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WHITBOURN/Luminosity and other choral works
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Matthew Berry/
Commotio
NAXOS/8.572103




最近、このレーベルの合唱関係のアイテムが充実してきたようには、感じられませんか?演奏のレベルもかなり高いものが多く、簡単には見過ごせないものが揃っています。今回も、おそらく日本の市場では初めて紹介されたであろうイギリスの作曲家、James Whitbournの作品集です。ただ、この誰も聞いたことのない作曲家の名前を日本語で表すときに、このレーベルの日本の販売元が「ホワイトボーン」と表記してしまったために、なんだかこの先読み方に関しては混乱が生まれそうな予感です。先日のローリゼンではありませんが、ちょっと見慣れない綴りの名前だと、何種類かの日本語表記が乱立してしまうことがありますからね。現に、さる楽譜販売サイトでのインフォでは、同じ人を「ウィットボーン」と表記していますよ。いったい、どちらを信用したらよいのでしょうか。しかし、どうやらこの件に関しては、「ウィットボーン」の方がより元の発音に近いような気がするのですが、どうでしょう。というより、「Whitebourn」ではないのですから、これを「ホワイトボーン」と読むのは、かなりきついのではないでしょうかねぇ。どうやら、これはタスキ(業界では「帯」というのでしょうか)制作者の語学力の欠如からくる、ケアレスミスのように思えてしょうがありません。リブ・タイラーのお父さんですか(それは「エアロスミス」)。
1963年生まれといいますから、ジョン・ラッターあたりの次の世代の作曲家になるのでしょう。有名なキングス・カレッジ聖歌隊などから委嘱を受けるなど、すでにイギリスの合唱界では確固たる地位を築きあげている方です。その作品は、確かにそんなラッターの流れを色濃く反映しているとともに、ジョン・タヴナーあたりのテイストも、もはや一つの伝統として取り込んでいる感があります。いとも清らかに漂う「癒し」の情感は、もう現代の作曲家にとっては必須アイテムなのでしょう。
しかし、そんな中にももちろんウィットボーン自身の個性といったものを、確かに感じることが出来るのがうれしいところです。アルバムの最初に聞こえてくる「Magnificato」は、オルガンと打楽器の伴奏が入った、いきなり不協和音の塊から始まる大胆な曲でした。それは、まるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような、原始的な「叫び」にも聞こえるような斬新さを持っていました。
一方、「A Prayer of Desmond Tutu」という曲では、ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデスモンド・トゥトゥ大司教自身がナレーションを担当して、「愛は憎しみよりも強い」といったような「祈り」を淡々と伝えています。あまりにもベタな気はしますが、そんなストレートなメッセージは、平易なサウンドに乗って心地よく伝わってきます。
アルバム・タイトルになっている「Luminosity」という2008年に完成した曲は、音楽とダンスのコラボレーションとして作られたものなのだそうです。ここにはアジア、特にインドの音楽のテイストがとりいれられています。冒頭から聞こえてくるタンプーラという、シタールを演奏する時にアンサンブルでドローン(持続音)を担当しているインドの楽器の音によって、即座にインド音楽モードに入り込むことが出来ることでしょう。それに続いてヴィオラ・ソロがもろインド音階のオブリガートを演奏してくれますし。
演奏しているのは、初めて聴く「コモティオ」という合唱団です。オクスフォード大学の卒業生によって1999年に創設された、現代の合唱曲を専門に演奏するという団体です。イギリスの合唱団ならではの安定したソノリテの上に、きちんと「雑音」までも表現できるという幅の広さが魅力です。なんでも、シュニトケの「レクイエム」を、イギリスで2番目に演奏したのだとか、その実力は折り紙つきです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-04-30 20:47 | 合唱 | Comments(0)
新しい音を恐れるな 現代音楽、複数の肖像
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インゴ・メッツマッハー著
小山田豊訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93547-7


