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楽器から見るオーケストラの世界
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佐伯茂樹著
河出書房新社刊
ISBN978-4-309-27218-4



本屋さんの音楽書コーナーに立ち寄ったところ、なんだかカラフルな本が平積みになっていました。隣にあったのが、なんと「名曲探偵アマデウス」のカラー版ノベライズというのですから、こちらもいかにも、最近流行の初心者向けのクラシックのガイドブック、と言った体裁に見えてしまいます。これで、付録にナクソス音源のCDでもついていたら、完璧に鼻持ちならないガイドブックになっているところですが、ちょっと違う、なにかマニアックな匂いがしたもので、手に取ってみる気になりました。
確かに、その「勘」はあたっていたようです。「マニアック」と感じたのは、豆腐料理(それは「ヒヤヤッコ」)ではなく、おそらくその表紙の写真からだったのでしょう。「なんか違う」というような気がしたのですが、よくよく見てみると、ホルンはウィンナ・ホルン、オーボエもウィーン・タイプ、トランペットはロータリー、ティンパニは手動式と、これはウィーン・フィルだけで使われている楽器を集めたものではありませんか。クラリネットだけ、エーラー管ではなくベーム管というのが不思議なところですが、これだけのこだわりはハンパではありません。
この本は二部構成になっていて、前半はオーケストラの歴史、後半は世界各地のオーケストラの特徴を、それぞれ使われている楽器を詳細に紹介することで明らかにしています。
まず、「歴史」では、バロック期のヴィヴァルディから始まって、20世紀のラヴェルまで、それぞれの作曲家の作品のスコアを見せながら、オーケストレーションの「隠し味」のようなものを紹介してくれています。そして、なんと言ってもそれぞれの時代にしかなかった「古楽器」が、きれいな写真で味わえるのは、たまりません。フルートなども、しっかりその時代時代に使われた異なるタイプのものが使われていますから、安心できますよ。もう、そこからは、著者の「意地」みたいなものも感じられてしまいます。おそらくどこからも突っ込まれないような、完璧なものを目指したのでしょうね。
そこで、初めて知ったのは、今でも慣習的に行われているクラリネットの「持ち替え」の起源です。倍音構造上、昔の楽器では、特定の調しか吹くことが出来なかったので、フラット系にはB管、シャープ系にはA管を使って、対応していたのですね。ホルンが、クルーク(替え管)を取り替えて別の調に対応していたのと同じことを、クラリネットでもかつては行っていたのです。現代の精密な音程を出せる楽器でも、やはりそのようなことが必要なのでしょうね。ほんと、演奏中にマウスピースを抜いて別の管に付け替えているクラリネット奏者の早業には、いつも感心してしまいます。
そして、後半のオーケストラの違いによる楽器の違いも、興味深いものです。いや、そういう特定の楽器のことは知ってはいたのですが、それの写真と、細部にわたっての相違点を詳しく述べているこんな本には、初めて出会ったものですから、今まで漠然と感じていたものを、しっかり実体のあるものとして、知識の片隅にしまい込むことが出来ましたよ。例えば「オフィクレイド」と「チンバッソ」との関係を、これほど明瞭に定義づけているものなど、今までにあったでしょうか。この本の知識がすべて頭に入れば、オーケストラの楽器に関してはどこに行っても恥ずかしくない立派な人になれるはずです。
そんな、どこをとっても「隙」のない本なのですが、1箇所だけ、ケチを付けてもいいですか?それは、「ドイツ型トランペット」として紹介されている、ロータリー・トランペットの写真です。通常のピストン式の楽器と同じような、「縦」になった写真なのですが、演奏するときには「横」にして構えるので、ちょっと違和感があるのですよ。このまま吹いたのでは、右手がとても辛いな、みたいな。

Book Artwork © Kawadeshobo-Shinsha
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by jurassic_oyaji | 2010-10-30 22:53 | 書籍 | Comments(2)
Fragile/A Requiem for Male Voices
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Die Singphoniker
OEHMS/OC 817




