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のだめカンタービレ#25
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 「のだめカンタービレ」の第25巻が、もう出ていたんですね。そのことを知ってあわててさる本屋さんへ走ったら、棚にはサンプルしか置いてなくて、レジに持っていくとすぐさま「はい、のだめ」と現物を渡してくれるというシステムでした。よっぽどの売れ筋なんですね。いまだに。
 ご存じのように、「のだめ」自体は23巻で終わっていましたが、そのあとで「オペラ編」というのが引き続き連載され、単行本2巻分で、それも終わったという、今度こそ本当に「最後の」のだめです。本編では、予想もしなかったブレイクぶりに、不自然にストーリーをふくらませてしまった跡がミエミエでしたが、この「オペラ編」では、「魔笛」を上演するためのカンパニーが立ちあげられて、そこに千秋の指揮と、R☆Sオケの演奏が加わるという設定で、本番を迎えるまでの経過を描くというものですから、きっちり「終わり」が見えている分、無理のないコンパクトなストーリー展開が実現できています。とは言っても、上下2巻の上巻にちらっと出てきただけの人が下巻にいきなり現れたりして「この人だれ?」状態に陥ってしまったのは、相変わらずですが(それは、片平さんの奥さん)。
 そのストーリーに絡ませて、上演された「魔笛」を、「読んだだけで聴いた気分にさせようとしている」手法も相変わらずでしたね。これだけ有名なオペラですから、おそらくそんなに抵抗なく入って行けたことでしょう。峰くんが演出しているというこのステージでも、モノスタトスとその奴隷たちが、パパゲーノのグロッケンの音で踊らされてしまうというシーンでマイケル・ジャクソンの「スリラー」の振りをつけるというのが、なかなか秀逸でしたね。おそらく、専門のオペラ演出家には決して浮かばない発想でしょう。ただ、マンガとしては笑えますが、実際のステージでこれをやったら、かなり設定が難しくなるでしょうね。ここだけ異様に浮いてしまいそう。上巻にはなかったのですが、「取材協力」の中に指揮者の下野さんの名前がありましたから、彼あたりが言いだしたのかもしれませんね。下野さんは、こういう面白いことが大好きだったはずですから。
 そのシーンで、本番にいきなりのだめがグロッケンのパートを弾く、というサプライズが、ストーリー的には重要な意味を持っているのでしょう。しかし、そこで出てきたのがヤマハのチェレスタだったのには、いつもながらの軽い失望が伴います。なんたって、最近はこのパートは楽譜の指定通りキーボード・グロッケンを使うのが主流ですからね。そんな、決して最先端の情勢までは反映させない、というのも、のだめの特色だったのでした。
 直接オペラには関係ないエピソードとして、のだめのリサイタルの模様が最初に紹介されます。会場があのサントリー・ホールですから、すごいですね。ここで、いつもの突っ込みです。このホールのステージは、迫りで山台が作れるようになっています。もちろん、これはオーケストラなど大人数のアンサンブルの時に使われるもので、今回のようにステージにピアノ1台しかないようなときには、まず使われることはありません。そのピアノ、15ページでは確かにスタインウェイだったのに、それからたった2ページで別のピアノに変わってしまっています。つまり、このピアノの絵は、本編の20巻21巻で使ったのと同じ、限りなくスタインウェイに近いのだけれど、フレームの鉄骨が1本足らないという素材なのですよね。さっきのモノスタトスも、54ページと135ページは全く同じ、このコピペという最先端技術は、いまやマンガを書く上では欠かせません。
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by jurassic_oyaji | 2010-12-31 21:21 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Requiem
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Edith Mathis(Sop), Julia Hamari(Alt)
Wieslaw Ochman(Ten), Karl Ridderbusch(Bas)
Karl Böhm/
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
DG/UCGG-9003(single layer SACD)




モーツァルトの「レクイエム」に関しては、なんせこのサイトですから新録音は殆どご紹介してきていました。もっとも、出来ることならジュスマイヤー版ではない補筆稿で演奏されているものを重点的に聴きたいな、という偏りがあるのは致し方ないことです。そんなわけで、「名盤」との誉れ高いカール・ベームの演奏などは、紹介はおろか、演奏自体すらも今まで一度も聴いたことがなかったというありさまでした。そんなことではいけないと、話題の「SHM仕様のシングル・レイヤーSACD」で発売になったのを機に、まっさらな心でベームの初体験です。愛してるよ!(それは「ジュテーム」)。
ベームのこの曲の録音は2種類ありますが、これは1956年のウィーン交響楽団とののモノラル盤(PHILIPS)ではなく、1971年にDGに録音されたステレオ盤の方です。オーケストラはウィーン・フィル、このコンビが確固とした名声を誇っていた頃のものですね。ソリストも一流ぞろいです。
