おやぢの部屋2
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TORMIS/Vision of Kalevala
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Ants Soots/
Estonian National Male Choir(RAM)
ALBA/NCD 35




このレーベルからは、2001年から、当時常任指揮者だったアンツ・ソーツの指揮によるエストニア国立男声合唱団の演奏によって、トルミスの男声合唱のための作品のアンソロジーが次々とリリースされています。それらは例えば「Vision of Estonia」というように「Vision」が頭に付くタイトルでまとめられていて、これが5枚目のものとなります。そもそも最初のアルバムタイトルが1989年に作られた曲のタイトルから取られているのですが、この曲はすでに男声合唱のレパートリーとして日本でも定着している名曲です。というか、ごく最近実際にこの曲を歌う機会があったのですがね。男声合唱だけでこれだけのアルバムが出来てしまうのですから、これからはさらに多くの作品が、男声合唱団の演奏会のステージを飾っていくことでしょう。
今回のアルバムでは「カレワラ」がテーマとなっている作品が集められています。「カレワラ」といえば、シベリウスの多くの作品でお馴染みの、フィンランドの一大叙事詩ですね。「ワイナモイネン」という老人が主人公、いしいひさいちも使っていますね(それは「モンナドンダイ」・・・わかんないだろうな)。フィンランドがロシアからの独立の際の拠り所としたのと同様に、同じようなロシアとのスタンスを持つエストニアでも、この「カレワラ」は重要な意味を持っているのでしょう。
アルバムの半分を占める、34分という長さを持つ、男声合唱曲としては異例の大作「『カレワラ』の第17章」は、その名の通り、「17章」全てをテキストにしたという、膨大なものです。ブックレットには、対訳がちっちゃい字で10ページにもわたって掲載されているのですから、すごいものです。フィンランドの民族楽器の「カンテレ」や、多くの打楽器などが加わって、最初は民謡風の5拍子のテーマが延々繰り返されるという「ヒーリング」っぽい曲調ですが、途中から全く感じが変わってアグレッシブなものになり、そんな長い時間も退屈することはありません。なにしろ、この合唱団の表現力の幅の広さといったら、しっとりと響き渡るとてもきれいな三和音の世界から、荒々しいトーン・クラスターの世界まで自由自在なのですからね。
そこで思い起こされるのが、このアルバムの中の「サンポの鋳造」と「鉄を呪え(鉄への呪い)」の男声バージョンを初録音していたスヴァンホルム・シンガーズのCDTOCCATA)です。並べて聴いてみると、とても同じ曲とは思えないほどの表現の違いが、両者の間にはあったのです。「鉄~」はトルミス自身がシャーマン・ドラムを叩いていたぐらいですから、TOCCATA盤では作曲者の意図がしっかり演奏者には伝えられてはいたのでしょうが、このALBA盤を聴いてしまうと、こちらの方がより深いところでトルミスの思いに通じているのでは、という思いが募ります。その最もはっきりした違いが、ソロを担当している人のキャラクターです。あちらはあくまで美しく「歌う」ことを心がけているようですが、こちらはなんとも品のない歌い方(というか、しゃべり方)に徹しています。その結果現れてくる「粗野さ」といったら、途方もないレベルに達したものなのですから。あちらが「ブレス」だとすれば、こちらは「パリンカ」でしょうか(意味不明)。この曲の後半に、2人のソロが3度平行でグリッサンド、その後合唱が半音ずつ和音を移動させるという場面があるのですが、そんな一見「前衛的」な作り方も、このソーツと「RAM」の手にかかると、きっちり「魂」を感じさせるものとして聴くことが出来るようになります。
トルミスのことを「音響主義」などと言ったアホな指揮者がいましたが、彼の作品はそんな上っ面だけのものではないことが、この演奏を聴けば如実に分かるのではないでしょうか。

CD Artwork © Alba Records Oy
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by jurassic_oyaji | 2009-10-30 23:36 | 合唱 | Comments(0)
TCHAIKOVSKY/1812 Overture
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Valery Gergiev/
Mariinsky Orchestra, Soloists and Chorus
MARIINSKY/MAR0503(hybrid SACD)