タイトルが意味深の、「ジングフォニカー」のニューアルバムです。だいぶ前のS & Gをはじめ、これまでに聴いたこのグループのCDで満足できたものは何一つありませんでしたが、そのタイトルにある「Requiem」という言葉には、敏感に反応してしまいます。メインタイトルの「フラジャイル」は確かスティングの曲だったはず、それと「Requiem」というミスマッチが、ある種の期待を抱かせます。別の期待は禁物ですが(それは、「ブラジャー、要る?」)。
パッケージを手にして中身を見ることによって(しつこいようですが、ネット配信ではこのような体験は不可能です)そのタイトルの意味が分かることになります。彼らが最初に演奏しようと思ったのは、ルネサンス期、フランドルの作曲家ピエール・ド・ラ・リューの「死者のためのミサ曲」、つまり「レクイエム」でした。ただ、それをそのまま歌うだけでは芸がないので、その間に他の人の作品を挟み込む、というアイディアを実行に移したのです。かくして、さまざまな作曲家のコラボレーションによる「男声のためのレクイエム」が誕生しました。
スティングの「Fragile」は、スウェーリンクのオルガン曲をコラール仕立てにしたルートヴィヒ・トーマスの曲に続いて演奏されます。「レクイエム」にしては明るすぎるアレンジがちょっと気になりますが、この歌の最後の歌詞、「How fragile we are(私たちは、なんて脆いのだろう)」は、確かに「Requiem aeternam」を導き出すには、ふさわしいものではあります。
そのラ・リューの本体は、例えば1988年に録音されたアンサンブル・クレマン・ジャヌカンの演奏(HARMONIA MUNDI)で聴くことが出来ますが、なんと言ってもこの曲の特徴といえばそのあまりに低い音でしょう。なんでも、ベースの最低音は「B♭」なのだとか。「C」が出れば「すごい」といわれるこのパートにとって、その全音下のこの音はかなり過酷なものです。作曲家は、そこまでして「暗いサウンド」を目指したのでしょうね。ヴィスのグループは、オルガンによってそのあたりの音を補強していますが、ここではあくまでア・カペラにこだわった結果、出せない音はあきらめて安易に移調する道を選びました。まあ、それなりの「暗さ」は感じられますから、それほどの問題ではありませんが。
しかし、それに続く、クルト・ワイルの「ベルリン・レクイエム」からの「Zu Potsdam unter den Eichen」の、なんともノーテンキなたたずまいは、いったい何なのでしょう。ワイルならではのアイロニカルな曲なのでしょうが、その「ひねり」が全く感じられない歌い方には、閉口してしまいます。
そうなってくると、「本体」の方も、ポリフォニーの絡みなどが、かなりいい加減なことに気づかされてしまいます。それぞれの声部がもたらす緊張感といったようなものが、殆ど伝わってこないのですね。彼らの「ユルさ」は健在でした。
それでも、間にラウタヴァーラ、シャンデルル、ニシュテッドなどといった、このサイトでは「お馴染み」の作曲家の曲を従えて、「レクイエム」は続きます。確かにシャンデルルの「Whispers of Heavenly Death」などは聴き応えがある作品です。
しかし、そんな配慮を帳消しにしたのが、最後から2番目に置かれたエリック・クラプトンの名曲「Tears in Heaven」という、そのまま歌えばきっちり涙を誘うはずの名曲を、無惨にも「明るい」ものに変えてしまったアレンジと、それをなんの疑いもなくそのまま歌ったこの6人の男声合唱団の演奏です。いとも軽やかなカスケイディング・アルペジオからは、死を悼む敬虔な心などは全く感じることは出来ません。「ユルさ」とともに、彼らの無神経さも、しっかり健在であることを思い知らされたアルバムでした。そういえば、「Offertorium」の前に歌われていたスピリチュアルズ、「Deep River」も、無惨な出来でしたね。

CD Artwork © Oehms Classics Musikproduktion GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-10-28 20:02 | 合唱 | Comments(0)
WITT/Symphonies, Flute Concerto
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Patrick Gallois(Fl, Cond)
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
NAXOS/8.572089