しかし、いくら「名盤」とはいえ、アナログの磁気テープの経年変化は避けることはできません。それを忠実にトランスファーしたDSDマスターでは、曲が始まるや否や、ファゴットソロの部分での見事なドロップアウトまでも、生々しく聴かせてくれていました。さらに、タイム・コードで00:15付近では、明らかにノイズと思われる「シャッ」という音が聴こえます。こういう昔の録音の場合、たいてい「マスターテープに起因する雑音があります」みたいないいわけが記載されているものですが、このSHM-SACDにはなぜかこのお決まりのコメントがありません。そんな時に限ってこんなはっきりした「雑音」が見つかってしまうのですから、皮肉なものです。
しかし、さすがに限りなくアナログ録音に近い音をデジタルでよみがえらせたこのフォーマットですから、ウィーン・フィルの弦楽器の音はとても伸びやかでソフトな響きを味わうことが出来ます。録音会場であるウィーンのムジークフェラインザールの豊かなアコースティックスと相まって、まるで包み込まれるような暖かなサウンドが響き渡っています。合唱も、かなりの大人数ですのでちょっと歪みっぽいところもありますが、逆に「群」としての存在感が、強く伝わってくるものになっているのではないでしょうか。しかし、今回の国内盤で、初めてこの合唱団が「ウィーン国立歌劇場合唱連盟」と表記されているのを見て唖然としてしまいました。「Vereinigung」を最初に「連盟」と訳してしまった人がいたのですね。その間違いを誰も正そうとせず、ひたすら前の資料のコピペに徹した結果、まるでウィーン中のオペラハウスの合唱団員がすべて集まってしまったような「邦題」が定着してしまったのでしょう。
ベームの演奏は、さすが「巨匠」というべき、なんとも格調高いものでした。信じられないほどの遅いテンポ設定で繰り出される音楽は、「深い魂のほとばしり」、とか、「果てしない慟哭の表現」とか、「評論家」が好んで用いそうなフレーズによっていとも容易に「言葉」にできそうなものでした。しかし、そんな「精神性」にはいつだって胡散臭さを感じている人にとっては、これほどつまらない演奏もないのではないでしょうか。少なくとも、最近の演奏家たちによってもたらされた、新鮮なモーツァルト像を享受している人たちは、こんな演奏には全く価値を認めることはないはずです。先ほどの「合唱連盟」が、異様なテンションで常に上ずったピッチで叫び続けているものは、ワーグナーあたりでは確かな存在感を持てるのかもしれませんが、少なくともモーツァルトには、いや、本質的にはベートーヴェンでさえ、今となっては受け入れるにはかなりの忍耐を必要とするものとなっているのです。
そう、このベームの「レクイエム」を最後まで聴きとおすだけの「忍耐」は、まっとうな審美眼を持っている人にとっては拷問に近いものなのです。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH
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by jurassic_oyaji | 2010-12-30 21:54 | 合唱 | Comments(2)
Works for Flute and Piano in 20th Century
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Mathieu Dufour(Fl)
Pascal Rogé(Pf)
CRYSTON/OVCC-00082




シカゴ交響楽団の首席フルート奏者マチュー・デフォーは、一時期は西海岸のロスアンジェルス・フィルの首席奏者も掛け持ちするという信じられないほどのハードな活躍ぶりを見せていた、まさに現在最も脂ののっている若手フルーティストです。いや、実際はロス・フィルに移籍するつもりでご家族ともどもシカゴから引っ越しまでしたのですが、結局奥さんが新しい土地に馴染めずに、元の鞘に収まった、ということのようですね。ロスの試用期間中は、シカゴにも籍が残っていたため、「かけもち」のように見えていたようです。実際に、このハードなポストを同時に2つも務めることなどは不可能なのでした(アメリカのオケには、首席奏者は一人しかいません)。
そんな売れっ子の割にはソロのレコーディングが殆どなかったのが、ちょっと寂しいところでしたが、なんと日本で録音のセッションを持ってくれました。しかも共演がパスカル・ロジェというのですから、これはとことん魅力的。
録音が行われたのは、今年の6月27日から29日まで、しかし、場所が福井県というのには、ちょっと驚いてしまいました。別に福井でコンサートがあったわけでもなく、レコーディングのためだけにわざわざあんな(どんな?)ところまで行ってきたなんて。しかし、会場となった「ハーモニーホールふくい」の大ホールというのは、世界各地に名ホールを造ってきたあの永田音響設計の手になるシューボックスタイプの、いかにも音の良さそうなところなので、録音が売り物のこのレーベルとしては、何か期するものがあったのでしょうね。
ただ、そんなレーベルだから当然SACDだと思っていたら、ただのCDだったのには本当にがっかりです。いくらいいホールを使ったり、「DSD Recording」などという表記があったとしても、SACDでなければなんの意味もありません。