最近は、既存のレコード会社に頼らないでオーケストラが自前でレーベルを立ち上げるのがブームになっていますね。ロンドン響、シカゴ響、コンセルトヘボウ、最近ではバイエルン放送響などでしょうか。お陰で、収入が2倍になったのだとか(「倍得るん」)。日本でも、何かと注目の山形響が最初に独自レーベルを作りましたね。嬉しいのは、それらのオケ・レーベルでは、ほとんどSACDの形でリリースしてくれているということです。いまいち普及が芳しくないSACDですが、このブームを契機に良さが見直されれば良いのですが。
そんな中で、ゲルギエフが音楽監督を務めるサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場も、こんなレーベルを立ち上げました。ゲルギエフと言えば、すでにロンドン響とのコンビでLSO LIVEから多くのアルバムを出していますが、実はこのマリインスキーのレーベルも、ロンドン響と同じスタッフが関わっているのだそうです。あのハイレベルのLSOのノウハウが、こちらでも存分に発揮されていくことでしょう。
このアルバムは、品番でも分かる通りレーベルの3番目のアイテムです。前2作はショスタコーヴィチでしたが、ここに来てチャイコフスキー、「1812年序曲」と「スラヴ行進曲」は超有名曲ですが、その他に「戴冠式祝典行進曲」とか「デンマーク国歌による祝典序曲」、さらには「カンタータ『モスクワ』」などというレアな曲目がカップリングされているのは、ゲルギエフならではの選曲のセンスなのでしょうか。なにしろ「戴冠式~」やカンタータには作品番号すら付いていない、つまり出版されていないほどのレアものですからね。実際にはこれには統一したテーマがあって、それは「依頼によって作られた作品」というものです。つまり、何かの祝典などの際に、主催者からその目的のために頼まれた曲、というくくりなのでしょう。
ロンドン響とは違って、こちらはライブではなくセッション録音のようです。そして、録音会場が、2006年に出来たばかりのマリインスキーのコンサートホールです。ここは、あの豊田泰久さんが音響設計を担当したホールで、音の良さでは折り紙付きですから、期待が出来ますよ。
実際、「1812年」などは、とても深みのある重厚な音でした。録音のポリシーみたいなものはロンドン響と共通したものが感じられますが、こちらはやはり別の個性を持ったオケ、その違いはクッキリ音にあらわれています。そして、このホールのどっしり腰の据わった響きと相まって、まさに大地に根を下ろしたような壮大な音響が広がっていましたよ。大砲の音なども、昔TELARCの録音でびっくりしたものですが、そんなものを軽く超えるほどの迫力とリアリティです。
クレジットにもあるように、このレーベルはあくまで「マリインスキー劇場」のトータルのアーティストを聴かせるためのもののようです。そこで、「カンタータ」では劇場の合唱団とソリストが登場です。メゾのリュボフ・ソコロワとバリトンのアレクセイ・マルコフは、ともに若手のホープ、重みのある豊かな響きの持ち主です。そして、合唱がやはり重量級、ヴェルディなどを歌うときにはまた違うのでしょうが、チャイコフスキーとあっては彼らの「地」である非西欧のハーモニー感丸出しで、骨太の音楽を聴かせてくれています。これはいかにも盛り上がるための曲、最後の「スラバ!」という、ほとんど叫びに近い賛歌は、まさに宗教的なまでの高揚感を見せてくれます。
「戴冠式祝典行進曲」も「デンマーク国歌による祝典序曲」も、なんとも底の浅い音楽ですが、ゲルギエフの手にかかるとそんな高揚感に無条件に圧倒されてしまうものに変わります。たまにはどっぷり音の渦に浸って、頭の中を空っぽにするのも良いのではないでしょうか。

SACD Artwork © State Academic Mariinsky Theatre
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by jurassic_oyaji | 2009-10-28 19:36 | オーケストラ | Comments(0)
The Baroque Beatles Book
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Joshua Rifkin/
Baroque Ensemble of the Merseyside Kammermusikgesellschaft
NONESUCH/WPCS-12356(Dom.)



