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BRUCKNER/Symphony No.4
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Franz Welser-Möst/
The Cleveland Orchestra
ARTHAUS/108 078(BD)




ウェルザー=メストとクリーヴランド管は、これまでに何度かBD(とDVD)によるブルックナーの交響曲の映像をリリースしてきました。「7番」、そして前回の「8番」までは、彼らの本拠地、クリーヴランドのセヴランス・ホールでの収録でしたが、今回の「4番」では、ついにブルックナーの「本拠地」、ザンクト・フローリアンでの映像が楽しめます。
ただ、このBDが出た時点では、いくらブルックナーゆかりの地での映像とは言っても、そんなものは今までにいくらもありましたからそれほど食指は動きませんでした。代理店の案内などでも、特に「稿」や「版」については触れられていなかったので、そもそも魅力を感じませんでしたし。しかし、最近このBDと同じソースが、BSで放送されたのですね。こういうことはよくあって、全く同じクオリティのものを基本的に無料で見る、あるいは録画できるのですから、商品のパッケージを買ってしまった人は悔しいでしょうね。それよりも、この時の番組案内では、きっちりこの時の楽譜が「1888年稿 コースヴェット校訂」であるとの情報が表記されていたのです。これは大変です。
ご存知のように、この「コースヴェット版」というのは、2004年に出版されたばかりの新しい楽譜です。しかし、年代を見ればお判りでしょうが、これはこの作品が最初に出版された時のものと同じ内容の楽譜なのです。つまり、かつては「レーヴェ版」とか、「初版」、「改訂版」、時には「改竄版」などという虐称で呼ばれていたあの楽譜のことですね。要は、出版にあたって弟子たちが勝手に手を入れてしまった楽譜、という位置づけでしたから、「原典版」であるハース版やノヴァーク版が出版されればそれは完全に無視される運命にあるものでした。実際、録音も、この楽譜しかなかった頃の「巨匠」による演奏しか残っていません。
しかし、最近では、アメリカの音楽学者ベンジャミン・コースヴェットという人が行った研究によって、フェルディナント・レーヴェ、ヨーゼフ・シャルク、フランツ・シャルクという3人の弟子によって用意されたこの楽譜にはブルックナーの意思が十分に反映されていて、まさに「最終稿」と呼ぶにふさわしいものである、ということが判明したのだそうです。それは、コースヴェットによって校訂された楽譜が、国際ブルックナー協会の全集版からこの交響曲の3つ目の形態として出版されるという、いわば「お墨付き」を得ることによって、確固とした市民権を持つことになりました。
ウェルザー=メストは、「8番」では「第1稿」という非常に珍しい楽譜を使って演奏していました。ですから、その流れで行けば、「4番」も「第1稿」が期待されるところですが、そうではなくこの「コースヴェット版」を使ってくれました。実は、これは今までCDでは2種類しか出ていませんでした。それが、いきなり映像で見られる、というのですからね。もちろん、これが映像としては世界初のものになるはずです。なんたって、「ニューイヤー・コンサート」に出演した指揮者がこの楽譜で演奏するのですから、その宣伝効果は計り知れないものです。これからは、一気に「コースヴェット版」による演奏が増えるかもしれませんね。
この映像の監督は、あのブライアン・ラージ、冒頭の天井画のアップから始まって、長い時間をかけて引いていくというシーンから、彼の持ち味が十分に発揮されています。奇抜さはありませんが、まるでこの会場に宿っているブルックナーの魂を丁寧に探し出しているようなカメラワークは、とても味があります。
演奏も、かつて「改竄版」と言われていた時代の演奏とは、全く異なっています。決して煽り立てることなく、淡々と楽譜を音にしているという姿勢、こういう演奏であれば、追加されたティンパニや、部分的なカットの正当性も、きっちり納得できるかっと思います。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-08-31 23:01 | オーケストラ | Comments(2)
潮騒のメモリー
 「あまちゃん」もいよいよ佳境に入り、映画の撮影が終わって主題歌のレコーディングと、とんとん拍子に物事が運んでいます。そのレコーディングのシーンでは、さすがに「現代」ですから、この間のようなアナログの「テープレコーダー」が置いてあるスタジオではなく、大きなコンソールのある、デジタル録音のためのスタジオが使われています。
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 かなり立派なスタジオなので、リアリティを出すためにどこか「本物」のレコーディング・スタジオを借りたのかな、と思って、乃木坂のソニースタジオの画像などと比べてみたのですが、ちょっと違います。そこで、もしや、と思ってNHKの放送センターの中のラジオ用のスタジオを探してみたら、ありました。506スタジオです。例えばこれ。
