おやぢの部屋2
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Dances et Divertissements
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Stephen Hough(Pf)
Berlin Philharmonic Wind Quintet
BIS/SACD-1532(hybrid SACD)



ベルリン・フィルのメンバーが結成した木管五重奏のアンサンブル、「ベルリン・フィル木管五重奏団(まんまですね)」は、首席奏者ではなく、2番やピッコロ、Esクラリネットなどをもっぱら担当している奏者が集まったグループです。1988年に結成されてから今まで一人としてメンバーが変わらずにやってきたという、オーケストラが母体にしてはかなり珍しい団体です。なんでも、彼らはベルリン・フィルのメンバーとしては初めての、永続的な木管五重奏団なのだそうです。そういえば、かつてゴールウェイなど首席級が集まった短命の「木五」も有りましたね。
ただ、なんと言ってもベルリン・フィルですから、メンバーはここでは2番でもよそへ行けば充分に首席として通用するような人ばかりです。現に、フルートのハーゼルやオーボエのヴィットマンは、一時期バイロイトのピットでは首席奏者を務めていました。
結成当時と今のメンバーの写真、変わっていないはずなのに、ずいぶん変わっていますね。なんせ20年ですからね。ハーゼルなどは、いったい何があったのでしょう。
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彼らはBISからコンスタントに「木五」、あるいはそれに他の楽器が加わったレパートリーをリリースしてきました。言ってみれば地味な、それこそ管楽器に関わっている人しか聴かないような曲目を、淡々と録音し続けて来たメンバーと、それを支えたレーベルの姿勢は貴重です。かつて、ベルリン・フィルとウィーン・フィルのメンバーで結成された「木五」が、人気取りのためについ編曲ものなどの安易な道へ流れていったのとは対照的な地道な歩みです。
今回は、ゲストにピアノのスティーヴン・ハフを迎えて、プーランクの六重奏曲などフランスの作品を演奏しています。アルバムタイトルは、このプーランクの曲の第2楽章と、アンリ・トマジの作品のタイトルから取られたものです。いかにも瀟洒なたたずまいのフランスの室内楽、それを、このドイツの団体はどのようにこなしているのでしょう。
まずは、現代のフルーティストのスクールの先駆けともいうべきポール・タファネルの木管五重奏曲です。きっちりとしたアンサンブルを要求される、フランスものにしては堅めの構成の曲、これは、もう20年も一緒にやっているメンバーにとってはまさに格好のレパートリーなのでしょう。トゥッティとソロの使い分けを見事に演じ、余裕すら感じられるものでした。最後の最後に登場するちょっとユーモラスな「仕掛け」も、しっかりサプライズらしい演出です。
プーランクの六重奏曲では、ピアノのハフのダイナミックな突っ込みに、他のメンバーがしっかり同調して、かなりのハイテンションな仕上がりです(「ハフ、ハフ」って)。ただ、迫力はあるものの、その分軽やかさがほんの少し稀薄になっているような印象は避けられません。かっちりしたアンサンブルを超えたところでの愉悦感(まさに「Divertissements」)が欲しいところでしょう。
ジョリヴェの「木管五重奏のためのセレナード」は、フランスものとはいってもこの作曲家ならではの不思議な旋法を中心とした音楽ですから、彼らの緻密なアプローチは良い方に作用しています。オーボエのヴィットマンのソロは、そんな非ヨーロッパ的な世界を見事にあらわしています。それを受けるフルートのハーゼルも、なかなかのものを聴かせてくれます。
最後は、トマジの「5つの世俗的な舞曲と神聖な舞曲」。それぞれの「Dance」を的確なリズム感で処理しているアンサンブルの能力には、まさに舌を巻く思いです。たった5つの楽器なのに、そこから生まれるダイナミック・レンジの広さは驚異的。
正直、今までのアルバムでは地味な印象があったものが、ここに来て一皮むけた華やかさのようなものも感じることが出来ました。やはり、気心が知れた仲間との切磋琢磨は、成熟のための最良の方法なのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2009-09-30 21:02 | 室内楽 | Comments(0)
合唱コンクール東北大会
 先週の週末は、一泊で秋田に行ってきました。秋田なんて、学生時代に合唱団の演奏旅行でいったきり、もちろんその頃は新幹線なんてありませんから、ずいぶん遠くまで行ってきたような記憶があります。ですから、その初めての「秋田新幹線」に乗るのが、一つの楽しみでした。いや、厳密には「東京までの秋田新幹線」には、何度も乗っています。つまり、「東北新幹線」と呼ばれている「はやて」の後ろには、いつでも6両ほどの「秋田新幹線」がくっついていて、「はやて」が満席の時にはこの「こまち」に乗って東京まで行くことも良くあったのです。しかし、今回は「秋田までの秋田新幹線」という、文字通り初体験となります。ちょっと興奮しますね。
 仙台から盛岡までの車窓からは、よくこのあたりを車で走っていたときに見えた景色が反対の立場で見えていました。そして、いよいよそこから東北新幹線に別れを告げて、秋田方面の線路となります。話には聞いていましたが、これは「ミニ新幹線」という中途半端なタイプのもので、盛岡までは正規の新幹線のスペックなのですが、そこから先はなんと在来線と同じものになってしまうのですよ。ですから、まわりの景色はぐっと近くに寄ってきて、刈り取りが始まっている田んぼなどは、すぐ目の前に迫ってきます。しかも、この線路はそれこそ昔秋田に行ったときに乗った田沢湖線そのものですから、単線、途中で車両のすれ違いのために乗り降りのない駅で停車する、などという、およそ「新幹線」とは思えないようなローカルなたたずまいです。
