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クラシックレコードの百年史/記念碑的名盤100+迷盤20
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ノーマン・レブレヒト著
猪上杉子訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93542-2



イギリスの音楽ジャーナリストNorman Lebrecht2007年に刊行した「Maestros, Masterpieces and Madness」という書籍の全訳です。お分かりのように、この元のタイトルはしっかり「M」で韻が踏まれていますね。全部で3部からできている、これがそれぞれのタイトルだったのです。実は、その第1部はさらに8つの章に分かれていて、それぞれ「Matinee」、「Middlemen」といったM始まりの単語がタイトルになっています。それだけで、このレブレヒトという人はただ者ではないような気がしてきますね。もちろん、邦題はそれとは似ても似つかぬ陳腐なものですから、そこから著者、あるいは著書のテイストを推測することは困難です。ほんと、こんなんではまるでクラシックレコードが100年かけて発展してきた歴史をつづった本、みたいに思えてしまいますよね。
そうなんです。この日本語の書名では全く伝わっては来ませんが、これはレコードがこの世に誕生してから消滅してしまうまでの成り行きを、主にメジャー・レーベルについて、その経営者やプロデューサーを主人公にして、客観的に描いたドキュメンタリーなのです。いや、まだ「消滅」はしてはいないだろう、と、多くの方は思うかもしれませんが、メジャー・レーベルに限って言えばもはや「クラシックレコード」というものを「産み出す」機能は失われてしまっているのですよ。これは、そんな「クラシックレコードの終焉」を世に知らしめる書物なのです。こんなノーテンキな邦題に騙されて読み始めたら、そのあまりに悲惨な内容に、読んだことを後悔するかもしれませんよ。
そもそもの著者の企ては、彼がコラムを執筆している新聞やウェブサイトを通して寄せられた読者の声も反映させて、クラシックレコードが誕生してから今日までの100枚の「Masterpieces」を選ぶことでした。その結果は本書の「第2部」にまとめられています。そこで選ばれた全てのアイテムに詳細にコメントを加えていく過程で、必然的にそれらを包括的に歴史を追って述べることの必要性を感じ、「第1部」を新たに書き下ろしたのでしょう。したがって、「第1部」と「第2部」(さらに、「Madness」たる「第3部」も)では、重複した記述が頻繁に見られますが、それらはおそらく著者の主張を繰り返すことによって印象付けようとする手法だと思いたいものです。
もちろん、「終わり」があれば「始まり」もありますし、その途中には間違いなく「成功」だってありました。そんな最も成功した事例として挙げられているのが、言うまでもなくヘルベルト・フォン・カラヤンです。なんたって、彼は今までにレコード(+CD)を2億枚も売っているのですからね(そんなアーティストランキングが載ってますが、ジェームズ・ゴールウェイが6位のマリア・カラスと8位のプラシド・ドミンゴに挟まれて7位に入っているというのがすごいですね)。そんな、カラヤンに群がる複数のレーベルの関係者の動向をつぶさに語っているくだりは、何かとても現実とは思えないほどの今の世の中とはかけ離れた出来事のように思えます。かつては、レーベルの力によって、指揮者をランクの高いオーケストラに「送り込む」ことさえ出来たというのですからね。
たとえば、古くはゴードン・パリーがDECCAを去った理由とか、最近ではSONYによって進められていたリゲティの全曲録音がいきなり中断され、WARNERに移った事情など、ぜひ知りたいと思っていたことがいとも身近に語られているのを見るのは、知的好奇心を潤すには十分すぎる効能です。あのジョン・カルショーすら、いとも気軽に「ゲイ」で片付けられているのですからね。ただ、注意しなければいけないのは、おそらく原文にあったであろう「ひねりのきいた」言い回しが、この訳文では誤って伝えられる恐れがあること、それと、著者自身の事実誤認は、訳者によってかなり訂正されてはいますが完全にはなくなっていない点です。パヴァロッティがベルゴンツィの代役でヴェルディの「レクイエム」を歌ったのはニューヨークではなくミラノですし、「EMIスタジオ」が「アビーロード・スタジオ」と呼ばれるようになったのは1970年代以降のことなのですからね。

