おやぢの部屋2
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GERSHWIN/Porgy & Bess
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Jonathan Lemalu(Porgy), Isabele Kabatu(Bess)
Bibiana Nwobilo(Clara), Gregg Baker(Crown)
Nkolaus Harnoncourt/
Arnold Schoenberg Chor
Chamber Orchestra of Europe
RCA/88697591762




ガーシュウィンの「ポーギーとベス」ははたして「オペラ」なのか、あるいは「ミュージカル」なのか、という議論は、その時々でなにかしらの解答めいたものが提案されつつ、おそらく永遠に結論が出ないままにこれからも続けられていくことでしょう。
1975年に録音されたロリン・マゼールの「全曲盤」(DECCA)は、まさに「オペラ」としての存在を強く主張した最初のものだったのではないでしょうか。これは、それまでは仮に「オペラ」として上演されるときでも多くの部分がカットされていた慣習を改め、初めてガーシュウィンのスコア通りの演奏を行ったものとして評価されてきました。
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それに対して、最近のジョン・マウチェリによる「初演版」の蘇演盤あたりは、まさに「ミュージカル」寄りの提案だったはずです。ここでは、初演に際してガーシュウィンが、あまりに長すぎるオリジナル・スコアから、さまざまなカットを施した版を用いたという史実に基づき、その時の楽譜を再構築することによって、この作品があくまで商業的な「娯楽」を目指していた事実を明らかにしていたのです。
そんな具合に、この作品に対しては常に相対するアプローチが存在してきたなかで、今回のアーノンクールの演奏は、基本的には「オペラ」指向ではあるものの、そこにはやはり彼なりのこだわり(?)がふんだんに盛り込まれたものとなっていました。マゼールと同じく「全曲演奏」を目指すとともに、彼の場合は「スコアに書かれてはいないが、作曲者が求めたはずのもの」まできちんと音として再現しようとしていたのですからね。
それは、第3幕第3場(対訳では「第4場」というミスプリント)、第2場から数日が経過したキャットフィッシュ・ロウの朝をあらわす音楽です。まずオーケストラによる「序奏」が演奏されますが、それはマゼール盤とは異なり、途中で終わってしまいます。そして、そのあとに続くのが、「シンフォニー・オブ・ノイズ」と呼ばれる打楽器だけのインプロヴィゼーションなのです。最初に鳥の声のようなものが聞こえてきたので、SEでも挿入したのかな、と思っていると、それはどうやら打楽器奏者が演奏しているもののようでした。次第に奏者の人数も増えていき(きちんと4人のパーソネルがクレジットされています)、そこにはまるでヴァレーズとかチャベスを思わせるような「前衛的」なパーカッションのセッションが登場するのです。
もちろん、「全曲盤」を謳っていたマゼール盤にも、その後のラトル盤にも、こんなものは登場しません。書かれたスコア以外に、そのようなガーシュウィン自身のアイディアがあったはずだ、という、これはアーノンクールの「主張」に基づくものだったようですね。いやあ、こんな全く彼の守備範囲外だと思われていたところでもこれだけのものを見つけてくるなんて、まさにアーノンクールの面目躍如といった感じですね。
彼が「オペラ」を目指していたのは、合唱にアーノルド・シェーンベルク合唱団を起用したことでも分かります。もちろん、その洗練された声は明らかに「黒人音楽を用いたミュージカル」とは一線を画すものです。同じように、第1幕の「序奏」の中でピアノによって演奏される「ジャスボ・ブラウン・ブルース」にも、「ホンキートンク・ピアノ」(わざと調律を狂わせたピアノ。マゼールやラトルもこれを使っています)ではなくきちんと調律された「ピアノ」を使ったのも、同じ信念に基づくものなのでしょう。ただ、その「ブルース」は、延々と続くはずのソロが見事にカットされています。スコアになかったものまで取り入れて「完全」を目指したはずのアーノンクールがこんなことをするなんて。やはり、彼はいつもの通り、ただの気紛れじじいに過ぎなかったのでしょうか。あんみつ好きの(それは「寒天」)。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2009-12-30 20:10 | オペラ | Comments(0)
BACH/Flute Sonatas
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有田正広(Fl)
有田千代子(Cem)
DENON/COGQ-40(hybrid SACD)



世界で最初にデジタル録音を実用化したDENONレーベルですが、SACDはほんのわずかしか出してはいません。この、有田さんのモダン・フルートによるバッハがたまたまそんな貴重なSACDだったのには、幸せを感じてしまいます。実際に同じトラックでSACDレイヤーとCDレイヤーを比較してみると、その違いは歴然としていますからね。
