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BACH/Matthäus-Passion
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Paul Agnew(Ev), Alan Ewing(Jes)
Olga Pasichnyk(Sop), Damien Guillon(CT)
Jean-Claude Malgoire/
Choeur de Chambre de Mamur
La Grande Écurie et la Chambre du Roy
CALLIOPE/CAL 9431.2




ジャン・クロード・マルゴワールが1966年に設立した「王室大厩舎・王宮付き楽団」というとんでもない訳語が大手を振ってまかり通っているオリジナル楽器の演奏団体は、現在まで存続している同じジャンルの団体としてはもはやかなりの古参となってしまいました。それなりに注目されるような録音も発表していたのですが、いまいち知名度が上がらないのは、やはりそんな訳の分からない日本語表記のせいなのかもしれません。
ちなみに、マルゴワール自身は、この団体を立ち上げたときには、まだオーボエ奏者としての二足の草鞋を履いていました。翌年に創設(というか、改組)されたパリ管弦楽団に、初代音楽監督であるシャルル・ミュンシュに請われてコール・アングレ奏者として参加したのです。1970年、大阪万博とのタイアップで初来日したときのプログラムの写真を見ると、確かに彼の姿が写っています。フルートのトップはデボスト、3番にアラン・マリオンがいますね。これはカラヤンとの演奏でしょうが、1969年にカラヤンとパリ管が録音したフランクの交響曲のレコード(EMI)には、コール・アングレのソリストとして彼の名前がクレジットされています。そういえば、「ルーヴル音楽隊」のミンコフスキも、元々はファゴット奏者でしたね。
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そんなマルゴワールも、最近ではこの世界の「重鎮」として注目を集めているようです。2009年の4月にパリのシャンゼリゼ劇場で行われた「マタイ受難曲」の模様が、即座にCDとなって登場しました。
「マタイ」全曲がCD2枚組なのも驚きですが、その演奏時間が「2時間37分」(正確には「2時間3655秒」)というのも、さらなる驚きです。この演奏時間、「15655秒」というのは、先日のシャイー盤が「16010秒」だったときに「世界最速」なんて言っていたのに、それをさらに上回る速さではありませんか。こんなところで競ってどうしようというのでしょう。
そんな、異常とも思えるテンポの速さが、この録音では良い意味でも悪い意味でも特徴となっています。とは言っても、「良い」面はとりあえず聴き通すために拘束される時間が少ないということぐらいしか思い浮かびませんが。
そう、ここでのマルゴワールたちの演奏は、少しでも早く演奏を終えて、冷たいビールにもありつきたい、とでも考えているかのような、とても雑なものに終始しているのです。端的に「速さ」を体験できるのが最初と最後の大合唱ですが、そこで見られる「速さ」は、決して緊張感を煽るようなものではなく、ただただゆっくり演奏するだけの強い意志を持ち得ない結果だとしか思えないような、だらしのないものでした。
そもそも、この「楽団」のメンバーのスキルは、そんな速さに付いていけるほどの高度なものではありません。フルート2本できれいにハモって欲しいアリアのオブリガートなどは、2番奏者の音程がひどくて、とても汚い響きになっていますし、オーボエ・ダ・カッチャなどというなかなか吹く機会のない楽器では、音すらまともに出ていないのですからね。
もっとも、そんな「汚い」演奏に対してもいくらか免疫がつき始めると、最後の方のドラマティックな合唱では、「きれいな」演奏からはなかなか生まれないようなショッキングな表現が現れたりしますから、一概に「悪い」面だけではないのかもしれません。
そうなってくると、最初はだらしなく聞こえていたアグニューのエヴァンゲリストにも、粗さゆえの魅力も出てきます。しかし、本当はカウンター・テナーのダミアン・ギヨンのように、最初からインパクトを与えてくれるような歌い方をしてくれた方が良いに決まってます。1986年にSONYにモーツァルトの「レクイエム」を録音したときにドミニク・ヴィスを起用したように、マルゴワールはこういう刺激的な声が好きなのかもしれませんね。決して「丸く終わる」ことはないのでしょう。

CD Artwork © Calliope
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by jurassic_oyaji | 2010-06-30 21:25 | 合唱 | Comments(0)
BARTÓK/Music for Strings, Percussion & Celesta
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Zoltán Kocsis/
Hungarian National Philharmonic Orchestra
HUNGAROTON/HSACD 32510(hybrid SACD)




