おやぢの部屋2
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Orchestrations by Sir Henry Wood
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Nicolas Braithwaite/
London Philharmonic Orchestra
LYRITA/SRCD216




録音されたのは1990年と1993年で、決して新しいものではないのですが、ごく最近「NML」でこのレーベルの運用が始まり、そのフラッグシップとして「ナクソス・ジャパン」のフェイスブック・ページで大々的に紹介されていたものですから、まあ、ネット配信上の新譜ということで取り上げてみました。実体のある「フィジカル」媒体としてのCDはもはや減少の一途をたどっていますから、これからはこんな形での「新譜レビュー」というものが出てくるのかもしれませんね。
もう50年以上の歴史を持つイギリスのレーベルLYRITAは、イギリスの作曲家の作品などを中心にレアなレコードを発売してきました。そんな中で、このヘンリー・ウッド卿によってオーケストレーションが施された作品を集めたアルバムなどは、珍品中の珍品になるのではないでしょうか。
1869年に生まれて1944年に亡くなったイギリスの指揮者ヘンリー・ウッドは、何よりもクラシックのお祭りとしては世界的に有名になっている「プロムス」の創始者として知られています。つんくではありません(それは「モームス」)。堅苦しいクラシック音楽を、誰にでも気軽に楽しんでもらえるように工夫を凝らした一連のコンサートの会場であるロイヤル・アルバート・ホールには、この期間中は彼の胸像が飾られることになっています。
ここには、そんなコンサートのために用意されたであろう、彼自身の編曲による作品が集められていますが、その中にムソルグスキーの「展覧会の絵」があったのが、まず聴いてみたくなった動機です。何しろ、この編曲が作られたのが1915年といいますから、あのラヴェルの仕事よりもずっと前のことになりますからね。多分、「展覧会」のオーケストラ版としては、史上2番目か3番目に作られたものなのでしょう。
その編曲のやり方は、かなり大胆なものでした。まず、大オーケストラの響きを存分に使い切った「派手」なサウンドには圧倒されますし、ラヴェル版とも、もちろんオリジナルのピアノ版とも全く異なるフレージングには、まるで別の曲を聴いている気がするほどです。そして、良く聴いてみると、ウッドは原曲から多くの部分をカットしていることも分かります。まず、「プロムナード」が、最初と、実質的なプロムナードである「Con mortuis in lingua mourtua」以外がすべてなくなっています。これはいくらなんでもやり過ぎではないでしょうか。なんたって「プロムナード」があっての「展覧会」なのですから、それがないと全然落ち着きません。まさか「プロムス」だからもう「プロムナード」はいらないなんて考えたのではないでしょうがね。
それだけでなく、それぞれの曲の中でもかなり細かいカットが施されていて、一瞬何が起こったのかわからなくなるところは数知れず、なんたって、「バーバ・ヤガー」では後半の繰り返しがすっぱりなくなっていますし、「キエフ」では最後の盛り上がりのところで50小節近くなくなっているのですから、すごいものです。そんな目立つものではなくとも、「古い城」あたりでは地味に4小節とか8小節とかちょっと気が付かないようなところでこっそりカットしていますから、かなりの知能犯。「ブィドウォ(いわゆる「ビドロ」)」に4小節の「前奏」を加える、みたいな分かりやすいのもありますし。
おそらく、ウッドとしては、常識的に考えてムソルグスキーの音楽が冗長に見えてしまったのでしょう。ですから、それを出来るだけ刈り込んで、よりスマートで見栄えがするものに変えたかったと、まるでリムスキー・コルサコフみたいなことを考えたのかもしれませんね。しかし、今となっては、そんな「おせっかい」でムソルグスキーの個性までも殺してしまった編曲は、誰にも顧みられることはありません。
まあ、「テュイルリー」をヴァイオリン・ソロでやらせたのは、なかなかかわいくて面白いアイディアだとは思えますが。

CD Artwork © Lyrita Recorded Edition Trust
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by jurassic_oyaji | 2014-11-30 21:31 | オーケストラ | Comments(0)
MIRACLE