今回初めて登場したフリードリッヒ・ヴィットという作曲家は、生まれが1770年と、あのベートーヴェンと同じです。彼とベートーヴェンとのつながりは実はそれだけではありません。彼が作った曲がかつては「ベートーヴェンの作品」として世の中に広まっていた、ということがあったのですよ。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、1909年にフリッツ・シュタインという人がイェーナ大学の資料の中から、「ベートーヴェンの交響曲」という書き込みの入ったパート譜を発見したために、それが「ベートーヴェンの若い頃の作品」ということで出版(1911年/ブライトコプフ)までされてしまったのです。なんでも、ベートーヴェン自身がハイドンの交響曲第97番をモデルにして、ハ長調の交響曲を作ろうとしていたことがあったそうで、確かにこの曲にはそのハイドンの曲との類似点が認められたことも、ベートーヴェンの作品であることの裏付けとなっていました。この曲は長いこと「ベートーヴェンのイェーナ交響曲」という愛称で知られていたのです。フランツ・コンヴィチュニーなどという大指揮者も、そのつもりで録音もしていましたね。
しかし、1957年に、有名なベートーヴェン学者のロビンス・ランドンが、別の場所ではっきりヴィットの作品であることが確認できるような、この曲の別の写本を発見したために、「イェーナ交響曲」はもうベートーヴェンの作品と呼ばなくてもいぇーな、ということになってしまいました。ということで、このように晴れてヴィットの作品集のアルバムに収録できるようになったのですね。
ヴィットは10代の終わりごろにエッティンゲン・ヴァラーシュタインの宮廷楽団のチェロ奏者となりました。そこで、宮廷楽長のアントニオ・ロゼッティから作曲のレッスンを受けるのですね。1793年頃に、その楽団ではハイドンの「ロンドン交響曲」のうちの4曲を演奏することになったのですが、その楽譜を手にしたヴィットは、交響曲第97番を「モデル」にしてハ長調の交響曲を作りました。それがベートーヴェンの助言に従ったものであったことが、後に「ベートーベヴェンの交響曲」と誤解されてしまう原因だったのでしょうね。
確かに、この「イェーナ」と「97番」を比べてみると、よく似ているところは数多く見つけだすことができます。楽章の構成は同じですし、テーマ自体も同じモチーフがベースになっています。しかし、同じ変奏曲の形で書かれている第2楽章などは、ハイドンとは一味違うテイスト、それは、シューベルトにも通じるようなものに支配されていることに気づくことでしょう。その第2変奏の中では、当時は珍しかったはずの「サスペンデッド4」(「ソシレファ」という属七の和音の三音を半音上げた「ソドレファ」という、テレビドラマのBGMに良く使われる和音)なども使われていて、ヴィット独自の個性が明らかに感じられます。
もう一つ収録されているイ長調の交響曲は、これより前、1790年頃に作られたものですが、これは明らかにモーツァルトと同時代の様式をそのまま取り込んだ「無難な」作品です。なにも知らずに聴いたら、モーツァルトの作品のように思ってしまうかもしれません。ただ、この中にも転調のセンスなどにはヴィットの個性を見ることは可能です。
おそらく「イェーナ」よりは後に作られたフルート協奏曲は、その2曲の交響曲と比べると、明らかにワンランク上の、もはや古典派の様式にはとどまっていない、ロマン派の萌芽すら感じられるものになっています。ソロ・フルートのパッセージは羽を与えられたような自由さをもって、「新しい時代」を歌いあげているようです。もちろん、そのように感じられたのは、そんな作品の本質に迫るようなアグレッシブな演奏を繰り広げていたガロワの卓越した音楽性のおかげでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-10-26 23:23 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Passion selon Saint Matthieu
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H. Cuénod(Ev), H. Rehfuss(Jes), M. Laszlo(Sop)
H. Rössel-Majdan(Alt), P. Munteanu(Ten), R. Standen(Bas)
Hermann Scherchen/
Wiener Akademie-Kammerchor
Orchestre de l'Opéra de Vienne
TAHRA/TAH 701-703




元々はウェストミンスターの1953年の音源ですが、TAHRAという、ヒストリカル音源を復刻させたーら右に出るものはないと言われているフランスのレーベルによってマスタリングされたものが登場しました。
フランスのレーベルですから、曲目や演奏家の表記はすべてフランス語になっています。オーケストラは「ウィーン歌劇場管弦楽団」、実体はウィーン・フィルなのでしょうが、契約の問題などでこのような名前を使ったのでしょうか。そして、合唱団が「ウィーン・アカデミー室内合唱団」となっていますが、これは先日ミュンヒンガーの「ロ短調」で素晴らしい演奏を聴かせてくれた「ウィーン・アカデミー合唱団」とは全く無関係な団体の様ですね。基本的な合唱の訓練などなにも受けてはいない、もしかしたら、録音のための寄せ集めの団体だったのかもと思えるほどのひどさです。
そんな、とんでもない合唱が最初の合唱を歌い始めると、そのテンポがまるで最近の「ピリオド系」の演奏家のように速いのに、ちょっとびっくりさせられます。この時代に、こんなテンポで演奏している人がいたとは。実は、添付のライナーは、今回のリリースに合わせて書き下ろされた最新のものなのですが、そこでは「マタイ」の演奏史のようなノリで、今までの録音の演奏時間の比較などが行われています。かつてはクレンペラーのように223分もかかっていたものが、アーノンクールのような「バロック」の指揮者の出現で173分などという「速い」演奏が広まり、最速はコープマンの154分だ、といった具合です。それによると、このシェルヘンの演奏時間は199分、この5年後に録音されたカール・リヒターが197分ですから、全体ではそんなに速いわけではありません。なぜそんなことになっているかは、もうしばらく聴いていると分かります。速かったのは最初の曲だけで、それ以降はほぼ標準的なテンポを取るだけではなく、なんと、とてつもない、ほとんど冗談のような「遅い」テンポになっているところがどんどん出てくるのですよ。まずは、「受難のコラール」として有名な15番と17番のコラールです。そのような深い意味を持つ曲をとことん歌いこもう、というのが、シェルヘンの基本的なコンセプトなのでしょうね。そういえば、そこまでにも、イエスのレシタティーヴォの部分ではかなり丁寧に歌わせていました。しかし、このコラールをこのテンポで演奏するためには、合唱団のスキルがあまりにも不足しています。気持ちはよくわかるのですが、こんな、それぞれのメンバーが好き放題にビブラートたっぷりで「吠え」続けているような合唱団が、のたうちまわるように演奏したとしても、それはうっとうしいだけのこと、おそらく指揮者が求めたであろう緊張感にあふれた切なさのようなものは、全く伝わってくることはありませんでした。
極めつけは、ご想像通り、最後の合唱です。いやあ、これはすごい。普段聴き慣れたもののまさに半分の速さでしょうか、それがこのだらしない合唱で延々と続くのですから、これはもう拷問に近いものです。
ただ、そんなひどい合唱さえ我慢すれば(そんなことは不可能だ、とはおっしゃらず)、たとえばアルトのレッセル・マイダンなどの歌うアリアは、本当に心にしみます。しかし、エーベルハルト・ヴェヒターとかペーター・ラッガーといった、後年大活躍を見せる大歌手が、ピラトやペテロのような「端役」を歌っていたなんて、なんと豪華なキャスティングだったのでしょう。オーケストラも、ウィーン・フィルの名手たちが素晴らしいソロを聴かせてくれています。49番のソプラノのアリアでのオブリガートフルートで、まさに当時のウィーン・フィルの音色を披露してくれているのは、巨匠ハンス・レズニチェクのはずです。ライナーに「カール・レズニチェク」とあるのは、なにかの間違いでしょう。

