おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
<   2011年 01月 ( 16 )   > この月の画像一覧
Kotringo/Picnic Album 2
c0039487_232555.jpg




コトリンゴ
AVEX/RZCM-46713



いつも車に乗る時には、民放FMを点けっぱなしにしています。NHKと違って、民放ではまずクラシックがかかることがないというのが、その最大の理由です。なにしろ、カーオーディオで聴くクラシックほど耐え難いものはありません。そもそも、車の中のような騒音だらけの中で、クラシックのピアニシモなどが聞こえるわけがありませんし、ヘタに熱中して聴いたりすると、運転がおろそかになってしまいますからね。いや、その前に眠気が襲ってきて、危険なことにもなりかねませんよ。
ですから、たとえ、もはやアーティストの宣伝媒体でしかなくなってしまっていたとしても、民放FMこそは聴き流すには充分の、まさにBGMとしての最高の役割を果たすものなのですよ。そして、本当にたまにですが、そこから貴重な情報を得ることも出来ますし。
この間も、そんなことがありました。ラジオから流れてきたのはとても懐かしい曲、どうやらペトゥラ・クラークが歌っていた往年のヒット曲「ダウンタウン」(「♪ダウンタウンへ繰り出そうおっ~」という山下達郎の曲ではなく、Aメロのフレーズの最後に「downtown」というレスポンスが繰り返され、大サビでも頭で「downtown」が連呼されるというあの曲)のように聴こえます。ただ、メロディや歌詞は聴き覚えのあるあの曲なのですが、リズムがなんだかとてもヘン、どこがビートの頭だか分からないようになっていました。よくよく聴いてみると、どうやら「5拍子」のビートに乗っているようですね。それが分かってしまうと、その曲がとても新鮮に感じられるようになりました。オリジナルは普通の8ビート、基本的に「4拍子」なのですから、全く違う曲のよう、それでいて原曲の雰囲気はしっかり伝わってくるというとても素敵なアレンジには、驚くばかり。
曲が終わったときのMCで、これを歌っていたのが、あのコトリンゴだということが分かって、さらにびっくりです。てっきり外国人だと思ってしまったぐらい、英語の発音があまりにネイティヴっぽかったものですからね。「リリースされたばかり」と聞いて、さっそくアルバムをゲットです。つまり、彼女の場合、常にこんな風にラジオからのインパクトで新しいアルバムに出会える、というパターンが定着しています。
それは、このところおおはやりの「カバー・アルバム」でした。これが「2」ということで、当然前に「1」が出ていたわけですが、それは日本人アーティストのカバー、そしてこれは外国人アーティストのカバーということになります。ラインナップは全部で8曲、期待にたがわず、さまざまなアイディアのアレンジと、独特の脱力系のヴォーカルで、存分に楽しむことが出来ました。
その中で、ビョークの「Hyperballad」あたりは、もはや「すごい!」としか言いようのないものでした。ビョークの歌の中にある「民族性」を一旦剥奪したうえで、さらなるアヴァン・ギャルドとしての属性を持たせるという作業、これは、オリジナルの持つ世界観を完全に覆すような、ある意味オリジナルを超えたアレンジと、演奏です。よーく味わってみたいもの。
そんな意味では、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーの「Kiss Me」などは、一見オリジナルに限りなく近い肌触りを維持していると思わせて、実はこの作品が持つさらなる可能性を広げて見せたという、油断のならない仕上がりです。間奏のピアノのかっこいいこと。ストーンズの「She's Like A Rainbow」だって、イントロをアコーディオンで演奏するというだけのことで、見事に独自の世界を作ってしまっています。やはり、コトリンゴの持つセンスは、並みのレベルではありません。
これは、アルバムとは言っても30分ちょっとしかない、「ミニアルバム」の範疇に入るものなのでしょう。しかし、その充実感は、収録曲だけ多い冗長な「アルバム」をはるかに超えるものでした。

CD Artwork ©c Avex Marketing Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-30 23:03 | ポップス | Comments(0)
てっぱん
 NHKの朝ドラ「てっぱん」は、もう半分以上放映が終わったのでしょうね。前作の「ゲゲゲの女房」に比べたら、はるかにお粗末なドラマなのですが、ある程度見続けてしまうと、脚本の質などは問題ではなくなって、ひたすら次の展開が気になってしまって見続けてしまう、という、ある種「中毒性」を、持っているのですね。
 でも今回はストーリーはもうどうしようもないのであきらめていますが、その代わりと言っては何ですが、食事のシーンがとてもリアリティがあるのが、気に入ってます。なんか、裏話のような番組をやっていて、このドラマの料理のスタッフを紹介していたのですが、その力の入れ方はハンパじゃないようですね。ですから、出演者も、「お芝居」ではなく本気になって食べているものですから、そのシーンは本当においしそうに見えます。
c0039487_2224676.jpg

