おやぢの部屋2
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豪雨の中のコンサート
 きのうの午前中は、雲は多いものの雨の気配などはほとんどありませんでした。ネットで注文したCDが、追跡したらもう職場に配達(自宅だと居ないことが多いので、いつもこちらに送ってもらいます)され終わっていると分かったので、ちょっと出かけて取って来た時も、雨は降ってはいませんでした。このCD、というか、ボックス・セットなんですが、ぜひ早いうちに聴いておきたかったものですから、休みの日でも取りに行きます。おかげで、これは明日の「おやぢ」に使えるようになりました。
 午後からは、前に入っていた合唱団の演奏会があるので、また出かけます。でも、その頃になってなんだか雨脚が激しくなってきましたね。もう殆ど「豪雨」という感じ、ホールに付く頃には、雷まで鳴り始めましたよ。なんだか、今回の演奏会はお客さんがあまり入りそうにないようなことを関係者からきいていたので、こんなお天気ではさらに少なくなってしまうかもしれませんね。とりあえず、濡れなくて済むようにホールの地下の駐車場を目指しますが、そこは予想に反して満車でした。そこで、いつもの立体駐車場に行ってみると、こちらも屋根のある4階まで満車、空いているのは屋上だけでした。すごい雨の中を傘をさしてエレベーターまで必死にたどり着きます。
 ホールに入ってみると、意外なことにすでにかなりの席が埋まっています。私が愛用している通路側の席など、空いているところは全然ありません。開演前になると、ほぼ満席になってしまいましたよ。これはうれしい誤算、良かったですね。
 今回のプログラムは、なんだかとてもバラエティに富んでいるようでした。まずは、ちょっとしたメドレーで、お客さんをつかもうという趣向でしょうか。

 これは、私も歌ったことがあるので、「仕掛け」の前にちゃんとカメラを構えていましたよ。
 そのあとに、三善晃のシリアスな作品を歌ったあとに、今回も委嘱作品の初演という、盛りだくさんが続きます。その、委嘱した方が、私はよく知らないのですが、かなり有名な方らしくて、おそらくその方目当てのお客さんがかなり入っていたような感じでしたね。三善の後に聴くと、あまりにも楽天的な作風に、かなり戸惑ってしまいます。でも、こういう作品の方が、今のこの合唱団には合っているのかもしれません。
 この曲の前に、指揮者と作曲者とのトークがあって、作曲家はなぜかマイクを持ったまま客席に戻っていました。ですから、曲が終わると、またマイクを持ってステージに上って、団員が引っ込んだ後の場つなぎが始まります。そして、お色直しが済んでステージに戻ったメンバーが歌い出したのが「楽天イーグルス」ですよ。

 終わったら、風船まで舞ってました。この一連の流れ、お客さんはついていけてたのでしょうか。
 後半は、メンデルスゾーンのモテットと、信長の「くちびる」全曲という、どちらもかなりヘビーな曲、そしてアンコールは定番の「斉太郎節」と、疲れを知らない合唱団に脱帽です。演奏会は2時間を超えていましたからね。
 そう言えば、なんだか若い人がかなりたくさん入っていたようですね。セカンドなんか、私の知らない人の方が多くなってましたっけ。名簿を見たら、やっと私の名前が消えていました。
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by jurassic_oyaji | 2014-06-30 21:48 | 禁断 | Comments(0)
HOSOKAWA/Orchetral Works・1
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Stefan Dohr(Hr)
児玉桃(Pf)
Anssi Karttunen(Vc)
Jun Märkl/
Royal Scottish National Orchestra
NAXOS/8.573239J




