おやぢの部屋2
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Beyond All Mortal Dreams/American A Cappella
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Stephen Layton/
The Choir of Trinity College, Cambridge
HYPERION/CDA67832




「全ての滅びゆく夢を超えて」というタイトルは、ここで歌われている曲の中にはありません。レイトン自身がアルバム・コンセプトとして提案したのでしょうか。確かに、このフレーズはジャケットを飾る聖ミカエルの像とともに、アルバム全体を包む神々しさを的確に表現しています。
アメリカの作曲家によるア・カペラ曲のアンソロジー、残念ながらここに登場する8人の作曲家の名前と作品は、全て初めて耳にするものばかりでした。しかし、それらはなんとも懐かしい思いを醸し出してくれるものばかりだったのには、軽い衝撃を与えられてしまいます。それがレイトンの趣味というフィルターを通った結果である点は差し引いたとしても、全ての曲が、なんとも無防備な心の深いところまで入り込んできて、確かな共感をもぎ取っていくものだったのですから。
そんな、似たようなテイストを持つ作品を産んだのが、生年に1世紀近くの隔たりをもつ作曲家たちだったという事実に、まず驚かされます。最も年長の(いや、すでに物故者ですが)ヒーリー・ウィランが1880年生まれなのに対して、最年少のオラ・イェイロは1978年生まれなのですからね。
ウィランの次の世代がこれも物故者である1920年生まれのエドウィン・フィッシンガー、それからは1950年前後生まれの「塊」が5人も続きます。1949年のスティーヴン・ポーラスとスティーヴン・スタッキー、1950年のフランク・フェルコとウィリアム・ホーレイ、そして1953年のルネ・クラウセンです。そして、次の世代のイェイロとなるわけですね。
これらの作曲家たちは、その1世紀の間に起こった作曲技法の変遷などには全くかかわらないフリをしながら、ひたすら「美しい」合唱曲を作り続けました。それもそのはず、そもそも時代的な先達とも言えるウィランが目指したものはそんなチマチマとした技法の遠く及ばないルネサンス時代の音楽だったのですからね。しかも、そのあとを継いだスタッキーの曲はトーマス・タリス、フェルコに至ってはヒルデガルト・フォン・ビンゲンへのオマージュなのですから。そこには、無調も、12音も、そしてクラスターや偶然性も入り込む余地はなかったのでしょう。ここでは、見事に溶け合った三和音の世界が、レイトンとケンブリッジ・トリニティカレッジ聖歌隊という、彼のもう一つのパートナー「ポリフォニー」よりは穏健さを旨とするペアによって、輝かしいばかりに広がります。
もちろん、個々には多少の「冒険」が見られることもあるでしょう。フィッシンガーの「Lux
aeterna」では、グレゴリアン・チャントの呼びかけに対して、元の音を伸ばしながら4度上昇、3度下降という音型を繰り返して、結果的にクラスターを産み出すという「斬新な」アイディアが披露されています。しかし、これはあくまでも「ツカミ」の効果をねらっただけのもので、そのあとはごく平穏なハーモニーが現れてくるだけ、リゲティの同じタイトルの曲で使われているクラスターとは、似て非なるものです。
スタッキーも、「タリス」の2曲目「O sacrum convivium」ではオスティナートで同じパターンを繰り返すという「新しい」技法を使っていますが、逆にそれは他の部分の「懐かしさ」を際立てるという効果しか生んではいません(この繰り返しがなぜか「お盛ん、カメレオン」と聴こえてしょうがありません)。
そんな「中間世代」の悪あがきを横目で見ながら、「新世代」のイェイロはなんのためらいもなく「美しい音楽」を極めようとしています。「Sanctus」と、テキストは「Agnus Dei」である「Phoenix」は、そんな信念がストレートに現れた感動的な作品、そして演奏です。
そんな煌めきにあふれた秀曲たち、これがSACDであったなら、よりナチュラルな響きと息づかいが味わえたことでしょう。

CD Artwork © Hyperion Records Ltd
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by jurassic_oyaji | 2011-07-30 21:42 | 合唱 | Comments(0)
HINDEMITH/Orchestral Works
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John Neschling/
Sao Paulo Symphony Orchestra
BIS/SACD-1730(hybrid SACD)