 このけったいな新幹線のとどめは、秋田の一つ前、大曲駅を出るときでした。なんと、そこからは車両全体が後ろ向きに走り出したのですよ。まるで、この間東京で乗った東急世田谷線のようなものですね。いや、これは6両全体の座席が全て後ろを向いているのですから、なんとも異様です。車内の表示では、「座席を回転させても結構です」などと出ていますが、そんなことをしたら後ろにいた見知らぬ人と「ご対面」しなければなりませんしね。この指示は、全ての人が回転させることが前提になっているのでしょう。
 後ろ向きに到着した秋田駅は、なんだかとてもおしゃれな建物になっていました。改札を出てすぐのところに立っていたのが、この竿灯です。まさに秋田の象徴ですね。もう少し先には、なんと「生あきたこまち」があの扮装で立っていて、チラシかなんかを配っていましたよ。
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 同じ新幹線で、同じ合唱団の同じパートの人だけが、なんと4人も乗っていたことがその時点で判明、土地勘のありそうな人を先頭にホテルまで歩きます。会場のある千秋公園の前を通ってしばらく行くと、とても道幅の広い通りに出ました。ここがよくテレビに出てくる竿灯の会場なのですね。なんだか、そんな夏祭りのためだけに作ったのではないか、と思えるほど、走っている車が少なかったのが、いかにも秋田。途中で、その日の練習会場が見える、と、その土地勘さんが言うので広~い道路の反対側を見てみたのですが、そんな「なんとかセンター」みたいな建物は見当たりません。いや、確かにそこにあることはあったのですが、近くに行かなければ分からないような、個人住宅のようなところでした。
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 次の日は、午前中はなんの予定もなかったので、今回の目的地、こんなお堀端にある秋田県民会館へ歩いて向かいます。コンクールの東北大会ですね。
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 実は、大昔に秋田に来たときにも、この同じホールでコンサートを行っていました。それは当時でもかなり古ぼけたホールだったような気がしていたのですが、今回中に入ってみてびっくり。椅子や内装がいつの間にか大幅にリニューアルされていたのですね。ただ、この壁に貼ってある壁紙が少し浮いて隙間が出来ているあたりが、ちょっとかわいそう。
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 ここの着替え場所で黒服に着替え、大学の部を聴きます。それが終わって外に出ると、他に2人ほど仲間がやはり出てきたので、3人でタクシーに乗って、その日の練習会場へ向かいます。いくらなんでも歩いては行けないところなので、相乗り、ちょうど3人で割り切れる990円で着きました。
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 そこは、○価学会のなんとか会館というところ、前の日とは比べものにならないほど豪華な会場です。畳敷きにグランドピアノ、というのがすごいですね。
 練習が終わるとさっきとは逆のコース、渉外係の人がしっかりタクシーを呼んでくれていたので、今度は4人ずつの相乗りです。さっき乗ったのと同じ人と乗ったら、その人は「さっき来るときは990円で来たよ」などと言っています。運転手さんはそのプレッシャーに負けて、本当はもっとかかったのに、990円でメーターを止めてくれましたよ。秋田市内は一方通行が多い関係で、必ずしも往復同じ運賃にはならないのですね。
 本番まではかなり時間があったので、まわりを散策、すぐ向かいにあったユニークな屋根の形をした建物は美術館。これは確かに記憶にありました。その前には、ちょっとキモい藤田嗣治の胸像がありましたね。
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 本番では、県大会と同じく、2人のコンパニオンが付きます。県大会とは違って、しっかり全曲暗譜、楽譜も持たないで歌ってみました。私的には格段のグレードアップでしたが、やはり県大会とはレベルが違ったのでしょう、かろうじて銀賞の末席を汚した、という、まあ穏当な結末でした。
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 演奏も終わり、写真撮影、ホールの横手に写真屋さんが控えていて、終わるなりひな壇に立たされます。
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 この人は全体ではなく部分的に撮っていたカメラマン。
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 それからすぐ着替えて、これから演奏する団体を聴こうと思ったら、あとは宮城県勢が2つだけでした。
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 最後のチームがこちら、うちの団とのかけもちがたくさんいるところで、去年は惜しくも全国大会進出を逃したのですが、こんなかっこいい演奏を聴かせても(県大会よりはるかにこなれて素晴らしい演奏でした)やはり上位3団体の中に入ることは出来ませんでした。これは2階席から撮ったのですが、すぐ脇に有名な銀髪の審査員の方がいらっしゃいましたっけ。こういう方には、この合唱団の良さは理解できないのかも。