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 「平清盛」のサントラを録音してる作曲家と指揮者の写真、その作曲家のブログに載っていたもので、そこに、このスタジオの名前がありました。こういうところで作っているんですね。椅子の後のレンガ風の壁が同じですから、間違いないでしょう。まあ、こんなのが自前で用意できるというのが、この局のすごいところです。
 そのあとの、試写会のシーンも、やはりNHKの試写室を使っていましたね。ほんとに、なんでも揃ってます。
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 これは、出来たばかりの映画のエンドロールのバックに、アキが歌った主題歌が流れる、という最後のシーンなのでしょう。思わず涙を誘う、感動的なシーンでしたね。
 ところで、こんな風に最後にキャストやスタッフの名前が流れるものを「エンドロール」というのは、かなり一般的になっています。昔は長い紙に書いたものを巻き取りながら撮影したから、「ロール」なんでしょうね。正式には「エンディングクレジット」というそうで、「エンドロール」なんて言っても外人には通用しないようですが、そんなことは気にすることはありません。前回の「禁断」ではありませんが、これだけ広まったら、もうこっちのものです。
 ただ、同じような文字が最後ではなく最初に流れた時に、もしそれを「エンドロール」と同じノリで「タイトルロール」と言ったとしたら、それはちょっと恥ずかしいのでは、という気がします。つまり、「タイトルロール」という言葉は、別の意味を持った由緒正しい言葉がすでに存在しているからなのですね。スペルは「title role」、あっちの「ロール」は「roll」ですから、発音は同じでも別の言葉、「roll」は「巻いたもの」でしょうが、「role」は「配役」という意味です。つまり、「タイトルロール」というのは、その物語の「タイトル」になっている人物のことを指すのです。「カルメン」のカルメンとか「蝶々夫人」の蝶々さんとか、いくらでも出てきますね。「半沢直樹」の半沢直樹とか。
 私は全くの門外漢ですが、「ロールプレイングゲーム」の「ロール」も、やはりこちらの「ロール」、「転がりまわって遊ぶゲーム」ではなく、「役を演じるゲーム」なのでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2013-08-30 20:20 | 禁断 | Comments(2)
WAGNER/Die Walküre
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Nina Stemme(Sieglinde)
Johan Botha(Siegmund)
Ain Anger(Hunding)
Franz Werser-Möst/
Orchester der Wiener Staatsoper
ORFEO/C875 131B




生身の人間が集まって作り上げるのがオペラですから、何事もなくうまくいくことの方が奇跡なのかもしれません。例えば、新演出のプロダクションの初日などは、本当は裏ではものすごいことが起こっているのでしょうね。それをお客さんに気付かせることなく、平然と歌ったり演じたりしている人は、やはりとんでもない能力の持ち主なのでしょう。
200712月2日に、ウィーン国立歌劇場で行われた、新演出によるワーグナーの「ニーベルングの指環」ツィクルスの最初の演目「ワルキューレ」(この歌劇場の場合、伝統的に「ワルキューレ」で始まり、「ジークフリート」、「神々の黄昏」と続いて「ラインの黄金」で終わるという順序で上演されるのだそうです)の初日にも、そんな大変なことが起こっていたのだそうです。第1幕こそ滞りなく終わったものの、続く第2幕から登場したヴォータン役の歌手がかなりの不調で、途中で歌えなくなってしまったんですね。もちろん、これだけの歌劇場では常に控え(「シャドー」ですね)の歌手が待機していますから、上演自体は最後まできっちり行われたのでしょう。そのヴォータン役の人も、次の公演からは何事もなかったかのように歌っていたそうですからね。そういうことが日常的に起こっているのが、このようにほぼ毎日オペラを上演している歌劇場の実態なのでしょう。
そんな感じで、実際に見に来たお客さんはそれなりに満足して家路についたのでしょうが、その録音をそのまま商品化するのはいくらなんでもまずいだろう、ということで、ウィーン国立歌劇場公式のライブCDが出た時には、本来なら3幕あるはずの「ワルキューレ」は、1幕だけのものに短くなっていました。まあ、この作品の場合、この幕だけでも物語はある意味完結していますから、何の問題もありません。
さすが、世界的なオペラハウスのプレミエだけあって、この時のキャストはものすごいものでした。ジークリンデが今やワーグナー歌手の第一人者として世界中でイゾルデやブリュンヒルデを歌っているニーナ・ステンメ、ジークムントが、数少ない「正当」ヘルデン・テノールの名をほしいままにしているヨハン・ボータなのですからね。そして、指揮は、この時点ではまだ客演でしたが、2010年からは小澤征爾の後任としてこのオペラハウスの音楽監督に就任するフランツ・ウェルザー=メストです。