先日ご紹介したメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」のDVDで小気味よい指揮ぶりを披露していたメッツマッハーが、2005年にこんな本を書いていました(やってまったー)。つい最近出た、その日本語訳です。
キャリアの出発点が「アンサンブル・モデルン」のピアニストだったということで、指揮者としての彼の名前は、それこそ「現代音楽」のスペシャリストとして、一部の人にはよく知られています。そんな彼が、自分の体験を通して、「現代音楽」について語ったものが、この本です。しかし、それは決して教条的な解説書ではなく、彼が本当に好きな音楽についていとも楽しげに「こんなのがあるから、聴いてごらん」と言っているような親しみやすさが、いたるところからにじみ出してくるものでした。
それは、彼自身の体験によって裏打ちされているものばかりですので、圧倒的な説得力をもって迫ってきます。例えば、シュトックハウゼンの「コンタクテ」を練習する課程で、彼の音楽に魅了されるようになっていく様子をつぶさに語るあたりの真に迫った描写には、惹きつけられずにはいられません。そのコーナーでの、シュトックハウゼン本人との関わりについても、興味の尽きないエピソードが次々に現れてきますしね。
今年の秋に来日して、新日本フィルとともに演奏するハルトマンについても、それぞれの交響曲の魅力が、熱く語られています。おそらく、この本と、このコンサートによって、彼の作品の愛好家も少しは増えるのではないでしょうかね。実際、メッツマッハーの真に共感に満ちた語り口は、無条件でその曲を実際に聴いてみたくなるものばかりでした。これほど平易な言葉で「現代音楽」の魅力を伝えた本を、他に知りません。
ただ、この翻訳には、そんな魅力を半減させるような欠陥が潜んでいました。まずそのタイトルです。原題は「Keine Angst vor neuen Tönen / Eine Reise in die Welt der Musik」というもの、メインタイトルが「恐れるな」などという命令形なのは、まあ趣味の問題として片づけられますが、サブタイトルは本来は「音楽の世界への旅」なのですから、「現代音楽、複数の肖像」というのは訳者による全くの捏造ということにはなりませんか?確かに、何十年か前の「ゲンダイオンガク」のシーンでは、こんな頭でっかちの意味不明な言葉が飛び交っていたのかもしれません。それは、ひたすら独りよがりへの道を突き進んだ「作曲家」と、そして、それをありがたがって拝聴することが一つの特権だと勘違いしていた「聴衆」を、いみじくも象徴するような言葉なのではないでしょうか。メッツマッハーは「私と一緒に『音楽の世界への旅』へ行きましょう」と言っているというのに。
そんな訳者の勘違いをさらに端的に示しているのは、最後に掲載されている本文には由来しない著者のプロフィールです。かつてハンブルク時代に彼の指揮で開催されていた年末のコンサートのタイトルは、英語でWho is Afraid of 20th Century Music?というものだったのですが、これはもちろんディズニーのアニメ「三匹の子ぶた」の主題歌「Who's Afraid of the Big Bad Wolf?」をもじった、いかにもメッツマッハーらしいウィットに富んだタイトルだったはずです。ですから、日本語で表すときにも、この歌の邦訳として定着している「狼なんか怖くない」にちなんだ「20世紀音楽なんか怖くない」あたりが、素直にそのコンサートの趣旨を伝えるものとしてふさわしいのでは、とは、誰しも思うことでしょう。ところが、ここで訳者が用いた邦訳は、「20世紀音楽を恐れるのは誰だ?」という、まさに「直訳」、メッツマッハーがタイトルに込めた思いからは、はるかに遠くにあるものだったのです。
こんなに面白い本が、こんな扱いによってごく一部の鼻持ちならないマニアの目にしかとまらなかったとしたら、これほど残念なことはありません。

Book Artwork © Shunjusha
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by jurassic_oyaji | 2010-04-28 20:47 | 書籍 | Comments(1)
MAHLER/Symphonie No.1, Rückert-Lieder
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Christine Schäfer(Sop)
Christoph Eschenbach/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
CAPRICCIO/C 5026




このレーベル、一時は完全に消滅していたかのような様相を見せていました。なにしろ、大量に昔のアイテムが「放出」されて、まさに「閉店セール、現品大処分」といった趣でしたからね。あまりの安さに、ついケーゲルのSACDなどという「クズ」まで買わされてしまいましたっけ。その後、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、結局カタログの大部分を引き継いだPHOENIXレーベルの傘下に入って、新録音なども行うようになったのだそうなのですね。品番が「C」で始まり、そのあとに4ケタの数字が続くものが、そんな新しい録音なのだそうです。
そんな新録音、しかもセッション録音で、エッシェンバッハとベルリン・ドイツ交響楽団という新鮮なコンビの演奏によるマーラーが出ました。今年からはワシントンのナショナル交響楽団のシェフに就任したエッシェンバッハですが、決して良好な職場環境ではなかったはずの前任地フィラデルフィアでも、ONDINEの録音ではなかなか聴きごたえのあるものをリリースしてくれていましたから、かなり期待は持てるはずです。オーケストラも、かつてはフリッチャイの元で「RIAS放送交響楽団」という名前で多くの録音を残していた名門ですし(ほう、そうなんですか)。
そんな予想にたがわず、この「1番」は、とても主張のはっきりした素晴らしいものに仕上がっていました。なによりも、最初から最後まで、このオーケストラの力を信じてそこから最良のものを引き出そうという指揮者の思いが、見事に表れていたのです。特に、第2楽章で見られた余裕の表現からは、真の音楽の持つ楽しさが伝わってきます。この楽章での「3拍子」は、たとえばウィンナ・ワルツでその地方の「訛り」がえもいわれぬ味となるように、ほんのちょっとしたリズムの処理が、大きくその魅力を左右することになります。「タララー」という基本的なリズムは決して均等に演奏されるのではなく、「タラッラー」みたいに、1拍目の「裏」をほんの少し早めに(もちろん、それは楽譜に表すことは出来ません)入ることによって、いかにも「レントラー」っぽく粋に感じられるのですね。このチームが繰り出すそのリズムが、まさに絶妙なのですよ。それは、指揮者の指示をオケが忠実に実行している、といった次元のものではなく、両者がまさに阿吽の呼吸でいとも自然に醸し出しているのですね。それだけではなく、次のフレーズへ入るときのほんのちょっとした「タメ」も、絶妙の味付けとなっています(最近北欧の指揮者と北欧のオケによるこの曲のコンサートを聴いたのですが、そこでは完全に「楽譜通り」のリズムで演奏されていて、がっかりしたものです。そこからは、マーラーの匂いが漂ってくることは、けっしてありませんでした)。
第4楽章では、いたずらに煽るようなことはなく、少し抑え気味のテンポで進んでいきます。それは、決してのめり込むようなものではないにもかかわらず、そこから生まれる高揚感は、聴くものを充分に「嵐」の中に誘い込んでくれるものでした。それだからこそ、その嵐が収まったときに表れる穏やかな光景での思い入れたっぷりの表情が心を打ちます。この風景は、まさに楽園、なんと美しいことでしょう。それは、いずれはまた「嵐」によって打ち消されるのですが、そんな、決してたどり着くことのない楽園だからこその美しさが、切ないほどに伝わってはこないでしょうか。
カップリングとして入っている「リュッケルトの詩による歌曲」も、素晴らしい仕上がりです。歌っているのはクリスティーネ・シェーファー、いつもながらの考え抜かれた表現は、あたかも感性ではなく知性に訴えて来るような刺激的なものでした。彼女の歌はまさに変幻自在、リアリティあふれる発音によって、歌詞の持つ世界が見事に描かれます。

