おやぢの部屋2
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ROSSINI/Overtures(for wind quartet)
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Andrea Griminelli(Fl), Corrado Giuffredi(Cl)
Danilo Marchello(Hr), Rino Vernizzi(Fg)
DECCA/476 5245




グリミネッリの「新譜」なのですが、前作同様、レーベルがイタリアUNIVERSALなので4年も前にリリースされたものが今頃日本国内で出回っています。しかも、録音されたのは17年前、きっと本人は録音したことも忘れているのではないでしょうか。
フルート、クラリネット、ホルン、ファゴットという、通常の木管五重奏からオーボエを外した木管四重奏の形で演奏されているロッシーニの序曲などというものは、初めて聴きました。編曲したのが、ロッシーニと同時代のクラリネット奏者、ヴィンチェンツォ・ガンバーロという、春闘みたいな(それは「ガンバロー」)名前のイタリア人です。この方はパリの「テアトル・ロワイヤル・イタリエン」という劇場のオーケストラの首席クラリネット奏者を務めていて、ロッシーニ本人とも交流があり、1825年にはロッシーニから2本のクラリネットとオーケストラのための変奏曲をプレゼントされています。その時に2番クラリネットを演奏したのは、ガンバーロと同じオケの2番奏者、フリードリッヒ・ベールでした。
この編曲は、よくある「ハルモニー・ムジーク」のような、適当にカットを施したいい加減なものではなく、原曲通りの尺が維持されています。それが木管楽器だけで演奏されるのでは、さぞや退屈だろうな、という当初の予想は、この4人のとても力のある奏者の渾身の演奏によって、見事に裏切られることになりました。中でも、フルートのグリミネッリとクラリネットのジュフレディの「怪演」といったら、まさに胸のすくようなものです。オケ版に比べて足らないものは、「どろぼうかささぎ」のスネアドラムぐらいしか見あたらないほど、完璧に原曲の世界が再現できています。「セミラーミデ」のホルンによる四重奏だって、よく溶け合うこの4人の楽器でそれっぽい雰囲気が充分に出ていますしね。もちろん、この曲での管楽器の聴かせどころの掛け合いなどは、お手の物でしょう。そして、驚くべきことに、「グリエルモ・テル」の冒頭の5本のチェロのアンサンブルまで、4人でやってしまうのですからね。
「序曲」は、その他に、「チェネレントーラ」と「オテロ」が演奏されていますが、最後にもう1曲、ロッシーニ自身が1812年に作ったこの編成のためのオリジナル作品「アンダンテ、テーマと変奏」が加わっています。その名の通りゆっくりした序奏と、テーマに続く5つの変奏、そしてコーダから出来ているという分かりやすい作品です。このCDでの表記が「Tema, andante e variazioni」となっているのは、なにかの間違いでしょう。これは、SCHOTTから出版されている「6つの木管四重奏曲」の中の「第6番」として、演奏される機会も多い作品です。他の四重奏曲はロッシーニの、やはり6曲ある「弦楽のためのソナタ」の「3番」以外を編曲したものですが(番号は、1、2、4はそのまま、5が3に、6が5に変わっています)、これだけがオリジナル、ちょっと毛色が変わっています。ただ、このCDで演奏されているのは、そのSCHOTT版とは微妙なところで異なっています。楽譜には「F.ベールにより出版」とありますので、もしかしたらさっきのフリードリッヒ・ベールが、「ソナタ」と一緒にこちらもロッシーニの楽譜に少し手を入れて出版したのかもしれませんね。
こちらは、「変奏」で、それぞれのメンバーがとびっきりのパフォーマンスを聴かせてくれて、その凄さを見せつけてくれます。4人がそれぞれものすごいテクニックを持っている上に、いかにもイタリア人ならではの、ほとんど羽目を外すほどの大げさな「歌心」が加わっているのですから、もう怖いものなどありません。
これは、ロッシーニがオペラで発散させていたとびっきりの楽しさを、4人の管楽器奏者が最大の共感をもって披露しているものです。聴いていて楽しくならないわけがありません。

CD Artwork © Universal Music Italia s.r.l.