フラウト・トラヴェルソの名手として世界的に知られている有田さんがバッハのソナタをこのレーベルに録音したのはこれが1989年、2000年に続いて3度目のことなのだそうです。これまでの2回は当然トラヴェルソで演奏しているのですが、今回はなんと「モダン・フルート」で演奏しているということで、各方面に多くの話題を提供しています。「モダン」といっても、別に焼きそばが入っているわけではなく(それは「モダン焼き」)、テオバルト・ベームによって19世紀半ばに大幅な「改良」が施された楽器のことを指し示します。最初は木製でしたが、次第に金属製の管体が主流になっていきますね。それと同時に歌口のデザインなども細かいところで変化が加えられ、トラヴェルソとは同じ楽器とは思えないほどの音色を持つものに変わってしまっています。ここで有田さんが使っているのは、ヘルムート・ハンミッヒというドイツの名工が1968年に作った銀製の楽器です。「モダン」とは言っても、決して華やかではない、渋さを持った楽器として知られています。ちなみに、同じレーベルの高木綾子さんも、同じ人が作った楽器を吹いています。
有田さんという方は、いかにもオリジナル楽器のエキスパートのようなイメージが強いのですが、実は、トラヴェルソを吹くようになる前には、「普通の」フルート奏者でした。なにしろ、国内のコンクールでは最も権威があるとされる「日本音楽コンクール」で優勝しているのですからね。つまり、彼が目指しているのは、「すべての時代のフルートに通じる」ということだったのですね。近年はそんなフルートの歴史を実際の演奏を通して体験できるようなコンサートも企画されていますが、そこではドビュッシーのような「新しい」作品は、きちんと「モダン楽器」で演奏していますし。
そんな有田さんだからこそ、トラヴェルソでバッハを演奏するときの限界のようなものにも気づかれたのでしょう。それは、楽器や演奏様式はバロック時代を再現できたとしても、それを演奏する場所が必ずしもバッハ時代と同じものではない、ということなのではないでしょうか。多くの観客を前にして大ホールで演奏する時には、せいぜい数十人を前にして演奏するために作られた楽器では本来の味を伝えることは非常に困難になってくるのは、容易に分かることですからね。「現代の聴衆」に対しては「現代の楽器」が必要なのです。
そんな、一見矛盾を含んだかに見える試みを、有田さんはいとも淡々とやってのけています。なんのことはない、いままでトラヴェルソで極めてきたバッハの音楽を、そのままベーム管でも貫いている、というだけのことだったのです。そこからは、いつもと変わらない、ただほんの少し輝きのある音色の「有田さんのバッハ」が、ほんの少し高いピッチと、格段に正確な音程で聞こえてきましたよ。
1枚組ということで、偽作の可能性の高い変ホ長調のソナタは「シチリアーナ」だけがアンコールのように演奏されています。そこでの装飾は、例えば間奏のあとの23-24小節目のあたりは1989年の録音と全く同じものでした。しかし、その時には装飾を入れていなかった25小節目で、明らかにミスをしたと思われる箇所がそのままになっているのは、編集を担当していたプロデューサーの国崎裕さんの責任でしょう。「画竜点睛を欠く」とは、こういうことなのでしょうね。

SACD Artwork © Columbia Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2009-12-28 20:47 | フルート | Comments(0)
SHOSTAKOVICH/Symphonies Nos. 5 and 9
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Vasily Petrenko/
Royal Liverpool Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572167




1976年にサンクトペテルブルクに生まれた指揮者、ワシリー・ペトレンコは、現在はイギリスのロイヤル・リヴァプール・フィルの首席指揮者を務めているという、若手のホープです。すでに何枚かのCDを出していますが、日本での知名度はイマイチなのでしょう、参考のためにチェックしてみた例の最新のオーケストラや指揮者の「名鑑」でも、正確な経歴は記載されてはいませんでした。「オーケストラ」のRLPの項目担当の齋藤弘美さんによれば、首席指揮者は「ジェラード・シュウォーツ」でしたし、「指揮者」でのペトレンコ担当の福本健さんは「RLPの首席客演指揮者」と書かれていますからね。こんな、ネットを調べればすぐ分かるようなことすら把握していないライターさんがこういう「名鑑」に執筆しているなんて、なんだかがっかりですね。ニューヨーク・フィルの新しい音楽監督を「ケント・ギルバート」と書いていた山田治生さんみたいな人もいましたし。