最近、読響の指揮者下野竜也さんが、ヒンデミットが編曲したワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲を、オリジナルの弦楽四重奏を弦楽合奏に直して、演奏会で取り上げていたそうですね。この形での演奏は「世界初演」なのだそうです。定期演奏会ではないものの、こんな、人をおちょくったような作品を堂々とオーケストラで演奏してしまうなんて、下野さんのお笑いのセンスはまだ健在のようでした。
そもそも、下野さんはお笑いだけではなくヒンデミットも大好きなようで、読響ともヒンデミットの作品をシリーズで演奏しています。以前、別なオーケストラを指揮している「ウェーバーの主題による交響的変容」を聴いたことがあったのですが、それは推進力のあるとても素敵な演奏でした。
今回、ヒンデミットの代表的なオーケストラ作品を集めたアルバムがリリースされました。めったにヒンデミットなどは聴きたくなることはないのですが、演奏しているのがネシュリング指揮のサン・パウロ交響楽団というので、ちょっと興味がわいたのですね。
このコンビの演奏といえば、ブラジルのレーベルBISCOITOから出ていたベートーヴェンの交響曲などを以前楽しく聴いていたものでした。そのレーベルとBISとがどういう関係にあるのかは分かりませんが、それと同じものがBISのカタログに載っていたり、今回のようにBISのプロダクションとして制作されたりしています。そのあたりの事情に通じている方は、ご一報を。
じつは、BISでの彼らの演奏は、前にベザリーのバックという形のものを聴いていました。それも今回と同じSACDだったせいでしょうか、ちょっと気取った演奏だったのが気になりましたが、今回のヒンデミットはどうなのでしょうか。
ここで演奏されているのは「画家マティス」、「気高き幻想」、「ウェーバーの主題による交響的変容」(曲順)の3曲です。ここからは、いかにもSACDらしいとても余裕のある「いい音」が聴こえてきたのは、幸せなことでした。なによりも、弦楽器がとても繊細な音色で表情豊かに演奏しているのには、ちょっと驚かされてしまいます。録音のせいなのでしょうが、ベートーヴェンの時のようなちょっと荒々しいところなどは全く見られず、ひたすら柔らかな肌触りで迫ってくるものですから、まるで全く別のオーケストラを聴いているような気になってしまいます。
木管楽器も、こんなに上手だったのか、と見なおしてしまいます。ヒンデミットではフルートが大活躍する場面が多く見られますが、どれもうっとりするような甘く、時には力強い音色で楽しませてくれます。一緒にアンサンブルしているオーボエも、まるでドイツのオーケストラのようなどっしりした音色で安定感を見せていますし。
ただ、前半の2曲では、そんな美しいところは満載なのになにかこのオケの本来の姿だと勝手に思っているノリの良さが、ほとんど感じられないのですね。なにか、小さくまとめようという受け身の態度に終始しているようなのですよ。常々感じているのですが、ヒンデミットの音楽というのは、なにか素直に入っていけないところってありませんか?テーマのメロディ・ラインが、どこか不自然で美しくないのですよね。もしかしたら、この指揮者とオーケストラも直感的にそんなところに反応していたのかも。
ところが、最後の「ウェーバー~」では、そんな「無理」が全く感じられないのですよ。終楽章の金管などはノリノリです。おそらく、この曲にはヒンデミットのオリジナルのテーマではない、もっとキャッチーなウェーバーのものが使われているのが、その原因なのでは、と、勝手に思ってしまいました。ベザリーの時もそうでしたが、このオケはほんとに好き嫌いがはっきり音に出るのでしょうね。
彼らが「オランダ人」を演奏したら、どれほどハチャメチャになるか、ちょっと怖い気がしますが、「おら、やんだ~」と言わないでぜひ聴いてみたいものです。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2011-07-28 20:19 | オーケストラ | Comments(0)
CRAS/Quintette pour flûte, harpe et cordes
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Juliette Hurel(fl)
Marie-Pierre Langlamet(Hp)
Philille Graffin(Vn)
Miguel da Silva(Va)
Henri Demarquette(Vc)
TIMPANI/1C1179