ちょっと前に「廃盤になっているリフキンの『ロ短調』を、オリジナルジャケットでタワーレコードあたりがリイシューしてくれないものでしょうか」と書いたことがありましたが、なんと来月には「デトゥール・コレクション」の新譜として発売されることになりましたよ。担当者がこのサイトを見ていたのかもしれませんね。
こちらはもっと前、おそらくリフキンにとっては初めての自分名義のアルバムとなるこの1965年の作品が、初CD化となりました。日本国内だけでも累計300万枚も売り上げたというビートルズのリマスター盤の余波を受けての、こんな超レアなアイテムの再発なのでしょうか。
ライナーによると、リフキンという人はジュリアードの学生だった頃にNONESUCHに出入りしていて、ライセンシングなどの仕事をやっていたそうですね。そこで、このレーベルを1964年に創設したジャック・ホルツマンが「ビートルズをバロックスタイルでカバーする」というアイディアを思いつき、それをリフキンに振ってきた、というのです。ここで興味深いのが、リフキンは最初に知り合い(大学の先輩!)であったピーター・シックリーを推薦していた、という事実です。こんなところでP.D.Q.バッハとリフキンとの接点があったとは。ただ、あいにくシックリーは都合が悪く、リフキン自身にお鉢が廻ってきたのですが、それは結果的にはまさに大正解だったことになるのでしょうね。おそらく、シックリーが編曲をしていたら、これほどまでにバロックとビートルズがしっくりいった結果は望めなかったのではないでしょうか。根っからの「ビートルマニア」であったリフキンには、最初からこの仕事を引き受けるべく運命が待っていたのです。
アルバムは、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」のきっちりとしたパロディで始まります。「序曲」のネタは「I Want to Hold Your Hand」、中間部のフーガでのこのテーマの使い方などはとても堂に入ったもので、リフキンの才能をうかがい知ることが出来ます。バッハの教会カンタータのパロディまで登場するのもさすが、ですね。その中のアリアは「Help!」がネタ。ですから、それを歌っているハロルド・ブリーンスは「Helpentenor」なんですって。わかるでしょ?「Heldentenor」のもじりですね。こんなセンスはシックリーそっくりですね。演奏団体の名前だって、ビートルズが好きな人ならすぐ分かるはず。
この、世界初のビートルズのバロック風カバー、実際の録音は1965年の秋に始まっています。この中で使われている「Help!」が収録されている同名のアルバムがリリースされたのが、まさに同じ年の8月だったわけですから、その企画の反応の早さには驚かされます。「他社に先を越される前に」制作を敢行したホルツマンとリフキンの嗅覚には、恐れ入るしかありません。しかし、この中には、同じアルバムの中の作品で、オリジナルがすでにバロックのテイストをもっていて、現在ではそのような企画の定番となっている「Yesterday」は含まれてはいません。じつは、「Yesterday」はUKのオリジナル盤には入っていたものの、アメリカ盤はサントラ仕様の別編集だったためにアルバムには入ってはいませんでした。9月になってシングルが発売されますが、そこではB面扱い、おそらくリフキンたちにとってはまだカバーの対象とは認識されてはいなかったのでしょう。というか、ロックンロールとバロックというミスマッチをねらった企画では、この曲はちょっと浮いてしまいます。もしすでにこの曲が大ヒットしたあとだったら、アルバム自体の企画が出ていたかどうか、なんとも微妙なタイミングだったのですね。
そのリイシュー盤、盤面に「DDD」というあり得ない表記があるのは不思議なことですが、日本語版のライナーには「1981年のマタイ受難曲」と書くぐらいのおおらかさなのですから、別に驚くことはありません。

CD Artwork © Nonesuch Records Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-10-26 20:11 | ポップス | Comments(1)
山口百恵 伝説から神話へ
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山口百恵
SONY/MHBL 117(DVD)


1980年と言いますから、今から30年近くも前のコンサートのライブビデオです。もちろん、今までさまざまなフォーマットで出ていたものなのですが、DVDになってからの何回目かのリリースがつい最近のことだったので、ちゃっかり「おやぢ」の仲間入りです。
山口百恵が引退したのはついこの間のことのように思っていましたが、あれからもう30年も経っていたのですね。その年月がいかに長いものであるかは、このDVDに収録されているコンサートの機材などを確認するだけで分かることでしょう。武道館という広い場所で行われたにしては、ステージの規模はいかにもこぢんまりとした感じです。オーロラビジョンもありませんから、客席には大きな双眼鏡を持った人がたくさんいますね。
PAの機材も、マイクはワイヤード、もちろんイヤモニターなんかもありません。ですから、当然フォールドアウトのモニタースピーカーがあるはずなのですが、ステージにはそれらしい突起物は見当たりません。と思っていると、ステージ上から客席をとらえたカメラで、歌手のすぐ前のステージに穴が空いているのが見えました。うん、こんな工夫が当時はあったのですね。
さらに、バックバンドもストリングスまで入った大人数、いわゆる「演歌」スタイルでちゃんと指揮者もいます。その指揮者が、なんとコンサートアレンジを担当した服部克久というのですから、なんとも豪華なものです。
もう一つ、この中で歌われていた「謝肉祭」という曲の歌詞の中に「ジプシー」という「差別用語」がある、ということから、ある時期このDVDの中からその曲が削除されていたことがある、ということがブックレットに述べられているのにも、「歴史」を感じさせられます。もちろん、今ではそのような行きすぎた「配慮」に対しては逆に批判的な風潮となっているために、ここでは元通り復活されています。帯の「完全オリジナル版」という表記は、そのような経緯を物語っているのです。
この、引退へ向けてのファイナルコンサートは、まさに周到な準備を経て開催されました。コンサートのオープニングで歌われ、直後にリリースされたラストアルバム(もちろん、LPです)に収録された「This is my trial」という6/8のビートに乗った谷村新司の曲こそは、そんな周到さを象徴するものでしょう。なにしろ、歌詞の最後が「私のゴールは、数え切れない人達の胸じゃない」という、まさにファンに対しての決定的な絶縁のフレーズなのですからね。おそらく、谷村と、そして百恵のプランでは、最後は「胸じゃない?」という肯定の意味に取られることも計算していたのではないでしょうか(現に、そのように解釈していた人を知っています)。
熟れきった果実のように、まさに稔りの濃厚な味すらたたえた百恵の歌は、ひょっとしたら非の打ち所がないのでは、と思わせられるほどの高い完成度を見せています。2時間を超えるコンサートを一人で歌いきるという、「アイドル」には高いハードルを、彼女はものの見事にクリアしています。最後まできちんとコントロールされた声を聴かせてくれているのはまさに感動的です。それと同時に、歌の区切りで入るMCも、ステージの流れ、さらには引退への流れを明確に解き明かす確かなメッセージとなっています。いや、これはまさにMCまでもきちんと構成された「ショー」の一部として、細部にまで練り上げられた台本にしたがって「演じて」いた結果なのでしょう。
そう、この「ショー」は、トップアイドルが一切の芸能活動をやめて一般人に戻るための、壮大な「儀式」だったのです。これだけ入念なセレモニーが執り行われたからこそ、百恵はその後の人生を「一般人」として全うするという「奇跡」を成し遂げることが出来たのでしょう。豊かな胸はそのままに(それは「トップレスアイドル」)。
それにしても、この「儀式」の主人公がまだ21歳の少女だったとは。