このSACDは、HUNGAROTONが進めている「バルトーク・ニュー・シリーズ」という企画の10番目のものなのだそうです。おそらく、前にご紹介した「オケコン」なども、このシリーズに含まれているのでしょう。全編SACDでのリリースというのが非常に嬉しいところです。
今回のアイテムは、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」と、「弦楽器のためのディヴェルティメント」、そして「ハンガリーの風景」の3曲が入ったものです。おまけみたいに付いている「風景」以外は、管楽器が全く登場しないというユニークな編成の曲が取り上げられています。
タイトルを短く言うことが好きなクラシック・マニアの間では最初の曲はもっぱら「弦チェレ」と呼ばれているそうですね。ただ、この呼び名に対しては打楽器奏者は常に「なんで俺の楽器だけ抜いたんだ!」と不満に思っていることでしょう。しかし、実際は曲の中で使われているのに、フルタイトルになったときでさえも、その中には入れてもらえなかった楽器があるってこと、知ってました?それは「ピアノ」と「ハープ」です。ピアノなどは、チェレスタよりもはるかに活躍しているというのに、どうしてタイトルに入っていないのでしょうね。あるいは「打楽器」の中に含まれているのだとか。いえいえ、もしそうだとしたら、チェレスタの方がはるかに「打楽器度」は高いはずですよ。なんたって、中身はただのグロッケンなんですからね。
そんな謎を抱えつつ、この曲はその他には例を見ない楽器編成と、弦楽器は2群に分かれて左右に配置されるという特殊なフォーメーションによって、ほとんど「現代曲」のような扱いを受けることすらありました。例えば、ティンパニの音程をペダルによって操作して、グリッサンドのような効果を出しているあたりは、まさに「現代音楽」ならではの「特殊奏法」なのですからね。
ですから、この曲を聴くときには、そんなエッジのきいた颯爽としたものをつい求めてしまうのかもしれません。そんな中でこのコチシュの演奏を聴くと、なんだか肩すかしをくらったような気にはなりませんか?特に、最初の楽章「アンダンテ・トランクィロ」などは、SONY時代のブーレーズなどに見られる血が凍りつくような冷徹さに慣れた耳には、そのいともあっさりとした語り口には拍子抜けしてしまうかもしれません。しかし、それは同時に、なんとも味わいのある音楽であることにも気づかされるはずです。ハンガリー独特の付点音符のリズムや、民謡に由来する旋法、あるいは民謡そのものの引用などが、いとも素直に体の中に入ってくるような気にはならないでしょうか。
そう、かつて彼の音楽は「黄金分割」とか「フィボナッチ数列」などという小難しいタームによって語られていたことがありました。1978年に出版されたエルネ・レンドヴァイの著作の日本語訳「バルトークの作曲技法」は、そんな流れでのある意味バイブルでした。
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そんな、ちょっと居心地の悪い鎧をまとっていた感のあるバルトークの音楽は、実はもっと素朴な魅力に包まれているものなのだ、ということを思い起こさせてくれるのが、この演奏なのではないでしょうか。そう思って聴いていると、「ディヴェルティメント」の最後の楽章に唐突にユニゾンで現れる土俗的なフレーズにも、確かな意味を見いだせるはずです。
SACDの暖かいサウンドも、そんな印象を助けるものです。このアルバムでの主役である弦楽器の、特に弱音でのしっとりとした美しさは絶品です。そこをほのかに彩るチェレスタの特異な音色、そんなバルトークのオーケストレーションの機微は、CDレイヤーで味わうことは極めて困難です。

SACD Artwork © Hungaroton Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-06-28 20:47 | オーケストラ | Comments(0)
仙台国際音楽コンクールピアノ部門
 3年に1回開催されている「仙台国際音楽コンクール」、今日ピアノ部門のファイナルが終わって、今年の「第4回」のすべての審査が終了しました。とは言っても、なにしろ会場があの悪名高い青年文化センターのコンサートホールなのですから、なにかと盛り上がりません。前回のコンクールの授賞式の時に、当時の仙台市長が「優勝した人たちが演奏できるような立派なホールを作ります」と言っていた「口約束」は、いったいどうなってしまったのでしょう。いや、あの市長はもう辞めてしまったので、そんな約束は当然のことながら反故になってしまったのでしょうね。
 もちろん、私的にもこのコンクールに関しては何の盛り上がりもありませんから、聴きに行くことなど全く考えてはいなかったのですが、きのうのピアノ部門のファイナルの1日目に行くつもりだった同居している若い女性が、急に行くことが出来なくなってしまい、代わりに私が行くことになってしまいました。
 行って見ると、座席は中央通路から2列後ろ、このあたりは、オーケストラを聴くには最悪のポジションです。本当はもっと後ろで聴きたいのですが、そうもいきません。演奏が始まると、もっと悪いことに肝心のピアノの音が聞こえてきません。なんか、上澄みだけが聞こえてくるだけで、全く芯のある音ではないのですね。楽器のせいかな、とも思ったのですが、2人目でスタインウェイからカワイに代わっても、相変わらずスカスカな音は変わらなかったので、これはやはりホールのせいなのでしょうね。オーケストラもなんだか雑、弦楽器の音はカサカサしていて全く潤いがありませんし、ホルン奏者などは肝心なところで派手にミスってましたよ。
 私の場合、どんなに体調が悪くても、生のコンサートでは常に演奏家と対峙して聴こうという気持ちが働くので、決して居眠りなどはすることはないのですが、もう、この2人の演奏は、そんな音もあってなんか主体的に聴こうという気にはなれないものでした。そうなってくると、襲ってくるのは強烈な睡魔、プロコフィエフとブラームスの間は、その睡魔と闘うことに全力を使いはたして、彼女らの放つメッセージを受け取るような余裕は全くありませんでしたよ。
 ところが、最後のラフマニノフの2番が始まると、そこにはそんな睡魔など決して起こり得ないような、確かな演奏のみが持つ特別なオーラが漂っているのが感じられたのです。そもそも、ピアノの音(スタインウェイ)が全然違います。粒立ちはとてもくっきりしていますし、何よりも細かいニュアンスの違いがはっきり伝わってきます。バックのオーケストラも、見違えるような重厚な音に変わりましたよ。その人の演奏は、コンクールで審査されているという硬直したものではなく、あくまでのびのびと、余裕すら感じられるほどの素敵なものでした。前の2人とは「格」が違います。ファイナルはまだ次の日の3人も残っているのですが、彼を聴いた時点で、この人は間違いなく優勝するはずだ、との確信が生まれるほどの、それは確かな音楽が伝わってくるすごい演奏だったのです。
 ついさっき、ピアノ部門の審査結果が発表になりました。優勝したのは、まさにその人でした。今回の審査員の耳は、確かだったようです。
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by jurassic_oyaji | 2010-06-26 20:41 | 禁断 | Comments(0)
新版 古楽のすすめ
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金澤正剛著
音楽の友社刊