以前合唱曲でご紹介したフランス、ブルターニュの作曲家、ジャン・クラのフルートをメインにした室内楽を集めたアルバムです。レーベルはもちろん、いまやクラのオーソリティとなった感のあるTIMPANIです。
クラシック・ファンの間では「クラ」という表記が定着しているようですが、本当は「クラーズ」という殺虫剤(それは「ハエコナーズ」…似てない)のような呼び方の方が正しいのだそうですね。まあ、そんなことを言われてもねぇ。なにしろ、いくら「ドヴォルジャーク」が正しいと言っても「ドボルザーク」はなくなりませんし、吉田ヒデカズ先生のようなえらい方が「フォーレではなくフォレだ」とおっしゃっているにもかかわらず、巷で「フォレのレクイエム」を見かけることはありません。それがクラシック・ファンというものなのですよ。
クラという人は、作曲家としてだけではなく、軍人としてもかなり高い地位にあった人でした。それだけではなく、科学技術の方面でも今に残る功績があるというのですから、すごいものです。このCDのブックレットには、彼が船室の中でピアノを弾いている写真がありますが、それはまさに彼のステイタスを象徴するもののように見えます。軍艦の中の広々とした自分専用の船室の中にグランドピアノを持ち込み、それを軍服姿で弾いている姿には、ちょっと不思議なものを見ているような気にさせられてしまいます。その写真には、アフリカの民族楽器のようなものも一緒に写っています。彼が任務で赴いた異国の地では、彼は軍人としてだけではなく、音楽家としても様々なものを吸収したのでしょうね。たしかに、彼の作品の中にはそんな非ヨーロッパのコンテンツは頻繁に聴くことが出来ます。
このアルバム、メインの五重奏曲の前に、その5人のメンバーがそれぞれ別のアンサンブルを組んで演奏する、という工夫が見られます。その最初に入っている弦楽三重奏曲が、そんな多くの要素が満載の、とても楽しい曲でした。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという、ちょっと安定感を欠く不思議な編成なのですが、それを逆手にとって生み出した緊張感も、なかなかのものです。全体の構成は古典的、というよりはさらに古風なバロックあたりの雅ささえも漂わせているものです。そんな中に、いきなりジプシー風のスケールが登場する第2楽章などは、バロックの時代に唐突にポリコードが登場するというショッキングな世界が広がって、思わず聴きいってしまいます。第3楽章では、今度は中国風の音階が、ポルタメントがかかったピチカートで演奏されますから、なんともおどけた感じが小気味よいものです。フィナーレは6/8のタランテラで、アイルランドのリバーダンス風に迫るかと思えば、中間部では一転、リズムがヘミオレに変わって中国テイストのテーマになるという楽しさです。
次は、ハープのソロ。ドビュッシー風のたゆとうような全音音階によるレントが、切れ目なく技巧的なアニメにつながるという爽快な造りですが、後半がもはやハープという楽器の能力の限界を超えているようなすさまじさを見せています。これは、演奏しているベルリン・フィルの首席奏者、ラングラメの技巧をもってしても克服は出来ないものなのでしょう。
そして、まずはハープとのデュオというスタイルで、フルートのユレルの登場です。それこそバロックの舞曲を集めたような組曲、ひたすら粋な軽さを示して欲しいところなのですが、ユレルの演奏がなにか重苦しいのが気になります。音程も少し暗めですし。ですから、全員が揃った、最後の五重奏曲は、ドビュッシーのソナタ(フルート、ハープ、ヴィオラ)を下敷きにしていながら、時折さらに自由度を増したヴァラエティは感じられるものの、フルートがあまりに沈んでいるために本来の美しさが出きっていないもどかしさが、ちょっと惜しまれます。

CD Artwork © Timpani
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by jurassic_oyaji | 2011-07-26 22:57 | フルート | Comments(0)
MAHLER/Symphonie No.2
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Christiane Oelze(Sop), Michaela Schuster(MS)
Marcus Stenz/
Kartäuserkantorei Köln, Bach-Verein Köln, Figralchor Bonn
Madrigalchor und Kammerchor der Hochschule für Musik Köln
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 647(hybrid SACD)




