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KODÁLY/Choral Works for Male Voices
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Tamás Lakner/
Béla Bartók Male Choir-Pécs
HUNGAROTON/HCD 32641-42




コダーイの合唱曲は、日本でも多くの合唱団によって歌われています。もちろん、男声合唱団でも、数多くの曲が取り上げられています。しかし、コダーイ自身は男声合唱という形体には批判的な姿勢をとっていたそうですね。特に、ドイツから入ってきた「リーダーターフェル」という、ある種社会的な運動のような側面を持つとされていた活動には、あまり芸術性を見いだせなかったのでしょう。「音色や表現力が乏しい」というようなことを、公の文書で主張していますからね。確かに、彼の合唱曲全体の中では、男声合唱は5分の1程度の量しかありませんし、その中にはオリジナルではなく、児童合唱や混声合唱を男声用に作り直したものも多く含まれています。とは言っても、結果的にはこんなCD2枚でなければ収まり切らないほどの作品が残されたのですから、男声関係者はあまりいじけないようにしましょうね。
そう、これは、コダーイの全作品を録音しようというこのレーベルの「コダーイ・コンプリート・エディション」の一環としてリリースされたもので、ここにはまさに男声合唱のための「全作品」45曲が収められているのです。その中で、1913年というかなり早い時期に作られたものが「酒飲みの歌」というのですから、なんだかなぁ、という感じですね。もろに彼の「偏見」が反映されているような気はしませんか?いや、誇大妄想?そして、それからしばらくの間は彼は男声合唱のための曲は作ろうとはしていません。
そんなことが分かるのも、このCDでは、彼の作品をしっかりジャンル別に分類、それに作曲年代などもきちんと添えるという具合に、まさに「全集」として欠かせないリストが充実しているからなのです。ライナーノーツも読み応えがありますし。
ところで、ほんの数年前に、同じレーベルから、今回と全く同じアーティストによってやはり「男声合唱曲集」がリリースされていました。それには20曲しか収録されていないのですが、2004年から2005年にかけて録音されたもの、と、そのCDにはクレジットされています。そして、今回リリースされたCDのデータは「2010年録音」、「マルP」も2010年になっていますから、それとは別に新たに録音されたものだ、と、普通は考えるはずです。なんと言っても「全集」ですから、この際全部新たに録音し直したのだな、やはり「ご当地」の意気込みはすごいな、と。ところが、収録されている同じ曲を前回と今回の録音で比較してみると、それは全く同じ音源であることが分かります。まず、演奏時間の表記がどれも全く同じ(1秒程度の誤差は、マスタリングの時に発生します)、そして、実際に聴いてみれば、それは一目瞭然、同じ演奏家による同じテイクであることがはっきり分かってしまうのですよ。さらに、今回新たに録音されたと思われるものとそれらとを比べると、録音のテイストが全く異なっているのも分かります。「新」録音の方がマイクがオン気味なのでしょうか、音が生々しく、サ行の発音などもかなりきつく聴こえるのですね。
つまり、このCDのクレジットのように「2010年」に録音されたものは、全45曲のうち、前回の20曲を除いた25曲しかないことが明らかになったのです。それにもかかわらず、このレーベルは全ての録音が新しいものであるかのように、表示しているのですね。これは明らかな「偽装」、言ってみれば「詐欺」なのではないでしょうか。まさに許し難い「犯罪」です。こちらでもそれを真に受けていますし。
おそらく、事実は単なる記載ミスか勘違いのなせる業だったのでしょう。この程度のミスはこの業界ではいくらでもお目にかかれますからね。しかし、いやしくも「全集」と銘打って、曲目についてはきちんとしたデータを揃えているのですから、こんなお粗末なことでその価値を貶めるなんて、なんとも間抜けな話です。

CD Artwork © Hungaroton Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2011-04-29 20:25 | 合唱 | Comments(2)
René Pape sings Wagner
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René Pape(Bas)
Plácido Domingo(Ten)
Daniel Barenboim/
Staatskapelle Berlin
DG/477 6617




1964年にドレスデンで生まれたルネ・パーペ、今や世界中のオペラハウスから引っ張りだこの、まさに脂の乗り切ったバス歌手です。いや、その特徴的な甘い(というか、キモい)マスクは、オペラハウスだけではなく映画の世界でも可能性を見いだされ、あのケネス・ブラナーによる映画版「魔笛」でも、なんとも慈愛あふれるザラストロを演じていましたね。英語まで喋って。