しかし、このような無名のアーティストを聴くときには、なにか手がかりのようなものが欲しくなるものですから、そんななんちゃってライターが書いたものでも頼らざるを得ません。さらに、そんなリスナーの心を見透かしたかのように、最近では輸入盤でも日本の代理店がわざわざ「タスキ」を用意して、プロフィールなどを紹介してくれています。ただ、それだけにはとどまらないで、おそらく親切心からなのでしょうが、その演奏の「批評」までも書いているのは、正直ジャマ、というか、はっきり言ってそんな個人的な感想など読みたくもないような気がします。たまたまそれが的確なものであれば(そんなことはまずありませんが)許せますが、なんとも見当違いのことが書いてあったりすると腹が立ってきますよね。このショスタコでは「スタイリッシュな演奏」ですって。音楽が「スタイリッシュ」って、いったいどういうことなのでしょう。なんか、適当に耳あたりの良い言葉を使ってみました、みたいにしか思えないのですがねぇ。街でよく配ってますが(それは「ポケットティッシュ」)。
そんなまやかしにとらわれずにまっさらな心でこのCDを聴いてみると、ペトレンコという指揮者はなかなかの逸材であることが分かるのではないでしょうか。まず、問題作の「5番」に対しては、小細工を避けた直球勝負、さんざん手垢の付いたこの曲でこれほど真摯なアプローチをやられると、その新鮮さだけで惹かれるものがあります。なんせ、ムラヴィンスキーによる初演以来「伝統」として出来上がった「型」が、この曲にはついてまわっています。特に最後の楽章を盛大に盛り上げて「歓喜」だか「開放」だかを歌い上げるというのは、もはや誰しもが望むパターンと化しています。この部分を、ペトレンコくんはそんな晴れがましさには背を向けて、徹底して泥臭い演奏に終始しているのですよ。練習番号119番の悲しげなヴァイオリンの旋律(ここの歌わせ方が絶品です)のあとは、次第にテンポを上げて一気にフィナーレになだれ込む、というのが「型」なのですが、彼はそのままのテンポで最後まで踏ん張っています。ですから、エンディングのあたりはちょっと他では聴けないほどの「遅さ」になっていて、そのテンポがもたらす重苦しさといったら、ハンパではありません。そうなってくると、最後から3小節目から加わるバスドラムには、まるで「恐怖」のようなものが宿っているようには思えてきませんか?これは、もしかしたらこの作品の本質に迫るほどの「重い」演奏だったのかもしれません。それを「スタイリッシュ」などという「軽い」言葉で片づけられてしまっては、あまりにもペトレンコくんがかわいそう。
「9番」の方だって、一見爽やかそうでいて、2楽章あたりにはかなり粘っこいものが潜んでいるような印象を受けましたが、どうでしょうか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2009-12-26 18:54 | オーケストラ | Comments(0)
宛名印刷が出来ないディズニー年賀状
 きのうはクリスマスイブ、ネットにはこんな不気味なツリーが飾られていましたが、私はこういうティム・バートンっぽいのは大好き、ちょっと嬉しくなりました。
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 やはりこの日ぐらいは家に居たいものだと、小さなケーキを買ってきて、お酒が飲めない私はシャンメリーで乾杯です。なにげに「シャンメリー」などと書いてから気が付いたのですが、これを作っているのは仙台の「トレボン」という誰も知らないメーカーです。「キリン」とか「サントリー」では決して作っていないのですね。ですから、てっきりこれはこの地方にしかないものかな、と思っていたのですが、調べてみたら全国にそれぞれマイナーなメーカーが作った「ご当地シャンメリー」があるんですってね。一つ物知りになりました。
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 そんな、今まで知らなかったことが突然分かる、というのがたまにあるものです。このシーズン、チキンのCMが流れている「ファミリーマート」では、CMソングの最後に「あなたとこんびにふぁみりーまーと」というキメのフレーズが流れます。これの前半を、私は今まで「あなたとコンビニ」だ、とずっと思っていました。「あなたとコンビニに行きましょう」とか、「あなたとコンビニはお友達です」とか、後ろになにか余韻、みたいなものを残した言い方だと思っていたのです。しかし、これは本当は「あなたとコンビに」だったというではありませんか。これだけで完結していたのですね。これで、恥をかかないで済むことになりました。

 しかし、なんでこんなことに気づかなかったのか、というのが、今年の年賀状です。ご存じでしょうが、ディズニーバージョンの年賀状には、今年から当選番号を調べるためのサイトにつなげるように、QRコードが付くようになりました。ところが、パソコンで宛名を印刷すると、こんなみっともないことになってしまいます。もちろんお年玉のナンバーを考慮した「年賀状モード」で印刷したのに、ですよ。
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 このデザインを考えた人が、一度でもパソコンで宛名を印刷しさえすれば、字数が多い時にはここに重なってしまうのは分かったはずなのに、困ったものです。来年からはどうなることでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2009-12-25 21:42 | 禁断 | Comments(0)
WAGNER/Der Ring des Nibelungen
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Georg Solti/