DVD Artwork © Sony Music Direct(Japan) Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-10-24 22:10 | ポップス | Comments(0)
仙台フィル定期演奏会
 久しぶりに、仙台フィルの定期演奏会に行ってきました。なんといってもヴェルディの「レクイエム」を演奏するのですから、何をおいても聴きに行きますよ。実は、この曲を生で聴くのはこれが初めて、楽しみです。
 実際は、一番楽しみだったのは合唱でした。半年以上も前から市内の4つの合唱団がこのために集まって練習を重ねていたことを知っていましたから。その合唱団というのが、毎年コンクールで常に上位を占めて、全国大会で金賞などという輝かしい経歴と、もちろんそれに見合うだけの実力を持っているところばかりなのですからね(1つだけコンクールには参加していないところもありますが、そこも実力は折り紙付き)。
 その合唱は、本当に素晴らしいものでした。それだけ長期間練習していたことで、4つの合唱団の寄せ集めという感じは全くなくなっていて、完全に一つの合唱団としてのまとまりを見せていましたね。声は滑らかで表現も自由自在、合唱が出てくるところは、本当に音楽に浸りきることが出来ました。
 ところが、ソリストがソプラノを除いてよくもこれだけひどい人を集めたものだと思うほどの、ひどさ。テノールはコンディションが悪かったのでしょうが、あんな声で歌っているのではプロとは言えません。バスはなんという音程の悪さなのでしょう。それでいて突拍子もないような「見栄」を切ったりしますから、もう最悪。この人が歌い出すと音楽全体の緊張感が全くなくなってしまいます。メゾの人も音程の悪さは我慢の限界を超えています。
 ですから、最後にソロがまわってくるソプラノの人のお陰で、やっと聴いていて心地よい音楽が始まったような気がするほどでした。ほんと、ソプラノソロと無伴奏の合唱だけで歌われるところは、まさに至福の思いでした。
 こうなってくると、最大の功労者は合唱だったのではないかという気になってきます。オーケストラ?なんだか、威勢の良いところではすごい迫力でしたが、繊細な部分では完全にこのものすごい合唱の足を引っ張っていたのではないでしょうか。冒頭の「Kyrie eleison」や、最後の「Libera me」など、この合唱団の力をもってすれば、もっと緊張感のあるピアニシモを出すことも可能だったはずです。それが出来なかったのは、オケにそれに見合うだけの力量が備わっていなかったからではないでしょうか。「Offertorio」でのチェロのパートソロのひどさが、それを物語っています。仙台フィルって、いつからこんなにヘタになってしまったのでしょう。
 このホールも、その欠陥をもろにさらしていました。ステージが狭いものですから、合唱やソリストはこんなことになっています。
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 ソリストがこんなところにいたのでは、オケと合わせることなど不可能です。もういたるところでズレまくっていましたね。そして合唱は、なんと半分は階段に立たされていましたよ。この曲では、ソリストが歌っている間に合唱が座って休めるところがたくさんあるのに、実際に座ったのは「Lacrimosa」のあとだけ、ステージの上はちゃんとベンチがありましたが、階段の人はその階段に座らなければならず、それはかなりみっともないものでした。それを避けるために、敢えて1回しか座らさなかったのかな、と勘ぐられるほどです。あるいは、もしかしたら、こういう大きな曲をやるときにはこんなみっともないことになってしまうホールでしか定期演奏会が出来ないことのデモンストレーションのために、山下さんはこの曲を取り上げたのかもしれませんね。他のオケのように、合唱団がすんなり立ったり座ったり出来るホールを、早く造ってくれ、と。
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by jurassic_oyaji | 2009-10-23 23:37 | 禁断 | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.9
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Alan Gilbert/
Royal Stockholm Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-1710(hybrid SACD)



