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HINDEMITH/Complete Viola Works Vol.1
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Tabea Zimmermann(Va)
Hans Graf/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
MYRIOS/MYR010(hybrid SACD)




先日聴いたMYRIOSレーベルのSACDがあまりに素晴らしかったものですから、少し前のこんなアルバムもゲットしてしまいました。ステファン・カーエンがレーベルを創設する時に最初に録音を行っていたアーティストである、ヴィオラのツインマーマンによるヒンデミットです。これは、ヒンデミットのヴィオラが含まれる作品集の第1巻、オーケストラとヴィオラという編成のものが収録されています。さらに、無伴奏ソナタやピアノ伴奏によるソナタが入った2枚組のSACDも、すでにリリースされています(MYR011)。
ヒンデミットと言えば、個人的に「有名」なのは、もちろん「フルートソナタ」と、「ウェーバーの主題による交響的変容」、さらに「朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された『さまよえるオランダ人』序曲」あたりでしょうか。ウェーバーもオランダ人も、しっかりと「元ネタ」があって、それを「ほとんど崩していない」という作品ですから、オリジナルとは言えません。そうなると、やはり名前的になじみがあるのはこのSACDに収録されている「白鳥を焼く男」ということになるのでしょうか。
ヒンデミットと言えば「ヴィオラ」と言われるように、彼はこの地味~な楽器をソロにした多くの作品を残しています。そんな中で、バックのオーケストラからは、なんとメインの楽器であるヴァイオリンとヴィオラを取り払ってまで、ソロのヴィオラを目立たせたいと思ったこの曲は、そんな特異な編成よりも、なんと言ってもそのユニークなタイトルによって、ほんの少し「有名」になっているのではないでしょうか。しかし、ほとんどこれが定訳となっているこの不気味なタイトルは、その内容を正しく伝えるものではありません。原題の「Der Schwanendreher」は、この曲の第3楽章に用いられている「あなたはSchwanendreherではありませんね?」という古謡のタイトルからきているのですが、この言葉は直訳すれば「白鳥を回転させる人」なので、どこにも「焼く」とせる部分などはないのですよ。
しかし、この単語の後半「dreher」は、シューベルトの「冬の旅」の最後の最後のテキスト「Deine Leier drehn?」でおなじみではなかったでしょうか。ここで旅人は「辻音楽士」に対して「ハーディ・ガーディを弾いてはもらえないだろうか?」と懇願していたのでした。この楽器はハンドルを「回転」させて音を出しますから、「回転させる」と「弾く」とは同義語になるわけです。
そこでヒンデミットです。この作品の中で用いられている古謡は、中世のミンストレルたちが、それこそハーディ・ガーディ片手に歌っていたもの、「Schwanendreher」こそが、その「ハーディ・ガーディ弾き」なのですよ。この楽器が白鳥に似ていることも関係しているのでしょう。

しかし、ヒンデミットがこんな本物の白鳥に串を通して「回して」いるという下手くそな絵を書いて、「これがタイトルの唯一正統的な説明なのだ」などと言ってしまったものですから(おそらく、これは彼ならではのジョークでしょう)これを真に受けた「白鳥を焼く男」という訳がまかり通るようになってしまったに違いありません。
ツィンマーマンの奏でるヴィオラの音は、この、まさに期待通りの素晴らしい録音によって、ヴァイオリンともチェロとも違う独特の魅力を持った楽器としての主張が伝わってくるものでした。そんなソリストのまわりで、ある時は控えめに、ある時はソリストと対等にふるまっているオーケストラの姿も、生々しく迫ってきます。
最後に収録されている「ヴィオラと大室内管弦楽のための協奏音楽」(これも、ツッコミどころの多い邦題ですね。「大室内管弦楽」って、なんなんでしょう)は、これが世界初録音となる「初稿」による演奏です。改訂された現行版は、これに比べると、なにか「軽さ」が強調されているような気がします。これもヒンデミットのサービス精神の賜物?

SACD Artwork © Myrios Classics
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by jurassic_oyaji | 2014-07-31 20:09 | オーケストラ | Comments(0)
竹亭のうな重?
 もう7月も終わりですね。暑い日が続いていますが、ここは夜には少しは涼しくなりますから、東京みたいなまるで熱帯の未開地みたいなどうしようもない暑さに苦しめられることはあまりありません。ほんとに、だいぶ前に東京で夜を過ごした(変な意味じゃないですよ。コール青葉の演奏会が、真夏にあったのですよ)時などは、絶対にこんな未開地には住みたくないと思いましたね。そう、都会ぶってどうしようもないヒートアイランドと化したあの街は、未開地以外のなにものでもありません。オリンピックですって?冗談でしょ?
 ニューフィルの練習場である市民センターのホールは、なんせ窓を開けることのできない団体が使うものですから、この時期は冷房は欠かせません。しかし、なんせお役所のこと、いくら暑くても6月までは絶対に冷房を入れてくれないという掟がありますから、もしその時期に気温が高くなったりすると地獄です。ところが、7月に入ると、まるで手のひらを返したようにキンキンに冷やしてくれますから、これは逆の地獄、うっかりして半そでのTシャツ1枚などで行こうものなら、あまりの寒さに凍えてしまうことになります。ですから、いくら暑い日でも、必ず上に羽織るものを持っていくことは、決して忘れることはできません。
 ということで、きのうの練習の時にも、出来上がったばかりの「かいほうげん」の束といっしょに長袖のシャツを持って会場に向かいます。おかげさまで、何事もなく印刷作業と、その後の製本作業が終了し、予定通りに発行することが出来ました。考えてみれば、この前に発行したのが5月末ですから、ほぼ2ヶ月の間が開いてしまったことになります。
 実は、きのうは前半は降り番。ですから、後半の出番に合わせてゆっくり行けばいいのですが、私の場合は演奏会のチラシやポスターをみんなに持って行ってもらうために、始まる前にそれらを倉庫から出して机の上に並べておく、という仕事が、乗り降りに関係なくあるものですから、一応定時には行っていなければいけません。そんなものを全部用意し終わったところで、一旦外に出て近くのスーパーで夕食を食べることにしました。きのうは確か土用の丑の日ですから、本当はうな重でも食べればよかったのでしょうが、そんなわけにもいきませんから、スーパーで買ったパンとジュースで慎ましい夕食です。