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by jurassic_oyaji | 2010-03-30 23:08 | フルート | Comments(0)
携帯ブログ
実はそんなに関心はなかったのですが、私が使っているエキサイトのブログは今までは携帯からの投稿は出来なかったようなのですね。
いや、本当は出来てたのかもしれませんが、たまたま設定画面を見てみたら、「携帯設定」というのかもが新しくなっていたものですから、試しに投稿してみました。
でも、おそらくこれから携帯で投稿することは、まずないでしょうね(^_^;)
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by jurassic_oyaji | 2010-03-29 16:11 | Comments(0)
PRAETORIUS, SCHEIDT/Der Wächter auf der Zinne
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Dominique Visse(CT)
Katharine Bäuml/
Capella de la Torre
COVIELLO/COV 20907(hybrid SACD)




北ドイツのハレという街は、決して雨が降らないのと(「晴れ」ね)、あのヘンデルの生地として有名ですね。そのヘンデルはまだ生まれてはいなかった1615年に、この街は新しい行政官を迎えるにあたってのお祝いでわきかえっていました。町中のいたるところで、そう、まるで仙台市の定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバルのように、歓迎のための音楽が演奏されたのだ、と言われています。その時に演奏されたであろう音楽を再現したものが、このSACDです。
その時にハレの音楽を仕切っていたのは、ヴォルフェンビュッテルの宮廷楽長で、当時は非在任でこの街の宮廷楽長も務めていたミヒャエル・プレトリウスと、後にその地位を継ぐことになるザミュエル・シャイトでした。ここで演奏されているのは、その2人の曲を集めたもので、「胸壁の夜警」というタイトルが付けられています。もちろん、それらの曲が実際に演奏されたなどという証拠はどこにもないのですが、なんたって「架空」のレパートリーなのですからそんなことは別に気にすることはありません。
ここには、プレトリウスがヴェネツィアで学んだ、ガブリエリ風のスペクタクルな典礼音楽の技法がまざまざと反映されています。さらに、そこにはプロテスタント音楽の要素も加わり、この地ならではの華やかさのなかにも渋さも併せ持つ音楽を聴くことが出来ます。
このアルバムの最大の魅力は、声楽担当として参加しているドミニク・ヴィスでしょう。実を言えば、最近の彼の声を聴くために買ったようなものなのですが、彼と、「カペル・デ・ラ・トーレ」という「古楽器」のアンサンブルがかもし出すサウンドを耳にしたときに、あるショッキングな体験が待っていました。最初のプレトリウスの「Jubilate Deo」が聞こえてきたときに、歌っているのはヴィス一人だけのはずなのに、それにポリフォニックに絡むもう一つの声部を歌っている「歌手」の声が確かに感じられたのですよ。実際は、それはツィンクで演奏されていたのですが、インストであるはずのそのパートから、はっきり「歌詞」までが聞こえてきたような気がしたのですね。
これは、ツィンクやショーム、そしてサックバットといった、この時代にしか存在していなかった楽器(「古楽器」という言葉は、本来そういう使われ方をするものです)たちの持つ音が、いかに人間の「声」と溶け合っていたものなのかを、否応なしに認識できた瞬間でした。例えばヴェネツィアの音楽家たちの楽譜を見ると、そこには声楽のパートしか書かれてはいないのですが、実際の演奏にあたってはなんの不自然もなくそれらのパートを楽器で演奏したりしています。「楽器」と「声」が同等の立場で寄り添うというのはこういうことなのか、という、新鮮な驚きが感じられたものです。もちろん、これはヴィスの「声」が、楽器と対等に渡り合えるだけの存在感を持っていた、ということにもなるのでしょう。
さらに、SACDのスペックを生かし切った素晴らしい録音が、それを助けていることも見逃せません。各パートの「楽器」や「声」のそれぞれが、見事に浮き上がって聞こえてくるのはさすがです。シャイトの「戦いのガイヤール」では、左右で呼び交わすツィンクの陰で、レガールの繊細な音が手に取るようにはっきり聞こえますよ。レガールというのは、小さなリード管が使われた携帯用のオルガンのことですが、最後にあのバッハも用いた有名なコラール「Wachet auf, ruft uns die Stimme」をソロで演奏していますから、そこでなかなか聴く機会のないその鄙びた音色を堪能できることでしょう。そして、それに続くのが、プレトリウスのヴェネツィア様式満載の七声のコラール、まさに「胸壁の夜警」さながらのにぎやかな世界が繰り広げられます。