 このところ、休みというと忙しくてなかなか時間が取れず、前はよく見に行っていた映画もなかなか行けてませんでした。それが、ひょんなことで3時間ぐらいぽっかり自由になれる時間が出来たので、久しぶりにMOVIX仙台に行ってみることにしました。見たかったのは、嵐の相葉くんの初の「単独主演」と評判の「MIRACLE デビクロくんの恋と魔法」です。実は、嵐のメンバーの中では、この人が一番好き、というか、なんか他人とは思えないようなシンパシーを感じてしまうんですね。そして、共演が、こちらも大好きな榮倉奈々ですから、見ないわけにはいきません。さらに、決定的なのが、山下達郎の「クリスマス・イブ」がテーマ曲として使われているということでした。その上、達郎が選曲した主にオールディーズが、本来の「劇伴」とは別にいろんなシーンで使われているというのですから、これもやはり私にとってはマストアイテムとなってしまいます。いや、実は公開されてすぐの達郎のラジオ番組で、その挿入曲を特集してオンエアしてたものですから、それも追い風になりました。
 ストーリーは他愛もない、しかし本人にとっては真剣そのもののラブ・ストーリーが展開されるものですが、相葉、榮倉の関係はまさに予想通りの展開で、それだからこそ泣かされましたね。「これ以上痛いのは、無理」という榮倉のセリフには、マジで「もっともだ」と思ってしまいました。確かに、あれほど何度も何度も「痛い」目にあわされたのでは、もうこりごりだと思うのは当たり前です。強烈に共感してしまいましたよ。反対に、生田斗真の「大切なものを失ったと分かって、(マンガが)書けなくなった」というのには、「え?」という感じ、そんな状況なんて、そもそも私にとってはあり得ませんってば。
 音楽の使い方は、さすがでしたね。もうクライマックスで「クリスマス・イブ」のイントロが流れてきたら、それだけでウルウルですよ。そこで大画面いっぱいに広がるスペクター・サウンド、こうなると、この映画がまさにこの曲を聴かせたいためだけに作られたのではないか、とまで思えてしまいます。あの「2001年」におけるリゲティの「アトモスフェール」のような役割を、「クリスマス・イブ」は果たしていたのですよ。
 その他の曲も、本当にいい音で聴こえてきました。確か、このスクリーンでは以前METのライブビューイングを見ていて、その音にはかなりの不満が残ったものですが、今回はそんな頭打ちの音ではない、もっとすっきりした音、やはりMETではそもそもの音があまり良くなかったのかもしれません。しかし、クレジットでは「5.1ミキシング」というスタッフが明記されていましたが、METと同じで全くサラウンドの音場は体験できませんでした。これは、やはり劇場側のミスなのでしょうか。
 ただ、一つ不思議なのは、達郎がラジオで紹介していた「Up, Up, and Away」が、使われるべきシーンでは別の曲に差し替えられていたことです。試写の段階では使われていたはずですから、そのあとで公開された時にこの差し替えが行われたのでしょうか。確かに、ラジオで聴いた時も、他の曲は殆ど今のファンには馴染みのない曲ばかりでしたが、これだけはちょっと「有名すぎ」ますから、なんか違和感はあったので、そのあたりが原因だったのかもしれませんね。
 しかし、大画面で見ると相葉くんの肌は、まさに「30男」のものでしたね。設定では榮倉奈々と同じ年ですが、アップで見るとまさにおじさんと娘、ちょっとこれには辛いものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2014-11-29 21:20 | 禁断 | Comments(0)
HOSOKAWA/Orchestral Works・2
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Jun Märkl/
Royal Scottish National Orchestra
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.573276




先日の「第1集」に続いての、NAXOSレーベルからの細川俊夫のオーケストラのための作品集です。しかし、このジャケットは、これを見てワーグナーの「リング」なのではないか、などと思ってしまう人もいるのではないかと心配してしまうような、ミスリーディングを呼びかねないデザインです。細川が「リング」に触発されて作った作品なのかな?とかね。この人の場合、何かに「触発」されて曲を作ることが多いようですから、ありえないことではありません。しかし、その気になってよく見ると、そのリングの内側には水面が描かれているように思えてきませんか。