CD Artwork © Phoenix Music Media
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by jurassic_oyaji | 2010-04-26 20:08 | オーケストラ | Comments(0)
GAZZANIGA/Don Giovanni
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Roberto Iuliano(Don Giovanni)
Linda Campanella(Donna Elvila)
Maurizio Leoni(Pasquariello)
Alessio Pizzech(Dir)
Pierangelo Pelucchi/
Fondazione Orchestra Stabile Gaetano Donizetti
BONGIOVANNI/AB 20002(DVD)



先日、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のプロットの破綻を指摘したところ、「それは、『元ネタ』にはあったものが、ダ・ポンテによって削除されたから」というようなコメントをいただきました。その「元ネタ」、ジュゼッペ・ガッツァニーガが作曲した「ドン・ジョヴァンニ」の存在は、かなり前に聴いたヴァイルの演奏によるCDで知ってはいました。
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SONY/SK 46 693

しかし、あいにくこれはレシタティーヴォをすべてカットしたハイライト盤だったため、アリアの比較は出来ても、ストーリーの違いまでは確認することが出来ずにいました。そこで、この際この「元ネタ」をきちんと見てみようと思い、割と最近の(とは言っても、これが映像としてリリースされた最初のもの)DVDを買ってみました。200510月、ベルガモのドニゼッティ劇場での上演のライブです。
この作品は、ジュゼッペ・ガッツァニーガが、ジョヴァンニ・ベルターティという、チマローザの「秘密の結婚」などを書いた劇作家の台本によって作ったもので、1787年の2月5日にヴェネツィアで初演されています。一方、「パクリ」であるダ・ポンテ/モーツァルト版は、その8ヶ月半後の1029日にプラハで初演されていますね。ちなみに、この2作品の正式なタイトルは「元ネタ」が「ドン・ジョヴァンニ、または石の招待客」、「パクリ」が「罰せられた放蕩者、またはドン・ジョヴァンニ」となっています。
この上演では、序曲に先立って演出のピッツェクが書いた「エピローグ」が演じられます。それは、いきなり客席にパスクワリエッロ(「パクリ」では「レポレッロ」と変わっています)役のレオーニが現れて、他の出演者も巻き込んでなにやらにぎやかにしゃべりあう、というものなのですが、あいにくこの部分だけ字幕がついていないので何をやっているのかは、イタリア語に堪能でない限り分からないことでしょう。
そして、おもむろに序曲が始まりますが、オーケストラの編成は管楽器はオーボエとホルンが2本ずつという、かなり小規模なものです。「パクリ」ほどのドラマティックなものではなく、淡々と当時のイタリアオペラの期待を裏切らない音楽が繰り広げられます。
ストーリーは、確かに「パクリ」とは微妙なところで異なっています。最も気になっていた騎士長の墓と石像の問題も、しっかりオッターヴィオ侯爵によって、その建設にあたっての講釈がていねいに語られますので、疑問を感じることはありません。それよりも、「元ネタ」ではドン・ジョヴァンニは、自分が殺した騎士長が確実に埋葬されたかを確認するために、自らの意志でここを訪れていたという点に、興味がひかれます。「パクリ」では確か、たまたま迷い込んだ場所が石像の前だった、という設定でしたよね。
そんなことも含めて、「元ネタ」からは「騎士長殺害の報いを受ける『悪者』ドン・ジョヴァンニ」という構図がかなり強く伝わってきます。なんせ、ドンナ・アンナは明らかにレイプされていますし(台本にあります)、マトゥリーナ(つまりツェルリーナ)も、いとも簡単に餌食になっているのですからね。そんな「元ネタ」に、さらに細やかな情愛を施したのは、「後出し」の特権でしょうか。確かに、モーツァルトの描いたキャラクターは、格段に深みが増しています。「カタログの歌」だって、人数が増えてますし。
ただ、台本だけでなく、音楽も何となく似ているところがあるのは、ちょっと気になります。マトゥリーナの結婚式のシーンなど、もろ「パクリ」。
折りしも、ダ・ポンテと「ドン・ジョヴァンニ」を題材にした映画が公開中、この中では、この「元ネタ」はどのように扱われているのか、あるいはまったく触れられてはいないのか、とても興味があります。