Book Artwork © Syunjusha Publishing Company
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by jurassic_oyaji | 2014-03-31 23:02 | 書籍 | Comments(0)
指揮者練習
 きのうと今日は、田中さんとの2度目の指揮者練習でした。もう本番まで1ヶ月を切り、これから先の指揮者練習もあと1回を残すだけ、まさに一つのハイライトとも言うべき練習です。
 今回のセットは、前回の「ちょっと様子見」と言った感じとはちょっと違って、「マジでシゴく」と言った、ワンランク突っ込んだ練習に徹するというモードに変わっていたのではないでしょうか。細かいところを、納得のいくまで徹底的に繰り返す、という作業が繰り返し行われていましたね。ただ、田中さんの場合は、指示されたことをうまく演奏出来たところでは、「そう、それですよ!」という感じで、必ず最後には「よくなりましたよ」と言ってくれるところですね。これがあれば、どんな厳しいことを言われても最後にはいい気分になれるのですから、練習が楽しくなります。こういうところが、田中さんの魅力なのでしょう。中にはいましたからねえ。言うだけ言って、なんのリアクションも示してくれなかったり、途中で明らかに諦めたことが分かるようなテンションに変わる指揮者が。
 私の出番の展覧会は、きのうは最初から通して行ったのに、「チュイルリー」から先を飛ばしていきなり「リモージュ」に入ってしまいました。その間は次の日、ということです。ということは、私が最も嫌なところが丸々なくなってしまうことになります。ちょっと拍子抜けですね。というか、そういうところはさっさと終わらせてしまいたいと思っているのに、次の日に持ち越しというのは、ちょっと辛い感じです。そうなると、逆に緊張感がなくなって、最後にやった「魔弾の射手」の2番フルートでは、休みも多いこともあって猛烈に眠気が襲ってくるようになっていました。
 でも、今日はそんなことを言ってはいられません。その「チュイルリー」は、オーボエの1番が見事にさらってきて、かなり早いテンポでも滑らかに吹けるようになっていましたから、ユニゾンの私のフルートがちょっとヤバそう、と思ったら、指揮者のテンポは前の時と同じでかなり遅めだったため、なんとかぼろを出さずに済みました。しかし、もう一つの難所「雛鳥」では、明らかに前回よりテンポアップ、私は付いていけましたが、1回目の通しでは、あちこちで事故が起こっていましたっけ。

 きのうはもう夏かと思えるような暖かい陽気だったので、思いきり夏向きのファッションで練習に行きました。ところが、今日になったらガラリと雨空に変わり、気温も10度以上下がってしまいましたよ。こうなるとファッションもセーターを着込んで冬服に戻さなければいけません。ところが、ホールにはなんと暖房が入っていましたよ。そうなるとセーターでは暑いので、脱いでシャツ1枚で演奏します。ただ、結構派手なプリントのシャツだったので、かなり目立ちます。たまたま、隣のフルートの人もほうずき色の派手な服を着ていたので、オーボエの人に「まるでクリスマスみたいですね」と、季節外れの感想を言われてしまいましたよ。
 それよりも気がかりなのは、練習が終わった後の楽器運搬です。会場がいつもの練習場の隣の建物ですから、運搬にはトラックなんか使わないでそこの楽器庫から人力で運んできました。それを、この大雨の中を戻さなければいけないのですよね。私はまず楽器を地下の駐車場に止めた車に置いてから、傘を持ってこの運搬ミッションに加わります。ちょうどティンパニを2人で運んできたのと出会ったので、それに合流、楽器に傘をかけて、雨の中をころがして行きます。途中の横断歩道は水たまりになっていて、そこだけは持ちあげなければいけませんでしたね。

 それでも、まさに人海戦術、メンバーはみんな手際よく荷物を運びこんで、30分もしないうちに、ミッションは完了してしまいましたよ。これがニューフィルの「底力」ですね。
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by jurassic_oyaji | 2014-03-30 19:47 | 禁断 | Comments(0)
空想工房の絵本
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安野光雅著
山川出版社刊
ISBN978-4-634-45054-6