 あそこのスーパーには、そういうお弁当なんかを食べられるスペースがあって、お茶なんかもタダで飲めるようになっていますから、そこに座ってパンをかじっていると、買い物を終えた男性がやってきて、今買ったばかりのウナギのかば焼きのパックを、やはり備え付けの電子レンジで温め始めましたよ。その人は、缶ビールも買っていたようでした。そうか、こういう手もあったな、と納得です。でも、ビールを飲んで練習に行くわけにはいきませんし、そもそも私はお酒は全く飲めませんからね。
 それから練習場に帰っても、まだ前の曲は終わっていません。一旦、最後までやったら、「では、全曲通しましょう」ですって。確かに、早いものでこの曲はこれが指揮者練習前の最後の合奏になってしまいましたから、これは必要なことでしょう。でも、やっぱりベートーヴェンは大変ですね。
 それが終わるのと同時に、新しい「かいほうげん」をみんなに配ります。休憩時間には、読んでもらえることでしょう。と、次の曲に備えて音出しをしていたら、チェロのKさんが忍び寄ってきて、「これ、間違ってません?」と聞いてきました。たしかに、チェロの入団希望者だったはずの人が、なぜかヴィオラになっていましたよ。いやあ、何度も見直したのに、これは気が付きませんでした。他人の帯コピーを笑ってる場合じゃありません。
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by jurassic_oyaji | 2014-07-30 21:19 | 禁断 | Comments(0)
BEETHOVEN/9 Symphonien
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Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
DG/479 3442(CD, BA)




カラヤンが196112月から196211月まで、ほぼ丸1年をかけて録音した、DGでの最初のベートーヴェン交響曲ツィクルスが、まとめてセットになってリイシューされました。別にそれ自体は珍しいことでもなんでもないのですが、その際に5枚のCDの他に、全9曲が1枚に収められたBAも一緒だったので、迷わずに購入です。もちろん、BA24/96のハイレゾPCM音源です。
このツィクルスのハイレゾとしては、以前シングルレイヤーSACDで3番と4番のカップリングの国内盤を聴いていました。その時の、「同じスペックで全曲聴いてみたい」という願いが、これでかなったことになります。あの時には「4番」の前半と後半で全然音が違っていたのは、録音時期の違いによることがハイレゾでよく分かったのでしたが、今回全曲を聴いてみると、全体にわたって音の傾向がはっきり2種類に分かれていることが分かりました。「1年かけて録音した」とは言っても、実際のセッションは196112月から1962年3月までの間と、1962年の10月から11月にかけての2つの時期に集中しています。つまり、この間に半年以上のブランクがあるのですよ。そして、双方の時期に録音されたものが、見事に別の音になっているのですね。前半はちょっとおとなし目、ヴァイオリンなどはとてもすっきりした音ですが、後半ではヴァイオリンの高音が強調され、それぞれの楽器の音像もくっきり浮かび上がるという、かなり派手な音に変わります。この半年間に、ギュンター・ヘルマンスが「腕を上げた」ということなのでしょう。
ところが、そんな中で「5番」だけが、データでは前半に録音されたことになっているのですが、聴いてみると明らかに後半特有の「派手」な音に仕上がっているのですよ。確かに、このセットに載っている「録音記録」の現物にははっきり3月9日と3月11日の日付が入っていますから、セッションが行われたのは間違いないのですが、もしかしたら、後半の時期に録り直しをしていたのかもしれませんね。なんたって、この曲は全集の目玉ですから、カラヤンとしては物足りなくなって「新しい」音で録音したくなったことは十分あり得ます。
こんな比較は、やはりBACD900STで聴いたために、容易に出来たのでしょう。ついでにシングルレイヤーSACDとも聴き比べてみましたが、今回のBAよりはワンランク落ちる、芯のぼやけた音でした。これは、メディアの違いもあるのでしょうが、そもそものマスターが別物だということもあり得ます。つまり、こちらに書いたように、ほぼ同じ時期に出た全く同じ音源による国内盤SACDと輸入盤BAが、SACDは最初の2小節が欠落しているという不良品だったにもかかわらず、BAでは何の異常もなかったのですから、明らかにそれぞれのマスターが別物だったことがはっきりしますたー
この全集はかつてLPで出ていた時に入手していました。その時と同じデザインのケースを見たら、なんだか涙が出そうになりましたよ。この独特のフォントが、当時は「宝物」だったレコードの記憶をよみがえらせてくれます。ただ、悲しいかな、当時の安物の再生装置では、「第9」の合唱などは音が歪んでまともに聴くことはできませんでした。しかし、このBAは違います。最も後期に録音されたものですから、音の輝きはものすごいものがあります。そんな中で合唱はかなり注意深く録音されていたことが分かります。ちょっと音圧的には不満が残りますが、音楽として必要な音はしっかり収録されていますし、この「楽友協会合唱団」が、特に男声はかなりのレベルの高さだったことも分かります。
以前のシュトラウスのBAや今回のように、ボックスセットを出す時には一緒に24/96BAもついてくる、というのが一般化するとうれしいのですがね。このスペックだと、10枚分ぐらいは収まるはずですから、40枚のCDボックスにはBA4枚・・・夢ですね。
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by jurassic_oyaji | 2014-07-29 23:33 | オーケストラ | Comments(0)
むすび丸がたくさん
 東北地方は今日梅雨が明けたそうですね。本当はもうだいぶ前から明けていたような気がしますが、おそらくこれはあとで修正されるのでしょう。ですから、きのうはもう完全な夏空のもと、特に用事もなかったので、秋保に新しく出来たというなんとかというところまで車でドライブしてきました。

