが、ここでのアレンジを聴くと、単にメロディやフレーズを持ってきた、という以上の、もっと根本的な次元でのワーグナーに対するリスペクトが感じられます。そもそもタイトルからして、ワーグナーのオリジナルのものがそのまま使われていますし。1曲目のジークフリートのあのホルンのモチーフをジャズ・ワルツ風に仕上げた曲などは、そのまんま「Siegfrieds Rheinfahrt」ですからね。もっとすごいのは、「神々の黄昏」のモチーフを多用した2曲目。これには「Zurück vom Ring」というタイトルが付けられていますが、これはご存じの通り、この畢生の大曲の最後の最後にハーゲンによって発せられるセリフなのですからね。
そんな「リング」を「フィーチャー」した曲を聴いていると、これはジャズのイディオムを用いてはいるものの、音楽自体はまさにワーグナーそのものなのではないか、という感慨に行き当たります。確かに、そこからはワルキューレたちの軽やかな動き(3曲目「Die Walkürenritt」や、ラインの乙女たちの歌声(6曲目「Rheingold, Rheingold」)、さらにはミーメの卑屈さ(10曲目「Sieh, Du bist müde von harter Müh」)までもが、元のオペラさながらに眼前に広がってきます。
そこで思い当たるのが、最近の趨勢である演出に於ける「読みかえ」です。ストレッチャーを押しながら走り回るワルキューレといったワーグナーのト書きを完璧に無視したところから始まる「読みかえ」、それを、音楽的に「クラシック」から「ジャズ」に「読みかえ」たものが、これらのナンバーなのではないでしょうか。いくらハチャメチャな演出に変わったとしてもワーグナーのコンセプトは伝わるのと同様、「ジャズ」になっても彼の音楽は揺るぎもしないというのが、すごいところです。
と言うより、こんな共感に満ちた演奏を聴いていると、プロデューサーやアレンジャーのレベルではなく、プレーヤー個人にいたるまで、ワーグナーの作品を日常的に感じる機会がある、と言うのがドイツという国なのではないか、という思いに駆られてしまいます。
ここでは、「リング」以外の作品もとリングられて(取り上げられて)います。それらは、もうちょっと肩の力が抜けた仕上がりになっているでしょうか。ローエングリンの「結婚行進曲」である7曲目「Treulich gefürt」には、なんとあのミュージカルの名作「My Fair Lady」からの、これから結婚式に向かうヒロインの父親が歌う軽妙なナンバー「Get me to the church on time」が粋に挿入されていますし、「オランダ人」の水夫の合唱(9曲目「Steuermann, lass die Wacht」)はパーカッションがたくさん入ってラテン仕立て。この曲の間奏がこれほどラテンのセンス満載だったとは、新鮮な発見でしたよ。
最後、ローエングリンの「In fernen Land」などは軽やかなボサ・ノヴァ。この曲だけにはストリングスも加わり、主人公のゴージャスな品格を醸し出すという演出です。

CD Artwork © more fine music & media GmbH
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by jurassic_oyaji | 2009-07-23 19:20 | ポップス | Comments(0)
BERNSTEIN/West Side Story
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Matt Cavenaugh(Tony)
Josefina Scaglione(Maria)
Nicholas Barasch(Kiddo)
Patrick Vaccariello/
Orchestra
MASTERWORKS BROADWAY/88697-52391-2



ブロードウェイ・ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」は、作られてから50年以上経っていても、未だにミュージカルの古典として世界中で上演され続けています。別のところでレポートしたように、今この時点で「劇団四季」が地方公演の真っ最中、しかも、同じ時期に「本場」ブロードウェイのプロダクションまでが来日して、名古屋や東京で公演を行うというのですから、まさに日本中が「ウェストサイド」一色になっているのです。「メタボ」ほどは騒がれませんが(それは「ウェストサイズ」・・・1回使ったな)。