CD Artwork © TAHRA
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by jurassic_oyaji | 2010-10-24 22:55 | 合唱 | Comments(3)
暮しの手帖
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 この間、職場の建物の下に白アリがいるということで、駆除を業者にお願いすることになりました。ただ、そこには床下に、10年前に建物を新しくした時に、取り壊した建物の中にしまってあった本などが、そのままになっていたのですね。いずれ片づけようと思っていたのが、なかなかその機会がなくて放っておいたら、そんなに時間が経ってしまった、というわけです。
 もう、湿度の高いところですから、何もしないものはほとんど腐ってしまっていましたね。でも、大きなポリ袋の中に入れてあったものは、意外と無事でした。その中に、ずっと探していた「暮しの手帖」のバックナンバーを見つけて、小躍りしてしまいましたよ。これを、ずっと読みたいと思っていたのですよ。もう小さいころからこの雑誌は読んでいて、特に、途中から始まった「レコード・ショップ」というのが、なかなか衝撃的なものでしたから、今でもよく覚えています。一度「おやぢの部屋」でも、記憶を頼りになにか書いたことがありましたね。この雑誌の目玉であった、過酷な「商品テスト」を、レコード(当時はレコードが、唯一の音楽再生のパッケージでした)でも行おう、という企画でした。
 しかし、当時は、レコードのような「芸術」に対して、冷蔵庫や洗濯機と同じ扱いで「テスト」を行い、優劣を付ける、というやり方は、かなりの反発を招いていたようですね。そのあたりのやり取りも確かあったはずだな、と思って、読み返してみたのですが、その生々しいコメントは、確かに第2回目に掲載されていました。そんなものも含めて、今横行している業界内の約束事のような生ぬるいレコード(つまり、CDなど)の批評に対する「批評」として、その片鱗でも紹介してみようと思って作ったのが、新しいコンテンツです。
 「暮しの手帖」の商品テストの基本は、サンプルはすべて自分たちで購入する、という姿勢です。ですから、それがレコードの場合でもやり方は一緒、一つの曲について、どのレコードが最も良くて、どれが「お買い損」なのかを調べるために、まず彼らが行ったのは、その時に市販されているすべてのレコードを、お店に行って買ってくることだったのです。
 たとえば「レコード芸術」あたりの「批評」を担当している人で、自分で買ったCDを聴いて批評を書いている人なんて、一人もいないのではないでしょうか。それは編集部から貸与(実際は、返す人などいません)されたもの、ということは、メーカーが用意したCDを聴いているのですから、公正な批判など、出来るわけがありませんよね。というか、メーカーは雑誌で紹介してもらいたいから、無料サンプルを「先生」がたにばらまいているのですから、当然その見返りは期待するはずです。そんな「先生」やメーカーの人たちが、これを読んで何を感じるのか、あるいは何も感じないのか、見極めてみたいところです。その結果表れてくるのは、正しいことを行うのがとても難しくなっている現代社会の姿なのでしょうけれどもね。
 しかし、雑誌の損傷は、すごいものでした。もう少し遅かったら、本文も読めなくなってしまっていたかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2010-10-23 23:28 | 禁断 | Comments(0)
モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯
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田之倉稔著
平凡社刊(平凡社新書538)
ISBN978-4-582-85538-8



