おやぢの部屋2
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GARBIZU/Music for Txistu and Piano
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José Ignacio Ansorena(Txistu, Tamboril)
Álvaro Cendoya(Pf)
NAXOS/8.572096




またまた、誰も知らないトマス・ガルビスというスペインの作曲家のアルバムです。「初恋の味」ですね(それは「カルピス」)。そして、演奏されているのが、これも誰も知らない「チストゥ」という楽器です。まさにこのレーベルの面目躍如ですね。
「チストゥ」というのは、スペインのバスク地方の民族楽器です。リコーダーのように縦に構えて音を出す管楽器、リードのない、いわゆる「エアリード」なのも、リコーダーと共通しています。特徴的なのは、この楽器には音階を作るための指穴が3つしか開いていない、という点でしょう。その穴は、歌口から最も遠くの先端部分に、表に2つ、裏に1つ開いています。普通は、左手の親指で裏の穴、人差し指と中指で表の穴を押さえます。さらに、穴を全部開けたときに楽器を支えやすいように、先端部には輪っかがついていて、そこに小指か薬指を入れて固定します。そう、この楽器は、左手だけで演奏することが出来るのです。
そこで、余った右手では何をするのかというと、左腕に吊された「タンブリル」という、両サイドに皮が張ってある小さな太鼓を叩くのですよ。つまり、「チストゥ」と「タンブリル」はワンセットで演奏されることになっているのです。この演奏家は、「管楽器奏者」であると同時に「打楽器奏者」、しかもそれを同時に演奏しなければならないのですから、大変です。
なにしろ、穴が3つしかないのですから、そのままでは音は4つ(例えば「ド、レ、ミ、ファ」)しか出せません。あとは、強く息を吹き込むことで倍音を鳴らして、1オクターブ上の音(やはり「ド、レ、ミ、ファ」)、そしてもう1段階上の倍音でさらに5度上の音(「ソ、ラ、シ、ド」)を出して、かろうじて音階が出来上がります。もちろん、出来るのは全音音階だけ、半音を出すにはどうするのでしょう。
といった予備知識を持って、この「チストゥ」の「教授」であるアンソレーナという人の演奏を聴いてみましょう。その音は、まさにリコーダーそのものの素朴なものでした。しかし、その素朴な楽器が奏でる音階は、穴が8つ以上開いているリコーダーと殆ど変わらないほどの正確さを持っていたのです。半音もしっかり出していますよ。さすがは「教授」ですね。ただ、倍音を多用している高音部では、いかにも力が入っているというような、かなりハイテンションの音色になっています。
作曲家のガルビスは、1901年に生まれて1989年に亡くなった、やはりバスクの人です。そんな楽器のために作るのですから、そんなに難しいものではない、せいぜい民族音楽に毛の生えたようなものなのでは、といった先入観は、この卓越した技の冴えを見せる「教授」の演奏を聴くなり、跡形もなく消え去ります。これは、そんな「和み」を与えてくれるようなものではさらさらなく、言ってみれば、あの超絶技巧を思い切り振りまいた19世紀あたりの「ゴールデン・エージ」の産物そのものではありませんか。こんなシンプルな楽器でこれだけの細かい装飾的な音符を操るなんて、まさに神業です。
しかし、です。そんな華やかな技巧を凝らした曲を聴いて抱くのは、「こんなことをやっていて、いいのかなぁ~」という、なんともやりきれない思いです。確かにアンソレーナさんはよくやっています。しかし、何と言っても、この曲たちはこの楽器の機能の限界をはるかに超えたものを要求しているのは明らかなのですよ。最初のうちは「すごいなぁ」と思っていても、次第にその「無理」が見えてきてしまいます。そして、CD1枚聴き終わる頃には、そんな無理な演奏に付き合わされた疲れがどっと押し寄せてくるのですよ。それと、笛を吹きながら叩いている太鼓の、なんと鈍くさいことでしょう。
これも、前回と同じ、二度と聞きたくなくなるようなCDでした。それも、このレーベルの「面目躍如」たるところです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-02-28 23:08 | フルート | Comments(0)
Eight Visions
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Marya Martin(Fl)
Colette Valentine(Pf)
NAXOS/8.559629




