おやぢの部屋2
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BACH/Sonatas, Trio Sonata
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Joshua Smith(Fl)
Jory Vinikour(Cem)
Ann Marie Morgan(Vc)
Allison Guest Edberg(Vn)
DELOS/DE 3408




クリーヴランド管弦楽団の首席フルート奏者、ジョシュア・スミスによるバッハのフルート・ソナタ、第2弾です。「第1弾」はこちらでしたね。その時はオブリガート・チェンバロとのソナタが集められていました。べつに苦い薬を飲むわけではありませんよ(それは「オブラート」)。今回は同じジョリー・ヴィニクールのチェンバロの他にアン・マリー・モーガンのチェロが加わって、通奏低音とのソナタが3曲、それに、さらにアリソン・ゲスト・エドバーグのヴァイオリンも入った「音楽の捧げもの」のトリオ・ソナタが演奏されています。
スミスの楽器は、前回同様ルーダル・カルテの木管なのでしょうね。ライナーの写真では、確かに木管に見える楽器の一部が写っていますし、何よりも音を聴けば、あの印象的な木管の響きですから、間違いないでしょう。ビブラート(オブラートじゃないですよ)も極力抑えられていますから、何も知らないで聴いたらトラヴェルソだと思ってしまうほどの、楽器と奏法でしたね。さらに、弦楽器も「バロック・ヴァイオリン」と「バロック・チェロ」というクレジットがありますから、たぶんピリオド楽器に近いものが使われているのでしょう。そんな楽器が集まったこのアルバムからはなんとも鄙びた風情が漂ってきています。ピッチはモダン・ピッチですが、やはりスミスの目指しているモダン・フルートを使った、バッハの時代の雰囲気の再生というコンセプトは、今回もしっかり貫かれているようでした。
演奏されている3曲のソナタは、それぞれに独特のキャラクターを持った作品です。中でも、ハ長調のソナタは、そもそもBWVではバッハ本人の作品ではないとされているものなのですが、ここでのスミスたちの演奏を聴くと、そんな、確かに「別な」キャラが、はっきりと伝わってきます。例えば、第1楽章の後半では、バスがドローンのように同じ音を伸ばしている間に、フルートはまるでカデンツァのような自由なパッセージを演奏しています。第2楽章で見られる軽やかな名人芸や、第3楽章の輝かしい装飾と相まって、そこからはほとんどイタリア風の明るいテイストさえ感じられはしないでしょうか。もちろん、それは大バッハの持つ資質とは微妙に異なっているものであることは、明らかです。
「真作」のホ短調とホ長調のソナタの間でも、このピリオド志向の強い楽器と演奏によると、モダン楽器ではあまり気がつくことのないキャラクターの違いがはっきり意識されることになります。特に、ホ長調の作品の中に見られるとびっきりの優雅さは、ひときわ印象的に伝わってきます。
そして、なんと言っても、聴き応えのあるのは全員が揃ったトリオ・ソナタでしょう。フリードリヒ大王が提供した、減7度の跳躍や半音進行などを含んだむちゃくちゃなテーマをもとに、バッハが職人的な技を込めて作り上げたこの傑作を、4人のメンバーはそれは楽しそうに演奏しているのですからね。そこには合奏の喜びがあふれているとともに、みんなが同じ方向を向いているというアンサンブルの基本が見事に反映されて、一つの「バンド」としてのグルーヴが感じられます。第2楽章のテーマの中に現れる付点音符のリズムを、後の細かい音符をほんのわずかだけ短くして不均等にするというのは、バロック音楽を演奏する時の一つのセオリーなのですが、そんなことが単に「当時の習慣」としてではなく、あたかも自発的にわき上がってきた「ノリ」であるかのように聴こえてくるのは、かなりスリリングな体験です。かと思うと、第3楽章でフルートとヴァイオリンがホモフォニックに進行するところでは、音色も音程も見事に溶け合っていて、まるでオルガンのように「一つの楽器」として聴こえるのですから、なにかほっとするような味わいです。
柔らかな音色に和まされるとともに、一本芯の通ったものが感じられる、油断の出来ないアルバムです。

CD Artwork © Delos Productions, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2011-02-28 20:01 | フルート | Comments(0)
SAINT-SAËNS/Music for Wind Instruments
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Joanna G'Froerer(Fl), Charles Hamann(Ob)
Christopher Millard(Fg), Kimball Syks(Cl)
Lawrense Vine(Hr), Stéphane Lemelin(Pf)
NAXOS/8.570964