 今日のエピソードも、そんな感じでした。というか、1回分の時間をあらかた使って、実際の食事をノーカットで収録していたように、私には見えました。コロッケが途中で急になくなったり、いつの間にかご飯が減っていた、などということはなかったようなのです(これは、4回繰り返して見て確認しましたよ)。ということは、その間は決してNGを出すことは許されないのでしょうね。どこかで止まってしまったら、また、最初に新しい食事を始めるところからやり直さなければならないのでしょうから。そんなことをしたら「帰れま10」になってしまいます。ですから、最後の方になったら、尺に収めるために無理して口いっぱいに頬張っているようにも見えましたよ。
 でも、音楽だけは、いくらハードルを下げて聴こうとしていても、そんな「よいところ」が全く見えてこないのですから、本当に困ったものです。最近のこの手の音楽にありがちな、ドラマに関係ないところで盛り上げようという「勘違い」は、ある意味仕方のないことなのかもしれませんが、そこで出てきた音楽のクオリティが著しく低いのですから、お話になりません。前にも書きましたが、サン・サーンスの「白鳥」を堂々とパクったりしていたら、笑うよりほかはありません。
 最近気がついたのですが、これはオープニング・テーマもインストなんですね。最近はずっとボーカル、しかも、ドラマの音楽担当ではない別のアーティストの歌、というパターンが多かったようなので、ちょっと珍しいことです。と思っていたら、今週、ついにボーカル・バージョンが登場しました。・・・と思ったのですが、それはオープニングと非常によく似たメロディでしたが、全く別の曲、それも、かなり有名な曲でした。と、そこまでは分かったのですが、確かに聴いたことはあるのですが、それが何だったかが、すぐには思い浮かばなかったのです。なんだか、とても場違いなところで、男の声で朗々と歌われていたような記憶はあるのですが。そんなシチュエーションがなんだったのか、必死に思いだそうとしたら、一つのシーンが浮かんできました。それは、ピーター・セラーズが主演したキューブリックの「博士の異常な愛情」のエンディングです。あそこで、世界が終わりを告げるシーンのバックに、確か流れていたような。
 しかし、Youtubeで聴いてみると、確かに雰囲気は似ていましたが、全く別の歌、しかも歌っているのは女性でしたね。また振り出しです。でも、しばらくすると、今度は間違いなくこれだ、というのが思い浮かびました。ビートルズの「ホワイト・アルバム」の最後の曲「Good Night」です。これは、分厚いオケをバックにリンゴが歌っているものです。確かに「朗々と」した、このアルバムの中では「場違い」なものでしたね。
 でも、なぜこんなところで既存の曲を使ったのか、ちょっと理解に苦しみます。確かに「第9」は使っていましたがね。それとも、「Good Night」と同じく、「白鳥」はパクりではなく、単なる「編曲」だったという意味が込められているのでしょうか。いずれにしても、情けない音楽家です。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-29 22:24 | 禁断 | Comments(0)
BRUCKNER/Symphonies Nos. 6 & 8 in Full Score
c0039487_21314434.jpg







Dover
ISBN978-0-486-47231-7




ブルックナーの交響曲第8番の楽譜には、4種類のバージョンが存在しています。まずは最初に作った「第1稿」(1887年、出版されたのは1972年)。そして、ブルックナーお約束の改訂の結果、「第1稿」の3年後、1890年に出来上がったものが「第2稿」ですが、1892年に出版された時には弟子のヨーゼフ・シャルクによって少し手が入れられていました。これが「第2稿シャルク版」です。もちろん、今ではこのような改竄された楽譜を使う指揮者はおらず、戦前の「ハース版」(1939年)や、戦後の「ノヴァーク版」(1955年)が一般的に用いられています。この2つのバージョンは、ともに「原典版」としてきちんと校訂されたものなのですが、校訂者の趣味によって、その中身はかなり異なっています。特に、第3楽章と第4楽章は小節数まで違っています。これは、ハースが、ブルックナーが「第2稿」を作る際にカットした部分を、みずからの裁量で復活させているためです。ノヴァークは、あくまで作曲家の意志を尊重した、と。
ところで、この曲のポケット・スコアは、「ノヴァーク版」は日本の出版社からリプリント版が出ていますから、普通に購入することが出来るのですが、「ハース版」はオリジナルのものはとっくの昔に絶版になっていますから、唯一市場にある「海賊版」を購入するしか道がないのですね。それは、すり減った版下を用いた粗悪極まりない印刷のものが5000円以上もするというべらぼうな商品だというのに。
そんな時に、Doverという出版社から、新しくこの8番の楽譜が出版されました。それは去年の10月のこと、まさに「新譜」ですね。これは8番だけではなく6番とカップリング、それでいて価格は2000円ちょっとという、リーズナブルな商品です。実は、この出版社からブルックナーの交響曲が出たのはこれが2冊目、以前は4番と7番の組み合わせでした。そして、何より嬉しかったのは、その元となった楽譜が「ハース版」だったことです。もうパブリック・ドメインとなっている楽譜を安く販売する、というのがこの会社のポリシーですので、こんな、今まで手に入りにくかったものが逆に簡単に、しかも安く買えることになったのですね。
ですから、今回出た6番と8番も、当然「ハース版」だと思うじゃないですか。いや、現にDover自体も、「ハース版で出ます」という内容で予約を取っていた、というのですね。Doverのサイトでは、なぜか6番だけですが、印刷見本がありましたが、それも非常にきれいな版下が使われているようでした。
ですから、なにもためらうことなく、この新しい楽譜をAmazonで購入しました。しかし、届いたものを見てびっくりです。6番こそ見本通りのきれいな印刷でしたが、8番の方はなんともひどい、例えばFAXで送ったものを何度もコピーを繰り返したようなものだったのです。五線は波打ってますし、音符や活字はすり減っていますよ。
こんなガタガタの印刷の楽譜、なんだか前にも見たことがあったような気がしました。それは、あのIMSLPという、楽譜が自由にダウンロードできるサイトで提供される楽譜です。このサイトにはこのブルックナーの8番のスコアもありました。それが、なんとこのDoverの楽譜そのままだったのですよ。かすれ具合やゆがみ具合が、どこを取ってみても一致しているのです。このサイトの説明によると、これは1892年の楽譜、つまり「シャルク版」に由来するものなのだそうですが、もちろんその特徴(第4楽章が4小節分カット)も全く一致しています。
アメリカイギリスAmazonに寄せられたコメントを読んでみると、てっきり「ハース版」だと思ってこれを買ってしまった人が怒り狂っていました。「こんなものは、買うな!」と。ほんと、これはほとんど詐欺ですよね。せめてサンプルに8番の見本でもあればよかったのでしょうがね(だから謀反がおこるんです)。