DVD Artwork © Bongiovanni
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by jurassic_oyaji | 2010-04-24 19:46 | オペラ | Comments(0)
BARTÓK/Concerto for Orchestra
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Zoltan Kocsis /
Hungarian National Philharmonic Orchestra
HUNGAROTON/HSACD32187(hybrid SACD)




2002年の録音と、決して「新譜」ではないのですが、最近何かと「オケコン」に縁があるものですから、この曲のおそらく何番目かに「最新」に近いものということで、ご紹介させてください。
「オケコン」といえば、つい最近、テレビでスクロバチェフスキが読売日本交響楽団を指揮した映像が放送されましたね。かなり期待をして見ていたのですが、なんとも淡泊な演奏だったのには、ちょっとがっかりしてしまいました。何よりも、管楽器奏者達が常に安全運転に終始していて、ハラハラさせられることがないのですね。この曲では、もっと弾けて生々しい躍動感を見せつけて欲しいと常々思っているものですから、こんなサラリーマン根性丸出しの日本のオーケストラは失望の対象以外の何者でもありません。
それに比べると、ハンガリー屈指の名門オーケストラと、超有名なピアニストだった指揮者というこのコンビによるバルトークの第1弾として録音されたこのアイテムは、なんでもこのレーベルで最初のSACDだったのだそうで、それだけでも、なんか独特の意気込みが感じられますね(それ以後、このレーベルがSACDを出していたことはほとんど気づかされなかったのですが、最近になって再開されたバルトーク・ツィクルスが再びSACDによるリリースなので、こちらを聴くのも楽しみです)。
もちろん、録音された場所はブダペストにある「フェニックス・スタジオ」という有名なところですから、きちんとしたセッション録音、マイクアレンジなどもかなり吟味されていたのでしょう。その音は、それぞれの楽器のキャラが立った、目の覚めるように鮮やかなものでした。
そんな録音でことさら思い知らされるのが、管楽器奏者達のとてもユニークな個性です。2楽章に出てくる各パートの1番奏者と2番奏者によるデュエット・ソロの先陣を切るファゴットの、いかにも「俺たちの音楽」といった感じの押し出しの強さは、なんとも強烈なインパクトを与えてくれますよ。いや、そもそも、この楽章の冒頭に現れるサイド・ドラムの、乾いた音色とタイトなリズムの中にすら、確かなメッセージが込められていたことに気づいていたはずですし。このファゴットのフレーズは後半にも再現されますが、その時には3番奏者のカウンターも加わってさらに圧倒的な力で迫ってきます。
この曲の中には、多くの変拍子が現れますが、それに対する処理もひと味違った仕上がりとなっています。例えば、1楽章の、静かな序奏のあとにひとしきり盛り上がったあとに訪れる「トランクイロ」と表記された部分は、3拍子と4拍子が不規則に繰り返される面倒くさいリズムを持っているのですが、そこを彼らはいとも滑らかに演奏しているのです。そうすると、不思議なことにそこから「言葉」が聞こえてくるのですよ。そう、それはまさにハンガリーの言葉を母国語とする人たちが普通にしゃべっている、という感じなのですね。これを体験してしまうと、先ほどの読響のような普通のオケが演奏したものは、まるで片言の外国語のように思われてしまいます。この作品、バルトークはアメリカのオーケストラのために作ったのでしょうが、なんのなんの、そこにはこんな真の「民族性」がしっかり埋め込まれていたのですね。
ですから、ショスタコーヴィチの「レニングラード」のパロディとして知られている4楽章で、そんなおちゃらけた楽想の間にヴィオラによって演奏される甘美なフレーズが、いとも素っ気なくほとんど無表情に現れたときには、逆の意味でなにか強い意志が働いていることを感じないわけにはいきません。
かつて、小林研一郎などが常任指揮者を務めていたころは、このオーケストラは、いかにも「田舎のオケ」といった感じでしたが、コチシュのもとで、それを逆手に取った見事な花を開かせようとしているのかもしれません。「オンコチシュン(温故知新)」ってやつですか。