 ちょっとした「道の駅」程度のものかと思っていたら、かなり広大な敷地にいろいろなものがこれから出来るだろうな、という感じのところでした。とりあえず完成しているのが、この、まさに「道の駅」の建物です。

 こんなかわいい、お米のパックがありました。こういう農産物の他に、お菓子屋さんのテナントがあって、そこが関係している商品がいっぱい置いてありましたね。本来はお茶屋さんなのですが、こんなに商品展開をしていたなんて、知りませんでした。なんせ、「くずもち」まであるんですからね。いたるところで試食が出来るようになっているうえに、冷たいお茶のサービスもあって、それだけでお腹がいっぱいになりそう。
 案内コーナーに行った時に目についたのが、「田んぼアート」の案内チラシです。一度現物を見てみたいと思っていたのですが、なんでも車で行けばすぐそばに、堂々たる「アート」を見ることが出来る場所があると書いてあったので、さっそく行ってみることにしました。
 それは、いつも練習に使っている広瀬文化センターのそば、向かい側の錦が丘に上っていく道の途中に、旗が何本も立っていて、ちゃんと駐車場への案内がありました。

 これがその「田んぼアート」です。向こうに見えるのが広瀬文化センター。

 足元のウサギを、さっきの端の上から見ると別のものになるというので、行ってみたら。


 確かに。
 ただ、最近の「田んぼアート」だと、こういう、「真上から」見るという構図ではなく、ここのような「遠くまで見渡す」ということを前提にして、遠近法を使って真正面に見えるようにデザインしているところが多いのではないでしょうか。そこで、さっきの写真をPhotoshopで加工して、「真上から」見たように変形してみました。

 そうしたら、さっきのアングルでは見えなかった、背景の山(蔵王でしょうか)まではっきり見えるようになりましたよ。せっかく作ったのに、今のままではここまで見えることはないのが残念です。来年は、このような「遠近法」まで考慮したら、よりインパクトが増すのではないでしょうか。いや、今のままでも充分にインパクトはあって、実はほとんど感動ものだったのですがね。
 そんなに遊び歩いていても、「かいほうげん」の方は、無事出来上がりました。これで、明日印刷のトラブルさえなければ発行出来るはずです。最後のページが、かなりのスペースがあったので、ほんとだったらそこに団員のご家族の御不幸などを掲載すべきだったのかもしれませんが、それは記録として私の胸の中にとどめておくだけにして、やめることにしました。その代わり、思いっきり明るい写真が見つかったので、それを載せてあります。
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by jurassic_oyaji | 2014-07-28 21:41 | 禁断 | Comments(0)
PEREZ/Mattutino de' Morti
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Roberta Invernizzi(Sop)
Salvo Vitale(Bas)
Giulio Prandi/
Ghislieri Choir & Consort
DHM/88843051022