しかし、ジャケットの写真を見ると、ボータの存在感はすごいですね。これで見る限り、戦いで傷つき、「水、水」と言いながらよろよろと登場するというキャラとは、とても思えません。左端にいるフンディンク(アイン・アンガー。この人も、公演の途中で交代したそうです)の方が、いかにも女房を寝取られるかわいそうな夫、みたいな風に見えてしまいます。その「女房」のステンメも、いかにも行きずりの男に身を任せそうな不敵なたたずまいですね。まあ、こんなのが現実の「オペラ」というものなのです。
ウェルザー=メストの指揮ぶりが、そんな「不倫劇」を助長するような「背徳」の色の濃いものです。ジークリンデが登場する時のとてもロマンティックな音楽もかなりぶっきらぼう、「よく、そんなふしだらなことをしてられるね」と戒められているような気がしてしまうのは、考えすぎでしょうか。したがって、クライマックスのデュエットも、甘さとは無縁の、何かこの先に辛い事が待っているような「寒さ」が漂います。いや、物語として実際にそんな辛いことが起こってしまうのですから、これは指揮者のしっかりとした計算に基づく「伏線」に違いありません。その結末がどんなものなのか、ぜひ知りたいと思うところ、いずれこの後の幕も海賊盤などで出た時にこそ、指揮者がこの「ドラマ」で何を描こうとしたかが明らかになることでしょう。

CD Artwork © ORFEO International Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-08-29 21:11 | オペラ | Comments(0)
自動ドア
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 最近、こういう書き方が気になってたまりません。「この出入り口は、閉鎖する場合がございます」って、一体どこが引っかかるの?と思いになる方がほとんどではないでしょうか。というか、こういうのに違和感を抱かないという人が多いという事実が、とりもなおさずこんな大手スーパーの出入り口に堂々とこういう、私にとっては違和感のある文字列が人目にさらされるという事態を招いているのでしょうね。
 なぜ違和感があるかというと、「閉鎖する」という動詞は、どこかにその動作を行う人、あるいは物、つまり「主語」が必要なのですが、この文だと、「出入り口」が「主語」に見えてくるのですね。つまり、「出入り口」さんが「何か」を「閉鎖する」ということを表現しているのが、この文だと思えてしまうのですね。本当はそうではなく、「誰か」が「出入り口」を「閉鎖」するという状況なのですから、それは「出入り口」さんにとっては「受け身」になるわけです。もうおわかりですね。この文は「この出入り口は、閉鎖される場合がございます」と書くのが、正しい書き方なのですよ。
 これを応用すると、「今度、新しいアルバムがリリースします」というのはおかしくて、正しくは「今度、新しいアルバムがリリースされます」ということになりますね。どうしても前のように言いたい時には、「僕は、今度、新しいアルバムをリリースします」と、はっきりと「主語」を入れなければいけません。
 ですが、おそらくここまで読んできて、同意できる人はかなり少なくなっているのでは、という気がします。理屈ではこういうことなのですが、実際には世の中にこういう、今までの文法では間違っている言い方がものすごく氾濫していますから、もはやだれもそれを間違いだとは思わなくなってしまっているのですね。いや、実はそうではなくて、私たちは「文法」そのものが変わってしまう、まさにそのさなかにあるのでは、という気がします。そもそも「文法」というもの自体が、それまでにあった言葉を理論づけるために無理やりでっち上げられた法則なのですから、言葉そのものが変わってしまっては何の意味も持たなくなるのですからね。ほんとですよ。もし仮に「文法」が先にあったのだとしたら、例えば動詞の活用にあんなにたくさんの種類(「五段活用」とか「上一段活用」とか)が出来るわけがないじゃないですか。その上に、さらに「特例」として「変格活用」なんてものを用意しているのですから、これはどう考えても実情に合わせて「規則」を捻じ曲げた結果でしかありません。
 そんなわけですから、別にスーパーの入口にこんな掲示があったとしても、「これは新しい言い方なのね」と認めてあげられるぐらいの寛容な心は持っています。要は、自分で書く文章には、決してそんな、私としては「間違っている」と思える言い方は使わない、というぐらいのことなのですから、別に気にしないでください。たかが「言葉」なんですから。
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 そのスーパーに入ったら、こんなゲテモノがあったので、さっそく買ってみました。同じ色でも抹茶は許せませんが、「ずんだ」なら別に平気ですから。食べてみると、別にどうということのない味でした。別にまずいわけではありませんが、特においしいというわけではないという、なんとも優柔不断な味でした。まずくてもいいから、もっとはっきりした主張を持って欲しかったと思います。