以前ロドリーゴの「パストラル協奏曲」での演奏を聴いていたカナダのフルーティスト、ジョアンナ・グフレエールが参加している「カナダ・ナショナル・アーツセンター木管五重奏団」と、ピアノのステファーヌ・ルムランによる、サン・サーンスの室内楽を集めた楽しいアルバムです。なかなか聴く機会のないサン・サーンスの管楽器のための作品が、存分に味わえますよ。ちなみに、このフルーティストのファーストネームの表記は、2004年にリリースされたロドリーゴのCDの帯では正しく「ジョアンナ」となっていたのに、日本の代理店が替わった今回は「ヨハンナ」というあり得ない表記になってしまっています。これは、人名表記ではつとに悪名高い「NML」の表記に合わせたからなのでしょうが、いい加減にしてもらいたいものです。こんなことではいかんな
とは言っても、「ジョアンナ」のフルートがソロで聴ける曲は、この中には入ってはいません。サン・サーンスが最初からフルートのために作った曲は作品37の「ロマンス」ぐらいしかなく、他には編曲ものが少しあるだけなのですよ。まあ、他の管楽器とのアンサンブルで、ここは我慢して頂きましょう。
その代わりと言ってはなんですが、サン・サーンスは最晩年の1921年に、クラリネット、オーボエ、ファゴットのためにそれぞれ「ソナタ」を作っています。このアルバムのメインとなったその3曲は、それぞれに楽器のキャラクターを知り尽くした、まさに大作曲家の円熟の境地とも言える見事な作品です。もはや86歳を迎えようという老境でこれだけのものを作ってしまえば、もはやフルートのためのソナタを作るほどの余力はなかったのでしょうね。残念なことです。
クラリネット・ソナタは、4つの楽章から出来ています。第1楽章は6/8拍子に乗ったシチリアーノ風のしゃれたテーマで始まりますが、中間部では一転、翳りのある楽想に変わります。細かい分散和音が、いかにもクラリネット的。第2楽章はクラリネットのもう一つの側面である軽快さが際立ちます。第3楽章は、ピアノの低音の前奏に導かれて、ソロも低音で暗~いテーマを奏でます。まるで慟哭のような重苦しさから一転して、後半は高いレジスターで囁くように歌われます。この超ピアニシモは、まさにクラリネットの得意技ですね。そしてフィナーレは、超絶技巧満載のスケールやアルペジオが駆けめぐりますが、その中には時折繊細な歌が現れる、という小憎らしさです。
オーボエ・ソナタは3楽章編成、まず、最初の楽章の鄙びたコラール風のテーマは、まるで原初のオーボエを思わせるような素朴さをたたえています。第2楽章は、「アド・リビトゥム」という表記の牧歌的なレシタティーヴォに導かれて、付点音符による3拍子の宮廷舞曲が奏でられます。そして、最後の楽章はちょっとおどけたマーチ、あくまで粋なセンスが光ります。
ファゴット・ソナタは、3楽章とはなっていますが、最後の楽章が2つの部分に分かれているので、実質的には4楽章形式になるのでしょう。美しいカンタービレのゆっくりした楽章と、軽快な楽章とが交互に現れます。第2楽章が、まさにファゴットならではのおどけた軽快さを持って、楽しませてくれます。ただ、ここでの演奏家の資質なのでしょうか、せっかくのカンタービレがあまりにノーテンキに運ばれるのが、失笑ものですが。
フルートが加わるのは、初期の作品「フルート、クラリネット、ピアノのためのタランテラ」と、中期の「フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのデンマークとロシアの歌によるカプリス」です。ここではフルートはもっぱら、作品の中の華やかなキャラクターを託されているのでしょう。グフレエールには、ロドリーゴの時ほどのチャーミングさがなくなっているのが、少し気になります。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2011-02-26 19:43 | フルート | Comments(0)
指揮者の仕事術
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伊東乾著
光文社刊(光文社新書501)
ISBN978-4-334-03604-1



著者の伊東さんという方、初めて名前を知ったのですが、なんだかものすごい人のようですね。まず、出身大学が東大の大学院、しかも博士課程というのですからね。なおかつ、専攻が物理学ですって。それだけで充分研究者として生きていけるはずなのに、彼は敢えて作曲や指揮への道を目指すことになります。そして、今ではそんな音楽家への夢を叶えたあげくに、母校では、新たに設けられた「東京大学大学院情報学環・作曲=指揮・情報詩学研究室」の准教授に就任しているのですからね。いやいや、そんなことで驚いていてはいけません。彼はなんと、作曲では「出光音楽賞」、音楽以外の著作では「開高健ノンフィクション賞」などという、それぞれの分野では最高の権威とされているものまで受賞しているという、すごさなのですから、なんとも多才な方なのですね。奥さんは一人なのでしょうが(それは「多妻」)。
そんな伊東さんの、これは初めてとなる音楽をテーマにした本です。満を持して、というか、最も得意な分野のことを述べるのですから、書きたいことがあとからあとからわき出てくる、といった感じの、真に中身の濃い、我々にとっても読みどころ満載のものに仕上がっているのではないでしょうか。