ダヴィデ・ペレスなどという、三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」という権威ある辞典(もちろん、これは皮肉です。これほどいい加減で情報量の乏しい辞典も稀です)にはもちろん載っていないようなレアな作曲家の作品などを聴こうと思ったのは、もちろんこれが世界初録音である「死者を悼むための曲」が収録されているからでした。
ペレスというのは、1711年に生まれて1778年に亡くなったイタリア人の作曲家です。若い頃はイタリア各地で数多くのオペラを作っていましたが、1752年からはポルトガル王のジョゼ一世の宮廷音楽家として仕え、亡くなるまでリスボンで暮らしました。そのポルトガル宮廷時代に、ペレスは多岐にわたる宗教曲を残します。それは「詩篇」、「ミサ」、「モテット」、「レスポンソリウム」、「レクイエム」、「スターバト・マーテル」、「ミゼレーレ」、「マニフィカート」、「テ・デウム」など、まさにあらゆるジャンルの宗教曲を網羅した作品群です。
そんな中で、1770年に作られたとされるこの「死者のための朝の祈り」は、1774年にはロンドンの出版社から出版され、ポルトガル国内だけではなく、植民地のブラジルでも、19世紀の末まで広く演奏されていたといいます。今回の演奏にあたっては、この出版譜のコピーをもとに、さらに自筆稿なども参照して指揮者のプランディなどが校訂を行った楽譜が用いられているそうです。
ソリストが数名(この録音では7人のソリストがクレジットされています)、それに、当時としてはかなり大規模な編成のオーケストラと合唱のために作られたこの曲は、おそらく「岬の聖母教会」への巡礼の際に初演されたのではないかと言われています。ジャケットに写っている建物が、その教会の宿坊です。リスボンの南に位置し、大西洋に面してむき出しの岩肌をみせるエスピシャル岬では、そこから眺める大西洋に沈む夕日がまるで聖母のように見えることから、中世からそこに巡礼するという伝統があったのだそうです。
そもそも「朝の祈り」というのがどういうものなのかは、このライナーノーツや、例によって間違いだらけの代理店のインフォ(今回の間違いは、あきれるほどのひどさです)などからは、皆目知ることはできません。一応、同じような構成の曲が3つあって、それぞれに「ノットゥルノ(夜想曲)」というタイトルが付いているのですから、どうのっとぅるのかますます訳が分からなくなってしまいます。朝なのか夜なのか、はっきりしてもらいたいものです。
それぞれの「ノットゥルノ」は、さらに3つの「レスポンソリオ」から出来ています。それは、まずオーケストラが、とても「明るい」音楽を演奏することで始まります。フルートやオーボエの華やかなフレーズが、それに彩りを添え、ソロや合唱が盛り上げます。最後がフーガとなってちょっと毛色が変わったと思うと、「ヴェルセット」という部分に変わり、そこではソリストがまるで「オペラ・セリア」のような技巧的なアリアを歌います。そのあとにさっきのフーガが繰り返され、一つの「レスポンソリオ」が終わります。しかし、3度目の「レスポンソリオ」では、そのあとに「レクイエム」の冒頭の歌詞による音楽が演奏されます。さらに、曲全体の最後の最後、3番目の「ノットゥルノ」の最後の「レクイエム」の前には、「ディエス・イレ」が演奏されます。
そのように、テキストだけ見るとこれはまぎれもない「死者のための」音楽なのですが、その「明るさ」は、その時代の様式を過不足なく反映していることを差し引いても、かなりの違和感がもたらされます。これは、おそらく「礼拝」というよりは「祝典」の意味を持って作られたものなのではないか、という気がするのですが、どうでしょうか?実際、このCDでの演奏家たちは、誰も深刻ぶってはおらず、楽しげに音楽を作っているように感じられます。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Italy Spa
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by jurassic_oyaji | 2014-07-27 20:30 | 合唱 | Comments(0)
杜の都合は、CD1枚に収まりました。
 このところ、やることが山積みで多少テンパっているところです。先ず最優先は来週発行されるはずの「かいほうげん」の作成なのですが、もうすべてのページのネタは揃っているのに、なかなか実際の作業が進みません。そこに、先週の演奏会の録音が届いて、その編集をやることになったので、そちらにも時間が割かれてしまいます。いや、これは、ベタで前半と後半がそれぞれ1枚ずつのCDに入っているものを、曲や楽章の頭出しをしてCD1枚に収めるという仕事ですが、これは単純に余計なところをカットしてトラックをいくつか作り、あとはそれを並べてCDに放り込めばいいだけですから、1時間ぐらいで簡単に終わってしまうと思っていました。でも、それで作ったCDを聴いてみると、まだ余韻が残っているのにブッツリ切られて、すぐ次の曲が始まる、なんてところがたくさん見つかってしまいました。波形を見てもう音はなくなっただろうと切ったところをよく聴いてみたら、まだティンパニの音だけがかすかに残っていた、というようなところです。これではちょっとまずいので、もう1度編集のやり直しです。まあ、CDからリッピングした元のデータから、もう1度切り抜くというだけの話なのですけどね。
 そんなわけで、金曜日の午前中いっぱいを予定にないことに使ってしまったので、やはり「かいほうげん」を仕上げることはできませんでした。いや、最初からどうも無理なような気はしていたので、もうこれは家へ持ち帰って作業をやれ、ということだったのでしょう。なにしろ、今日の午前中だけでは到底終わらなかったので、そもそも金曜日中に仕上げるのは無理だったことが分かりましたから。
 残りの仕事は明日に回すことにして、暑い中街に出かけました。もう溶けてしまいそうな暑さ、一番ひどいのは駐車しておいた車の中が蒸し風呂、いや、まるで坩堝のようになっていることです。いくらエアコンをかけても、そう簡単に気温が下がるわけではないので、これには参りますね。
 久しぶりに駅に行ったら、地下の売店は夏祭りモード、こんな「仙台土産」のTシャツが見つかりました。

 気持ちは分かります。「これでいいのだ!」を「仙台弁」でしゃべらせた、ということなのでしょう。しかし、これは仙台人にしてみれば、「誤訳」以外のなにものでもありません。正しくは「これでいいのっしゃ」ではないでしょうか。これを見て本気にする人が出てくるのが、心配でたまりません。ついでに、このキャラは「天才バカボンのパパ」であって、決して「天才バカボン」ではありません。

 2階に上がって仙台駅のコンコースに行ってみると、いつのも七夕とは様子が違っています。この時期には必ず天井からつりさげられている吹き流しが見当たらないのですね。これは、この屋根の工事が始まっているためです。奥の方に足場が組んでありますが、これがこれからこちらまで伸びてきて、この天井が全く別のものに変えられるのだそうです。それが七夕期間中にも行われるので、なにも飾ることはできないのだとか。大変ですね。

 それだけではなく、駅の東口は今すごいことになっています。自由通路を出てみると一瞬今までの景色はどこへ?と思ってしまったのは、そこにあったかつてのヨドバシの店舗が、きれいになくなって更地になっていたためです。