Wiener Philharmoniker
ESOTERIC/ESSD-90021/34(hybrid SACD)



DECCAのレコーディング・プロデューサー、ジョン・カルショーのチームが1958年から1965年にかけてセッション録音を行ったワーグナーの「ニーベルンクの指環」全曲は、まさに録音芸術の一つの頂点を極めたものです。作られてから半世紀近く経った現在でもその高い評価は変わってはいません。
しかし、それを支えた天才エンジニアのゴードン・パリーが作り上げたアナログ・データの豊穣さは、到底CDごときに収まりきるものではありませんでした。CDよりはるかに微細にわたっての再生が可能なSACD化は誰しもが望んでいたところですが、あいにくDECCAをレーベルとして保有しているUNIVERSALは、今ではSACDに対しては極めて冷ややかなスタンスを取っています。
そんなレーベルとしての使命感を放棄してしまった巨大レコード産業に代わって、この大切な仕事を成し遂げたのが、日本のオーディオ・メーカー「エソテリック」でした。その全曲のパッケージは、さながら40年前にキングレコードから発売されたLPによる超豪華ボックスセットを思わせるものです。DVDサイズのデジパックに二枚ずつ収められたSACDの他に、同じ装丁で有名なハンフリー・バートンの「神々の黄昏」のメイキング映像「The Golden Ring」とブックレットが付いています。さらに、歌詞対訳と、カルショーの「Ring Resounding」の新訳が同梱されているという豪華な陣容です。「キング」ボックスにも、黒田恭一の旧訳が付いていましたね。しかし、その時にあった日本語のナレーションの入ったライトモチーフの音源集は、ここにはありません。
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音については、なにも言うことはありません。杉本一家さんによるマスタリングは、今まで聴いてきた多くのXRCDで味わえたのと全く同質の、マスターテープに収められていたであろう全ての音が、生々しく迫ってくるという驚くべきものでした。
例えば「ワルキューレ」第一幕の前奏曲を、今までのCDと聞き比べてみると、その違いは歴然としています。なによりも、そこからはショルティに煽られて(この模様は、DVDでつぶさに見ることが出来ます)ウィーン・フィルがいつになくハイテンションの演奏を繰り広げているのが、手に取るように伝わってきます。アタックやクレッシェンドに込められた弦楽器奏者の「思い」までが、そこからは聴き取れたのです。こんなこと、DECCAのマスタリングによるCDからは決して味わうことは出来ませんでした。
この作品の中で最も美しいジークムントのアリア、「Winterstürme wichen dem Wonnemond」では、ジェームズ・キングの声がとても立体的に聞こえてきます。前奏でのヴァイオリンやチェロの高音のふくよかさも感動的です。ただ、このあたりはハイ・サンプリングの恩恵が顕著に現れるところですから、いかに杉本さんとはいえ、CDレイヤーではさすがにSACDと同等、というわけにはいかなかったようです。
SACD(もちろん、2チャンネルステレオのみ)が14枚とDVDが1枚で58,000円という価格設定については、なんとも微妙な思いです。これだけの良心的な仕事の代償としては決して高いものだとは感じられませんが、その他の「付録」があまりにお粗末なものですから。カルショーの本は普通に書店で売られているものと全く同じですから、わざわざ付けた意味が分かりません。それよりも、こんな美しくない訳文のものよりも、今では手に入らない旧訳を復刻してくれたら、どれだけありがたかったことでしょう。音友版をそのまま使った対訳については、手抜きとしか言いようがありません。なんせ、本文にはSACDのトラックナンバーは入っていないのですからね。さらに、ブックレットにある曲目解説も、1965年に出版された渡辺護の著作の引き写し(ライトモチーフの譜例までも)というお粗末さです。
そんな、せっかくのSACD化に泥を塗るような扱いを含めての、これは貴重なボックスです。なんせ1,000セット限定商品ですからね。こんな宝物を入手できた幸福感に、今しみじみと浸っているところです。暇を作って、せっせと聴くことにしましょう。

SACD Artwork © Esoteric Company
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by jurassic_oyaji | 2009-12-24 20:05 | オペラ | Comments(0)
クリスマス・イブ
 クリスマス一色の世の中ですが、それを盛り上げているのがクリスマスソングですね。古典的な「ジングルベル」や「ホワイト・クリスマス」を始めとして、さまざまなジャンルのこの時期にちなんだ曲が、どこへ行っても聞こえてきます。