ほんのひととき、ドイツ・ルネサンスの極上の響きを味わえる素敵なアルバムです。

SACD Artwork © Coviello Classics
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by jurassic_oyaji | 2010-03-28 23:10 | 合唱 | Comments(0)
TOGNI/Lamentatio Jeremiae Prophetae
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Jeff Reilly(BCl)
Lydia Adams/
Elmer Iseler Singers
ECM/476 3629




カナダの作曲家、ピーター・アンソニー・トーニという人の「預言者エレミアの哀歌」という作品です。いわゆる「エレミア哀歌」のことですが、有名な旧約聖書をテキストにした古来から多くの作曲家によって作られてきた合唱曲に、この、2007年に初演された新しい作品が加わることになりました。
とは言っても、この曲は「合唱曲」というカテゴリーではなく、「バス・クラリネット協奏曲」という呼ばれ方を望んでいるようです。作曲者のトーニは、バス・クラリネット奏者のジェフ・ライリーとともに、「サンクチュアリー」というインプロヴィゼーションのユニットを結成(トーニはオルガンを担当、もう一人チェロのメンバーもいます)しているのですが、そのライリーから「協奏曲」の委嘱を受け、このような、無伴奏混声合唱とバス・クラリネットのソロというユニークな編成の「協奏曲」が出来上がったのです。
旧約聖書の「哀歌」は、全体で5つの章から成る長大なテキストですが、トーニはそれぞれの章から適宜ピックアップして1曲ずつ、したがって5つの曲を作りました。それはまず「合唱曲」として、合唱団によって歌われます。ここで演奏している20人ちょっとのアンサンブルは、ソロのバス・クラリネットと張り合うようなことはせず、あくまで「背景」に徹しているかのように見えます。そう、この、居るか居ないか分からないほどの存在感が、おそらくこの曲には求められていたものなのでしょう。あくまで主役はバスクラ、合唱はそれを引き立てるだけの、まさに「バック・コーラス」という役割なのでしょう。
もちろん、それは決して、合唱団の存在を貶めるものではありません。それどころか、そのような立場を貫くのは、実はかなり高度なスキルが求められもするはずです。例えば20,000Hz以上の高周波のように、誰もその存在には気づかなくても、それがなくなってしまうと明らかに違いが分かってしまうような、まるでCDSACDの違いを産む要素のようなものなのかもしれません。
しかし、このカナダの合唱団は、どうやらそこまでの境地に達するには、あまりにも合唱団としてのプライドが高すぎたようです。というより、なんとしても自らの主張を伝えたいという、ごく当たり前の願望を消してしまえるほどの、作品に奉仕しようとする意識、あるいはテクニックは、残念ながらこの団体には備わってはいなかったのでしょう。いや、もしかしたら、歌詞を持った合唱に「協奏曲」のバックをゆだねるという、この作曲家の発想にそもそも無理があったのかも。ただ、ちょうど真ん中に位置している3曲目の「Silentio」だけは、合唱とソロが対等に渡り合えていて、それほどストレスを感じることはありません。
そんな、ちょっといびつな成り立ちにはあまり影響されていないかのように、ソロのライリーは伸び伸びとしたインプロヴィゼーションを披露してくれています。冒頭の中東風の旋法から生まれる哀愁を帯びたテーマから、心はすでに「哀歌」の世界へ誘われます。なかなかソロを吹く現場に居合わせることはないはずですが、同じような形状を持ちながら、ジャズでしか通用しないキャラクターのテナー・サックスとは異なり、ジャズの「アドリブ」でも、そして「現代音楽」の「即興演奏」でもなんの違和感もなくこなすことの出来るこの楽器は、実に新鮮な刺激を与えてくれます。最後に、まるでピッコロのような音が聞こえてきたときには、この楽器の持つ知られざる可能性をまざまざと見せつけられた思いでした。
合唱のパートはきちんと書いているのでしょうが、ソロに関しては「作曲家」としてのトーニがどの程度まで曲作りに関わっていたのかは、当人でない限り分からないことなのでしょう。

CD Artwork © ECM Records GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-03-26 20:07 | 現代音楽 | Comments(0)
SCHUBERT/Symphonies Nos 8 & 9