ISBN978-4-276-37105-7



前回「ア・カペラ」の本当の意味、などということを書いたら、なんと、そのお墨付きみたいなことが書かれてある本が出たばかりでした。世の中、狭いものです(ちょっと意味が違う?)。それは、1996年に刊行された金澤正剛さんの名著「古楽のすすめ」の新装版です。お相撲さん向けの本ではありません(それは「賭博のすすめ」)。その中で、この「ア・カペラ」に用いられている「カペラ(=教会、礼拝堂)」という言葉は、一般名詞ではなく、ヴァティカンのシスティナ礼拝堂という特定の場所を示す言葉であったことを知らされるのです。そこでは、一切の楽器演奏は許されなかったのだそうですね。まさに「目から鱗」とはこんなことを言うのでしょう。
その他にも、「シャープとフラット」、あるいは「ナチュラル」の起源についても、今まで漠然と分かっていたつもりのものがいとも理路整然とまとめられているのには、感動すら覚えます(ここで著者は「シャープさん・フラットさん」という往年のクイズ番組を引き合いに出していますが、これは「曲名当てクイズ」で、ここに書かれているようなものとはちょっと違います。スタジオで、原形をとどめないほどに編曲された曲が演奏されたりして、それを早く当てたほうが勝ち)。同様に、教会旋法についての説明も、なんと分かりやすいことでしょう。そう、この本は、そのような「いまさら聞けない」コアな疑問に対する極めてすぐれた「解説書」として、座右に備えておきたいものとなっています。
おそらく、最初にこの本が出たときに最も衝撃として感じられたのは、楽譜の成り立ちや、演奏法に関する記述ではなかったでしょうか。楽譜とは、単に音楽を書きとめるための手段に過ぎないものであるという、今となってはほとんど常識と化した概念も、当時としては、まさに画期的な見解だったはずです。とは言っても、今ではアマチュアの合唱団のメンバーでも「ムジカ・フィクタ」(楽譜には書かれていないシャープやフラットを、慣習に従って付けること)を知らない人はいませんし、「ノート・イネガル」(記譜上は均等なリズムであっても、不均等に演奏すること)あたりは、この時代の曲を演奏しようとする人なら誰しもが知っていなければならない基本知識となっています。
そのように、最近の「古楽」をめぐる状況はまさに日進月歩ですから、15年近くも経てば、もはやその内容は「古く」なってしまいます。そもそも、オリジナルの原稿自体が、もっと「昔」、1980年代にフリーペーパーに連載されたものなのですから、もはやそこに書かれていたことなどは何の意味も持たないほどのものになっている可能性もありますしね。ですから、今回の改訂によって、最新の研究成果が反映された「今」に通用するようなものに生まれ変わっているのでは、という期待を持っても構わないはずです。
さらに、この本の原稿が書き始められたころと、現代とを比べると、その間には演奏面に於いても劇的な変化がありました。それは、単に「古楽」の世界にとどまらない、広範なものだったはずです。ですから、黎明期から現代までを一貫して的確な審美眼をもって見てきた人であれば、必ずやわくわくするような語り口でそのあたりを述べてくれていることでしょう。
しかし、そんな期待に反して、実際にはそれほどの画期的な書き直しがあったような形跡はほとんど見られなかったのには、ちょっと失望させられてしまいました。いや、そもそも「ancient music」の訳語である「古楽」という日本語自体が、今では、例えば「奏鳴曲@sonata」や、「遁走曲@fugue」のように、もはや「古い」概念になってしまっている現実を受け入れず、依然としてタイトルに掲げている時点で、すでに著者にはそのような志はないことに、気付くべきだったのかもしれません。