ともにニューヨーク・フィルのヴァイオリン奏者だった日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれたアラン・ギルバート(1967年生まれですから、アランフォー)は、そのニューヨーク・フィルの歴史の中で初めてのニューヨーク生まれの音楽監督としてのキャリアを、つい最近スタートさせたばかりです。全くの余談ですが、先日ご紹介した世界のオーケストラのムックを読み直していたら、「09年秋に、NY生まれのケント・ギルバートが音楽監督に就任する」と書いてあったのを発見してしまいました。弁護士が指揮者に転身!でしょうか。思いこみとは恐ろしいものです。
それはともかく、彼のそれまでのポストが、このロイヤル・ストックホルム・フィルの首席指揮者、この録音が行われた2008年の6月には、ちょうど首席指揮者としての最後のコンサートが行われていたそうです。
マーラーの9番といえば、彼の作品の中でもひときわ複雑で難解なものとされています。さらに、曲の中にまざまざと感じられる、迫り来る「死」の予感、ある人に言わせれば、この曲を知っているのと知らないのとでは、人生観そのものが変わってしまうほどの影響力があるのだそうです。確かに、この作品の中にあらわれるテーマたちには、なんとも行き場をなくしてしまったような切なさが漂っています。
曲の始まりからして、そんなはっきり割り切ることの出来ない音楽の予感を与えられるものです。なにしろ、最初に登場するまともなテーマらしきものが、ミュートを付けたホルンという極めて脆弱な存在感の楽器によって奏でられるのですからね。ギルバートは、こんなつかみ所のない音楽を、聴いているものに的確に伝えるために、なにか具体的な現象をイメージさせるような方法をとっているようにも感じられます。そのための、さまざまなキャラクターを持つフレーズやパッセージを、その特徴が際立つような形に歌い分けてくれています。例えば、最初の楽章の真ん中過ぎに現れる「葬列のように」というマーラーの表記がある部分では、トランペットの奏でるマーチに乗って進む重々しいお葬式の行列が通り過ぎる様子が描かれます。それを見送るかのように小声でさえずる小鳥たち、そして、遠くの方からは、教会の鐘の音が聞こえてきます。こんな情景が、まるで絵画のようにギルバートの手によって描き出されているのです。
最後の楽章は、それまでの「死」のイメージから、それを乗り越えた浄化された世界に変わります。ほとんど弦楽器のみで演奏されるそのゆったりとした音楽は、まさに「5番」の「アダージェット」と同質の穏やかなテイストを持っています。しかし、「5番」と異なるのは、時折加わってくる金管楽器やバスドラム、シンバルなどによって、とてつもない荒々しい表現も見せる、という点です。真ん中あたりで見られるクライマックスが、そんな幅広いダイナミック・レンジの聴かせどころでしょうか。
そんな、金管とバスドラムの咆哮のあとに、瞬時にして訪れる平静なシーンでギルバートが強調したのは、なんとも穏やかでキャッチーなメロディ。それはまさにあのアーヴィング・バーリンの名曲「ホワイト・クリスマス」のメロディそのものではありませんか。そういえば、3楽章の途中でも、確かにこのメロディは聞こえてきたはずなのですが、なぜかそんな連想は出来ませんでしたよ。
もちろん、この映画音楽が作られたのはマーラーが亡くなって30年も経ってからのことですから、彼自身にはよもやこの旋律が後にクリスマス・ソングの定番に形を変えることなど思いもよらなかったことでしょうね。でも、「ホワイト・クリスマス」を知ってしまった私たちには、この旋律の中に、降りしきる雪の情景を重ねてしまうのはごく自然のことです。時代を超えて、全くジャンルの異なる二人の作曲家が同じメロディを用いて描いて見せた世界、そんな思いがけないことにふと気づかされるのが、このギルバートの演奏です。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2009-10-22 21:11 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony No.9
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Christiane Oelze(Sop), Petra Lang(Alt)
Klaus Florian Vogt(Ten), Matthias Goerne(Bar)
Paavo Järvi/
Deutscher Kammerchor
The Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
RCA/88697576062(hybrid SACD)