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Thomas Dausgaard/
Swedish Chamber Orchestra
BIS/SACD-1656(hybrid SACD)




シューベルトの「8番」と「9番」のアルバムです。もちろん、ここでは「8番」=「未完成」、「9番」=「大ハ長調(いわゆる『グレイト』」)という割り振り、これは、かつては「7番」と呼ばれていた、全4楽章のスケッチだけが残されているホ長調の交響曲が新全集では削除されたために、以前の「8番」と「9番」がそれぞれ一つずつ前に来て「7番(未完成)」と「8番(グレイト)」というように名前が変えられたのだ、という「現在の常識」には真っ向から刃向かう表記です。しかし、こんな、演奏家の間ではもはや「常識」と思われていることが、ことレコード業界では全く通用しないことに、今さらながら驚いているところです。なにしろ、現在市販されているCDで、この「正しい」表記がなされているものは皆無なのですからね。せっかく新しい番号を制定して、みんながそれに馴染むように努力し、その成果が最近になってやっと出てきたな、と思っていたところなのに、この業界ではそんな動きは見て見ぬ振り、ひたすら今までの間違った表記を貫くことに終始していたのですね。なんということでしょう(金子建志などは、著書の中-音友刊「交響曲の名曲・1」132ページ-でこんな愚行になんとも不可解な正当性を主張していたりします)。
この件に関しては、ライナーには「この演奏はベーレンライター社から出版された新シューベルト全集に基づいているが、実用的な理由から、今までの番号を残すことにした」という「言い訳」が述べられています。いくら「正しい」番号を使おうと思っても、それを許さないのがレコード業界。この「言い訳」には、そんな悔しさのようなものがにじみ出ているようには感じられませんか?
ですから、ダウスゴーたちは、演奏によってこの旧態依然たる業界、そして、それに甘んじているリスナーに対して、ある種の挑戦を叩きつけているのでは、などという邪推すら生まれてきてしまいます。それほどに、これはスリリングな仕上がりとなった演奏ですよ。
そもそも、すべての反復を忠実に行っているにもかかわらず、「7番」と「8番」が1枚のCDにカップリングされているのでも分かるとおり(79分を超えたものを「タップリング」といいます。ウソですが)、テンポ設定はかなり早めです。特に「7番」ではそれが顕著。冒頭のチェロとコントラバスのパートソロは、そんな流れを予想させるようないともあっさりとしたもの、よくあるおどろおどろしい気配など全く感じられません。弦楽器のビブラートも控えめで、メリハリのきいた胸のすくような演奏が繰り広げられます。
「8番」でも、「グレイト」などといういかにも壮大なイメージを植え付けられるような呼称(それに惑わされている演奏家は数知れず)には敢えて逆らった、どちらかというと「壮大」の反対語である「卑小」とも言えるようなアプローチが取られています。曲の始まりを告げるホルン・ソロからして、なんともいじけた風情が漂ってはいませんか?第2楽章は、今まではなんとものどかなオーボエ・ソロだと思っていたものが、なんともどす黒いイメージで迫ってきます。付点音符を強調しているために、なんだかハーケンクロイツの腕章を着けた人たちの行進のように聞こえるのですよ。そうなると、終わり近くの減七の和音のあとのゲネラル・パウゼや、それに続くチェロの不気味さなどの意味が、自ずと変わって聞こえてくるはずです。
スケルツォでは、弦楽器の2小節目の「くさび形」のアクセントを、テヌートと解釈することによって、なんとも間抜けな、ということは、極めて刺激的な印象を与えてくれます。同じ音型の管楽器との対比に、やはり深い意味を感じることだって、可能です。
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同じようにフィナーレのファンファーレの意味の違いを弦と管とで際立たせているのにも、注目すべきでしょう。恐るべきシューベルトです。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2010-03-24 20:51 | オーケストラ | Comments(0)
支倉常長が聴いた西洋の調べ
 ヴォルフガング・ワーグナーが亡くなったそうですね。享年90歳という大往生、この長寿社会、別に珍しいことではありませんが、彼の場合亡くなる直前まで「現役」を貫いていたのですから、もはや世間から忘れられてしまった「過去の偉人」の死亡記事とは、重みがまったく違います。もちろん、彼、並びに常に並列で語られていた彼の兄の「業績」が、その記事を飾るのは当然のことです。しかし、その「兄」に関しては、「『新バイロイト様式』の創始者」という今までのプロフィールが繰り返されているのも、やはり当然のことなのでしょうね。いくらそれをひっくり返すような事実が明らかになったといっても、それが世間に認められるまでには、まだまだ時間が必要なのでしょう。