いや、彼は英語どころか実はロシア語も堪能なのですね。今シーズンのMETでムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」がゲルギエフの指揮によって上演された時に、まわりはほとんどゲルギエフが連れてきたキーロフのロシア人歌手だった中で、ドイツ人であるパーぺは果敢にロシア語でタイトル・ロールを歌いきったのです。この模様は、「METライブ・ビューイング」として、日本の映画館でも体験することが出来たはずです。なんでも、かつて共産圏の「東ドイツ」だった頃には、ドレスデンではロシア語が必須教科として学校で教えられていたそうなのですね。確かに、言われてみれば当時はロシア、いや「ソ連」は、東ドイツには政治的には最も近い国でしたから、そんな「文化」も近かったのでしょう。
もちろん、彼の本領はなんと言ってもドイツ・オペラです。そんな中での代表格、ワーグナーの作品ばかりを集めたアルバムがリリースされました。意外なことに、彼にとっては、これは初めての「ワーグナー・アルバム」なのだそうです。確かに、バス・バリトンにとってのワーグナーは、ソプラノやテノールに比べたら地味な役柄が多くなっていますから、それだけでメリハリのあるアルバムを作るのは、結構大変、よほど実力のある歌手でない限り、なかなか成功は難しいのでしょうね。
パーぺほどの人でも、やはり全てを一人でというのは大変だったようです。そこで、グルネマンツとの絡みでパルジファル役としてフィーチャーされたのが、あのプラシド・ドミンゴ、バックを務めるバレンボイムの指揮するシュターツカペレ・ベルリンとともに、超豪華なゲストが集まって、なんとも贅沢なアルバムが出来上がりました。
まずは、「ワルキューレ」からの大詰め、「ヴォータンの別れ」を、ノーカットで聴いてみましょう。そこには、かつてのヴォータン役の歌手のような重苦しさは全くない、等身大の「父親」の姿がありました。もはや、威厳を振りかざす神々の長、といったイメージはこの役には当てはまらなくなっているのですね。そんな、マイホーム・パパぶりがパーぺにはよく似合います。しかし、バレンボイムの指揮はあくまで骨太、決してワーグナーならではの「重み」を忘れることはありません。
「マイスタージンガー」では、第2幕のハンス・ザックスのモノローグと、第3幕の幕切れの他に、なんと第2幕の最後の「夜警」の歌まで入っています。ステージでは味わえない「二役」の妙でしょうか。「ローエングリン」第1幕のハインリッヒ王の宣誓など、どうでも良い曲も入っていますし。
そして、ドミンゴとの共演の「パルジファル」第3幕は、なんとも渋く迫ります。いや、この作品自体が殆ど「歌」というものを考慮しないで作られているということの、それは再確認になるのでしょう。ここでのパーぺは、さっきのヴォータンとはまるで別人、それぞれのキャラクターを完璧に歌い分けていることが良く分かります。
そして、最後には、そんなある意味欲求不満を解消するかのようなメロディアスなナンバー、「タンホイザー」第3幕の「夕星の歌」です。洗剤を選べば悪臭を発しない、という歌ではありませんが(それは「部屋乾しの歌」)。ここに来て、力が抜けたのか、音程があやしくなっているのが惜しまれます。オーケストラの木管も、とんでもないピッチになっていますし。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH
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by jurassic_oyaji | 2011-04-27 20:06 | オペラ | Comments(0)
PERGOLESI/Stabat Mater
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Anna Netrebko(Sop)
Marianna Pizzolato(Alt)
Antonio Pappano/
Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia
DG/477 9337




昨年、2010年は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの生誕300年ということで、なかなかの盛り上がりを見せていました。その一環で、7月にバーデン・バーデンで行われたコンサートでは、あの人気ソプラノ、ネトレプコがマリアンナ・ピッツォラートという新人のアルト歌手と一緒に、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を歌ったということで、「初めての宗教曲への挑戦」と大きな話題になったそうです。彼女はすでにロイド・ウェッバーの「ピエ・イェス」を録音していますが、あれは「宗教曲」ではなかったのですね。言われるように、確かに彼女は「宗教曲処女」だったのでしょう。
とは言え、この曲でのネトレプコは、新しい体験にこわごわ身をゆだねるといったような、「処女」としてのしおらしさを見せることは決してありませんでした。彼女は、300年前に生まれた作曲家の時代の音楽に対して、現代の演奏家なら少なからず見せる様式的な配慮は一切行わず、彼女のホームグラウンドである「ベル・カント」の語法で見事に押し切っていたのです。ある意味彼女にはそういうことが期待されているのですから、別に、それは悪いことでもなんでもありません。もし、彼女がかつてのカークビーのように、曲に「合わせて」ノン・ビブラートで歌っていたりしたら、それこそ笑いものでしょう。そもそもこれは彼女の「挑戦」ではなく、「ペルゴレージ」の「宗教曲」が、ネトレプコのような歌手を迎えたらどうなるのか、といった意味での「挑戦」だったのですから。