おそらく、この安野光雅の「だまし絵」のように、このリングの真ん中に円筒形の鏡をおけば、そこには広大な海原が広がっていることでしょう(うそですからね)。この場合は、それが丸くつながっていますから、まさにここに収録されている「Circulating Ocean 循環する海」という作品のタイトルに呼応することになるのです。
このタイトルを聞いて、以前同じ曲が、それこそ「海」をテーマにした代表作である、ドビュッシーの「海」とカップリングされていたアルバムを聴いていたことを思い出しました。そんなに昔のことではないのに、もう別の録音が、しかも同じレーベルから出るなんてさすがは世界的な作曲家、と思ってしまいましたよ。ところが、良く見てみるとこれは全く同じ音源でした。確かに、バック・インレイには「過去にリリースされています」という但し書きがありましたね。まあ、こういうことはよくあるのでそれほど腹は立ちませんが、それを「世界初録音」と言っているのは、ちょっとおかしくないですか?確かに、前のCDが出た時点では間違いなく「初録音」だったのでしょうが、今回はリイシューなのですから、もう「初録音」とは言う資格はなくなっているのではないでしょうか。そのいい例が「新人賞」と呼ばれるもの。これは、どんな人でも1回しかもらえないのですからね。
「第1集」でも感じたことですが、この作曲家の技法はどうやらすっかりこのようなひたすら時の流れに身を任すというスタイルに固まって来たようですね。いつ始まったのかも、そして、いつ終わったのかも分からないような、まるで常に流れている時間のほんの一部だけを切り取って来たのではないか、と思えるような作り方は、それだからこそ永遠に続いて行く自然の営みを的確に描ききることが出来るのでしょう。2005年に作られた「循環する海」を最初に聴いた時には、そんな、あまりにも作り手の主体性が感じられないやり方に一抹の不安を抱いたものですが、こうして最近の作品を並べてみることによって、そんなやり方の本当に目指すものがやっと理解出来たような気がします。
構造的には2007年に弦楽四重奏のために作られた「Blossoming 開花」と同じものである2011年のオーケストラ曲「Blossoming II 開花 II」で見られた、ポリフォニーによるテーマの模倣のようなものも、2009年に作られた「Woven Dreams 夢を織る」でははっきりした外形を消滅させています。そして、さっきの「海」にはまだ残っていた色彩的な和声感は、「夢~」ではほとんど姿を消しています。それは、あたかも和声の持つ先入観からは自由になった原初的な表現のみによって、心の深いところにまで迫ることのできるスキルを手に入れたかのように思える変化です。
もしかしたら、「海」でそのように感じたのは、演奏している団体が異なっていたからなのかもしれません。かなり響きがブレンドされているような録音も、その印象を強くさせるものだったのでしょう。つまり、ここでは「海」が「世界初録音」のアルバムからの「引用」であったことが重要な意味を持っているのでした。ですから、先ほどのようなアルバムの表示は、このアルバム自体のコンセプトにも背いていることになります。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-11-28 20:37 | 現代音楽 | Comments(0)
楽譜の製本が終わりました。
 今週こそはタイヤ交換をしようかと思っていたら、ずっと雨降りでした。出鼻をくじかれた感じですが、今日は素晴らしい青空が広がっていて、まさに「タイヤ交換日和」となりました。最近では自分でタイヤ交換をする人はめっきり少なくなっていて、そのうちやり方が分からないなんて人も出てくるかもしれませんね。でも、私は年に2回はこの作業をやっていますから、もう手順や最後のボルトの締め具合などは、完全に体が覚えています。でもなあ、今日やってみたら、交換作業自体は何の問題もないのですが、その前後、ポリ袋に包んであった冬タイヤを物置から出して、作業現場までころがして行ったり、逆に外した夏タイヤを運んで袋に入れたりという作業が、かなりこたえるようになっていましたね。まあ、少し休めばすぐ回復するのですが、これがずっと後を引くようになってくると、もう「体力の限界」ということになってしまうのでしょうか。でも、いずれは自分では出来なくなるようになるのは間違いないのですから、それまではもう少し頑張ってみましょうね。なんたって、いろいろ車の機能が電子的に制御できるようになったとしても、最後にタイヤが回転して道路の上を進まなければどうしようもないのですから、その一番肝心なところだけは自分の手で面倒を見たいじゃないですか。
 そんな「肉体的」な作業の他に、今日になってやっと春の演奏会のパート譜を全部製本し終わりました。これこそは、「知的」な作業の最たるものです。つまり、前に書いたように私の場合は穴のあいた無地のルーズリーフに両面コピーをして楽譜を作っているのですが、コピーする時の元の楽譜とルーズリーフの位置関係が、かなり複雑なんですよ。例えば、1ページ目というのは、用紙の穴が左側に来ないといけないことになるのですが、何度やっても穴が右側に来たりとか、それがうまく行っても裏面にコピーしたら、上下が逆になっていたり、とかね。これは、何回かやっていると自然とその「向き」が分かってくるのですが、しばらくやっていないとその感覚が完全になくなっているのですから、始める時はもう何枚用紙を無駄にしたことか。
 それをやっている途中で、こんなに枚数が多くなってくると、今使っているバインダーには収まりきらなくなりそうなことが分かってきました。もうずっと使っているのは、リングの部分がプラスティックで、あまり大きくありません。ですから、たくさん入れると、引っかかってめくれなくなってしまうのですよ。それでもなんとかごまかして使ってきましたが、この際新しい、もう1ランク大きなリングのバインダーを探してみようと思いました。
 実は、この間文具店巡りをした時に、ついでにあちこち探して見て、ちょっとよさそうなのがあったのでメーカーと品番を控えておきました。

 これだと、リングが金属でがっちりしてますね。

 それをAmazonで検索したら、同じものがかなり安かったので、即購入、それにコピーが終わった用紙を入れたら、3曲、7パート分トータルで50枚ぐらいあるものがきれいに収まり、それが全然引っかからないで楽にめくれるようになっていました。これで、全てのパートを1つのバインダーにまとめられましたから、これさえ持って行けばどこのパートだって吹けるようになります。
 しかし、「吹ける」と言っても、それはただ楽譜が用意出来ているというだけの話、アンサンブルの中で一つのパートとして充分な「演奏」が出来ることとは別次元のことです。私の担当の方は予想通りそんなに難しくありませんが、もう1曲の方はこんなに吹くのが大変だったなんて思いもよりませんでしたよ。もう休みは殆どないし、やたらと高音は続くしと、まさに「体力の限界」を試されているような楽譜でした。でも、タイヤ交換とは違って、私にとってはこんなものぐらい楽々に処理できるだけの力はまだ十分にあるはずです。この曲の練習が始まる時までには、もし誰かが休んでも、完璧にその代理が務まるぐらいに「吹ける」ようになっている・・・はずですよ。
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by jurassic_oyaji | 2014-11-27 22:44 | 禁断 | Comments(0)
Madrigals of Madness
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Calmus Ensemble
CARUS/83.387