 ここに出ていた愚妻を待って、駅に着いたらもう発車間近、夕食の駅弁を買おうと思ったら全て売り切れでした。仕方がないので車内販売に期待。ところが、回ってきたカートにはサンドイッチしかありません。なんでも、すでにデッキにいるうちに弁当は売り切れてしまったのだとか。コンクールに出た人が、みんな買っていったのでしょうね。残念、サンドイッチで我慢です。もっと時間があれば駅ビルで比内鶏の親子丼でも食べたかったのですが、あきらめましょう。きっとタマネギが入ってなかったでしょうし。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-30 10:29 | 禁断 | Comments(0)
BERG/Flute Mystery
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Emily Beynon(Fl)
Catherine Beynon(Hp)
Vlademir Ashkenazy/
Philharmonia Orchestra
2L/2L58SABD(BD, Hybrid SACD)



録音の良さでは定評のあるノルウェーのレーベル2Lから、ついにこんなパッケージが登場しました。常々「DXD」という、SACDの規格である「DSD」よりもさらに解像度の高い録音方式を用いていることを標榜しているこのレーベルの主宰者モーテン・リンドベリは、DSDでさえ「透明でない」と公式サイトで言い切っています。そこで彼が選んだメディアは、音声トラックの規格が24bit/96kHzという、ハイレゾリューション・リニアPCMであるブルーレイ・ディスク(BD)でした。寝台車ですね(それは「ブルートレイン」)。
この前著作をご紹介したCAMERATAレーベルの井坂さんも、どこかで「SACDには馴染めない」とか、「ネット配信では96kHzのリニアPCMを採用」といったような発言をなさっていましたし、Kさんという有名なレコーディング・エンジニアの方も「DSD96kHzPCMと同等」とおっしゃっていましたから、こういうプロの人たちの中ではDSDよりもハイレゾリューション・リニアPCMの方が「いい音」と認められているのでしょう。なんたって、ビートルズのデジタル・マスターがPro-Toolsによる192kHzPCMなのですからね。
ここでBDSACDを同梱しているのは、双方の音の違いを実際にリスナーに確かめてみて欲しいという思惑なのでしょうか。あいにくBDを聴ける環境にはありませんから、SACDでその高音質を味わい、BDだったらもっとすごい音なのだなあ、と、指をくわえることになるのでしょう。
アルバム自体は、フレード・ヨニー・ベルグ(というのは、メーカーのインフォにある表記。Bergは「ベリ」、あるいは「ベルイ」とはならないのでしょうか)という、1973年生まれのノルウェーの若手作曲家の作品集です。全部で5曲のオーケストラのための曲が収録されていて、そのうちの2曲でフルートがソロをとっています。その2曲がアシュケナージの指揮、残りの3曲は作曲家自身が指揮をしています。もちろん、マルチトラックのサラウンド仕様、ブックレットでは、それぞれの曲での楽器の並び方が示されています。
「フルート・ミステリー」というのは、2006年にゴールウェイによって初演された、本来はアルト・フルートのソロと弦楽合奏のための作品です。今回はソロのパートを普通のフルートとハープのために直したバージョン、ハープを演奏しているのはバイノンの妹キャサリンです。オケの弦楽器は、それぞれの奏者の姿までもが浮かんでくるような生々しい肌触り、それに絡むフルートとハープは、なんとも叙情的な、まさに個々の素のソノリテが試される過酷なフレーズを丹念に演奏しています。
バイノン自身のために作られた4つの楽章が連続して演奏される「フルート協奏曲第1番」では、冒頭にオルガンのペダル音が重低音で迫るという、恰好のオーディオ・ピース、後半でマニュアルのストップが聞こえてくると、それが生音ではなくサンプリングであることがはっきり分かるほどの解像度です。最後の楽章では、弦楽器のトレモロの中から立ち上ってくるグラスハーモニカの存在感などは、CDレイヤーでは決して味わうことの出来ないものです。その一つ前の、彼女のヴィルトゥオージティを存分に堪能できるスケルツォっぽい楽章が、全体に生ぬるい、というか、正直かったるい音楽の中にあって、確かなアクセントになっています。
バイノンがフルートを吹いていることから、ちょっと高価ですが買ってみたものですが、実際に聴いてみると確かにそこにはあえてBDで出したくなるような、SACDで聴いても充分ゾクゾク出来るほどの精緻なテクスチュアが体験できるものすごい世界がありました。しかし、まさにSACD、あるいはそれ以上のメディアでなければ体験できないほどの「音」に満ちた素晴らしいアルバムであるにもかかわらず、そこから聞こえてくる「音楽」は、なんと退屈で魅力に乏しいことでしょう。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2009-09-28 20:28 | フルート | Comments(0)
BRAHMS/Symphony No.3, Choral Works
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John Eliot Gardiner/
The Monteverdi Choir
Orchestre Révolutionaire et Romantique
SOLI DEO GLORIA/SDG 704