まず、タイトルにもあるような、「指揮者とはどういうことをやっているのか」という点について、まさに現場の人間ならではの明快な説明が語られます。それは、ありがちな精神的なものではなく、あくまで「科学的」に納得できるような語り口ですから、面白いように理解できます。おそらく、プロ、アマを問わず、実際にオーケストラに参加している人間であれば、誰しも「うん、確かにそうだね」とうなずいてしまうはずです。その中で、あのブーレーズの指揮の姿をコンピューターで解析しているコーナーが、ひときわ興味を引きます。一見、淡々と振っているようでいて、実は非常に精密な、情報量の多い指揮であることがよく理解できます。
さらに、伊東さん自身の、指揮者としての修業時代の話が圧巻です。1990年に初めて札幌で行われた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」でバーンスタインが来日したときには、武満徹監修の雑誌の編集に携わっていた伊東さんは、彼の全てのリハーサルを見学したり、長時間の独占インタビューを行ったりしていたそうなのですね。その直後にバーンスタインは亡くなってしまうのですから、そのあたりの筆致はとてもドラマティック、本当にこんなことがあったのか、と思ってしまうほどです。
指揮者として必要なことが、テキストに関する理解だ、という流れで、突然ベートーヴェンの「第9」のテキストの、「真の意味」について語られている部分は、かなり衝撃的な内容です。明らかな誤訳がまかり通っているために、ベートーヴェンが真に訴えたいこととはかなりゆがめられた形で、特に日本では演奏されているというのですね。この主張には、かなりの説得力があります。一見ノーテンキなお祭り騒ぎの曲のように思えてしまいますが、実はこんな深遠な意味があったのですね。もちろん、この「伊東説」を支持するも無視するも、それは読者の自由です。
最後に、この「第9」を蘇演したワーグナーについて、熱く語られます。「トリスタン」のアナリーゼから、バイロイトの音響的な特徴まで、つぶさに述べる中から、「指揮者」の理想的な姿を浮き上がらせよう、という手法です。ワーグナーが嫌いな人でも、その「リーダーシップ」には、思わず納得させられてしまうことでしょう。
そんな「リーダーシップ」が、経営者にとっても重要なのだ、という、恐ろしくありきたりな「まとめ」さえなかったら、この本は安っぽいビジネス書に終わることなく、卓越した音楽書としての価値を持ったに違いありません。

Book Artwork © Kobunsya
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by jurassic_oyaji | 2011-02-24 21:38 | 書籍 | Comments(2)
チェリビダッケのブルックナー8番
 秋の定期で演奏することになっているブルックナーの8番について、いろいろ調べているところです。まず、その最も基本的な楽譜に関する事柄は、こちらにアップしてありました。もちろん、それは、団内の会報「かいほうげん」に掲載したもののコピーだったわけですね。それをお読みになった団員の方が、「こんな情報もあります。役立てて下さい」と言って教えてくれたのが、指揮者の高関健のツイッターです。彼が、ブルックナーの8番周辺の楽譜の問題についてつぶやいたものをひとまとめにしたサイトですね。高関さんといえば、このような楽譜に関するこだわりはかなりマニアックなところがあるのは知っていましたから、興味深く読ませて頂きましたよ。言ってみれば「答え合わせ」のような感じ、それぞれの稿、版の成り立ちについて、私が今までに知り得たことに間違いはなかったか、という確認の作業になるわけですね。たまに、ネットのいい加減な情報を真に受けてひどい目にあったりしますから、これは本当に役立つ情報でした。
 ところが、最後の方になって、私が全く知らなかったことが登場してきます。第2稿のノヴァーク版を使っているチェリビダッケが、第1楽章の5小節目と6小節目に入っているクラリネットを、ファゴットに変えている、というのですね。しかも、音まで違っているというのです。さっそく、1990年のミュンヘン・フィルとの東京ライブCDを入手して、確認してみました。いやあ、びっくりしましたね。高関さんも、これを初めて聴いたときにはぶったまげたと言っていましたが、その気持ちがよく分かります。もっとも、私の場合は、この演奏はNHKで何度も放送されて聴いていたのに、その頃は別に「8番」、いや、ブルックナーそのものをこんなにマニアックに聴いてはいませんでしたから、全くなにも感じなかったのが、最近になってやっとそんな境地になれた、というだけのことなのですがね。確かに、チェリビダッケは音を変えていました。楽譜では「G-G-D-D」という5度の上向音程なのですが、聞こえてきたのは「C-C-G-G」という、5度下に移調した音型だったのです。音も聴けます。こちらが、スクロヴァチェフスキの普通の演奏(クラリネットがよく聞こえます)、そしてこちらが、チェリビダッケの演奏です。
 楽譜で確認です。これが、ノヴァーク版のスコアの最初のページです。クラリネットは移調楽器ですから、B♭管で吹いているときには楽譜よりも全音低い音が出てきます。記譜は「A-E」でも、実音は「G-D」になるのですね。
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 一方、チェリビダッケがやっているのは、こうなります。