マーリャ・マーティンというアメリカのフルーティストが、8人のアメリカの作曲家の作品を集めた「アンソロジー」を作りました。フルーティストもそして、その作曲家も、誰一人として馴染みのない名前だ、というのがすごいところです。そういう地道な仕事を日々行っているのがこのレーベルなのでしょうね。頭が下がります。ただ、例によって、国内盤についてきたタスキはデタラメの極致、ピアニストのファースト・ネームとラスト・ネームが逆になったりしていますが、それはCDを作った人のせいではありません。
作品を提供した作曲家とそのタイトルを、まず収録順にご紹介しましょう。「Velocity」という曲を作ったのは、ケンジ・ブンチ。名前といい、顔立ちといい、日系3世という感じでしょうか。ミニマルっぽいオスティナートの連続で超絶技巧が試されます。中間部は癒し系。ポール・モラヴェックの「Nancye's Song」も、メロディが美しい癒し系です。「ナンシー」というのはこのフルーティストのお母さんの名前なのだとか。
次は、中国生まれのチェン・イの「Three Bagatelles from China West」。タスキには「3つの小バラード」とありますが、「バラード」と「バガテル」って、違くないですか?これはもう中国丸出しの楽しい曲です。というか、日本人あたりにはとても恥ずかしくて表には出せないような五音階などを堂々と使っているあたりに、妙にうらやましさを感じたりします。タニア・レオンというキューバ出身の人の作品は「Alma」。これも、自分のアイデンティティであるラテン音楽満開という、明るい曲です。
イヴ・ベグラリアンという人の「I will not be sad in this world」では、なんと彼女自身の歌(声?)を録音したものを素材にして、それを変調したりマルチトラックに振り分けたりしたものが伴奏になっています。不思議な浮遊感の中に、フルートはあくまでもリリカルに流れます。デイヴィッド・スタンフォードの「Klatka Still」は、もろ「ジャズ」の手法による作品。めまぐるしい「早弾き」の連続です。
メリッサ・ヒュイという人は、香港生まれ。しかし、「Trace」という彼女の曲は、日本語の「間」という概念を取り入れた、とても共感できるものです。そして、トリを務めるのがネッド・ローレムという1923年生まれのこのなかでは最年長となる作曲家です。作品も一番長く、4つの部分からなる「Four Prayers」。フランス風の祈りを思わせる曲ですが、3曲目だけが定期的にピアノのクラスターが現れるというダイナミックな作風になっています。これは異教徒の祈りなのでしょうか。
こんな具合に、「現代音楽」と聞いて思い出すような難解さは全く見られない、楽しめる作品ばかりが集められています。技法的にも、フラッター・タンギングでさえちょっと異様に感じられるというノーマルさ、ひところ流行った「重音」や「ホイッスル・トーン」などは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。というより、もはや「現代音楽」が「難解」だった時代はとうの昔に終わってしまっていたことを再認識する、というのが、正しい聴き方なのでしょう。そうなってくると、「非西欧」の語法がこれからはメインになっていくような予感も。
そんな、「今」の音楽の一つの流れを見せてくれた興味深いアルバムではありますが、これらを演奏しているフルーティストは、もう二度と聴きたくなくなるような不快な音をまき散らしていました。いや、指はきちんとまわっていてなんの破綻もないのですが、常に、それこそ「重音」を出しているような、ヌケの悪い音からは、どの瞬間にも美しさを感じることは出来ませんでした。これを聴いて思い出したのが、現代音楽しか吹けないハンガリーのフルーティスト、イシュトヴァン・マトゥス、昔の現代音楽(変な言い方)では通用したのかもしれないそんな彼女の音からは、決して「今」は聞こえてはきません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-02-26 22:49 | フルート | Comments(0)
仮面舞踏会
 バンクーバー・オリンピック、盛り上がってますね。いろんな意味で。私が一番印象深かったのは、スケルトンで公式シールを剥がして失格してしまったという事件です。いったい、あのコーチはなにを考えていたのでしょう。
 そして、お約束通りフィギュアスケートの女子は、今の時点で最高潮に達していますね。明日になったらどうなるか分かりませんが、今日のうちならなんだって言えてしまいます。
 それにしても、きのうのショート・プログラムはすごかったですね。ああなってくると、スポーツと言うよりは「コンクール」みたいな感じになりませんか?「音楽を表現する力」なんてのが問われるのですからね。
 その音楽では、やはり浅田選手の「ワルツ」に注目でしょう。なんたって、たった今、その曲を練習しているというのですから。なんというタイミングなのでしょう。ところが、もう私たちは体に染みついているこの曲をテレビで聴いていると、なんだかあちこち違って聞こえてきませんか?なんだか2小節ぐらいカットしている、みたいな。そんなのが気になると、何をおいても調べてみたくなるのが私の性、手元にはスコアもありますし、さっそく調べてみましたよ。
 その結果が、これです。黒いラインがオリジナル、A(→音源)、B(→音源)、C(→音源)と3つのテーマが登場、非常にかっちりした構成ですね。
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 そして、赤い矢印が競技に使われた音源です。やはり、あちこちカットがありますね。同時に、繰り返し(二重の赤い矢印)を行っている部分もありました。
 例えば、最初に出てくるBのテーマは省略しても、最後にまた出てくるので問題はないのですが、一番引っかかるのが、A'のテーマの後半に施されている無惨なカットです。練習番号6と12は全く同じカットですが、最初の2小節のカットはともかく、そのあとの4小節のカットはちょっとひどいのではないでしょうか。音を聴いてみてください。オリジナル(→音源)とカット版(→音源)です。
 どうです?このカット、かなり無理があるようには聞こえませんか?この部分は、4小節かけて半音ずつ音が下がって次につなげるという、音楽的に重要な役割を持っています。それを省いていきなりここに行ってしまうのは、まるで初めてのデートでホテルへ行ってしまうようなものなのではないでしょうか。やはり、もう少し慎み深くオトコをじらすのが、女性のたしなみなのでは(笑)。
 ちなみに、浅田さんのフリーでの音楽「鐘」は、ピアノのための前奏曲op.3-2をオーケストラに編曲したもの。これも、原曲は前々回の定期で、オフチニコフさんがアンコールで弾かれた曲ですね。こんなにニューフィルと縁がある浅田さんって。
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by jurassic_oyaji | 2010-02-25 20:38 | 禁断 | Comments(2)
クラシック音楽は「ミステリー」である
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吉松隆著
講談社刊(講談社+α新書)
ISBN978-4-06-272625-2