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by jurassic_oyaji | 2013-08-28 22:11 | 禁断 | Comments(4)
ジャン・シベリウス/交響曲でたどる生涯
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松原千振著
㈱アルテスパブリッシング刊(叢書ビブリオムジカ)
ISBN978-4-903951-67-6



フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの最新の評伝です。タイトルにあるように「交響曲」を軸に、時系列を追って生涯と作品の変遷を語る、という手法を取っていますから、単なる「伝記」とは違い、とても読みやすいものに仕上がっています。
著者の松原さんは、合唱指揮者として高名な方ですから、「なぜ、シベリウス?」、「なぜ交響曲?」という疑問符がたくさん頭のまわりを駆け回ります。しかし、そんな「なぜ?」は、この本を読むうちに氷解することになります。彼は、1980年前後にフィンランドのシベリウス・アカデミーに留学されていて、有名なヘルシンキ大学男声合唱団(YL)の、当時唯一の日本人団員だったのですね。そのほかにもフィンランド放送室内合唱団や、タピオラ合唱団などの団員でもあったそうなのです。その頃、テレビの仕事でフィンランドを訪問していた渡邉暁雄さんから、本格的なシベリウス研究を勧められ、それがこの本のモチヴェーションになったのだとか。
ここでは、「交響曲でたどる」とあっても、いわゆる7つの「交響曲」だけを扱うのではなく、もう少し範囲を広げて「クッレルヴォ」とか「ヴァイオリン協奏曲」までも含めて、話を進めています。その最初の「クッレルヴォ」は、なんと男声合唱が大活躍してくれるぼ。これが、合唱指揮者との接点でした。「交響曲第1番」の章の最後には、「男声合唱と作曲コンクール」というタイトルのパートで、シベリウスの男声合唱曲についても語っています。
各「交響曲」の解説は、それほど厳密なアナリーゼを行っているわけではなく、その分、よくある「楽曲解説」のような退屈さとは無縁なものになっています。例えば、「交響曲第1番」については、「シベリウス自身も語っているが、この曲を支配している要素は、ヴィクトール・リュドベルイのいう『少年の心』である」といった感じで、どちらかというと情緒的なアプローチをとっているために、とても親しみやすいイメージがわいてきます。ここでは、最初から最後まで、その「少年」で通していますから、第1楽章の途中に出てくる最初に装飾音の着いたフルートの二重奏などは「いかにも幼児らしい」とか、第3楽章の木管の軽快な動きは「少年がどこかで他の子どもたちと出会い、言葉を交わすまでもなく、いっしょに戯れ、あちこち足早に動き回っている」などと、分かったような分からないような比喩が並びます。実は、この作品の場合は、もっと語彙が豊富で緻密なアナリーゼを最近体験したばかりなので、何か物足りなさは残り、もうちょっと突っ込んでもらっても良かったな、という気にはなりますね。
他の曲の場合でも、いかにも適切なように見えて、本質とは微妙にずれているのではないか、といった印象を受ける部分がかなりありましたが、基本的に情緒を客観的に表現するのは無理なので、これはしっかりと著者の「気持ちをくむ」といった態度が、読者には求められるのでしょう。
実用的な情報として、ヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番の異稿が、現在も入手可能なCDとして市場に出ていることなどは、かなりポイントが高いはずです。実際、ヴァイオリン協奏曲の初稿が存在することすら、現実にはほとんど知られていませんから、その「音」が実際に聴けるという情報はありがたいものです。
巻末の年表や作品表は、データとして重宝しそうですし、北欧のスペシャリストとして、当地の作曲家や演奏家の日本語表記に、一石を投じているのも、なかなか刺激的です。シベリウスの演奏で定評のあったパーヴォ・ベルグルンドは本当は「ベルイルンド」というのが正しそうですし、デンマークの、いわゆる「ニールセン」も、数ある「正しい」表記の中から、著者は「ネルセン」を選んだようですね。

Book Artwork © Altes Publishing Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-08-27 22:31 | 書籍 | Comments(0)
BSのバイロイト
 ゆうべの深夜、BSでバイロイトからの中継をやってましたね。去年まではそれを「生」でやっていたのですが、今回は「収録」で、1ヶ月前に録画されたものを放送です。しかし、ライブ感を出すためなのか、最初に「当日の気象状態により、お見苦しい部分があります」みたいなテロップが出ていましたね。あくまで、「生」で放送された時のものを、たとえ「見苦しい」ものであってもお見せする、という姿勢なのでしょう。そう言えば、「生」でやっていた時に、途中で大雨が降ってきてえらいことになったことがありましたね。ただ、今回はまだ最後まで見てないので、どの程度の「見苦しさ」なのかは分かりません。