アルバムには、日本語で「20世紀作品集」というサブタイトルが付いています。それは、プーランク、ヴィドール、サンカン、デュティユー、マルタン、そしてドビュッシーといった、いわばフルート界の「名曲集」のことだったのですね。「20世紀」というのは真の意味でのモダン・フルートのための作品が数多く作られた時代、そこで生まれたのが、これらの「名曲」、それは現代のフルーティストのレパートリーとしては欠かせないものとなっています。もちろん、それが誰に向けられた「名曲」なのかという点は、ベザリーの時に言及してあります。あまりしつこいと給料が減らされるので(「減給」ね)この件はそのぐらいで。
そんな、ある意味なじみのある、というより、隅々まで知っている曲なのに、ここでのデュフォーの演奏が、「普通の」リサイタルなどで聴かれるものとはかなり異なったテイストを持っていることには、誰しも驚かされるはずです。それは、どんなフルーティストでも必ず心がけるであろう、常に楽器を存分に響かせて聴衆に自分の音楽を訴えよう、という姿勢がとても希薄なのですよ。いや、確かに、彼の演奏には技巧をふんだんに披露するという場面がないわけではありません。それどころか、そんなヴィルトゥオージティを、彼は誰よりも圧倒的に見せつけています。しかし、彼にとってはそれはごく当たり前のこと、それよりも、まるで自分自身にだけ聴かせているような、とてつもなく内省的なピアニシモをことのほか大切にしているように思えてしょうがないのですね。もしかしたら、彼の演奏は、聴衆よりも作品、あるいは作曲者に向けられたものなのかも知れません。そして、不思議なことに、そんな演奏には、聴衆はとても心を打たれるのです。
最後に置かれたドビュッシーの「シランクス」は、作品自体に派手な技巧のひけらかしがない分、そんなピアニシモがひときわ際立ちます。これは、今までのこの曲に対する概念を覆すほどの、とてつもない演奏です。

CD Artwork © Octavia Records Inc.
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by jurassic_oyaji | 2010-12-28 22:05 | フルート | Comments(0)
N響の「第9」
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 なぜか、朝ドラの中で脈絡もなく鳴りまくっている「第9」です。尺を合わせなけれならないために、属和音で次に続くように作ってある所でも強引に主和音で終わらせてしまっているのは、笑いを取りたいための年末サービスなのでしょうか。
 そんな「第9」シーズンまっ盛りの中、BSでN響の演奏をやっていましたね。別にN響だから見るなどということはこのところはなくなっていましたが、今年の指揮者がヘルムート・リリンクだというのでは、ぜひ見ておかなければなりません。この宗教音楽の大家は数々の宗教曲、合唱曲を演奏、録音していますが、ベートーヴェンの「第9」を演奏したものはまだ体験したことがないので、とても楽しみです。
 放送されたのは、12月22日に行われたコンサートの録画でしたが、まず、リリンクの指揮棒の持ち方を正面からのカメラの映像で見てみると、今まで後ろ姿しか見たことのなかった彼のコンサートでは気がつかなかったような、不思議なものであることが分かりました。ちょうど「お箸」を持つような感じで、指揮棒をつかんでいるのですね。
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 以前、茂木大輔さんに指揮をしていただいた時には、「リリンクの弟子だから、リリンクの指揮棒の持ち方を真似したのでは」と思っていたのですが、こうしてみると茂木さんは順手、リリンクは逆手と、全く逆の持ち方だったのですね。おそらく、こんな持ち方をしている人は、他にはいないのではないでしょうか。
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 そんな外見は全くどうでもいいことで、要は演奏がどうだったのか、ということですよね。これは、最近のリリンクのバッハの演奏などと同じように、ピリオド楽器系のアプローチが随所に見られる、スリリングなものでした。1楽章の出だし、ヴァイオリンの刻みがよくあるモヤモヤしたものではなく、一音一音はっきりと聴かせる、というあたりで、まずそんなことに気づかされます。しかし、N響の、特に金管あたりの団員は、どうもそういうことには無頓着なように見えるのは、気のせいでしょうか。先日のマーラーの2番でもとんでもない醜態をさらしていたこのセクションは、指揮者の意図をくむなどという高次元の作業は出来ないのかもしれませんね。
 もちろん、楽譜はベーレンライターを使っていました。数々のチェックポイントはほとんどこの版でしか聴けない音程やリズムだったのですが、一番違和感のある4楽章のホルンの不規則なシンコペーションは、普通の形に直していましたね。
 おもしろかったのは、ソリストが入ってくるタイミングです。普通は2楽章の終わりで入場、3楽章と4楽章はアタッカで繋げる、ということが多いのですが、リリンクは3楽章が終わったところでたっぷりとした休みを取り、その間にソリストや打楽器奏者を入場させていました。この終楽章だけ性格が違うのだ、という思いの表れなのかもしれません。