こちらを見て頂ければ分かるように、このページで今まで取り上げてきたマーラーの交響曲の嗜好には、明らかな偏りが存在しています。これだけ多くのCDが紹介されている中で、「3番」や「7番」、そして「10番」は全く取り上げられてはいないのですね。正直、「3番」などは冒頭のノーテンキなファンファーレを聴いただけでどっ白け(死語:「どっちらけ」と読みます)ですし、「7番」も終楽章の、本当になにも考えていないような明るさには、到底ついていけない思いに駆られてしまいます。
逆に多いのは、実際に演奏したことのある「1番」、「5番」ですが、「9番」も演奏していたにもかかわらずちょっと少なくなっているのはトップを吹いていなかったためです。パートによって、思い入れがガラリと変わってしまうのは仕方がありません。しかし、なんと言っても多いのは「2番」でしょう。もちろん、こんな大規模な作品はとても実際に演奏できる見込みはありませんが(バンダの人数がハンパではありませんし、オルガンも入ります)、フルートパートと合唱パートがとてもおいしいので、晴れて最高位にランクされることになりました。
実際、フルート吹きにとっては、マーラーはそんなに面白いものではありません。まず、マーラーはフルートに対して明らかに偏見があることは、その使い方のいたるところで感じられます。そもそも、彼はフルートの力を正当に評価していないのには、常に腹が立っています。他の木管がソロで出てくるパッセージが、フルートになるとほとんど2本重ねて吹くようになっているのですからね。あとは、ヴァイオリンの超絶技巧で迫る難しいパッセージをユニゾンで吹かせたり、とんでもない高音が出てきたりと、そのサディスティックな扱いぶりは目に余ります。
そんな中で、この「2番」では、終楽章の後半に、フルートと、そしてピッコロによって延々と続くソリスティックな部分が設けられているのですから、それだけでも嬉しくなってしまいます。そして、それが静かに終わったところで、やおらア・カペラの合唱が登場、この見事な場面転換は、いつ聴いても鳥肌が立ちます。
その「2番」の最新の録音が、これです。2010年の1023日から27日にかけて行われたコンサートの録音を編集したものですが、指揮者のシュテンツは、その直後、11月の19日と20日にNHK交響楽団と、この同じ曲を演奏しているのですね。もちろん東京で。その模様はテレビで放映されたので見ているのですが、オーケストラがあまりにもだらしないのにがっかりしてしまいました。肝心の金管楽器が、聴かせどころでことごとく自滅していたのですね。
しかし、シュテンツの手兵、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団はそんなことはなく、どんなところでも求められる最高の音を提供してくれています。特にホルン・セクションの安定感は、見事です。それを操るシュテンツも、とても伸びやかなマーラーを聴かせてくれています。つまり、前回のユロフスキのような作為的なところがまるで感じられず、その音楽をごく自然に受け止めることが出来るのです。
そして、最後に出てくる合唱が素敵でした。たくさんの合唱団が集まっているようですが、それぞれの団体の名前から想像すると、普段は宗教曲を演奏していたり、まだ学生のような若い人が多かったりする感じがしませんか?確かに、聴いてみると音色はあくまで澄んでいて、その上ちょっとダークな面があるという、この曲にはうってつけのものでした。ソプラノとメゾのソリストが、この合唱に見合うだけの敬虔さを備えていてくれれば、言うことはなかったのですが。
でも、これだったら充分「復興支援」の役には立つはずです。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH
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by jurassic_oyaji | 2011-07-24 22:22 | オーケストラ | Comments(0)
Gershwin Concert
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Jeffrey Siegel(Pf)
Evgeny Svetlanov
Swedish Radio Symphony Orchestra
WEITBLICK/SSS0123/0124-2




ガーシュウィンの曲ばかりによるコンサートのライブ録音、おそらく全部の曲目が収録されているのでしょう、トータル1時間38分の2枚組CDです。演奏しているのがあのスヴェトラーノフ、そしてオーケストラは彼の最晩年、1995年から2000年の間にもっとも密接な関係にあったスウェーデン放送交響楽団です。コンサートが行われたのは1996年9月のストックホルム、最初の曲は「パリのアメリカ人」ですが、「パリ」とも「アメリカ人」とも全く無縁なアーティストとロケーションになりますね。夏休みも終わってますし(それは「バケーション」)。
そう、この録音は、ロシアを代表する指揮者によるガーシュウィン、まさにミスマッチの極みではあるのですが、それが逆にガーシュウィンの思ってもみなかったような一面を教えてくれるのですから、これはなかなか得難い経験です。
スヴェトラーノフがガーシュウィンを好んで演奏したというのは有名な話ですが、おそらく彼はミュージカルやジャズの作曲家としてではなく、きちんとした「クラシック」の作曲家として、ガーシュウィンのことをとらえていたはずです。ですから、それを演奏する時には、容赦なく彼の資質をこれらの作品に注ぎ込むことになりました。「パリのアメリカ人」は、さしずめ「交響詩」としてのアプローチでしょうか。ほとんど冗談とも思えてしまう鈍くさいテンポに乗って繰り広げられるのは、パリという洗練された都市ではなく、まるでロシアの広大な大地を舞台にしたのかと思えるほどの雄大なドラマでした。圧巻は、途中で聞こえてくる、本来だったら哀愁を帯びたブルースを奏でるはずのトランペットのソロでしょう。とてつもないクレッシェンドを伴うそのトランペットは、まるで地平線の彼方から聞こえてくるような壮大な迫力を持っていました。
ピアノ協奏曲も、「ジャズ」や「ブルース」といった素材には、指揮者はなんの関心も寄せてはいないようでした。ガーシュウィンが、自費でオーケストラを雇ってまでして極めたかったオーケストレーションの極意を、スヴェトラーノフは丹念になぞろうとしています。もちろん、そこにはロシアの巨匠たちの仕事も重ね合わせられることになります。かくして、「in F」などといういかにもライト・ミュージック的な表記のあるこの曲は、チャイコフスキーにもひけをとらない立派なピアノ協奏曲として生まれ変わることが出来ました。なんたって、第1楽章が終わったところでものすごい拍手が起こるのですからね。アダージョ楽章からわき上がってくる深い情念には、思わず涙ぐんでしまいそうになります。ただ、いかんせん、ピアニストがそんな指揮者の思いを完全には受け取れていなかったことが、悔やまれます。いや、第2楽章まではよくやっていました。しかし、フィナーレになったらついいつもの軽薄なテンポが出てしまったのです。確かにこのソロは「ゆっくり」弾く方が逆に難しいのかもしれませんが、これがライブの怖さなのでしょう。もっとも、打楽器奏者などもかなり苦しそうでしたから、これは仕方がなかったのかも。
「キューバ序曲」は、軽快なカリプソのリズムに乗って、一見それまでの重さを忘れてしまいそうになりますが、やはり中間部になったら「スラブ音楽」が全開でした。確かに、これはそういう深みのある音楽だったんですね。
そして、最後を締めるのは、ロバート・ラッセル・ベネットの編曲による「ポーギーとベス」を素材にした「交響的絵画」です。オリジナルとは微妙にテイストが異なり、本来のミュージカル色が薄まっている分、スヴェトラーノフとしては思い切り歌い上げることが出来たのでしょう。「Summertime」などは、なんとも格調高い仕上がりです。「I have plenty of nothing」ではバンジョーがソロ楽器としてフィーチャーされています。それがまるでバラライカのように聞こえてくるのですから、すごいものです。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion
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by jurassic_oyaji | 2011-07-22 19:45 | オーケストラ | Comments(2)
BEETHOVEN/Symphonies nos. 7 & 8
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Jan Wilem de Vriend/
The Netherland Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72500(hybrid SACD)