その結果、この「バロック」の名曲は、「ベル・カント」の音楽としての資質を試されることになりました。それは、なかなか新鮮な体験ではありました。確かに、最初の頃こそ違和感がなかったわけではありません。なにしろ、パッパーノの指揮ぶりはあくまでエモーショナル、そんな大げさな前奏に導かれて二人の歌手が「Stabat~」と歌い始めると、そこで生まれるはずの全音で2つの声部がぶつかる時の緊張感は、ネトレプコのあまりに深すぎるビブラートによって、さっぱりとなくなっていたのですからね。それは「全音」ではなく、「半音」と「短三度」の連続でした。しかし、しばらくすると、そんなヴェルディ的な世界でこそ、彼女の声は最大限に発揮されることに気づくことになります。こうなったら、どっぷりその世界に浸って彼女の美声を存分に味わうほうが、得に決まってます。
そうなると、6曲目のアリア「Vidit suum dulcem natum(また瀕死のうちに見捨てられ)」は、格別の味を持つことになります。それは恐ろしくドラマティックに、そして直接的に、人の心を打つ(というか、感動をもぎ取る)ものに仕上がりました。アルトとのデュエットも、確かな力を持つピッツォラートとの間では、まさに「対決」の様相を見せています。これでこその、歌手の力比べが最大の魅力となるヴェルディの醍醐味です。この上は、ぜひとも彼女の歌うヴェルディの「レクイエム」を聴いてみたいものです。
これはライブ録音ということですので、多少のノイズがあるのは別に問題はないのいず。しかし、なんだかそうとは思えないような不思議な音がしょっちゅう聞こえてくるのが、とても耳障りでした。それは、全く関係のないところでおしゃべりをしている声のように聞こえるのですが、どうでしょう。例えば、トラック16の1分03秒あたりとか、トラック17の0分32秒あたりではっきり分かるはずですので、確かめてみられては。もしかしたら、これは別のところから「混入」したもののような気もします。そうなると、これはとんでもない欠陥CDですよ(もちろん、「商品」としてのモラルの問題、演奏はその限りではありません)。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH
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by jurassic_oyaji | 2011-04-25 19:57 | オペラ | Comments(0)
BRAHMS/Piano Concerto No.3
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Dejan Lazic(Pf)
Robert Spano/
Atlanta Symphony Orchestra
CHANNEL/CCS SA 29410(hybrid SACD)




ブラームスのピアノ協奏曲「第3番」ですって。確か、ブラームスのピアノ協奏曲というのは2曲しかなかったはず、とは言っても、別に新しく楽譜が発見されたとかいうわけではなく、これは有名な「ヴァイオリン協奏曲」を、ピアノ協奏曲に作り直したものなのですよ。たしか、ベートーヴェンも自らそのようなトランスクリプションを行っていましたね。しかし、これはブラームス自身ではなく、ごく最近、クロアチア生まれの若手ピアニスト、デヤン・ラツィック(代理店による表記)が、なんと完成まで5年の歳月をかけて作り上げたバージョンなのだそうです。そのラツィックくん自らのピアノ独奏によって、200910月にアメリカのアトランタで行われた「世界初演」の模様が、ここでは聴くことが出来るのです。当然のことながら、これが「世界初録音」ですね。そのような「初物」には弱いものですから、つい手が伸びてしまいました。
ここで、ラツィックくんがお手本にしたのが、さっきのベートーヴェンと、そしてバッハの「ピアノ協奏曲」なのだそうです。バッハの場合は元々作曲の際に特定の楽器にこだわっていたわけではありませんから、そもそもお手本にするのは問題のような気がします。ベートーヴェンの場合には、未だにピアノ版の持つ違和感には馴染めませんし。
とにかく、お手並み拝見、あれこれ考えずに聴いてみることにしましょうか。しかし、第1楽章でピアノ・ソロが登場するところで、すでにヴァイオリンの時とは全く別の世界が広がっていたのは、まさに予想通りのことでした。オーケストラの間をかいくぐってソリストが低音からのスケールを披露するという場面、ヴァイオリンが1本の時には堂々とした中にも、なにか孤高さを秘めたストイックなイメージがあったものが、分厚い和音で飾られたピアノでは、それがやたら華やかでけばけばしいものに変わっていたのです。当然、単旋律の楽器であるヴァイオリンをピアノに置き換える時には、それなりの「加工」が必要になってくるのですが、それはあくまでブラームスのピアニズムに合致したものでなければ、成功したとは言えません。この登場のシーンは、まるでラフマニノフかなんかのよう、ちょっと引いてしまいます。そして、この楽章の間中、ピアノからはまるでベートーヴェンのような語法が漂って来ているのですね。いや、それは「お手本」ではないだろう、と言いたくなるほどの勘違いです。