 つまり、今回のバイロイトで最も期待していたのは、ぶっ飛んだ演出だという評判の「オランダ人」そのものではなく(いや、これももちろん楽しみですよ)、おそらくオープニングで登場するであろう、この劇場の外観だったのですよ。それはまさに期待通り、なんと、序曲の間中ずっと屋外のカメラが、その模様を延々と写していたのですからね。これは、以前、実際に今年そこに行ってきた「友達」からの情報を、しっかり動画で確かめたかった、ということなんです。その願いは、まさに100%かなえることが出来ました。クレーン・カメラが、しっかり真上から撮ってくれるものですから、工事現場の足場を隠している「張りぼて」の様子が、まさに立体的に見えるのですからね。
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 しかも、このアングルだと、道路を挟んで横断歩道の先にあるのが、例のトイレと売店だというのも分かりますね。
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 さらに、バルコニーに近づいたカメラだと、その「張りぼて」の様子がよりはっきり見えてきます。しかし、これだけアップで全世界に紹介するということが分かっているというのに、この「張りぼて」のチャチさ加減には驚いてしまいますね。もうちょっと真に迫った「セット」を作ることはできなかったのでしょうか。いや、これはもしかしたらカタリーナなりの「開き直り」だったのかもしれませんね。「こんなバイロイトもあるわよ」みたいに、堂々と見せれば何も怖くない、というスタンスなのでしょう。
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 ということで、おそらく映像で見るのはこれが初めてのような気がする、ティーレマンがおもいきりラフな服装で指揮をしているカットです。これこそが、まさに彼女の「開き直り」の最たるものでしょう。ただ、これは指揮者しか写していないカメラのようですが(最後まで見てませんから)、ここでしっかりピットの中のオーケストラまで写してくれれば、それはそれで「新しい」バイロイトの姿になっているような気がします。
 もう一つ、これに続いてブルックナーの「4番」の、ちょっとコアな版による演奏が放送されていました。これはBDに焼いて、最高の音で聴けるシステムで味わおうと思って職場に行ったら、私の仕事部屋に設置されている内線電話用の配線ユニットなどが、すっかり中を開けて広げられていました。長年使ってきた電話機を一新する工事をやっていたのですね。工事の人が出入りしているので、とてもBDを見たりはできません。簡単な工事なのでお昼前には終わるだろうと待ってみても、いつまでたっても終わらないので様子を見に行くと、1ヶ所別の建物のためにコードレスで配線する部分のトランスミッターの設定に、えらく手間取っているのですね。パスワードの設定がうまくいかないようで、とうとう他のところに電話をかけて、やり方を教わりながら作業を始めましたよ。それでもうまくいきません。プロの配線屋のはずなのに、よくこんなんで仕事が出来るものです。いや、最近はやたらと電話機も複雑なものになってますから、それに追い付けなくなっているのでしょう。こういうものの開発は、工事する人のスキルに合わせて、あまり難しくならないようにやって欲しいものです。分厚いマニュアルを見ても「意味が分からない」と言って、電話をかけて聞いても、まだ「分からない」というような人が、普通は工事をやるのですからね。おかげで、丸一日無駄に時間をつぶされてしまいました。
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by jurassic_oyaji | 2013-08-26 21:15 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/The Last Symphonies
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Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Elysées
PHI/LPH011




フィリップ・ヘレヴェッヘの自己レーベル、PHIは、当初の計画ほどの頻度ではありませんが、着実にリリースを進めているようです。品番は「011」ですが、これが10枚目のアイテム、3年半でこれだけというのは、今のCD事情を鑑みればまずは大健闘ということでしょうか。
今回は、このレーベルでは初めてとなるモーツァルト、最後の3つの交響曲です。ヘレヴェッヘの場合、以前のHARMONIA MUNDI時代にも、モーツァルトの声楽曲はともかく、管弦楽のための作品には消極的で、交響曲などは録音していなかったはずですから、これは彼にとっては初めての交響曲の録音ということになりますね。ちょっと意外な気がしてしまいます。