 そんなドイツの片田舎のスキャンダルには縁がなくとも、62万石の城下町、仙台の「偉人」に関しては、なにかとつながりが出てきたりします。何といっても、彼を主人公にしたオペラが作られたりしているのですからね。前にも書いたことですが。そのセクハラ、ではなくハセクラ(支倉)常長つながりのイベントが、来月開催されます。
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 この人はキリスト教を広めようとしていた藩主伊達政宗の命を受けて、ヨーロッパまで行ってローマ法王に会ってきた、という偉い人なのですが、使命を果たして意気揚々と帰ってきたら彼の故国はキリスト教を認めない国になっていた、という、なんとも間抜けな結末の持ち主です。
 それはともかく、彼が実際にヨーロッパに行ったのは間違いのないことなので、その時にもしかしたら聴いたかもしれない(理解できたかどうかはともかく)音楽を集めたものが、このコンサートなのです。重要なのは、私も、そこに出演する、ということ。合唱にかかわっているうちに、とうとうこんなことになってしまいました。とはいっても、未だにコンサートの全容はおろか、私が歌う曲の全貌さえも見えてこないという状態なのですけどね。もう3回ほど練習をやっているのですが、そもそも最初は自分が歌うパートさえも分からないという有り様でしたし。何となく分かってきたのは、合唱が2つ、ソリストが数人、それに管楽器のアンサンブルが加わる、というあたりでしょうか。私の担当は2つの合唱のうちの小さい方。大きい方は仙台で最も有名な合唱団がそのまま出るのですが、私の合唱団は大学のOBを中心にした寄せ集め、その中には私が入っている男声合唱団も入っています。私は二股をかけているのですね(ちょっと意味がちがうかも)。
 まあ、そんな合唱はともかく、他のパートはドラマ仕立てになっていて、なかなか楽しめるような感じ、興味のある方はぜひいらしてみて下さい。「萩ホール」ご自慢の照明も登場するはずですよ。レーザーだけはやめて欲しいものですが。
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by jurassic_oyaji | 2010-03-23 21:23 | 禁断 | Comments(0)
Broadway without Words
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Richard Hayman/
his Orchestra
NAXOS/8.578039-40




リチャード・ヘイマンとは、なんとも懐かしい名前です。彼の名前を付けたオーケストラは、主にポップスの世界でよく聴かれていたものでした。起伏に富むアレンジで(「平板」ではなかったと)、例えば「アンディ・ウィリアムズ」などのコンサートでバックを務めるといったように、当時の大物アーティストからは絶大なる信頼を得ていた指揮者であり、編曲者でした。
クラシックのフィールドでも、あのボストン・ポップスのアレンジャーとして、アーサー・フィードラーを支えていたそうです。ということは、おそらくルロイ・アンダーソンの後任者だったのでしょう。彼の編曲は、フィードラーのあとのジョン・ウィリアムスの時代でも使われていたといいますから、かなりのクオリティを持っていたのでしょうね。
今回の、有名なミュージカルを集めた2枚組のアルバム、いつもながらのこのレーベルのいい加減さのおかげで、いったいいつ頃録音されたものなのかは全く分かりません。いやしくも、コンピレーションの「マルP」を表示しているのですから、きちんとオリジナルのデータを明記するのはレーベルとして最低限のモラルだと思うのですが、どうでしょう。いや、そんなことも出来ないから、日本語のタスキでも「歌のないブロードウェイ」などというしょうもない「邦題」を付けてしまうのでしょうね。「歌詞」がないだけで、「歌」は、このアルバムには充ち満ちているというのに。まあ、ヘイマンは1920年生まれですから、おそらくもうこの世界からはリタイアしているのでしょうが、1980年代に作られた「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」が収録されているのですから、それほど古い録音ではないはずです。
ここでは、全部で14の作品が登場します。それはもう名作揃い。というのも、ミュージカルの本体は知らなくても、その中のナンバーがカバーされて別な形で耳にする機会が多かった、ということでしょう。中でも、全部で5つもの作品が収録されているロジャース/ハマースタインのチームによるものなどは、もう「ミュージカル」という範疇を超えて「愛唱歌」と化しています。何のかんのといっても、やはり彼らは偉大なソングライターだったのでしょう。