現在、この手のヴォーカル・アンサンブルの中では間違いなくトップ集団を走っているカルムス・アンサンブルのニュー・アルバムは「狂気のマドリガル」というタイトルでした。それは、この英語のタイトルを直訳したものですが、おそらくこれは「Madrigals」と「Madness」で韻を踏みたかったから、「Madness」という単語を使ったのでしょう。というのも、このブックレットの中のアルバムのコンセプトについてのインタビューでは、オリジナルのドイツ語では「Wahnsinn」、その英訳では「insanity」という言葉が使われているからです。いずれも日本語に訳してしまえば単に「狂気」となるだけですが、おそらくネイティヴにとってはそれぞれに受け止め方の違いがあるのでしょう。多分、「madness」はちょっと気取った古臭い言葉、今の生活の中で使うなら「insanity」、ぐらいの使い分けなのではないでしょうか。
そのインタビューの中で語られているように、このアルバムは「狂気の諸相を音楽によって伝えているマドリガル」を集めたものになっています。そんなぶっとんだ視点から選曲したアルバムなんて、それだけでドキドキしてしまいませんか?
まずは、初めて聴いた「La bomba」という曲です。マテオ・フレチャという、南米の飲み物(それは「マテ茶」)みたいな名前のスペインの作曲家が作ったエンサラーダです。「bomba」というのはポンプのこと、沈みかけた船の中で慌てふためく船乗りたちが「ポンプで水をくみ出せ!」と叫んでいます。そんな恐怖の中でパニックに陥った船乗りたちは、やけっぱちでどんちゃん騒ぎを始めるという、いとも俗っぽい「狂気」が描かれています。途中で調子っぱずれのギターの擬音が歌われますが、それはもうこらえられないほどのおかしさです。人間、正気を失うととんでもないことを始めるものなのですね。
そして、有名なモンテヴェルディの「アリアンナの嘆き」全曲です。これこそは「狂気」の王道、恋人に見捨てられた女の「嘆き」ほど、痛々しいものはありません。そして、これほどありふれたものもありません。おそらく、あなたの周りにも一つや二つは転がっていることでしょう。実は、この曲の第1部「Lasciatemi morire」だけは、カルムス・アンサンブルは前のアルバムで取り上げていました。それに比べると、ソプラノのアニャの声が一段と凄みを増していて、全体の表現もよりダイナミックなものになっています。
そして、こういうテーマの時の「定番」、作曲家自身が「狂人」というジェズアルドが続いた後には、ジョスカン・デプレの「Scaramella」と、クレマン・ジャヌカンの「La guerre」という、「戦争もの」が控えていました。まさに「戦争」こそは「狂気」」の際たるもの、しかし、正面切って「反戦歌」を作る音楽家などは逆にそっぽを向かれてしまう事を知っていたかどうかは分かりませんが、この二人もいとも快活にそんな「愚行」を笑い飛ばしているようです。特にジャヌカンの方は、戦場に砲弾が飛び交う様子などを事細かに描写する中で、何か空しさも感じられてしまうのは、ひとえに演奏家の熱演によるものでしょう。ジャヌカンに関しても、さっきのアルバムの中で「鳥の歌」を歌っていた彼らは、ここに来てさらに長足の進歩を遂げていました。もはや以前のような取り澄ましたスタンスではなく、ここではしっかり作品の中に入り込んであらん限りの表現を駆使しています。それを最後まで聴くと、そこからはくっきりと「戦争の空しさ」が浮き上がってくるのですから、ちょっとすごくないですか。
そして、全体の最初と最後を飾るのはイギリスの作曲家の作品。最初に歌われているオルランド・ギボンスの「What is our life?」とトーマス・トムキンスの「Too much I once lamented」によって、最後の仕上げが施されます。トムキンスの曲はルネサンス版「Don't Worry, Be Happy」(ボビー・マクファーレンのヒット曲)なんですって。恋人に見限られたからって、めげることなんてないんですよ。