2007年から始まった、ガーディナーとオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークのコンビによるブラームスの交響曲ツィクルスは、録音はすでに完了しているようですね。番号順にリリースを重ねて、今回が「第3番」の登場です。今までのCDと同じように、交響曲と同時にブラームスなどの合唱作品も演奏するというユニークなコンサートでのライブ録音で、カップリングは合唱曲です。演奏しているのは、もちろんガーディナーの手兵、モンテヴェルディ合唱団、オーケストラのコンサートにもかかわらず、無伴奏の合唱曲まで聴けるというあたりが、合唱ファンにとっては嬉しいところでしょう。
最初に入っているのが、そんな無伴奏の男声合唱「私は角笛を苦しみの谷で鳴らす Ich schwing mein Horn ins Jammertal」です。この合唱団を支える男声の素晴らしさを堪能できる演奏、若々しい声が心地よく響きます。音楽はあくまで前向き、決して停滞することはなく、サクサクと小気味よく運ばれます。
メインの交響曲が、まさにその男声合唱と全く変わらないテイストで演奏されているというのが、このような形のコンサートを敢行することの意味を良く理解させてくれるものです。第1楽章冒頭の管楽器によるイントロは、澄み切った男声合唱のような力強さにあふれたもの、それは、曲全体に満ちあふれている若々しさを高らかに叫び上げるものでした。そこには、ブラームスと聞いて思い浮かべるような重苦しさはかけらすらも見られません。速すぎるかな、というほどの軽快なテンポに乗って、そこにはまるでメンデルスゾーンのような前期ロマン派の香りが漂います。
オーケストラはもちろんオリジナル楽器を使っている団体です。そこで自ずと比較したくなるのは、ノリントンの最近の一連の録音でしょう。彼が、モダン・オーケストラにもビブラートを使わせないで、独特の「ピュア」なサウンドを目指しているのとは対照的に、ガーディナーはピリオド楽器であるにもかかわらず、弦楽器にはたっぷりとビブラートをかけさせているように聞こえます。ノリントンによる禁欲的なアプローチは、響きの純粋さとともに、時折音楽が「死んでいる」と感じられる瞬間が有ったものですが、こちらの方は、なんのストレスもなく生理的にすっきり感じられます。第3楽章の有名なテーマも、やはりこのようにたっぷりしたビブラートとともに聴きたいものだ、と、再確認です。このテーマがホルンで現れるときの、ナチュラル楽器ならではのちょっとした音程の不均一さあたりこそが、ピリオド楽器による演奏の本当の醍醐味なのではないでしょうか。
したがって、これだけ速いテンポの中では、メカニカル的にモダン楽器には遅れを取っている木管楽器が、ちょっと辛い思いを味わわなければならないことになってしまいます。彼らは、コラールなどのアンサンブルではとても溶け合った見事なハーモニーで暖かい響きを作り上げ、全体の演奏に貢献しているものの、細かい音符のフレーズでソロを吹いたり、お互いが掛け合いを行ったりしている部分では、ちょっとみっともないな、と思えなくもありません。ただ、それは「オリジナル」ならではの味であると思えるギリギリの許容範囲ではありますが。
このCDには、会場の異なる2種類の録音が含まれています。オーケストラ伴奏による「悲歌
Nänie」だけが、合唱のメンバーとオーケストラの編成が違うので別の場所でのセッションだとは分かります。管楽器の聞こえかたなどが全く違っているので、ちょっと興味のあるところなのですが、いったいどちらがどこなのか、このクレジットでは分からないのが残念です。
女声合唱によるカノン「もの憂い恋のうらみ Einförmig ist der Liebe Gram」は初めて聴きましたが、シューベルトの「冬の旅」の終曲と同じメロディだったのにはびっくり。こういうのも盗作になるのかのん

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd
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by jurassic_oyaji | 2009-09-26 09:35 | オーケストラ | Comments(0)
旅の絵本VII
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 安野光雅さんの「旅の絵本」が最初に出版されたのは1977年のことでした。「ふしぎなえ」で絵本作家としてデビューした安野さんの、それは一つのエポック・メイキングとしての作品であったことは、デビュー以来のほとんど全ての絵本を目にしていた私には明らかに思えました。エッシャーの「不思議な絵(「だまし絵」という言葉を使うのは、美術史的には正しくないのだそうです)」の持つ二次元の錯覚の世界を絵本の中に導入した見事な作品群(中でも、「あいうえおの本」はその最高峰です)の、ある種昇華された形で、それは目の前にあらわれたのです。ヨーロッパの風景の中を旅する一人の男という設定の中で、安野さんはそれまで絵本の中で開拓してきたさまざまな技法を、さりげなく描き上げていました。その中に隠してあるそんな「秘密」を解き明かすことは、まさに読者にとっての知的な冒険に他なりませんでした。
 先日、町田市で開催された展覧会にたまたま行ったときに、この絵本がなんと小学校の教科書にも取り上げられていることを、初めて知らされました。もっとも、その教科書の現物を見てみると、「このページの中で、誰がなにをしているのか調べてみよう」みたいな、なんとも的外れな設問があったのにはがっかりしてしまいましたがね。安野さんは、そんなつもりでこの絵本を作ったはずはないのに。
 そんな、本質を見ようとしないファンの存在も取り込みつつ、このシリーズはどんどん新しい場所を開拓して、いつの間にか6巻まで刊行されていました。その間も、安野さんのコンセプトは健在で、前作のデンマーク編では、全てのページにアンデルセンの童話にちなんだものが散りばめられている、といった贅沢なものでした。