 そして、これはかつてはX橋(「エックスばし」ですからね。「ばつばし」ではありません)と呼ばれていた跨線橋が、一夜にして撤去されたために、その下をくぐっていたトンネルがなくなってしまった、という風景です。その昔のトンネルの写真が、下の画像です。

 車なんか通れなくなっているのでは、と思っていたのですが、逆になにもなくなったために、あっさり通れてしまいました。いずれはここに、奥にある道路と同じものが作られることになるのでしょう。

 そういえば、「ジュラシック・ページ」のトップページも、少し変わりました。今まで下の方にあった入団者募集のバナーのうち、チェロのものは募集の必要がなくなったので撤去しました。もう一つのヴァイオリンの方はまだ残してありますが、これも少しリフォームしてあります。
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by jurassic_oyaji | 2014-07-26 22:40 | 禁断 | Comments(0)
Stabat Mater dolorosa
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Music for Passiontide
Graham Ross
Choir of Clare College, Cambridge
HARMONIA MUNDI/HMU 907616




ケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団は、例えば同じ大学のキングズ・カレッジ合唱団のように高音を少年が歌うという古典的な「聖歌隊」の編成ではなく、ごく普通の学生による混声合唱団です。とは言っても、1866年に創設された時には、やはり少年が入った「聖歌隊」でした。しかし、キングズ・カレッジあたりではそういう少年はカレッジに付属した教育機関があるのでしょうが、「クレア」の場合は普通の小学生が参加していたため、やがて少年の「調達」が困難になってしまいます。結局、1971年からは、学生の女声を加えた合唱団として再スタートを切ることになるのです。その時の指揮者はピーター・デニソンでしたが、1975年からは、あのジョン・ラッターが指揮者になります。彼は、そのポストを1979年にティモシー・ブラウンに譲りますが、それ以後もこの合唱団とは緊密な関係を保ち、彼らのレコーディングの時にはレーベルに関わらずプロデューサーとエンジニアをかって出ています。
さらに、2010年からは、グラハム・ロスが指揮者を引き継ぎました。彼の名前は、まず「ドミトリー・アンサンブル」の指揮者として知りましたが、このケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団とのアルバムも、例えばイモジェン・ホルストのアルバムなどで聴いたことはありました。
自身が作曲家でもあるロスのことですから、この「受難節の音楽」というサブタイトルを持つアルバムは、なかなか凝った作り方がされています。まずは、タイトルにある有名な「スターバト・マーテル」という、十字架上のキリストの亡きがらの脇にたたずんで悲しみにくれる聖母を描いた聖歌のテキストが、ロス自身が校訂したグレゴリオ聖歌の形で歌われます。ご存知のように、このテキストはかなりの長さがありますから、ひとくさり終わったところで、今度は後の作曲家が作った、やはり受難節の間に歌われるキリストの受難を題材にした作品が演奏されるという仕組みです。
その「作品」は全部で15曲、16世紀のトーマス・タリスから、現代、1985年生まれのここでの指揮者グラハム・ロスまでの非常に長いスパン、そして、作られた地域もスペイン、フランドル、ドイツ、イタリア、イングランドと広範にわたっています。まさに、これはグレゴリア聖歌をバックグラウンドとした、時空を超えた「受難音楽」の一大絵巻と言えるでしょう。
そうなってくると、そんな脈絡のない作品の配列でも、工夫が必要になってきます。まず並ぶのがヴィクトリア、ラッスス、タリスと言ったポリフォニーの大家たちです。正直、このあたりだとこの合唱団のパートごとの音色があまりに違うので、何か落ち着いて聴いていられないという不安感が漂います。しかし、そのあとにしっとりしたホモフォニーのジョン・ステイナーなどが続くと、彼らのピッチなどにはかなりの精度の良さがありますから、少しほっとさせられます。
しかし、その次のジェズアルド、「Caligaverunt oculi mei」になったとたん、この作曲家の、時代様式からはあまりに逸脱した「危険な」ハーモニーの存在感を、見事に伝えきっている合唱団の姿が現れます。おそらく意識してのことでしょう、その、ほとんど前衛的ですらある微妙なピッチには、打ちのめらせてしまいます。つまり、これはその次のロスの作品の伏線だったのでしょう。これが世界初録音となる「Ut tecum lugeam」のような不協和音すら厭わない作風こそは、今のこの合唱団の本分なのではないでしょうか。
そうなってくると、同じ存命中のジョン・サンダースが「The Reproaches」でアレグリの「Miserere」を下敷きにしている意味も伝わってきますし、ブルックナーの「Christus factus est」での攻撃的な表現も理解できてきます。そして、最後のデュリュフレの「Ubi caritas」が聴こえてくるころには、まんまとロスとこの合唱団が仕掛けた罠にはまってしまっていることに、聴き手は気づくことになるのろす

CD Artwork © Harmonia Mundi USA
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by jurassic_oyaji | 2014-07-25 20:59 | 合唱 | Comments(0)
東野圭吾