CD Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2014-11-26 21:27 | 合唱 | Comments(0)
婚礼の水引は結び切り
 もう11月も終わり、12月に入ってしまったらあっという間に今年も終わってしまいますね。今頃出るテレビ番組の雑誌を見てみると、もう「年末番組」なんてのが載ってますから、いやになります。ほんと、なんで1年が経つのがこんなに早いんでしょう。
 なにしろ、12月の初めには重大なイベントが待っていますから、なんか変な風にテンションが高まっています。その予定が決まったのがほぼ1年前、まあ、1年なんてず~っと先のことだな、と、出来るだけそのことを考えないようにしていたら、だんだんそれに向けての準備のサブ・イベントが入ってきて、いやでも本気になって段取りを考えたりしないといけなくなってしまいましたよ。
 そんなわけで、合唱の練習に明け暮れた連休の最後のきのうは、のし袋を買いに出かけてきました。「お車代」みたいのを入れる封筒が必要になって来たのですよね。そういうものを売っているのは文具店なのでしょうが、そんな中でおそらく仙台で最も充実していたはずの「丸善」が、いつの間にかすっかり姿を消してしまっていました。昔は、ヤマハの向かいあたりに大きなお店がありましたよね。それが取り壊されたので、書店が入ったアエルには申し訳程度の文具コーナーができましたが、全然使い物にはならなかったのが、エンドーチェーンの中に大きなフロアが出来た時には、やっとまともな店が出来たと思ったのに、それもすぐなくなってしまいましたしね。
 最初に行ったのは駅前のその「丸善」が入っているアエルの中の「文具の杜」。ここはまあまあ揃ってはいるものの、なにかピンと来るものがありません。でも、いちおう候補だけはキープしておいて、次にロフトに行ってみました。

 そうしたら、ここには他では見たことがないようなキュートなのし袋がいっぱいありました。もう目移りしてしまって、一つだけ選ぶことなんか出来ないほどですよ。いやあ、あるところにはあるんですね。ですから、ここで殆どのものは揃えることが出来ました。ただ、一つだけ、「玉串料」に使えるものがありませんでした。なんか、これはかなりやかましいものなのだそうで、今回のような用途の場合、水引の形が特殊なものになるということなのですが、そういう水引がまず見つからないのですよ。軽めのデザインは豊富にあるのに、そういうベーシックなものがちょっと弱いのが、このお店の特徴なのでしょう。
 そうなると、駅前にはもう行くところがないので、いつも職場の消耗品の調達でよく使っている「赤井沢」に行ってみることにしました。ここは、いかにも「街の文房具屋さん」という垢抜けないお店ですが、意外と品揃えは充実していてびっくりです。そこで、見事に目的ののし袋がゲット出来てしまいましたよ。侮れませんね。まずこれで、必要なものは全部揃ったかな。
 年末になると、いつも父の実家の親戚からミカンを送ってくるのですが、それも届きました。毎年、愛媛ミカンをひと箱頂くのですが、いつも食べ終りそうになる頃には下の方が腐ったりカビが生えたりと、もう食べられないようになってしまうものが出てしまいます。ところが、今年は、フタを開けてみたら、もうすでに2個ぐらい完全にかびてしまっているのがあるではありませんか。

 いや、良く見てみると、それはミカンではなくレモンでした。まだ黄色くなっていない青いレモンだったので、緑のカビに見えてしまったのですね。そうい言えば、最近はやはり愛媛の特産のレモンも、こんな風に入れられてくるのでした。
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by jurassic_oyaji | 2014-11-25 21:24 | 禁断 | Comments(0)
DVORÁK/Symphonies 4&8
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Marcus Bosch
Staatsphilharmonie Nürnberg
COVIELLO/COV 91412(hybrid SACD)