つい先日88歳の「米寿」を迎えられたばかりの画家、安野光雅さんの最新の絵本です。お誕生日にはベージュのちゃんちゃんこを着ていたのだとか。
ただ、新刊には違いないのですが、この中に収録されている作品は、もう40年以上も前に書かれたものです。しかも、その一部分は今までにも事あるごとに別の形で印刷物になっていたことのあるものです。おそらく、その中のいくつかは、安野さんの作品とは知らずに目にしていたことがある人も多いのではないでしょうか。実際、これが発売された時の案内を見てみても、これはなにかの復刻なのでは、と思ってしまいましたから。しかし、実際に手にしてみると、これはまぎれもない「新刊」、しかも、マニアにとってはうれしくてたまらないものであることが分かりました。
安野さんは、1969年から1980年にかけての足掛け11年間、「数理科学」という月刊誌の表紙を書くという仕事をなさっていました。この雑誌は「科学の最前線を紹介する雑誌」として、もう50年以上もサイエンス社から出版され続けていますが、その当時の編集長が安野さんの絵本を目にして、表紙の連載を依頼したのでしょう。それが、出版された順に、全てのものがまとめられているのですよ。ですから、今まではその中から適宜選ばれて様々な機会で紹介されていたものを、まさに「一次資料」として1冊の絵本として提供されたもの、と言えるのではないでしょうか。
最近では、もっぱらスケッチ紀行のようなものが作品の主体になっているような気がしますが、この頃の安野さんは、もっぱらトリッキーな絵を書く絵本作家として知られていました。そこでは、M.C.エッシャーの作品のエキスだけを、安野さん独自のタッチで別の形に仕上げたものとか、有名な芸術作品を巧みなパロディで思いもよらないようなものに変えてしまうものなど、あらゆる「だまし」のテクニックを使って読者に対する挑戦を仕掛けていたものでした。この本の中の作品には、どれにもそのようなひねりが加えられていて、何度見ても飽きることはありません。
ここには、それぞれの作品に、「今の」安野さんが書いたコメントが付けられています。それによると、それがいったいどんな仕掛けだったのか、作ったご本人でももう分からなくなっているものがある、というのが面白いところです。それと、当時は完璧な仕掛けだと思っていたものも、今見ると大したことがない、というのもあるのだそうです。さらに、頻繁に「これは失敗作だ」とか、「締め切りがあったので、仕方なく渡した」みたいなネガティブな書き方をされています。
おそらく、そんな当時の評価によって、今まで日の目を見ることのなかった作品もあったものが、ついにこんな形で全てのものが公開されてしまったのです。実際に、殆どのものは確かに見たことがありますが、その中に今回初めて目にするものを発見した時の喜びと言ったら、言葉では表せないほどです。
そんなものを2作ほど、あくまで主観ですが、初めて見てとても「感動」したものを、その辺に広げてあったものを写真に撮ったらたまたま入っていた、というスタンスでご紹介します。



ところで、「いろは歌」という作品のコメントで、関係者の名前が登場したのには驚きました。ただ、安野さんの勘違いでしょうか、名称に不正確なものがあるのが、ほほえましいところです。


Book Artwork © Yamakawa Shuppansha Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2014-03-29 20:48 | 書籍 | Comments(0)
トイレの修理
 夕べは、WOWOWから録画していた「横道世之介」を見ていました。全く期待していなくて、とりあえず出演者に興味があったので見始めたのですが、なかなか面白くて、ついつい見入ってしまいました。なんという盛り上がりもない作り方ですから、終わり方もあっさりしているような気がしますから、そろそろ終わりかな、という気になってきます。いや、実はその段階で結末は明らかになっているので、すぐ終わると思っていたのですよ。ところが、2時間を超えてもまだ終わりません。邦画はまず2時間以内で終わるのに。どうやら、この映画は2時間40分もかかるものだとわかったので、もうレジュームして寝ることにしました。そろそろ日付も変わりますから。
 そこで、トイレに行って最後に水を流そうとロータンクのレバーを回すと、なんか「カクン」という感触があって、水が流れなくなってしまいました。どこかに引っかかったのかな、と思ってフタを開けてみると、レバーにつながっている鎖の先が切れています。本来ならそこは水の流れを止めるゴムのボールにつながっているはずなのですが、そこに切れ目が入って、鎖で引っ張ることが出来ない状態になっていましたよ。

 拡大すると、

 実は、こういう事態を正確に把握するまでには、水の中に手を突っ込んで、もう表面がふやけて、触ると手がまっ黒になってしまうゴムボールを取り外す必要がありました。最初は下が固定されているようだったので、これを外すにはタンクそのものを分解しなければいけないのではないか、そうなると、業者を呼ばないといけないな、とか思っていました。でも、引っ張ってみると先の方はただ棒が刺さっているだけだったので簡単に外れましたよ。ということは、このボールを買ってきて取り換えればいいはずです。なんか、近くのホームセンターでこんなのを見たような気がします。いずれにしても、もうこのトイレは、水を流すことは出来なくなってしまいました。小はともかく、大だと困りますね。さあ、どうしましょう。
 でも、ご安心ください。我が家にはトイレがもう1ヶ所あったのでした。とりあえず流せなくなってうずたかく積み上がる、という事態だけは避けられます。ここに来るまでに30分、早く寝たかったのにこんな夜中にこんな大仕事なんて。
 今朝になってネットで調べてみたら、やはりこのパーツは簡単に手に入ることが分かりました。間違いなくホームセンターで買ってくることが出来るでしょう。

 これと全く同じものが、お隣のホームセンターあったので即ゲット、一応大きさなども測ってあったので、間違いなく使えるはずです。でも、確かにボールの大きさは一緒ですが、買ってきたものはチェーンの接続部分が違っていました。前のものはゴムに穴が開いていてそこに直接チェーンを入れるのですが、これはゴムではなく、プラスティックのパーツに固定できるようになっています。当たり前ですよね。一番力がかかる部分がゴムだなんて、劣化してこんな風に切れてしまうのは誰でも分かりそうなものです。おそらく、メーカーもやっとそのことに気づいて、モデルチェンジしたのでしょう。でも、このマンションに入ってもう27年経ちますが、逆にそんなにもった方が驚きですね。