 山下達郎の「クリスマス・イブ」も、そんな曲の一つ。FMなどでは、この時期1日1回は聞こえてくるのではないでしょうか。この曲が作られたのは1983年といいますから、もう四半世紀以上の歴史を持っているのですね。こうなるともはや「古典」の仲間入りです。ただ、実際に「大ヒット」となったのは、1989年にCMに使われて以来のことだということですが。実は、この曲を作ったころに達郎がDJを務めていたラジオ番組(なんとNHKFM)を聴いていたのですが、曲が出来た直後にラジオで流したときに、達郎が言ったことを、今でもおぼえています。今では、誰が聴いても、この曲はパッヘルベルの「カノン」を下敷きにしたものだと分かりますが、実はその頃は「カノン」はそれほど有名な曲ではありませんでした。達郎は当時RVCというレコード会社の専属アーティストだったのですが、彼は「カノン」を聴くときに同じレコード会社が販売していたERATOのパイヤールの指揮の演奏のCDを、会社の人からもらって聴いたというのです。彼の口から「パイヤール」などという人名が出てきたのが、かなり新鮮な気がしました。
 「カノン」からの引用は、間奏のア・カペラの部分のコーラスでベタにあらわれますが、なによりもAメロのコード進行がまさに「カノン」と同じものなのですよね。ニ長調の「カノン」は、バスに同じ音型が執拗に繰り返されるという「パッサカリア」の形式をとっています。その音型は、ハ長調に直すと「ド・ソ・ラ・ミ・ファ・ド・ファ・ソ」というものです。ちなみにそれに乗った和声をコードネームであらわすと、「C-G7-Am-Em-F-C(Em)-Dm-G7」となります。これは、ベースが「ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ソ」というように、音階にしたがって下降するという分かりやすい定型コード(「クリシェ」と言います)の形です。
 達郎は、これに従ってメロディを作りますが、そこで「パッヘルベル」になってしまわないためのある工夫を施すことになります。それぞれのコードの上の歌詞とメロディは、こんな風になっています(オリジナルはイ長調ですが、分かりやすいようにハ長調で)。

  • C:雨は夜更け(ミミミド)
  • G7:過ぎーに(レーレ)
  • Am:雪へと変わ(ドドドドレミ)
  • Em:るだーろ(シーシ)
  • F(Fmaj7):Silent(ミミー)
  • Em(Em7):Night(レ)
  • Dm(Dm9):Holy(ミミー)
  • G7:Night(レ)

 赤い字は倚音ですから、前半のメロディは「ミ・レ・ド・シ」と見事にこの流れるようなコードに従っています。ところが、「Silent Night Holy Night」の部分になったとたん、「ラ・ソ・ファ」とはならずに「ミ・レ・ミ」というとんでもないメロディに変わります。パッヘルベルを聴き慣れた耳には、これはとても違和感のある跳躍です。事実、この部分のコードからすると、最初の「ミ」はF Major 7thの7音、次の「レ」はE Minor 7thの7音、そして次の「ミ」はD Minor 9thの9音という、それぞれかなり「ジャジー」な響きを担っている音になっているのです。このあたりが達郎の作曲技法のキモ、18世紀のコード進行を借りていながら、出来上がったものは見事に20世紀の響きを持っているのですね。
 そのパッヘルベルの「カノン」ですが、もともとはクリスマスとはなんの関係もない曲だったはずです。それが、達郎のクリスマスソングに転用されて、それが大ヒットしたために、「カノン」自身もクリスマスの曲のように扱われるようになってしまったというのは、なんだか愉快な感じですね。「名曲」なんて、そんなものです。
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by jurassic_oyaji | 2009-12-23 22:34 | 禁断 | Comments(0)
世界の指揮者名鑑866
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音楽之友社刊(音友ムック)
ISBN978-4-276-96193-7



世界のオーケストラの中での国境を越えた人事異動は、今では日常茶飯事、今までオランダのオーケストラの指揮者だったイタリア人が突然ドイツのオケに「転勤」することなどは珍しくもなんともありません。指揮者に限らず、腕の立つ首席奏者なども各地で引っ張りだこ、アメリカの2つのメジャー・オーケストラで同時に首席フルーティストを務めている、などというフランス人まで現れています。
そんな激動の時代ですから、指揮者やオーケストラのデータなどはすぐに古くなってしまいます。今まであったものは2002年に発行されたものですから、もはや使い物にはならなくなってしまった頃に、やっと先日のオーケストラ編に続いて新しい指揮者編が登場しました。
オーケストラ同様、紹介されている指揮者の人数が2002年版の「500」から「866」と大幅に増えているのが、まず嬉しいところです。1ページを割いて紹介されている「グループ1」から、8人で1ページという「グループ4」まで、実力というよりは人気というか、CDの売り上げというか、そんなお金に換算できるような評価でランキングされているというあたりが、シビアな世界です。ですから、逆に「グループ4」に入っているようなマイナーな指揮者の名前を知っているだけで、あなたは「通」と崇められることでしょう。なんせ、ギルバート・キャプランまで載っているのですからね(だれそれ?)。