日本では、いわゆる「ドヴォルザーク」を、よりネイティブに近い読み方で「ドヴォルジャーク」と表記しているのは楽譜業界ぐらいのものでしょう。そのドヴォルジャークの9つの交響曲の中で、スタディ・スコアが国内版で手に入るのは7番、8番、9番の3曲しかありません。そのぐらい、6番以前の交響曲は演奏される機会も録音される機会も極端に少ないのです。ですから、そのあたりのものを録音するとすれば、「全集」を作る時以外にはありません。その、最も新しい全集の制作を2012年から開始したマルクス・ボッシュによる3枚目のアルバムがリリースされました。今までは3、6、7番が出ていましたが、今回は4番と8番のカップリングです。
この同じレーベルで彼が2003年から2012年にかけてブルックナーの交響曲全集を作った時にはアーヘン交響楽団が演奏していましたが、ここでは2011年から音楽監督を務めているニュルンベルク州立フィルハーモニーの演奏です。
このオーケストラ、音を聴くのも名前を聞くのも初めてのことでした。確かにニュルンベルクは大都市ですからオーケストラがあってもおかしくはありませんが、このように録音されたものが世界中で発売されるということはほとんどなかったのでしょう。このオーケストラは、本来はこの街のオペラハウスのオーケストラで、コンサートを行う時にこのような名前に変わります。実は、ボッシュのポストも正確には「ニュルンベルク州立劇場とニュルンベルク州立フィルハーモニーの音楽監督」というものなのでした。ニュルンベルクがあるバイエルン州には4つの「州立劇場」があり、その中で、ここは有名なミュンヘンのオペラハウスに次ぐ規模を持っているのだそうです。
そのニュルンベルクにある「マイスタージンガーハレ」という、まさにワーグナーの同名の作品の「ご当地」ならではの名前を持つコンサートホールが、このSACDのライブ録音の会場です。大きなパイプオルガンを備えただだっ広い空間で、床は傾斜がなくまっ平という不思議なホールです。そこに座席は固定されてはおらず、コンサートの時にはわざわざ椅子を並べるのですね。しかし、この録音では残響も美しくとても柔らかな音に仕上がっていますから、音響的にはなかなかのものなのではないでしょうか。
実は「4番」をきちんと聴くのはほとんど初めてのことでした。改めて聴き通してみると、ドヴォルジャークとワーグナーとがこれほど近くにあったのか、という思いにとらわれてしまいました。いや、実は彼の晩年に作られた歌劇「ルサルカ」を聴いた時にも、その、まさにワーグナーの手法で作られた音楽には、かなりのショックを受けたものですから、彼の中のワーグナーは、生涯の水脈だったのでしょう。ほんと、この交響曲の、特に第2楽章と第4楽章で露骨に現れるワーグナーの引用には、笑うしかありません。
同時に演奏されたはずの「8番」では、そんな「4番」の延長線上にこの作品があるのだ、というアプローチが感じられます。ですから、これを聴いて殆ど「民族的」なテイストを見出すことが出来ないからといって、失望するのは無意味なことです。これはとことん、楽譜の情報にしたがってきっちりと「ロマン派」の様式で演奏されたものなのですから。そういう意味で、この前のホーネック盤のような主観をむき出しにした演奏とは対極に位置するものです。
その楽譜ですが、ドヴォルジャークの場合、例のジョナサン・デル・マーによるベーレンライターのクリティカル・エディションの刊行はまだ緒に就いたばかりで、現在は「7番」しか出版されていません。ここでボッシュが使っているのはおそらく同じベーレンライターでもスプラフォン時代の楽譜(いわゆる「プラハ版」)でしょう。どうせなら、デル・マー版が全部出るまーで待ってから録音してほしかったものです。

SACD Artwork © Coviello Classics
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by jurassic_oyaji | 2014-11-24 20:10 | オーケストラ | Comments(0)
バイロイトの新演出は、もう限界。
 この間、NHKのBSで今年のバイロイトの公演を放送してましたね。あれは録画でしたが、確か、ちょっと前までは「生」でやってましたよね。当然リアルタイムですから、オペラが始まる前や幕間の時間をつぶすためにスタジオにゲストを集めて、聴いている方が恥かしくなってしまうようなしょうもないトークをやらしたりとか、それなりに(無駄な)力が入っていたようでした。なにしろ、日本語の字幕も「生」で入れるのですから、大変だったでしょうね。
 でも、最近ではとんと「生」にはお目にかかれなくなり、みんな録画に替わっていますね。それも、去年あたりは1ヶ月ぐらい経ったところで放送という、まあギリギリ同じ頃ではあるタイミングでの放送でしたが、今年は夏に上演したものが殆ど冬になってからの放送ですから、なんだか白けてしまいます。そうなってくると、放送よりもDVDやBDの方が先に出回ってしまう、なんてことになってしまうかもしれませんね。まあ、そういう「製品」の方が音はずっと良くなっていますから、それだけの価値はありますが、やはり少しばかり音は悪くても「タダ」で同じものを見れるというのは、魅力がありますからね。いや、場合によっては製品には日本語の字幕がなかったりしますから、そうなると放送の方が断然メリットが高くなります。確か、去年の「オランダ人」が、そんな、中国語まで入っているのに日本語の字幕はなかったという「欠陥商品」だったはずですからね。ちなみに、それを販売していたのは、CDやDVDなどに添付されている日本語の「帯」も誤記と誤植だらけの欠陥品ばかりという「ナクソス・ジャパン」です。
 BSでやっていたのは、「タンホイザー」でした。最近のバイロイトでは、もはやオーソドックスな演出は影を潜め、あえて過激な「読み替え」を施した「前衛的」なものが上演されています。去年の「オランダ人」もかなりのものでしたが、「タンホイザー」になるともうとてもついていけないほどになっていましたね。いや、私は別に新しいものが嫌いなわけではなく、なんだって受け入れるだけの柔軟さを持っているつもりですが、それはあくまで納得のいく整合性が取れている場合に限ります。はっきり言って、観客をないがしろにしてひたすら自分の世界におぼれてしまっているようなこのセバスティアン・バウムガルテンの演出は、許しがたいものです。一番腹が立ったのが、幕間の茶番劇です。それぞれの幕の間で、朗読会みたいなもの(これは、劇場ではどのように見えていたのでしょう)や、いかにもな「ミサ」もどきをやらせていたことです。こんな「アングラ」な世界がワーグナーの音楽と共存できると考える神経が、とても幼稚に思えます。というか、音楽以外のものを持ちこむことは、ワーグナーの作品を貶めるものでしかないことに気づくべきです。
 と、邪魔ものだらけの中での「タンホイザー」でしたが、トリステン・ケルルのとことん情けないタンホイザーはなかなか魅力的でしたし、なによりもヴォルフラムのマルクス・アイヒェのハイ・バリトンが、とても心地いいものでした。最後にはこんなサービス・カットもありましたし。