「クラシック」+「ミステリー」というタイトルだと、なんだかNHKの「名曲探偵アマデウス」を連想させられますね。もっとも、あちらは「ミステリー」とは名ばかり、実体は「謎解き」に名を借りた単なる「アナリーゼ」ですがね。それに無理矢理こじつけた「ドラマ」が、とことんチープ。そんな強引さが意味もなく笑いを誘うから不思議です。
いやしくも作曲家である吉松隆さんが書いたこんな扇情的なタイトルの本は、「笑い」という点では「名曲探偵」にもひけをとらないものでした。なんたって、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を「ミステリー」に仕立てているのですからね。「ドン・ジョヴァンニは誰に殺されたか」という、この名作オペラをいわば「殺人事件」見立てた「読み替え」は、しかし、読者の知的好奇心を満足させるだけの周到な「本格推理」作品に仕上がっていました。もちろん、そこには読者を最後まで引きつけずにはおかないエンタテインメントとしての要素も満載です。
そもそも、この作品のプロットそのものにもかなり無理があるのは事実です。この物語は1日のうちに起こったものである、という「オペラ・ブッファ」のお約束はともかく、ここでは時間の感覚がとっても曖昧。騎士長を殺したあとドンナ・エルヴィラに会ったのは真夜中のはずですが、次のツェルリーナの結婚式の場は間違いなく真っ昼間でしょうね。ところが、ドン・ジョヴァンニの「うまくいった、あの女(エルヴィラ)は行ってしまったな」というセリフからは、前の場からそんなに時間が経っていないことがうかがえますよ。それはともかく、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが「墓場で」騎士長の石像に会うのはその日の夜、つまり、ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長の石像が、なんと「一夜にして」出来上がってしまっている、ということになりますよね。なにしろ、そこは墓だったんですから、生きているうちに作らせたなんてことはあり得ません。いくら仕事がはかどったとしても、無理な話です。
そんな、最大の「疑問」には敢えて触れることはせず、吉松さんはもっぱら石像という命を持たないものが人を殺すことに対しての謎解きに挑みます。そこに登場する「名探偵」のような人達の顔ぶれはなんとも豪華ですよ。中には、元ネタが分からない人もいますが。そして、それこそクリスティの「オリエント急行殺人事件」のように、登場人物全員が犯人なのだ、という可能性まで示唆されます。しかし、「探偵事務所所長」によって最後にあかされる驚愕の「真実」とは・・・。
まあ、「そんなわけはない」と一笑に付すのは簡単なことですが、吉松さんの絶妙の筆致には間違いなく「それもありかな?」と思わせられるだけのものがあります。それを裏付けるのが、実際の「証拠」を、きちんと原曲の中に求めた、という堅実な手法です。まず演奏されることのないウィーン版の異稿からまでもその根拠を見つけ出すというマニアならではの真摯な取り組みには、頭が下がる思いです。
そんな、いわば「お笑い」の世界から一転して、「クリミナル・マインド」ばりの「作曲家のプロファイリング」では、ハードボイルド・ミステリーの世界へと読者を誘います。しかし、そこに待っていたものは、血なまぐさい犯罪現場ではなく、いともまっとうな吉松さん自身の作曲家としての信条告白でした。作曲家、あるいは音楽家としての資質が、幼児からの英才教育を受けたケースと、音楽以外のさまざまな道を経た上での「晩学」のケースとではどのように異なるのか、それを語る著者の言葉には熱いものがあります。
この本は、ウェブサイトで連載されたものをまとめたものなのだそうです。「2ちゃん」から小説が出来てしまったように、これからはこんなケースも増えていくのでしょうね。

Book Artwork © Kodansha


オペラ御殿という素晴らしいサイトを作ってらっしゃる「ミン吉」さんから、この件の私の疑問に対して次のような趣旨のコメントを頂きました。

『ドンナ・エルヴィラに会ったのは真夜中のはず』

確かに、原稿のト書きに楽譜にも「夜」という言葉がありますが、初演の時の台本には実は「明るい夜明け」とあったのだそうです。これはベーレンライター版にもそのような註が記されているそうです。したがって、ここは夜明けの直前となります。実際のステージでも、エルヴィーラが到着したところで夜明けになる演出が多いそうです。
したがって
『ツェルリーナの結婚式の場は間違いなく真っ昼間』