 交換は簡単に終わりました。チェーンの長さをちょっと調整するだけで、ロータンクはすっかり元通りになりましたよ。これにかかった費用は材料費の980円だけ、ニューフィルのチケット代よりも安かったですね。
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by jurassic_oyaji | 2014-03-28 21:23 | 禁断 | Comments(0)
BACH/Mass in B minor
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Václav Luks/
Collegium Vocale 1704
Collegium 1704
ACCENT/ACC 24283




今や、各方面から注目を集めているチェコの新進ピリオド・アンサンブル「コレギウム1704」は、このACCENTレーベルからも、すでにゼレンカのアルバムを2枚出していましたが、今回晴れて大バッハの「ロ短調」を世に問うことになりました。
1970年生まれの指揮者、チェンバロ奏者、そしてホルン奏者でもあるチェコの俊英、ヴァーツラフ・ルクス(写真ではなかなかのルックス)が1991年に創設したピリオド・アンサンブルが、この「コレギウム1704」です。「1704」というのは、ゼレンカの最初の作品(「Via Laureata ZWV 245」という学校劇で、楽譜は消失)が作られた年、1704年にちなんでいるのでしょう。それは、彼らのFacebookページのプロフィール写真がその台本の一部から取られていることから推測されます。
ただ、創設当初はルクス本人もベルリン古楽アカデミーの首席ホルン奏者として多忙だったようで、常設の団体ではありませんでした。本格的にフルタイムの活動が始まるのは、ルクスがチェコに戻って来た2005年のこと、同時に声楽部門の「コレギウム・ヴォカーレ1704」も設立され、双方の指揮をルクスが務めることになります。
この録音での編成は、ヴァイオリンだけでも10人という、たっぷりとしたもの、もはや「1パート1人」などというギスギスしたものは、一時の流行として今では廃れてしまっているのだと思いたいものです。合唱も21人と、余裕のある人数ですが、これは適宜「ソリ」と「リピエーノ」を使い分けて、表現に幅を持たせています。ただ、アリアのソロなどは、その「ソリ」の人たちも歌いますが、合唱には参加しない専用のメンバーも3人いて、声楽陣はトータルで24人ということになりますね。
なにしろ、とても若々しい、きびきびとした演奏には、たちどころに虜になってしまいます。「Kyrie」の序奏がリピエーノのたっぷりとした響きで歌われた後、フーガからはソリの登場ですが、その先頭を担うテナーのヴァーツラフ・チジェクの伸びのある声は、まさにこの演奏全体の爽やかさを象徴しているのではないでしょうか。もう一人、こちらはコーラスもソロも歌っているソプラノのナハ・ブラシコヴァーの澄みきった声もとことん魅力的です。次の「Christe eleison」でのデュエットでの、第2ソプラノとのハーモニーも完璧です。コーラス全体は、この二人の音色に支配されていて、なんともピュアな美しさを聴かせてくれます。そこへ持ってきて、ルクスの作る音楽がとても軽やか、軽快なテンポに乗ってサクサクと進んでいきます。
実際、例えば2番目の「Kyrie」などは、ちょっと他ではお目にかかれないような速さです。常々、この曲のテーマはなんとも優柔不断なものに感じられて、しかもそれをことさらゆっくり演奏される場面が多いものですから、ちょっと聴いていて辛くなるような印象があったのですが、今回はそんなイメージが見事に拭い去られていましたよ。こういう演奏なら、バッハが重々しくてとっつきにくいなどとは誰も感じることはないでしょう。
ですから、「Gloria」の最後の「Cum Sancto Spiritu」などは超快速過ぎて、歌もオケもついていけないほどですが、それは勢いの余りということで許せます。同じように「Sanctus」の速さも群を抜いています。演奏時間は3分51秒、手元にある30種類ほどの演奏の中で、4分を切るのはこれだけです(一番遅いのはクレンペラーの6分12秒)。
その上に、合唱には加わっていない、元ウィーン少年合唱団のスター、テリー・ヴァイのアルト・ソロで歌われる「Agnus Dei」などは、テンポをぐっと押さえてしっとりと聴かせています。そんなコントラストも見せつつの快演、これは素晴らしい「ロ短調」です。
それを伝えてくれる録音も、とびきりの瑞々しさです。録音スタッフは、と見ると、担当したのはTRITONUS、ノイブロンナー自身がプロデューサーも務めていますからそれも納得です。声も楽器も、しっかりとした芯のある音で伝わってくる素晴らしい録音です。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2014-03-27 20:22 | 合唱 | Comments(0)
チケットプレゼント
 きのう、携帯を部屋に置いて外の仕事をして帰ってくると、着信が入っていたあとがありました。ただ、表示されているのは電話番号だけですから、「連絡先」に登録されている番号でないことだけは分かります。とりあえず、心当たりはないのでそのままにしておきましょう。本当に必要な用事で電話をしたのなら、もう一度かけてくるはずですからね。
 しかし、それから数分して、また同じ番号の着信がありました。そこで、おもむろに出てみると、「プレゼントが欲しいんですが」と、不思議なことを言い出しました。私はプレゼントをもらうのは好きですが、他人、しかも会ったこともない人にプレゼントなんかしようとは絶対に思いませんから、いったい何を言っているのか、と、その時は思いましたね。でも、その人が続けて「ぱどで~」と言った時には、ちょっと思い当たることがありました。いつも演奏会の企画書を送る時には、ただ告知してもらうだけではなかなかやってくれないので、プレゼント用のブツを一緒に付けています。そうすると、先方としてはプレゼントの企画ができますから、まず間違いなく案内を載せてくれるんですよね。この「ぱど」というのも、そういう送り先の一つでした。そう言えば、ここに企画書を送った時に、あちらの原稿のゲラを送ってくれましたね。ということは、もう発行されたのでしょう。それを見て「連絡先」として書いてあった私の携帯に電話をかけてきたのでしょう。
 もちろん、私にそんなことを言われても、どうしようもありません。「どこかにプレゼントの連絡先があるはずですから、そちらに聞いてみてください」と丁寧に応対すると、その人は本当に恥ずかしそうにしてましたね。
 それにしても、これは自宅のあたりでも宅配されていますから、新しいのが出ていればチェックしていたはずなのに、と思って、ネットで調べたら、確かに最新刊の全ページがアップされていて、その中にもちゃんとニューフィルの案内がありました。