ヘイマンの編曲は、単にオリジナルをオーケストラで華麗に響かせる、といった次元をはるかに超えた、まさに彼自身の「作品」となっています。おそらく、彼自身の中では、素材であるミュージカルを咀嚼し、必要なもののみを選び出してそれらを最も効果的に聴かせるように再構築するという作業が、常に行われていたのでしょうね。まず導入部では、オリジナルを超えるほどの、「腕によりをかけた」凝ったアレンジが披露されます。そして、数々のメロディアスなナンバーをつないでいき、最後にはリズミカルに盛り上がって終わる、という、まさに「黄金の法則」ですね。「サウンド・オブ・ミュージック」では、映画化の際にカットされた「How Can Love Survive?」というエルザ(だれそれ?・・・トラップ大佐の婚約者ですよ)のナンバーが入っているのも、そんな彼の価値観のあらわれなのでしょう。
そんなヘイマンの音楽、あくまで「楽しみ」として味わうには、申し分のない仕上がりになっています。しかし、例えば「ウェストサイド・ストーリー」のように、オリジナルの完成度があまりに高すぎるためにそれが体の芯まで染みついているような作品の場合は、そのような効果を優先させるための音楽の改竄に対しては強力な拒否反応が生まれることになってしまいます。それは、バーンスタインのチームが作り上げたものが編曲までも含めて不動の力をもっていたことを、はからずも気づかせてくれたことにもなるのでしょう。ほんと、「クール」や「アメリカ」といった鮮烈そのものの印象を持っていたはずのナンバーが、ちょっと甘めの編曲が施されただけで、これほどまでに陳腐で軟弱なものに変わってしまうとは。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd
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by jurassic_oyaji | 2010-03-22 20:17 | オーケストラ | Comments(0)
NINE
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 きのうは愚妻の合唱の練習が、久しぶりに富沢の市民センターで行われることになっていました。もちろん私が送り迎えをするのですが、そんな遠くに行くときには、家まで往復するだけで時間がかかってしまうので、すぐそばのモールで時間をつぶしたりします。練習が6時から9時までなのでその気になったら映画を見ることも出来るのですが、なかなかそんなに都合のよい時間にやっていることはありません。
 ところが、きのうはなんと新作の「NINEナイン」が、6時20分開始、8時25分終了という、これ以上はないという理想的な上映時間だったのですよ。これだったら、愚妻を富沢に置いてから楽々映画を見て、終わってすぐ迎えに行けますよ。
 でも、なんせきのうはお彼岸の真っ最中ですから、私の職場は大混雑、おそらく街中もかなり混んでいるでしょうから、普段は30分もあれば行けるところを、1時間の余裕を見て出発することにしました。ところが、きのうの渋滞は、予想をはるかに超えるものすごいものでした。どこまで行っても渋滞がなくならないのですよ。これだと、富沢まで行ってからモールに引き返したのでは映画の開始時間に間に合いません。仕方なく、モールの前で降りてもらって、あとは地下鉄で行かせ、私はモールの駐車場へ。シネコンに着いたのは開映10分前でした。
 そんなギリギリの状況で見ることになった「NINEナイン」ですが、ただ「ブロードウェイミュージカルの映画化」というぐらいの予備知識しか持っていないで見たものですから、正直ちょっと入り込んでいけないものがありました。なにしろ監督が「シカゴ」のロブ・マーシャル、あの映画もはっきり言って私には退屈な作品でしたからね。なにしろ、ミュージカルに必要な音楽が、全く面白くないというところが、「シカゴ」とおなじ、いたずらに煽り立てるだけで、心に迫ってくるものがないのですね。素直にいいな、と思えたのはニコール・キッドマンが歌っているナンバーだけだったような気がします。
 ストーリーも、なんだかフェリーニの「81/2」が下敷きになっているような感じで、いかにもミュージカルには不向きな内容、まあ、映画として見る分には面白いのでしょうがね。あとで確認してみたら、やはりこれは確かにフェリーニでした。主人公の映画監督の名前まで同じですし、タイトルも「81/2」をもう少し進めて「9」なんでしょうね。最初は、出てくる女性が「9人」かと思って、一生懸命数えていたのですが、そんなにはいませんでしたし。
 ですから、ミュージカルだと思わないで見れば、これはなかなか刺激的な映画でした。正直、音楽やダンスはジャマですね。まあ、それが「ファッショナブル」なのだ、といわれればそれまでのことなのでしょうが、主人公とさまざまな女性とのからみが、音楽があるためにかえって曖昧になっている点が多すぎるような気がします。