SACD Artwork © Hungaroton Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-04-22 21:45 | オーケストラ | Comments(0)
ROTHE/Matthäus-Passion
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Hans Jörg Mammel(Ev)
Wolf Matthias Friedrich(Je)
Bernhard Klapprott/
Cantus Thuringia
Capella Thuringia
CPO/777 554-2




「またぁ~」と言われそうですが、このところ受難曲ばっかりが続くこのページです。ついこの間「受難日」を迎えたばかりですので、許して頂きましょう。
今回は、珍しいものをどこからか掘り出してくるのがお得意のこのレーベルの最新の企画「チューリンゲンの音楽遺産」というシリーズから、ドイツの中部、チューリンゲン地方の都市ゾンダースハウゼンで楽士を務めていたヨーハン・クリストフ・ローテという人が1697年に作った「マタイ受難曲」です。この作曲家、全く初めて聞く名前ですが、その曲名からすぐ連想されるバッハより30年以上前、1653年に生まれているそうです。しかし、亡くなったのが「1700年または1720年」というのですから、いかに本人に関する情報が乏しいかが分かります。いずれにしても、もしかしたら若いバッハも自転車に乗って聴きにいった(駐輪場に置いて)かもしれない知られざる「マタイ」ですから、一聴の価値はあるはずです。
ゾンダースハウゼンの宮廷の中にある博物館に所蔵されている自筆稿には、「マタイによる主イエス・キリストの受難 ヴァイオリン2本、ヴィオラ・ダ・ガンバ4本、歌手11人、チェンバロのための」というタイトルが書かれていますので、実際に演奏する人数が分かります。もちろん、「通奏低音」の参加は常識の時代ですから、この演奏ではさらにヴィオローネとオルガンが加わっています。ちなみに、ジャケットの写真では、指揮者のクラップロットが、プログレ・ロックのキーボーディストのように、ポジティーフの上に横長のチェンバロである「スピネット」を重ねて置いています。
「歌手」の内訳は、エヴァンゲリストとイエスを含めた、ソロ歌手が8人、それに4声か5声のコーラスですから、適宜ソリストもコーラスに加わったのでしょうね。バッハの曲も、最初からこのように指定されていれば、コーラスが何人なのか悩まなくても済んだのでしょうがね。
伴奏楽器が弦楽器だけ、しかも、大半はヴィオール族ということで、サウンド的にはなんとも渋い世界が広がります。その分、歌手達の声がストレートに伝わってきます。
曲の形式はバッハと同じ、レシタティーヴォによる聖書朗読の間に「アリア」などが挿入されるという、いわゆる「オラトリオ風受難曲」というものです。ただ、CD2枚組で演奏時間は1時間半、バッハの曲の半分程度の長さしかありません。これは、バッハではかなりの長さを占めることになるアリアが、だいぶ短いものになっているのがその要因です。というか、ここでの「アリア」というのは、バッハのようにあたかもオペラのアリアのような起伏に富んだ大規模なものではなく、ほとんどのものは賛美歌(つまり「コラール」)をそのまま歌っているからなのです。一応ソリストによって歌われますが、その「アリア」はほとんどが2分にも満たない、素朴な、それこそ16小節ぐらいのものを「1番、2番~」と繰り返すようなものなのです。前奏もなく、いきなり歌から始まるものも多くなっています。ですから、バッハではコーラスで歌われる「コラール」が、ここにはありません。かつてはこのようにシンプルだった「受難曲」の中に華麗なアリアを取り入れることによって、バッハはあれだけの壮大な作品を産むことになったのだなぁというような、あたかも、音楽史の1ページを見る思いが、この曲を味わうことによってわいては来ないでしょうか。
とは言っても、レシタティーヴォで民衆の言葉を表す役目を担っているコーラスの部分では、バッハとはまた違った形での「叫び」が表現されていて、別の側面からの福音書の印象が伝わってきます。
歌っている「カペラ・チューリンギア」のメンバーを中心とするメンバーは、いずれも伸びやかな声でこの渋い曲に光を与えています。特に、3人のソプラノのとても澄んだ音色には、和みます。