おそらく、そのブロードウェイ・キャストの来日に合わせて制作されたのが、このCDなのでしょう。録音されたのは2009年の4月、それがもう6月末には輸入盤が手に入る状態になっていたのですから、ものすごい早業ですね。でも、昔からブロードウェイの演目は、初演の何日か後には同じキャストによるレコードが出来ていたといいますから、彼らにとってはなんでもないことなのでしょう。おそらく日本の公演会場でも、このCDが山積みになって、その日の感動を反芻しようというお客さんを待ちかまえていることでしょう。
しかし、1957年のオリジナル・キャスト盤から52年ぶりに作られたこのニュー・ブロードウェイ・キャスト盤は、そんな、ただのお土産以上の価値を持つものでした。
伴奏のオーケストラのメンバーが、すべて記載されているということによって弦楽器はヴァイオリンが7人にチェロが4人という、バーンスタイン(いや、正確にはシド・ラミンとアーウィン・コスタル)のスコアに忠実な人数になっていることが分かります。もちろん、木管楽器も「マルチ・リード」が5人、一人でピッコロからバス・クラリネットまでを持ち代えることが要求されているという、まさにブロードウェイのピットでの編成となっています。弦楽器を増やしたりそれぞれの管楽器を専門の人が吹くという「シンフォニー・オーケストラ」の編成、そしてプレーヤーではないというところに、注目です。ちょっとチープなこのサウンドこそが、まさに劇場で味わえるものなのですから。
もちろん、セリフだけの部分はすべてカットされていますが、それでも音楽の間で語られる必要最小限のセリフは、きちんと収録されています。決闘のシーンの最後に、「マリアーッ!」というトニーの悲痛な叫びが入っている録音なんて、他にはありません。さらに、プエルト・リコのメンバーに極力スペイン語をしゃべらせている、という今回のプロダクションのユニークなところもはっきり分かります。その流れで、マリアとお針子たちが歌う「I Feel Pretty」や、アニタのアリア「A Boy Like That」もスペイン語の歌詞になっています。これが、最後の「Finale」になると、マリアの「Hold my hand and we're halfway there」という歌詞を受けて、なんとトニーがスペイン語で「Llevame para no volver」と歌い、こときれるのです。少なくとも、愛し合う二人の間には国や言語による差別は存在してはいなかったのです。たとえ「劇団四季」であっても、実際にステージを見たことがある人は、そのシーンの記憶と、この言葉の持つ意味によって、間違いなく号泣を誘われることでしょう。
その主役2人は、おそらくしっかりクラシックの教育を受けた人なのでしょう。その卓越した表現力は、かつてのオリジナル・キャスト盤の比ではありません。そしてもう一人、とんでもない逸材が「バレエ・シークェンス」の中の「Somewhere」を歌っていました。そのソプラノは、力強い上にピュアな声、スコアでの名前は「a Girl」という、実際には姿を見せない役なのですが、ブックレットの台本では「Kiddo」とあって男っぽい名前、じつは、このニコラス・バラシュくんはまだ10歳の男の子なんですって。
「お土産」を先に買ってしまったおかげで、東京まで見に行きたくなってしまいました。まだ間に合います。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2009-07-21 19:50 | オペラ | Comments(0)
劇団四季/ウェストサイド物語
 劇団四季の「ウェストサイド物語」を見てきました。だいぶ前に東京での公演を見たことがあったのですが、それが全国ツアーに出ていて、今日は仙台での最終日です。会場は、いつも彼らが使っている県民会館です。
 東京では生オケがピットに入っていましたが、地方公演でしたから当然カラオケです。ただ、PAのスピーカーがやけにちゃちなのが気になります。「携帯電話の電源はお切り下さい」みたいなアナウンスも、なんだかいつもより不明瞭に聞こえますし。
 こういう公共のホールですから、開演前にはホール備え付けの緞帳が下りています。金の糸などが入った豪華なもの、真ん中には蔵王のお釜、下の方には松島と、「宮城県」の観光地があしらわれているという、ご当地ならではのデザインとなっています。まあ、ミュージカルが始まればこれは見えなくなってしまうのですから、別にどうでもいいのですが。