ロレンツォ・ダ・ポンテという、ドーナツみたいな名前(それは、「ポン・デ・リング」)の人物は、「ダ・ポンテ三部作」みたいなくくられ方で、常にモーツァルトとのワンセットとして語られています。確かに、彼がモーツァルトに提供した3つの台本によって作られたオペラは、今や世界中のオペラハウスでの人気演目として、欠かすことは出来ないものになっています。その結果、ダ・ポンテといえば「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」の台本作家として、オペラ・ファンの間で知らないものはいないほどの存在となっているのではないでしょうか。もう少しコアなファンになると、モーツァルトと同時代のマルティーン・イ・ソレルやアントニオ・サリエリのオペラでも台本を書いていた人という認識も付け加えられることでしょうが、決してそれ以上の情報を、オペラ・ファン、あるいはクラシック・ファンが持つことはありませんでした。せいぜい「ダ・ポンテというのは、芸名だ」程度のガセネタが飛び交ったぐらいでしょうか。もちろん、クラシックに縁のない人にとっては、この名前は完璧に「知らない人」のものだったことでしょう。
しかし、今年の春に「ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い」(原題は「Io, Don Giovanni」、「私こそ、ジョン・ジョヴァンニだ」でしょうか)という、ダ・ポンテを主人公とした映画が公開されるに至って、その状況は一変します。この、「アマデウス」の焼き直しのような、決して史実に基づかないディーテイルを持つ映画では、この波瀾万丈の生涯を送った詩人の生い立ちや人となりが、曲がりなりにも「実像」として描かれていたのですからね。さらには、クラシック・ファン以外にもしっかりダ・ポンテという名前が浸透した、という効果も見逃せません。
しかし、今回ご紹介する著作は、そんなある意味「ブーム」に乗ったというような軽薄なものではありませんでした。そもそもは、さる出版者の依頼に応えたもので、ダ・ポンテ自身によって著された自伝に基づき、実際に現地に赴いてリサーチを行うというほどの綿密な手間をかけて書かれたものだったのですが、結局その企画は宙に浮いてしまって出版されることはありませんでした。それが、この映画によってダ・ポンテへの注目度がアップした機会に、陽の目を見た、ということなのですね。出版の経緯からして、なかなか劇的ではありませんか。
著者の田之倉さんは、自伝の内容に関しては懐疑的です。そこで、あくまで客観的な事実によって、彼の全生涯を詳細に語ろうとしてくれています。さらに、自伝で事実とは異なることを述べている部分についても、そこからダ・ポンテの人間性を明らかにしようとしていますが、そのあたりがとても面白く読めますね。なぜ、重要なことを語っていないのか、なぜ、ありもしないことを述べているのか、そんな検証からは、まさに「人間」ダ・ポンテの素顔をうかがい知ることが出来ることでしょう。
もちろん、我々にとって最も興味があるであろう、モーツァルトとの出会いについては、とても詳細に描写されています。事実を知ってしまうと今まで抱いていたイメージが崩れてしまう向きもあるかもしれませんが、やはり事実は事実として受け入れることは必要です。ただ、「ドン・ジョヴァンニ」の台本については、実際にそれ以前に同じテーマでオペラを作っていたガッツァニーガと、台本を書いたベルターティの名前まで揚げておきながら、「剽窃は言い過ぎ」という甘い裁定を下しているのは、ちょっと納得のいかないところですがね。
いずれにしても、今まで全く知らなかった「ウィーン以後」のダ・ポンテの様子をこれほどまでに詳細に伝えてくれているこの労作は、大変貴重なものです。

Book Artwork © Heibonsha
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by jurassic_oyaji | 2010-10-22 21:58 | 書籍 | Comments(0)
CHERUBINI/Requiem in c
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Frieder Bernius/
Kammerchor Stuttgart
Hofkapelle Stuttgart
CARUS/83.227(hybrid SACD)