CD Artwork © CPO
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by jurassic_oyaji | 2010-04-20 20:08 | 合唱 | Comments(0)
川内萩ホール7 vsニューフィル
 いよいよ明日は定期演奏会の本番。ですから、今日は最後の前日練習となります。会場は本番と同じ萩ホール、合唱ではさんざん使ってきましたが、オケでステージに乗るのはこれが初体験、なんだか緊張しますね。
 ただ、「すでに山台は組まれているので、ステージのセッティングはそんなに時間がかからないはず」と言われていたのとは実情は全く違っていました。今ある山台をもう少し広くして使いたい、という要望だったのでしょう、そのためのパーツを持ってきて、新たに山台を組まなければならなかったのです。ところが、このホール、客席はきれいになりましたが、一歩裏に回ると50年前とおんなじで、そのパーツは、ステージ裏の細い階段を2階分上がったところに置いてあるというのです。それが20個以上必要だというので、人海戦術でその細い階段を一人で一つずつ持って降りてこなければなりません。私などは、そこを2往復してしまいましたよ。もうこれだけでばててしまい、もうフルートを吹く力は残っていません。
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 そのパーツは、こんな風に組み立てて、その上に山台を乗っけて、完成です。その上に椅子を並べる段になって、またまた今度はエレベーターで1階降りて、ものすごく離れたところにある倉庫から持ってこなければなりません。まるで迷路ですよ。
 そんな苦労をしてセッティングが終わったところで、予定より15分押しでリハーサルがはじまります。田中さんは開口一番、「皆さんの椅子の並べ方は素晴らしいですね」と、全く予想もつかない方面からほめられてしまいましたよ。別に、我々は普通にやっていたのですが、他のアマオケでは、そんなことすらもちゃんとできないようなところがあるのだそうですね。
 音を出し始めると、なんともいえない豊かな響きに包まれるのが分かります。その響きが非常に暖かいのですね。それと、低音がとてもしっかり聞こえてきます。自分で吹いていても、トゥッティのときでさえ音に響きが乗っている感じがします。高音などは、明らかにしっかり残っているように聞こえますし。ただ、歌っていた時もそうでしたが、お客さんが入るとガラリと響きが変わってしまいますから、それは明日確かめることになりそうです。合唱のときには、お客さんが入ったときのほうが歌いやすかったような記憶がありましたが、果たしてどうなのでしょうか。
 後半はもう出番がないので、せっかくですからホールのいろいろな場所で聴いてみることにしました。考えてみれば、フル編成のオーケストラをここで聴くのは初めてですし。まず、1階席の一番後ろで聴いてみました。予想されたことですが、ここは頭上に2階席があるので、もう響きが完全に消えています。なんだか遠くのほうで鳴っているかんじ、ここはおそらく最悪のポジションでしょうね。そこからもう少し前に行って、2階席がなくなると、とたんにホール全体の響きの中に包まれる感じになります。これは、前から感じていたように、とてもふんわりとした柔らかい響きです。
 その次に、まだ実際に聴いたことのない左右のバルコニー席に行ってみました。ここで聴く音は、まさにショッキング。豊かな響きはそのままに、生々しいまでに解像度の高い楽器の音が聞こえてきます。オンマイクで録音されたものを聴いている感じですね。ここから見える景色は、今まで仙台にあったホールでは決して見ることのできないものでした。オケを聴くなら、ここが絶対のお勧めです。
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 実は、今まで何度も聴いていた2階席が、かなり問題の多い音であることも分かってしまいました。ステージの前に出ている楽器だけが、なんとも貧弱な音に聞こえるのですね。この前の「ロ短調」を聴いたときにも、それは感じられたこと、大編成のものを聴くときには、ここは避けたほうがよいのかもしれません。とは言っても、このホールでちゃんとしたオーケストラを聴く機会がこれからあるのかどうか。

萩ホール | 萩ホール2 | 萩ホール3 | 萩ホール4 | 萩ホール5 | 萩ホール6


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by jurassic_oyaji | 2010-04-20 08:46 | 禁断 | Comments(0)
LAURIDSEN/Choral Works
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Noel Edison/
Elora Festival Singers
NAXOS/8.559304