思い出したようにNAXOSからリリースされる「日本作曲家選輯」ですが、これはもちろん21世紀の初頭に華々しくスタートした同名のシリーズとは、全く別のもの、この間のハツィスが「Canadian Classics」というシリーズのカテゴリーで扱われていたのと同じように、「Japanese Classics」というような呼び方の方が誤解を招きません。
あくまで日本人としてのアイデンティティをベースに、世界的な視野で作曲活動を行い、多くの団体からの委嘱の要請が引きも切らない細川俊夫の、全てこれが世界初録音となる作品です。
細川の中にある「日本的」なファクターの最大のものは、その独特の時間軸の扱いなのではないでしょうか。西洋音楽の大前提は音を「管理」すること、そのためには「音」そのものだけではなく、それが鳴り響く「時間」までもが管理の対象となっています。つまり、時間軸に「目盛」を付けることによって発生されるパルス(ふつう、それを「リズム」と呼びます)を、音楽の重要な要素とみなしているのです。しかし、細川の音楽からは、その「目盛」が完璧に消え去っています。
ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、そしてロンドンのバービカン・センターの三者からの委嘱によって2010年に作られた「ホルン協奏曲『開花の時』」では、始まったことすらわからないほどのあいまいなところから、弦楽器のE♭の音が聴こえてきます。そこには「目盛」どころか、「開始点」すら存在していません。それはそのまま時間の中を漂うだけ、時折聴こえてくる繊細な打楽器の音は、決してその時間を束縛しようとするものではありません。こんなゆったりとしたたたずまいを何度か経験したことに気づくのには、ほんの一瞬で充分です。それは、リゲティの名作「ルクス・エテルナ」。あのア・カペラの音響世界がもたらしていたものと、このあたりの感覚は、驚くほどの類似性を見せています。
しかし、この作品全体の振幅の大きさとそれがもたらすインパクトは、リゲティとは全く別物であることも、すぐに分かります。次第に音の密度が高くなるにつれて、そこからはほとんどエクスタシーのようなものを感じられるようになります。そこにはある種のなまめかしささえ伴っているとさえ思われるのは、そのような極端な振幅が、幾度となく繰り返されるからに違いありません。最後にホルン・ソロによってもたらされる「雄たけび」、そして、単音で始まった音楽が、最後はE♭とB♭の2つの音による5度音程によって終止することが何を意味するかは、明白です。細川って、見かけによらずエロ。
2曲目の「ピアノとオーケストラのための『月夜の蓮』」には、「モーツァルトへのオマージュ」というサブタイトルが付いています。それは、この曲が作られた2006年に、「モーツァルト・イヤー」にちなんで委嘱元の北ドイツ放送が設定した課題に応える意味で、モーツァルトのピアノ協奏曲の断片が最後に引用されているからです。ソロ楽器が持続音を出せないピアノであることで、ここではもっぱらアルペジオによる時間軸との戦いが見られます。その中に放り込まれたモーツァルトは、それがいかに細川の世界から遠いところにあるものであるかの指標としての役割を見事に果たしています。
3曲目の「チェロとオーケストラのための『チャント』」(2009年)は、それまでとガラリと変わったチェロのダイナミックな「あえぎ」によって、勇ましく始まります。日本の「声明」をモティーフにしているそうですが、それがちゃんとわかる形で現れるわけではなく、例えば長二度とか長七度の下降といった声明特有の音程が使われている程度のこと、他の曲もそうですが、添付されている作曲家自身の解説などは、あまりあてにしない方が良いに決まってます。
それにしても、これらの音楽が持つ繊細な粒立ちを見事にとらえた録音は見事としか言えません。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-06-29 20:44 | 現代音楽 | Comments(0)
弦楽四重奏
 WOWOWで「25年目の弦楽四重奏」をやっていたので、いま録画を見ているところです。前に見た「カルテット」と似たようなタイトルなので内容がごっちゃになっちゃいそうなのですが、実は、こちらの映画のつもりで見ていたら、全然別なものだったというのが、正直な話です。というか、あちらは、いつまで経っても弦楽四重奏団が出て来ないので、変だなあ、と思っていましたからね。

 はれて、その「弦楽四重奏団」がメインキャストの映画を見れることになりました。キャストがすごい豪華、というか、良く知った人がたくさん出ているので、まずびっくりです。特にファースト・ヴァイオリンの人(マーク・イヴァニール)は、この前まで「救命医ハンク」に出ていたディミートリーですから、ちょっとこの役に馴染むまでに時間がかかりましたね。クリストファー・ウォーケンのチェリストが、パーキンソン病にかかってしまって引退しなければならなくなった時の、他のメンバーの反応、というか、挙動がおおむね出揃ったところ。まだ半分ぐらいしか見ていませんが、これだけでももうとんでもない展開です。結束の固かったグループのメンバーがいなくなりそうだ、というだけで、もう内部の人間関係がバラバラになってしまうというのですからやりきれません。
 その中で、今までセカンド・ヴァイオリンだった人(故フィリップ・シーモア・ホフマン)が、二人で交代にファーストとセカンドを担当するように提案する場面が出てきます。これを、字幕で「第1」、「第2」とやっているのが、なんかいかにもシロートな感じがしてしまうというところで、いつもながらのクラシックをネタにした映画の完成度の低さ(いや、これは映画を作った人の責任ではありませんが)を味わってしまうことになるわけです。日本のヴァイオリン奏者で「オレに『第1』をやらせてくれよ」なんてい言う人なんか、いるのでしょうか?もっとも、「『ストバイ』やらせてね!」なんて言っても、ちょっと鼻もちならないところがありますから、微妙なところですがね。
 今日、3回目の練習があった「杜の都 合奏団」(これは、「都」の後に空白を入れないと、「杜の都合」になってしまいます)でパートを決める時には、そんな「ファースト」と「セカンド」のこだわりなんて無かったんでしょうね。それよりも、普通ニューフィルが取っているような、ファーストもセカンドもステージの下手寄りに並んでいる配置ではなく、ファーストは下手、セカンドは上手、という、いわゆる「対向型」になっているのが面白いところです。特に、モーツァルトでこれになると、この2つのパートの役割がはっきり分かって、とても面白く聴こえますからね。もう3回目ともなると、パートとしてのまとまりも出てきて、うっとりするような響きが聴こえるようになってきたのはうれしいことです。どちらのパートもニューフィルと市民響がほぼ半分ずつという構成ですので、次第に馴染んできたのでしょうね。本番までには、さらにまろやかな音に育って行ってくれることでしょう。
 でも、管の方は、いまだに全員揃ったことがない、というのがちょっと辛いところですね。これが、ニューフィルみたいな「降り番」のいないグループの宿命ですね。その人以外には代わりは用意できないので、メンバーが休めばそのパートは丸々穴が空いてしまいます。
 今日は、全曲を通して演奏していました。なかなか緊張を強いられる練習でしたが、まあわたし的にはスタミナは大丈夫だったので一安心です。正直、演奏会の曲目に全部乗るようなことはほとんどありませんから、ちょっと心配だったのですが、これだったらなんとかなるでしょう。41番の4楽章では、後半に管と弦がずれて、完全に崩壊してしまいましたが、多分私は「ずれてない」方で生き残っていたはずですから。でも、これは怖かった。ですから、スタミナというよりは、現場での緊張感が最後まで保てるか、という勝負になりそうですね。おそらく本番では、心身ともにくたびれ果てていることでしょう。
 その本番は来月20日。会場はイズミティです。

