おやぢの部屋2
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LES AUTOGRAPHES VOCAUX
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V. d'Indi, C.-M. Widor, J.-G. Ropartz,
H. Büsser, F. Schmitt, G, Hüe,
A. Roussel, D. É. Ingheobrecht/
l'Orchestre des Concerts Pasdeloup
TIMPANI/1C1201




フランスのマイナーな作曲家のマニアックな曲を専門に録音しているレーベルが、TIMPANIです。ひところクセナキスの作品のCDが大きな話題になったことがありますが、ギリシャ生まれのクセナキスはフランスに帰化しているので堂々と「フランス人」としてここに登場しているのです。
それを日本国内で扱う代理店はかつては東京エムプラスでしたが、2012年の末頃にはナクソス・ジャパンに替わっています。そんなわけですから、交替のゴタゴタでその頃リリースされたアイテムが販売ルートに乗らずに倉庫に眠っているという状況が起きているため、それらを改めて新しい代理店がきちんとインフォを付けて売りさばこうとしているようです。
そんな「在庫処分品」の中に、こんな珍しいものがありました。1930年から1931年にかけて録音された、その当時まだ元気に活躍していた作曲家が自作のオーケストラ曲を指揮した録音を集めたものですが、何よりも貴重なのが、それぞれの演奏の後にその作曲家自身がその曲について語っている声が録音されているということです。
もちろん、その頃はTIMPANIはまだ出来ていませんでしたから、その録音を行ったのはフランスの「パテ」というレーベルです。そもそもは1896年にエミール・パテという人がエディソンのシリンダー式蓄音機をフランスで販売するために作った会社で、そのソフトであるシリンダーの録音も幅広く行っていました。ほどなく、シリンダー式の蓄音機は平板式の蓄音機にとってかわられるようになり、パテも平板、いわゆる「SPレコード」を生産するようになります。ただ、その前にベルリナーが発明していたSPレコードは音の振動を溝に対して「水平方向」に記録するという、その後LPにも引き継がれる方式を取っていたのに対し、パテはあえて、それまでのシリンダーで採用されていた「垂直方向」のカッティングにこだわりました。これは、エディソンが平板方式に転換した時に採用したもので、音信号を上下動に変えてカッティングを行うという方式です。このレコードの再生にはサファイアが先端に付いた針を使用したので、これは「サファイア・ディスク」と呼ばれていました。さらに、このサファイア・ディスクでは、音溝は内周から外周に向かって切られていました。
1927年にはフランスでもそれまでの「アコースティック録音」に替わって「電気録音」が採用されることになります。パテは、この時点では「垂直方向」と「水平方向」を並行して使用していました。
このCDに収録されているのは、パテもすでに世界基準であった「水平方向」のディスクのみを生産するようになったころの音源です。「オーケストラと、声によるサイン」というシリーズのSPの現物から、「板起こし」でトランスファーされたものです。浅草名物ですね(それは「雷おこし」)。ブックレットにはカタログナンバーと、マトリックスナンバーが記されています。ダンディ、ヴィドール、ロパルツ、ビュッセル、シュミット、ユー、ルーセル、アンゲルブレシュトといった錚々たる作曲家たちが指揮をするのは、何も表記はありませんが、当時アンゲルブレシュトが指揮者を務めていたフランス最古のオーケストラ、コンセール・パドルーに間違いないということです。
その、今から85年も前に録音されたものは、サーフェス・ノイズこそうるさいものの、演奏の内容はしっかり味わうことのできるとても素晴らしい音でした。なにより、これらは編集のきかない「一発録り」なので、現場の緊張感まで伝わってくるようです。そして、自作の演奏を終えた直後のそれぞれの作曲家の肉声が、また個性的でうれしくなります。高齢の方が多いのでぼそぼそとしゃべる人が多い中で、ロパルツはとてもはっきりした大きな声、ルーセルは早口でキンキンした声でとても目立ちます。アンゲルブレシュトがまるでオカマのようなしゃべり方だったのも印象的です。

CD Artwork © Timpani
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by jurassic_oyaji | 2016-01-31 19:39 | オーケストラ | Comments(0)
ニコレはブーレーズの一つ下
 オーレル・ニコレが亡くなったそうですね。きのうのことのようで、Facebook経由でスイス放送の死亡記事が出回っていました。享年90歳と言いますから、まあ天寿を全うしたということでしょうか。今の段階ではまだネットではほとんど情報が見当たらない感じですが、検索している途中で、今度は小林道夫さんの訃報も見つけてしまいました。ニコレとはよくリサイタルや録音で共演されていたピアニスト、チェンバリストの方ですね。しかし、去年の6月に亡くなっていたのに全く気付かなかったとは・・・・と思ってよく調べてみたら、亡くなったのは同姓同名の哲学者の方でした。ピアニストの方はまだご存命でしたので、安心してください。