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 ここではファゴットのパートは「へ音譜表」に書かれていますから、これで「C-G」になります。ということは、どちらも音符が「第2間」と「第4間」にあって、その場所だけ見れば全く同じ譜面になっていますね(実は、下の楽譜も上の楽譜のクラリネットのパートをファゴットの部分に張り付けただけです)。
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 これは、第1稿のスコアです。ここではこのクラリネットは入っていません。改訂の時にブルックナーが新たに加えたのですね。その際には、第1稿の写筆稿の上に書きこんでいったそうなのですが、その時に1段間違えて、ファゴットの段に書くべき音符をクラリネットの段に書いてしまったのでは、というのが、高関さんがチェリビダッケの変更から導き出した結論です。こうすることによって、ソロの管楽器が低弦の「C」とヴァイオリンとホルンの「G」によって作られている「C-G」という「空虚5度」の中に入ることになって、整合性が取れますし、その先ffになって同じ形が繰り返されるところでも、トロンボーンがやはり「空虚5度」の中の音形を演奏していることとも呼応している、と、高関さんはつぶやいています。
 高関さんは、実際にこのファゴットによる「C-G」を、演奏会で実践しているそうです。末廣さんは、どのようにされるのでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2011-02-23 21:23 | 禁断 | Comments(1)
BACH/B Minor Mass
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Catherine Backhouse(Sop), Clint van der Linde(Alt)
Ben Johnson(Ten), Colin Campbell, Håkan Vramsmo(Bas)
Ralph Allwood/
Rudolfus Choir, Southern Sinfonia
SIGNUM/SIGCD218




最近、バッハの「ロ短調ミサ」の「新しい」楽譜の出版が相次いでいます。1つは前にもご紹介した、ジョシュア・リフキン校訂のブライトコプフ版。これは、2006年に刊行されていますので、すでにこれを用いた録音なども発表されていましたね。そして、もう一つ、ベーレンライターから昨年刊行された「新バッハ全集改訂版」です。半世紀以上にわたって続けられてきたこのバッハの「原典版」の出版事業はひとまず終了しましたが、その中にはいまいちその成果に問題があったものもあったようで、それらを再度校訂して、より完成度の高い「原典版」を出版しようというプロジェクトが、引き続きベーレンライターで始まったそうなのです。その第1弾として刊行されたのが「ロ短調」でした。なんせ、フリードリッヒ・スメントによる「原典版」が出版されたのが1954年ですから、当時に比べれば研究の精度は格段に上がっているでしょうし(今回は、X線を使って使われているインクを判別したのだとか)、何よりもリフキンなどの仕事によって「原典版」としての地位が危なくなっていることに危機感を抱いたのでしょうね。今回のウーヴェ・ヴォルフの校訂によって、その地位は守られた、というのが出版社の言い分です。
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でも、ごらんのように、スメント版もヴォルフ版も装丁が全く同じ、表紙を開いて初めて「改訂版」だと分かるというのは、ちょっと問題ですね。まだ店頭にはスメント版も残っているのでしょうから、間違って買ってしまう人が出てくるのでは、というのは老婆心でしょうか。
CDとして最も新しいものである2010年リリースの今回の「ロ短調」では、まだヴォルフ版は使われてはいないようでした。なぜか録音された日にちがどこを見ても書いてないのですが、普通に考えれば、録音された時にはまだこの楽譜は出版されていないはずですし。
演奏しているのは、ロドルフス・クワイアという、初めて聴くことになる団体です。なんでも、メンバーは16歳から25歳までに限られているそうで、それを過ぎると「卒業」してしまうのでしょうね。30人以上いる「普通の」合唱団ですから、リフキンのようにソロを歌ったりはしません。
オーケストラの「サザン・シンフォニア」は、以前リュッティさんざん聴いたときにはモダン楽器を演奏していましたが、ここではオリジナル楽器を使っています。両方とも弾ける人が集まっているのか、曲の時代によってメンバーを変えているのか、それは分かりません。ただ、この「ロ短調」でのオケの響きは、かなりモダンな感じを受けるものでした。フルートはもちろんトラヴェルソなのですが、密度の高い音質と、アグレッシブな演奏からは、この楽器の持つ「鄙びた」情感は殆ど感じられません。大活躍しているトランペットも、ナチュラル管にしてはあまりに輝きがありすぎるような気がします。