Score Artwork © Dover Publications Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-28 21:33 | 書籍 | Comments(0)
MOZART/Requiem
c0039487_20381563.jpg
Leontyn Price(Sop), Hilde Rössel-Majdan(Alt)
Fritz Wunderlich(Ten), Walter Berry, Eberhard Waechter(Bas)
Herbert von Karajan/
Wiener Singferein
Wiener Philharmoniker
ARCHIPEL/ARPCD 0511




カラヤンが演奏したモーツァルトの「レクイエム」は、DGから公式にリリースされたものが3種類あります。ベルリン・フィルと1961年と1975年、ウィーン・フィルと1986年にそれぞれ録音されたものです。今回のアイテムは、そのいずれでもない、1960年のザルツブルク音楽祭でのウィーン・フィルとの録音です。猿も酔っぱらうんですね(それは「サルツブレル」)。おそらくこれは放送用かなにかの、得体の知れない音源なのでしょうから、かなりひどい録音、もちろんモノラルです。今までに何度も「海賊盤」専門のレーベルから出ていましたが、ごく最近、「新譜」として、聞いたこともないレーベルから発売されました。ただし、ここではカップリングとして、ここでソロを歌っているジャケ写のプライスが、同じ年のザルツブルク音楽祭で歌ったドンナ・アンナのアリアが収録されています。いや、それは中身を見て初めて分かったことで、外側を見ただけでは「レクイエム」しか書かれておらず、しかも演奏時間が70分以上だというので、ちょっとびっくりしてしまいましたよ。あのベームでさえ64分ぐらいだったのに、カラヤンがそれより遅いテンポだったなんて。本当は、「おまけ」を含んだ時間だったんですね。
この年のザルツブルク音楽祭は、今ではこの音楽祭の象徴ともなっている祝祭大劇場が完成したという特別なものでした。そのこけら落としとして上演されたシュヴァルツコプフ主演の「ばらの騎士」は、映像として残っています。その合間に行われたコンサートで演奏されたのが、この「レクイエム」でした。コンサートの後半には、ブルックナーの「テ・デウム」が演奏されています。ちなみに、「ドン・ジョヴァンニ」は、別の小さな劇場で上演されました。
「おまけ」以外にも、このCDには今までとは異なる部分があります。今までリリースされたものには、バスのソリストが「ワルター・ベリー」となっていたのですが、ここではベリーとともに「エーベルハルト・ヴェヒター」の名前が印刷されています。しかも、ブックレットにはそのヴェヒターの写真が掲載されているのですよ。この曲でバス歌手は一人しか必要ありませんから、ベリーとヴェヒターが交代で歌っているのでしょうか。しかし、どう聴いてみてもバスは同じ人のようにしか思えませんし、そもそも素人のおさらい会ではないのですから、途中で人が代わることなどはあり得ません。他の録音でこの二人の声を聴いてみると、どうやらここで歌っているのはヴェヒターのような気がするのですが、どうでしょう。ベリーはもう少し軽めの響きなのでは、とは思えませんか?つまり、今までずっと表記されていたソリストは、実は間違ったものだったのでは、とかね。いくら海賊盤でも、歌ってもいない人の写真を載せたりはしないでしょうし。
それはともかく、ひどい音からでも、演奏自体はしっかり伝わってきます。カラヤンの資質である、流れるような音楽は、ここからも聴き取ることができます。「Kyrie」の二重フーガなどは、あまりにも流麗すぎてちょっと物足りないような気になってしまいます。「Rex tremendae」の付点音符のフレーズも、あまりに滑らかすぎて切迫感が感じられません。面白いのは、「Tuba mirum」のトロンボーンのオブリガートを、2人一緒に吹かせていることです。とても難しいソロなので、奏者、聴衆ともに緊張を強いられるところですが、こんな配慮でいとも安全で穏やかな演奏が生まれました。
ただ、そんなカラヤンの思いを受け取るには、この合唱のスキルはあまりにもお粗末でした。例えばその「Rex tremendae」の後半の「Salva me」というとてもソフトな表現が要求されているところでも、ガサガサの音色と怪しげな音程で、全く指揮者に応えられていないのですからね。
でも、その分、ソリストたちは存分に堪能させてもらいました。なんたって、テノールがヴンダーリッヒですからね。