第2楽章では、ピアノよりもオーボエ・ソロに耳が行ってしまいます。それほどのピアノの存在感のなさ、それはヴァイオリンならではのリリシズムが決定的に欠けているせいなのかもしれません。ちなみに、ここでオーボエを吹いているアトランタ響の首席奏者は、きちんと「エリザベス・コッホ」とクレジットが与えられています。このラストネームを見て、あのローター・コッホの親族なのでは、と思ってしまいましたが、全くの赤の他人のようですね。候補ですらありません。いや、その元ベルリン・フィルのトップ奏者のような繊細な音色だったものですから、つい。
そして、第3楽章では、あのロンドのテーマがピアノによって演奏されると、なんとも不思議なテンポ感になってしまうことに気付かされます。あのフレーズは、ヴァイオリンでは軽快に聴こえますが、ピアノではあまりに遅すぎます。
ブラームスに限らず、後期ロマン派などと称されるこの時代の作曲家は、楽器の選択にはこだわりがあったはずです。例えば、彼のクラリネット・ソナタは、自身の編曲によるヴィオラ版ではかろうじて原曲のテイストを保てますが、それをフルートで演奏したりすると悲惨な結果が待っています。まして、表現パターンの全く異なるヴァイオリンからピアノへの変更などは、そもそも無理な話だったのでしょう。そうでなければ、130年以上も手を付けられなかったはずがありません。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv
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by jurassic_oyaji | 2011-04-23 19:49 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Overtures
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Andrea Marcon/
La Cetra Barockorchester Basel
DG/477 9445




モーツァルトのオペラの序曲を集めたアルバムです。彼の「オペラ」は、2006年のザルツブルク音楽祭での「全曲」演奏に倣えば、全部で22曲カウントできることになりますが、その中には未完のものも3曲(「ツァイーデ」、「カイロの鵞鳥」、「騙された花婿」)含まれていますし、「第一戒律の責務」はちょっとオペラというには苦しいものがありますから、正味は18曲というあたりが妥当なところでしょう。ここではCD1枚の容量をギリギリ使って、「シピオーネの夢」と「偽りの女庭師」を除く全16曲を収録しているのですから、これはもうほぼ全曲と言える健闘ぶりです。ありそうでなかったオペラ序曲の(ほぼ)全曲アルバムの誕生を喜んでみることにしましょうか。
ブックレットには見開きで録音セッションの写真が載っています。それを見ると、演奏している「ラ・チェトラ」のメンバーは若い人ばかりが集まっていることが分かります。見かけだけでは判断できませんが、おそらく40歳を超えるメンバーなどいないのではないでしょうか。頭が薄いのはチェンバロの人と、指揮者のマルコンぐらいのものですからね(それにしても、ジャケット写真のトリミングの絶妙なこと)。
それは、小さな体育館のようなところで録音している様子なのですが、マイクがとてもたくさん使われていることも分かります。クレジットを見ると、エンジニアはアンドレアス・ノイブロンナー、というか、録音からマスタリングまでをまるまる彼の「トリトヌス」が引き受けているのですね。話にはきいていましたが、実際にDGのようなメジャー・レーベルで彼らが行った仕事に出会ったのは、これが初めてのことです。もはや、メジャー自身が録音の現場を仕切ることはなく、「下請け」のプロダクションに任せるという時代になっていたことを、改めて痛感です。
その「トリトヌス」ならではのヌケのよい音は、確かに素晴らしいものでした。しかし、いままでSACDで接することが多かったため、やはりここではCDの限界を感じてしまいます。ヴァイオリンの高音に、今ひとつ肌触りの繊細さが不足しているのですね。国内盤ならともかく、いまさらこのレーベルがSACDに切り替えるとは思えないので、せっかくの録音が生かされないのがとても残念です。
もう一つ、写真からの情報では、このオーケストラが完全な対向配置をとっていることが分かります。個々のパートがクリアに定位しているこの録音では、左のファースト・ヴァイオリンと、右のセカンド・ヴァイオリンが、時には対話し合い、時には支え合うというお互いの役割を果たしている様子が、まさに手に取るように伝わってきます。もちろん、けんか腰になることはありません(それは「対抗配置」)。
管楽器も、オフになりがちなトラヴェルソがきちんと聴こえてくるために、理想的なバランスが味わえます。この楽器がある時とない時との音色の違いも堪能できますよ。
曲順がほぼ作曲年代順になっているために、ここではモーツァルト自身の11歳から35歳までの成長過程を、曲を通してつぶさに味わうことが出来ます。マルコンのていねいな指揮と、それに的確に反応している若いオーケストラによって、例えば15歳の時に作られた「救われたベトゥーリア」では、すでに短調の中に深い情感を込めていることが分かりますし、それが31歳の時の「ドン・ジョヴァンニ」になると、同じく短調で書かれた序奏の中では、全く次元の異なる高みに達していることを感じることができることでしょう。この曲は、その新全集によるコンサート用のエンディングまでを含めて、この中では最高の仕上がりを見せているのではないでしょうか。