農民は、生活がかなり朝方なので、真昼間というよりも、昼前あたりなのでは、ということです。これで、第1幕の時間的な問題は解決されます。

『ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長の石像が、なんと「一夜にして」出来上がってしまっている、ということになりますよね。なにしろ、そこは墓だったんですから、生きているうちに作らせたなんてことはあり得ません。』

種本であるガッツァニーガの《ドン・ジョヴァンニ》では、オッターヴィオ公爵が、生前に用意した墓が、完成から一ヶ月も経たないうちに使われることになるとは、というような台詞を言っているのだそうです。ですから、前もって作っていたのですね。その時に碑文も刻まれたそうです(これはまさに「一夜にして」ですね)。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》にはこの部分はありませんが、レポレッロが館にやって来た騎士長像を『白い』と言っているのは、出来立ての真新しい像という意味が込められているのでは、というご意見です。


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by jurassic_oyaji | 2010-02-24 19:41 | 書籍 | Comments(0)
FRANCK, GOUNOD/Sept Paroles du Christ sur la Croix
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Marcelo Giannini(Org)
Luc Aeschlimann(Vc)
Laure Ermacora(Hp)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal de Lausanne
MIRARE/MIR 106




コルボの最新録音は、フランクとグノーの「十字架上のキリストの7つの言葉」という、なんとも珍しい曲でした(グノーのタイトルは、正確には「十字架上のわれらが主イエス・キリストの7つの言葉
Les Sept Paroles de Notre Seigneur Jésus-Christ sur la Croix」)。これが録音されたのが昨年の夏、ロケーションは彼のお気に入りのフランスのヴィルファヴァール農園です。一昨年の「ロ短調」のように、毎年夏にはここで録音を行う、というのが、彼の年中行事になっているのでしょうか。ただ、今回は納屋を改造したオーディトリアムではなく、小さな教会のようなところですね。敷地内のいろいろな場所で録音が出来るというのが、ここのウリなのかもしれません。この教会には、カヴァイエ・コルの小振りなオルガンが設置されていて、ここではその鄙びた音も聴くことが出来ますよ。
そう、今回録音された2曲は、どちらもそんな小さなオルガンだけで伴奏が出来てしまうような、小規模な宗教曲です。フランクの場合には、それにチェロとハープが加わります。
どちらも全く聴いたことのない曲、そんな人のために、ライナーには聴きどころとして「ともに1850年頃にパリで作られた、同じ題材による全く異なる性格をもつ2つの傑作」とありますよ。別に、結託したわけではないのでしょうが、ほとんど同じ時期に同じようなテーマで2人の「大」作曲家が作ったものを聴き比べるというのは、面白い試みです。フランクとグノーでは確かに作風は全然違うでしょうしね。渋さのフランク、vs、派手なグノー、でしょうか。
しかし、どちらの作曲家に対しても、それほどの深い知識と経験を持たない人が抱いたそんな先入観は、実際に曲を聴き始めると見事に崩れ去ることになるのです。フランクの「7つの言葉」の、なんと明るいことでしょう。これって、キリストが十字架にかけられたときに語られたという言葉、いわば「遺言」というか、「辞世の句」を集めたという涙なくしては味わえないようなお話ですよね。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とかね。しかし、そこにフランクが付けた音楽ときたら、「渋い」どころか、チェロはベタベタに甘~いメロディを奏でるわ、ハープは華麗に盛り上げるわ、ソリストたちはノーテンキに歌いまくるわで、「慎み深さ」といったものが全くないんですからね。極めつけはコーラス。殆どヴェルディの「ブン・チャッ・チャ」的なノリで陽気に騒ぎ立てるという不謹慎さですよ。
音楽としてはとびきり美しいメロディ満載の親しみやすいものなのですから、魅力はあります。最初のソプラノのソロだって、それだけを取り上げれば極上の「癒し」にはなり得ますが、そのテキストとのあまりのミスマッチは、フランクという人の人格すらも疑いたくなるようなものなんですよね。まあ、いくら大作曲家といっても失敗作はあるもので、これなんかは本当は「なかったことにしたい」作品なのかもしれません。そんなものをわざわざ引っ張り出してきて、フランクさんに恥をかかせてしまったコルボっていったい・・・。
一方のグノーといえば、華やかなバレエ音楽の印象が強いものですからこれを聴いてフランクとは逆の意味で裏切られた思いを味わってしまいました。これは、慎ましさの中に深いメッセージの込められた、まさに「隠れた名曲」ではありませんか。オルガンの控えめな伴奏の中で、合唱はまるでルネッサンスの頃のようなたたずまいを見せています。見た目の華やかさなどはすべて捨て去った、敬虔な祈りだけがそこには漂っているのです。イエスの実際の「言葉」だけが小さなアンサンブルで歌われる、というアイディアが、ほんのわずかな飾り立て、でしょうか。これで、もし、コルボの合唱団がこの世界を的確に表現できるだけの「深さ」を備えていたならば、もう何も言うことはなかったのですが。