CD Artwork © Archipel Ltd.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-26 20:39 | 合唱 | Comments(0)
KOZLOVSKY/Requiem Mass
c0039487_2103962.jpg

Soloists
Vladimir Yesipov/
State Moscow Choir, Moscow Choir of Teachers
USSR Ministry of Culture Symphony Orchestra
MELODIYA/MEL CD 10 01744




ロシアの作曲家とされているオシプ・コズロフスキーという人は、正確にはロシアではなくポーランドで、モーツァルトが生まれた1年後、1757年に生を受けました。ワルシャワで音楽教育を受けた後、兵士として露土戦争に参加するのですが、そこであのポチョムキンに才能を認められ、晴れてサンクトペテルブルクでエカテリーナ二世の宮廷音楽家となります。彼の作品は、存命時から大きな評価を受け、広く演奏されたり出版されたりしたそうです。なにしろ、彼が作った「Let the Thunder of Victory Sound」という勇壮なポロネーズは、非公式ですがロシアで最初の「国歌」として、1791年から1833年の間に用いられたというのですからね。
この「レクイエム」は、1795年の「第3次ポーランド分割」によって消滅した「ポーランド」の最後の国王であり、晩年はサンクトペテルブルクに幽閉されていたスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの葬儀のために1798年に作られました。国王が亡くなったのが2月12日ですが、この曲がサンクトペテルブルクのカトリックの教会で演奏されたのが2月25日といいますから、かなり早い仕事ぶりだったのですね。あるいは、この日のためにひそかに作っておいたのでしょうか。
曲は、当時の「西欧」の様式をそのまま取り入れた、洗練されたフォルムを持ったものでした。ただ、通常の典礼文による音楽の後には、おそらく実際に棺を運ぶ時に用いられたのでしょう、「葬送行進曲」が置かれており、そのあとには「Salva Regina」が演奏されています。
しかし、全く根拠のないことなのですが、もしかしたら作曲者はその7年前に遠くウィーンで作られた曲を聴いていたのではないかと思わせられるほど、この作品と、あのモーツァルトの作品との間には多くの類似点を見出すことができます。まあ、それは単に、モーツァルトにしてもこのコズロフスキーにしても、この時代の様式を大きく踏み出してはいない、ということのあらわれなのかも知れませんが、前半の部分などはことごとく「似てる」と感じられるのには、ちょっと気になってしまいます。
まず、最初の「Requiem」の、拍子の頭のバスに続いてヴァイオリンが裏拍を入れる、というアイディアに、ちょっとドキッとさせられます。まあ、あまりにモーツァルトに親近感があるために、なんでも「似てる」と感じられるだけなのかも知れませんが。続く「Dies irae」の切迫した楽想も、「似てない」と言いきることは困難です。ここでは銅鑼まで入ってさらに大げさに盛り上げますから、それなりの「個性」はあるのでしょうが。しかし、次の「Tuba mirum」では、思わずのけぞってしまいました。金管のアンサンブルで演奏されるイントロの最初の4つの音が、モーツァルトでのトロンボーンのイントロと全く同じだったのですよ。正確には3つ目の音は1オクターブ下になっていますが、キーも変ホ長調で、モーツァルトの変ロ長調とは無関係ではありません。でも、言ってみれば、このテーマはラッパによる分散和音のファンファーレですから、「偶然」似ることはそんなに珍しいことではないのかも知れませんがね。
そんな具合に心地よく進んでいくこの「レクイエム」、たとえばメゾ・ソプラノのソロで歌われる「Benedictus」などは、本当に心を洗われるような美しい音楽です。そこからは、「西欧」は見えても「ロシア」の姿は決して浮かんではこないはずです。
これはもちろん新録音ではなく、1988年の「ソ連」時代に録音されたものが新しくCDになったものです。それんにしても、こんなキャッチーで、ある意味センスの良い曲を、この頃の演奏家は、なんとどん臭く演奏していることでしょう。「西欧」の曲を、無理やり「ロシア」風に捻じ曲げた恣意さえ感じられる、これはそんな時代の音楽のありようを、記録に残したものだったのかもしれません。

CD Artwork © Melodiya
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-24 21:02 | 合唱 | Comments(0)
HOSOKAWA/Flute Music
c0039487_20271229.jpg