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by jurassic_oyaji | 2014-06-28 22:07 | 禁断 | Comments(0)
BARTÓK/Kossuth, Concerto for Orchestra
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Cornelius Meister/
ORF Radio-Sympnonieorchester Wien
CPO/777 784-2(hybrid SACD)




スーパーで牛乳を買う時には、常に奥の方から日付の新しいもの、つまり賞味期限が長いものを選ぶというのは、消費者が自分を衛るための当然の権利です。いきおい、この「おやぢ」のアイテムも、そんな「消費者的自衛権を行使」した結果、着いたばかりの新しいものから手を付けていくことになります。そうなると、いつの間にか聴かないCDが大量に残ってしまいます。いくら「権利」だからといって、闇雲に拡大解釈をしたりすると、そんな弊害が出てきます。なんてね。
ということで、なんと1年前に入手したものが今頃のレビューで登場となりました。演奏しているのはウィーン放送交響楽団です。かつてはいかにも放送オケらしく、新しい音楽を専門に演奏していたものですが、最近の首席指揮者ベルトラント・ド・ビリーのもとではオペラも含めたもっと幅広いレパートリーで勝負していたようですね。このSACDでは、このオーケストラに、2010年から首席指揮者のポストを獲得したコルネリウス・マイスターが指揮をしています。だいぶ前の噂ではマルクス・シュテンツがこのポストに就任することになっていたのに、いったい何があったというのでしょう。というか、このマイスターという名前は初めて聴いたような。ただ、日本ではだいぶ前に新国立劇場にデビューしているそうですし、このオーケストラと一緒に来日も果たしていますから、それなりの知名度はあるようですが。1980年の生まれと言いますから、まだ30代前半、これから頭角を現してくるのでしょうか。
タイトル曲は、バルトークの「大オーケストラのための交響詩『コシュート』」です。やはり1年前にやっていた朝ドラのように、夫の姉にいびられる嫁の話ではありません(それは「小姑(コジュート)」)。「コシュート」というのは、コシュート・ラヨシュという、実在の人物のことです。バルトークの祖国ハンガリーがオーストリア帝国の支配から立ち上がろうとした1848年のハンガリー革命の時の英雄です。結局革命が成就することはありませんでしたが、彼はハンガリー人の心の中にずっと残っているのだそうです。
バルトークがこの曲を作ったのは1903年のこと、まだ20代初めの若者の時でした。なんでも、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」を聴いて衝撃を受け、この曲を作ろうとしたのだそうですね。確かに、その描写性を表に出した構成といい、オーケストラの使い方といい、いたるところにシュトラウスの影響を見ることが出来ます。そのクライマックスは、なんと言っても戦いの模様を描写した8曲目(作品全体は切れ目なく演奏される10曲から出来ています)でしょう。まるで大砲の音を模したようなバスドラムの一撃などは、ほとんどチャイコフスキーの「1812年」ではありませんか。しかも、曲の中では相手軍であるオーストラリア帝国の「国歌」までが聴こえてきますから、なおさらです。これは、あのハイドンが作った有名なメロディなのですが、それが敵国のものだということで微妙にデフォルメされているのが不気味です。
それと全く同じ、「負」のイメージを持った引用をやっているのが、このアルバムのカップリング、それから40年後に作られた「管弦楽のための協奏曲」です、それは、ご存じ4曲目の「中断された間奏曲」の中に現れる、ショスタコーヴィチに対する揶揄です。そういう意味では、「オケコン」は「コシュート」の進化形?
もし、マイスターがそう思って、こんなカップリングを企てたのだとすれば、この「オケコン」のなんとも言えないユルさが理解できるような気がします。そんな無理なこじつけを押しつけられて、オケのメンバーはきっと当惑していたのでしょう。でも、こんな刺激の少ない「オケコン」もある意味魅力的。長い目でこのチームを見守っていきたいものです。音楽に賞味期限なんてありません。

SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück
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by jurassic_oyaji | 2014-06-27 20:04 | オーケストラ | Comments(0)
わたし、バカよね
 大雨が降ったり、雹が降ったり、あちこちでなんとも極端なお天気が続いていますね。とは言っても、仙台地方の空は真っ青に晴れ上がり、焼けつくような太陽の光が痛いほどに肌を刺します。こうなるともう夏ですね。
 しばらくぶりに職場の池を見に行ってみると、もちろんオタマジャクシの姿は全く見ることができませんでした。その代わり、ザリガニだけはあちこちにたくさん見つけられるようになりました。

 こんな風に、小さいのから、少し大きいのまで、様々のサイズのザリガニがうじゃうじゃいます。

 さらに、ハスが生い茂っているブロックでは、ハスの葉の陰に、こちらはかなり大きく色も濃い、ほとんど「大人」のザリガニが潜んでいました。この近辺にもう一匹同じぐらいのザリガニがいて、お互いにけん制し合っている様子が、うかがえます。
 なんでも、きのうのニュースでは、山の中で遭難した親子が助かったなどと報道していました。その際に気になったのが、「タケノコを掘りに山に入った」というフレーズです。いくら山の中とは言え、まだタケノコなんて生えているところがあるのでしょうか。ご存じのように、この池のそばの竹やぶではもうだいぶ前にタケノコの季節は終わり、長く伸びた普通の「竹」が生い茂っていますからね。
 ところが、そこを覗いてみると、なんだかまだタケノコらしきものが出ているではありませんか。

 でも、これは確かに形はタケノコですが、ここまで伸びたところでもはや成長が止まった、というか、もう死んでしまっているものだというのは、ちょっと蹴っ飛ばしただけでこんな簡単に折れてしまうことから分かります。

 こんな風に、ちょっと顔を出した状態でもう枯れてしまっている竹が、あちこちに見られます。長らく竹藪を見てきましたが、こういうのには初めて出会ったような気がします。あまりにも竹が増えすぎたので、栄養がいきわたらなくなってしまっているのでしょうかね。池といい、竹やぶといい、ちょっと生態系が狂い始めているような気がしてなりません。
 

 夕方、スーパーで買い物をしていたら、こんなアイスが目に入りました。「和梨」のアイスです。「ラ・フランス」みたいな「洋梨」だったら、今までもあったような気がしますが、あえて「和梨」というのに惹かれました。というより、「和梨バー」というネーミングでもうすっかり頭の中では細川たかしの「心のこり」が舞ってます。「♪わなしばーよね・・・」って。
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by jurassic_oyaji | 2014-06-26 21:28 | 禁断 | Comments(0)
POULENC/Stabat Mater, Sept Répons des Ténèbres
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Carolyn Sampson(Sop)
Daniel Reuss/
Capella Amsterdam
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Estonian National Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902149