 東野圭吾の最新の文庫本がなんと2ヶ月連続で出るそうですね。まずはその第1弾を買ってきて、さっそく読んでしまいました。ほんとに、この人の本は読み始めると他のことをほったらかして最後まで読みたくなってしまうのが、困ったものです。
 今回は、別に文庫の書き下ろしではなく、ちゃんとハードカバーが3年ぐらい前に出ていたものでした。でも、なぜか広告などには「文庫化」という言葉がなかったのは、ある種の作戦なのでしょうね。もちろん、私はハードカバーは一切買わないことにしていますから、そんなものに引っかかることはあり得ないのですが。
 これも、いかにも東野さんらしい、一見無駄と見えるものがしっかり伏線になっていたといった、油断のならない構成でした。これが映画やドラマになった時のキャスティングを考えてみると、ホテルマンになりきって潜入捜査を行う刑事役は、なんたって阿部寛でしょう。というか、もしかしたら彼に「あてて」書いたのではないか、と思えるようなところが、ありませんか?ただ、そうなると加賀恭一郎と重なってしまうのが問題ですね。そのコンビとなるフロントクラークは、仲間由紀恵・・・と、思いっきり「トリック」ですね。そして、最後に明らかになる犯人は清水ミチコとか。

 これを読み終えるのに呼応していたように、WOWOWで韓国版の「容疑者Xの献身」が放送されていました。タイトルは「容疑者X 天才数学者のアリバイ」ですって。でも、これは「邦題」のようで、原題は「Perfect
Number/Suspect X」というしゃれたものでした。とは言っても、映画の方はそんなおしゃれでスタイリッシュなものでは全然ないところが、面白いところ。つまり、日本版(というか、オリジナル)でそんな「おしゃれ」を一身に背負っていたガリレオ先生が、この韓国版には登場してこないのですよ。
 ですから、事件の捜査は刑事が一人で頑張ることになるのですが、実は彼が「天才数学者」の高校時代の同級生だった、という設定で、ガリレオの役割をきちんと果たすことになります。もう一つ、実際に最初の殺人を犯す親子は、ここでは叔母と姪という設定です。最初はそんな細かいところで変えてどうするのか、と思ったのですが、よく考えてみると原作での女の子は実の父親を殺す手助けをしてしまっているのですよ。これはあまりにも残酷、というか、無神経な設定ではないでしょうか。韓国版は、そこのところを考慮して、より自然な形に修正したとは言えないでしょうか。
 そんな、日本版に比べると奇を衒わない淡々とした語り口で物語は進んでいくように感じられます。なにより、キャラクターが自然で素朴な感じ。天才数学者は、まさに原作にあるようなとことんさえない男に見えますが、その最大のポイントは、今ではまず見られない大きなフレームのメガネでしょうね。こんな「時代遅れ」のメガネひとつで、見事にこの役を語っています。そして、彼が思いを寄せる「おばさん」は間違いなく日本版の松雪泰子を超えた可憐さを持っています。これだったら、自分が犠牲になっても絶対に守りたくなりますって。
 ですから、最後の原作とも日本版とも違う結末にも、このキャストだから納得させられるのですね。いかにも素直な心情を反映させたこの結末は、この映画の目指すものが日本版とは全く異なる事を見事に物語っています。
 韓国の映画なんてまず見ないので、これらのキャストがどういう人たちなのかは全く分かりませんが、唯一、「冬ソナ」で「キム次長」を演じていた人が捜査課長かなんかをやっていて、なんかホッとさせられましたね。
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by jurassic_oyaji | 2014-07-24 23:17 | 禁断 | Comments(0)
IMAGINARY PICTURES
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Kirill Gerstein(Pf)
MYRIOS/MYR013(hybrid SACD)




このMYRIOSというのは、2009年に創設されたというまだ出来立てほやほやのレーベルです。これを作ったのは当時35歳の若者、シュテファン・カーエン。

彼はエンジニアにしてプロデューサー、さらにはジャケットのデザインまで手掛けるという、まさにこのレーベルを一人で切り盛りしている人物です。同じようにすべて自分一人でやらなければ気が済まなかったのは、ノルウェーの「2L」レーベルの創設者、モーテン・リンドベリでしょうか。
2L同様、このレーベルが打ち出しているのが「よい録音」です。あちらは「DXD」という超ハイレゾのPCMが売り物ですが、こちらはもっぱらDSDにこだわっているようですね。ご存知のように、DSDというのは編集が簡単にはできないというフォーマットですから、なかなか最初からDSDで録音するエンジニアは少なく、まずPCMで録音、それを編集してからDSDにしたものが、普通はSACDのマスターになっています。ですから、最初からのDSDということは、編集することをあまり考えないで、ライブ感を大切にした録音を行うということにつながるのではないでしょうか。まあ、中にはDSDで録音したものを一旦PCMにして編集、再度DSDに戻す、というやり方をする人もいるかもしれませんが、それだったら最初からPCMで録ればいいのですからね。
最初の数アイテムはCDでのリリースでしたが、最近ではすべてSACDとなって、カーエンのこだわりはそのまま聴く者に伝わるようになっています。しかし、そんな、まさに「手作り」によるアルバムですから、5年目に入っても、品番で分かるように今回で13枚しか出ていません。このレーベルを扱っているのが、あのNAXOS。毎月何十枚と新譜を出している会社が、こんなゆったりとした歩みのレーベルの面倒を見ているというのも、なんか救われる思いです。
今回のアーティストは、このレーベルの常連、ロシア出身のピアニスト、キリル・ゲルシュタインです。なんか辛そうな名前ですね(それは「キリキリ、下痢したいん」)。いや、彼は1979年生まれの若手、かつてバークリー音楽院でジャズ・ピアニストを目指していたこともあるというユニークな経歴の持ち主です。今回は「想像上の絵画」というタイトルを掲げて、ムソルグスキーの「展覧会の絵」と、シューマンの「謝肉祭」を披露してくれています。いずれの曲も絵画的なイマジネーションが元になって作られている、ということなのでしょうか。
まずは、「展覧会」から。もう冒頭の単音から、この録音のすばらしさがはっきりと伝わってきます。細やかなタッチや、ペダルによる音色の変化が、まさに手に取るようにくっきりと聴こえてくるのですからね。それでいて、まわりの残響も過不足なく取り入れられていて、ほんのりとした存在感が味わえます。
この「プロムナード」でゲルシュタインがおそらく意識して取り入れているテンポ・ルバートは、この曲のオーケストラ版を聴きなれた人にとってはちょっとした違和感を誘うかもしれませんが、そもそもあのラヴェル版のようなきっちりとしたパルスの中で語られる音楽ではないのだ、ということが、ここからは分かるのではないでしょうか。これは、あくまでもロシア風の「歩き方」なのでしょう。もしかしたら、少しお酒が入っている人なのかもしれません。
そんなルバートの妙は、「テュイルリー」あたりではさらにいい味になってきます。細かい十六分音符のパッセージは、オーケストラではオーボエ奏者とフルート奏者がくそ真面目に書かれた通りのリズムで演奏しますが、ピアノではもっと自由に、「ちょこまかと動く子供」をリアルに表現できるはずです。リズム通りに走り回る子供なんていませんからね。そんな、久しぶりに聴くピアノ版の楽しさを、存分に味わいました。
それがシューマンになったら、ピアノの音色が全く別物のように変わってしまったのにはびっくりです。これも、カーエンのマジックなのでしょう。