レクイエムに関しては手当たり次第に紹介しているこのサイトですが、ケルビーノのレクイエムはこれが最初となります。曲自体は有名で、合唱団の演奏会などでも良く取り上げられているのですが、久しくCDSACD)は出ていなかったのでしょう。
ケルビーニは2曲の「レクイエム」を残しています。1816年に作られたこのハ短調の曲と、その20年後、1836年に作られたニ短調の曲です。ニ短調の方は、ケルビーニ自身の葬儀のためにと作られたものですが、合唱に女声が加わらない男声合唱で歌われています。それは、ハ短調の曲を他の人の葬儀で演奏しようとしたときに、「教会で女性が歌ってはならぬ」というお達しがあったためなのだそうです。せっかく作っても、そんな制約のために自分の葬儀で使えないのでは意味がないので、「安全策」を取って、男声だけにしたということですね。もちろん、1842年の彼の葬儀には、この男声版が演奏されたそうぎ
こちらのハ短調の方は、当時から傑作として認められていて、同時代の作曲家はこぞって絶賛しています。あのベートーヴェンもその一人、彼の葬儀のあとで行われた追悼ミサでもこの曲が演奏されたということです。
この曲の特徴は、ソロの歌手は登場せず、合唱だけで歌われているということです。さらに、オーケストラにはフルートが含まれていないため、全体は落ち着いた雰囲気に包まれています。しかし、「Dies irae」から「Lacrimosa」まで続けて演奏される「Sequentia」では、冒頭にトランペットのファンファーレに続いてなぜかドラの一撃が響き渡るという、一瞬のサプライズが設けられています。それはかなり効果的なインパクトを与えてくれますが、それに続くヴァイオリンのパッセージの中には、明らかにモーツァルトの曲からの引用が聞こえるのが、気になります。あの「Lacrimosa」の上昇音型も聞こえますしモーツァルトの曲では「Rex tremendae」の中に含まれる「salva me」という歌詞のフレーズとそっくりのメロディが、同じ歌詞にあてられていますよ。先ほどの「男声合唱版」では、もっとあからさまにモーツァルトが感じられるところもありますし。しかし、これは「盗作」というような次元のものではなく、偉大な先達に対するリスペクト、という風に考えるべきなのでしょうね。
同じようなことを、「後輩」ベートーヴェンが行った、と思われるのが次の「Offertorium」です。実は、この件は、こういう曲を聴くときに常に参考にしている井上太郎さんの労作「レクィエムの歴史」(平凡社刊)で述べられていることなのですが、この楽章の「47小節から76小節まで」は、ベートーヴェンが「第9」の終楽章を作るときに参考にしたのでは、というのです。もちろん、手元に楽譜があるわけはありませんから、楽章の頭から見当を付けて数えてみましたよ。そうしたら、確かに47小節からは楽想が変わっていて、その「ne cadant in obscurum」という歌詞の部分が、「第9」の最後近く(スコアでは「R」)、木管が「ウタタタタタ・ウタタタタタ」と静かに刻んでいる中を、囁くように「Ihr stürzt nieder, Millionen?」と合唱が歌う部分にそっくりでした。もっとも、これは言われなければ分からなかったかもしれませんがね。
ベルニウスは、本来はこの曲には含まれていなかった「Tractus」の楽章を「Graduale」と「Sequentia」の間に挿入しました。この前のチマローザがこの形ですね。ケルビーニが曲を付けてはいなかったので、プレイン・チャントが他のグレゴリアン専門の団体によって歌われています。そのことでも分かるように、いたずらに演奏効果を狙ったりなどしていない、敬虔な演奏が心にしみてきます。ひたすら同じ音を伸ばしている終曲「Communio」のエンディングも感動的です。おそらく、ピリオド楽器による演奏のSACDというのはこれが初めてなのでしょう。弦楽器の柔らかなテクスチャーが、すさんだ気持ちを慰めてくれるよう。

SACD Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2010-10-20 19:58 | 合唱 | Comments(0)
Piccolo Virtuoso
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時任和夫(Pic)
藤田雅(Pf)
ENZO/EZCD-10011



アメリカの名門オーケストラ、フィラデルフィア管弦楽団で、首席ピッコロ奏者を29年にわたって務めている時任さんの、初めてのソロアルバムが出ました。時任さんと言えば、最近も「サイトウ・キネン・オーケストラ」のピッコロ奏者として日本の聴衆の前にも姿を現していましたね。もちろん、本来の「職場」での実績は、数多くの録音で多くの人が耳にしているはずです。
このアルバムの曲目を見て驚いたのは、彼のために作られた日本人作曲家の作品を除いては、すべて本来はピッコロ以外のために作られた曲ばかりが集められている、ということでした。その中には、なんとメシアンの「クロウタドリ(黒ツグミ)」などという、フルート以外の楽器で演奏することなど全く想定されてはいないようなものまで含まれていますよ。
まず、最初に聴こえて来たのが、日本では昔からフルートの学習用のピースとしてお馴染みの、テレマンのヘ短調のソナタです。それは、とてもピッコロで演奏されているとは信じられないほどの柔軟性あふれるものでした。音色は輝きに満ちていて、高音から低音まで全く均質、ピッコロ特有の時としてプリミティブに響く部分などは皆無であるのに驚かされます。そして、表現の幅の、なんと広いことでしょう。特に、この楽器の場合はコントロールがとても難しいはずのピアニシモをきっちり聴かせてくれるのには、さすが、としか言いようがありません。
それに続いて演奏されているのが、バッハのト短調のフルートソナタです。ヴァイオリンで演奏されることも多いこの、殆ど偽作とされている曲を、時任さんはテレマンと同じく、最近流行のいかにも「バロック」という先鋭的な表現ではなく、伝統的なかなりロマンティックなアプローチで、慈しみ深く歌い上げています。それだからこそ、ピッコロという楽器を殆ど感じさせない、ゆったりとした味わいが堪能できるのでしょうね。
「星々の記憶へ I」という、清水研作という作曲家によるピッコロ・ソロのための2006年の作品は、まさに時任さんの繊細なピッコロを想定して書かれたものなのでしょう。ピッコロ版「シランクス」もしくは「デンシティ21.5」といった趣の、特に難解な作曲上の技法や、超絶技巧をひけらかすようなことはせず、淡々と進んでいく曲です。
そして、メシアンです。この曲ではピッコロでは出せない低音の「C」が使われているので、それが出てくる2箇所だけは1オクターブ(というか、正確には2オクターブ)高く吹かれていますが、そんなことは言われなければ分からないほど、見事にピッコロに馴染んだものになっています。考えてみれば、メシアンが聴いていた鳥の声は、実際はフルートの音域よりははるかに高い音のはずですから、ここで初めて「リアル・クロウタドリ」が出現した、ということになるのではないでしょうか。
オーケストラのピッコロと言えば、いかにも華やかなもののような印象があります。ですから、今まで何度か聴いてきたピッコロ奏者のソロアルバムでは、そんな華やかさを前面に出した技巧的なパッセージ満載の曲が選ばれていたものでした。もちろん、それはこの楽器の主たる属性ではあるのですが、それだけにはとどまらない別な側面もあるということを、時任さんはここで見せつけてくれました。それこそが、真の意味の「Virtuoso」なのでしょうね。このようなしっかりとした技術と音楽性の裏付けがあるからこそ、オーケストラの中のいかにも「目立つ」ところでも自信を持って演奏することが出来るのでしょう。
一つだけ残念だったのは、テレマンのソナタの第3楽章で、高音の「G」の音程が決まらなかったのがそのまま録音されていることです。ライブではないので、録り直すことは可能だったはず、これは、ミスをみすみす見逃した現場スタッフの責任でしょう。