Kolbeinn Bjarnason(Fl)
Snorri Sigfus Birgisson/
Caput Ensemble
NAXOS/8.572479




例の「日本作曲家選輯」というシリーズの中の1枚です。先々週ご紹介した「3年ぶりにリリース」などと大げさに煽っていたアイテムとは対照的に、いともさりげなく通販の新譜にあったので、ちょっと不思議な気はしたのですが買ってみました。そうしたら、ブックレットがえらく貧弱で、英語のテキストしかありません。品番の最後に付く、日本制作の意味を持つ「J」の文字もありませんでしたし。どうやらこのシリーズ、すべてが日本で企画されたものというわけではないようですね。そういえば、武満徹の作品集の中にも、そんな感じのものがありましたね。
武満同様、世界的に評価されている作曲家だからこそ、細川俊夫の作品集も、そんなインターナショナルな扱いを受けられるのでしょう。ここでは、なんとアイスランドのフルーティストとアンサンブルによって、彼のフルートのための作品が満喫できます。フルートのビャルナソンという人は、1958年生まれの中堅、しかし、その経歴の中で「ニューヨークや東京で尺八を学ぶ」という部分に注目させられます。
ベルリンでユン・イサンに師事した細川俊夫の作風は、あくまで真摯に音に向き合うという、ちょっと近づきがたい厳しい面を持ったものです。それは、決して心地よいメロディやハーモニーを提供しようとはしない、ある意味意志の強さが感じられるものです。そんな音楽をフルートに託した作品、ここではフルート1本のものから、しだいに編成が大きくなっていくという構成をとって、さまざまな様相の体験を迫ります。
1曲目の「垂直の歌」と2曲目の「線」は、フルートソロで演奏されます。いずれも、ノーマルな奏法よりも特殊奏法の方が高い割合を示すという、いわば「アブノーマル」な響きに支配された作品です。しかし、そんな、たとえば息音だけを強調したり、同時に別の音程を出したりという奏法は、日本人にとってはそれほど違和感のあるものではありません。そう、それは、尺八などでは普通の表現として扱われているものなのですね。ですから、ここで演奏者の「尺八を学んだ」という経歴が役に立ってきます。おそらく、作曲者が思い描いたイメージとかなり近いところで、この演奏は成立していたのではないでしょうか。さらに、「線」というのは、日本の書道をイメージしたものなのだそうですが、そんな「トメ」や「ハネ」の感じも、より分かりやすい形で表現されているように感じられます。
次の「リート」は、ピアノとのデュオになります。アルバムの中では最も新しい2007年の作品ですが、ここでは、ピアノがもっぱら「アブノーマル」な役目を引き受けている中を、かなりリリカルなフルートが動き回る、といった趣でしょうか。
そして、さらに楽器が増えて、「断章II」という作品では、弦楽四重奏が相手です。ライナーの表記ではこの曲は普通のフルートを吹いているようになっていますが、掲載されている細川さん自身のコメント(英文)によれば、使用楽器はアルト・フルートとなっていますね。もちろん、聴こえてきたのもアルト・フルートの渋い音色でした。
そして、最後を締めくくるのが、「旅V」という、18人のアンサンブルをバックにした作品です。アンサンブルの中にもフルートが入っているため、同じ楽器同士の掛け合いのような場面も見られます。これも、ライナーの表記にはないのですが、ここでの目玉は普通のフルート、ピッコロ、そしてバス・フルートという3種の楽器を持ち替えて演奏していることです。特に、バス・フルートが登場する部分では、まさに「尺八」のようなハスキーな音色で迫ってきます。
おまけとして、「黒田節」がアルト・フルートで演奏されます。それは、なじみ深いメロディとは裏腹に、今までの曲想を裏切らない、厳しさと切なさが伴った編曲でした。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-22 20:28 | 現代音楽 | Comments(0)
An Evening with Leopold Stokowski
c0039487_20395645.jpg



Richard Egarr/
Brussels Philharmonic-The Orchestra of Flanders
GLOSSA/GCDSA 922209(hybrid SACD)