肝心の合唱ですが、予想していたとおり、「若い」というよりは「幼い」声だったのには、がっかりです。歌い方が、まるで日本の中学生のようにだらしないのですよね。まあ、ハーモニーはそこそこきちんと響かせているので、「ハモり」のセンスはいいのでしょうが、これがポリフォニーになると、たちまち馬脚をあらわしてしまいます。メリスマの歌い方がまるでダメ、これではバッハは歌えません。「Gloria」の最後、「Cum Sancto Spiritu」なんか惨めですよ。オケのスピードに全く付いていけないモタモタした歌い方をしていると思ったら、175小節のソプラノの入りのあたりで、ついに指揮者が全体のテンポを落としてしまいましたよ。これは別にライブでもなんでもなく、録り直しのきくセッション録音のはず、こんなものを商品にしていいと思っているのでしょうか。

CD Artwork © Signum Records
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by jurassic_oyaji | 2011-02-22 23:25 | 合唱 | Comments(0)
音楽で人は輝くー愛と対立のクラシック
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樋口裕一著
集英社刊(集英社新書
0577F
ISBN978-4-08-720577-0



クラシック音楽の「通」を自認する樋口さんの、最新作です。彼は、「通」が嵩じて、あのフランスのナントが発祥の地である「ラ・フォル・ジュルネ」の、なんと、アンバサダー(それが、どのような職種なのかは不明ですが)まで務めている、というのですから、すごいものです。その「ラ」(そんな略し方は・・・)の今年のテーマが後期ロマン派なのだとか、それで、そのタイアップなのでしょうか、この本ではそんな時代のクラシック音楽が、その時に活躍していた作曲家同士の「対立」と、「愛」を通して描かれています。これはなかなか面白い視点、まさに「通」ならではのお仕事ですね。
「対立」というのは、あまりにも有名なこの時代の音楽の2大潮流間の争いのことです。かたやワーグナーを代表とするいわば「標題音楽」の陣営と、かたやブラームスに代表される「絶対音楽」の陣営との、ほかの作曲家や評論家を巻き込んでの大論争について、その萌芽はベートーヴェンあたりからすでにあったのだ、という視点で、長いスパンにわたっての対立の様相がつぶさに語られます。この本で一つ特徴的なのは、それぞれの項目で一区切りついた時に、「ポイント」という段落が付いていることです。ここまでのお話の「まとめ」をやってくれるという、心憎いばかりの配慮です。本文をきちんと読んでいれば、そんなものは必要ないのでしょうが、なにかと忙しい現代人にとっては、あるいはここを読むだけで内容が分かってしまうという、とても親切な扱いですね。まさに「ハウツー本」の鑑。ただ、中にはあまりに要約してしまっているために、せっかく本文の中でていねいに語られていうことがほとんど伝わらない、という場合もあるので、注意が必要です。というか、そんな要約だったらそもそも必要ないのでは、と思ってしまうのですが、それが読者に対するサービスだという信念には、逆らうわけにはいきません。
ただ、なぜか最後の「新ウィーン楽派」についてだけは、この「ポイント」が付けられていないのが、気になります。本文が3ページもないので、ことさら要約することもないとの判断だったのでしょうが、それまでの潔い「言い切り」がここだけ読めないのはちょっとさびしい気もします。ただ、この件に関しての著者の文章は、それまでのものに比べるとなにか切れ味がありません。おそらく著者は、この、シェーンベルク一派に対してどのようなスタンスを取るべきか、正確には、どのようなスタンスを取れば、それまでの記述と整合性を持つことが出来るのか、という点に関してあまり自信が持てていないのではないか、という気がするのですが、どんなものでしょうか。少なくとも、「新ウィーン楽派の人々が始めた試みは、今なお続いているとみなすべきだろう」という認識は、あまりにも楽天的すぎます。
もう一つのテーマは「愛」ですね。ここに登場する作曲家たちが寄せた女性への想いの諸相が、まるで週刊誌のようなスキャンダラスさで語られるのは、なかなか興味深い試みです。作曲家に限らず、芸術に携わる者の創作のモチヴェーションが、女性(もちろん、男性も)によって大きく左右されるという真実を見事に描いています。
そして、巻末には、著者お勧めの後期ロマン派の名曲が紹介されています。作曲家の人となりとその作品の両面から迫るというこの周到な構成も、やはり著者の配慮の賜物でしょう。それでこその「アンバサダー」です。なにしろウェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの断章」を「現代音楽が最後にたどり着いた地点」と言い切っているのですから、おのずとこの本の読者層は特定されてしまいます。これはそういうレベルの「配慮」が行き届いた「ハウツー本」、それ以上でもそれ以下でもありません。

Book Artwork © Shueisha
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by jurassic_oyaji | 2011-02-20 23:59 | 書籍 | Comments(0)
白夜行
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 愚妻が明日本番だというので、今日は最後の練習、午後からまるまる夜まで時間が空いてしまいました。久しぶりに、映画でも見に行ってみましょうか。ほんと、このところそんな時間は全くありませんでしたから、せっかく溜めていたポイントも有効期限が切れてしまいましたよ。この際ですから、ずっと見たいと思っていた「白夜行」でも見てみましょう。