 一番印象的だったのが、ソフィア・ローレン。もうかなりの年のはずですが、その美しさと貫禄は、他の「若い」女優をはるかに圧倒しています。歌はヘタですが。一緒に出ていたジュディ・リンチと同じ年齢だなんて、とても信じられません。
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by jurassic_oyaji | 2010-03-21 23:27 | 映画 | Comments(0)
MOZART/Symphonies 29, 31, 32, 35 & 36
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Charles Mackerras/
Scottish Chamber Orchestra
LINN/CKD 350(hybrid SACD)




1986年から1990年にかけてTELARCにプラハ室内管弦楽団によって交響曲全集を録音していたマッケラスが、今度はLINNに、スコットランド室内管弦楽団と一緒にまた交響曲の録音を始めています。前に後期交響曲集がリリースされていましたが、これはそれに続く第2弾です。今回は29番から36番までとなっていますが、多少抜けているのは「全曲」にはこだわっていないからなのでしょうか。ただ、「32番」などという、殆ど聴いたことのないようなものまで入っているのは、彼なりのこだわりなのでしょうか。
こだわりといえば、3つの楽章しかないはずの「31番」で「4つ」の楽章を演奏しているのも、マッケラスならではのことでしょう。「パリ」という愛称でも分かる通り、この曲はパリのコンセール・スピリチュエルの支配人、ジョセフ・ルグロから依頼されて作ったものなのですが、初演の際に第2楽章のアンダンテがルグロには不評だったので、別のアンダンテを作って差し替え、再演の時にはそれを演奏したのです。つまり、この曲には「第2楽章」が2種類あるのですが、それを両方とも収録しているのです。さらに、第1楽章も自筆稿と最初にパリで出版された初版とでは、いくつかの箇所で異なっています(例えばティンパニとトランペットのリズムなど)が、マッケラスは通常は演奏されないこの「パリ初版」によって演奏しています。これらの第1楽章と第2楽章の異稿は、ベーレンライターの新全集でも「付録」という形で最後に掲載されていますから、実際に楽譜を見ながら確認することは簡単です(さっそくスコアを買いに行こう)。
この「付録」にある第2楽章は、さっきの「パリ初版」に採用されていたバージョンなのですが、3/4拍子、58小節のこの楽章は、まず演奏されることはありません。録音でも、オリジナル楽器による最初の交響曲全集であるホグウッド盤にかろうじてあるぐらいなのですが、マッケラスは以前のTELARC盤でもすでにこの2種類の「アンダンテ」を録音していました。ただ、実際は普通に演奏される6/8拍子、98小節の「アンダンテ」の方も、最初は「アンダンティーノ」の表記だったものを、細かいところを手直しして今の形になったものなのです。TELARC盤のライナーに彼の言葉が引用されていますが、いくらこだわりがあってもさすがにその「アンダンティーノ」を演奏することはせず、「オリジナルのうちの2番目の稿」を選んだと言っています。そう、この時点では、この普通に演奏されるアンダンテの方が「オリジナル」、つまり、初演の時に演奏されたものであると、マッケラスでも信じていたのですね。
ところが、1980年代の研究によって、最初に演奏された「オリジナル」は実は「パリ初版」にあるアンダンテの方で、現在一般的になっているアンダンテは、後に作られ、再演で差し替えられたものであることが明らかになったそうなのです。にわかに脚光を浴びることになったこのかわいらしいアンダンテ、果たしてこれから「オリジナル」として扱われるようになることはあるのでしょうか。
ちなみに、このLINN盤の表記では、6/8拍子の方の第2楽章は「アンダンティーノ」となっていました。もしかしたらマッケラスは改訂前の形(そのチェックポイントは、TELARC盤のライナーに書いてあります)で演奏しているのか、と期待したのですが、聴いてみたら普通の形、それはただのミスプリントだったのですね。
マッケラスの基本的なアプローチはTELARC盤とは変わりませんが、もはやチェンバロを加えることはなくなっています。さらに、演奏にはより深い重みが感じられるようになっています。何よりも、録音がまさに雲泥の差、これぞSACDという、ゾクゾクするほどの生々しさには圧倒されてしまいます。「29番」で弱音器を付けて演奏される第2楽章の弦楽器などを聴いていると、至福の世界に漂っているよう。

SACD Artwork © Linn Records