Book Artwork © Ongakunotomo-Sha
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by jurassic_oyaji | 2010-06-25 23:42 | 書籍 | Comments(2)
Aces High
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VOCES8
SIGNUM/SIGCD 187




またまた、素晴らしいコーラス・グループの登場です。「ヴォーチェス8」という、その名の通りの8人の「声」によるイギリスのアンサンブルです。2003年に、ウェストミンスター寺院の聖歌隊(つまり、ダイアナ妃の葬儀の時に歌っていた聖歌隊で、「ウェストミンスター大聖堂」の聖歌隊とは別団体)のOBによって作られたそうです。腰回りが異常に太い怪物のような人たちなのでしょうか(それは「ウェストモンスター」)。ただ、アルト・パートまでは男性が歌っていますが、ソプラノは女性が2人加わっていますから、純粋なOBは6人だけということになります。ソプラノ、アルト(カウンターテナー)、テナー、ベースがそれぞれ2人ずつというのは、あの「スウィングル・シンガーズ」と同じ編成ですね。あるいは、「マンハッタン・トランスファー」×2、とか。
このグループは、それこそルネッサンスのポリフォニーから現代のジャズやポップスまで、とても幅広いレパートリーを誇っているのだそうです。今回のアルバムは、その「ポップス」のテリトリーでのお披露目です。ア・カペラです。
ちなみに(阿部寛風)、「ア・カペラ」という言葉は、日本ではかなり混乱した使われ方をしていたようです。本来は「無伴奏の合唱」のことなのですが、ちょっと気取った芸能人達が、一人だけで歌うときも伴奏がないと「ア・カペラ」などと言ったものですから、単に「無伴奏」という意味に取り違える人が出てきてしまいました。これは明らかなまちがい、いつか言ってやらなければ(誰に?)、と思っていたら、「ゴスペラーズ」や「RAG FAIR」によって「ア・カペラ」ブームが巻き起こり、こういうものが「ア・カペラ」なのだ、という認識が広がってくれました。それでも、おおもとの「教会風に」という意味からは微妙にずれてはいるのですが、まあ、この程度の誤差は認めてやりましょうね。
そんな、今風「ア・カペラ」に欠かせないのが、ヴォイス・パーカッションでしょう。聖歌隊時代にポリフォニーを歌っていた頃は、きれいにハモってさえいれば大丈夫だったのでしょうが、「今」の音楽をビート感たっぷりに歌うためには、この、声によるリズム楽器は必須アイテム、「ヴォーチェス8」のメンバーも、その修練には余念がありません。さらに完璧を期すために、彼らはわざわざアメリカのシリコン・ヴァレーにあるスタジオにまで出向いて録音を行いました。
その成果は、めざましいものがあります。なんせ、マイケル・ジャクソンの「Smooth Criminal」のように複雑なリズム帯を駆使したものでも、彼らはなんなく「声」だけでその世界にほぼ近似したものを作り上げているのですからね。あるいは、最初はしっとりとホモフォニックに見事なハーモニーを聴かせていたところに、いきなりこのリズムが入ってくる、などというショッキングなアレンジは、とても効果的です。このグループの「お抱え」アレンジャーであるジム・クレメンツの手腕は、見事に花開きました。何曲も収録されているボンド・ソングでも、別の曲のテーマをさりげなく紛れ込ませたりして、芸の細かいところも見せています。
個人的にもっともハマったのは、ビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」でしょうか。かつて、バーバーショップのグループがこの曲をいとも無惨に演奏していたのを聴いたことがありますが、そんな苦い体験を払拭するような、オリジナルのビート感を完璧にコピーした素晴らしい演奏です。途中で出てくるレスリー・スピーカー(ハモンド-B3の専用アイテム)の物まねが、見事に決まっていますし。
ただ、ソロをとったときに、男声メンバーはそれぞれに熱く歌っているのに、女性のうちの一人がなんとも硬直した歌い方しか出来ていないのが、ちょっと耳障りでした。他が完璧すぎると、こんなところでも気になってしまいます。

CD Artwork © Signum Records
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by jurassic_oyaji | 2010-06-23 20:19 | 合唱 | Comments(0)
Roots: My Life, My Song
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Jessye Norman(Sop)
SONY/88697 64263 2