 それから5年経って、ついに新しい「旅の絵本VII」が出ました。これは、今までのものとはあらゆる面で大きな違いが見られます。まず、本としての「開き方」が違います。今までのものは「左に」開くタイプ、物語は紙面の左から右へ向かって進むという「横書き」の世界でしたが、今回はその逆、「右に」開く縦書きの世界となっています。それは、もちろん今回の場所が縦書きの文化圏、中国であることの反映です。「旅の絵本」史上初めての、右から左へと進む物語、これは新鮮です。
 さらに、ここでは今まで見せてきた「不思議な絵」の世界はほとんど影を潜めています。その代わり取り入れられているのが、安野さんがこの絵本を作る際にお手本にしたという、古代中国の画家による「清明上河図」という絵巻物の「模写」です。そのために安野さんはわざわざ篆刻印を作って、その部分に押しています。その印がなければ分からないほど、その絵巻物と安野さんの世界は見事に溶け合っています。
 ここで安野さんが描き出した中国の旅、そこには確かに今までの作品の中にもふんだんに取り入れられていた安野さん独特のユーモラスな光景は健在です。しかし、最後の黄土に木を植えるというシーンにつながるなにか重々しい描写の中には、明らかに今までとは異なる世界観のようなものが見え隠れしているはずです。それは、安野さんご自身の心境の変化のあらわれなのかもしれませんね。安野さんは、ここで更なるエポックを打ち立てたのです。
 安野さんが「旅の絵本」の日本編を作るときには、どんなものが出来るのか、本当に楽しみです。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-25 20:29 | 禁断 | Comments(0)
The Swingle Singers
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The Swingle Singers
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「スウィングル・シンガーズ」というのがどういう歴史を持つ団体なのかは、こちらにコンパクトにまとめてありますので参照してみて下さい。創立以来40年以上も第一線で活躍している8人編成のコーラスグループです。
もちろん、そんな長い期間ずっとメンバーだった人などは、いるわけがありません。名前の由来となった、創設者ウォード・スウィングルも、いまでは完全に引退していますし、今まで何度もすべてのメンバーを入れ替えるということを行っているのですからね。現在のグループは10年ほど前にやはりすべて入れ替わった人たちで構成されています。その際に、それまで所属していたVIRGINレーベルを離れ、最近ではSIGNUMあたりからアルバムを出しているようですね。
今回発売された4枚組のアンソロジーは、彼らがVIRGIN時代に残したオリジナルアルバムから4枚を、そのままの形で集めたものです。レジ袋は要りません(それは「エコロジー」)。1991年にリリースされた「A Cappella Amadeus」と「Around the World」、1994年の「Bach Hits Back」、そして1995年の「1812」です。
センセーショナルなデビュー当時、そして一度解散してイギリスで再スタートを切った、まだスウィングルがメンバーの一員として活躍していた頃にこそ注目してはいたものの、この時期の「普通の」グループになってしまった彼らには、正直、全く関心がありませんでした。CDが出ても聴くことはありませんでしたし、すぐ近くまでやって来てコンサートを開いても、逆にこんな田舎までやって来るなんて、なんと落ちぶれたものだ、と思ってしまい、知らんぷりです。
それでも、CDが4枚も入って1700円ほどで買えるとなれば、聴いてみたいと思うじゃないですか。ダメもと、というやつですね。しかし、期待していなかったものが結構良かったりするのは世の常、これもなかなか楽しめるアルバムでした。
Amadeus」は、もちろんモーツァルトの作品のカバーです。交響曲第40番を、大幅なカットを入れつつも4楽章全部を8人の声だけで、確かな緊張感を維持したままで演奏していたのには、かなり驚かされました。彼らのテクニックは、昔とは比べものにならないほど上達しています(はっきり言って、昔はかなりヘタでした)。かつてはドラムスやベースも加えて演奏されていた、スウィングルが編曲した楽譜を使っての「アイネクライネ」の最後の楽章では、「ボイパ」でドラムスの代用をあっさりやってのけて、ジャズっぽいノリを見せていますし。そして、おそらくこの頃からの新機軸なのでしょう、オペラのアリアや合唱曲を、声楽の部分とオケの部分をともにコーラスでやってしまうというユニークなナンバーが聴かれます。「コジ」のフェランドのアリア「Un aura amorosa」など、なかなか堂に入ったものですよ。
Bach」でもその路線は貫かれているようで、コラール前奏曲を演奏したあとに、その元ネタのコラールを歌うという、クラシック顔負けのアイディアも盛り込まれています。「ロ短調」や「マタイ」の曲を、モーツァルトとは逆にスキャットだけで演奏する、という肩すかしもありますし。
1812」はライブアルバム、彼らのテクニックがスタジオの中だけではなく、お客さんの前でも完璧に通用することが、これを聴けば良く分かります。タイトル曲はもちろんチャイコフスキーですが、ドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの3つの歌」などという「合唱曲」などまできちんと歌っているのにもびっくり。
一番楽しめたのは、世界の民謡をかなり凝った編曲で聴かせる「Around the World」でした。民族楽器の模倣などもしっかり決まっているからでしょうか、殆ど聴いたことのない曲にもかかわらず、しっかりその国の情感に浸れてしまいましたよ。