デ・フリエントのベートーヴェン・ツィクルス第3弾は、「7番」と「8番」のカップリングです。ベートーヴェンの交響曲と言えば、かつては「5番」の人気が突出していたものですが、今はどういうランキングになっているのでしょうね。少なくとも、「7番」が以前ほどの低ランクに甘んじていることはなく、かなり上位に頑張っていることは間違いないはずです。なにしろ、「のだめ」以後は、この曲に対する認識がガラリと変わってしまいましたからね。
しかし、「8番」に関しては、今までにそんな晴れがましい扱いがあったことはおそらくないはずですので、相変わらず下の方のランクでウジウジしているのではないでしょうか。演奏時間も短めですから、例えば、どこかのオーケストラが演奏会の曲目を決めるような時には、この「8番」をメインプログラムに据えることはまずないはずです。かといって、いやしくもベートーヴェンの交響曲を前プロにするのもなんだかなぁ、ということで、なかなか扱いの難しい立場に立たされているのですよ。ですから、全集を演奏するような機会でもないと、なかなか日の目を見ないという、ちょっとかわいそうな境遇に甘んじているのかも知れません。
デ・フリエントとネーデルランド交響楽団のベートーヴェンは、今まで通り、ピリオド奏法を極限まで取り入れたモダン・オーケストラによって演奏されています。ですから、響きはあくまでコンパクト、フレージングもいかにも軽やかに運ばれています。そんな中では、「7番」のリズミックな一面はより軽快に伝わってくることになり、この曲本来の身の丈にあったチャーミングな仕上がりとなっています。木管楽器はソリスティックな部分でもしっかり弦楽器に寄り添っているのに対して、ピリオド楽器をそのまま使った金管はなんとも刺激的な音色で迫るものですから(特に、スケルツォのトリオでのホルンのゲシュトップ)、その対比はちょっとユーモラスに聞こえたりもします。「のだめ」でこの曲を知った人などは、多分全くイメージが覆されてしまうことでしょう。
おそらく、そういうシチュエーションで演奏される時、「8番」は普通のモダン・オケで演奏される時とは全く別の顔を見せてくれることを、デ・フリエントは明らかにしたかったのではないでしょうか。ここでは、あたかも彼がこの曲につきまとう「軽い」イメージを払拭するために全力を尽くしているかのように感じられてしまうのです。
そもそもこの曲は、序奏なしでいきなりメインテーマから曲が始まるという、「5番」や「6番」と同じような明快なオープニングを持っているのですが、そのテーマの最初の4小節が、なんとも粋なフレージングで歌われていることに、聴くものは軽いショックを受けるはずです。指揮者は、たったこれだけのことで、まずこの曲のイメージをガラリと変えてしまうことに成功しているのですね。ここで、このテーマのきっちりとした提示を聴いた後では、普通は冗漫だとされているその後の展開が、なんとも味のある確かな意味を持つことにも気づくはずです。今まで単なる「つなぎ」にしか聴こえなかったものが、実は恐ろしいほどの説得力を持って音楽全体の「力」となっていたのですね。
そんな、しっかりとしたフォルムを備えていることを確認したあとで、あのフィナーレでのしつこすぎるエンディングのアコードの連打を体験すると、それは間違いなく次の交響曲への準備が整ったことへの高らかな宣言に聴こえることでしょう。そう、ベートーヴェンはこの曲を作る時に、後に「第9」で見せることになる前衛的な手法を、あらかじめ模索していたのではないか、そんな思いさえ、この刺激的な演奏を聴く時にはよぎってくるのです。木を切ったりはしませんが(それは「与作」)。
ですから、続く「第9」がどんな仕上がりか、とても楽しみですね。