ジェシー・ノーマンと言えば、オペラやリートの分野で圧倒的な表現力を武器に様々の名演を繰り広げていた、不世出のソプラノ歌手です。「ソプラノ」とは言っても、その声はなめらかに低音にまで深い響きがつながり、「メゾ」あるいは「アルト」でも十分通用する、驚異的な音域を誇っています。かつてマゼールの指揮で録音されたマーラーの交響曲第2番(SONY)での「原光」のソロで受けた衝撃、その地を這うような音色は、今でも忘れられまぜーる
最近ではほとんどそのようなジャンルからは引退しているのでしょうか。オペラを歌ったという話は伝わってきませんし、CDのリリースもとんと聞かなくなりました。彼女は今年の誕生日が来れば65才、まだまだ立派に通用する年齢なのでしょうが、確かに「引き際」を考えてもおかしくないような微妙なお年頃ではあります。かつての輝きに満ちたフル・ヴォイスが衰えてしまうのを聴くのは、ファンにとってもつらいことにはちがいありません。
そんなノーマンの最新アルバムは、2009年にベルリンのフィルハーモニーで行われた彼女のソロ・リサイタルのライブ録音です。ただ、そんな録音データは、このパッケージにはどこを探しても記載されていません。しかも、ここには収録されていないはずのミュンヘンやフランクフルトのコンサートでの録音スタッフなどという余計なものが入っているのですから、なんともいい加減な話です。
それはともかく、この2枚組のCDでは、4部構成の彼女のコンサートがすべて味わえます。その第1部は、コンサートのタイトルである「ルーツ」を端的にあらわしている、アフリカのドラムから始まります。有名なスピリチュアルズを、時にはコントラバス1本だけの伴奏で歌ったりしていますが、それは、なかなか小気味よいアレンジです。さらに、彼女の声を最大限に生かすような、朗々たるゴスペル・テイストのものも聴き応えがあります。このコーナーの最後が、なんとバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」からの「Somewhere」にソウルフルに迫る、というものですから、すごいですよ。当然のことですが、アレンジャーのクレジットはありません。
次のコーナーがかなりの曲者です。タイトルが「The 'A' List」というのですが、ここではニーナ・シモン、リナ・ホーン、エラ・フィッツジェラルド、そしてオデッタという、名前の最後に「A」という文字を持つ黒人女性ヴォーカリストのレパートリーをカバーする、というコンセプトで演奏しています。しかし、それは単なる「カバー」などという生易しいものではなく、それを歌っていた人までをも「カバー」しようという、とてつもないものだったのです。ノーマンの敬愛するそれらのアーティストに、ほとんど「なりきった」歌い方は、オペラであれほどの表現力を見せつけていた彼女にしてはいともたやすいものなのでしょうが、それが、たとえばリナ・ホーンの微妙に暗い音程までをも正確に再現しているのを聴くと、改めて驚かずにはいられません。なんといっても圧巻は、最後に3曲も歌っているオデッタでしょうね。ここでは、「元ネタ」の持つポリティカルなメッセージが、ノーマンの強靭な歌声でさらに増幅されて伝わってきます。
3番目のパートは「フレンチ・コネクション」というタイトルで、プーランクが作ったシャンソンからスタンダード・ナンバー、そして、なんとビゼーの「カルメン」の最も有名なナンバーが歌われています。その「ハバネラ」が、オペラ歌手によって、全くクラシックとはかけ離れた発声で、ボサノバっぽい軽妙なリズムに乗って歌われるのですから、これほど痛快なこともありません。
最後のコーナーは、もうほとんど「ジャズ歌手」のノリで、エリントン・ナンバーなどが歌われます。こんな楽しいことをしながら過ごせる「老後」なんて、なんとうらやましいことでしょう。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2010-06-21 20:55 | ポップス | Comments(0)
BOCCHIRINI/Symphonies
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Matthias Bamert/
London Mozart Players
CHANDOS/CHAN 10604