 さて、来年3月に予定されているモーツァルトの「レクイエム」のための練習も、2回目を迎えました。昨日と今日の2日連続での練習です。この2日間は、基本的に同じ部分を練習するということなので、一応どちらかだけに出席すればOKだということになっているのですが、きのう行ってみたらテナーは4人だか5人という恐ろしいことになっていました。名簿上は20人ぐらいいるというのに、歌ったことのある人はもっと本番近くになって顔を出すのでしょうね。こんな人数だと、一人一人の声がはっきり分かりますから、よっぽどちゃんと歌わないと恥をかいてしまいます。でも、逆にとても勉強にもなるのですが、終わったらもうクタクタでした。ですから、今日はもう休んでしまおうかとも思ったのですが、気を取り直して行ってみたら、やはりテナーはかなり少なく、声はそれほど出ないものの、パートに貢献は出来たのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2014-11-23 21:58 | 禁断 | Comments(0)
TRE VOCI/Works by Takemitsu, Debussy, Gbaidulina
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Kim Kashkashian(Va)
Sivan Magen(Hp)
Marina Piccinini(Fl)
ECM/481 0880




いかにもECMらしい、「3つの声」という謎めいたタイトルのアルバムです。もちろんこれは、ここで演奏されている作品がすべてヴィオラ、ハープ、フルートという3つの「声部」で出来ているものだ、という意味なのでしょう。さらにもう少し勘ぐれば、そのような作品が「3つ」集まった、という意味も含まれるのでしょうね。
この中で最も先に出来ていたのが、1915年に作られたドビュッシーの「ソナタ」です。古典的な「三重奏」とは全く無縁の、なんともユニークな楽器編成は、まさに「印象派」ならではの音色を醸し出すものでした。そして、1980年に、この編成を受け継いで作られたのが、グバイドゥーリナの「喜びと悲しみの庭」です。もちろん、ここではドビュッシーの作品と同じ編成ではあっても、彼女の目指すところとはかなりの隔たりがありました。そして、1992年になって武満徹が作ったのが、まるでドビュッシーの作品の精神をストレートに受け継いだかのような「そして、それが風であることを知った」です。実は、このアルバムを手にしたときには、武満の方がグバイドゥーリナより先に作っていたような気がしていたのですが、正確に作曲年代を調べてみたらこんなことになっていたことが分かったということです。このように、時間軸と継承の度合いが必ずしもパラレルではないというのは、「現代音楽」の流れが常に同じ向きではありえないことをよく物語っています。ある時から、「現代音楽」はやみくもに「進歩」することをやめ、決して悪い意味ではない「退行」への道を歩み出していたのかもしれません。
ここで最初に演奏されている武満の作品は、まさにそのドビュッシーからの「継承」をストレートに感じられるものでした。まず、フルートが何と伸び伸びと歌っていることでしょう。このマリーナ・ピッチニーニという人は初めて聴きましたが、イタリア人とブラジル人を父母に持つという彼女の音楽は、あくまで伸びやかですし、ベイカーやバックストレッサーに師事したという経歴を裏切らないテクニックの冴えも見事です。実は彼女はニコレにも師事しているということですが、そのニコレによって1993年に初めて録音されたPHILIPS盤と聴き比べてみると、そのテイストの違いは明確に分かります。ニコレたちの演奏は、まるで「現代音楽がこんなに楽しいものであっていいのか」とでも言わんばかりのストイシズムに支配されているようです。その結果、なんの呪縛も感じない中での今回の演奏は、かつては13分弱の長さだったものが2分以上も長くなっています。
「御本家」ドビュッシーの「ソナタ」こそは、そんな演奏家たちによって目いっぱい音楽の喜びに浸れるものでした。ここでは、ヴィオラのカシュカシアンはドビュッシーのフレーズにポルタメントまでかけて、なにか妖艶さのようなものまで漂わせてはいないでしょうか。もちろん、フルートはあらん限りのパッションをふりまいています。
ここではそのとっつきにくい語法で孤高の存在感を見せつけているグバイドゥーリナでさえも、この3人にかかればいとも魅力的な作品に変わります。冒頭で現れるのは、ハープによるチョーキングという超レアな奏法、これをイスラエルの俊英シヴァン・マゲンはそれこそギターのチョーキングのノリで楽しませてくれます。いっそフラジオレットだけやらされてフラストレーションがたまっているカシュカシアンも、最後の最後にメロディアスなカデンツァが与えられた時には、とても分かりやすく発散してくれていますし。この作品、ほとんどが楽器同士は独自に主張を展開するというシーンが多いのですが、唯一、終わり近くにホモフォニックなアンサンブルを見せるところがあります。そこでは、3人とも意地でもピッタリ合わせてやろうじゃないか、というような「気合」を見せたりするのですから、かわいいじゃないですか。