前作のドヴォルジャークではモダン・オーケストラの指揮をしていたヘレヴェッヘですが、モーツァルトで選んだのはピリオド・オーケストラのシャンゼリゼ管弦楽団でした。弦楽器は8.8.5.5.4という、「ピリオド」にしてはかなりの「大編成」です。例えば、1980年代初頭に、「オーセンティック」を目指してクリストファー・ホグウッドが録音した、世界初の「ピリオド」オケによるモーツァルト全集ではもうちょっと少なめの弦楽器でしたし、さらに、通奏低音として、この3曲にはフォルテピアノが参加していましたね。もちろん、今回のヘレヴェッヘの録音にはチェンバロやフォルテピアノは使われてはいません。というか、初期の作品はともかく、この時期の交響曲に通奏低音を使うケースは、近年はほとんど見られなくなっているようですね。
録音は、このレーベルではおなじみのTRITONUS、例によって重心の低い落ち着いた音に仕上がっていますから、さっきのホグウッドのような、ピリオド楽器の誤った印象を植え付ける効能しかなかったひどい録音とは、隔世の感があります。それだけ、演奏と録音での「ピリオド」の受容が、より賢いものに変わったということなのでしょう。しかも、チューニングがモダン楽器と殆ど変らないほど「高い」ピッチなのにも、驚かされます。A=435ぐらいでしょうか。ついに「ピリオド」もここまでの「妥協」が図られるようになってきたのですね。そう言えば、緩徐楽章ではトゥッティの弦楽器にほんのりビブラートもかかっているような。
しかし、楽譜に関しては、「新全集」の呪縛から完全に解放される、というステージにまでは達してはいないのかもしれません。ホグウッド版で最も驚かされたのは、楽譜にある反復を全て忠実に行うということでしたが、そんな退屈なことはそろそろやめてもいい時代になっているのではないでしょうか。楽譜、楽器、奏法はピリオドでも、それを聴く聴衆は「モダン」なのですからね。
いずれにしても、かつてのストイック(ヒステリックとも言う)な「ピリオド」からはすっかり趣が変わってしまったスタイルを前面に押し出したヘレヴェッヘの演奏は、時として「モダン」でも許されないほどのアバウトなたたずまいを見せることになります。特に「39番」の第1楽章あたりでは、拍の刻みがなんとも自信なさげで、音楽の推進力が聴こえて来ないもどかしさがあります。第3楽章のトリオで、クラリネットが不思議なところで装飾を入れているのも、いい加減と言えばいい加減。
しかし、「40番」になると、そんないい加減さがプラスに作用して、重苦しさの全くない風通しの良い「ト短調」を味わうことが出来ます。こういうのも、たまにはいいですね。
そして、「41番」では、トランペットが参加することによってサウンド的にも充実、そのせいか、ドライブ感も増してきて、華やかさはふんだんに味わえます。ここにきて、今まであんまり目立たなかったフルートも、くっきり聴こえるようになりました。楽器を変えたのか、高いピッチのせいなのか、それは分かりません。

CD Artwork © Outhere
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by jurassic_oyaji | 2013-08-25 20:52 | オーケストラ | Comments(0)
メモリー
 もういったい何回見たのかも忘れるぐらい、たくさん接してきた「CATS」ですが、その中で一番有名なナンバーは、やはり「Memory」でしょうね。というか、何度聴いても「Memory」以外はなんかどうでもいい曲ばかり、という気がしてくるのですがどうでしょう?他の曲は、そこそこひねりのきいた作り方ではあるものの、なんかつまらないというか、心に響かないというか。
 なんて言うと、ファンの人からは抗議が来るはずですが、例えば「ミュージカル名曲集」あるいは、もっと限って「ロイド・ウェッバー名曲集」みたいなコンサートやアルバムがあったとして、「CATS」からは「Memory」の他に独立して歌われるだけのナンバーって、あるのかな、と思ってしまいます。「オペラ座の怪人」あたりだと、少なくとも3曲ぐらいはキャッチーなナンバーがすぐ見つかるんですがね。
 でも、この「Memory」という曲は、本当に流れるように素敵なメロディで出来ているのですが、実際はとんでもない作られ方をしているんですね。
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 このように、まさにバラードの王道の12/8というビートで歌われるのですが、歌が始まって5小節目が、なんと「10/8」という変拍子になっているのですね。つまり、普通は「3+3+3+3」という均等のビートなのに、この小節だけ、後半が1拍ずつ少なくなって「3+3+2+2」といういびつなビートになっているのです。こういう、常に一定のビートで刻まれているのが当たり前のポップスのバラードでは、こんなことはまずあり得ません。ですから、私は最初聴いた時からずっと、後半の2拍+2拍の部分は、伴奏はあくまで3拍のところに、メロディが2拍入っているのだと思っていました。つまり、今まさに練習している最中の、シベリウスの交響曲第1番の第1楽章、「Tranquillo」の11小節みたいなリズムです。これが楽譜、途中で切ったので分かりませんが、拍子は6/4ですから、原理は「CATS」と同じです。