ルイジ・ボッケリーニと言えば、「メヌエット」がとても有名な作曲家ですよね。いや、もはやこの曲は作曲家の名前がつかなくても、ほとんど「パブリック・ドメイン」のノリで親しまれている曲なのではないでしょうか。それこそ、パッヘルベルの「カノン」のように。いや、あちらは「カノン」以外はほとんど知られることのない「一発屋」ですが、ボッケリーニの場合は夥しい数の室内楽が知られていますから、そんな人と類似の作曲家と見られるのは心外なのかもしれません。
そうは言っても、室内楽以外のジャンルでは、やはりボッケリーニはその実態はそれほど知られてはいないはずです。今回のバーメルトの「モーツァルトの同時代の作曲家」シリーズで取り上げられている「交響曲」にしても、今まで全く耳にしたことはないものばかりでしたからね。
実際は、ボッケリーニが作った「交響曲」は20曲以上あるそうなのです。ただ、ここに収録されている3曲の「交響曲」のうちの、2曲までが、「Concerto」というタイトルを持つ曲です。しかし、それぞれ楽章は4つですし、特に独奏楽器を立てているわけでもないので、「協奏曲」というよりは「コンセール」と思えばいいのでしょうね。どちらも、ボッケリーニが仕えていたスペイン宮廷の王子のために1771年に作られたものです。それこそ「メヌエット」を思い起こさせるような、とことん上品で柔らかな肌触りの音楽が、最初から最後まで聴く人を魅了して放さないという、とてもキャッチーな作品です。ざっと聴いた感じ、同じ時代の「交響曲」にありがちな無駄な部分がほとんど見当たらないところが、そんな風に感じられる要因なのかもしれません。そんなあたりが、この作曲家の最大の美点なのでしょうね。
「第3番」では、管楽器はオーボエとホルンしか入っていないという、この時代のスタンダードな編成がとられています。あくまで優雅に進められている音楽の肌触りは、第3楽章のメヌエットになっても変わりません。と、ひとしきりメヌエットの優しさに浸りきったところで、トリオになったらいきなりピッコロのソロが聞こえてきましたよ。もちろん、ここで演奏しているロンドン・モーツァルト・プレイヤーズでは、その部分だけはフルート奏者が担当していますが、この曲が作られた当時はそんな贅沢なことは出来るはずもありませんから、オーボエ奏者がピッコロを吹いたのでしょうね。実は、ここは譜面上はフルートなのだそうです。それをあえてピッコロで演奏しているのですが、それはこの楽器にありがちな刺激的なところなど全く感じられない優雅なものでした。奏者の技量もあるのでしょうが、ピッコロでさえこれほどまろやかに歌わせられるのが、ボッケリーニの「ウリ」なのでしょうね。
「第8番」になると、編成はオーボエがなくなってフルートとホルンだけになります。ここでは、この2本のフルートが入れてくれる合いの手が、とっても素敵です。常に2本がセットになってハモっているのが、なんとも柔らかで、穏やかな雰囲気をたたえています。こういうフルートの使い方は「モーツァルト」ではあまり見られません。この楽器を信じてくれていれば、これほど美しいものが作れたはずなのに。
最後の「21番」は、それから15年後、プロイセンのフリードリヒ大王のために作られました。こちらは「Sinfonie」というタイトルとは裏腹に、あちこちに独奏楽器が登場する「シンフォニー・コンチェルタンテ」の形をとったものです。面白いのは、この時代の「交響曲」にはあるまじき、楽章の交換が行われていること。まるでベートーヴェンの「第9」のように、第2楽章が「メヌエット」、第3楽章が「アンダンテ」になってますよ。その「アンダンテ」での、哀愁に満ちたオーボエ・ソロと、それに絡みつくチェロのソロは、まさに絶品です。

CD Artwork © Chandos Records Ltd
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by jurassic_oyaji | 2010-06-18 21:21 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.4(3rd version)
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Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/SACD-1746(hybrid SACD)




ご存じのように、ブルックナーの交響曲の中で最も演奏頻度の高い「4番」には、3種類の異なる「稿」が存在しています。1874年の「第1稿」、1878年から1880年にかけての「第2稿」、そして、1888年に作られた「第3稿」です。その中で、「第3稿」というのは、「ブルックナーの弟子によって改竄されたもの」という評価が一般的で、昨今では、まず演奏されることはありませんでした。
ところが、ごく最近になって、「第3稿」に関する見解が今までとはガラリと変わってしまうような事態が勃発します。2004年に、国際ブルックナー協会の全集版(いわゆる「ノヴァーク版」)として、この「第3稿」が出版されたのです。つまり、今までは「改竄版」という扱いで全集からは無視されていたものが、他の稿と同じ「原典版」として出自の正しいものであることが認められたのですね。出版にあたって楽譜の校訂を行ったのは、ベンジャミン・コースヴェットというアメリカの音楽学者、したがって、この楽譜は「レーヴェ版」とも呼ばれていた従来の「第3稿」(そもそも、1889年に最初に出版された楽譜。かつてはハンス・レートリッヒによる校訂版がオイレンブルクから出ていましたが、今では「第2稿」に変わっています)と区別するために「コースヴェット版」と呼ばれています。これからはこうすべえ、ということですか。
かつては弟子のフェルディナント・レーヴェが、「第2稿」のままではとても出版は出来ないということで、より一般受けするようにワーグナー風のサウンドに半ば独断で改訂を行い、ブルックナーはそれを認めてはいなかった(楽譜にサインをしていない)という認識が強かったこの「第3稿」なのですが、コースヴェットの研究によればそのようなことでは決してなく、作曲家と弟子とによる共同作業の結果出来上がった、まさに作曲家の最終的な意思が反映されているものであることが明らかになったということなのです。
これは、今まで日陰者の身だったものが、いきなり表舞台に引きずり出された、というような事態なのでしょうね。本当かなあ、という気はするのですが、まあなんせ国際ブルックナー協会のお墨付きを得られたのですから、まちがいはないのでしょう。そして、これからは「第3稿」は、他の2つの「稿」と同等に演奏家の選択肢の一つとなっていくことでしょう。
もっとも、現時点ではこの楽譜による演奏は、2005年の内藤盤と、そして、最新の2009年1月に録音された、このヴァンスカ盤しかありません(ヴァンスカは、2008年の11月にも、別の小さなレーベルに録音を行っています)。内藤盤は日本国内のマイナー・レーベルですので、ワールドワイドにコースヴェット版の録音が聴かれるのは、これが最初のものとなるのでしょう。
この新生「第3稿」、いかにまっとうなものに待遇が変わったといっても、やはり今までのレーヴェ版で味わってきたおどろおどろしいイメージは、変わることはありません。ピッコロやシンバルが加わったド派手なフィナーレに慣れるには、しばらく時間がかかることでしょう。何よりも、第3楽章のスケルツォが、1回目と2回目では違った形になっているというのが、とても違和感があるところです。1回目は、何とトリオに向かってディミヌエンドしていくんですよね。こんなブルックナーらしくない「配慮」には、戸惑いを禁じ得ません。そして、2回目は途中で70小節近くカットしたあとで、このディミヌエンドもスルーして別のコーダに入り、元気に終わる、というわけです。
かつてこの曲(もちろん「第2稿」)を演奏したさる長老指揮者が、このスケルツォの最後で、まだ1回目だと勘違いしてオケは終わっているのにまだ指揮を続けていたという醜態を演じたことがありましたが、コースヴェット版がもっと早く世の中に出ていれば、そんな恥をかかなくても済んだでしょうに。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2010-06-16 21:10 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.9
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Roger Norrington/
Radio Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.244