SACD Artwork © Myrios Classics
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by jurassic_oyaji | 2014-07-23 20:54 | ピアノ | Comments(0)
曲目解説
 おとといのコンサートの入場者数は134人ということでしたが、今日職場に出勤して、このコンサートに来ていた社長の話を聞いたら、「160人以上はいた」ということでした。職業柄、そこに来ている人が何人いるのか数えてしまう癖があるようで、それはかなり正確な数字であることは今までの経験で分かっていますから、この人数も信頼できるのではないでしょうか。ですから、これはなかなかの数字なのでは、という気がするのですがね。
 その話で、プログラムの曲目解説がなかなか分かりやすくて面白いと言ってくれました。まあ、それは私が狙っていたことなので、ちゃんと伝わっていたな、とうれしくなりましたね。この前ニューフィルに「展覧会の絵」の解説を書いた時もそうですが、私がそういうものを頼まれた時には、よく国内盤のCDに載っているような解説文みたいなものは絶対に書くもんか、という強い気持ちを持って臨んでいます。なにしろ、ああいうものはヘタをすると半世紀ぐらい前に書かれたものを平気で使い回したりしていますから、いかにも高飛車な、殆ど「お勉強」をさせられているような文章が平気で出回っていますからね。基本、楽曲アナリーゼなのですが、そんなものは普通の人が読んだって分かるわけはないのですよ。そういう不毛な解説にはならないように極力配慮、それでいて必要な情報はしっかり盛り込むという、言ってみれば初心者が読んでもマニアが読んでも楽しめるようなものを目指しているのですが、どうだったのでしょうか。今回の解説の全文を、貼り付けておきます。

演奏曲に寄せて

「ドン・ジョヴァンニ」序曲

 本日の演奏会のメインの交響曲は1788年、モーツァルトが32歳の時に作られたものですが、その前の年、1787年に作られたオペラが「ドン・ジョヴァンニ」です。「ドン・ジョヴァンニ」というのはイタリア語での読み方、本来のスペイン語だと「ドン・ファン」という、天下にその名を知られた女たらしの名前になります。どのぐらいの女たらしかというのは、レポレッロという従者がいつも持ち歩いている「今までものにした女性のカタログ」(ほんとですよ)で分かります。それによるとその数は5ヶ国合わせて2065人ですって。そんな無茶をするものだから、最後は、ついさっきものにしたばかりの女性の父親の亡霊に、地獄へ連れて行かれてしまいます。その時に流れる音楽が、この序曲の最初に聴こえてきます。それはまさに身の毛もよだつようなおどろおどろしい音楽です。
 しかし、それが終わると一転して明るく軽快な音楽に変わります。そんな不道徳で悲惨な内容ではあっても、これはあくまでエンターテインメントとしての「オペラ・ブッファ」ですから、まずはお客さんに喜んでもらえるような音楽で心をつかむというのが、この頃のオペラのお約束です。
 このオペラは、初演されたプラハでは熱狂的な大成功をおさめます。それに気を良くしたモーツァルトは、これをウィーンでも上演するために、新たに何曲かの新しいアリアを作るなどより完成度の高いものに改訂しました。しかし、そんな期待とは裏腹に、翌年の上演に際してのウィーンの聴衆の反応は冷ややかなものでした。
 そんな様子に見られるように、この頃のモーツァルトのウィーンでの人気は、明らかに下り坂となっていたのです。数年前までのまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの人気作曲家の姿は、もはやここにはありません。かつては200人近くのお客さんを集めた、彼が新作のピアノ協奏曲や交響曲を演奏する「予約演奏会」も、もうチケットを買ってくれる人はわずか、もう少しすると、予約したのはモーツァルトの最大の後援者だったヴァン・スヴィーテン男爵ただ一人などという悲惨なことになってしまいます。
 そんな状況にもめげず、モーツァルトは、それまで彼が作って来たものとは一味違う、当時としては革新的な技法を盛り込んだ交響曲を、ほんの2か月足らずの間に3曲立て続けに作曲します。それが、変ホ長調(第39番)、ト短調(第40番)、ハ長調(第41番)の、後に「3大交響曲」と呼ばれる作品たちです。演奏する当てもないのになぜこんなに交響曲を作ったかについては諸説ありますが、この3曲をまとめて出版するつもりだったというのがおそらく正解でしょう。本日の演奏会では、この中から「39番」と「41番」が演奏されます。