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 その時、打楽器奏者たちと一緒に入ってきたのが、ピッコロ担当の菅原さんでした。確かに、N響ではこのパートがアシを吹くことはありませんから、ここまで座っている必要はないわけです。その菅原さんが吹いていたのが、この、「GUO」のピッコロです。ここのフルートを菅原さんが吹いているのを見て、私も買ってしまったのですよね。ピッコロも出しているのは知っていましたが、実物を見るのは初めて。楽譜通りではなく、高い「B」や「H」をすべてオクターブ上で演奏していましたが、それがとても軽やかに聴こえてきましたね。これも欲しくなってしまいましたよ。
 ソリストたちが全く知らない人たちだったのですが、それぞれのソロ、ではなくあくまで4人のアンサンブルに徹していたのも、おそらくリリンクのコンセプトだったのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2010-12-27 23:55 | 禁断 | Comments(0)
VERDI/Requiem
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Margaret Price(Sop), Livia Budai(MS)
Giuseppe Giacomini(Ten), Robert Lloyd(Bas)
Jesús López-Cobos/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0048




このレーベルのジャケットにはいつも楽しませてもらっていますが、今回の「★さがし」はあまりにもベタだったので拍子抜けしてしまいました。もっと、挑戦意欲を掻き立てられるような高い難易度の仕掛けを施してもらいたいものです。こちらのように。
今回のライブは、新録音ではなくアーカイヴもの、1983年にBBCによって録音された放送音源です。きのうでしたね(それは「クリスマスイヴ」)。ほぼ同じ時期に録音されたやはりBBC音源のテンシュテットのブルックナーがあまりにもひどい音だったので、ちょっと心配だったのですが、とりあえず目立った破綻はないものだったので、一安心です。というより、最初のうちこそなんとも潤いに欠けたカサカサした音が耳ざわりだったものが、聴き進むうちに、演奏のあまりの素晴らしさにそんなことは全く気にならなくなってしまいました。
まず、素晴らしいのが4人のソリストたちです。この曲の場合、ソリストに求められるのは、まさにオペラティックな堂々とした声なのですが、それだけではなく、アンサンブルでもしっかり合わせられるキャラクターを持っていないことには、聴き手を充分に満足させることはできません。ソリストとしての力と同時に、他の人との相性も必要になってくるのですね。この間のムーティ盤でのフリットリがそんな意味でのミスキャスト、完璧な相性を持った4人を集めるのは結構難しいことなのです。
しかし、この録音の時のソリストたちは、完璧にその条件を満たしていました。まずはしょっぱなの「Kyrie」で、それまでの重苦しい雰囲気を一掃してくれたジァコミーニの伸びやかな声には、圧倒されてしまいます。そして、そのあとに続くバスのロイド、ソプラノのプライス、そしてメゾのブダイが、それぞれ全く同じ方向を向いた声を披露してくれた時、この演奏は間違いなく確かな感動を与えてくれるはずだと確信したのです。
そして、その期待は決して裏切られることはなく、この卓越したソリストたちの緊張感あふれる演奏は、最後の「Libera me」で、呻くような超低音で恐ろしいまでの迫力を見せてくれたプライスが歌い終わるまで続くことになるのです。
ロペス・コボスの指揮も、ゆったりとした流れの中で存分に歌手たちの演奏をサポートしています。その上で、オーケストラが作り出すグルーヴを的確にコントロールして、この上なく劇的な場面を表現しているのではないでしょうか。中でも、切れ目なく続く「Dies irae」の中のバラエティに富んだナンバーを、巧みにつなげていく時の場面転換は見事としか言いようがありません。一例として、ここでは、冒頭の「Dies irae」のパートが途中で何度か顔を出すのですが、その最初の部分、メゾのソロの「Liber scriptus」と、ソプラノ、メゾ、テノールの三重唱「Quid sum miser」の間に現れる場面などはどうでしょう。そこに行くまでの伏線として、合唱が執拗に「Dies irae」とつぶやく中を、徐々に盛り上がった音楽は、まるでバリー・ホワイトのようなストリングスに乗って(「愛のテーマ」は絶対にここをパクってます)「Dies irae」の後半を導き出します。そして、それが収まった後に待っているのは、とても美しいファゴット・ソロのオブリガートです。この流れを、ロペス・コボスはまるで映画のようにドラマティックに描き出しているのですよね。
合唱も、技術的にはイマイチの感はぬぐえないものの、要所要所ではなかなか熱いところを見せてくれています。「Sanctus」で二重合唱になるところでは、さらになにか一皮むけたような溌剌とした声があちこちから聴こえてくるというのも、ライブならの盛り上がりのなせる業なのでしょう。
せっかくですから、最後の拍手もしっかり収録して、観客の盛り上がりを確認させてもらいたかったところです。ちょっと早目のカット・アウトが、いかにも不自然。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd
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by jurassic_oyaji | 2010-12-25 22:48 | 合唱 | Comments(0)
GOODBYE YELLOW BRICK ROAD