 ところが、場内が真っ暗になって序曲が始まると、この緞帳は下りたままで、そこにカラフルで強烈なライトが当たったではありませんか。この幕開けの照明は東京と同じプラン、映画の印象的なオープニングに呼応したものです。「マンボ」のテーマが始まると真っ赤になったりと、非常にインパクトの強い、まさにこの作品の濃密な内容を予言するようなものなのですが、その強烈な光の中に「蔵王」やら「松島」が浮き上がっているというのは、なんともシュールな光景でした。下の端には「七十七銀行」ですからね。お客さんは、ひとときの間、日常を忘れて殺伐としたニューヨークの下町に身を置きたいと思っているのでしょうが、これでは今住んでいる土地そのまんま、笑うほかはありません。
 しかし、一度幕(つまり緞帳)が開いてさえしまえば、そこには、さっきの東京での公演をはるかに上回るレベルのステージが広がっていたのですから、嬉しくなってしまいます。東京での主役級の人たちの歌のあまりのひどさには、劇団四季そのものへの信頼さえもなくなってしまうほどの憤りをおぼえたものですが、今回は全然違います。まず、トニー役の福井晶一さんが、東京でのキャストとは雲泥の差、きっちり「音楽」を聴かせてくれていましたよ。もともとバリトンなのでしょうから、テノールのトニーを歌うのはちょっと苦しいところもあるのでしょうが、そこはうまく処理をしていましたし。そして、マリア役の高木美果さんは、伸びのある本格的なベル・カント、しかし、オペラ歌手のような過剰なビブラートはありませんから、まさに余裕でミュージカル・ナンバーをこなせる、という人でした。もっとも、この人はお芝居は歌と、そしてダンスほどは得意ではないようで、ちょっとセリフなどにはまだまだと言うところはありますが、おそらく修練次第でもっと上手になる可能性は秘めている、と見ました。
 そんな、音楽的に極めて充実した舞台で、このオリジナル版を見直してみると、例えば映画版では「第一幕」に移ってしまった「Gee, Officer Krupke」が、本来の「第二幕」で歌われるときのテーマの重さを噛みしめることが出来るようになります。映画で見ると、このナンバーは、一警察官への単なるおちゃらけのような「明るい」歌に聞こえてしまいますが、「事件」が起こったあとに歌われるこの曲は、なんという「暗さ」を秘めていることでしょう。
 さらに、映画ではカットされている「Ballet Sequence」も、あの映画が持っているリアリズムの世界には馴染まないものだったことも、とてもよく理解できます。
 初めて気が付いたのですが、ジェット団とシャーク団のスニーカーの色が違っているのですね。「アメ公」のジェッツは全員白、プエルトリカンのシャークスは全員黒なんですよ。映画版を確かめてみたら、これも全く同じ、半世紀近く経って、初めて知ったことでした。
 見ている間中、私の涙腺は緩みっぱなし、そんな、ストレートに人の心を打つために欠かせない完成度を、この公演はしっかり備えていた、ということです。心配だったPAも、逆にうるさすぎないで、とても気持ちのよいものでした。
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by jurassic_oyaji | 2009-07-20 21:23 | 禁断 | Comments(0)
MUSSORGSKY/Pictures at an Exhibition
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Oleg Marshev(Pf)
Jan Wagner/
Odense Symphony Orchestra
DANACORD/DACOCD656



ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、オリジナルのピアノ曲としてよりは、モーリス・ラヴェルが編曲を行ったオーケストラの曲として聴かれることの方がはるかに多いのではないでしょうか。ただ、ラヴェルは、決してムソルグスキーが書いたピアノの楽譜に、そのままオーケストレーションを施したわけではありません。