ダニエル・ロイスと、カペラ・アムステルダム+エストニア・フィルハーモニック室内合唱団という、現在間違いなく最高位にランクされるはずの「ドリーム・チーム」が、プーランクを録音してくれました。一応メインの扱いになっているのが「スターバト・マーテル」ですが、その前に「テネブレの7つの応唱」が演奏されています。いずれも、キリストの死をテーマにしたテキストによる、ソロ、合唱、そしてオーケストラという大きな編成の作品です。
「テネブレの7つの応唱」は、餃子屋さんからではなく(それは「王将」)、レナード・バーンスタインからの委嘱を受けて作曲されました。それは、彼が音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの本拠地となる、リンカーン・センターのコンサートホールのオープニング記念演奏会のための委嘱だったのです。実際に初演が行われたのは1963年4月のこと(指揮をしたのはバーンスタインではなく、トーマス・シッパーズ)、プーランクはその少し前にこの世を去っていました。つまり、これはプーランクが作った最後の合唱曲ということになります。
その半年後、ジョルジュ・プレートルの指揮によってパリでヨーロッパ初演が行われるのですが、同じ指揮者によってEMIに初めて録音されたのは、それから20年を経た1983年のことでした。しかし、どうやらこの作品は録音に恵まれない星の元に生まれたようで、そのあとはこちらのハリー・クリストファーズとザ・シックスティーンの1994年の録音まで待たなければいけませんでした。そして、おそらくそれに次いでの録音が、さらに20年近く経った2012年のこのCDということになるのではないでしょうか。
オリジナルの編成は、トレブル・パートは少年合唱が歌うように指定されています。さらに、ソロもボーイ・ソプラノが担当することになっています。あくまで、少年ならではの無垢な声を、プーランクは欲していたのでしょう。ですから、プレートル盤ではそのようなメンバーによって演奏されていました。ところが、この録音を聴くと、その少年合唱があまりにひどいのですね。それは、初演に立ち会えなかった作曲家がもしこれを聴いていたら、さぞやがっかりするだろうな、というほどのひどさです。そのせいかどうかはわかりませんが、次のクリストファーズ盤では普通の混声合唱で歌われています。もちろんこの団体ですから、女声パートはあくまでピュアな歌い方に徹していて、作品の求めるものにきっちりと即していたはずです。この時のソリストも合唱団のメンバーのソプラノで、まるで少年のような雰囲気の声を持った人でした。
そして、今回ももちろん合唱は大人の混声合唱です。おそらく、この曲ではコンサートでも普通の混声合唱が歌うことの方が多くなっているのではないでしょうか。そういうスキルを持った団体が増えてくれば、もはやいい加減な少年合唱の出番はなくなってきます。もちろん、「ウィーン楽友協会合唱団」のような雑な合唱団の出番も。
クリストファーズ盤では25人ほどのメンバーだったものが、今回はその倍に増えています。その分、いくらか表現のキレが鈍くなった感はありますが、それを補って余りある質感、それもいぶし銀のような重厚な肌触りと、オーケストラの渋い音色とによって、作品のメッセージはより的確に伝わってきます。まるで無調のような厳しさを持つこの作品の中で、唯一明るめな2曲目「Judas mercator pessimus」で、最後にア・カペラで「Melius illi erat, si natus non fuisset(彼にとっては、むしろ生まれない方が良かったであろうに)」と突き放されるシーンなどは、まさに絶品です。
ただ、ソリストのサンプソンは、ちょっと誤算でした。彼女は、もっとノーマルなプーランクらしさが漂う「スターバト・マーテル」でさえ、この合唱団の中ではちょっと浮いて聴こえてしまいます。

CD Artwork © harmonia mundi s.a.
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by jurassic_oyaji | 2014-06-25 20:41 | 合唱 | Comments(0)
プログラム原稿完成!
 ニューフィルの練習指揮者の方が音頭をとってやることになったモーツァルトの演奏会は、2回の練習が終わったところで、順調な仕上がりを見せています。でも、気が付いたらもう本番までに1ヶ月を切ってしまっていました。実は、私はこの演奏会のパンフレットのために、何か書いて欲しいというリクエストを頂いていました。まあ、おそらくそんなことは頼まれるのでは、と予想していたことが、当たってしまったことになります。でも、これは私自身の勉強にもなることなので、もちろん引き受けていました。ですから、そろそろとりかからないと本番に間に合わなくなってしまうので、とりあえずざっと書き始めてみようと思いました。

 ところが、私はモーツァルトの「レクイエム」などではかなり細かいことまで知っていますが、今度演奏する交響曲については、実は肝心なことを何も知らなかったのだということに気づかされてしまいます。つまり、参考にしようと思って目を通してみた資料に書いてあることが、妙に新鮮なんですよね。ここで初めて知ることがいくらでも出てくるのですよ。まあ、確かにこんな感じで今までやって来たのだなあ、という思いですね。必要に迫られていろいろ調べるものですから、そこでしっかり知識が身に付くという、なんとも効率的な勉強法なのでした。なんて、頼んだ人にしてみれば冷や汗ものですね。
 ただ、そんな知識を知ったからと言って、それをそのまま原稿に書いたりしたらそれこそ「帯職人」のレベルになってしまいますから、あくまで私の基本的なスタンスは保ちます。今回は、演奏する曲のある楽章のテーマが、確かに別のところで聴いたことがあった、という記憶をたどって、それが何だったかを確かめる作業が、そんなところでしょうか。それは、さるアニメ映画を見た時に、あ、これはモーツァルトの曲だ、と思ったことの追体験。ただ、それがどのタイトルだったかいまいち自信がなかったので、片っ端からYoutubeで聴きまくってみました。しかし、最初に目星を付けていたものでは、それが出て来なかったのですよね。その他の候補作品も空振り、そこでちょっと途方に暮れてしまったので、その件に関してはしばらく放っておいて、他の部分を書き進めます。
 大体書けたところで、再挑戦、今度は、それに関連した全作品をリストアップして、しらみつぶしに聴いてまわります。そうしたら、ありましたよ。いやあ、嬉しかったですね。正直、本当にそんなのがあったのか自信をなくしかけていたのですが、私の記憶は確かでした。
 日曜日には、ちょうど折り良く、演奏する41番をテレビでやっていました。しかも、フィラデルフィア管弦楽団の日本公演の映像、これはちゃんと見るしかありません。そうしたら、私が吹くフルートの席には、なんだかずいぶんお年を召した人が座っていましたね。