 時間を調べてみると、もう公開が始まってだいぶ経つので1日2回のシフトになっていました。しかも、上映時間が2時間半もありますよ。ですから、映画を見終わってそのまま帰ってこないと、練習のお迎えに間に合わないという、ギリギリの時間でした。でも、最近使っている新しい道路を使うと、利府がずいぶん近くなっていますから、大丈夫でしょう。ほんと、この道路の恩恵は驚異的、新幹線が「はやぶさ」なんて大騒ぎしていますが、あれなんか仙台-東京間だと5分しか早くなりませんが、こちらは15分は早まりますからね。
 この作品はもちろん東野圭吾の原作はだいぶ前に読んでいました。まるで聖書のように分厚い本でしたから、これを映画にするのはそもそも無理なのではないかと思っていましたが、普通より長い2時間半という尺で、どこまで原作に迫れるのか、というあたりが、最大の見どころでしょうね。思っていた通り、原作のエピソードは半分以上刈り込まれていましたね。まあ、亮司に関するこまごまとした「事件」は正直煩わしいだけなのでカットしてもそれほどの問題はないのでしょうね。しかし、前半の雪穂の周りに起こる「事件」については、おそらく原作を読んでいないことにはいったい何が起こって、それがどういう意味を持っているのかを知るのは、かなり困難になってくるのではないでしょうか。これが、いつも感じる映画化の時の制作者の独りよがりの現れです。作っている人は、どんな場合でも「初めて見る観客」にはなりえないのですよね。当然彼らはすべての成り行きを知っているわけですから、何も知らないという気持ちをもって作ることがそもそも不可能、こういう不親切な作り方は永遠に解消されないのでは、と思ってしまいます。
 原作をカットしただけではなく、設定を変えてしまったところもかなりありましたね。まあ、それも仕方のないことなのでしょうが、最後の笹垣の亮司に対する「呼びかけ」は、ちょっと理解不能です。彼がなぜ亮司に対してこれほどの気持ちを抱くようになったのかは、原作では語られてはいませんし、この映画の中にもそんな伏線はどこにもありませんでしたからね。
 堀北真希が雪穂を演じると知った時には、冗談だと思ったものです。確かに彼女は「美少女」ではありますが、同時になんとも親しみやすい一面ももっているのではないか、と常々感じていましたからね。そういうキャラに雪穂を演じるのは無理な話、実際に映画を見ていても、「冷たい女」というものを一生懸命演じているのはよくわかるのですが、たとえば顔の下半分のふくよかな部分などが、それは絶対無理なことを物語っているものですから、なんとも悲惨でした。
 音楽は、久しぶりに物語を邪魔しない、それでいてその場の雰囲気を的確に語っている素晴らしいもののように、最初のうちは思えました。コントラバスをメインにした渋いアレンジが、なかなか光っていたな、と。しかし、これも、最後の方になるとやっぱり音楽が出しゃばって来て、なんとも場違いなクライマックスを作り上げているのですから、がっかりです。もはやまともな「映画音楽」を作れる人は、いなくなってしまったのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2011-02-19 22:00 | 禁断 | Comments(0)
OTTE/Das Buch der Klänge
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Ralph van Raat(Pf)
NAXOS/8.572444




ハンス・オッテというドイツの現代作曲家の最も有名な作品、「響きの書」の新しい録音です。この曲は、ゴダールの「21世紀の起源」という1999年に作られた映画のサントラに使われておって、それで一躍有名になったのだそうです。もっとも、シュトラウスの「ツァラ」のファンファーレのような分かりやすい曲ではなく、映画自体も「2001年」に比べたらはるかにマイナーなものですから、「有名になる」といっても多寡が知れていますがね。
1926年に生まれて2007年に亡くなったオッテは、小さい頃からピアノやオルガンの演奏に才能を示します。アメリカのエール大学でヒンデミットに作曲を師事した後、ドイツに帰ってからはワルター・ギーゼキングの生徒となり、ピアニスト、作曲家として活躍を始めます。さらに、1959年から1984年まで、ラジオ・ブレーメンにクラシック担当のディレクターとして招かれ、「プロ・ムジカ・ノヴァ」という音楽祭を創設して、ジョン・ケージやメシアンといった大御所や、当時台頭してきたテリー・ライリー、ラモンテ・ヤング、そしてスティーヴ・ライヒといった「ミニマリスト」たちを、ドイツの聴衆に初めて紹介したのです。
1979年から1984年にかけて作られた「響きの書」は、そんな「ミニマリスト」たちと共通のイディオムによって作られた12の部分から成るピアノ・ソロのための作品です。今までに、オッテ自身の演奏CELESTIAL HARMONIES)や、サントラに使われたヘンクのECM盤など、3種類以上の録音がありましたが、そこに2009年の最新録音が加わることになりました。