ただ、「フィガロ」や「魔笛」といった超有名曲では、若さゆえのストレートさだけが強調されてしまい、モーツァルトが持つ真の愉悦感が少し聴こえにくかったのが、ちょっと残念です。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH
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by jurassic_oyaji | 2011-04-21 23:11 | オーケストラ | Comments(0)
歌う国民
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渡辺裕著
中央公論新社刊(中公新書2075)
ISBN978-4-12-102075-8



以前から「唱歌」の成り立ちに関しては体系的に知りたいと思っていたところに、こんな恰好なガイドブックが現れた、と手にしてみたところ、帯に記された梗概には、「推理小説を読むような興奮あふれる、もう一つの近代史」などとあるではありませんか。どうやら、これは単に唱歌などの解説に終わることのない、スリリングな読み物なのかも知れないという期待が募ります。そもそもサブタイトルには「唱歌、校歌、うたごえ」とありますよ。「唱歌、校歌」はともかく、最後の「うたごえ」というのが、かなりミスマッチには思えませんか?前者は、言ってみれば「お仕着せ」の産物、後者はなんといっても「民衆」の「自発的」な運動のようなイメージがありますからね。
そう、そのような、一見なんの関連性もないように思えるものが、突き詰めて考えると実は深いところで結び付いているのだ、というのが、おおざっぱに言えばこの本のテーマなのですよ。確かに、そのような結論にいたる著者の語り口は、まさに「推理小説」そのものでした。
まず、「唱歌」に対して今まで抱いていたイメージが、ガラリと崩れ去りました。著者が最初に提示してきた「夏期衛生唱歌」にまず大爆笑です。夏場は食品が黴びやすいので、消化の悪いものは食べてはいけない、もし食べてしまったら吐き出しなさい、とか、海水浴は午前中は9時から11時、午後は4時から6時まで、心臓病や頭痛持ちの人は泳ぐな、といったようなお節介が、格調高い七五調で20番まで歌われているのですからね。こんなぶっ飛んだサンプルを出しながら、著者は「唱歌」の本質について、我々の先入観を覆すという、小気味良い作業を進めて行きます。その結果行きついたのが、明治政府が目指した「音楽教育」の真の目的です。いやあ、このあたり、「推理小説」という惹句に決して偽りはありませんでした。
そこで「真相」が分かってしまうと、確かにこの時代の「唱歌」の稚拙さの意味もおのずと理解できるようになります。そして語られる、「鉄道唱歌」の真の姿。なんとも興奮してしまいますね。
もちろん、これは「推理小説」なのですから、「真犯人」をここで公にするといった「ネタバレ」はご法度です。それは実際に読んでいただくほかはありません。ただ、この本を読んですぐに連想したものについて語るぐらいのことだったら許されるのではないでしょうか。それは、このひと月の間、テレビやラジオから絶え間なく流れてきている「あの歌」のことです。「○んにちは、○りがとう」(別に伏せ字にすることはないか)という、詞も曲も、そして歌い方も稚拙極まりない歌なのですが、これなども著者の「コンテクスト」の中では確固とした意味を持っているように捉えられてしまうのです。そう、「唱歌」の時代に培われたノウハウは、こんな緊急時に便乗して「マナー」に名を借りたある種の統制意識を浸透させようとした時に、しっかり役立っていたのですね。
もう一つ、「卒業式の歌」に関する部分でも、最近抱いた疑問が見事に氷解したという、感動的な体験が待っていました。それは、さる音楽番組で最近の「卒業式で歌われる曲ランキング」をやっていた時に生じた疑問、今ではもはやだれも歌っていないのではと思っていた「仰げば尊し」が、堂々の1位に輝いていたのですよ。最近ではこんな時代錯誤も甚だしい歌は、とっくに「旅立ちの日に」や「大地賛頌」などにとって代わられたと思っていたので、これは意外でした。しかし、そこにはちゃんとした理由があったことが、この本を読めばいとも簡単に知ることが出来ますよ。
この手の本にはめずらしい「ですます体」を使ったかなり技巧的な文体から、著者の本心を探り当てるという「推理」まで加わって、たしかにスリリングな本に仕上がっています。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2011-04-19 20:30 | 書籍 | Comments(0)
練習再開
 前回の「禁断」のブログ版は、アップした直後に「フォル・ジュルネ 中止」で検索すると2番目に出てきましたね。さすがに、今日あたりは12番目に落ちてきましたが、アップした頃はまだこのニュースがあまり広まっていなかったために、そこまでのランクになっていたのでしょう。これだけの重要事項なのに、本家の公式サイトでは、トップページが全く変わっていないというのがなんとも情けない気がします。