もちろん、「グループ1」ともなれば、泣く子も黙る「大指揮者」です。前回は下から2番目の「グループ」だった(ちなみに、その時には5段階評価)ファビオ・ルイージなども含めて、その59人をしっかり頭にたたき込んでおくことは、クラシック・ファンとしての最低のスキルとなってきます。ただ、そんなとても大切な人たちを扱っているというのに、その紹介文が執筆者によって大きく書式が異なっている、というのは、重大な問題です。これは、前の「オーケストラ編」でも痛感したのですが、こういう、いわば「事典」に必要なデータの提示の仕方がまちまちで統一されていないものですから、読んでいて非常に腹立たしくなってくるのですよ。年代順の経歴を同じ部分にまとめるというようなことは出来なかったのでしょうか。これはひとえに編集者の怠慢、というか、基本的な実力やセンスの不足が原因なのでしょう。字数だけ決めて、あとはライターさんにお任せという、このような編集者不在の書籍が横行しているのは、とても悲しいことです。なんせ、エッシェンバッハ(「グループ2」)がフィラデルフィア管の音楽監督をとうの昔に解任されたことすらもチェックできていないのですからね。
一方の日本人指揮者はというと、こちらは全部で100人と前回とほとんど変わっていません。その分、10数人の人が「入れ替わって」いますよ。外国人の場合は前回の人はほぼ全員載せた上での増員ですが、なぜか日本人には厳しい音友ムックです。「消えた」人では、大谷研二さんは大怪我の影響でしょうし、宮川彬良さんはあまりにもテレビに出すぎということで納得ですが(そうなると、佐渡裕はどうなるのか、という話はさどおいて)、ロスアンジェルス・フィルの定期を振ったほどの篠崎靖男さんがなくなっているのが意外です。やはり、国内で活躍していないことには、音友的(というか、奥田佳道さん的)には扱いが軽いのでしょうかね。残念なことです。
反対に新しく「入った」のが、なぜ今までなかったのか不思議な山田一雄と渡邉暁雄という大御所です。こういう方々をないがしろにしていてはいけません。山田和樹さんが入ったのは、もちろん「ブザンソン効果」でしょうね。
お馴染み、末廣誠さんは、今回も安泰でした。しかし、紹介文の最初に「お茶ペン」とか、「トークや曲目解説執筆も巧み」というのは、ちょっと違くないですか?奥田さん。

Book Artwork © Ongakunotomo-Sha
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by jurassic_oyaji | 2009-12-22 22:01 | 書籍 | Comments(5)
のだめカンタービレ 最終楽章/前編
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 前後編合わせて4時間の長尺映画、「のだめカンタービレ 最終楽章」の、まず「前編」が公開されましたね。テレビでドラマの再放送をしたり、ミスドとのタイアップで大々的にプロモったりしていましたが、果たしてその出来は。その前に、「最終楽章」って、なんか居心地が悪くないですか?(本当は「いずくないすか?」と書きたかったのですが、それでは世界の人には通じません)というか、実際に音楽の現場で「最終楽章」という言葉が使われているのを経験したことは、私の場合なかったような気がします。普通は単に「終楽章」って言いますよね。出版業界とかドラマ業界では「最終回」というのを日常的に使っているので、それに「楽章」をくっつけて音楽業界っぽくしたのでしょうが、微妙にずれているというか。
 つまり、原作にしてもテレビドラマにしても、そんな「ずれ」がとても気になっていたものですから、やっぱりこのタイトルか、と思ってしまったわけです。いや、しっかり頑張ってはいるんですよ。さりげなくオタクっぽいネタを持ってきたりして(「バッソン」、やりましたね)。でも、力が入った分、どこかぎこちないんですよね。用語が。
 まあ、そんなことは言わないで、大画面での「のだめ」を楽しむことにしよう、と、「メンズデー」をねらって利府まで行ってきました。思った通り、平日ではガラガラでしたが、初日はどうだったのでしょう。
 まず、いきなりウィーンのムジークフェライン・ザールですよ。これはすごいですね。なんでもここで映画が撮影されたのは初めてのことなのだとか。ということは、ハンフリー・バートンがこのホールで撮りまくったバーンスタインとウィーン・フィルの映像は「映画」ではなかったのですね。あ、「記録映画」は除外とさせて頂いてるんですか。でも、演奏が終わるなりのスタンディング・オベーションというのが、やはり「ずれ」に感じられて仕方がありません。今では「ハレルヤ・コーラス」だって、誰も立ったりしないというのに。
 その他に出てきたホールが、あと2つ。どちらも由緒の正しい馬蹄形のオペラハウスと、ステージにオルガンがあるシューボックス。あとで調べたら、チェコと、スロヴァキアのホールなのだとか。ついでに、演奏していたのはブルノ・フィル、まあ、外国人が日本人と中国人との区別が付かないように、我々にはチェコ人もフランス人も同じ顔ですから、かまわないのでしょうね。なんたって、ルー・マルレ・オケの事務局員が日本人なんですからね。