ムソルグスキーが、友人の画家ガルトマン(「ハルトマン」という表記は誤り)の遺作の展覧会に触発されてピアノ独奏のための組曲を作ったのは1874年のことでした。しかし、楽譜が出版されたのは彼の死後、1886年だったのです。遺品の中からこの曲の楽譜を探し出して出版に尽力したのは、友人のリムスキー・コルサコフでした。ただ、彼はアカデミックな見地から、作曲家の自筆稿をよりノーマルな形に変えて出版してしまったのです。自筆稿にほぼ忠実な、いわゆる「原典版」が出版されるには、パーヴェル・ラムによる校訂(1931年)を待たなければなりませんでした。ラヴェルがクーセヴィツキーの委嘱によってボストン交響楽団のために編曲を行った1922年には、ですから、彼はリムスキー・コルサコフによる改訂版を元にする以外の選択肢はなかったのです。
リムスキー・コルサコフの改訂で最も目に付くのは、「ビドウォBydlo(ポーランド語で、『l』は『エル』ではなくひげが付いた『エウ』です」の冒頭の「pp poco a poco cresc.」という表記でしょう。自筆稿ではここは「ff」、最初からガンガン弾きまくれ、という指示になっています。ですから、「牛車が遠くから近づいてくる」というオーケストラ版で植えつけられているイメージは、作曲家のあずかり知らぬものだったのですね。もう1点、よく分かるのは「サミュエル・ゴールデンベルク」の最後の音、自筆稿は「ド・レ♭・シ♭・シ♭」ですが、リムスキー・コルサコフは「ド・レ♭・ド・シ♭」と変えてしまいました。ただ、この部分は指揮者の裁量で自筆稿の形に直して演奏するのが、最近の潮流のようです。
ただし、ラヴェルにしてもリムスキー・コルサコフ版を忠実にオーケストラ用に移し替えたわけではありません。「サミュエル・ゴールデンベルク」と「リモージュ」の間にあった「プロムナード」をカットしただけではなく、「古い城」の18小節目のあとに1小節加えたり、「殻を付けた雛」のコーダの前の2小節をカットしたりしています。
ピアノ版に関しても、ラムによる「原典版」は、決して自筆稿そのものではありませんでした。1975年に自筆稿のファクシミリが出版されると、それにしたがったさらに精緻な「原典版」も出版されることになります。その最も分かりやすい違いは、「古い城」の15小節目の右手の最後の「ソ♯」の音の長さ、ラム版は八分音符ですが、自筆稿は四分音符です(面白いことに、リムスキー・コルサコフ版は八分音符なのに、ラヴェル版でコール・アングレによって奏されるそのフレーズの頭は、四分音符になっています)。
現在では、この曲を演奏するときにリムスキー・コルサコフ版を使うピアニストはまずいません。例えば1955年のVOXへの録音で、リムスキー・コルサコフ版を使っていたブレンデルは、1987年のPHILIPS盤では原典版を使っています。もちろん、2009年に録音を行ったこのCDのオレグ・マルシェフも原典版。しかし、彼はラム版に準拠した演奏を行っています。キーシンなどは、2001年の録音でも自筆稿に準拠しているというのに。
ピアノ版と一緒にラヴェル版が入っているのがこのCDの特徴ですが、ここで演奏しているジャン・ワグネル指揮のデンマークのオーケストラ、オーデンセ交響楽団は、なんと、ラヴェルがカットした「殻を付けた雛」のコーダ前の2小節を復活しているのです。ストコフスキーの編曲などでは見られるこの形、ラヴェル版で実際に録音しているは、極めてレアなサンプルです。これあ、貴重。

CD Artwork © Donacord
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by jurassic_oyaji | 2009-07-18 20:56 | ピアノ | Comments(2)
DURUFLÉ/Requiem
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Sarah Connolly(MS)
Christopher Maltman(Bar)
Jeremy Filsell(Org)
Jeremy Backhouse/
Vasari Singers
SIGNUM/SIGCD163



2008年2月に録音されたという、アイヴス盤に次いで新しいデュリュフレの「レクイエム」です。実は今、同じ曲の別の録音を注文しているところ、もはやこの曲はすっかり「名曲」の仲間入りをしてしまいましたね。実際、最近では、よりポピュラーだったはずのフォーレの同名曲よりもはるかに新録音が多いような気がしませんか?