交響曲第39番
 モーツァルトは、ハイドンによって整えられた交響曲という形式を美しい旋律の流れや、陰影に富む和声の移ろいによって磨き上げ、さらに深みのあるものにしました。しかし、この作品では、そのハイドン以来の伝統に背くようなあることが行われています。それは、オーボエの代わりにクラリネットを起用したという管楽器の編成です。モーツァルトは、このまだ歴史の浅い楽器の音色をいたく気に入っていたようで、折に触れてこの楽器を重用しているのですが、ここに来て交響曲の「定番」であったオーボエをあえて外して、そのクラリネットを主役に押し上げたのです。彼の交響曲の中で、木管楽器がフルート、クラリネット、ファゴットの3種類だけというものは、これ以外にはありません。それは、変ホ長調という格調高さと優雅さを兼ね備えた調性で作られたこの交響曲のサウンドを仕上げる役割を存分に果たすものでした。
 第1楽章は、まさに格調の極みともいうべき堂々たるフランス風の付点音符に支配された序奏で始まります。続く主部はうって変わって軽快な3拍子となりますが、そのテーマはあくまで優雅でしなやか、時折聴こえてくる2小節分を大きな3拍子ととらえたリズム(「ヘミオレ」といいます)がとても粋な味わいを添えています。
 第2楽章でもとても明るく美しいテーマが現れます。しかしそれは最後にチラッと暗めの表情を見せる油断のならないもの、案の定、その後にはちょっと厳しい音楽に変わります。しかし、どんな時でも最初のテーマは必ず現れて癒しを与えてくれます。
第3楽章では、とても元気なメヌエットに挟まれたトリオの部分がポイントでしょう。ここではクラリネットの二重奏による極めつけの優雅さが味わえます。フレーズの最後を繰り返すフルートや、合いの手のホルンはあくまでクラリネットの召使い。
第4楽章のテーマは、ディズニー・アニメの「不思議の国のアリス」の中で、庭に咲く花々が歌う「きらめく昼下がり(All
in the Golden Afternoon)」という曲と非常によく似ています。この曲を作ったオリバー・ウォレスは、きっとこのかわいらしいテーマが記憶のどこかに残っていたのでしょう。しかし、音楽の方はヴァイオリンの名人芸が延々と続くスリリングなものです。テーマの冒頭のモティーフがパートの間でやり取りされるバトルも、最後まで目が離せません。ただ、やはり冒頭のモティーフによるいともあっさりとした終わり方には、なんだか肩透かしを食らったような感じがしませんか?それはまるでモーツァルトが「なんちゃって」とふざけているみたいで、とてもユーモラス。

交響曲第41番
 モーツァルトの早すぎる死によって、図らずも最後の交響曲になってしまったこの作品は、結果的にはそれまでの交響曲には見られなかったさまざまなアイディアが盛り込まれ、彼の最高傑作として、あるいは交響曲の未来への可能性を開いたものとして、多くの人に愛されるものとなりました。同時代の興行師ザロモンが、この作品のまさに神のようなたたずまいに対して、ローマ神話の最高神の名前である「ジュピター」というニックネームを与えたことにより、より広く親しまれることにもなります(最近ではこの名前はもっぱらホルストの「惑星」の中の「木星」に対して用いられることが多いので、注意が必要です)。
第1楽章で序奏なしにいきなり始まる主部の冒頭は、たった4小節で男性的な逞しさと、女性的な繊細さという相容れないテーゼをともに表現している驚くべきものです。さらに、トランペットとティンパニによって祝祭的に盛り上げられる部分と、弦楽器が時にはリリカルに、時にはかわいらしく歌い上げる部分との対比も聴きどころ、この楽章は素敵なメロディでいっぱいです。
第2楽章では、ヴァイオリンは弱音器を付けて神秘的な音色で迫ります。それは確かに美しいメロディには違いないのですが、何かいつものモーツァルトのようななめらかさがちょっと不足しているようには思えませんか?それは、その時代の様式からあえて離れて、少し前のバロック時代の様式を導入したためです。その、まるでバッハのオブリガートのようなちょっといびつなフォルムは、モーツァルトの手にかかるといとも華麗な装飾に変わるものの、どこかひねくれた味が。
第3楽章は、高いところから低いところに音が降りてくるという、まさに自然に逆らわないテーマのメヌエットです。しかし、中間部のトリオの後半にさりげなく登場する「ド・レ・ファ・ミ」というモティーフを見逃すわけにはいきません。
そのモティーフは、第4楽章で大活躍するテーマの重要なパーツ。例えばベートーヴェンの第5交響曲の「ジャジャジャジャーン」というモティーフのように、ありとあらゆるところに顔を出しています。そこに、それとは全くキャラクターの異なるモティーフが絡みついて繰り広げられる壮大なポリフォニーの世界こそが、この作品の最大の見せ場、こんな突拍子もない交響曲なんて、それまで誰も聴いたことはなかったはずです。もちろん、これもバロック時代の様式を巧みに取り入れたもの、そこからは、3年後の遺作「レクイエム」での「キリエ」の二重フーガの姿が見えてはこないでしょうか。

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by jurassic_oyaji | 2014-07-22 19:55 | 禁断 | Comments(0)