CD Artwork © ECM Records GmbH
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by jurassic_oyaji | 2014-11-22 20:40 | フルート | Comments(0)
特約ゆうメール
 なにげなく使ってきたものが突然おかしくなったりすると、パニックに陥ることはよくあります。実は、おとといこの「禁断」を書き終ったあとで、それをサーバーにアップしようと思ったら、ホームページ作成ソフトのファイル転送機能が全く作動しなくなっていたのですよ。
 つまり、ソフトに付属しているFTPの転送設定が、全て消えてなくなっていたのですね。これには焦ってしまいました。今のところ、私がホームページ用に使っているサーバーは4つぐらいあるのですが、それぞれの設定データは職場に置いてあるので、自宅では分からないのですね。ただ、そのうちの2つは別のFTPソフトでも設定してあるので、それを見れば修復は出来るのですが、肝心の「Jurassic
Page」を送っているサーバーと、「禁断」のバックナンバーが入っているサーバーはそこにはありません。翌日まで待たないと、更新が出来ないのでしょうか。
 FTPの設定に必要なのは、「サーバー名」と「ユーザーID」と「パスワード」です。「3本の矢」ですね(何とおぞましいたとえ)。「JP」の場合、IDとパスワードはなんとか思いだしましたが、肝心の送り先の住所であるサーバー名が、いまいち分かりません。これは、そのサーバーの名前に「ftp」とか「upload」といった文字列を加えたものなのですが、そのどちらだったのかがはっきりしないのですね。でも、そういうものは普通はサーバーのサイトに表示されているはずのものですから、そこに行ってくまなく探したら、やっと見つかりました。それで設定を行い、転送したら見事に成功、とりあえず「JP」本体の更新はつつがなく終わることが出来ました。
 しかし、そこからリンクしている「バックナンバー」は、もう普段は全く使わないところですし、いつの間にか経営母体が変わってしまって、サイトにログインするパスワードも変えられていますから、これは職場に行って調べないことにはどうにもなりません。ということで、そこだけは1日遅れの更新となってしまいました。まあ、そんなこと、気が付いた人なんかは絶対にいないと思いますがね。
 いずれにしても、いつも殆どルーティンで何も気にしていないうちに身についてしまった手順を、こんな風に急に変更しなければいけなくなるというのは本当に面倒くさいものです。出来れば、こんなことはしなくてもずっと同じことばかりやっていられればいいのですがねえ。
 職場の方でも、今までずっとやって来たことを、少し変更しなければならなくなりそうです。だいぶ前ですが、毎年定期的に発送している顧客あての郵便に目をつけて、郵便局の人が「もっとお安く出来ますよ」などという話をもってきました。うちのように一度に大量に発送するところでは、ゆうメールを安くしてもらえるのだそうなのですよ。普通の郵便もゆうメールも、同じ郵便局(というか、日本郵便)がやっていることなので、そんなことしたらかえって自分の首を絞めるようなことになってしまうのでは、と思うのですが、実際はヤマトのゆうパックなどに郵便がどんどん取って代わられているので、そこまでしないとやって行けないような状態らしいのですね。そりゃそうですよ。ちょっと大きなものを送ったりすると、郵便では倍近くの料金になったりしますからね。
 まあ、話を聴いてみると確かにサービスはそんなに変わらないのにかなり料金は安くなっているので、とりあえず1年間の契約を結んでみました。その間に500通以上発送するのが条件ですが、そんなのは楽勝です。なんせ、これだと今まで「区内特別」で割引されていたものよりもさらに安いのですからね。しかも、こちらは原則こちらまで取りに来てくれるというのですよ。思いっきり低姿勢、ほんとにそんなのでやって行けるのか、と思うほどの大サービスです。ただ、出す時にはこんなスタンプを押さないといけません。

 でも、これもちゃんとシールを作って、2000枚分ぐらい持ってきてくれましたよ。そこまでやるのなら、本体の郵便の方をもっと値段を下げればいいのにな、と思うと同時に、こんな無理のあることは到底長続きはしないのではないか、という気もしてきました。まあ、その時は元のやり方に戻るだけのことですから、まずはちょっといつもとは違う手順を、楽しんでみるとしましょうか。と言っても、実際に変わるのはこのシールを貼ることだけですけどね。
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by jurassic_oyaji | 2014-11-21 21:24 | 禁断 | Comments(0)