 プロットは原作にほぼ忠実に従ったものでしょう。しかし、最後に上野樹里が見せたシリアスな演技には、ちょっとびっくりさせられました。あの目。これは、原作で最初に見せた「のだめ」のキャラクターからは、ずいぶん遠いところまで来てしまったな、という感じがしてなりません。もしかしたら、原作者はドラマで上野樹里が演じることになったため、逆に彼女に合わせてキャラクターの修正をしたのではないか、などと考えてしまいます。というか、この頃になると彼女の「のだめ語」自体に、やはり「ずれ」を感じてしまいます。それが実写の辛いところですね。他で演じている役から離れては見てもらえないという。
 ドラマとは違って、劇伴も含めて全てクラシック、というのはすごいですね。でも「第9」みたいに2小節ずつ細切れにカット、みたいなことをやられると、ちょっと腹が立ちます。ボロボロのボレロなどは、なかなかよくできていたサントラでしたがね。のだめが弾いた「トルコ行進曲」も、いかにも気まぐれで良い感じ、きっちりそれらしく誰かが弾いているのだと思っていたら、なんとその「誰か」はランランですって。彼にこんなお遊びが出来るなんて。
 黒木クンのオーディションの時に出たのが「主席奏者」というテロップ。やはりこのぐらい「ずれ」てくれないことには。
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by jurassic_oyaji | 2009-12-21 20:46 | 禁断 | Comments(0)
VOGLER/Symphonies, Overtures, Ballets
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Matthias Bamert/
London Mozart Players
CHANDOS/CHAN 10504




「レクイエム」を聴いてすっかりハマってしまい、別の演奏家による2種類のCDを2回連続で「おやぢ」に登場させるという暴挙に出てしまったというフォーグラーですが、今回は交響曲などのインストもののアルバムを、いそいそとご紹介です。「私の好きな人に、どうか会って下さい、お父さん」みたいな。
音楽理論家や教育者としての実績は認められてはいても、作曲家としてのフォーグラーはほぼ完璧に音楽史からは抹殺されているのは、あのモーツァルトが彼のことを糞味噌にけなしまくったことが大きな原因になっているのではないでしょうか。有名な「手紙」の中で、モーツァルトは実際にフォーグラーを「糞」呼ばわりしているのですからね。
ご存じのように、モーツァルトは17771030日から1778年3月14日までの間にマンハイムに滞在して、当時最も高いレベルを誇っていた宮廷楽団への就活に励むことになるのですが(もちろん、「内定」が出ることはありませんでした)、その時にはフォーグラーはイタリアでの修行を終えて副楽長に就任したばかりだったのですね。何度か彼のことが話題に上ったあと、1778年の1月17日の手紙では、自宅にフォーグラーがやって来て、ピアノを弾いたときのことが書かれます。
彼はぼくの協奏曲を、初見で、ひきまくりました。第1楽章はまるでプレスティッシモ、アンダンテはアレグロ、ロンドときたら文字通りプレスティッシモです。低音は大概、譜面にあるのとは変えてひき、時には和声も別、旋律さえも変えていました。こう早くては、そうするより仕方がないでしょう。譜面を見ることもできないし、手だってひきこなせません。ですが、それがどうだっていうのでしょう?-初見といったって、こんなひき方はぼくには糞をするのと違わない(吉田秀和訳)。

もし仮に、ピーター・シェーファーの戯曲をミロス・フォアマンが映画化した「アマデウス」という作品が史実に正しく基づいていたのだとすれば、その数年後にウィーンの宮廷でモーツァルトがアントニオ・サリエリに対して行ったことは、このときのフォーグラーの演奏と全く同じ意味を持つものだったのではないでしょうか。フォーグラーがこれらの手紙を読んだとしたら、「おまえにだけは言われたくない」と叫んでいたことでしょう。というか、そもそもこれはとんでもない名誉毀損ですし。「2ちゃん」みたいな。
「レクイエム」でもうっすらと感じられていたフォーグラーの時代様式を超えた作風、それは、このアルバムの曲を聴くことでさらにはっきり分かるようになりました。いろいろな要素が絡まり合ってそんな印象が生まれるのでしょうが、最大の特徴は、彼の作るメロディには、殆ど「倚音(いおん)」が使われていないということです。倚音というのは空気を爽やかにするもの(それは「マイナスイオン」)ではなく、拍の頭によく使われるその部分のコードの構成音からは半音か一音ずれた音のことです。実例がこちらのタミーノのアリア。25.4秒と29.6秒付近に出てきます。その音が出た瞬間には「不協和音」だったものが、次の瞬間にはコードに収まる音に変わって「協和音」に「解決」するというのがミソ。これさえあれば、いかにも「モーツァルト」と、その時代の音楽のように聞こえます。
逆に言えば、この手法は「その時代」でなければ通用しなかった「味」ということにはなりませんか?現代の作曲家がこれをやったら「なんとロマンチック」と失笑を買うのがオチです。フォーグラーの作品が今でも勢いを失っていないと感じられるのは、もしかしたら「倚音」を使わなかったせいなのでは、と思うのですが、どうでしょう。
ですから、このアルバムの中での「バレエ組曲第2番」の最後のメヌエットなどは、逆に「倚音」が多用されているために違和感があったりします。

CD Artwork © Chandos Records Ltd