 本当は、この、モザイクがかかっている部分に番号がありました。そういうことだったんですね。ところが、すぐ下にプレゼントの案内があるではありませんか。こんな近くなのに見逃すなんて。あ、もちろんこれは修正なんかしてませんよ。
 でも、偶然ですが、こんな風に、出たばっかりのタウン誌を見て、すぐニューフィルの演奏会に来てみたいと思う人がいたということを知ることが出来て、なんだか嬉しくなってしまいました。なにとぞ、この方に招待券が当たりますように。というのも、この記事が面白かったのでそのままFacebookページにアップしてみました。そうしたら、結構沢山の人に見てもらえたのですね。ですから「ぱど」の編集部にはいつになく多くのプレゼントの応募があるに決まってます。ということは、さっきの人はせっかく早々と応募しても、「厳正なる抽選」の結果落選してしまうかもしれないのですね。
 家に帰ったら、厳重にパックされた現物が届いていました。

 実は、この原稿は、さっきのゲラが届いた時に1ヶ所だけ訂正してもらってあります。それは曲目。企画書でもチラシでも、普通は曲順に書きますから、あちらとしては1曲だけしか載らない時には、どうしても最初の曲を選んでしまうのでしょう、ゲラでは「魔弾の射手」になっていました。我々にとっては最後が最も重要な曲だというのは言わなくても分かるだろう、という意識があるので、そんなことは考えてもみませんでしたが、今回2ヶ所について同じような訂正をさせてもらっているので、これからは、「1曲だけの時には、これを載せて」みたいな案内も必要なのかもしれませんね。
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by jurassic_oyaji | 2014-03-26 21:00 | 禁断 | Comments(0)
VASKS/Flute Concerto
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Michael Faust(Fl)
Sheila Arnold(Pf)
Patrick Gallois/
Sinfonia Finlandia Jyva[]skyla[]
NAXOS/8.572634




ひところ世間を騒がせたあの「偽作曲家」の、「指示書」を書いて実際に曲を作った人に内容を伝えていたという「手口」は、マスコミによって細大漏らさず報道されてしまいましたね。これをもって、マスコミは「彼は作曲家ではない」と決めつけてしまったわけですが、実は今の時代、別に楽譜が書けなくても「作曲」は出来てしまいます。確固たるイメージと、それを的確に伝える能力さえあれば、だれだって「名曲」を作ることは出来るのですよ。現に、あの「指示書」に基づいて作られた曲に、多くの人が「感動」を与えられたのですからね。彼は楽譜こそ書くことはできませんでしたが、音楽によって人の心を動かすすべには精通していた、とは言えないでしょうか。
そこで彼が曲想を伝えるのに用いたのが、「調性音楽的60%対現代音楽的40%」のような、非常にわかりやすい定量的な指示です。それを見ると、「音楽」の属性をこのように「調性音楽」と「現代音楽」という2つの要素にきっちりと分けたという発想が、とても的を射たものであるように思えてしまいます。もし、「現代音楽」の中に「民族音楽」のようなものが含まれているとすれば、現在作られている音楽は、全てこの二つの要素から成り立っている、とは思えませんか?