 もうしばらく前からニコレはほとんど引退状態にあったようで、私にとってはその存在自体も忘れかけていたようなものだったのですが、少し前にクリュイタンス指揮のベルリン・フィルの録音が初SACD化されて、その時にニコレが乗っている曲は他の曲のフルートパートとは全く違っていたことに改めて気づかされました。もうニコレの音は聴いてすぐ分かる芯のある格調高いものでした。さらに、最近ブーレーズが亡くなったことを知って、その時に聴いてみようと思ったのもニコレが録音していた「ソナチネ」でした。それはやはり、なにか予感のようなものがあったからなのでしょうか。
 生きているものは必ずいつかは亡くなってしまうものですが、道具や機械もそうですね。長く使っていれば必ず使えなくなるようになってしまうものです。職場のインクジェットプリンターが、そんなわけでついにお亡くなりになりました。封筒やはがきのあて名印刷には欠かせない「道具」でした。しかし、1回の印刷量は、1,000枚以上、はがきなどはそれを両面ですからその仕事量としては膨大なものがありました。いつもこんなに無理をかけて申し訳ないことだ、と思いながら使っていましたね。それでも、けなげに仕事は忠実にこなしてくれました。ただ、最近は印刷の精度は変わらないものの、そのほかのメカニックなところに老化、というようなものが目立つようになっていましたね。前だったらフィーダーに少し無理をしてたくさんはがきや封筒を詰め込んでも、嫌な顔一つせずに対応してくれていたものが、徐々に一度に入れられる量が限られてくるようになっていました。食が進まなくなっていたのでしょうか。
 そして、先週あたりからは、1枚入れただけで、それを印刷もせずにそのまま吐き出してしまう、というような症状が出るようになっていました。まあ、再度入れ直せばきちんと仕事はやってくれるのですが、その前後になんだか変な声を出していて、とても仕事を始めるのがつらそうな感じなんですよね。そうしたら、金曜日に往復はがきを何枚か印刷しなければならなくなったら、もう完全に受け付けなくなってしまいました。最後の力を振り絞って、なんとか2枚ぐらいは作ってくれたのですが、そのあとはもういくら励ましても身動き一つしなくなってしまったのです。
 これまで、よく頑張ってくれたね、と声をかけたものの、現実問題としてその日のうちにはがきを印刷しなければいけません。それで、急きょ○ズ電気まで行って、新しいのを買ってきました。今まで使ってたのと同じものはもちろんありませんが、最もシンプルなものだとたった7,500円で買えてしまうんですね。びっくりぽんです。それをさっそくPCにつないで、まずはインクを装填しますが、案の定それは新しいタイプのものに変わっていました。今まで何度か同じメーカーのプリンターを買い替えていましたが、一度として同じインクがそのまま使えたことはなかったのは、どういうことなのでしょう。
 さっそく、残ったはがきを印刷してみると、なんと言う速さ、あっという間に終わってしまいます。やはりこれが若さ、でしょうか。ところが、なんだか太字で書いた部分がまだインクが渇いていないような気がします。調べてみると、かなりのものが、その乾いてないまま重なってインクが裏面に移ったり、印刷がかすれたりしています。いくら若いと言っても、元気良すぎ。というか、往復はがきにはインクジェット対応がないので、仕方がないのかもしれませんね。幸い、少し多めに買っておいたので、何とか全部印刷し終わりました。
 そこで、初めて気が付いたのですが、このプリンターにはスキャナーもついていましたよ。でも、こんな値段なので、それはよくあるように同じ金型を流用した結果、ダミーのスキャナーがプリンターにもついてしまったのではないか、と思ってしまいました。でも、これがちゃんと動くんですよね。これだったら、今使っているスキャナーなんかなくても大丈夫かもしれません。そのスキャナーはたしか1万円以上しましたが、それでも買った時は「すごく安い」と思ったものでした。世の中、信じられないような進み方をしています。
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by jurassic_oyaji | 2016-01-30 21:42 | 禁断 | Comments(0)
MOZARTRequiem
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Edith Mathis(Sop), Trudeliese Schmidt(MS)
Peter Schreier(Ten), Gwynne Howell(Bas)
Colin Davis/
The Bavarian Radio Symphony Orchestra and Chorus
ARTHAUS/109180(BD)




ドイツの映像レーベルARTHAUSが、「ハイレゾ・オーディオ」と銘打ったBDを何枚かリリースしました。すべて、音声トラックは24bit/192kHzのPCMによって提供されているため、「スタジオのマスターテープのピュアなサウンドを体験できる」ようになっているのだそうです。ご存知のように、BDやDVDの音声フォーマットは、最初からそのぐらいのハイレゾ仕様になっていましたから、「DVDオーディオ」や「BDオーディオ」といったハイレゾのパッケージが実現できているわけです。それをいまさらわざわざ「ハイレゾ」ということは、今までは映像ソフトではせっかくあったそういうフォーマットを活用していなかったということなのでしょう。だから「の持ち腐れ」と言われても仕方がありません。