もうすでにあちこちで大評判のヤルヴィのベートーヴェン・ツィクルス、その最後を飾る「第9」です。もちろん、オーケストラはとドイツ・カンマーフィル、ジェンダーの壁を越えたオケです(それは、「ドイツ・オカマーフィル」)。このレーベルは、もはや実体のないものとなってしまったRCAですが、クレジットを見ると実際に制作しているのはこのオーケストラの自主レーベルなのでしょうね。そのライセンスを、やはり実体があるのかないのかはっきりしない「BMG Japan」(今月号の「レコ芸」では、ついに広告もなくなりました)に譲って、親会社のSONYからりリースされたという、今のCDの流通を象徴するような複雑な経過を経てユーザーの手に渡っている商品です。ほんと、こういうメジャー・レーベルの商売を見ていると、かれらはもはや「ものを作る」という仕事を放棄しているようにしか思えません。
そんなことは、もちろん演奏家にはなんの責任もありません。ヤルヴィたちはいつものように、極めてスリリングな演奏をメディアを通して多くの人に伝えたいと願っているだけのことなのでしょう。
「カンマーフィル」の名前の通り、ここでの弦楽器の編成は8/7/6/6/4という(プルトではありません)、「第9」を演奏するときの「普通の」オーケストラの半分の人数しかいないというものです。合唱も40人程度、決して「大人数」とは言えません。ただ、データではこの録音は2008年の8月(1~3楽章)と12月(4楽章)の2回に分けて行われており、それぞれでメンバーが少しずつ異なっています(だからどうしたということではないのですが)。
「今」のベートーヴェンの演奏、普通のオーケストラでもかつてのような雄大なものを期待するのはなかなか難しいところですが、それがこの人数になれば、当然さらに軽やかな音楽になるはずです。第1楽章などは、いとも軽快なテンポで、まさに「室内楽」的な、外へ向かって大声で叫ぶのではない、もっと仲間同士の声を聴き合う親密さの中での音楽が生まれています。中でも、木管セクションはとても良く溶け合った響き、決して少ない弦楽器に覆い被さるようなことはありません。ソリスティックはフレーズがあったとしても、それは決して個人が目立つのではなく、セクション全体で盛り上がる、といった姿勢でしょうか。
ですから、つい大味になりがちなフィナーレにも、細やかな神経が行き届くことになります。出だしこそびっくりするような音の炸裂がありますが、低弦のレシタティーヴォなどはいとも穏やかな表情で、拍子抜けするほどです。そして、それを受け継ぐバリトンのゲルネが、なんとも爽やかなソロを聴かせてくれています。「O Freunde!」という、いかにも大見得を切りたくなるようなオペラティックなフレーズを、彼はまるでリートを歌うような繊細さで歌っているのですからね。
テノールのフォークトも、こういうコンセプトの中ではまさにうってつけの軽いキャラ。歩いているのではなく、小走りほどの急速な「マーチ」に乗って歌われる彼のソロは、そんな軽やかさの中で、まるで羽根が生えたような浮遊感を味わわせてくれるものでした。
そして、合唱の、特に男声はかなりのハイレベルの演奏を聴かせてくれています。なんといっても白眉は「Seid umschlungen」での男声合唱。これほどの透明感をもって「神の前に跪いて」いるさまを表現した演奏は、ほとんど初めて聴いたような気がします。後半では、なんと合唱とオーケストラとが共鳴しあって、とてもこんな人数とは思えないほどのダイナミックな音響を生み出していますよ。
楽譜はベーレンライター版。最初の頃こそもの珍しさが半分で使われていたこともありましたが、対抗馬のブライトコプフも、ほとんど同じような新版を出したことで、演奏家の認識も変わったのでしょうか、例えばオーケストラの間奏を締めくくるホルンの不思議なシンコペーションにも、しっかり意味を見いだせるような自信に満ちた表現が聴かれます。

SACD Artwork © The Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
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by jurassic_oyaji | 2009-10-20 23:05 | オーケストラ | Comments(0)
ゆめのよる
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波多野睦美(MS)
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25475



このCDでの波多野さんの「肩書き」は「メゾソプラノ」、ムチなんかが好きなのでしょうね(それは「マゾソプラノ」)。しかし、そんな「クラシック」っぽい呼ばれ方など邪魔になってしまうほどに、彼女の声は、古楽から現代曲、さらにはポップスまでと幅広いレパートリーに対応できるものです。そういえば、かつてつのだ☆ひろ、ではなくて、つのだたかしのバンドと共演したアルバムでは「ボーカル」というクレジットになっていましたね。そう、彼女の声はまさにそんな風に呼ばれるのがもっとも適しているような、時代やジャンルには特定されないしなやかさを持っています。
今回のアルバムでは高橋悠治と共演しています。もちろん悠治の作品も歌っていますが、メインはモンポウやプーランク、ブーランジェ、そしてサティといった人たちの作ったフランス語の「歌曲」です。そこで歌われる歌たちは、彼女の手にかかるとおよそ「フランス歌曲」といったくくりでは語り得ないような不思議な肌合いを持つことになります。まず、テキストであるフランス語のディクションが、決してフランス語には聞こえないというほとんど「カタカナ」の世界であることが、かなり重要な意味を持ってきます。「カタカナ」で歌われた結果、「フランス歌曲」はもはやそのようなカテゴリーの持つ「瀟洒」や「粋」といった属性を剥奪され、限りなく「にほんごのうた」に近づくかに見えてきます。悠治の「むすびの歌」が、サティの「Daphénèo」とブーランジェの「Reflets」に挟まれたところで全く違和感を与えないのは、そのせいなのでしょう。悠治の曲をさらりと歌ってのけた中山千夏のイノセンスと同じ種類のものを、そこでは感じられるはずです。
この中では、悠治のソロも聴くことが出来ます。それがサティの「ジムノペディ」3曲です。あまり言及する人はいないかもしれませんが、今では「名曲」となって誰でも知っているこれらの曲を、ほとんど最初に日本の音楽シーンに紹介したのが、実は悠治だったのです。ただ、彼が我々の前に提示したサティの世界は、あくまで「ヴェクサシオン」などに代表されるような「前衛的」な姿でした。今のサティの聴かれ方からは想像も付かないことですが、悠治はあくまでもジョン・ケージのさきがけとしてサティをとらえ、それを聴衆の前に提示していたのです。
その「時代」、1976年にDENONに録音したサティのアルバムを聴くと、そこからはなんとも乾いた肌触りの「ジムノペディ」が聞こえてくるはずです。まるで機械のような正確なビートに乗って、メロディは決して歌われることはなく、単なる音の高低の連続のように響いています。それこそ「瀟洒」や「粋」が完璧に剥奪された、従って確実に「未来」の見える音楽が、そこにはあったのです。