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Elton John
MERCURY/UIGY-9052(single layer SACD)




SACDCDよりもはるかに良い音を聴かせてくれるのは、別にクラシックに限ったことではありません。ジャズやロックでもそれは同じこと、特にジャズの愛好家などには、未だにLPの音を大切に再生しようと日々努力しているマニアはたくさんいるほど、音にはうるさい人たちが揃っていますから、CDでは物足りない思いをしているはずです。でも、ロックの場合は、あくまで私見ですが、クラシックやジャズほど音にこだわる人はいないような気がします。細かい音にこだわるよりは、大きな音でガンガン鳴らして浸りきる、といった聴き方がメインなのではないでしょうか。
エルトン・ジョンが1973年に録音した2枚組のアルバム、「Goodbye Yellow Brick Road」が、ここで何度かご紹介した日本のユニバーサルからのシングル・レイヤー、SHM仕様というとてつもないハイスペックのSACDとしてリリースされることを聞いた時には、ですから、まあいい音にはなっているのだろうとは思いましたが、それほどの期待をしていたわけではありませんでした。単に、ロックの場合のSACDがどの程度のものなのか、あくまで参考程度に知るために買ってみた、というスタンスですね。昔持っていたLPも、当時好きだった人にあげてしまって、もう手元にはありませんから、改めて聴いてみるのもいいかな、と。
とりあえず、2007年にリリースされたコンピレーションCDMERCURY/172 6850)があったので、そこに4曲収録されていたこのアルバム内の曲と比較でもしてみましょうか。
ところが、その聴き比べの結果は驚くべきものでした。CDと今回のSACDの音は、まるで別物だったのです。どの曲でも、明らかに音の「格」が違うのですよ。SACDは、それぞれのパートの音、楽器もヴォーカルも輝きがワンクラス上にものになっていました。そして、音の質感がとてもリアルです。「Bennie and the Jets」では、最初にSEで拍手が入っていますが、CDではまるで雨の音のようにしか聞こえなかったものが、SACDでは、もっと重心の低い、しっかり一人一人の人間が手を叩いているもののように聞こえます。「Candle in the Wind」では、ピアノの音もヴォーカルもリアリティが増大、さらに、途中から入ってくるコーラスの存在感が、桁外れに大きくなっています。タイトルチューンの「Goodbye Yellow Brick Road」(「黄昏のレンガ路」という邦題は殆ど誤訳でしょう)では、今まではバックに入っていたストリングスは、当時の「ソリーナ」のようなキーボードで入れていたのだと思っていたものが、しっかり「生」のヴァイオリンに聞こえます。そもそも、ヴォーカルがダブルトラックだったことも、ここで初めて気が付いたぐらいですから、今まで聴いてきた音がいかにいい加減だったかが分かります。そして、「Saturday Night's Alright」のような、いかにも音なんかどうでも良さそうなロックンロールのナンバーが、一番違っていたのですから、びっくりです。ギターもドラムスもまるで3Dのように飛び出してくる感じ、音楽のノリさえ、別なものに感じられてしまいます。いやぁ、こんなのを聴いてしまうと、もう普通のCDにはもどれません。
ロックのろっくおん(録音)に対する偏見は、見事に吹っ飛んでしまいました。どのジャンルでも、エンジニアはしっかりとした仕事を残していたのですね。
しかし、これだけきちんとした音で聴いてみると、このアルバムには確かに存在していた暖かな肌触りが、最近の録音ではまるで感じられなくなっていることに気が付かされます。当時の2インチ幅のまるで昆布のような磁気テープを使って行われた16トラックのアナログ録音は、もしかしたら今のPro Toolsのハードディスク・レコーディングよりもはるかに情報量が多かったのかも知れませんね。なんせ、山下達郎も言っていましたが、同じデジタルでも、以前の例えばSONYPCM-3348のような、磁気テープを使ったマルチトラックとPro Toolsのマルチトラックとでは、ミックスした時の音の重なり方がまるで違うのだそうですからね。

SACD Artwork © Mercury Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-12-23 21:05 | ポップス | Comments(0)
BACH/Sonatas
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Ronald Moelker(Rec)
福田理子(Cem)
ALIUD/ACD HA 007-2(hybrid SACD)




我が家では、買ってはみたものの一度も聴く機会がなくほったらかしにされているCDが山積みになっています。一応新譜紹介という看板を掲げていますのでつい新しいものを中心に聴いてレビューを書いていると、いつの間にかそれらのものは山の下に埋もれてしまい、化石になるまで発見されることはなくなってしまいます。そんなことになってしまっては、せっかくこの世に生まれてきたCDがあまりにも不憫、たまには手をさしのべてかわいがってやらなければ。
そんな慈悲の心で「再発見」されたのが、このSACDです。気が付けば日本でリリースされてから2年以上経っていましたが、そんなことは問題ではありません。しかし、ケースの中にブックレットとともにSACDのキャンペーンのためのチラシが入っていたのには、さすがに時代を感じてしまいました。どんだけ、輸入に手間取っていたのでしょう。