いまのグループもそうですが、どんなことをやっても彼らにはなぜか昔のままのテイストがそのまましっかり残っているから不思議です。

CD Artwork © EMI Records Ltd./Virgin Classics
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by jurassic_oyaji | 2009-09-24 20:15 | 合唱 | Comments(0)
BERNSTEIN/Mass
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Alan Titus(Celebrant)
Leonard Bernstein/
Norman Scribner Choir
The Berkshire Boy Choir
Orchestra
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最新の「レコード芸術」を読んでみたら、「海外盤試聴記」に先日ご紹介したバーンスタインの「ミサ」のレビューが載っていました。国内盤の発売は10月ですから、これを書いた方は輸入盤を入手したのでしょうか。あるいは、メーカーからサンプルとして貸与された物を聴かれたのでしょうか。なんだか、いつの間にか輸入盤のレビューも、国内盤と変わらないようなプロモーションの場となってしまったようで、白けてしまいますね。
それはともかく、そのレビューを読んでみたら、「この曲はミュージカルだ」と書いてあるのにはびっくりしてしまいました。私と同じ着眼点でこの曲をとらえている人は、他にもいたのですね。まさか、私のレビューを読んでから、その原稿を書いたわけではないでしょうがね。
その「おやぢ」を書いたときには、作曲家自身の演奏も聴いてみたかったのですが、とっくに廃盤になっていると思って捜してみもしませんでした。しかし、「レコ芸」でのレビューではそれについても触れています。そうなると、やはりこのアイテムを避けて通ることは出来ません。
と思っていたら、なんと1年ほど前にバーンスタインの自作自演を集めたオリジナル紙ジャケの10枚入りボックスが出たときに、その中にこの曲も入っていたのが分かったので、あわてて入手です。確かにそれは、小さくなってはいましたが、昔それこそ「レコ芸」あたりの広告で見たのと同じジャケットでした。
この自作自演盤を聴いてみたかったのは、そもそもバーンスタインはこの作品でどのようなものを目指していたのか、知りたかったからです。それには、まず演奏者のクレジットが役に立ちます。メインであるはずのオーケストラは、ただ「Orchestra」と表記されているだけで、固有の名前があるわけではありません。つまり、常設の団体ではなく、このイベント、ケネディ・センター(The John F. Kennedy Center for the Performing Arts)のこけら落としのために集められたテンポラリーなオーケストラ、と言うか、ほとんど「バンド」であることが分かります。つまり、エレキギターやドラムセットのような、クラシックのオーケストラにはちょっと違和感のある楽器たちも、至極すんなり溶け込めるユニットの形態がとられているということ、これは、この作品の性格を語る上で、かなり重要なファクターになってくるはずです。
そして、それ以上に作品の性格を左右するはずの「セレブラント」のキャラクターにも注目してみましょう。ブックレットにある、ロン毛でギターを持った姿のタイタスは、当時の最先端のファッション「ヒッピー」そのものではありませんか。これが録音されたときにはまだジュリアードの学生だったアラン・タイタスは、その30年後にはバイロイトでオランダ人やヴォータンを歌うことになることなど想像できないような、まさにクラシックとは無縁のパフォーマンスに終始していました。これこそが、作曲家が望んだセレブランとのあるべき姿だったのではないでしょうか。
それに対して、「ロック」や「ゴスペル」を歌うストリート・シンガーたちには、何かと中途半端な雰囲気が漂います。それが人選によるものか、演奏の習熟度によるものかは知るよしもありませんが、なにかと「迷い」のようなものが感じられてしまいます。
このような布陣で世の中に問いかけた「ミサ」、しかし、長いブランクの後にこの作品を取り上げたナガノやヤルヴィは、バーンスタインの発した思いを正確に受け止めることには必ずしも成功してはいませんでした。オールソップのNAXOS盤によって初めて、作曲家の想いが理想的な形で開花したとは言えないでしょうか。いずれリリースされる国内盤でも、「ミサ曲」などという堅苦しいタイトルではなく、単なる「ミサ」という、まるでミュージカルのような邦題が採用されているはずですよ(それは「ミサ・サイゴン」)。

CD Artwork © Sony BMG Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2009-09-22 20:51 | 合唱 | Comments(0)
WAGNER, MOZART etc./Opera Arias
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Jonas Kaufmann(Ten)
Claudio Abbado/
Mahler Chamber Orchestra
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カウフマンの新譜は、まずジャケットが秀逸でした。どこかで見たことのある風景だな、と思っていたのですが、これは有名なドイツロマン派の風景画家、カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの「霧海の上に佇むさすらい人」をもじったものではありませんか。