1946年生まれのラトヴィアの作曲家ペーテリス・ヴァスクスのフルートのための作品を集めたこのアルバムを聴くときには、この「定義」が役に立ちます。まず、ここでフルートを演奏しているドイツのフルーティスト、ミヒャエル・ファウストのために2008年に作られた「フルート協奏曲」では、冒頭こそ何やらノイズっぽい打楽器の音が聴こえますが、それは単なる情景描写の手段であることがすぐにわかり、その後にはまるでそのまま映画音楽に使えてしまいそうな、極めて描写的な音楽が続きます。3つの楽章の最初と最後は、ほとんど同じゆっくりとした楽想で、フルート・ソロはまさに「調性音楽的」な歌を延々と歌います。第3楽章のエンディングには、冒頭のノイズがそのまま再現されるという分かりやすさです。そして、真ん中の楽章は「ブルレスカ」という、ちょっとおどけた軽快な楽想なのですが、その最後に演奏されるカデンツァだけが、もろ「現代音楽的」な音楽になっているのです。
次の、1992年にペトリ・アランコのために作られたフルート・ソロのための「ソナタ」は、協奏曲と同じ楽章構造、両端がゆっくりで真ん中が軽やかという3つの楽章で出来ていますが、その「ゆっくり」の方ではアルト・フルートが使われます。それは、まさに「現代音楽的」が100%という、潔さです。アルト・フルートで奏でられるパートは「夜」と名付けられています。どこまでも暗く深い闇の世界、対して普通のフルートの楽章は「飛翔」という、外へ向けての意志が感じられる音楽です。
練習曲のような目的で1972年に作られた「アリアとダンス」は、ピアノ伴奏が付いた、もろ「民族的」な音楽です。「調性」というよりは、素朴な「旋法」で作られているのでしょう。
そして最後は、1980年のフルート・ソロのための作品「鳥たちがいる風景」です。タイトルから、メシアンのようなパッセージを思い浮かべるかもしれませんが、ヴァスクスの場合の「鳥」は、もう少し北欧的なおおらかさを持っています。もちろん、これも「現代音楽的」なパーセンテージがかなりを占めている音楽です。
このようなヴァスクスの作曲に対する姿勢は、まさに「現代作曲家」に共通したものではないでしょうか。
演奏しているファウストは、おそらく「現代音楽的」なものの方が得意人なのでしょう。そのような曲では目覚ましい勢いが感じられますが、「調性音楽的」な部分になると、とたんに熱意がなくなってしまうようです。したがって、協奏曲ではカデンツァ以外での存在感が、オケの中に埋没しています。指揮のガロワが吹いていたら、どうなっていたでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-03-25 23:25 | フルート | Comments(0)
ゴーストライター
 ここによく登場するうちの社長は、音楽が大好き、ニューフィルの定期演奏会にも毎回来てくれます。と言っても、私みたいな変なマニアではなく、普通に楽しんで聴いているというまっとうな愛好家なんですけどね。その社長が、今日「有名な作曲家で、ゴーストライターをやっていた人がいるって知ってたか?」と聞いてきました。なんでも、テレビでそんなクイズをやっていたのだそうです。私はその番組は見てませんが、それは間違いなく先頃の「ゴーストライター騒動」を受けての企画なんでしょうね。三択で「モーツァルト、ベートーヴェン、それと・・・」というぐらいですから、正解はその二人のどちらかですよね。まあ、もしかしたらベートーヴェンだってやってたかもしれませんが、なんたって分かりやすいのはモーツァルトの方ですから、すかさず「モーツァルトだべ?」と答えてやりました。社長は意外そうに、「う・・・、うん、モーツァルト・・・」と、悔しそうです。もっと考え込むと思っていたのかもしれませんね。というか、まさかあのモーツァルトがゴーストライターをやっていたなんて、と、社長にしてみればものすごい驚きだったのでしょうね。それをあっさり受け流されたもんで、一瞬たじろいだ、と。
 私にとっては、そういうテレビのバラエティのレベルでも、そういうことが話題になっているという方が意外でした。あの「ゴーストライター」のおかげで、そんなことまでがネタになっているとは。
 だいたい、クラシックの世界で、昔学校で習ったこととか、昔から言い伝えられていることが、最近になってちゃんと調べると実は間違っていた、というものが結構あるのですが、それはマニアの間では「常識」になってはいても、特に興味のない人にとってはどうでもいいことで、間違いはそのまま通用する、というのが普通の姿でした。ベートーヴェンが交響曲第5番のテーマについて「運命は、このように扉を叩く」と言った、とか、シューベルトの「魔王」は作品番号が「1」だから、最初の作品だ、とか、「展覧会の絵」を最初にオーケストラに編曲したのはラヴェルだ、と言ったような俗説を真実だと信じて疑わない人がほとんどなのですよね。
 ですから、「神童」とあがめられているモーツァルトが、「ゴーストライター」のような卑しい仕事に手を染めたなどと言われても、誰も信じるわけはありません。というか、そういう状況があるからこそ、こんな「クイズ」が成立することになるのでしょうがね。もちろん、私たちはモーツァルトがれっきとした「ゴーストライター」であったことを知っています。それを行ったのは、彼の最後の作品となった名曲中の名曲である「レクイエム」であることも。ただ、この曲が出来たいきさつに関しては、割と最近までは本当のことは知られておらず、「見知らぬ黒い服の人が作曲を頼んだ」というような伝説がおおっぴらに語られていましたし、それが事実ではなかったことが判明した後でも、あの「アマデウス」という映画で、そんな嘘の上塗りをするようなデタラメをでっちあげていたのですから、真実はなかなか「バラエティのレベル」までは広がりにくい、というトリックもありました。なにしろ、あの映画での、サリエリがモーツァルトの口述筆記をするシーンはとてもよく出来ていましたから、実際にああいうことがあったのだと信じてしまう人だっていたはずですからね。