外国の人の名前を日本語で表わすのは難しいものですが、「Morten Lauridsen」というアメリカの作曲家ほど、その表記が乱立している人もいないのではないでしょうか。このページでも、以前「ポリフォニー」の演奏を取り上げた時には、「モートン・ローリドセン」という表記を使っていたはずです。「ラウリドセン」なんて呼ぶ人もいたようですね。しかし、どうやら彼の作品の主な供給先である合唱界では「ローリゼン」という言い方が一般的に用いられているような感触がありますので、そのあたりがおそらく「正解」なのではないでしょうか。「d」と「s」は別々の子音ではなく、「ds」でひと固まりの子音、というとらえ方ですね。いや、まだご存命ですが(「死因」はまだ分からない、と)。
ということで、日本語表記については結論が出たのだと思っていたら、このCDのタスキでは「ラウリセン」ですって。いや、タスキにしてもネットにしても、この○クソスさんのインフォほどいい加減なものはありませんから、とりあえずこれは無視することにしましょうね。
今回のCD、先ほどの「ポリフォニー」のものとは重なっているレパートリーもたくさんあります。最初の曲「O nata lux」は、あちらのメイン・タイトルだった「Lux aeterna」という、オーケストラの伴奏が付いたかなり長い作品の中に含まれていた、唯一無伴奏で歌われていたナンバーでしたね。この曲と、最後に置かれたやはり無伴奏のモテット「O Magnum mysterium」あたりが、おそらくローリゼンの作品の中では最も親しまれて、多くの合唱団で取り上げられているものなのでしょう。それだけおなじみのものをまず「名刺代わり」の取り上げた、1980年にここでも指揮をしているノエル・エディソンによって創設されたというこのカナダの合唱団は、たちどころに温かい音色で聴く者を魅了してくれました。
次の「6つのマドリガル」という、ルネサンス期のイタリアの詩をテキストにした曲も、やはり「ポリフォニー」のアルバムでも取り上げられていたものでした。あちらの、ちょっと息苦しいほど完璧な演奏とはちょっと方向性が異なっていて、こちらはいかにも軽やかなイタリア語の歌詞の世界が、気持ちよく伝わってくるような歌い口なのではないでしょうか。
そして、続くのはフランス語の歌詞による「Les Chansons des Roses」です。カナダ人の特性でしょうか、フランス語のディクションの自然さには惹かれます。そして、音楽もいかにもフランス風の和声と、ちょっとこじゃれたフレーズの処理が前面に出てきています。ドビュッシーの「3つのシャンソン」とどことなく似ている(というか、もろパクリ)ような曲もありますし。
ここまで聴いてくると、このアルバムのコンセプトがだんだん明らかになってくるような気にはなりませんか?どうやら、ここでは、この作曲家のテキストに対する柔軟な対応を実際に味わってもらおう、としていたのではないでしょうか。次の英語の歌詞による「Mid-Winter Songs」になると、予想通りきっちりと「英語っぽい」音楽がつけられているのですからね。たとえば、軽やかなシンコペーションなどが、そんなファクターの一つでしょうか。
そして、最後が最初と同じラテン語による静謐な世界というわけです。これほど見事にテキストに寄り添ったキャラクターの音楽が作り上げられる人だったんですね。ローリゼンさんは。もちろん、そんなことに気づかされたのは、この合唱団の言葉に対する極めて高いセンシティビティがあったからに違いありません。ほんと、こんな気持ちの良い合唱を聴いていると、別に肩肘を張って主張されなくても、包容力のある音楽の中から巧まずして伝わってくるメッセージには、真の力があることがよくわかります。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-04-18 23:20 | 合唱 | Comments(0)
BACH/ Markus-Passion
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Dominique Horwitz(Nar)
amarcord
Michael Alexander Willens/
Kölner Akademie
CARUS/83.244




バッハは受難日の礼拝に演奏するために「マタイ」、「ヨハネ」の2つの受難曲以外にも、福音書を主なテキストにした受難曲を作っています。しかし、それらは現在は演奏できる形では残ってはいません。今でこそ、バッハの自筆稿などというものはほとんど宝物のような扱いを受けていますが、彼が生きている頃はただの紙くずだと思われて、暖炉の焚き付けにでもされてしまっていたのでしょう。なんとももったいない話ですね。
とりあえず「マルコ受難曲」は、歌詞だけは残っているのだそうです。レシタティーヴォはもちろん新約聖書の「マルコ福音書」から取られたものですし、アリアの歌詞は、「マタイ」の歌詞を作ったピカンダーの手になるものです。さらに、曲も以前作ったお葬式のためのカンタータBWV198を使い回しているという情報もあるために、一部のアリアは修復が可能でした。その修復作業の最初の成果が、1964年に出版されたディートハルト・ヘルマンによる再構築稿でした。この楽譜を使って演奏された録音が、ペーター・シュライアーが指揮をしたDECCAですね。この稿のポイントは、エヴァンゲリストの語りや、登場人物のセリフには、音楽が付けられていない、ということです。アリアなどは使い回しされた別の作品から作り直すことが出来ますが、このようなレシタティーヴォ・セッコは、テキストにあわせてバッハが作ったメロディがないことにはどうしようもありません。中には、それらしくでっち上げた稿もありますが、ヘルマンはそこまではやらなかったのでしょうね。ないものはしょうがないので、とりあえず言葉だけは、と、こういう「ナレーション」の形を選択したのでしょう。
今回のCDでは、その「ディートハルト・ヘルマン稿」を元に、さらにいくつかのコラールを加えてアンドレアス・グレックナーという人が校訂を行ったもので、2001年にこのレーベルの母体であるカルス出版から刊行されています。というか、言ってみればその楽譜を実際に音にしたサンプル、ということになるのでしょうね。
ライナーノーツも執筆しているグレックナーによると、2009年の初頭に、サンクト・ペテルブルクのロシア国立図書館で、この曲がライプツィヒの聖トマス教会で1744年に再演されたときに印刷されたテキストが発見されたのだそうです。それには、1731年の初演の時にはなかった2つのアリアが含まれているのだとか、この曲を巡っては、これからもさまざまなアプローチがなされることでしょう(それにしても、ライナーではきちんと「ディートハルト・ヘルマン」と書いてあるのに、ジャケットでは「ディートマル・ヘルマン」とありますよ。楽譜出版社がこんなところで間違えるなんて)。
ここで歌っているのは、「アマコルド」という、その聖トマス教会聖歌隊のOB1992年に結成した5人組の男声アンサンブルに、ゲストとして4人の女声が加わったメンバーです。「OVPP」とまではいきませんが、各パート2人(ベースは3人、一人余っとるど)という編成で、もちろんアリアもメンバーが歌っています。そこで気になるのは、アリアと合唱との相性なのですが、2曲あるアルトのアリアを歌っているクレア・ウィルキンソンなどは、アリアでさえもロングトーンでは全くビブラートをかけないで歌っていますから、もうこれは完全に合唱になっても溶け込んだ声であることが分かります。ソプラノの2人はソロではかなり対照的な音色なのに、合唱になると見事にイノセントな声で全体をリードしていますし。
ただ、やはりレシタティーヴォをナレーションで処理するというのには、「OVPP」以上に抵抗を感じてしまいます。これはあくまで「仮の姿」、たとえでっち上げでも、バッハっぽいメロディがあったほうが、ただ「語る」よりははるかに作品としての意味があるのではないでしょうか。