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オリジナルは後ろを向いていますが、振り向くとこんな顔、ということでしょうか(後ろ向きバージョンも、裏側にありました)。それだけではなく、ブックレットの中の写真までも、それぞれ「山上よりエルベ渓谷を望む」と「山頂の十字架」が元ネタという楽しい企画です。こういう、思わず力が抜けるようなセンスは大好きです。
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前作では、イタリアやフランスのオペラ・アリアも歌っていましたが、今回はすべてドイツ語で歌われているナンバーが集められています。その中でもワーグナーが半数を占めていて、いまのカウフマンが期待されているフィールドがうかがえます。それは、「待望久しい、ヘルデン・テノール」というカテゴリーなのでしょう。鎌倉、ですね(それは「エノデン」)。もっとも、最初に「ティート」で彼の魅力に気づかされたものとしては、モーツァルトのタミーノにも大いに期待が高まります。さらに、ベートーヴェンのフロレスタンもはずせませんし、全く聴いたことのないシューベルトのオペラからのアリア、というのも、そそられます。
ワーグナーの、特に「ローエングリン」あたりでは、フォークトなどが評価されているように、必ずしも「ヘルデン」でなくてもいいのでは、という風潮が高まりつつあります。カウフマンもそんな流れの影響でしょうか、「In fernem Land」ではいとも軽めの声で歌い始めます。しかし、それは盛り上げるための単なる小技、肝心なところでは朗々たるヘルデン声を披露してくれて、颯爽とした気分にさせてくれます。ほんと、この人の突き抜けるような声はまさにワーグナーにはうってつけ。
面白いのは、「ワルキューレ」のジークムントとジークリンデのデュエットである「Winterstürme wichen dem Wonnemond」の前半だけを完結させて(ワーグナー自身による終止)歌っていることです。リサイタルなどでは聴いたことがありますが、CDでは初めて、ちょっとこの終わり方には違和感がないわけではありませんが、カウフマンの魅力は満開です。
しかし、アバドの指揮によるマーラー室内オケが、少ない弦楽器をごまかしているのがいかにもミエミエの、およそワーグナーには似つかわしくない安っぽいサウンドなのにはがっかりさせられます。充分なプルトによるふっくらとした弦楽器に包まれてこそ、管楽器の咆哮が生きてくるのに、きっとなにか勘違いをしているのでしょう、少ない弦楽器でも表現(あるいは録音技術)でカバーできるのだとばかりの、やたらハイテンションの小手先だけの演奏には、うんざりしてしまいます。
モーツァルトでは、身の丈にあった音楽にはなっていますが、それでも、録音のせいもあるのでしょうが、管楽器の生々しい音には参ります。第1幕フィナーレの、「3つの門」のシーンあたりから始まって、フルートのオブリガートが付くナンバーまで続けるという、さっきのワーグナーとは逆の、カットして欲しいところの方が多いという変な選曲ですが、そのフルートがキーノイズまではっきり聞こえるほどのオンマイクなのですからね。そんなやかましいオケのせいかもしれません、ここでのカウフマンは明らかに力みすぎで、「ティート」で期待したような「力強いリリック」は、ついに聴くことは出来ませんでした。
初めて聴いたシューベルトの「フィエラブラス」とか「アルフォンソとエストレッラ」などという珍しいオペラの中の曲は、変な力みもなく、シューベルトならではのメロディの美しさを存分に味わえました。もう少しするとお目にかかれるリートが、楽しみになってきます。

CD Artwork © Decca Music Group Limited
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by jurassic_oyaji | 2009-09-20 23:34 | オペラ | Comments(0)
スキンの手直し
 ブログ版の「おやぢの部屋2」を、もしこまめにチェックしている人がいるとすれば、その人は刻々その画面が変わっていくので、戸惑っていることでしょうね(いや、実際にそんな人はいるはずはないのですが)。最初はただフォントだけを変えてみようということで、スキンは同じものを使っていました。ただ、ソースコードをいじることによって色々なことが変えられることを実感してみると、今まで不都合に感じていたことも直せないか、と思ってしまいます。一番のネックは、本文の幅でした。今までのスキンは幅が550px、これだと、ものによってはCDの演奏家の名前などが足らなくなって、変なところに改行が付いてしまいます。ですから、これをせめて600pxにしたいと思ったのです。でも、それはちょっと面倒だったので、幅が600ある別のスキンを見つけて、それを採用です(実は、その前にももう一つ候補があったのですが、それはなぜか<B>タグや<BLOCKQUOTE>タグがきかなかったため、不採用になりました)。
 そのスキンは、大きさといいデザインといい、ほとんど理想的なもののように思えました。ところが、なんせお仕着せですから、それと全く同じものを使っている人はいるわけです。フォントだけは違いますがね。それが、実はちょっと以前に訳ありだったブログだったりしますから、そうなるともう一時も同じものを使っているのは苦痛に感じられてしまいます。それからが、私の「スキンいじり」(なんかヒワイ)の日々が始まるのです。まず、一番目立つヘッダーの画像を、自分で作ったものに入れ替えます。今あるのは最終的に落ち着いたものですが、ここに来るまでには何度画像を送り直したことでしょう。いや、実は今のものもほんのちょっとしたところが気になっていますから、そのうちまた変わらないとは限りませんよ。ただ、何回もやっていると手順に慣れてきますから、こんな画像の入れ替えなど、すぐ出来るようになってしまいます。