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しかし、それから30年以上経った「未来」に彼自身が再び世に問うた「ジムノペディ」は、そんな「過去」の音楽とは全く異なる様相を呈していました。かつてあれほど厳格だった時間軸の呪縛は完膚無きまでに消え失せ、そこには左手のベースと右手の旋律とが全く別のクロックによって支配されているかのような不思議な流れがあったのです。いや、そういう印象はあくまで「過去」の彼のスタイルを基準にして述べているだけであって、ごく普通の言い方をすれば、極めて「ロマンティック」なスタイルに変わった、というだけのことなのですが。
これは、5年前のバッハの場合には見られなかったこと、それは、もはや「前衛」としてのサティなどどこにもなくなってしまったことの反映なのか、あるいはその5年の間の悠治の変化なのか、にわかには判断は出来ません。そもそもそんな答えを見つけたところでなにになるのか、という思いの方が、より切実なものとして存在しています。

CD Artwork © Avex Entertainment Inc., Nippon Columbia Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2009-10-18 22:57 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Die Schöne Müllerin
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Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
DECCA/478 1528



DECCAからは3枚目となる、カウフマンのアルバムです。以前の2枚はオペラアリア集でしたが、今回はシューベルトのリートです。そういえば、実質的なデビュー・アルバムとしてHARMONIA MUNDIからリリースされたものもR.シュトラウスのリートでしたね。その時の共演者、ヘルムート・ドイッチュが、ここでもピアノ伴奏を担当しています。
この録音は、クレジットでは「コンサートのライブ」となっています。確かにバックには観客のざわめきのようなものが聞こえますし、おそらくその時に撮影されたのでしょう、ブックレットにはマイクがたくさんセットされた会場で拍手にこたえている写真もありました。ただ、その会場はかなり狭い空間のようですから、「コンサート」というよりは「公開レコーディング」のような場だったのではないでしょうか。最後の曲のあとでも拍手は入っていませんし。入れておけば良かったのに(それは「後悔レコーディング」)。
「美しき水車屋の娘」は大好きなリート集で、昔から良く聞いていました。「冬の旅」ほど暗くはなく(あくまで曲調がですが)、それほど深刻になることはありませんし、主に歌っているのがテノールですから、なにか「軽い」感じもしていました。伴奏がピアノではなく、フォルテピアノとか、ギターでも違和感はありません。そして、例えば「冬の旅」のツェンダー版のように無茶苦茶な扱いを受けるようなこともないのではないか、などと、全く根拠のないことを考えたくもなるような、ただ暗いだけの世界はこの中にはありません。
ここでのカウフマンは、まさに、そんな元気の良い若者のような、明るさ丸出しで曲を始めます。それはあくまで、この連作リートのストーリーを意識したものなのでしょう。前半はノーテンキに好きな女性に出会えた喜びに浸っているものの、それが他のオトコに走ってしまったために失意に陥り、最後は小川に身を投げる、というプロットです。ただ、それにしてもここでの彼はいつもの緻密な歌い方とはちょっと違って、すこし羽目を外しているようにも思えてしまいます。正直、歌い方は乱暴ですし音程もかなりいい加減。「娘は僕のものだ!」と大声でがなり立てる様子は、まるでやんちゃ坊主がダダをこねているように聞こえてしまいます。
それだからこそ、伴奏のドイッチュのピアノのうまさが光ります。ちょっと暴走しそうになるテノールを、巧みに操っている様子が良く分かりますし、曲集全体の構成をしっかり見据えた上での音楽作りで、しっかり歌手をサポートしているのではないでしょうか。もっとも、それでもカバーできずに、ついはみ出てしまう、というような場面も見られますが、まあそれは「ライブ」ならではのテンションがもたらしたものなのでしょう。
しかし、曲が進み、失恋モードになるにつれて、だんだんカウフマンの表現も落ち着いてきて、やっと安心して聴いていられるようになります。音程もだいぶマシになってきますし、声にも輝きが出てくるようになってきます。さらに「しぼめる花」あたりからは、「張った」声ではない、「抜いた」ソット・ヴォーチェがとても心地よく聴けるようになってきます。これは前半にも用いていたものですが、そこではいかにもとってつけたような印象は拭えませんでした。しかし、それが次第に必然的な表現としてこなれてきたのですね。
ですから、それを最大限に駆使した終わりの2曲「水車屋と小川」と「小川の子守唄」には、ちょっとゾクゾクするほどの凄さがありました。短調で歌われる「水車屋=若者」と、長調で歌われる「小川」との対話の妙、そして、なんとも慈愛に満ちた「子守唄」、確かに、今までちょっと乱暴気味に歌っていたのは、最後のこれらの曲を引き立てるための伏線だったですね。とても細やかな神経を使った繊細で感動的な世界が、そこにはありました。