CD Artwork © Mirare
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by jurassic_oyaji | 2010-02-22 20:36 | 合唱 | Comments(0)
バレンタインデー
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 きのう20日というのは、MOVIXデーとかで、そのシネコンでは誰でも1000円で映画が見られるんですね。かなり前から毎月やっていたのは知っていましたが、今まで実際にその恩恵に預かることはありませんでした。でも、きのうたまたま時間が空いたので、MALLに行ってきましたよ。その前に何をやっているか調べたら、「アバター」は、なんとすでに満席でした。まあ話のタネに見ておこうとは思ったのですが、予告編で出てくる青い生物の顔がとことん私には嫌悪感を抱くものでしかないので、わざわざ3Dでそんな気持ち悪いものを見ることもないでしょう。
 それで、実際に見たのは「バレンタインデー」でした。なんたって超豪華キャストですし、思いっきり楽しめそうなストーリーでしょうから、ストレス発散には手頃でしょう。
 お話は、タイトル通り、バレンタインデーの日に起こるさまざまなカップルのエピソードを並べたものです。全く関係のなさそうな人が次々と出てくるので、最初はちょっと戸惑いますが、おそらくこの監督(ゲイリー・マーシャル)のことですから、きちんとつながりを考えているはずだ、と思って見ていたら、やはりなんとも粋なつながりがゾロゾロ出てきて、安心させられます。一番無関係だと思っていた飛行機の中のジュリア・ロバーツとブラッドレイ・クーパーは、最後にとんでもない人とつながっているのが分かった瞬間は、ちょっと感動ものでしたよ。
 もちろん、メインはアシュトン・カッチャーとジェニファー・ガーナーという「親友」同士なのですが、ジェニファーの「恋人」として登場するのが、パトリック・デンプシーという、「グレイ」のレギュラーです。お医者さんであるのと、二股かけているというのが、「グレイ」と共通しているのは、ねらっていたのでしょうね。もう一人、「グレイ」からはエリック・デインが出ていました。でも、この人はお医者さんではありませんでしたが。「クリミナル・マインド」のジョー・マンテーニャが、「ウィンカーを出せ」とか言うだけのほんの端役で出ているのも面白いですね。
 興味があったのは、アメリカでのバレンタインデーのあり方でした。どうやら、日本とはまったく違って(というか、日本の方が故意に違えているのでしょうが)チョコレートのやりとりなどは行われず、「花」を贈るのが習慣のようですね。しかも、それは別に女性からだけ贈るのではなく、男性からも贈るもののようでした。いや、どちらかというと「男性から」というのが、この映画では強調されていましたね。ですから、この日に忙しいのはチョコレート屋さんではなく、花屋さんということになります。
 舞台はLAですから、当然街中が出てくるのですが、その中にフツーにウォルト・ディズニー・コンサートホールなんかがあったのには驚きましたね。ちょうどその前で花屋さんのトラックが追突されて荷物をばらまいてしまうので、かなり長い時間写っていましたよ。あの建物は目立ちますから、すぐ分かります。ドゥダメルの大きなタペストリーのようなのが、正面に貼られているのですね。別にタイアップではなさそうですが、LAの風景の中に溶けこんでいるドゥダメルって、なんだか素敵ですね。
 そんな隅々の、本筋に関係のないところまでしっかり楽しめる作品でした。
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by jurassic_oyaji | 2010-02-21 23:26 | 映画 | Comments(0)
RAUTAVAARA/Choral Works
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James Burton/
Schola Cantorum of Oxford
HYPERION/CDA67787