 ですから、そういう状況を分かっていて、このタイミングで「モーツァルトはゴーストライターをやっていた」というトリビアに基づくクイズを作った人は、なかなかのセンスの持ち主だと思えてしまいます。
 実は、「このタイミング」に便乗して、ちゃっかり演奏会のプログラム用にそれを盛り込んだ原稿を書いた人がいました。ちょっとふざけ過ぎかな、と、一旦はそれを引っ込めて穏健なものに直したのに、やはりそれがあった方がいいという声に押されて、結局元の形でプログラムに載せることになったそうです。バラエティ以外にも、あの事件は色んなところで役に立っています。
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by jurassic_oyaji | 2014-03-24 21:54 | 禁断 | Comments(0)
BACH/St John Passion
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James Gilchrist (Eva), Matthew Rose(Jes)
Elizabeth Watts(Sop), Sarah Connolly(Alt)
Andrew Kennedy(Ten), Christopher Purves(Bas)
Richard Egarr/
Academy of Ancient Music, Choir of AAM
AAM/AAM002




今まではHARMONIA MUNDIなどを中心に録音を行っていたアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックは、最近自分たちのレーベルを作ったそうです。なんでも、このオーケストラは昨年2013年に創立40周年を迎えたそうで(延々と活動を続けていたのですね)、そういう節目での心機一転、ということなのでしょうか。
その「AAM」レーベルの第2弾としてバッハの「ヨハネ受難曲」が出るという情報を見つけました。それによると、なんとそれは「1724年稿」で録音されたものだ、というではありませんか。ご存知のように、きちんとこの初演時の楽譜を復元して録音されたものは知る限りではフェルトホーフェン盤1種類しかありません。「1724年稿」というようなタイトルでリリースされたものでも、実際に聴いてみると全く別物なのでがっかりさせられたことが、何回あったことでしょう。
ですから、今回のAAM盤も現物の音を聴くまでは信用はできません。でも、発売になるのは1ヶ月も先のこと、早く聴いてみたいなあ、と思ってダメモトでNMLを検索してみたら、たった今、という感じでアップされているではありませんか。しかも、公式サイトではブックレットが丸ごとダウンロードできますから、ライナーノーツや録音データも見ることが出来ます。別にSACDではないようですので、それだったら1ヶ月も待つことはないと、さっさと聴いてしまいましたよ。
その結論はというと、これは例えばハジェット盤のような「『1724年稿』という表記はあっても、似て非なるもの」ではなく、指揮者のエガーがしっかり自分で楽譜を「復元」しているという、まぎれもなく「1724年稿」を目指したものでした。まあ「目指した」というあたりがちょっと、なのですが。
そもそも「1724年稿」がどういうものなのかは、すでに1725年稿と1749年稿を出版しているCARUSがそれぞれのスコアに詳細な対照表を掲載しているので知ることが出来ます。ただ、楽譜についてはかなりのところまで分かっているのですが、編成については今一つ不明な部分があります。それは、この時にフルートが演奏されていたか、という点です。CARUSの対照表では、1曲目だけは「フルートは入っていない」というだけで、それ以後の曲については明言を避けていますが、先ほどのフェルトホーフェン盤では、「全曲フルートはなし」という立場で、後の稿ではフルートで演奏されている部分は、全てヴァイオリンやオーボエなどの他の楽器で置き換えられています。
この点についてのエガーの見解は、それとは全く逆、「この時代のカンタータではフルートは使われていたので、当然この曲にも入っていたはず」というものでした。そして、全ての資料を当たっても、フルート奏者がいたという確実な証拠がない理由として「2人のオーボエ奏者のうちの一人が、持ち替えで吹いた」という解決策を提案しています。したがって、フルートが登場するのは9番のアリア、34番のアリオーソ、35番のアリアだけ、その他の合唱部分やコラ・パルテのコラールではオーボエの音しか聴こえてきません。
まあ、フルートの有無についてはそのような「状況証拠」しかありませんから、結論が出ることはないのでしょうが、3番のコラールでピカルディ終止になっているのと、38番のレシタティーヴォが23小節ではなく、後の形の25小節になっているという2点が、CARUSの対照表とは異なっているのが、気になります。この点に関してのエガーの説明は、ここにはありません。
エガーはここで「初期の荒削りな姿」を伝えたかったのだそうです。合唱の部分ではそれは成功しているようですが、ソリストたちのスタイルにちょっと異質なものがあるために、そこから「祈り」とか「愛」などを感じとるのはちょっと困難です。
録音はLINNのフィリップ・ホッブスが担当しています。NMLAACで聴いても、その片鱗は感じられます。