SACD Artwork © Challenge Records Int.
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by jurassic_oyaji | 2011-07-20 19:44 | オーケストラ | Comments(0)
BRAHMS, REGER, BRUCKNER/Motets
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Voces8
MIRARE/MIR 154




今年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」は、大震災の影響で、その開催を巡ってはなんとも醜い姿をさらけ出していたものです。結局、東京でのこのイベントは大幅に規模を縮小して開催されることになったようですが、それが果たして正しいことであったのかという判断は、断じて主催者にまかせるべきものではありません。
そんな中で、初来日となったイギリスのア・カペラ・グループ「ヴォーチェス8」は、あちこちで高い評価を受けていたようですね。今年のアーティストの中ではベストだ、みたいな言い方をされたりもしていましたから、よっぽど素晴らしいライブだったのでしょう。実は、その頃には、その数か月前に「本場」ナントで開催されていた「ラ・フォル・ジュルネ」で彼らが演奏していたもののライブ録音であるこのアルバムも、すでに日本には届いていたのですね。曲目は日本でのものと全く同じ、ブラームス、レーガー、そしてブルックナーのア・カペラのモテットです。ですから、日本でのコンサートには、新幹線が止まっていたので聴きに行くことが出来なかった(いや、そもそも聴きに行く気などありませんでしたが)東北地方の人でも、このCDさえあればMCも含めたワンステージ分のパフォーマンスが丸ごと体験できたことになります。もっとも、「丸ごと」とは言ってもほんの40分足らずの長さしかありませんが。
40分しか入っていないCDなどは、フツーは「ミニアルバム」、あるいは「マキシシングル」という呼び方をされて、価格もそれなりにミドプライスの扱いをされているものなのですが、これはしっかりフルプライスの設定になっています。ですから、その分「豪華」なブックレットでもついているのかなと思いきや、それは1枚の紙切れを折っただけのものでしかありませんでした。そこには、ナントでのコンサートらしき写真はあるものの、なんと(ああ!)メンバーの名前すら掲載されてはいません。ですから、このジャケットの写真の左端にいる、ちょっとシャナン・ドハーティ似のアンドレアが、その裏のライブの写真では全く別人のように見えてしまっても、確認するすべがないのですよね。
というのも、前にSIGNUMから出ていたアルバムと比べると、ライブだというハンディを差し引いてもあまりにも演奏が練れてないものですから、もしかしてエキストラが入っていたのでは、と勘繰ってしまったのですよ。層の厚いイギリスの合唱界では充分にありうることですからね。特にソプラノのヘンなビブラートは、前のアルバムでは決して見られなかったものでしたし。
まあ、そんな瑕疵は買ってから分かったことなのですが、そもそもはブルックナーのモテットが入っていたので聴いてみたいと思いました。前のアルバムのレベルだったら、こういう少人数で歌われるブルックナーもなかなか面白いものに仕上がっているのでは、という期待があったからです。
しかし、そのブルックナーは失望以外の何物でもありませんでした。ライブならではの、お客さんを前にした時のテンションなのでしょうか、彼らの演奏はあまりにも「サービス精神」に溢れすぎているのですね。ブラームスあたりではギリギリ許されるものなのかもしれませんが、それをブルックナーでやられてしまうと、もう、それはブルックナーではなくなってしまいます。というか、そういう演奏を聴いて初めて、この作曲家がいかにくそまじめに音楽に向かい合っていたかが実感として分かってくるというか。
まあ、フランス語でMCをやったり、そんな中で一人だけ「ワタシ、ふらんすゴ、シャベレマセーン」と開き直ったりと、楽しさから言ったらそれはもう満足度は全開です。でも、肝心の演奏がこれでは、なんにもなりません。