そんな、「今までのBDとは音が全然違う」と言わんばかりのこのシリーズ、そこまで言われれば聴いてみないわけにはいかないじゃないですか。その中に、コリン・デイヴィスが指揮をしたモーツァルトの「レクイエム」があったので、さっそくチェックです。
しかし、もちろんこれは以前LDで出たこともある昔の映像です。収録されたのは1984年、その頃ならすでにオーディオの世界ではデジタル録音も始まり、CDもそろそろ普及し始めたあたりですからとても素晴らしい音を聴くことができるようになっていましたが、映像の世界ではそうはいきませんでした。基本的に、こういうものは放送用に収録されたものが横流しされてパッケージとして販売されたものなので、当然、それらはごく普通のテレビで見られ、聴かれることを前提にして作られていますから、音声トラックはとてもしょぼいものだったはずです。
画面については、BDにする意味が全くない、お粗末なものでした。肝心の音声では、メニューで今までの標準だった48kHzと、「ハイレゾ」を謳っている192kHzが切り替えられるようになっていますから、今回どの程度改善されたかを比較することが出来ます。ただ、元の音はあちこちで派手にドロップアウトが起こっている上に、オーケストラだけの時にはそこそこ繊細な音がしているものの、合唱が入ったとたんに完全に音が飽和してひずんでしまっています。そのような音ですから、いくらハイレゾになったからと言って、根本的に改善されるわけはないのですが、やはり、「より、元の音に近い」音に変わっていることは確認できます。それが一番はっきり分かるのが、「Tuba mirum」冒頭のトロンボーンのソロです。ハイレゾでは、この楽器の神々しいばかりの響きをしっかり味わうことが出来ましたが、48kHzになると、その輝きが消えてしまっているのですね。元の録音がもっとちゃんとしたものであれば、この違いはよりはっきりしてくるのではないでしょうか。
これで、手元には、デイヴィスの指揮によるこの曲のソフトが4種類揃いました。それらを聴き比べてみると、彼が使っているのは一貫してジュスマイヤー版なのですが、最初は楽譜通りに演奏していたものが、後に少し手を入れていることが分かります。それは次の2か所。まずは「Dies irae」。トランペットとティンパニのリズムが何か所かで変更されています。



そして、「Rex tremendae」では、最初の小節の管楽器の合いの手がカットされています。

さらに、これは楽譜の問題ではなく、演奏様式の違いですが、「Tuba mirum」のソリストのパートに付けられた前打音の解釈が、年代によって八分音符のものと四分音符のものがあります。

これらをまとめると、こうなります。

「Rex tremendae」では後の修復稿からはすべてこの管楽器はカットされていますから、そのあたりをしっかり取り入れるようになったのでしょう。前打音については、まさに演奏様式の「流行」が敏感に反映された結果でしょうね。確かに一時期、ピリオド陣営からは「このように演奏すべきだ」という主張が上がっていたことがありましたが、それも今では過去のものになった、ということなのでしょう。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-01-29 20:10 | 合唱 | Comments(0)
「カンターテン」は複数形
 聞いた話ですが、「バッハのカンタータは『カンターテ』と言わなければ、バッハに失礼だ」などとネットでつぶやいている人がいるそうですね。たしかに、この言葉はイタリア語の「Cantata」から来てる言葉ですが、ドイツ語では「Kantate」と書きますから、ドイツ人であるバッハが作ったものも彼らはおそらく「カンターテ」と発音していたのでしょう。だけど、それは別に日本人がそのように発音することを強要されるような筋合いのものではないはずですよ。早い話が「交響曲」と訳される言葉は日本人なら誰でも「シンフォニー」と言っていますが、この人の説に従えばドイツ人のベートーヴェンやオーストリア人のモーツァルトがが作った交響曲は「ズィンフォニー」と発音しなければ、「ベートーヴェンやモーツァルトに失礼」になってしまうということですからね。そんな風に考える人なんて誰もいませんよ。そのモーツァルトだって、フランス人は平気で「モザール」とか言ってますからね。こういう、全く何の意味ももたない枝葉末節にこだわる人を、心底軽蔑します。
 どうせこだわるのだったら、もっと意味のあるものにとことんこだわりたいものです。そのモーツァルトの場合、楽譜に書かれた音符をどのように演奏するか、ということに関しては、いろいろな説が唱えられていますね。これは、あしたの「おやぢ」のネタなのですが、例えばこんな楽譜では、2通りの演奏が考えられます。
 音符の前に書かれた小さな音符は「前打音」と言いますが、モーツァルトの自筆稿には四分音符で書かれているものが、この楽譜を校訂した人が「八分音符で演奏しなさい」という意味の注釈を[]の中に書いています。つまり、真ん中の楽譜のようなリズムで歌え、ということですね。これが、この楽譜が出版されたころの常識でした。しかし、しばらくすると、この前打音をそのまま四分音符で演奏する人が現れました。確かに、バロック時代の文献などにはそのような指示が書かれていますから、そのあたりの研究が進んでくると、モーツァルトの時代でもそのように演奏する方が好ましいと思われてきたのでしょう。つまり、一番下の楽譜のリズムですね。