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 言ったらなんですが、これはほんとに出来の悪いイラストですね。この5人の作曲家の生気のない顔ったらどうでしょう。そのせいで、バックのクリムトの渦巻きがなんだか原発の水蒸気のように見えるのは、私だけでしょうか。そしてこのコピーが、今となっては最悪ですね。来日をキャンセルしたアーティストには「音楽の力」は届きませんでしたし、その結果「音楽の輪」が広がることは決してありませんでした。担当者は、いつまでこんな恥さらしなページを公開しておくつもりなのでしょう。
 しかし、こんなバカな外国人が日本に来たくなくなるのは勝手ですが、これが嵩じて、逆に日本からのものが拒絶されるような事態は、ちょっと困ったことです。いや、「もの」で済んでいるうちはいいのですが、それが「人」にまで及んで来ないとは、誰にも言いきれないのが怖いところ、それが「風評」というものなのですからね。私の知り合いが1ヶ月後には大挙して訪米し、NYのカーネギー・ホールでコンサートを行うことになっています。由緒あるこのホールが、「放射能で汚染されたニホンジンは、受け入れることは出来ない」などと言ってきたら、どうするつもりなのでしょう。現に、カワサキの人たちはそれでパニックに陥ったのですから、あり得ないことではないと思うのですが。
 こんないやなことがなければ、きのうは久しぶりに演奏活動が再開されて、晴れ晴れとした気分になっているはずでした。奇しくも同じ日に、フルートと合唱で練習があったのですよ。まあ、それなりに充実感はあったものの、手放しでは喜べない何かが、胸に引っかかってしまっていました。
 フルートの方は、今年が3回目となる教会での「マタイ受難曲」のコンサート、というか、礼拝です。こんな時に、もしチャリティ・コンサートなんてやるんだったら絶対参加するつもりはありませんでしたが、あくまで「受難日の礼拝」という、どこに出しても恥ずかしくない「大義名分」があるものですから、出ることにしました。いや、正直ニューフィルが始まるのはまだまだ先なので、その間のリハビリという意味も小さくはない理由なのですがね。本当に、もうだいぶ前になりますが、久しぶりに楽器を吹いて、あまりの衰え具合に唖然としたものでしたから。それからはつとめて時間をとって練習していますが、長く休んでしまうと元に戻るのはほんとに大変です。本番は 今週22日の金曜日(今年の受難日)の午後7時から東北大北門前の東一番丁教会です。ほとんど宣伝などはやらないそうですから、演奏者より聴く人の方が少なくなりそうなんですって。もちろん、入場は無料です。お気づきのように、この日は本来なら春の定期演奏会の前日リハだったはず、ですから、100%出ることはなかったはずのものでした。何の因果でしょう。ただ、弦楽器の人たちはすでに他をあたっていたようで、今まで出ていたニューフィルの人たちと一緒に出たいと打診したら、やんわりと断られてしまったのが、ちょっと残念。そこで初顔合わせとなったのが、東北大オケの現役メンバーでした。私がいつか取材に行ったあのオンボロ練習場が、地震で使えなくなってしまったそうで、今はヒマなのだそうです。ニューフィルの練習場に興味があったような。
 そして、それが終わってすぐ、今度はその練習場、お寺の会館でのパリンカの練習です。30人近いメンバーが集まったのですから、ちょっと感激。ほとんどはみんなの「あのとき」の報告でした。こんなときだから、歌いに来た、という人は多かったですね。
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by jurassic_oyaji | 2011-04-18 22:21 | 禁断 | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony No.5, BLACKWOOD/Symphony No.1
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Charles Munch/
Boston Symphony Orchestra
ALTUS/ALT102




今でこそ、FMラジオでステレオ放送を聴くのは当たり前のことになっていますが、AM放送しかなかった頃には、そんなことはとても無理な話でした。音質からして、高音も低音もカットされた貧しいものでしたし、ノイズはひっきりなしに入りますから、とてもステレオどころではありません。しかし、レコードでステレオ録音のものが出回ってくれば、ラジオでもそんなことをやってみようという人も現れてきます。なにしろ、当時はステレオのレコードを再生する装置はかなり高額でしたから、どの家庭にでもあるラジオを使ってステレオが体験できるのであれば、それは素晴らしいことだったのでしょう。そこで、「第1」と「第2」という2つのチャンネルを持っていたNHKは、それぞれに左右の信号を振り分けて同時に放送するということで、そんな「AMラジオによるステレオ放送」を実現させのです。ただ、普通は同じラジオを2台持っている家庭はありませんから、右と左ではかなり音質が違っていたはず、それは「立体音楽堂」というタイトルでしたが、いったいどんなステレオだったのでしょうね。