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 しかし、実際にはさっきのような楽譜だったのには、本当に驚きました。しかし、まぎれもない変拍子なのに、そこに違和感が全くないことには、もっと驚きました。ですから、この間中実物を聴いていた時にも、この楽譜のことは全く忘れて、ひたすら流れるメロディに酔っていたわけでして。
 ロイド・ウェッバーの作品には、こんな変拍子がよく出てきます。全曲5拍子や7拍子というナンバーも「Jesus Christ Superstar」にはありますが、こんなさりげない仕掛けが、彼の作品の魅力を作っているのでしょう。
 ただ、いつも思うのですが、「劇団四季」がこれを日本語で上演すると、なんともいたたまれない気持ちになるのですね。特に、今回の仙台では、役者さんのせいなのか、PAのせいなのかは分かりませんが、言葉がとてもはっきり聴こえてきます。そうなると、もろにこのひどい訳詞がことごとく引っかかってくるんですね。ただ「説明」しているだけで「歌詞」としては全く美しくないのですよ。一番恥かしいのは、「Growltiger's Last Stand」という劇中劇の中に出てくるグロールタイガーとグリドルボーンのデュエットの最後で「センチメンタル・ジャーニー」と歌わせているところです。確かに原詩には「Sentimental」という言葉は出てきますが、それは、こんな手あかのついた言い方ではないのですよ。
 こんな下手くそな訳詞ではなく、いつか、もっと練れた訳詞で聴いてみたいものですが、それは無理というものなのでしょうね。やはり趣味の悪い「帯職人」が日本語の帯原稿を書いているさるレーベルで、「じぇ、じぇ、ジェズアルド」みたいな情けないキャッチ・コピーが垂れ流されて行くのと同じことなのかも。
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by jurassic_oyaji | 2013-08-24 23:09 | 禁断 | Comments(0)
Great Works for Flute and Orchestra
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Sharon Bezaly(Fl)
Neeme Järvi/
ResidentiOrkest Den Haag
BIS/SACD-1679(hybrid SACD)




シャロン・ベザリーの新譜、確かに「マルP(この原盤権をあらわすマークはPhonographの頭文字の略なんですってね)」は2013年ですが、品番は最新のものは2000番を超えているのに1600番台、しかも録音は2007年と2008年です。どうやら、このレーベルの品番はリリース時ではなく、録音時に準じているようですね。
ですから、最近では正直に録音フォーマットを表示していますが、それは44.1kHz/24bitという、SACDにするにはもったいないような一昔前のスペックでした。確かに、オーケストラの弦楽器の音などは、最新スペックのものに比べると物足りなさが残ります。
タイトルの通り、オーケストラとフルートのための「名作」を集めたアルバムですが、伴奏のハーグ・レジデンティ管弦楽団を、首席指揮者のネーメ・ヤルヴィが指揮をしているのがすごいところです。
その「名作」は、メインがニルセンとライネッケのコンチェルト、シャミナードのコンチェルティーノ、それにプーランクのソナタをレノックス・バークレーがオーケストラに編曲したものという大盤振る舞い、それにグリフィス、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフの小品も加わっていますから、全7曲という超大盛りです。
まず、このところ生誕150年を控えて何かと盛り上がっているニルセンのフルート協奏曲が入っているのがありがたいところです。実は、この曲は最近ほかのレーベルからも何種類かリリースされていますから、ベザリーももしかしたら今までリリースのタイミングを見計らっていたのかもしれませんね。それは、確かにベザリーらしさを存分に味わうことのできるニルセンでした。とにかく、テンポが滅法速くて、今まで抱いていたこの曲のイメージが一変してしまうほどの印象があります。ほとんど神業に近いテクニックで、難しいパッセージを信じられないほど滑らかに演奏しているのは爽快そのものです。ただ、ここまで早く演奏することが、果たしてニルセンの曲にふさわしいのか、という違和感は残ります。決してテクニックをひけらかすのではなく、もっと一つ一つの音が持つ意味をしっかり味わいたいな、という思いですね。
その点、ライネッケのフルート協奏曲の場合は、第1楽章などは、細かい音符にこだわらずいくら早く吹いてもらっても構わないような音楽ですから、ベザリーの演奏はとてもキレが良く感じられます。ところが、第2楽章となると、そうはいきません。こういう、しっとりとロマン派ならではの情感を歌い込んでほしい楽章こそが、ベザリーの最も苦手とするところ、それは期待を裏切らない残念な結果に終わっています。第3楽章も、単に指が動くだけでは、本当の意味の軽やかさは出てこないのだな、ということを痛感させられます。