12の曲は、それぞれに特徴的なキャラクターをもっていて、あたかもオッテが出会った数々の作曲家へのオマージュのように感じられてしまいます。もちろん、基本となっているのは1曲目や5曲目に見られるようなライヒの語法の延長線上にあるものでしょう。細かいパターンを幾層にも重ね合わせた結果、モアレのように見えてくる風景を楽しむ、という趣向ですね。ただ、オッテの場合は、ライヒのような無機的な風景ではなく、もっと色彩的な移ろいが感じられるものに仕上がっています。それは、まさにライヒの語法によるメシアンの持つカラフルな世界の培養でした。それは、10曲目のまるで光のきらめきのようなシーンを経て、最後の12曲目の、もはやメシアンそのもののような、「色」を持つアコードの連続という一つの生命体となるのです。
一方で、ひたすら単音にこだわった3曲目などには、リゲティの「ムジカ・リチェルカータ」の投影を見ることは出来ないでしょうか。8曲目では、ソステヌート・ペダルで引き延ばされた音をバックグラウンドにして、メシアン的なテンション・コードと、リゲティ的なクラスターが交互に出現する、というワクワクするような試みも披露されます。
かと思うと、黒鍵だけで単旋律を演奏する6曲目などからは、グレゴリアン・チャントの影すらも感じられてしまいます。似たようなドビュッシー的なモーダルの世界も、あちこちに発見できることでしょう。
ある意味「ミニマル」が到達した、一つの豊穣、しかし、それをとことん味わうためには、押し寄せる猛烈な睡魔との戦いも必要になってきます。もちろん、それはペルトやタヴナーにはお馴染みの試練ですね。
楽譜を見たわけではないので断言は出来ませんが、それこそケージの音楽のように、繰り返しなどにはかなり演奏家に任される部分があるのではないでしょうか。オッテ自身の演奏に比べると、オランダの新鋭ファン・ラートは、時折全く別のことをやっていたりします。1曲目などは、一瞬他の曲では、と思ってしまいましたよ。さらに彼の場合、ビートに微妙な伸び縮みがあって、そこから生まれるグルーヴには独特の魅力が感じられます。このあたりが、「後出し」の特権なのでしょうね。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2011-02-18 20:21 | 現代音楽 | Comments(0)
Enola Quintet Plays Yellow Magic Orchestra
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Enola Quintet
PALM TREE/XQJU-1001




普段はCDなどはもっぱらネット通販で購入していますから、あまりCDショップに立ち寄ることはありません。ニュー・リリースの情報には事欠きませんし、何より在庫の豊富さからいったら街のショップに勝ち目はありませんからね。それでも、なにかの折にひょっこりパルコの7階あたりにあるそんなお店に行ってみると、品数は少ないものの、実際の「物体」として目の前に陳列されているCDを見ることの楽しみに、ふと気づかされるものです。もはや、絶滅寸前品種、もしかしたら数年後には姿を消してしまっているかも知れないそんな風景を慈しむ時には、ちょっぴり感傷に浸ったりするものです。
最近のそんなお店では、もはやクラシック専用のブースなどといった贅沢なものはなく、「イージーリスニング」や「ジャズ」のコーナーと同居しているのが当たり前の姿です。ですから、クラシックの棚の前でCDを物色している時にも、BGMにジャズの新譜がかかっている、などというケースもあり得ます。まあ、それはそれで新鮮な体験ではありますが。
そんな時に何気なく聴き流していた「音」が、突然意味を持ち始めることがあります。その時流れていたのは、なんか、どこかで聴いたことのある曲、軽いボサ・ノヴァ風のリズムに乗ったピアノが奏でているのは、どうやらバカラックのようですね。とてもすんなり入ってくる心地よいメロディ、なかなかセンスのよいアレンジだな、と思ってしばらく聴いていると、ちょっとバカラックとは違うのでは、という気がしてきました。しかし、曲自体は間違いなくよく聴いていた、ほら、あれですよ、あれ・・・あれっ?これはもしかしたら・・・。
というわけで、思い出したのは全く「ジャズ」には縁のないはずの、YMOの「テクノポリス」だったのですよ。いやあ、これは盲点をつかれた感じです。なんという斬新なアプローチなのでしょう。あの、まさに「テクノ」の草分けとも言うべき近未来の衣装をまとったギンギンの機械的な音楽を、こんなけだるくアダルトな「午後のまどろみ」的なものに変貌させてしまうなんて。
これは思いがけない収穫だと思い、当然売り場にCDがあるのだろうとジャズの棚を探したら、売り切れてしまったのでしょうか、確かに目立つPOPで飾られたスペースはあったものの、そこには現物はありませんでした。残念ですね、ストアプレイを聴いてせっかく買う気になったお客さんがいるというのに、これではなんにもなりません。このようにして、怠惰なショップは、ネット通販に客を奪われてしまうのです。
数日後手元に届いたアルバムには、全部で9曲のYMOのカバーが収められていました。演奏しているのが「エノラ・クインテット」というギタリストの村山光国がリーダーを務めるジャズ・ユニットです。焼肉とは関係ありません(それは「エバラ」)。ただ、ここではギターは加わらないピアノの草間信一を中心にしたトリオ、そこにたまにボーカルの長谷川碧が入るという編成です。それがなぜ「クインテット」なのかは、永遠の謎。ただ、村山はコーラスで参加していますから、それで5人?あるいは、ベースとドラムスがダブル・キャストなので、「インストは総勢5人」なのでしょうか。