 ところが、最近になって、モーツァルトではやはり八分音符の方がしっくりするのでは、という人が増えてきたようなのですね。まあ、こればっかりは実際にこの時代の演奏を誰も聴くことはできないのですから、どちらが正しいのかは永遠に分からないことになるのでしょう。私などは、正直「四分音符」はちょっとダサいのでは、という気がしますけどね。
 これは、どこから持ってきた楽譜なのかは、ここを訪れる人であればたぶんすぐわかることでしょう。この曲の場合、前打音の他にも付点音符の長さをどうするか、というような問題も2種類の考え方があって混乱していますね。これに関しては、私は「複付点派」です。
 ところで、前回の「リアル栞子さん」には、さっそくリアクションがありました。なんと、件名がそのものずばりの「リアル栞子さん」というメールが届いたのですよ。もしかしてご本人から、とも思いましたが、そちらとはアドレスが違っていましたから、別人です。でも、やはり同じ仲間の方でした。誰にもわからないだろうと思って書いたのですが、やはり分かる人はいたんですね。私と同じ思いで、「その時」に対峙しているという、いわば「同志」になるのでしょうが、こればっかりはどうなるものでもないので、とても辛いですね。いっそ、某アイドルのようにCDをたくさん買って応援すれば、事態はいくらかは好転するようなケースだったら、どんなに楽だったことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2016-01-28 21:21 | 禁断 | Comments(0)
ORFF/Carmina Burana
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Sheila Armstrong(Sop), Gerald English(Ten), Thomas Allen(Bar)
André Previn/
St. Clement Danes Grammar School Boys Choir
London Symphony Orchestra & Chorus
WARNER/WPCS 13329(hybrid SACD)




かつて「EMI」と呼ばれていたイギリスのレーベルは、SACDのようなハイレゾのソフトには消極的な姿勢を示していました。しかし、なぜかその日本の子会社は、2011年ごろから積極的にハイブリッドSACDをリリースするようになりました。その際には、オリジナルのマスターテープが保存されているEMIの「アビーロード・スタジオ」のエンジニアに、デジタル・トランスファーとマスタリングを依頼していたのです。最初はそれはあくまで日本の顧客向けの仕事だったのでしょうが、しばらくするとEMI自体がそのマスターを「横流し」して、自社製のハイブリッドSACDをリリースするようになりました。もっとも、それは一過性のもので、その後EMIがSACDに手を出すことはなくなったようでした。もっとも、その頃はそんなことよりもっと重大なことが、このレーベルを襲おうとしていたのですけどね。
そんな、本社の「買収」という歴史的な事件が起こる前後に、日本の子会社からは今度はシングルレイヤーのSACDが発売されることになりました。ちょっと値段も高めの、マニア向けのアイテムです。ですから、これらのアイテムは、「EMI」名義と「UNIVERSAL」名義でリリースされることになりました。なぜかEMIでは「SACD」だったものが、UNIVERSALになると「SA-CD」と表記されるようになっていましたね。
その後、2013年にはEMIの中のPARLOPHONEレーベルだけが切り離されてWARNERに買収されてしまいます。その中にはクラシック部門のカタログがすべて含まれていましたから、クラシックに関してはすべてUNIVERSALからWARNERへ移ったことになります。その際、「EMI」というロゴはUNIVERSALに残っていたのでもはや使うことはできなくなり、今までEMIとして知られていた膨大なカタログにはすべてWARNERのロゴが、さらに、以前EMIに買収されていたVIRGINレーベルは、それまでWARNERが持っていた「ERATO」レーベルに移行されることになります。こうなると、もうなにがなんだかわかりませんね。
そんな買収劇が一段落して落ち着いてきたころになって、日本のWARNERではまたハイブリッドSACDのリリースを始めました。その中で、最近プレスされたLPで聴いていたプレヴィンの「カルミナ・ブラーナ」があったので、聴いてみることにしました。公式サイトを見るとEMI時代と同じように、アビーロード・スタジオにマスタリングを依頼したようなことが書いてありますが、製品には単に「2015年リマスター音源使用」としか書かれてはいません。これは、単なる書き忘れでしょう。よくあることです。
その代わり、と言ってはなんですが、ライナーノーツはきちんとこのSACDのために新たに書き下ろされたものでした。もっとも、それはほかのノーマルCDに見られるような、とことん次元の低い読み物でしかありませんでした。こんなところでこのアルバムがLPで発売された時に音楽雑誌で批評を書いていた音楽評論家(故人)をこき下ろすなんて、まさに「下衆の極み」でげす。この、満津岡信育という、ツイッターでは「音楽評論家(自称)」と名乗っている人物は。