フィンランドの長老作曲家、エイノユハニ・ラウタヴァーラの合唱作品を集めたアルバムです。オーケストラの作品などはたびたび聴いていますが、実は合唱に関しては初体験、この中の曲はすべて無伴奏の混声合唱曲ですので、純粋に彼の合唱における成果が味わえることでしょう。
このアルバムのライナーノーツは、なんと、同じフィンランドの作曲家、ヤーッコ・マンティヤルヴィが書いています。歳は35才も違いますが、彼自身とも多くの共通点を持つこの先輩のことを暖かく語った文章は、多くの示唆に富んだものです。その中に出てくるのが、「折衷様式」という言葉です。マンティヤルヴィが、まさにこのような作風であるため、この先達のそのような一面には敏感に反応しているのでしょうね。
ここに収録されているのは、最も初期のものが1973年に作られた「ロルカの詩による組曲」、そこから、最新作、これが初録音となる2008年の「Our Joyful'st Feast」までの作られ方をつぶさに見ていくと、そんな「折衷」さのありようが、ラウタヴァーラの場合には作曲年代によって大きく変化していることが良く分かります。1つの曲の同じ時間の中に、多くの要素をそのまま並べて、言いようのない緊張感を産んでいるのが初期の作品だとすれば、後期のものはそれらの平均値を用いて、より滑らかな仕上がりを目指した、そんな感じでしょうか。人はおそらく、こういう現象のことを「進歩」や「円熟」と呼ぶのでしょう。
実際、その最も初期に作られた「ロルカ」では、グリッサンドや微分音などという、いかにも「前衛的」な手法までも交えて、かなり「とんがった」刺激が与えられます。しかし、おなじロルカのテキストを用い、日本の東京混声合唱団の委嘱によって1993年に作られた「我が時代の歌」になると、なんとも「洗練」された音楽に変わってしまっているのがはっきり感じられてしまいます。そこでは、確かに多くの技法が混在してはいるのですが、それらは互いに寄り添い、すべてが同じ方向を向いているのですね。その結果現れてくるのは、なんとも心地よい、殆ど「ヒーリング」といっても構わないほどの口当たりの良さでした。その流れはとどまるところを知らず、最近の作品になるにしたがってそのまろやかさには「磨き」がかかっていきます。最新作に見られるのはいとも平穏なたたずまい、なんだか、いつぞやの「世界合唱シンポジウム」のテーマ曲を作った日本人のように、功成り名遂げた大家が、ほんの小遣い稼ぎに作ってみました、みたいな趣がないといったらウソになります。
しかし、せっかく聴くのですから、出来ればこういう人の作品には、なにかに挑戦している姿を見たいものです。そうなると、最も面白く聴けるのは、1970年代の終わりに作られた「Canticum Maria Virginis」と「Magnificat」あたりでしょう。これこそ、「折衷様式」の極致、殆どリゲティかと思われるトーン・クラスターから、セリー風のアリア、さらにはシュプレッヒ・ゲザンクと、刺激的な手法のてんこ盛りは、とってもスリリングです。さらに、5つの部分から出来ている「Magnificat」では、最後の「Gloria」がなんとも人を食った発想なのがたまりません。この歌詞ですから、普通は喜び満開、といった感じで作られているものですが、ここではそれが恐ろしく暗~く始まります。断じて心地よいものは作らないぞ、みたいな心意気を、そこからは感じられませんか?
そんな「毒」までを表現するには、この合唱団はちょっと物足りないところがないわけではありません。あと一歩、男声に色気があって、女声のアインザッツに確信のようなものがあれば、この「折衷」がより際立って聞こえてきたはずなのに。もしかして、仙台の某混声合唱団、ではなく香辛料合唱団だったら、この「Magnificat」からそんな面白さを引き出してくれるかもしれませんよ。

CD Artwork © Hyperion Records Limited
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by jurassic_oyaji | 2010-02-20 22:54 | 合唱 | Comments(0)
STRAVINSKY/Pulcinella, Symphony in 3 Mvt., 4 Études
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Roxana Constantinescu(MS)
Nicholas Phan(Ten)
Kyle Ketelsen(Bar)
Pierre Boulez/
Chicago Symphony Orchestra
CSO・RESOUND/CSOR 901 920(hybrid SACD)




ネット配信の飛躍的な普及に伴って、CDSACDといったフィジカルな媒体を取り巻く状況は、なかなか厳しいものがあります。ただ、96/24クラスの高音質のデータはギガバイト単位のサイズになってしまいますから、そのような音を求める向きに関してはかろうじてSACDあたりはまだ優位を主張できるのかもしれません。
制作サイドとしては、クラシックに関してはかつて市場を牛耳っていたメジャー・レーベルの凋落ぶりが悲惨です。かつてDGとともにUNIVERSALの一翼を担っていたDECCAPHILIPSは、今ではかろうじて名義だけが残っているような状態で実際の制作などは殆ど行っていないはずです。PHILIPSなどは、もはや過去のカタログさえも転売されてしまっているのではないでしょうか。今まで強烈な個性を主張していたそれらのレーベル固有のトーン・ポリシーなどは、もはや完璧に消滅してしまっていたのです。
と思っていたら、最近、例えばエッシェンバッハとフィラデルフィア管とか、ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィルなどの自主録音盤などのクレジットの中に「POLYHYMNIA」という文字がよく見かけられるようになったので調べてみると、これは元PHILIPSのエンジニアが集まって作った録音プロダクションであることが分かりました。このような形で、有能なエンジニアたちが今までのような特定のレーベルの専属ではなく、個別に録音を請け負うチームとして活躍するようになっていたのですね。しかも、その「製品」は、メジャーが見捨てたSACDを前面に押し出しているというのですから、かえってこの方が愛好家にとってはありがたいことなのかもしれません。なんたって、SACDを開発したのはPHILIPSなのですからね。
2007年に発足したシカゴ交響楽団の自主レーベル「CSO・RESOUND」も、この「ポリヒムニア」が録音を担当しているものでした。最新盤は、ブーレーズの指揮による2009年の2月と3月のコンサートでのライブ録音です。もちろん、このチームの仕事ですから、セッション以上のクオリティがしっかり保たれています。
曲目は、「プルチネッラ」全曲と、「オーケストラのための4つのエチュード」、そして「3楽章の交響曲」という、ブーレーズお得意のナンバーが揃っています。それぞれ今までに何度となく録音してきたものばかりですね。この中で「3楽章の交響曲」は、手元に1996年にベルリン・フィルと録音したDG盤がありますので、比較することも出来ます。1945年に完成したこの曲は、いわば作曲家の「新古典主義」の時代の産物になるのでしょうが、ライナーのインタビューでブーレーズが語っているように、第1楽章にはまるで「春の祭典」のような、彼のその前のスタイルが反映された部分が見られます。第2楽章はまさに「新古典主義」そのものというスタイリッシュな曲なのですが、第3楽章になると、今度はやがて訪れる彼の「セリー」の時代を先取りしたようなパッセージまで現れます。もう終わっているはずなのに(それは「セーリ」、しかも男だし)。そんな様式感の違いが、ベルリン・フィルよりは、今回のシカゴ響の方がはるかにはっきりと描かれています。というより、プレイヤーたちがいかにも楽しみながら自発性を発揮している、という感じがとても伝わってくるのですね。ベルリンの人たちはなにか「くそまじめ」という感じがしてしまいます。特に、第2楽章で大活躍するフルート奏者の違いが、かなり大きなウェイトを占めているのではないでしょうか。ベルリンはおそらくブラウでしょうが、シカゴは間違いなくデュフォー、彼のいきいきとした音楽は、この楽章を「雅び」で彩っていました。
「プルチネッラ」では、メゾのコンスタンティネスクがちょっと期待はずれでしたが、オケがやはりこの「偽バロック」をとことん楽しんでいるさまが、とても素敵でした。「エチュード」では、まさにこのオケの機能性が炸裂です。