プーランクでも、やはり真ん中の楽章では、大きなフレーズの中で滑らかに歌ってほしいところが、一つ一つの音符ごとに音をふくらますというベザリーのクセが、無残な結果を生んでいます。これは、ソロ以外のオーケストラの中のフルートや管楽器が大活躍するバークレーのぶっ飛んだオーケストレーションに見事にこたえているバックのメンバーに拍手、です。チケットの転売はやめましょう(それは「オークション」)。
ベザリーのテクニックのすごさをよく知っているフィンランドの重鎮作曲家、カレヴィ・アホが、わざわざこの録音のために編曲を買って出たリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」は、あの伝説的なゴールウェイの演奏とほぼ同じテンポで半音階を吹ききるという、すごい仕上がりです。しかも、ところどころにタンギングを入れているところもありますから、レガートだけのゴールウェイよりもポイントは高くなっています。このあたりが彼女の本領発揮なのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2013-08-23 21:35 | フルート | Comments(0)
なりすまし
 おととい千秋楽を迎えた「仙台CATS」でしたが、その後関係者の話では、あのカーテンコールは実は最後まで行かないところで終わってしまったそうなのです。あの最後にタガー1人(1匹)が出てきて締めるという「タガー締め」というシーンで、「THE END」と書かれた立て札を下手のレンジの上に乗せてそれで終わり、という段取りで、全てが終わっていた、と思っていたのですが(そこで客席が明るくなったら、お客さんは迷わず席を立っていました)、本当の段取りは、その立て札をステージの真ん中に持ってきて、それで終わりになる、というものだったらしいのですね。確かに、ちょっと中途半端かな、という気がしないでもなかったのですが、お客さんの盛り上がり、というか、照明が入っての「盛り下がり」は完璧に「本当の終わり」という感じでしたから、別にどうということもありません。あの「タガー締め」は、確かにじらし合いみたいなところがあって、お客さんはもう終わりだと思っても、まだ出てきてじらす、という、駆け引きが面白いのでしょうが、あんまりじらし過ぎると、本気にしてしまう、ということなのでしょう。仙台のお客さんは素直だったんですね。
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 最近、Facebookで頻繁に行われている「なりすまし」も、そんな「駆け引き」の道具なのかもしれませんね。あわよくばその気にさせて、騙してやろう、みたいなものなのでしょう。というか、私は実際に「なりすまし」に引っかかったことはありませんから、その先にどういうことが待っているのかは、体験したことはありませんので良くは分かりません。まあ、とにかく聞いたこともないような名前のリクエストが来たら、とりあえずその人のページに行って、全く接点のない相手だと分かれば即リクエストを削除、という流れでしょうね。あり得ないような美しいプロフィール写真の場合も要注意でしょう。もちろん、写真や書き込みがほとんどないのも、まず削除ですね。
 実は、今日もそんな、まず「なりすまし」に間違いないだろうというリクエストが届きました。いや、名前だけは確かに良く知っている人でした。しかし、タイムラインを見てみてもなんの書き込みもないし、もちろん写真はプロフィールも含めて1枚もありません。データもまっさら、いかにも作り立てという感じでした。
 ですから、普通だったらそのまま削除してしまうのですが、もし、これが本当にその名前の人からのものだったら(まずあり得ませんが)まずいかもしれないので、その人に「リクエストなんか、寄こしてないですよね」とメールを出してみました。そうしたら、すぐ返事が来て、「今登録したばかりで、リクエストを出しました」というのですね。いやあ、危ないところでした。リクエストを削除していたら、もうニューフィルに行けなくなっていたところでした。
 そういえば、Facebookの「友達」の新田さんがこの間仙台にいらしたときに、京大オケと遭遇したという事件がありましたが、その「締め」となる写真がこちらにアップされてました。タイミング的にはニューフィルの練習と京大たちのコンサートが終わったあたりなのでしょう。日立システムズホール仙台の階段の前で新田さんを囲んで並んでいる京大オケのメンバーです。これをよく見ると、ニューフィルの練習が終わって、その階段を下りてくるメンバーが2人写っているのですね。前にいるユッキーは顔が隠れていますが、後にいるコナリーはすぐ分かります。というか、ほとんど大学生と同化してませんか?
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by jurassic_oyaji | 2013-08-22 22:01 | 禁断 | Comments(0)