LPを聴いた時にはノーマルCDしかなかったので、その音には感激していましたが、このSACDを聴いてしまうとそんな感想も変わってしまいます。LPは外周ではそれほど遜色はないのですが、やはり内周に行くにしたがって音が平板になってしまいます。特にB面の最後に1曲目と同じものが繰り返される時には、そのあまりの音の違いに呆然となってしまいます。そもそもLPの片面に30分もカットするのは、オーディオ的には無理な話なのです。ですから、そんな失望を味わわなくても済むように、これからLPを出すときにはハイレゾ時代に対応して片面の収録時間を短くしてもらっていいですか?あるいは45回転にするとか。その分枚数が増えるのは仕方がありません。現に、音にうるさい山下達郎は、昔は1枚だったアルバムでも、リマスター盤を再発する時には2枚に分けてカットしていますからね。

SACD Artwork © Parlophone Records Limited
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by jurassic_oyaji | 2016-01-27 21:04 | 合唱 | Comments(0)
マンガの古本も登場します
 今は、こんな本を読んでいます。
 だいぶ前に書店で見かけて、その表紙のイラストがとても気になっていました。でも、なんだか話は古本屋とか古書といった、あまり興味がわかないようなものが登場するしているようでしたから、ちょっと読むのは遠慮しておきました。それに、どうもシリーズになっているようで6冊ぐらい出ていましたから、読み始めたらそれを全部読むことになるのも、ちょっと重たい気がしましたし。
 でも、この間東京に行くときに新幹線の中で読むような手ごろな本が手元になくなってしまったので、まあダメモトで読んでみるかな、ぐらいの気持ちでこの第1巻を買ってしまいました。そして読み始めたら、もう止まりません。確かになんか古臭い古書は登場していますが、それらはあくまで「小道具」として扱われていて、実際に読んでいなくても何の心配もなく読み進めるようになっていましたからね。なにしろ、主人公が「本を読むと体調が悪くなる」という体質の持ち主で、実際に本を読んだことはほとんどない、という設定ですからね。ただ、読んだことはなくても、本そのものは好き、という、私にも結構似たようなところもありますし。いや、私は別に読んで体がおかしくなるようなことはありませんが、結局本当に読んでおかなければいけなかった「名作」の類は、ほとんど読んだことはありませんからね。
 そんな主人公が働いている古本屋さんの店主が、この表紙に描かれた女性です。ミステリーのジャンルでは「アームチェア・ディテクティブ」と呼ばれる、実際に現場に行かなくても、話を聞いただけで犯人や犯行の様子が分かってしまう、というタイプの探偵に当てはまるのでしょう。私が読んだ中では、「謎解きはディナーのあとで」の景山執事みたいなものですね。この第1巻では、「アームチェア」ではなく、病院のベッドに横たわったままで事件を解決していましたからね。
 まあ、そんなミステリーとしてのストーリーも面白いのですが、なんと言ってもこの女性自身がかなりミステリアスな設定になっているのがとても気になるのですよ。いわば、彼女の「過去」を探る、というのもシリーズ全体の大きな流れになっているようですね。案の定、1巻を読んだら次が読みたくなるという巧妙な作り方に乗せられて、第2巻まで読み終えたところですが、まだまだこの「謎」は広がりを見せてきますからね。きっと6巻まで読んでしまうことになるのでしょう。
 私は古書には興味はないとさっき書きましたが、これを読んでいるとなかなか古書も奥が深いことが分かってきて、俄然興味がわき始めているところです。同じ本でも結末の違う何種類かの版がある、なんてのは、私だったらすぐに飛びつきたくなるようなテーマじゃないですか。まあ、そこにのめり込むことはありませんが、そういう世界を見せられるのを心から楽しめる、というところがあるのが、この本の魅力の一つなんですね。そして、そんな古書に絡めた本筋の「事件」も、謎が幾重にもめぐらされていてとても楽しめます。
 でも、最大の魅力は、栞子さんというこの女性探偵の描写なんですよ。色白の肌に長い髪、華奢な体つきで、話をするときはとても恥ずかしそうにしている、という人が、実は割と間近にいたりするんですね。ですから、この本を読む時にその人の姿を想像してみると、とてもリアリティが増してくるのですよ。こんなに楽しく本が読めることなんて、そうそうありません。
 ただ、その「リアル栞子さん」は、もうすぐ私の前からいなくなってしまいます。そんなはかなさまで加わって、この本を読んでいると、楽しさと一緒になにか切ない思いがついてまわるのです。こんな読み方は、邪道でしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2016-01-26 23:53 | 禁断 | Comments(0)
Suliko/Don Kosaken Chor
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Wanja Hlibka/
Don Kosaken Chor Serge Jaroff®
PROFIL/CD PH15034




このタイトル「スリコ」というのは、有名なロシア民謡です。そもそもはグルジアの民謡だったようですが、旧ソ連圏を含めて「ロシア民謡」と呼ばれています。そもそも、「グルジア」も今では「ジョージア」と言わなければいけないのですから、その辺は大雑把で構わないでしょうね。あ、お餅の入ったスイーツではないですよ(それは「シルコ」)。