ここで、オランダの中堅ブロックフレーテ奏者ロナルド・メルカーと共演しているのは、桐朋学園を卒業後、王立ハーグ音楽院に留学、主にフォルテピアノを勉強した日本人ピアニスト、福田理子(りこ)さんです。相方の楽器はりこだ(リコーダー)。
もちろん、ここで使っている楽器は、18世紀のフレンチをコピーしたヒストリカル・チェンバロです。そう、SACDであることを売り物にしていたこのアルバムで、何よりも聴いてみたいと思ったのが、そのチェンバロの音なのでした。さまざまなSACDを聴いてきた中で、このフォーマットが最も得意としているのはガンガン鳴り響く大きな音ではなく、真の繊細さを要求される小さな音なのではないか、という気がしてきたものですから、チェンバロなどはうってつけなのではないか、と。CDなどでは、間違いなくヒストリカルを使っているはずなのに、まるでモダン・チェンバロのような鋭利な音が聞こえてきた、という体験は、何度も味わっていましたから。
そんな好奇心は、期待以上の成果をもたらしてくれたようです。スピーカーから聞こえてきたチェンバロの音は、何度も生で接したことのあるヒストリカル・チェンバロそのものの音だったのです。プレクトラムで弾かれた弦の響きは、なにか心の奥をくすぐるようなふわふわした浮遊感を持っています。それでいて音の芯はくっきりと聴き取れるという、そうですね、まるで細い竹串に刺したマシュマロのようなものでした(って、何という貧しい比喩なのでしょう!)。それは、このまま何時間でも聴いていたくなるような魅力をたたえたものだったのです。
演奏されているのは、バッハのフルート・ソナタが2曲と、ヴァイオリン・ソナタが2曲です。いずれもチェンバロ・パートは通奏低音ではなくオブリガート、つまり右手が独奏楽器との対話を産むというトリオ・ソナタのスタイルで作られているものです。もちろん、バッハのことですから、指定された以外の独奏楽器で演奏することには何の問題もありません。聴き慣れたロ短調(BWV1030)とイ長調(BWV1032)のフルート・ソナタからは、横笛で演奏される時とはまた違った、リコーダー特有の音程感によるはかなさが味わえます。その分、チェンバロとのバランスはまさに理想的、ある時にはリコーダーがチェンバロのオブリガートとして聞こえることもあり、そのスリリングな掛け合いの妙が満喫できます。ちなみに、イ長調の最初の楽章の欠損部分は、デュールによる新全集版を使っています。
ヴァイオリン・ソナタの場合は、音域の関係でしょうか、全音、あるいは半音高く移調されています。有名な「シチリアーノ」を持つハ短調(→ニ短調)BWV1017はもちろん、第2楽章のかわいらしさにバッハの無邪気な一面を見る思いのホ長調(→ヘ長調)BWV1016が、とても心に残ります。

SACD Artwork © Skarster Music Investment
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by jurassic_oyaji | 2010-12-21 23:48 | フルート | Comments(0)
BACH/Orgelwerke
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Zsigmond Szathmáry(Org)
JVC/JM-XR24002S(XRCD)




先日のパイヤールと一緒に購入した国内制作LPSHM-XRCD化アイテムです。もちろん半額キャンペーン対象商品でした。録音されたのは1978年、オランダ、ズヴォレ聖ミヒャエル教会のシュニットガー・オルガンという、名前を聞くだけでもつい反応してしまう有名な楽器を使って演奏されています。こちらの方はビクターが直に制作、エンジニアにはフリーで活躍していたテイエ・ファン・ギーストという、いろいろなレーベルで(たとえばNAXOSあたり。RCAではゴールウェイの録音を担当していたこともあります)お目にかかれる人を使っています。
LPでリリースされた時には「76cm/sec マスター・サウンド」という仰々しいシリーズの一環としてのお目見えでした。当時のプロ用のテープ・レコーダーの標準速度は38cm/sec1/4インチ幅の磁気テープを2つのトラックに分け、それぞれ左右2チャンネルを振り分けた、いわゆる「ツートラサンパチ」という規格が、マニアがあこがれる最高のスペックだったのです。ちなみに、「アビー・ロード」のように、当時市販されていたオープンリールのソフトは、往復録音再生が出来る「4チャンネル」、速度は半分の19cm/secでした。ですから、この「76cm/sec」というのは、その最高の規格のさらに倍速、デジタル感覚ではサンプリング周波数を倍にするようなもので、とてつもない規格だったのですね。たぶん、今のPCMの最高スペック、24bit/192kHzをしのぐほどの音質だったに違いありません。
ですから、それを、場合によってはSACDよりも良い音が聴けるXRCDにトランスファーしたものは、マスターテープそのものには及ばないまでもLPCDよりは格段にクリアな音が体験できるはずです。楽しみですね。
ジグモンド・サットマリーという、ハンガリー出身の現代曲を得意としているオルガニストが演奏しているのは、まさに「名曲集」でした。「トッカータとフーガニ短調」、「パッサカリアとフーガハ短調」、「小フーガト短調」、「幻想曲とフーガト短調」、そして「シューブラー・コラール」から3曲と、恥かしくなってしまうほどのベタな「名曲」が並んでいます。まあ、音を楽しむことが主たる目的の企画だったのでしょうから、それは仕方がありません。