 こんな人、前からいたかなあ、と思いつつ、アップになった時にそのアンブシャーや楽器の構え方、指のあて方などには、確かに見おぼえがあることが分かりました。この人だったら、だいぶ前からこのオーケストラの首席として活躍していたデイヴィッド・クレーマーに間違いありません。あまりにも風貌が変わってしまったので、全くの別人のようになっていましたが、やはり演奏する姿と、そして音を聴けば、それはしっかり思い出すことが出来ました。実際は首席ではなく副首席だったのですが、私は、首席のジェフリー・ケーナーよりも、この人の音の方がずっと好きです。
 その41番は、なんともへんてこな演奏でしたが、お陰で思ってもみなかったような側面を知ることが出来、それを原稿に生かすことができました。それ以上に、後半のマーラーはなんだか馴染めませんでしたね。この指揮者、CDではとても素晴らしいのに。
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by jurassic_oyaji | 2014-06-24 23:33 | 禁断 | Comments(0)
The Singles 1969-1973
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Carpenters
UNIVERSAL/UIGY-9542(single layer SACD)




今ごろ気づいたのですが、「カーペンターズ」って、名前に「ザ」が付かないんですね。「ザ・ビートルズ」みたいに、あの頃の最後が「ズ」で終わるバンドは、必ず頭に「ザ」が付いていましたからね(「ザ・リガニーズ」とか)。もしかしたら、そんな画一的な名前を避けて、ロック・バンドとは差別化を図ったというような戦略があったのかもしれませんね。確かにこのバンドのサウンドは当時としては画期的、その親しみやすさが人気を呼んで、日本では「一家に一枚カーペンターズ」という時代がやってきます。本当ですよ。誇張ではなく、どんなご家庭にも彼らのレコードがあったという、今ではとても考えられない現象が起きていたのですよ。そういえば、AKB48のレコード(つまりCD)を実際に持っているという人に、いまだかつて会ったことはありません。
そんな、ノスタルジーのかなたにあったはずのバンドのアルバムが、なんとユニバーサルが誇るシングル・レイヤーSACDで発売されました。価格はクラシックのアイテムと同じ税込4500円(3月末のリリースでしたから。今では4629円になってしまいました)ですから、別に高いとも思いませんが、こちらにはさらにいろいろ「小物」がおまけに付いているそうなので、迷わずお買い上げです。

ただ、クラシックの時もそうでしたが、このパッケージもなにか根本的な間違いを犯しているような気がしてなりません。本体はオリジナルのダブルジャケットのミニチュアなのですが、悲しいかな、このサイズではそれがきちんと畳み込むことが出来なくて、中途半端に開いた状態にしかなりません。それをボックスにしまうと、この不思議な構造の箱の蓋は全然力がないので、絶対に閉まることはないのですよ(蓋の裏にSACDを収納する必要なんてないのに)。

なんでも、このSACDには、リチャード・カーペンター自らがマスタリングに携わった2014年の最新DSDマスターが使われているというのですね。それはすごいこと、もしかしたらLPをしのぐほどの音が聴けるかもしれませんよ。一応、当時、1973年に買った、国内編集のLP2枚組のベスト盤がまだそんなにコンディションも悪くなっていないで手元にありましたから、比較にはことかきません。
ただ、こちらのアメリカ編集のベスト盤は、まだ実際に聴いたことはありませんでしたから、1曲目の「We've Only Just Begun」で聴きなれたシングル・バージョンとは全然違うものが聴こえてきたのには、戸惑ってしまいました。「ベスト盤」としてのイントロという意味で、いきなり「Close To You」のオープニングから始まって、「Superstar」の断片なども交えた後に、初めて本来の曲が始まっていたのですね。その、最初に挿入された部分は、楽器のバランスも、カレンのヴォーカルも全然別物ですから、おそらく編集した時に新たにレコーディングされたものなのかれん。「Close To You」の本体は1970年の録音ですが、この部分の音はたった3年で全然クオリティが違うようになっていました。ただ、それにしては1973年録音の「Yesterday Once More」がえらく音が悪いので、ちょっと訳が分からなくなってしまいます。ストリングスの音などは、「Close To You」の方がずっと繊細です。
ということで、その「Close To You」を、1973年のLP1985年にA&Mでマスタリングが行われたCD2枚組のベスト・アルバム、そして今回のSACDとを比較してみました。LPだけは、最後のコーラスが終わった後、また繰り返すというバージョン、CDSACDは普通にフェイド・アウトするバージョンです。
これはもう、ヴォーカルの立体感も、ストリングスの瑞々しさも、LPにはかないません。ヴォーカルだけだったら、SACDよりもCDの方が密度が高く聴こえるかもしれません。SACDは、確かに解像度は高く感じられるものの、音に厚みと暖かみが全く欠けています。これはおそらく、マスターテープそのものの劣化が進んだためなのではないでしょうか。いずれにしても、このSACDの音は全くの期待はずれでした。