SACD Artwork © Chicago Symphony Orchestra
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by jurassic_oyaji | 2010-02-18 19:45 | オーケストラ | Comments(0)
MADERNA/Complete Works for Orchestra Vol.1, Vol.2
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Arturo Tamayo/
hr-Sinfonieorchester
NEOS/NEOS 10933・10934(hybrid SACD)



1920年生まれ、それこそブーレーズなどとともに「現代音楽」の最先端を走っていたイタリアの作曲家、ブルーノ・マデルナの「オーケストラのための完全作品集」です。作曲年代順に収録されていて、「Vol.1」が1948年から1953年まで、「Vol.2」が1954年から1966年までの作品となっています。それ以後、1973年に亡くなるまでオーケストラ曲は作っていたはずですので、いずれ「Vol.3」なども出てくるのでしょうか。確かに、この中には、少なからずあったはずのオーボエ独奏を伴った作品が全く見あたりません。
その代わりと言ってはなんですが、フルート・ソロがフィーチャーされたものが3曲も入っていますよ。もちろん、これらの作品は当時の音楽シーンでそのような新作の演奏を一手に引き受けていた伝説的なフルーティスト、セヴェリーノ・ガッツェローニのために作られたものです。以前ご紹介した同じ作曲家の「ドン・ペルリンプリン」というオペラでもフルートが大活躍していましたが、これももちろんガッツェローニの演奏を想定して作られたものなのでしょう。
このフルート・ソロを、ここで演奏している「hr」、つまりヘッセン放送協会の専属オーケストラ「hr交響楽団」(いや、かつては「フランクフルト放送交響楽団」と名乗っていたオーケストラ、ホルンだけのオケではありません)の3人の団員がそれぞれ担当している、というのが興味をひきます。そのうちの2人はもちろん首席奏者ですが、もう一人は主にピッコロを吹いている2番吹き、そのようなポストでも、ガッツェローニが吹いていたパートを任せられる、というのがすごいところです。
その人が、ジャケットの写真にも登場している、まるでジャズ・プレイヤーのような風貌の(実際、ジャズとのコラボレーションも行っているそうです)アフリカ系アメリカ人、タデウス・ワトソンです。彼の担当は、1954年の作品「フルート協奏曲」です。8分程度の短い曲で、この時期ぐらいまではまだこの作曲家が大切にしていたはずのリリシズムが存分に味わえるものです。その分、テクニック的にはそれほど難しいという感じはありません。きちんと「ソノリテ」を勉強していればなんなく吹けるはずの曲ですが、ワトソンは意外と苦戦しているのが、ちょっとかわいそう。
首席奏者のセバスティアン・ウィティバーという人が吹いているのが、もう少し後、1964年に作られたソプラノとフルートとオーケストラのための「Aria」です。これは、同じ時期に作られた、フリードリッヒ・ヘルダーリンのテキストによる「Hyperion」というオペラの、いわば「スピンオフ」のような作品なのだそうです。ここでウィティバーが演奏しているのは普通のフルートより1オクターブ低い音域のバス・フルートという楽器です。ソプラノ・ソロに絡むだけではなく、かなり長いカデンツァもあって、この楽器のハスキーな音色を存分に楽しめます。技巧もとても滑らか、やはり「格」が違います。
同じく「Hyperion」からのスピンオフ、フルートとオーケストラのための「Dimensioni III」を演奏しているのがもう一人の首席、スペイン出身の女性フルート奏者、クララ・アンドラーダ・デ・ラ・カッレです。これは、とてつもない技巧と音楽性が要求されるソロパートですが、彼女は、もしかしたら初演者ガッツェローニなどははるかにしのぐほどの冴えを見せているのかもしれません。特に、伸びやかな音色は素晴らしいものです。
そんな、プレイヤーひとりひとりの演奏上の特質までが手に取るように分かるのは、SACDならではの卓越した録音によるところも大きいはずです。同時に、この録音が伝えているのは、タマヨに指揮されたオーケストラのしなやかで肌触りの良い音色です。特に、「Vol.1」で顕著に見られるメロディの美しさをまだ信じていた頃のマデルナの特質が、ここからはいとも素直に伝わってくることでしょう。