CD Artwork © Mirare
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by jurassic_oyaji | 2011-07-18 19:49 | 合唱 | Comments(0)
東北六魂祭
 最近、空に浮かんでいる飛行船の姿をよく見かけます。いつもかなり近いところに浮かんでいるものですから、なんだかブキミ。しかも、ちょっと風の強い時などは、派手に頭としっぽを揺らしたりしていますから、大丈夫なのか、と思ってしまいます。まっ、スポンサーが「アリコ」ですから、保険的には大丈夫なのでしょうが。
 きのうも、街に向かって車を走らせていると、すぐ目の前にその飛行船が見えました。ちょうど信号で止まった時にシャッター・チャンスがあったので、こんなマンションの上をフラフラしているところを撮ることが出来ました。
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 ところが、次の瞬間、この飛行船はマンションの避雷針に見事に突き刺さってしまいましたよ。間抜けですね。
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 いや、そう思ったのは単なる目の錯覚、飛行船は何事もなかったかのように、同じ場所を旋回しています。その下は、どうやら市役所と一番町との間あたりではないでしょうか。そう、きのうのその時間には、「東北六魂祭」という、なんでも東北中の夏祭りが一堂に会するというとんでもないお祭りがおこなわれていたのですよ。飛行船は、それを上空から眺めるためにホバリングしていたのでしょう。
 その「東北六魂祭」の会場付近を車で通ったら、なんだかただ事ではない状況になっていました。異常なほどの人であふれているのですね。公園とか歩道とかはもう人の波で、おそらく自分の力で歩くことは出来なくなっているのではないか、と思えるほどの混みようです。横断歩道を渡る時も、大幅にはみ出していますから、右折待ちの車なんかは逆に怖いぐらいです。
 なんせ、そんな大イベントですから、家へ帰ったら地元テレビ局が生中継していました。でも、なんだか様子が変です。予定時間になっているのに、目玉のパレードが一向に始まる様子がないのですね。ホストのさとう宗幸なども、本気になって焦っていましたよ。高いところにあるカメラから見ると、人の数は半端ではありません。なにしろ、パレードを行うはずの道路の中にまで、見物人があふれているのですからね。案の定、「ねぶた」や「竿灯」といった最大の呼び物は「人が多すぎて危険」ということで中止になってしまったそうです。なんだか、気持ちだけが先走りして、必要なことを何もしていなかったという感じがする、とてもお粗末なお祭りでした。そもそも、最初に話を聴いた時からなんだか正体不明の胡散臭さを感じていたのですが、どうやら「復興」を食い物にする利権がからんでいたようですね。「東北」もなめられたものです。
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by jurassic_oyaji | 2011-07-17 22:56 | 禁断 | Comments(0)
クラシック名録音106究極ガイド
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嶋護著
ステレオサウンド刊(
SS選書)
ISBN978-4-88073-259-6



オーディオ評論家の嶋護さんが、ご自身のコレクションの中から「名録音」と誰にでも推薦できる106枚のレコードを集めた、見ているだけで楽しくなってくるような本です。画像でも分かるように、まず表紙には20枚の「レーベル」の写真がデザインされています。これと同じレイアウトで裏表紙にもやはり20枚分の「レーベル」を見ることができます。あ、念のため、「レーベル」という言葉は、ここにあるようなレコードの真ん中の部分の表と裏に貼り付けられた「ラベル」のことを指し示すもので、それが転じて「レコード会社」を意味するものになったのだ、というは、今では常識になっています。
これが本文になると、それぞれのレコードに1ページ半ずつを与えて、ジャケットの表と裏の写真が紹介されることになります。「表」はともかく、「裏」、つまり「ライナー」にあたる部分まできちんと見せてもらえるのには、とても嬉しくなってしまいます。これは、「物」としてのLPレコードを懐かしむとともに、もしかしたらそこに記載されてある「ライナーノーツ」の文章まで読むことが出来るほどの解像度で印刷されていますから、文字情報としての価値まで付加されているのですから。
「レーベル」だの「ジャケット」だのと、もっぱら現在では本来の意味ではもはやほとんど死語と化している言葉を羅列してきましたが、ここで「名録音」として選ばれている106点の中身は、105点までが、その様な言葉が属性としてついて回る「LPレコード」であるという事実に、ショックを受ける人は少なくないはずです。もちろん、それらは全てアナログ録音によって磁気テープに保存された音源ばかり、デジタル録音によるCDなどは、わずか1点しか含まれていません。これが何を意味するのか、それは、著者がそれぞれの「レコード」について述べている、コメントを詳細に読んでいけば、自ずと分かってくることでしょう。
著者である嶋さんの名前は、普段はオーディオ雑誌をきちんと読んだりはしませんから、初めて知りました。と思っていたら、実際はショルティの「リング」が全曲SACDされた時に、その豪華なボックスに添付されていた解説書の中で目にしていたのですね。そこで彼が書いていたのは、それまでは漠然としたイメージしかなかったDECCAの録音チームがとっていたマイクアレンジなどの技法の詳細でした。こんなに具体的なレポートを日本語で読んだのは、これが初めて、なにしろそこでは、ゴードン・パリーが使用した録音用のテープのことまで(新しい製品には問題があったので、使用済みの以前のテープをかき集めて、消磁して使ったとか)事細かに述べられていたのですからね。
そんな嶋さんの知識は、この本の中でも遺憾なく発揮されています。それぞれの録音にマイクが何本、どんな配置で使われたか、などということが、まるで見てきたようにリアルに語られているのには、驚かされます。そして、なによりも素晴らしいのは、彼が取り上げたレコードの録音を語る時の語彙の豊富さです。そこからは、そんなにすごいものなら、ぜひ聴いてみたいものだと確実に思わせる「力」が感じられます。それは、あまりに言葉遣いが巧みなため、意味が分からなくなってしまうという文章の欠点を補ってあまりあるものでした。
さいわい、この中には何枚か手元にあるものも含まれていますから、実際に彼が味わった「感動」を共有することは可能です。しかし、それは多くの読者にとってはまず不可能なはず、もし、これらのLPの中で現在CDSACDとして入手できるもののリスト、そして、それがオリジナルとはどの程度の隔たりがあるのか、もしくはないのか、といったデータがありさえすれば、この本が単なるノスタルジックな自己満足だけに終わってしまうという残念なことにはならなかったはずです。