SACD Artwork © A&M Records
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by jurassic_oyaji | 2014-06-23 20:12 | ポップス | Comments(0)
カフェードミンゴ
 そろそろ、今回の朝ドラの音楽についても書かなければいけないでしょうね。偶然かもしれませんが、というか、私のほんとに乏しい体験にしか基づいていいないのが辛いところですが、このところのドラマ業界では、確実に音楽のクオリティが上がってきているような気がします。中でもほとんど「感動」に近いものを体験したのは「MOZU」の音楽でした。ついにドラマの音楽もここまで来たのか、と思いましたね。決してドラマの内容を邪魔していないのに、音楽の存在もしっかり伝わってくるというもの。ほんと、こんなのを聴いてしまうと、今までの、ひたすらセンチメンタルな自己主張だけを叫んでいる音楽などは、もう恥かしくて逃げ出したくなってしまうのではないでしょうか。
 もちろん、朝ドラでも、そんな流れに鈍感でいられるわけがありません。今回もなかなか健闘、特に、民族楽器を使っての独特な雰囲気は、とてもハマっています。そして、面白いのが、カフェードミンゴの蓄音機から流れるという設定のクラシックのBGMです。まあ、最初のうちはありきたりのものだったのが、サティの「グノシエンヌ第3番」が聴こえてきたあたりから、この選曲はただものではないと思うようになってきましたよ。この時代にサティのSPなんてあるわけがありませんから、これは明らかに狙ってのこと、油断がなりません。
 そうしたら、先週あたりはシャブリエの「楽しい行進曲」なんかが流れているではありませんか。この曲、実は良く分からないのですが、「名曲」として認知されているものなんでしょうか?確かに、昔輸入盤のLPで「Famous Marches」というEMI盤が家にあったのですが、その中にこの曲が入っていました。ただ、「Famous」とはいうものの、当時としてはかなりマニアックな曲が入っていて(プロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」なんかは、これで初めて知りました)その中でもこのシャブリエはひときわ異様な「なんでこれが行進曲?」みたいな、とてもひねくれている印象がありましたね。というか、なんか聴いていると辛くなるので、そこだけ針を飛ばして聴いていたような。
 そんな、およそ「名曲」とは思えないような曲が聴こえたので、そういう意味でなんとも懐かしい思いに浸ってしまったのです。でも、これがきっかけでブレイクするかもしれませんね。なんせこんな異様な時代ですから。

 その、自宅にあったエフレム・クルツのレコードはもうどこかに行ってしまいましたが、だいぶ前にCDになっていたはずなので、「レコード芸術」の昔のイヤーブックを引っ張り出して曲目を確認してみました。そのようなデータとしての役割すらももはや期待が出来なくなって、先月から定期購読をやめたこの雑誌ですが、たまたま本屋で時間をつぶさなければいけない状況の時に、最新号が目に入ったのでチラッと立ち読みしてみました。そうしたら、驚いたことにあの「佐村河内事件」の記事がまだ載っていました。それがなんと野口剛夫さんからの投稿だったのには二度びっくり、要は、以前御用評論家、長木誠司がこんな記事の中でバッシングの対象としていた野口さんご本人からの「反論」だったのですよ。いや、それは別に反論っぽい過激なものではなく、以前の新潮の記事となんら変わらない冷静なものなんですけどね。
 この雑誌が長木誠司の身勝手な言い分を何のためらいもなく載せた時には、まさに長木と心中するつもりなのだな、と思ったのですが、まるで手のひらを返したようなこの腰抜けな態度はいったい何なんでしょう。もうこうなると、雑誌としてのポリシーなどはどこかへ行ってしまってますね。いや、そもそもそんなものは最初からなかったのでしょう。完全に保身に走っているその姿は、まさに長木と同じ醜いもの、この雑誌が、ますます許せなくなってしまいました。
 来月号の予告で大々的に「ベルリン・フィル」などとやっていましたが、どうやら実態は今度そのオーケストラが始めたレーベルの宣伝がメインのような感じですしね。国内のメーカーだけではなく、ドイツの「レコード会社」にまで媚を売るだけの太鼓持ちに過ぎない雑誌を2000円(!)も払って買うほどの愚か者は、いくらなんでもいないのでは、と思うのですが、どうでしょう。
 ところで、長木誠司は、この中でまだしっかり輸入盤のレビューを書いていましたが、その「後宮」のBlu-rayのコメントがこちらに非常に良く似ているのは、なぜでしょう。まっ、実は私もこちらを書いた時には、同じものを「参考」にしていますから、他人のことは言えないのですがね。
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by jurassic_oyaji | 2014-06-22 20:17 | 禁断 | Comments(0)
HATZIS/Flute Concertos
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Patrick Gallois(Fl)
Alexandre Myrat/
Thessaloniki State Symphony Orchestra
NAXOS/8.573091