CD Artwork © Veritas Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-10-17 22:28 | フルート | Comments(0)
WAGNER/Rienzi
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Torsten Kerl(Rienzi)
Camilla Nylund(Irene)
Kate Aldrich(Adriano)
Philipp Stölzl(Dir)
Sebastian Lang-Lessing/
Chorus and Orchestra of the Deutsche Oper Berlin
ARTHAUS/101 521(DVD)




ワーグナーの初期の作品、「リエンツィ」といえば、「演奏するのに6時間を要する冗長な作品」というイメージが定着、なかなか実際に上演されることはありませんでした。全曲盤のCDは確か1種類は出ていたはずですが、映像は今までは存在していなかったのではないでしょうか。ですから、おそらく今回初めての映像がDVD(と、ブルーレイ)、しかも日本語字幕付でリリースされたのは、画期的な出来事です。序曲だけは良く知られていても、その内容は誰も知ることはなかったという、いわば「幻の」作品が、これで陽の目を見ることになったのですからね。
なにしろ「6時間」ですから、DVDだったら3枚組かな?と思ってパッケージを見てみたら、メイキング映像を含めて2枚組、しかもオペラ自体は156分、2時間半ちょっとというのですから、なんだか拍子抜けしてしまいました。ちっとも長くないじゃん。実は「6時間」というのは休憩を含めた上演時間で、正味だと4時間とちょっとなんですね。それにしてもやはり長いことに変わりはなく、これは全5幕のものを、適宜カットを施して「2部」にまとめたバージョンだったのです。現在のヨーロッパのオペラハウスでは、これに近い形で上演されることが普通のスタイルになっているようですね。どうやら、このぐらい切りつめた方が音楽的にも、そしてストーリーもすっきりして、作品の肝心の部分も損なわれることはないそうなのです。
今年、2010年にベルリン・ドイツ・オペラでのプロダクションを任されたシュテルツルは、ここのアーティスティック・プロダクション・マネージャーのクリスティアン・バイアーとともに、この「ダイエット」作業を行いました。メイキング映像では、歌手たちが「これは歌いたい」などと言っていて、それが採用されていますから、それは現場で出演者たちの意見も聞きながらの作業だったようですね。
「リエンツィ」の初体験(「離縁」はまだ体験してませんが)、それはなかなかのインパクトを与えてくれるものでした。本来の舞台はローマ時代、市民階級の一人の男が「護民官」となって(この作品のサブタイトルが「最後の護民官」でしたね)民衆に自由を与える指導者として君臨するのですが、やがて民衆の心は彼から離れてゆき、最後は殺されてしまうというプロットです。これは、なんの読みかえをしなくても、前世紀にドイツで起こったことをそのまま当てはめることが出来ます。現に、20世紀の「指導者」その人が、このオペラを我が身に置き換えて多いに堪能していた、という「事実」もあるそうですから。
もちろん、シュテルツルは、そのアイディアをとことん推し進めています。なんと、あのリーフェンシュタールの映画のパロディまで登場しますよ。そして、その「指導者」を最初は持ち上げ、のちには没落させることになる民衆には、かなりの力を入れたことでしょう。オペラハウスの正規の合唱団だけではなく、エキストラの団員をあわせて120人ものメンバーが、舞台狭しと動き回ります。異様にテンションの高いオーケストレーションと相まって、これでもかと言うぐらいの迫力がこの合唱からは押し寄せてきます。
音楽自体はそんな迫力が勝った「若書き」であるのは否めませんが、後のワーグナーのモチーフがあちこちに顔を出しているのがほほえましいところです。本来の第2幕の最後の合唱などは、「タンホイザー」そっくりですし。
ソロも、やはりハイテンションの声を要求されます。タイトルロールのケルルが、それに見事に応えて、最初から最後までものすごい存在感で音楽をリードしています。殆ど出ずっぱりですから、さすがに最後はいくらかバテ気味でしたが、そこで歌われる、おそらく彼自身のリクエストでカットされずに済んだ、序曲にもあるテーマを使ったリリカルなアリアは、絶品でした。