確かに、「トッカータ~」の最初のパイプの音は、とても澄み切ったものでした。さらに、休符の間に漂っている残響が、得も言われぬ美しさです。これはまぎれもなく、そんなハイスペックでなければなしえない素晴らしい音です。ところが、しだいにストップが増えてフル・オルガンになっていくと、音があまりにもピュア過ぎて、そこからは押し寄せるような迫力が全く感じられないことに気が付きます。そうなんですね。いかに録音機材が優秀であっても、オルガンのような巨大な楽器の全貌を伝えるには、エンジニアの経験とセンスが不可欠になってくるのですよ。このファン・ギーストという人が録音したものは数多く聴いていますが、傾向としては迫力ではなく繊細さで勝負しているようなところがあるのでは、という感想を抱いていました。そういうセンスの人のオルガンですから、やはりちょっと物足りないのは仕方がないのでしょうか。いーすと(いい人)なんでしょうがね。
そして、それに輪をかけて、演奏しているサットマリーの作り出す音楽が退屈なのですね。「トッカータ~」の「フーガ」に出てくるさまざまのストップを駆使して音色の変化を楽しめるところなども、いとも淡白ですし、「幻想曲~」では、やはりフーガでペダルによるテーマが出てくるところが、なんともスカスカのストップ選択なものですから、ちっとも「ファンタジー」が感じられません。
そんな、もしかしたらLPでは気づくことのなかったさまざまの欠点まで露呈してしまうのが、XRCDの底力なのだとしたら、これは恐ろしいことです。パイヤールではそれが良い方に作用していたのでしょうが、ここではそれがかえって災いとなってしまったようです。

XRCD Artwork © Victor Creative Media Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2010-12-19 23:26 | オルガン | Comments(0)
「オペラ座の怪人」日本語吹き替え版
 きのう地上波で「オペラ座の怪人」の日本語吹き替え版をやってましたね。これは、もちろん作曲者ロイド・ウェッバー自身のプロデュースで2004年に映画化された、ミュージカルの古典ですね。翌年公開されたものを劇場に見に行きましたし、DVDも買って、隅々まで味わった作品です。かなり満足できるものだったのですが、ただ、ファントムを歌った(カルロット以外は、すべて役者自身が歌っていました)ジェラルド・バトラーだけは、あまりにもお粗末な声でがっかりしてしまいましたね。
 それが、セリフだけでなく、歌もすべて日本語によって吹き替えたものが放送される、というニュースは、実はだいぶ前から「劇団四季」を通じて伝わってきました。そうなんですよ。私も何度も見に行ったこのミュージカルの日本語版のプロダクションに参加している人たちが、この吹き替えを行った、というニュースですね。劇団四季のキャストはそれぞれの演目で主役級は必ず2人か3人は用意されていますが、ここで選ばれた人たちは、まさにベストメンバーという布陣でした。なんせ、ファントムはあの高井治さんなのですからね。そして、クリスティーヌは沼尾みゆきさん、ラウルは佐野正幸さんという、すべて東京芸大出身という実力者たちです。佐野さんあたりはステージではファントムも演じていますからね。
 いやあ、これは堪能しました。つまり、映画を見ているというのではなく、自宅で劇団四季のステージを鑑賞している、といった感じなのですよね。実際、歌っているときには歌手たちの口と歌は全然合っていません。ですから、画面はあくまでも「イメージ」にすぎないもので、そこで演じられているものはまさに「劇団四季」そのものなのですよね。高井さんの歌は、いつ聴いても本当に素晴らしいものでした。
 ただ、こうやってじっくり「劇団四季」を味わっていると、このカンパニーの最大の欠点である「訳詞」の問題が、さらにクローズアップされてしまいます。ごていねいに画面には歌になるとしっかり字幕が出るものですから、そのひどい訳詞にはいやでも目が行ってしまいます。音楽の持つリズムと言葉のリズムが、見事に乖離しているのですね。もっと美しく音楽に乗るような日本語の歌詞をあてることは、音楽をよく知っている専門の作詞家だったら決して不可能ではないはずなのですが、なぜこの劇団はそれをしようとはしないのでしょうか。
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 まあ、世の中では専門の人でも(いや、専門のひとだからこそ)不思議な日本語を使っているものですから、仕方のないことなのかもしれませんがね。たとえば、これは、市内のデパートで見かけた、クリスマスケーキの予約の案内ですが、「完売ありがとうございました」という言い方は、ちょっとおかしいとは思いませんか?私は、2つの意味でおかしいと思います。まず、全部売り切ってご迷惑をおかけしているのですから、本来は「完売して申し訳ございません」と謝るべきもの。そして、「完売」したのは店側なのですから、お礼を言われる筋合いはなく、お客さんに対するお礼だったら、それは「買って」くれたことに対する感謝ですので「完買ありがとうございまいした」と言わなければいけないのではないでしょうか。ちょっと変な言葉ですが、「買春」という言葉があるぐらいですから、一向に構わないのでは。