そんな番組のソースとして、NHKが招聘したミュンシュ指揮のボストン交響楽団の日本公演のライブ録音が残っていました。半世紀前にノイズの彼方から異様なバランスで聴こえてきた音が、とても素晴らしい音でCDとしてよみがえりました。なんせ「32bit」という、未だかつて体験したことのないビットレートでマスタリングが行われているのですからね。
1960年に来日、1ヶ月にわたって日本全国でツアーを行ったボストン交響楽団の、5月22日の日比谷公会堂(なぜか、ブックレットでは「5月5日」と表記されています)の「実況録音」の模様が全て収められているのが、このCDです。当日のプログラムは、ベートーヴェンの5番、アメリカの「若手」作曲家、アースレイ・ブラックウッドの交響曲第1番、そしてワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲(+α)」が全て、それにアンコールを加えても、正味1時間ちょっとしかかかっていません。この頃のコンサートは、ずいぶん短かったのですね。
最初の「運命」でミュンシュは繰り返しを全て省いているのも、こんなに短くなっている要因なのでしょう。例えば、楽譜では第1楽章の第2主題冒頭のホルンのテーマは、提示部ではホルンで演奏されたものが展開部ではファゴットに変わっているところも、あえてホルンで吹かせるといった「あの頃」の慣習に見られるように、これはとても懐かしい様式の演奏です。その分、今ではとてもお目にかかれないような濃厚で迫力に満ちた仕上がりとなっています。特に第4楽章に入ってからの煽りにはものすごいものがあり、最後のアコードが打ち鳴らされた瞬間に盛大な拍手が起こるという、あの頃のお行儀の良い演奏会にしては珍しい「事件」があったことも、しっかり記録されています。ある意味、この「拍手のフライング」こそが、このCDの最大の聴きどころかも知れません。
次の曲の作曲家、ブラックウッドという人は、今では完全に忘れ去られていますが、当時はまだ26歳の未来を嘱望された作曲家でした。メシアンとヒンデミットに師事したということですが、この4楽章形式の交響曲は、もろにヒンデミットの影響が見られて、最初のうちは正直退屈な作品のように感じられました。ところが、最後の楽章になったら、そんなヒンデミットのエピゴーネンは姿を消し、とてもしっとりとした静謐な世界が広がっていたので、ちょっとびっくりです。この楽章だけは、今でも充分に鑑賞に耐えうるもの、逆にそれが当時は受け入れられずに、以後のキャリアがストップしたのでは、などと思ってしまいます。本当に静かにエンディングを迎えるため、今度はなかなか拍手が起こらないのが面白いところです。この日の聴衆はとても正直だったのでしょうね。

CD Artwork © Tomei Electronics "Altus Music"
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by jurassic_oyaji | 2011-04-17 23:24 | オーケストラ | Comments(0)
「フォル・ジュルネ」中止
 前回の「禁断」には、当然何らかの反応があることを想定していましたが、予想通りさまざまの意見が寄せられましたね。ブログ版には2つほどコメントがありましたので、それはそのまま見ることが出来ますし。最初のものはあまりにストレートな反論だったので、いっそ削除してしまおうとも思いましたよ。このブログには、私が承認しないことには公開されないという機能がありますからね。こんな、あまりに恥さらしのコメントは抹殺しても構わないのですが、そんな「卑劣」なこともしたくないので、あのように見えるところにさらしてあります。しかし、次のコメントは、別の面からこの事件の「真相」を教えてくれた貴重なもので、とても示唆に富むものでした。確かに、こんな時にデマに惑わされてしまうというのは人間の弱い面の現れなのでしょう。そういう意味では、川崎市民も「被害者」ということが出来るのかもしれません。
 今日になって、朝日新聞に一連の風評被害に関する記事が出ました。その中で、今回の件にも触れている部分がありました。 
 だが、風評被害は食品にとどまらない。
 川崎市では、阿部孝夫市長が被災地のがれきを受け入れると表明したところ、「放射能のごみを燃やしたら危険」などの苦情が市に殺到した。受け入れ方針が報じられた8日以降、電話やメール、封書は4千件近くに及ぶ。
 大半は「放射能を帯びた廃棄物が持ち込まれる」という誤解に基づくもの。市はホームページにQ&Aを掲載し「安全が確認されるまで受け入れることはない」などと説明。最近は「電力を供給されている立場で(がれき受け入れに)文句を言うのはおかしい」「頑張って」といった電話も増えてきたという。

 おそらく、このあたりが最も冷静に一連の動きを集約したものなのでしょう。私も、これを受けて、この件には幕を引きたいと思います。
 今回の震災は、いまだに余震が収まらないばかりか、これからもさらにマグニチュード8程度の余震が起こることが予想されているという、まさに「未曾有」の出来事になっています。ですから、復興にしても計画通りに進むとは限りません。私の家のかたずけのようなもので、これで元通りになったと思ったら、余震でまたメチャメチャになってしまうというように、それはまさに一進一退の様相を呈しているのではないでしょうか。ですから、5月の連休に行われる予定だったあの「フォル・ジュルネ」も、一旦は「予定通り開催」などと大口を叩いていたものが、その後の状況の変化で、こんなことになってしまいました。「出演アーティストの来日キャンセル」というのが、とどめだったのでしょうね。つまり、「風評被害」というものは、もはや福島と川崎のレベルではなく、全世界対日本全国というとんでもない次元の話に、すでになってしまっていたのですよ。千葉県の人たちに仲間外れにされた福島の子供と同じ目に、いま全ての日本人が遭っているのですね。