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by jurassic_oyaji | 2010-03-20 22:31 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony No.5, VIVALDI/The Four Seasons
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Wojciech Rayski/
Polish Chamber Philharmonic Orchestra
TACET/L164(LP)















Daniel Gaede(Vn)
Polish Chamber Philharmonic Orchestra
TACET/L163(LP)



LPは、CDなどとは比べものにならないほど良い音であることに今さらながら気づかされているところです。何度も繰り返しますが、少し前に聴いた「リング」のテスト盤TESTAMENT)の素晴らしさには感動すら覚えたものです。しかし、その「感動」を期待してECMから出ていた「最近の」LPを買ってみたら、プレス技術の退化はまさに目を覆いたくなるほどだったんですね。
ただ、そのECM盤は普通の規格のLPだったので、やる気になればもっとちゃんとしたプレスも出来るのでは(現に、TESTAMENTでは出来てます)、と思っていたら、ドイツのTACETというレーベルが、えらくマニアックなLPを出しているのを見つけました。なんでも「チューブ・オンリー」というコンセプトが貫かれているのだそうです。もちろん、名古屋や岐阜の人でなくても、買うことは出来ますよ(それは「中部オンリー」)。
この「チューブ・オンリー」では、LPの録音から製造まで、すべての課程で「真空管」を使っているのだそうです。まず、マイクはノイマンの「M49」という1949年に作られた「真空管マイク」を2本使います。もちろんミキサーやアンプも「真空管」、そして、記録媒体はテレフンケンの「M10」という、1950年代に作られた「テープレコーダー」です。もちろん、レコードに溝を刻むためのカッティング・レースを駆動させるアンプも、真空管アンプです。つまり、徹底的に「アナログ」にこだわった録音、そしてマスタリングということになりますね。
いや、この「こだわり」は、レーベル内にとどまらず、それを買って聴こうというユーザーにも向けられます。「あなたが真空管アンプをお使いならば、このレコードを本当に楽しむことが出来ます」ですって。ま、その後に「でも、どんな装置でも特別な魅力は感じられますが」とは言ってますが、なんか腹が立ちますね。そこまで言うのなら、普通の「トランジスター・アンプ」で、その「魅力」とやらを味わってみてやろうではないですか。
まず聴いたのは、ヴィヴァルディの「四季」です。確かに、とても柔らかな音、柔らかすぎて、トゥッティではちょっと甘くなっていますが、ソロだけはかなりクリアに聞こえます。教会のようなところで録音しているようで、まわりに漂う雰囲気感が、まさに「真空管」という暖かさですね。特に真ん中のゆっくりした楽章では、その雰囲気がえもいわれぬ「魅力」となって伝わってきます。遠くにあるはずのチェンバロも、くっきりと聞こえてきます。演奏もかなり現代的(というのは、「古楽」の手法も取り入れて、ということですが)で適度の緊張感を持ったもの、確かに、これはいつまでも聴いていたいと思わせるような「魅力」を持ったものでした。
もう1枚、もう少し編成の大きな「運命」も聴いてみました。しかし、ここではマイク2本だけという「ワンポイント」のセッティングが、ちょっと無理があるような印象を持ってしまいます。なにしろ楽器のバランスが悪いのですよ。特にホルンだけが異様に目立っていて、その分木管が弱くなってしまっています。かと思うと、第2楽章ではマイクの場所を変えたのでしょうか、木管が1楽章とは全く違った音像で聞こえてきたりしていますよ。フィナーレの入りなども、明らかにフェーダーを操作したように、音圧が一段下がっています。そんな録音以前に、何よりもこの指揮者の作る音楽が、ドライブ感の全くないものなのですからね。
そして、プレスに関しても、ECMほどではありませんがTESTAMENTには到底及ばないお粗末なものでした。一応「180gの重量盤」などと謳ってはいるのですが、カッティング・レベルが低いためにサーフェス・ノイズがかなり目立ちますし、スクラッチはもう絶え間なし、このレーベルは、客にアンプの指図をする前に、もっと他にやることがあったはずです。

LP Artwork © TACET
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by jurassic_oyaji | 2010-03-18 20:18 | オーケストラ | Comments(4)