つまり、かつては安直に、この兄弟のような2つの作品をカップリングしたアルバムが多かったものですが、このところそういう企画にはあまりお目にかかれない、ということにもなるのでしょう。たいがいはデュリュフレの他の合唱曲との同梱が多い中にあって、ここではジャン・ジャック・グリュネンワルドという初めて聞く名前の作曲家の作品が収められている、というのがユニークなところです。
デュリュフレが生まれた1902年の9年後、1911年ににアルプスの麓の街アルシーのそばのクラン・グブリエというところで生まれたグリュネンワルドは、オルガニストであり作曲家であったという点で、まさにデュリュフレとの共通点を持つ彼と同時代の音楽家です。作品がオルガン曲と合唱曲がメイン、という点でも共通していますが、グリュネンワルドの場合、1940年台から50年台にかけて多くの映画音楽(たとえば、1957年の「怪盗ルパン」)を作った、というところはやはり別の個性です。さらに、彼の場合建築家としての一面もあったそうです。もっとも、クセナキスやベートーヴェン(「大工」って・・・)のようにそれが音楽に反映されるということはなかったようですが。
グリュネンワルドの作品、最初はデュリュフレの「4つのモテット」でお馴染みの「Tu es Petrus」です。しかし、それはデュリュフレのような素朴な無伴奏合唱曲ではなく、壮大で華麗なオルガンの伴奏に導かれるものでした。このオルガンの色彩感は、やはり同時代のメシアンにも通じるところがあるような豊かで技巧的なものです。それに対して合唱は、あくまで単旋律を重んじたモーダルなもの、このあたりはデュリュフレとよく似たセンスでしょうね。
続いて、タイトルでは詩篇の「129番」となっていますが、一般的には「130番」の方が通りの良い「深き淵より」に基づく、本来はオーケストラ伴奏による大作が、ここではオルガン伴奏で歌われます。3つの曲から成っていて、最後の部分では詩篇ではなく、「死者のためのミサ曲」の冒頭のテキストが用いられています。これは、感動的なほど繊細な持ち味の曲、華やかさは影を潜めた、シンプルなメロディに乗った深い「祈り」の音楽です。
そして、デュリュフレの「レクイエム」。ここまで聴いてきた中で、フィルセルのとても雄弁なオルガンと、ヴァサリ・シンガーズのフランス風の匂いがむんむんという粋な合唱が印象的だったのですが、それはこの曲でも最大限に生かされていました。男声と女声の絡みなどは、かの作曲者の自作自演盤を彷彿とさせる微妙なローカリティまでも感じさせてくれます。録音があまりクリアではない分、言いようのない猥雑な雰囲気が漂っているのと同時に、激情を吐露する部分でも決して声高になることはないという、この曲に求められるものはすべて備えているような感じすら抱かせられます。
ところが、そんな夢のような気分にしばらく浸っていたころ、「Sanctus」あたりでしょうか、いきなりなんとも無気力なテナーのパートが聞こえてきました。それは、今までの美しい世界をぶちこわすほどの負の力を持つものでした。この合唱団、そんないい加減な団体ではなかったはずなのですが、とんだところで馬脚をあらわしたものです。
それに続く「Pie Jesu」も、失望感を募らせるには充分なものでした。サラ・コノリー自体には常に共感を抱いていたものでしたが、この曲を歌うには彼女の声はあまりに立派すぎます。もちろん、それはあくまで私の個人的な物差し、他の人に強要するつもりなど毛頭ありません。

CD Artwork © Signum Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2009-07-16 20:32 | 合唱 | Comments(0)