DVD Artwork © Arthaus GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-10-15 20:34 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Cosi Fan Tutte
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Malin Hartelius(Fiordiligi)
Anna Bonitatibus(Dorabella)
Martina Janková(Despina)
Javier Camarana(Ferrando)
Ruben Drole(Guglielmo)
Oliver Widmer(Don Alfonso)
Sven-Eric Bechtolf(Dir)
Franz Welser-Möst/
Orchestra and Chorus of the Zurich Opera House
ARTHAUS/101 495(DVD)




小澤征爾の後釜として、ウィーン国立歌劇場の音楽監督となったウェルザー・メストの、前任地でのほぼ最後の仕事となった「コジ」の映像です。このDVDはもちろん輸入盤ですが、ケースには字幕はイタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語としか表示されていません。しかし、メニューを開くと、そこにはしっかり「日本語」も選択肢に入っています。これは日本向けに特別に付けさせたものなのでしょう。確かに、日本で作った「帯」には「日本語字幕つき」と書いてありましたね(お、びっくり)。これは、全く期待していなかっただけに、新鮮なサプライズでした。しかも、以前同じレーベルでみられたようないい加減なものではなく、とてもきちんとした字幕でしたから、喜びもひとしおです。
いつもそうなのか、モーツァルトだからなのかは分かりませんが、ウェルザー・メストはピットにもぐった形ではなく、客席から上半身は完全に見えるぐらいの高い位置で指揮をしています。従って、序曲の間だけではなく、シーンの最中でも彼の指揮ぶりはよく見ることができます。そんな時に、彼のとてもしなやかな指先などを見ていると、この人は思ったほど悪い指揮者ではなかったことが分かってきます。ここでは緩急を自在に操って、とても立体的なドラマを、音楽で語ることに成功しているのではないでしょうか。
歌手たちも、ハルテリウスやヴィドマーといったベテランを中心に、実力者揃いのラインナップです。デスピーナ役のヤンコヴァーは、その中でもひときわ光っていました。フェランド役のカマレナあたりが穴といえば穴でしょうか(この人、「外国人」に変装すると、朝青龍そっくりなので、笑えます)。
演出の面では、ありがちな「読みかえ」などは、とりあえずないものだ、と思いましょう。衣装は本来の時代設定、男たちはかつらを着けたロココ風のスタイルで現れます。もちろん、女たちは胸を大きく開け、腰をコルセットで締め付けたドレスを着ています。ただ、ステージのセットは一切の装飾を排したシンプルなものです。ど真ん中に緑の葉をたわわに付けた大きな樹が置かれ、そこから左右対称に白い壁面が広がっています。おそらく、このステージのコンセプトは「シンメトリー」だったのでしょう。出演者の動きもかなり「シンメトリー」が意識されているようですね。結局、この話の骨格である疑似スワッピング=シンメトリーという発想なのかもしれません。
ところで、「コジ」といえば、その結末がどうなるのか、という点が常に興味の対象となってきます。こちらにまとめたように、そこには今までさまざまな「解決策」が多くの演出家によって示されてきていました。しかし、今回のベヒトルフのプランは、そのどれとも異なっていて、驚かされます。(ここからはネタバレになりますので、文字の色を背景と同じにしておきます。読みたい方は選択して反転させて下さい)

それは、第2幕のフィナーレ第16場でグリエルモがつぶやく「ああ!毒を飲めばいい!この恥知らずの女狐ども」というセリフを、そのまま実行させる、という手でした。第1幕のフィナーレ第15場で男たちが「飲んだフリ」をした毒の入った瓶が、なぜかステージの上に置いてあったのを見つけたグリエルモは、自分のグラスのシャンパンを飲み干し、そこにこの「毒」を注ぐのです。幕切れは、4人揃って仲直りの杯を干すというプランですが、その毒の盛られたグラスを持ったのはフィオルディリージ、彼女は訳も分からぬまま、目をむいてその場に倒れ、こときれるのです。

騙したのはあくまで男たちですが、それを真に受けて「不貞」をはかった女たちは、決して許されることはなかったのです。男の嫉妬って、怖い・・・。

DVD Artwork © Arthaus Musik GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-10-13 20:09 | オペラ | Comments(0)