それよりも、注目したいのはここで演奏している合唱団の名前です。ドイツのレーベルから出たCDなのでドイツ語表記になっていますが、これは「ドン・コサック合唱団」、しかもそのあとに「セルゲイ・ジャーロフ」という名前がくっついていますね。もちろん、これはこういう名前の合唱団を創設し、長年にわたって指揮者を続けていた人物の名前です。というか、ある年代以上の人たちにとっては、「ドン・コサック」といえば「セルゲイ・ジャーロフ」と、まるで「SMAP」と「キムタク」のようにワンセットで認識されている言葉同士でした。
ロシア革命によって祖国を追われたコサックたちを集めて、ジャーロフが男声合唱団を作ったのは、1921年のことでした。その後彼らはアメリカに帰化し、コンサート・マネージャーも付いて世界中でコンサートを開くような有名な合唱団となります。ジャーロフは、1979年までこの合唱団の指揮者を務めていましたが、1985年に亡くなりました。その少し前、1981年に、この合唱団のすべての権利を、マネージャーのオットー・ヘフナーに譲っています。
しかし、ジャーロフの死後、「ドン・コサック合唱団」を名乗る団体がたくさん現れ、「本家」の影が薄くなるという事態が起こります。良くあることですね。しかし、1991年に、オリジナルの「セルゲイ・ジャーロフのドン・コサック合唱団」で12年間ソリストを務めたワーニャ・フリプカが中心となって合唱団が再結成され、2001年にはヘフナーが持っていた権利もフリプカに譲られて、文字通り「直系」の「ドン・コサック合唱団セルゲイ・ジャーロフ®」が世界中で活躍するようになったのです。これは、彼らが2015年の1月に、ドイツの教会で録音したものです。
実は、ジャーロフが指揮をしていた時代のこの合唱団を、実際に生で聴いたことがありました。その時の印象は細かいところはもう曖昧になっていますが、とにかくハイテンションの、ひたすら叫び続けているだけのようなものだったことだけは覚えていました。それが、今回このCDを聴いたことによって、そんなぼんやりとした印象が、いきなり鮮明に蘇ってきたような、不思議な感覚にとらわれました。これを、あの時に聴いていたんだ!みたいな感じでしょうか。
それはもう、今の耳ではとても「合唱」とは呼べないような代物でした。歌っている人たちは、誰一人として他の人と合わせようとはしていないんですからね。ひたすらビブラートたっぷりの声を張り上げるだけ、もちろんアインザッツなんか決まるわけがありませんし、いったいどこがハモっているんだ、という恐るべきものでした。ところが、しばらく聴き続けていると、その中に得も言われぬ魅力が感じられるようになってくるのです。おそらく、ここには本当の意味での「魂の叫び」のようなものがあるのでしょう。そこからはハーモニーやメロディを超えたなにかが伝わってくるのですよ。確かに、それがあるからこそ、この合唱団は1世紀近く世界中の人々を魅了し続けることが出来たのでしょうね。
カラヤンが1966年にチャイコフスキーの「1812年序曲」を録音した時には、冒頭のヴィオラとチェロのアンサンブルによるロシアの聖歌をこの合唱団に歌わせていました。それと同じものが、ここでも歌われています。天空に突き抜けるファルセットのテナーと地を這うようなオクタヴィストのベースはまるで世界を揺るがすよう。カラヤンはここに確かな「ロシアの心」を感じていたのかもしれません。

CD Artwork © Profil Medien GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-01-25 21:17 | 合唱 | Comments(0)
プレイガイドが前回より2か所増えました
 もうニューフィルの公式サイトやFacebookページではすでに公開されていますが、今度の4月の定期演奏会のチラシが出来上がりました。いや、「チラシ」そのものはまだ出来てはいないんですけどね。正確には「チラシのデータ」という、バーチャルなものなんですけどね。もちろん、これをプリンターで紙に印刷すれば「物」としての「チラシ」が出来上がります。そんな、印刷に耐えるだけの高解像度のPDFデータががそれぞれご用意されていますので、必要な方はご利用ください。こんな格調の高いデザインと、気の利いたキャッチコピーが付けられたチラシなんて、なかなかありませんよ。
 このデータの「初校」が届いたのは先週の金曜日でした。ちょっと前の私でしたら、この言葉は「最初の原稿」という意味で「初稿」と書いていたところですが、今は違います。実はこの「初校」という言葉は、最近映画版の「舟を編む」で知ったばかりなんです。あの中で棚の中に「初校」、「2校」などと付箋の付いたゲラが置いてあったのですね。つまり、これらは「校正用の印刷物」という意味を持つので「〇校」という漢字が使われるというのが、印刷業界の常識なのでした。というか、この間の「新明解」には「初校」はあっても「初稿」という見出し語はないんですよ。私にとっては非常になじみのある「初稿」も、まだ日本語とは認めれられてはいなかったんですね。これはちょっとショック。
 閑話休題(これはもちろん、載ってます)。チラシの話でした。もちろん、この段階ではいろいろ注文が出てきますから、3人の人がそれぞれチェックして修正作業を行います。その結果、大筋は変わらないもののさらに訴求力のあるものに仕上がったのではないでしょうか。その中には、私が書いた裏面の原稿のタイプミスなどもありました。確かに、あれがそのままだったらかなり恥ずかしいものになっていたところでした。