Book Artwork © Stereosound
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by jurassic_oyaji | 2011-07-16 20:09 | 書籍 | Comments(0)
MIYOSHI/Psaume, Requiem
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小林研一郎、岩城宏之/
日本プロ合唱団連合
東京都交響楽団、
NHK交響楽団
NAXOS/NYNG 001



NAXOSの日本法人ナクソス・ジャパンが、鳴り物入りで新しい企画をスタートさせたそうです。それは、ちょっと前の日本人の作曲家の作品をシリーズで出す、というものです。そんなものは、もう何年も前からやっていたではないか、という声が聞こえてきそうですが、これはその「日本作曲家選輯」とは全く別の企画のようでした。そもそも、「選輯」の方は、スタート当初こそ日本人作曲家の一大アンソロジーを構築するような大風呂敷を広げていたものの、次第に尻つぼみになって行き、いつの間にか消滅していましたね。なんと言っても、すべてを新録音で構成するというのは、今の時代、ちょっと無理があったのかもしれませんし、そもそも、この企画の中枢を担っていたライターがやる気をなくしてしまったのでは、致し方ありません。
その代わり、ということで始まったのが、NHKの大昔の音源をそのまま使う、という、いわば「他人の褌」によるこの企画です。ここで重要なのは、「選輯」がもう終わったのだ、ということには一言も触れていないという点です。まるで昨今の天気予報のように、「梅雨が明けました」と宣言するのではなく、「梅雨が明けたとみられます」というあいまいな言い方で、どのようにでも受け取れるようにするのと同じことなのでしょう。
NHK『現代の音楽』アーカイブシリーズ」と銘打たれたこの新シリーズには、その名の通り、NHK-FMで今でも放送が続いている「現代音楽」専門のプログラムの音源が使われています。たしかに、ある意味「現代音楽」が最も輝いていた1970年代には、この番組はまさにそんなムーブメントの牽引者のような役割を果たしていたものでした。そのために、NHKが実際に演奏会場に赴いて収録した膨大な音源は、今となってはまるで宝物のような貴重な輝きを放っているものばかりです。それを、まさに「濡れ手に粟」状態でCD化しようというのですから、これほど虫の良い話はありません。価格設定も、「選輯」は1000円台で買えたものが、こちらは税込2100円ですって。その言い訳であるかのように、「高品質CD」であることを声高に叫んでいますが、そこまで言うのならなぜSACDにしなかったのでしょうか。先日の「慈善コンサート」はちゃんとSACDになっていますし、これだってアナログ音源から一度DSDに変換しているのですからね。フルトヴェングラーだって、同じようなNHK音源のムラヴィンスキーやクリュイタンスだって、SACDで出るのが当たり前の時代だというのに。
もう一つ、「慈善コンサート」と同じように「豪華」デジパックが採用されて、見るからに高級感あふれる装丁なのですが、普通のデジパックにはCDトレイのまわりに4ヶ所の凹みがあるものが(写真左)、ここには1ヶ所しかないのですよ(写真右)。これが、実際にCDを取り出すことなど想定していないのでは、と思えるほど使いづらいのですね。凹みが1ヶ所では、片手でCDを取り出すことは出来ないという初歩的なことにも気づかなかった欠陥デザインです。見た目だけを気取って肝心の機能をおろそかにしているこのメーカーは、もはやCDを消費者に届けるという基本的な仕事すら放棄してしまっているのでしょうか。
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三善晃の「詩篇」と「レクイエム」という、エポック・メイキングな作品の初演のライブ、「レクイエム」は1972年の録音なのにモノラルだということに驚かされます。しかし、そこからは、まさに初演ならではの意気込みがまざまざと伝わってきます。それは、合唱の未熟さも含めて、今の時代では決して得られないものです。そんな「空気」を実際に体験したであろう諸石幸生さんのライナーノーツの3つ目の段落で、プロにあるまじき文章上の誤りが見受けられます。こんなイージー・ミスすら校正できなかったこのメーカーの投げやりな態度は、いったいどのように受け止めればいいのでしょうか。

CD Artwork © Naxos Japan, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2011-07-14 19:51 | 現代音楽 | Comments(0)