マーラーの交響曲第9番と言ったら、なにしろ複雑で難解な作品、一生のうちに何回も演奏するものではないと、演奏家からも恐れられている曲です。さる指揮者などは、この曲を演奏する前の晩には眠ることが出来なくなってしまうといいますから、大変なものです。いや、その方の場合は、泊まったホテルの隣の部屋から、得体の知れない外国語が聞こえてきて、それがどこの国のものなのか考えていたら、寝付けなくなっただけのことだったそうですがね。
今まで、ひたすら「ピュア・トーン」を前面に押し出して進められてきたノリントンとシュトゥットガルト放送響とによるマーラー・ツィクルスですが、そんな「9番」だからといって、彼らのスタンスにはまったく「ブレ」はありません。したがって、さまざまな要素が何層にも重なり合って、これでもかと言うほどの重っ苦しさを聴き手に与えるはずの第1楽章が、まるで拍子抜けしてしまうようなすっきりとしたものに変わってしまいます。そこからは、一つ一つのフレーズを大汗をかきながら力を込めて演奏する、といったような情景はまるで想像できません。その代わりに見えてくるのは、もしかしたらこれがマーラーが目指した「未来の音楽」なのではないか、という思いです。ビブラートが全くかかっていない、したがってほとんど感情を表に出さない弦楽器が奏でる歌は、そんな熱い感情などはすっかり忘れてしまった未来社会(あるいは「現代」社会)の姿を垣間見せてくれるもののようには、響いてはこないでしょうか。もちろん、それはそれでとてつもなく強いメッセージが込められた「表現」には違いありません。もしかしたらマーラーの「毒」にそれほど染まっていない人ほど、そのメッセージをより強く受け取ることが出来るのかもしれませんね。
同じように、思い入れなど全く無いようにさえ見えるほどあっけらかんとした終楽章も、それだからこそエンディングでの浄化された風景がさりげなく心に突き刺さってきます。
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ところで、第1楽章の最後近くの419小節目から、16小節にも及ぶほとんどフルートが一人で吹いているような部分が登場します(上の楽譜)。その最後から2小節目の最初の音には、アクセント記号(>)が付けられていますね。しかし、pppの中でこんなところにアクセントを付けるというのは、実際に吹いてみるとなんともしっくり来ないのですよね。これは、次のハーモニーに解決する前の重要な音だから強調する、という意味があるそうなのですが、この、次第にフェイド・アウトしていくフレーズの途中でいきなりこの音を目立たせるのは、実に気持ちの悪いものでした。そこで思い出したのが、これによく似た扱いを受けていたドビュッシーの「シランクス」です。こちらにあるように、以前の楽譜でアクセントとなっていたのは、実はディミヌエンドだったというのが最近の「常識」、それと同じことが、マーラーの楽譜でも起こっていたのではないか、と。もちろん、そんなフルーティストの思いなどは一顧にもされず、手元にあった10数種類の演奏を聴いてみると、ここでの「アクセント」はいずれも明確なものだったのです。ただ一つ、1938年に録音されたブルーノ・ワルターとウィーン・フィルのものを除いては。そう、この録音こそは、ノリントンその人が「ピュア・トーン」によるマーラーを演奏する時によすがと頼ったものなのですが、ここでのワルターの解釈は、「アクセント」ではなくまぎれもない「ディミヌエンド」、最後の「Ges」のピアニシシモには、そんな古い録音からも明確な主張が感じられます(もっとも、ここはディミヌエンドというよりは「スビト・ピアニシシモ」といった趣ではありますが)。もちろん、ノリントンがその解釈をとったのは当然のこと、そのなめらかなディミヌエンドの、何と美しいことでしょう。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-06-14 21:01 | オーケストラ | Comments(0)
SANDSTRÖM/Messiah
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Robin Johansen(Sop), Roxana Constantinescu(Alt)
Timothy Fallon(Ten), Michael Nagy(Bar)
Helmuth Rilling/
Festivalensemble Stuttgart
CARUS/83.453