 しかし、民放の映画放送というのは、日ごろWOWOWなどを見慣れていると、信じられないような無神経さでCMが入るのですね。しんみりしたラブシーンの後に、いきなり便器が登場したりするのですから、そのシュールさは許せる限界をはるかに超えています。そんなCMを全部カットしてみたら、2時間をちょっと切るぐらいの長さになってしまいました。元の映画は確か2時間半以上あったはずですから、相当のカットがあったのでしょうね。これも、いつもながらの無神経さです。
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by jurassic_oyaji | 2010-12-18 21:47 | 映画 | Comments(0)
PARADISI GLORIA 21
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Angelika Luz, Marlis Petersen(Sop)
Adrian Eröd(Bar)
Ulf Schirmer/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchner Rundfunkorchester
BR/900302




「天国の栄誉 21」というこのタイトルは、21世紀に活躍している作曲家に宗教音楽を委嘱し、それを演奏するというウルフ・シルマーとミュンヘン放送管弦楽団のプロジェクトの名前なのだそうです。もちろん、彼らの母体であるバイエルン放送が録音し、逐一放送しているのでしょうね。
このプロジェクト、2008年と2009年には、「マニフィカートと聖母マリア」というテーマが設けられていました。そのテーマに沿って新たに作られた4つの作品が、このCDに収められています。もちろん、すべて世界初演の時のライブ録音ですから、当然世界初録音ともなるものばかりです。宗教曲ですから声楽が加わるものもありますが、合唱を担当しているのが、バイエルン放送合唱団です。お馴染み、ピーター・ダイクストラが音楽監督を務めている団体ですが、ここで合唱指揮者は別の人(2人の名前がクレジットされています)、多忙なダイクストラくんの職務は、ここでは「現場」よりも「管理部門」なのでしょうか。
最初の作品は、オリオール・クルイセント Oriol Cruixentという1976年生まれのスペインの作曲家の「深い淵 Abismes」。一応「オーケストラだけで演奏される曲」ということにはなっているのですが、後半に男声合唱でグレゴリアンのようなものが歌われているので「合唱団」はいなくても「合唱」は聞こえてきます。そんなに上手ではないので、オケの団員が歌っているのかも知れませんね。詩篇でお馴染みのこのタイトルですから、そのあたりの聖歌が引用されているのでしょう。しかし、この曲が始まった時には、よもやそんな展開などにはなるまいと思えるほどのハードなものだったので、ちょっと期待したのですが、それは「深い淵=混沌」といういとも安直な連想を具現化するためだけの、単なる「技法」の引用だったのでしょう。そう、この世代の作曲家にとっては、クセナキスさえ「引用」の対象となってしまっているのです。
次は、もう少し上の世代、1952年生まれのゲルト・キュール Gerd Kührというオーストリアの作曲家の「マニフィカート」です。感染性胃腸炎が流行っていますが、下痢とキュウリの間に因果関係はありません。こちらは、あのハンス・ヴェルナー・ヘンツェに師事したというぐらいですから、12音音楽あたりの伝統的な「現代音楽」をしっかり引き継いでいるという、ある意味貴重な作風を未だに貫いている人のようです。ここには合唱の他にソプラノとバリトンのソロが加わります。テキストも、本来の「マニフィカート」のラテン語の歌詞の前後に、ドイツ語の別の歌詞が加えられています。ソプラノのソロにわざわざ「高いソプラノ」と指定してある通り、ここでのソリスト、ルツは殆ど高い音だけを出させられています。ただ、実際は「A」とか「H」のソプラノにとってはそれほど高いとは思えない音を、いかにも苦しげに絞り出しているのは、そのようなキャラクターが求められていたせいなのでしょうか。そんな、久しぶりに聴く「ハード」な作品は、この中では最も聴き応えのあるものでした。
そのキュールに師事したのが、1973年にポーランドに生まれたヨアンナ・ウォズニーJoanna Woznyです。彼女もまた、「伝統」をしっかり引き継いだ作風を持っているように思えます。ここで演奏されている「群島Archipel」というオーケストラ曲は、しかし、そのような技法を駆使した結果、「ハード」ではなく「メディテーション」の世界にたどり着いたという、ユニークなものになりました。表面的ではない、真の「瞑想」がそこにはあります。
最後は、1969年生まれ、ウィーン在住のやはり女性作曲家ヨハンナ・ドデラーJohanna Dodererの「サルヴェ・レジーナ」、これはまっとうに普通の歌詞が歌われますが、曲想も他の3人とは全く異なる「まっとう」なものでした。代理店によるこのCDのインフォに「最も宗教曲として心にしみるものでしょう」とある通り、いかにも素人受けしそうな作品です。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH.
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by jurassic_oyaji | 2010-12-17 20:40 | 現代音楽 | Comments(0)