カナダの作曲家、クリストス・ハツィスのフルート協奏曲が2曲収められたアルバムです。フルートを演奏しているのは、このレーベルでお馴染みのパトリック・ガロワ。この、1953年生まれのハツィスという作曲家の名前は全く聞いたことがありません。こんなフルートがメインのCDが出なければ一生聴くことのなかった作曲家だったのかもしれませんね。これこそまさに「出会い」というものです。
ガロワとハツィスも、やはり「出会い」があったからこそ、このCDが生まれることになったのでしょう。その様子がライナーノーツ(英文)で語られています。それは2000年のこと、当時トロントに住んでいたガロワが、トロント大学のハツィスのオフィスのドアをトロントンとノックして、「なにか、フルートのために作曲したものはありませんか?」と聞いたことから、その関係が始まったのだそうです。そこでハツィスは、1993年に作ったものの、誰にも演奏されずずっと無視されていた「Overscript」の初演を、翌年ガロワに行ってもらえることになったということです。
実は、このCDはもう一つの「出会い」にも支えられて出来上がりました。それは、ここでの指揮者アレクサンドル・ミラ。彼はガロワとはパリでの学生時代からのお友達、さらに、ハツィスの作品のよき理解者として、多くの作品を世界中で演奏しているのでした。ここにめでたく「愛の三角関係」?が成立、ミラが芸術監督を務めるギリシャのオーケストラとガロワによって、2つのフルート協奏曲が世界で初めて録音されることになったのです。
2011年に作られた「Departures」は、タイトルが示すように作曲家の個人的な知己との「別れ」がモティーフになっているとともに、その年に勃発した「フクシマのツナミ」にもインスパイアされているのだそうです。古典的な協奏曲のような動きの激しい両端の楽章と、穏やかな真ん中の楽章を持つ3楽章形式が取られています。第1楽章は「Blooming Fields」というタイトルが付けられていますが、これは、ジョージ・ブルームフィールドさんという亡くなった友人にちなんだもの。別に「花咲き乱れる丘」のような意味はないのでしょう。これはもろ中国風の5音階の世界。聴いていて恥ずかしくなるような音楽です。第2楽章は「Serenity」。105歳で亡くなった「霊感豊かな女性」にささげられているということですが、そのまんまの「癒される」曲調です。そして、第3楽章が「フクシマのツナミ」ということになります。「フクシマ」だけに限定したということで、これは容易に原発事故に結びつきますが、そのタイトルが「Progress Blues」という、何か深い意味が感じられるものです。作曲者によると、「Progress=進歩」とは、そのような事故を引き起こした「科学技術の進歩」のこと、それに対する「憂い」が「ブルース」なのでしょうか。とは言っても、音楽自体は日本の篠笛あたりを思い起こさせるようなフルートの特殊奏法が、もろ「ブルース」風のリズムの中で披露されるのが、ちょっと薄っぺらな感じです。最後の最後に、まさに「津波」を描写したかのようなドラマティックな音楽で恐怖を誘おうというのも、あまりに安直。
ガロワによって日の目を見ることになった「Overscript」は、「上書き」とでも言ったような意味合いでしょうか。ということはその前の「下書き」があるはずですが、それがバッハの、ヘ短調のチェンバロ協奏曲BWV1056の元の形と考えられているト短調のヴァイオリン協奏曲BWV1056/Iです。これは、早い話がこちらと全く同じコンセプトによる「リコンポーズ」の世界、バッハの元ネタを切り刻んで貼りあわせれば、それが新しい音楽になりうるという愚かな勘違いの産物以外の何物でもありません。
ここでのガロワは、全く報われないもののために、その名人芸を奉仕しているように思えてなりません。「出会い」は、必ずしも幸福な結果を招くものとは限らないのです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-06-21 20:18 | フルート | Comments(0)