SACD Artwork © Hessischer Rundfunk
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by jurassic_oyaji | 2010-02-17 00:44 | 現代音楽 | Comments(0)
DVORAK/Symphonies Nos. 7 & 8
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Charles Mackerras/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD 183




ある意味フィルハーモニア管弦楽団の自主レーベルのような面を持つようになったSIGNUMレーベルです。首席指揮者サロネンの「グレの歌」がSACDだったので、他の自主レーベルのようにSACDでのリリースが恒常化か、と思ったのですが、首席客演指揮者のマッケラスの場合はフツーのCDでした。そんなぁ。グレてやる。
フィルハーモニアといえば、何と言っても首席フルート奏者のケネス・スミスの存在が大きな魅力でした。今までは伝統的にこのオーケストラは管楽器の首席奏者は一人しか置かない、という体制でしたから、このオーケストラを録音で聴くときに聞こえてくるフルートは、間違いなく彼のものだ、という安心感がありました。しかし、世界の趨勢は複数の首席奏者によって多くのコンサートやレコーディングのスケジュールをこなすというものですから、フィルハーモニアでも2005年に、ロンドン交響楽団の首席奏者だったポール・エドムンド・デイヴィースという人をもう一人の首席奏者として団員に加えたのです。そうなってくると、このオーケストラを聴くときには、必ずしもスミスが「乗って」いるとは限らなくなってしまいます。現に先日アシュケナージと来日したときの模様がテレビで放送になったときには、スミスは「降り番」でした。ベルリン・フィルを聴くときに「パユさま」(死語)が目当てだったのに、吹いていたのはブラウだった、というようなものですね。そんなことがないように、ロイヤル・コンセルトヘボウ管のエミリー・バイノンなどは自分のサイトでどの演奏会で「乗り」なのかを告知していますよね。でも、これは特別、ふつうは演奏会場に行くまで誰が乗っているのかは分からないものです。
そんなわけで、果たしてこのアルバムではフルートは誰が吹いているのか、実際に聴いて確かめるまでは分からないことになるのですが、そこから聞こえてきたのはスミスの一本芯の通った輝かしい音だったのでまずは一安心、7番も8番もフルートが大活躍する曲ですので、それをスミスの演奏で聴けて幸せな気分になれました。
マッケラスのドヴォルジャークといえば、2005年にプラハ交響楽団と録音したSUPRAPHONがありました。その時は8番と9番のカップリングでしたね。一方、フィルハーモニア管としては、今回と同じ7番と8番を、インバルの指揮で1990年と1991年に録音したTELDEC(これも「死語」)盤がありました。それらの録音と今回のものを比べてみると、マッケラスの演奏にはもはや確固たるスタイルが堅持されていて、たとえオーケストラが変わったとしてもそこからは間違いなく彼の音楽が聞こえてくる、という安心感、というか安定感のようなものを感じ取ることが出来ます。プラハもフィルハーモニアもライブ録音ですが、ライブだからことさら燃える、あるいは聴衆のちがいによって大きく演奏の形が変わってしまうという、この前のミュンシュのようなところは全くありません。彼の芸風が、どんなところでも同じ品質を提供できるだけのものを獲得した、ということになるのでしょうか。もちろん、8番の終楽章でのチェロのパートソロでの自筆稿による独自のヴァリアント(プラハ版だと、256小節目の最後の八分音符が、「シ」ではなく「ド」)も、双方に共通しています。
同時に、フルート・ソロのスミスの芸風も、指揮者の音楽性には作用されないほどの確固たるものとなっているのも、インバルとの演奏と比べて確認できてしまいます。彼もまた、自らの音楽をオケの中でさえ発揮できる力を備えているのですね。これは、一見矛盾する状態、奏者に左右されない指揮者と、指揮者に左右されない奏者との対決、その結果がどうなったのか、それは実際に聴いて頂くしかありません。

CD Artwork © Philharmonia Orchestra
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by jurassic_oyaji | 2010-02-14 22:36 | オーケストラ | Comments(0)