 まあいいんです。別に外タレなんか来なくても、困る人なんか私のまわりにはいませんからね。そもそも、仙台にまともな外国のオーケストラが来ることなんて、年に1回あるかないかですから。
 震災の爪跡がまだ残る仙台にも、ようやく桜が咲き始めました。来年の桜の頃には、いったいこの街、この国はどんなことになっているのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2011-04-16 20:39 | 禁断 | Comments(0)
James Galway plays Flute Concertos
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James Galway(Fl)
Various Artists
RCA/88697828122




最近のCDのリリース状況を見ていると、もはやメジャー・レーベルはクラシックに関しては殆ど新しい録音をやめてしまったのではないか、と思えるほど元気がありません。そんな中で、過去のカタログのたたき売りだけには、ものすごい情熱を傾けているかのようにすら感じられます。なんせ、中には100年以上の歴史を誇るレーベルもあるのですから、抱えている音源の量はハンパではありません。もはや制作費などはすっかり償却が終わっているのですから、ビジネスに徹する課程でアーティストに対する畏敬の念を放棄することに罪悪感を抱きさえしなければ、いくらでも安価な商品を提供することは出来るのでしょう。
かくして、RCA、つまりBMGの音源を全て手中に収めたSONYによって、あのゴールウェイの12枚組みのボックスが、割引などを適用するとたったの2690円で買えてしまうという時代が来てしまったのです。1枚たったの200円程度、新しいアルバムが出るたびに買い集めていた、その同じものが10分の1以下の値段になってしまうのですから、なんとも複雑な思いです。
今回のボックスは、彼の膨大なカタログの中から、協奏曲を演奏しているトラックが集められています。似たようなコンピレーションは今まで幾度となくリリースされていましたから、曲目に関してはすでにその中に入っていたものが殆どだと、普通は考えてしまいます。しかし、実際に手に取ってみると、この中には知る限りではまだCDになっていないものが含まれていたので驚喜しているところです。ゴールウェイがベルリン・フィルを退団してソリストとしてのスタートを切ったのは、1975年のことでした。それ以来、彼のアルバムはRCAからリリース、最近まで、ほぼ「専属アーティスト」という感じで、このレーベルに貢献してきていました。しかし、ソロ活動を始めた当初は、EURODISC(オイロディスク、決してエッチなレーベルではありません・・・それは「お色気ディスク」)など他のレーベルにも録音は行っています。そのEURODISC(すでにBMGの傘下に入っていましたから、当然SONYからも出すことが出来ます)に残した数枚のアルバムの中の、1978年の録音、テレマンの組曲と2曲の協奏曲を収録したものの中から、ト長調の協奏曲が、多分初めてCDになっていたのです。組曲はすでに還暦記念ボックスに入っていましたから、残るはハ長調の協奏曲だけですね(すでにCDは出ているよ、という方の情報をお待ちしています)。
さらに、今回はマスタリングも新たに行われているようです。全部聴いたわけではないのですが、初出のCDに比べると、明らかに音が良くなっています。なんといっても、これらのCDがリリースされたのは80年代から90年代にかけてですから、まだまだマスタリングは手探り状態だったはずで、今聴き直してみると繊細な部分がかなり損なわれているように感じられます。というより、これを購入した頃は、とりあえずゴールウェイの演奏には魅力を感じても、ちょっと繰り返して聴くには抵抗があるような音だったことを思い出していたところです。技術の積み重ねによって、こんな安価でもはるかに素晴らしいものを作り出すことに成功していたのですね。ただ、それは輸入盤のケースであって、国内盤の場合はそれほど遜色のないものだったのも、新しい発見でした。当時は、このレーベルに関しては、日本のマスタリングの方が輸入盤より優れていたのですね。
ゴールウェイの演奏は、いまさら何も言うことはありません。特に、バックのオーケストラをも圧倒するような存在感は、小ぶりになってしまった今時のフルーティストには及びもつかないものです。これからもこれほどの演奏家が出てくることはないのではないかと思えるほどのスーパースターの克明な記録、繰り返しますが、それがこんなに安価に入手出来るなんて、まさに奇跡です。
(4/16追記)
自他共に認める「ゴールウェイおたく」のTさんから、「テレマンのト長調はこちらに入っています」という情報を頂きました。ちなみにハ長調はやはりまだCD化されていないそうです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2011-04-15 21:07 | フルート | Comments(0)