CD Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2010-04-15 19:57 | 合唱 | Comments(0)
FANTASY A Night at the Opera
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Emmanuel Pahud(Fl)
Juliette Hurel(Fl)
Yannick Nézet-Séguin/
Rotterdam Philharmonic Orchestra
EMI/4 57814 2




パユ様のニューアルバム、もしかしたらこのジャケットを見ただけで、モーツァルトの「魔笛」が連想されるかもしれませんね。そう、フルートを持ったパユ様の背景は、あの有名なカール・フリードリヒ・シンケルが制作した「魔笛」の舞台デザインなのですね。夜の女王が現れるシーンで用いられたものですが、ブックレットの裏では、その夜の女王の姿が入っている現物を見ることができます。
そんな、まるでオペラを見に行ったような思いを味わえる、オペラのハイライトのような曲が、パユ様の華麗なテクニックで披露されているのでは、と、このジャケットを見た人は思ってしまうことでしょう。それは必ずしも間違ったことではありませんが、もしかしたらそういう意味では少なからぬ失望感を味わうこともあるかもしれません。
というのも、ここでパユ様が取り上げている曲は、19世紀に盛んに作られたフルーティストの名人芸を最大限に披露することが目的のものだからなのです(そういう名人は、ゲイだったりします)。ふつうはピアノ伴奏によって演奏され、フルーティストのリサイタルには欠かせないレパートリーになっているそんな華やかな曲たちを、ここではオーケストラ伴奏に編曲してお届けする、といった趣旨なのですね。もちろん、フルート愛好家、およびパユ様の熱烈なファンにとっては、こんな素晴らしい贈り物はないのでしょうが、たとえばオペラ愛好家の人がジャケットやタイトルにつられて聴いてみたら、おそらく彼(彼女)は「だまされた」と思ってしまうことでしょう。
有名なドップラー兄弟が2本のフルートのために作った「リゴレット・ファンタジー」などは、そんな、最も「失望度」の高いものかもしれません。確かにヴェルディの「リゴレット」で歌われるナンバーのメロディは見え隠れするものの、それがドップラー達の手にかかるとそこからはヴェルディのオペラの世界はきれいさっぱり消え去り、ひたすら彼らが腕によりをかけて作り上げた華やかな超絶技巧が眼前に繰り広げられることになります。それにしても、ここでパユ様と共演している、ロッテルダム・フィルの首席フルーティスト、ジュリエット・ユレルは、何と巧みにパユの芸風に寄り添っていることでしょう。並のフルーティストにはなかなか近づけないはずの、彼独特の表現を、彼女は見事になぞっています。
ジャケットがらみで、「魔笛」の、こちらはソロ・フルートとオーケストラのための「ファンタジー」を作ったのは、20世紀生まれのロバート・ホッブスという人です。とは言っても、そのスタイルはまさに19世紀的な語法ですから、心配することはありません。この曲は、かつてグローウェルズもとり挙げていましたが、しっかり序曲から始まって、第2幕のフィナーレで大団円を迎えるという、あたかもオペラ全曲を聴いた気になるような構成をとってくれていますよ。しかし、13分やそこらでこのオペラを全部聴かせるのはもちろん無理な話ですから、気持ちだけ、ですがね。それにしても、この脈絡のない曲の配列には、オペラを知っている人の方が逆に戸惑ってしまうかもしれません。
そんな中で、ポール・タファネルが作った「魔弾の射手ファンタジー」(念のため、ここまでに出てきた「ファンタジー」という言葉は、このような技巧的な作品のタイトルとして使われるものです)は、オーケストラに編曲されたことによって、今までピアノ伴奏で聴いたときには決して感じることの出来なかった、「ドイツの暗い森」のイメージがわいてくる様を体験できてしまいました。タファネルには、ドップラーほど自身の個性を発揮する能力はなかったからなのでしょうか。あるいは、ウェーバーの音楽にはヴェルディやモーツァルトほどは、他で使い回しがきくだけの融通性がないせいなのでしょうか。それって、もしかしたらかなり名誉なことなのかも。

CD Artwork © EMI Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-04-13 22:09 | フルート | Comments(0)