正直、アルバム全体ではそれほどのインパクトは感じられませんでした。「テクノポリス」でのラテン・フレーバー満載の天倉正敬のドラムスは、最初に聴いたような「大人の」味を出しているのですが、「ライディーン」で演奏しているもう一人、まるでスティーブ・ガッドのようなフュージョンっぽいドラムスの吉田太郎だと、あまりに当たり前すぎて。この曲こそ、天倉のまったりとしたドラムスで聴いてみたかったのに。
それと、やはりYMOはインストで聴きたいものです。ボーカルははっきり言ってジャマ。あと、「エノラ」というユニット名に嫌悪感を抱いてしまうのは、世代の違いでしょうか。

CD Artwork © Palm Tree Music Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2011-02-16 19:42 | ポップス | Comments(0)
朝川博・水島昭男/音楽の366日話題事典
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朝川博・水島昭男著
東京堂出版刊
ISBN978-4-490-10792-0



このような、1年間の全てにわたって、何月何日がどういう日に当たっているか、ということをジャンル別に集めた雑学集のような本はいろいろありますね。これは「音楽編」、ということで、音楽に関するネタが集まってます。だいたい、こういうものはいかにもノウハウ本といった安っぽさがつきまとうものですが、この本はまず装丁が立派、一読しただけで、そんなあまたの「365日」ものとは一線を画したていねいな作られ方が感じられます。おっと、これは「366日」でしたね。しっかりうるう年まで含められていたのでした。それだけでも、普通のものより「1日」お得です。
その、「1日」多い2月29日は、ロッシーニの誕生日でした。これは、わりと有名なことなのでそれほどのインパクトはないのですが、その次の3月1日が「マーチの日」だったというのは、初めて知りました。確かに、3月は「March」ですからね。さらに、そこで語られる、「マーチ」にちなんだ話題の中で、「軍艦マーチ」というのが扱われているのが、ちょっと目をひきます。それこそスーザあたりを出すのが王道なのでしょうが(スーザは別のところで登場していたざんす)、よりによってこんなひねった曲を持ってくるとは。なんか、このあたりにこの本をまとめた、ともに「団塊」世代のお二人のしたたかさのようなものを感じてしまいます。
あくまで「音楽」というジャンルでまとめてはありますが、それが「クラシック音楽」に限定されていない、という視野の広さも、好感の持てるところです。その話題は多岐にわたり、ビートルズやエルヴィスなどのポップスは言うに及ばず、日本の古典芸能(本当の意味での「邦楽」)までも扱われているという、フットワークの軽さです。そして、その中でひときわ目をひくのが、「唱歌」とか「童謡」の周辺の話題の豊富さです。もちろん、その中には「唱歌」を産んだ明治初期の教育制度についての言及も多く含まれます。もしかしたら、このあたりの、もはやかなり風化している日本の音楽教育の歴史をもう一度見直してもらいたいというような願望が、著者たちにこの本を作らせたのでは、とさえ思ってしまう程の、それは物量的な迫力を持つものでした。
例えば、「8月12日」などは、「『祝日大祭日歌詞並楽譜』公示」なのだそうです。雑学と言うにはあまりにマニアックなアイテムですが、そこで語られている「君が代」についての記述は、穏やかな中にも何か強い意志が感じられるものです。かと思うと、2月12日の、「たきび」という童謡を作った作詞家の巽聖歌(たつみせいか)の誕生日では、この曲に対する「軍部のヒステリックな」バッシングが語られます。別に、そこで触れられているわけではないのですが、これは今だったら「えせエコ運動家によるバッシング」と置き換えられるのでは、と勝手な想像をふくらますのも、一興です。「『学習指導要領』(試案)発表」(3月20日)と、「『教育基本法』施行」(3月31日)という、似通ったテーマを繰り返すというしつこさも、熟読すると著者の強い思いが伝わってきます。
まあ、そんな「お堅い」話題だけではなく、もっと気楽に味わえる雑学も満載ですよ。8月1日は中田喜直の誕生日なのだそうですが、それにちなんで彼が新聞に投稿した過激な批評によって巻き起こった論争のことが語られているのには、「やっぱり」と思ってしまいました。それと同じ時期に、彼は音楽雑誌でクセナキスのことをボロクソにこき下ろしていたのですね。当然クセナキス擁護派からの反論も同じ雑誌に掲載されたりして、なんとも低次元で不毛な論争に終始していたことを思い出したのです。
6月22日は、ピーター・ピアーズの誕生日。しかし、そこにブリテンとの関係を露骨に持ち出さないあたりは、なかなか慎み深い「大人」を感じさせられます。

Book Artwork © Tokyodo-Shuppan
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by jurassic_oyaji | 2011-02-14 20:53 | 書籍 | Comments(0)