 しかし、そこまでやっても、かなり重要なところで一つ抜けていた項目がありました。それは、たまたまその最終校をプリントアウトしたものを眺めていた時に、ほとんど偶然見つけたもので、これがそのまま印刷されてしまったら、こちらは単に恥ずかしいだけではなく、相当まずいことになっていたような項目でした。例えばCDの帯のようにせいぜい数百枚ぐらいしか印刷しないものとは違って、こちらは15,000枚も印刷してそのほとんどが市内の目に付く場所にばらまかれますから、本当に危ないところでした。
 これが出来上がってくると、またまたそれを使った広報活動が始まることになります。いつものことですから、ほとんどルーティンになっていますが、新地開拓はどんどん行っていきたいので、行きつけのお店などがあったら、ぜひともそこに持ち込んでいただけるようにお願いします。とりあえず、おそらく篠崎さんが最初にいらっしゃる時の歓迎会が開かれるはずの、旭ヶ丘にあるイタリアン・レストランには、その歓迎会の時に持って行って、置いてもらおうと思っています。ここには、音楽関係者がよく集まるようですので(O先生の新年会がここを貸切にして行われた時の写真が、Facebookにありました)かなり効果はあるはずですからね。
 このお店は2階にありますが、同じ建物の1階にあるのが、私が通っている美容室です。今朝、久しぶりにカットに行ったら、いつもの店長さんに「お客さん、髪の毛が少し黒くなったんじゃないですか?」といわれてしまいました。私の感覚では、白くなる一方だと思っていたので、そんな「プロ」の言葉は意外でしたね。でも、この人はいろいろ話してみるとあまりいい加減なことは言わないようだと思えるようになっているので、きっとそれは本当のことなのでしょう。でもなあ、いつもはコンタクトなのに、今日はメガネをかけていましたから、そこで色が違って見えたという可能性は、捨てられませんけどね。
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by jurassic_oyaji | 2016-01-24 21:31 | 禁断 | Comments(0)
SILVESTROV/Sacred Choral Works
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Sigvards Kļava/
Latvian Radio Choir
ONDINE/ODE 1266-5(hybrid SACD)




1937年といいますから、あのペンデレツキの数年後に生まれたウクライナの作曲家、ヴァレンティン・シルヴェストロフの、最近の無伴奏合唱曲を集めたアルバムです。ロシア料理みたいな名前ですね(それは「ストロガノフ」)。この方はペンデレツキ同様、この世代の作曲家にありがちな作風の転換が激しかった人のようですね。1960年頃の作品をちょっと聴いてみましたが、もろ12音のとんがった音楽、まさにあの時代の「現代音楽」のムーヴメントの只中を突き進んでいた、という印象を強く受けました。そしていつのころからか、中世やルネサンスの音楽や、民族的な素材に目を向けてガラッと変貌する、というありがちなパターンをこの人もたどることになったのでしょう。
このアルバムに収録されている作品の大部分は、2005年から2006年にかけて作られたもの、ここではそのような作風がとても洗練されていった結果、いともすがすがしい、言い換えれば毒にも薬にもならないようなものが大量に生産され始めている、という気が強くします。結局、あの頃の「現代音楽」はなんだったのかという疑問が深まる材料がまた一つ増えたことになるのでしょうか。
おそらく、それを聴くものとしてはそのような「過去」とはきっぱり縁を切った、今の時代に心地よく受け入れられるとても豊かなハーモニーとメロディラインを持つ「合唱曲」としてこれらを味わい、相応の「癒し」なり「快楽」を得るというのが正しい道なのでしょう。そういう聴き方に徹する限り、これらの作品はとても美しいものに思えます。
一番ウケた(いや、心を打たれた)のは、2006年に作られた「夕べ」、「朝」、「夜」の3つの曲から成る「アレルヤ」の3曲目でしょうか。流れるような6/8の拍子に乗って歌われるのはとてもキャッチーなメロディ、それを彩る和声もsus4を多用した、頻繁にテレビドラマのバックに流れる音楽に登場するお馴染みのものでした。他の作曲家で言えば、たとえばジョン・ラッターとか、日本人だと信長貴富などの作品から感じられる「美しさ」のエキスのようなものがふんだんに織り込まれています。ハ長調で一旦終わったものが、続く「アーメン」ではいきなりホ長調に変わり、それがsus4の9thみたいなテンションコードで終止するという「意外性」まで兼ね備えていますからね。
なによりも、ここで歌っているラトヴィア放送合唱団が、そのような「美しさ」を余さずに伝えようとしている姿勢には、感動すら覚えます。写真で見るとかなり高齢の人もいるようですが、そこからは若い人だけでは決して出すことのできないよく練られた音色が醸し出されています。ハーモニー感も申し分なく、やや残響が過剰気味な教会のアコースティックスの中で、得も言われぬ豊潤な響きを作り出しています。その残響があるために、ハーモニーの変わり目でも前の音が残っていて、2種類の和音が同時に聴こえてきてある意味クラスターのような効果をもたらしているのも、おそらく彼らなりの計算なのでしょう。