アンドルー・マンゼとの共演などで多くの録音を行ってきた鍵盤楽器奏者のリチャード・エガーですが、いつの間にか指揮者としての活動も忙しくなっていましたね。それも、音楽監督を務めるアカデミー・オブ・エインシェント・ミュージックのようなピリオド系のアンサンブルだけではなく、なんと、フルサイズのシンフォニー・オーケストラまで振っているのですから、素晴らしいですね。
今回のアルバムは、彼がベルギーのモダン・オケ、「フランドルのオーケストラ-ブリュッセル・フィル」と共演したものです。このオーケストラ、おそらく以前は「BRTフィル」というサンドウィッチのような名称(それは「BLT」)で、NAXOSなどに多くの録音を残していた団体と同じものなのでしょうが、何らかの変遷があって現在の名前になったようですね(本当のところは、実はよくわかりません)。
そんなオーケストラと作ったSACDは、タイトルにあるように、「レオポルド・ストコフスキとの夕べ」という、彼の今までのフィールドとは完璧にかけ離れた名前の音楽家がテーマになっているのですから、いったいなんだろうな、と思ってしまいませんか?ま、ストコフスキといえば、バッハの曲をオーケストラに編曲したりしていますから、関係なくもないのでしょうが、その仕事は昨今の「ピリオド」の成果とは全く無縁の、なんとも厚化粧の音楽を創り出したことなのですからね。ここで最初に聴くことが出来るのが、そんな代表曲、有名な「トッカータとフーガ」です。およそ、オリジナルのバッハの精神とはほど遠い、演奏効果だけを前面に押し出した編曲なのですが、実はエガーはそんなストコフスキの大ファンだ、というのですから、ちょっと意外ですね。
実は、聴いたことがある編曲はそれだけ、そのあとには、チェスティという、全く知らないイタリア・オペラの作曲家の作ったアリアを編曲したものが続きます。いとも甘~く歌い上げるというコンセプトなのでしょうが、そのためにやたらとポルタメントがかけられているのは、おそらく楽譜にそのような指定があるからなのでしょうね。
そして、今度はなんとエガー自身の編曲が登場です。どこまで才能にあふれているのでしょう。それがヘンデルの「水上の音楽」というのですから、いともマトモ、さすがに節度をわきまえた、しっかりしたアレンジです。しかし、ストコフスキがパレストリーナのモテットを編曲したもの(こんなものまで作っていたのですね)に続いて、もう1曲、エガーの編曲で、なんとオケゲムのモテットが、まるでさっきのパレストリーナのようなおどろおどろしいサウンドで聞こえてきた時、彼がいかにストコフスキに心酔していたかを知ることになるのです。それは、まるでストコフスキが乗り移ったようなアレンジでした。
最後に収録されているのが、チャイコフスキーの「スラブ行進曲」です。いかにストコフスキの十八番だったとはいえ、別に編曲が施されているわけでもないのに、なぜ?という疑問は、演奏を聴き終わる頃には氷解しているはずです。これは、ストコフスキが演奏したものの「完コピ」だったのですよ。手元に偶然、1972年に録音された、ストコフスキ自身の演奏がありました(シェエラザードのカップリング)ので聴き比べてみたら、同じようにパート間の掛け合いを煽ったり、クライマックスで大げさに見栄を切ったりと、表現のツボが全く同じなのですね。なんと、演奏時間までぴったり同じですし。
恐れ入りました。これは、エガーがストコフスキの音楽をどれだけ深いところで理解しているか、ということを、アルバム1枚を使い切って世の中に知らしめた、という代物だったのですね。
これで、いかにもSACDらしいナチュラルな音を追求した録音ではなく、それこそストコフスキ晩年の「フェイズ4」のようなケバい音だったら、彼の「なり切り」はさらに完璧なものになっていたことでしょう。

SACD Artwork © MusiContact GmbH
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-20 20:41 | オーケストラ | Comments(0)
Clémentine/Animentine-plus
c0039487_2352851.jpg




Clémentine
SONY/SICP-2965(dom.)




最近、テレビのCMで「天才バカボン」のテーマがよく聞こえてきますね。三浦友和と榮倉奈々が親子という設定、それぞれほっぺたに「バカボンのうずまき」をつけて、まったりしているという、ノンアルコール飲料のCM、そのバックで、いかにもアンニュイなボサ・ノヴァ風の「バカボン」が流れています。フランス語風に「ボン・ボン・バカボン」と歌っていますから、知らないで聴いたらフランス語の「bon」だと思うかも知れませんね。「ボン・ジュール」の「ボン」だと。「バカボン」にしても、昔越路吹雪が歌っていませんでした?「おいらバカボン」って。確か、「幸福を売る男」というシャンソンを日本語に訳して歌っていたものでしたよね。
いや、越路吹雪の方は、元の歌詞の「Je suis le vagabond」をそのまま「おいらヴァガボンド」と歌っていただけなのですがね。つまり、井上雄彦の「バガボンド」と同じ事、「さすらいもの」みたいな意味なのですよ。今でこそ、この言葉は有名になっていますが、越路吹雪の時代にはまだこのマンガはありませんでしたから、これは絶対「バカボン」にしか聞こえませんでした。
CMで「バカボン」を歌っていたのは、フランスのシンガー、クレモンティーヌでした。トーストにはこれですね(それは「レモンティー」)。実は、このCMとのタイアップなのでしょうか、去年の7月に、日本のアニメの主題歌をカバーした(もちろん、日本の企画でしょう)「アニメンティーヌ」というアルバムが出ていました。サブタイトルに「Bossa du Animé」とあるように、すべて彼女のハスキーな歌声を存分に生かしたボサ・ノヴァにアレンジされたものが収録されていました。これが、結構すごいセールスを記録したようなのですね。そこで、今年の3月には「2」もリリースされることが決まっているそうです。
これは、「plus」とあるように、「1」にボーナス・トラックを追加した期間限定、ということは、「2」までのつなぎのようなアイテムです(「プリュ」と読みたいところですが、メーカーでは「プラス」というありきたりの日本語表記)。ボーナス・トラックの目玉があの「ゲゲゲの鬼太郎」ですから、まだ「旬」のうちに売れるものは売ってしまおうという魂胆なのでしょう。これは「2」にはしっかり入るそうですから、本当はそれまで待っていた方が良いのでしょうがね。
この「鬼太郎」、なんたって、「紅白」でオリジナル・バージョンが披露されるというものすごい「ヒット」になってしまった曲ですね。これを作ったいずみたくは、まさか40年後にこんな晴れがましい扱いを受けるとは、夢にも思っていなかったことでしょうね。減和音と半音階を組み合わせただけの、いかにもおどろおどろしい感じを前面に打ち出した曲、彼にしてみれば、単なる「量産品」のひとつに過ぎなかったのでしょうから。
そんな歌に、フランス語の歌詞が付けられてボサ・ノヴァになったものは、紛れもないフレンチ・ポップスに仕上がっていました。鬼太郎くんは、もはやちゃんちゃんこに下駄ではなく、タキシードにエナメルの靴で登場してくれましたよ。
その他にここで聴けるのは「うる星やつら」、「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、「ドラえもん」など、世代を超えてテーマ曲とアニメのイメージが結び付いているものばかりです。しかし、それらは「鬼太郎」同様、ヘタをしたら元の曲が思い出せないほどに、見事なまでの変貌を遂げていました。これほどまでに作品としての存在感のない曲だったとは。したがって、当然のことながらここからはアニメを連想させられるような属性は、きれいさっぱり剥奪されています。そういえば、最近の新しい「アニソン」も、アニメを見ていないことにはなんということのないもののように感じられます。