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by jurassic_oyaji | 2009-12-20 23:10 | オーケストラ | Comments(0)
「カルショーのリング」のSACD
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 今年も押し迫ってきましたが、月末も近くなると毎月購読している「レコード芸術」が発売になります。ふつうは20日なのですが、今月はその日が日曜日なので、今日19日が発売日になりました。愚妻がジャスコに買い物に行くというので、私もその中の本屋さんで「1月号」をゲット、愚妻が買い物している間に車の中で読んでいましょう。
 その中の「広告」まがいのグラビア記事で、ハタと目を見張らせられるものがありました。あの「ショルティのリング」がSACDになった、というのですよ。もちろん、これは録音史に永遠に残るであろう、ジョン・カルショーが制作したワーグナーの「リング」の全曲録音のことですね。なんせ、半世紀近く前の録音ですから、最初はLPで出たものです。それは、当然今までに何回かCDとなってリリースされていたのですが、なぜか最初聴いたLPが持っていた生々しさが決して伝わってくることのないものだったのです。それはやはりCDのスペックの限界だったのでしょうね。そのことは最近、実際に自分でLPをデジタル化してみて切実に感じるようになっていました。最低でも96kHz/24bitのPCMでないと、LPの持っている情報を充分に移し替えることは出来ないのですよ。CDの規格である44.1kHz/16bitでは、とてもそこまでのことは出来ません。ですから、現行の規格では、96kHz/24bitのPCMと同等のクオリティが得られるとされる圧縮なしのSACDでしか、「LP並み」の音を出すことは出来ないのです。
 要は、録音を行ったDECCAがSACDで「リング」を出してくれればそれは簡単に実現するのですが、なぜか、このレーベルを統括しているUNIVERSALは、SACDの生みの親であるにもかかわらずもはやこのフォーマットから完全に撤退してしまっているように見えます。したがって、「リング」のSACDが出るなどということは、永遠にかなわない夢だと思ってあきらめていました。しかし、その「夢」が突然かなうことになったではありませんか。なんでも、ハイエンド・オーディオブランドの「エソテリック」(これが「ティアック」のブランドだったことを、今回初めて知りました)が、DECCAのマスターテープにまでさかのぼってマスタリングを行った、というのですね。そういえば、以前秋葉原のヨドバシに行ったときに、そんなSACDを見かけたことを思い出しました。なんともすごいことをやってくれたものです。
 普通のレコード店では扱ってなく、一部のオーディオショップでしか手に入らない、というのも分かりましたが、「レコ芸」からは、それ以上の情報は得られませんでした。そこには価格すらも書いてありませんでしたし。まあ、家へ帰ってからゆっくりネットで調べてみようと、その時は思いました。
 それから行ったのが泉の「タピオ」です。ここにもやはり本屋さんがありますから、そこで、今度は「ステレオサウンド」を立ち読みです。オーディオメーカーの製品ですから、オーディオ誌だったら、もっと詳しい情報があるでしょうからね。確かに、お目当ての記事はありました。そこには、実際にマスタリングを行ったのは、あの杉本一家さんだとも書いてあります。いやぁ、杉本さんのマスタリングだったら間違いはありません。というか、こうなればなにがなんでも手に入れたくなってしまいます。見ると、「12月21日発売予定、限定1,000セット」とあるではありませんか。これを待ち望んでいた人はとても1,000人しかいないとは思えませんから、早く買わないとなくなってしまうかもしれません。いっそ、予約をして、確実に買えるようにしておいた方が良いのかも。
 さいわい、仙台には私が今使っているスピーカーを買った「のだや」という有名なオーディオショップがあります。ここだったら間違いなく扱っているでしょうから、予約も受け付けてくれるのでは、と、その場で「ステサン」の広告で番号を調べて電話をかけてみます。そうすると、電話口では「昨日入荷したところです」という返事でした。やはり、発売日の前にお店には届くのですね。これで一安心、すぐ買いに行こうと思ったら、「実は、2日前にメーカーから『完売した』との通知があって、今回入荷した8セットは、全て予約のお客さんのものになっています」ですって。なんでも1ヶ月前から予約を受け付けていたというのですね。なんということでしょう。普通のルートに乗っている商品だったらまずカバー出来るのですが、こちらにまでは手は回りませんでしたよ。私の「夢」ははかなく消えました。
 と思ったら、「社長が買った分がまだ未開封なので、それでよろしかったらお譲りしますが」と言ってきましたよ。もちろん、それでOKです。一足早い私自身へのクリスマス・プレゼント、明日になれば手に入るはずです。
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by jurassic_oyaji | 2009-12-19 22:50 | 禁断 | Comments(2)