先ほどの「夜」にも登場していたテノールのソリストは、そんな合唱の中で完全に主観を排した、いとも存在感の薄い歌い方に徹していました。そのほかの曲でのソリストたちも、全てそのような歌い方、そこからは、もはや音楽というものからは「主張」などというものは必要ないのだという、今の時点での作曲家の信条がとても強く感じられます。それは、このアルバムの中での唯一の前世紀(1995年)に作られた「二部作」という曲では、しっかりフル・ボイスで歌い上げるようなところがあることから、少し前とは微妙に音楽に込める気持ちが変わっているようにも思えるからです。ただ、この中の2曲目「遺言」の最後に現れるソプラノ・ソロとテノール・ソロとのしっとりとした掛け合いには、思わず泣けてきます。このあたりの情感の上澄みだけを掬い上げたのが、残りの今世紀の作品群なのかな、と勝手に推測させてください。

SACD Artwork © Ondine Oy
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by jurassic_oyaji | 2016-01-23 20:53 | 合唱 | Comments(0)
女性からのメッセージは2割でした
 きのうは私の誕生日でした。ですから、いつものようにFacebookは「お誕生日メッセージ」であふれかえることになります。私の場合はそんなに「友達」はいないので、一人一人きちんとお礼のコメントを返すことが出来ますが、それでも結構な時間を使ってしまいましたよ。でも、日頃あまりアクセスのなさそうな人からメッセージが届いたりして、ついでに近況報告などなかなか楽しい機会もありました。
 さらに、なんたってGoogleさんからもお祝いのメッセージが届いたりしたのですから、これは本当に驚いてしまいましたよ。
 何とはなしにGoogleのトップページに行ってみると、こんなケーキで出来たロゴが出ているんですよね。何かの記念日によくこういうことをやっているのは知っていましたが、そこで私の誕生日が「記念日」になっていたとは。でも、これはあくまで私がログインしている状態のPCでしか見ることはできないんですよね。ですから、世界中で私だけが見られるメッセージだと思うと、ちょっと感激ものです。
 まあ、結構長いこと生きてきましたから、あちこちガタが出てきそうなものなのですが、なんだか逆に最近調子が良くなったところが出てきたりしています。それは、今まで多い時にはほぼ毎日発症して結構つらい思いをしてきた偏頭痛が、このところ全く起きていないんですよ。もう、ちょっと集中してPCに向かった時などは必ずその前駆症状が始まって「またか」と落ち込むことがほぼ日常化していたのに、それと同じようなことをやっても全くそれが来ないようになったのです。これは本当にうれしいことでした。ずっとこのままでいてくれるといいのですが。
 ところで、最近こんな風にPCで文章を書くのが日常化してくると、果たして自分が書いている日本語は大丈夫なのか、という気になってきます。いや、それこそ長く生きていますから、その間の蓄積はあるので大概のことには対応できるのですが、逆に新しい言葉や言い方にはつい厳しい姿勢をとってしまうことが多いのですね。要は、私一人が反抗していてもどうなるものでもないので、ある程度はそういうものも許していこうという気にはなっているのですが、果たしてそれが全社会的にどうなのか、ということをきちんと知っておきたいな、と思うようになりました。そこで、そんな時の「基準」となるはずの国語辞典を、この際新しく入手することにしました。
 そこで買ってきたのが、三省堂の「新明解」です。なにしろ、今までずっと使っていたのが右側の「明解」ですからね。
 これはなんと昭和27年に発行されたものです。私が買ったのは「88版」(ふつうは「88刷」と書きますよね)で昭和37年に印刷されたものですが、それでも大昔、西暦だと1962年ですよ。ニューフィルのメンバーだったら、ほとんどの人がまだ生まれていないころですね。
 もうこんなにボロボロになっていますが、もちろん中身もボロボロ、とても今使えるような代物ではありません。言葉が生き物だということが、こういうのを見るとよく分かります。
 「新明解」を読んでいるといろいろ面白いことがあって、とても楽しいのですが、「明解」のころにはなかった「ぶれる」という言葉の語釈が
責任のある(マスコミから注目される)立場の人の発言などがその時どきの状況によって異なり一貫性を欠くと受け止められる。「首相の発言が微妙にぶれている」
 となっていたるするのは、なんか生々しいですね。(「」内は例文)。そして、そのような状況でよく出てくる「説明責任」という言葉が、この辞典には載っていません。うすうす気づいてはいたのですが、この言葉はその程度の実体のないものだったのですね。
 おなじように実体のない言葉だと感じている「都市伝説」も、やはりここにはありませんでした。そして、一番気になっていた「世界観」という言葉の語釈は
世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方
 というのしかありません。「ユーミンの歌詞の世界観」みたいな使われ方は、今のところ日本語としては認められていないのですよ。こういう時にはただの「世界」でいいじゃないかと思っている私の日本語感覚も、まんざらではなかったことに、ちょっと安心しているところです。
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by jurassic_oyaji | 2016-01-22 21:48 | 禁断 | Comments(0)