CD Artwork © Sony Music Japan International Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-18 23:08 | ポップス | Comments(0)
VERDI/Requiem
c0039487_1131669.jpgHerva Nelli(Sop), Fedra Barbieri(MS)
Guseppe di Stefano(Ten), Cesare Siepi(Bas)
Arturo Toscanini/
Robert Shaw Chorale
NBC Symphony Orchestra
OPUS KURA/OPK 7040




ネットでオーパス蔵のバーゲンをやっていたので、聴いてみることにしました。この前のベームのモーツァルトがそうであったように、なんと言ってもヴェルディのレクイエムを語る上では欠かすことの出来ないトスカニーニの「名盤」ですくらね。彼のこの曲の録音の中でもベストとされる、1951年、カーネギー・ホールでのNBC交響楽団との演奏です。
レコード盤からの板起こしで定評のあるこのレーベルですが、ここで元になったのは通常のRCA盤ではなく、イギリスのHMVEMI)盤でした。この2つのレーベルは、同じ「ニッパー」のマークを使っていた事でも分かるように、元々は同じ会社で、当時でも原盤を供給し合えるような提携関係にあったのでしょうね。しかし、同じマスターテープでも「アメリカ盤」と「ヨーロッパ盤」とでは、かなり音が違っていたそうなのです。「蔵」では、より「音楽的」だということで、このHMV盤を使用したということです。そういうマニアの世界は、いつの時代にもあるものなのですね。
トスカニーニに関しては、特にマニアというわけではないので、彼の録音の全貌に関して語れるはずもありません。ただ、NBC響との録音に関しては、RCAによるセッション録音と、本来のこのオーケストラの設立目的であるNBCのラジオ番組のための録音があるそうなのです。このヴェルディは放送音源の方、したがって、マイクのセッティングなどはNBCのスタッフによるものなのですが、本番でのテイクとゲネプロのテイクを使って、後にRCAが編集したものが、このレコードのマスターとなっているそうです。今の「ライブ録音」のようなことを、当時でも行っていたのですね。
その録音は、前にXRCDで聴いたRCAの録音とは、やはり全く比べものにならないものでした。ただ、クオリティは低いものの、決して鑑賞に支障があるほどではなく、「こんなものだ」と割り切ってしまえば、そこからは充分にトスカニーニの音楽を感じ取ることが出来るものです。板起こしにしては、スクラッチ・ノイズなどは殆ど聞こえないのにも、ちょっと驚かされます。テープをつなげたところがはっきり分かってしまう雑な編集は、ご愛嬌。
この演奏では、ソリストたちが当時最も脂の乗り切った時期のものですので、それを聴くだけでも素晴らしい体験を味わえます。そのお披露目のような形で4人がそれぞれ現れる「Kyrie」では、その存在感が、こんな貧弱な録音を通してもはっきり伝わってきます。ディ・ステファノの凛とした押し出し、シエピの包容力、バルビエリの深さ、そしてネッリの華麗さと、どれをとっても最近の小粒になってしまった歌手からは味わえないものです。そして、ちょっと意外だったのですが、彼らが朗々と「自己紹介」をしているときに、トスカニーニはきっちりと彼らに合わせてオーケストラに「溜め」を作っているのですね。ベートーヴェンあたりでは、何でもかんでもインテンポで押し切る、という印象が強かっただけに、これは全くの予想外の出来事でした。もちろん、それだけ歌手の息遣いを反映させたヴェルディには、思わず引き込まれてしまうほどのとっておきの魅力が感じられてしまいます。トスカニーニって、こんなにチャーミングだったんですね。そして、その対極にあるのが「Dies irae」で見せているような全く妥協を許さない厳しさなのでしょう。この芸の幅、ベームなどとはそもそも格がちがっていたのですね。
木管楽器がかなり生々しく聴こえてくる独特のバランスによって、フルートがとてもしっかりしているのが分かります。調べてみると、この方はアーサー・ローラという人のようですね。NBC響の初代首席で、この録音当時はニューヨーク・フィルの首席だったジョン・ウンマーの音(バーンスタインの録音などで聴くことが出来ます)よりももっと芯のある、力のこもったフルートでした。