CD Artwork © Academy of Ancient Music
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by jurassic_oyaji | 2014-03-23 20:34 | 合唱 | Comments(0)
レコード芸術での、S氏のインタビュー
 「あと10日で、消費税が上がります」と、あちこちで大騒ぎですね。かく言う私も、わが社に置いてあるコーラの自販機の営業の人に、「130円に上げてください」とお願いされてしまいました。しかし、便乗もここまで来ると怒る気にもなれませんね。消費税5%を載せて120円で売っているコーラの消費税を8%にすると、いくらになりますか?123円43銭じゃないですか。どんなに頑張って四捨五入してみても、130円になんかなるわけがありませんよ。ぼったくり、ってやつですね。もちろん、これは販売者が価格を決めるものですから、わが社は値段は据え置きです。
 しかし、普通にレジでお金を払って買うものは、しっかり消費税分の増額が加算されます。「レコード芸術」の最新号を買ってきたら、その裏側にこんな表示がありました。

 定価が2種類書いてある本なんて、生まれて初めて見ましたよ。同じ本でも、4月に入ってから買うと39円余計に取られることになるのですね。
 この雑誌、相変わらず本文は何の役にも立たないつまらないものですが、最後の最後にこんな面白い「記事」が載ってました。

 なんか「いまさら?」って感じですが、月刊誌だとこんな間抜けなタイミングになってしまうんですね。それ以上に、この文章の間抜けなこと。いや、別に「あくまでその音楽を試聴したうえでの批評・記事であり」の後に「作曲者が誰であっても、あくまでその音楽を対象に批評・記述した」と、全く同じ意味のセンテンスをつなげる、とてもプロとは思えない美しくない文章力を嗤いたいのではなくて、そんな、誰が読んでも本気にするわけがないことを堂々とこういう場所に書く神経を、あざ笑いたいのですよ。この雑誌の中には、そのような「批評」が全くないとまでは言いませんが、こんなに自信を持って言い切れるほどの、自分のライター人生を賭けるぐらいの意気込みで書いたものなどはほんの少し、それ以外は、レコード会社から渡された資料を上手にコピペして、いかにその商品が素晴らしいものであるかをとうとうと語り上げる、という、単なる宣伝記事に終わっているものでしかないはずです。最も大切なのはレコード会社の意向、「音楽」や「作曲家」は二の次、というスタンスで作られている雑誌がこんなことを書いても、しらじらしいだけです。
 さらに「本誌は音楽専門誌であり、同氏の経歴や境遇を端から疑うことは本誌のスタンスではありません」ですって。「音楽専門誌」ですらない、単なる「音楽宣伝誌」がよく言うよ、とは思いませんか。レコード会社から頼まれたインタビューの相手を疑うなんて、そもそもあり得ませんって。「スタンス」以前の問題ですよ。
 この中の「2011年11月号」という、そのインタビューが載っているバックナンバーが、たまたま手元にありました。

 これを読むと、ああいうことがあったから、というのではなく、こういう雑誌での「インタビュー」がどういうものなのかがとてもよく分かります。インタビューを行った山野雄大さんという「ライター」は、しっかり資料は読んでるし、おそらく著書だって読んでいるのでしょう、とてもこの場にふさわしい「いい仕事」をしているのではないでしょうか。つまり、そこでは「現代音楽を学びたくないから、音楽学校へは行かなかった」というような、ツッコミどころ満載の経歴があるというのに、そういうことには一切触れず、ひたすらこの「作曲家」の述べることを、いかに感動的な文章にまとめるかという点にのみ、腐心しているようでした。
 たまたまこんな結末を迎えたために、これがいかにむなしいインタビューであったかがはっきり分かるのですが、実際にこういう世界に片足のほんの爪の先端だけを突っ込みかけていたことがある私としては、こういう媒体での記事の基本はみんな同じだ、という気がしてなりません。
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by jurassic_oyaji | 2014-03-22 22:21 | 禁断 | Comments(0)