新しい作品を作ることにかけては精力的なリリンク、記憶に新しいところでは2000年のバッハ・イヤーの際に世界中の作曲家に4つの受難曲を委嘱していましたね。そして、昨年2009年のヘンデル・イヤー(没後250年)には、なんとあの「メサイア」を下敷きにしたオラトリオを、スウェーデンの作曲家スヴェン・ダヴィッド・サンドストレムに委嘱したのです。サンドストレムと言えば、合唱界ではもう少し若いヤン・サンドストレムが有名ですが、もちろん別の人です。
こちらのサンドストレムは1942年生まれ、同世代の作曲家の例にもれず、前世紀の多くの作曲様式の洗礼を受けることになりますが、最終的にはペンデレツキのように「ネオ・ロマン」に落ち着いた、という分かりやすい作風の変遷を遂げている人です。彼は、この「メサイア」を手掛ける前にも、1994年にはバッハの「ロ短調ミサ」を下敷きにした「ハイ・ミサHigh Mass」という、結婚できない女性を描いた曲を作っています(それは「ハイミス」)。この曲はドイツ語ではよく「Hohe Messe」と呼ばれていますから、そのまんま、ですね。
この新生「メサイア」は、リリンクが主宰するオレゴン・バッハ・フェスティバルと、シュトゥットガルト国際バッハアカデミーの委嘱によって作曲され、初演は2009年7月にアメリカで行われました。この録音は同年9月のシュトゥットガルトでの演奏のライブ録音です。ブックレットには、ベルリンのフィルハーモニーでのリハーサルの写真もありますので、そこでも演奏されたのでしょうね。
サンドストレムは、ここではヘンデルの作品の台本を手掛けたチャールズ・ジェネンズのテキストを、そのまま継承しています(もちろん英語で歌われます)。全体が3つの部分に分かれているのも同じ。ただ、ソロや合唱といった曲による編成は、ほぼ同じ形で作っているようですが、一部では微妙に変更を加えている部分もあります。冒頭の本来はテノール・ソロによる伴奏つきのレシタティーヴォも、そんな一例、ここでは「ネオ・ロマン」の常套手段、かつての自身のよりどころであった前衛的な手法を披露するという場になるのですが、歌っているのはソロではなく合唱となっています。そういえば、「序曲」はありませんね。しかも、「Comfort ye」という歌詞をヘブライ語に変え、打楽器を多用したオーケストラをバックになんともおどろおどろしい情景を醸し出しています。
しかし、そんな意味ありげな難解さはそれっきり。次第に音楽はなんともキャッチーで明るいものに変わります。ソリストなどはバロックのパロディでしょうか、この場にはあまりにもそぐわないコロラトゥーラのパッセージなども披露していますよ。それは、ほとんど「ミュージカル」を聴いているような錯覚に陥るほどの、サービス精神満載のものだったのです。実際、第1部の終わり近くにある「Rejoice greatly」などは、あのフレデリック・ロウの名作「My Fair Lady」の中の「I could have danced all night」に酷似したメロディを持っていますし。第1部の最後を飾る合唱「His yoke is easy」も、ラテン・リズムに乗ったとことんダンサブルなナンバーです。
そうなってくると、第2部の最後、お馴染み「Halleluja」がどんなものになっているのかが興味のあるところですが、ここでは原曲の荘厳さがすっかりなくなった、なんとも軽いタッチに変わっているのは当然のことでしょう。そして、第3部の最後のアーメン・コーラスで、また冒頭の深刻さが戻ってくる、というのも、予想されたこととはいえなんともありきたりな感は否めません。
そんな、極めつけの駄作ですが、世界中から集まったメンバーによって編成された室内オーケストラと60人の合唱は、極めて高度の能力を発揮してくれていました。ソリスト達は「ミュージカル」には似つかわしくないビブラートたっぷりの豪華な歌い方に徹しているのが、笑えます。

CD Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2010-06-12 19:43 | 合唱 | Comments(0)