CD Artwork © Opus Kura
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-16 23:04 | 合唱 | Comments(0)
モーツァルト/レクイエム(レヴィン版)仙台初演
 モーツァルトの「レクイエム」のロバート・レヴィンによる修復稿の仙台初演のコンサートに行ってきました。それってなに?という方は、こちらをご覧になって、基本的な情報を収集してみてくださいね。私は、こんないろんな修復稿の「追っかけ」ですので、もちろんこの「レヴィン版」もCDでは何度も聴いていたのですが、生演奏で聴くのは、これが初めてです。
 これを演奏してくれたのは、仙台宗教音楽合唱団の皆さんでした。前回「ロ短調ミサ」を演奏した時にはあのヘルムート・リリンクが指揮をした団体ですね。そもそもこの「レヴィン版」を委嘱したのがそのリリンクだったというつながりと、団員の中に私と同じようにこの版に興味を持っている人がいて、その人の熱心な勧めもあって、今回取り上げることになったのだそうです。そして、その人というのが、サイトを通じての私の知り合い、今日のコンサートのプログラムにはその人が書いた解説が掲載されていましたが、その中でしっかり私と私のサイトについて述べておられましたね。つまり、このコンサートは、私にとってもなにがしかのつながりがある、というものだったのです。
 演奏は、とても素晴らしいものでした。指揮の佐々木正利さんは、鈍重とも思えるほどに真摯にこの曲に向き合っていましたが、その中でこのレヴィン版をあえて用いたことの必然性を、間違いなく聴いている人たちに伝えることに成功していたのではないでしょうか。ジュスマイヤ版との違いがはっきり分かる「Lacrimosa」の後半では、思わずこみあげるものがあるほどの、新鮮な驚きがありました。知っていたことでも、実際に目の前でそれが行われると、こんな風に高ぶりを感じるものなのですね。おそらく、何も知らないで聴きに来た人でも、何かしら感じるところはあったのではないでしょうか。
 合唱は、あまりの大人数にどうなる事かと思っていましたが、歌い始めると非常によく溶け合ったピュアなサウンドが心地よいものでした。特に男声パートが澄み切った音色で、安心して聴いていられましたよ(フライングはご愛嬌)。表現も、最初はおとなし目だったものが、曲が進むにつれて振幅が大きくなっていき、最後に向かってまさに指揮者と一体化した熱いものを作り上げていましたね。指揮者と合唱団との、とても暖かい信頼関係を見る思いでした。
 そして、ソリストの4人もそれぞれに素晴らしいものを聴かせてくれました。特にテノールの伸びやかさは印象的でした。さらに、アンサンブルになった時のまとまりが、素敵でした。ソプラノの音程が、ほんの少し甘かったのが惜しまれますが、大した疵ではありません。
 疵と言えば、こちらも素晴らしいオーケストラの中で、トロンボーンのソロはあまりにも痛い失態でしたね。でも、それを除けば、ナチュラル・トランペットを使うなど、ピリオド・アプローチに徹した山形交響楽団の健闘は、称賛に値するものでした。8-8-6-4-2という、かなり大きめの編成の弦楽器が、日ごろ飯森さんに鍛えられているモーツァルトを、見事にここでも披露してくれました。その渋いサウンドが、ピュアな合唱と一緒になって繰り出す響きは、極上のものでした。もちろん、バセット・ホルンの独特の音色も、しっかり堪能させてもらえました。ただ、「Agnus
Dei」の後半の高い音のソロの部分で、クラリネットに持ち替えていたように聴こえたのは、気のせいでしょうか。もしかしたら、レヴィンの楽譜ではバセット・ホルンの音域を超えていたのかもしれませんね。これは、あとで楽譜を確認してみましょう。
 強い口調の影アナで「写真撮影は禁止です」と言われていたにもかかわらず、ぜひ記録に残しておきたいと、演奏が終わった時にカメラを構えていました。ところが、最後の音が鳴りやんでも、誰も拍手をしないので、しばらくその場が凍りついてしまいました。そんな予想外の緊張感の中で手が震えて、こんなのしか撮れませんでしたよ。
c0039487_22532455.jpg

[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-01-15 22:53 | 禁断 | Comments(0)