CD Artwork © Decca Music Group Limited
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by jurassic_oyaji | 2009-10-16 21:06 | 歌曲 | Comments(0)
Romantic Flute Concertos
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Gaby Pas-Van Riet(Fl)
Fabrice Bollon/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/98.596



1959年生まれ、1983年からシュトゥットガルト放送交響楽団の首席フルート奏者を務めているギャビイ・パ=ヴァン・リエト(ベルギー人なので日本語表記は困難、さまざまな表記が乱立している中で信頼の置けそうなムラマツのサイトでのものを採用しました)のソロアルバムです。彼女はその名門オーケストラのポストに20年以上も在籍、多くのコンサートでソロパートを担当(ノリントンとのブラームスの交響曲全集のDVDでは、2番以外でトップを吹いています)しているだけでなく、音楽大学の教授なども務めています。
ソリストとしても、恩師グラーフとの共演アルバム(CLAVES)など、アンサンブルを中心に多くのCDをリリースしていますが、今回は彼女と同郷、ベルギーの作曲家たちの協奏曲を3曲、彼女の職場の同僚のバックで演奏しています。その作曲家とは19世紀後半に活躍したペーテル・ブノワとヘンドリク・ウェルプット、そしてその2人の先生であるフランソワ・ジョセフ・フェティスという、現在では完璧に忘れ去られている作曲家、ウェルプットあたりは楽譜も出版されていないので、自筆稿を用いているほどです。
その時代、「ロマン派」と呼ばれている時代の作曲家たちは、なぜかフルートという楽器に対して冷淡でした。ピアノやヴァイオリンではあれ程多くの名協奏曲を書いたベートーヴェンやブラームスなどは、この楽器のための協奏曲など全く作ってはいません。この時代で唯一聴くことの出来る「まともな」フルート協奏曲といえば、カール・ライネッケという、おそらくモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の定番のカデンツァを作ったことすらもほとんど知られていない(そんなことはないねっけ)ほどマイナーな作曲家の作品しかありません。この頃楽器自体が過渡期にあったことがその一つの要因です。
しかし、そんなフルートのための作品がすっぽり抜け落ちているように見える「ロマン派」の時代でも、決して曲が作られなかったわけではありません。それらは、単に、そのような曲を作った作曲家たちが歴史的なふるいにかけられた結果、現在では先ほどのライネッケ以上に(以下に)マイナーになってしまっただけのことなのです。ですから、今回のリエトの仕事のように、実際に音として味わう機会さえあれば、それらの曲の魅力は同時代の他の楽器のための協奏曲に決してひけをとらないものであることが分かることになります。
ここで演奏されている3曲の中で、そんな魅力が最も良く感じられるのは、ブノワの「フルートとオーケストラのための交響詩」でしょう。3つの楽章には「鬼火」、「メランコリー」、「鬼火の踊り」というタイトルが付けられていて、いかにもロマン派の産物である劇的な情景描写が感じられる作品です。その中でフルートはまさに一筋の煌めきとして、音楽全体に生き生きとしたアクセントを与えています。真ん中の楽章の叙情的なメロディも、フルートの持つ叙情性をとことん信じた作り方です。
同世代のウェルプットの「フルートとオーケストラのための交響的協奏曲」も、やはり深い叙情と、そしてフルートの超絶技巧を遺憾なく味わえるものです。
さらに、その2人より40歳以上年上のフェティスが85歳の時に作ったという「フルートとオーケストラのための協奏曲」は、そんな高齢の人が作ったとは思えないほどの複雑な技法が散りばめられた曲です。ただ、その分他の2人よりはやや音楽としての重みが少なくなっているような気はします。
リエトは、これらの難曲を、その持ち前のテクニックでいとも鮮やかに吹きこなしていて、まさに胸のすく思いです。ただ、ゆっくりとしたパッセージでは、ちょっと「ちりめん」っぽいビブラートが耳障りに感じられる人がいるかもしれません。
いずれにしても、単にフルーティストにとどまらない、音楽愛好家にとっては魅力的この上ない曲たちを紹介してくれたのは、とても嬉しいことです。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH
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by jurassic_oyaji | 2009-10-14 20:46 | フルート | Comments(0)