 その次に色々変えてみたのが、文字の色です。なんとか、サイトの「おやぢ」と同じ体裁をそのまま表示しようとしても、ブログではタイトルにリンクが入っているのでそれだけ別に設定しなければならないのだ、ということに気づくまでに、けっこう時間がかかりましたしね。
 こうして出来上がったオリジナルのスキン、こちらのものと比べてみて下さい。ほとんど原形をとどめないほどに変わってしまっていますよね。とにかく、フォントが変わっているだけでも(とは言っても、Vistaと、メイリオをインストールしたXPでしか、その違いは分かりませんが)なんという違いでしょう。
 でも、不思議なことに、こんなにきれいなフォントなのに、それを採用しているサイトやブログはほとんどありません。私の守備範囲の何十というブログをくまなくチェックしても、CLASSICAさんと、もう一つこんなところしか見つかりませんでした。
 一度このフォントに慣れてしまうと、デフォールトのゴシック体がとても情けないものに見えてしまいます。でも、そんなことにはあまり頓着しない人の方が圧倒的に多いのかもしれませんね。もしかしたら、こんなことに喜んで大はしゃぎしているのは、とても恥ずかしいことなのかもしれません。ちなみに、「どんぶり勘定」さんはOSがWin2000なので、ご自分ではそのきれいさが分からないんですって。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-19 22:15 | 禁断 | Comments(0)
巨匠(マエストロ)たちの録音現場
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井坂紘著
春秋社刊

ISBN978-4-393-93545-3



レコード・プロデューサー(正確には「レコーディング・プロデューサー」でしょうか)という職種については、最近ではかなりその実態が知られるようになってきました。もっとも、それはクラシックよりはポップスの世界での出来事のように思えます。「マイケル・ジャクソンのアルバムは、クインシー・ジョーンズがプロデュースした」みたいに、果物のような名前(それは「クインシーメロン」)のかつてのジャズ・ミュージシャンは、この不世出のスーパースターのプロデューサーとして広く知られています。
プロデューサーというのは、本来はレコード会社の社員として、会社全体のニーズに応える形で、与えられた予算の中でレコードを制作する仕事を与えられた人たちのことを指し示す言葉でした。例えばあの「ザ・ビートルズ」のプロデューサーだったジョージ・マーティンは、EMI系列のPARLOPHONEという会社のサラリーマンでした。彼の場合は単なる制作管理のみならず、編曲や、場合によってはソングライティングにも関与するという、音楽的なサポートもその「仕事」の範疇、なんと「In My Life」や「Lovely Rita」では自らのピアノソロまで披露しています。
クラシックでも、単に録音セッションを仕切るだけではなく、演奏家に対して音楽的なサジェスチョンを与えるのも、プロデューサーの役目である、と、ご自身もその職業に携わっている著者は力説しています。そんな大先輩、ジョン・カルショーのことを綴った部分を最後に持つこの本は、その半分ほどはかつて「レコード芸術」誌に連載されていたものでした。連載中にはもちろん目にしてはいたのですが、そのカルショーの記述が、彼自身の著作「レコードはまっすぐに」(このみっともない邦題は何とかならないものでしょうか)と「リング・リザウンディング」の引き写しに過ぎないような気がして、積極的に読む気にはなれませんでした。しかし、今回の単行本では、書き下ろしでカラヤンの項目が加わっています。こればかりは、いくら「レコ芸」のバックナンバーをひっくり返しても読むことは出来ませんから、買うほかはありません。
そのカラヤンの部分は、時代を追って彼を支えたレコーディング・プロデューサーについて詳細に記述したものです。同じプロデューサーである著者の視点からの言及が、面白くないわけがありません。時代の流れの中で微妙に変わっていくカラヤンとプロデューサーたちの力関係、そこから著者は、まさにカラヤン自身がセルフ・プロデューサーへと成長していく過程を見事に描き出しています。彼が最終的に確立した金儲けのスパイラル、そこでは、カラヤンはプロデューサーたちすらも彼の持ち駒、すなわちプロデュースの対象として支配していたのです。これほど共感できる「カラヤン批判」も希です。
著者は、カルショーや、カラヤンの初期の録音を担当したレッグを理想的なプロデューサーとして描くと同時に、演奏家の言いなりになっていたグールドのプロデューサー、アンドルー・カズディンなどに対しては否定的な態度を取っています。演奏家と一緒に音楽を作り上げるのが、プロデューサーの仕事なのだ、と。しかし、現在ではそんな理想的な仕事を全うできる環境は極めて限られたものになってしまっているのではないでしょうか。ほんの少し編集が加えられただけのライブ録音や、ひどいときにはミスがそのまま残っている放送音源が堂々と商品として流通しているのですからね。
かつては確かに存在していたはずの「レコード芸術」という概念(雑誌の名前ではなく)、それが死に絶える前にぜひとも語り伝えたい、そんな著者の悲痛な思いだけは、確実に受け止めることが出来るはずです。

Book Artwork © Shunjusha
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by jurassic_oyaji | 2009-09-18 22:02 | 書籍 | Comments(0)