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Folk Songs of the World
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Cathy Berberian(MS)
Harold Lester(Pf)
SWR/SWR19010CD




20世紀半ばの「現代音楽」シーンで確かな輝きを放っていた歌手、キャシー・バーベリアンの、こんな貴重な放送音源がリリースされました。1978年にシュトゥットガルトのSWRのスタジオで録音された「Folk Songs of the World(世界の民謡)」というタイトルでまとめられた曲集です。
このCDのブックレットに寄せられているエッセイの最後に、キャシー・バーベリアンの公式サイトらしきもののURLがあったので覗いてみたら、その中のディスコグラフィーにはこの録音はなかったので、おそらくこれが初めて公にCDになったものなのでしょう。ついでに、同じサイトのバイオグラフィーを見てみると、彼女の生年月日まできちんと書いてありました。それによると、彼女が生まれたのは1925年7月4日なのだそうです。巷では1928年生まれという情報も見られますが、それは完全に否定されているようですね。
同時に、彼女が1950年に結婚したルチアーノ・ベリオと離婚したのは、1964年だったということも、ここで分かります。これも、1965年とか1966年といった紛らわしい情報を払拭するためには有益なデータでしょう。というのも、この1964年という年にベリオはキャシーが演奏することを前提とした「Folk Songs」という曲を作っているのですよね。これは、ほとんど知られていない世界中の民族音楽を集めて、ソリストはそれをそのまま歌い、そこにベリオがちょっと複雑な伴奏を付けたというものです。プライベートではパートナーシップを断ち切っても、仕事の上ではしっかり共同作業は行っていたという、二人の微妙な関係の表れということになりますね。実際に、11曲から成るこの曲集の中には、キャシーの先祖のアルメニアの歌や、彼女がSPレコードで知ったアゼルバイジャンの歌なども含まれていますから。
今回の1978年の「Folk Songs」は、タイトルこそ1964年のものと同じですが、その内容はずいぶん違っています。というか、別にこれは「作品」ではなく、彼女が集めた、主にクラシックの作曲家が編曲した世界中の「民謡」が22曲歌われているというだけの話です。そして、ここで彼女は16の国の言葉を駆使しているのです。その中には、ヨーロッパの言語だけではなく、中国語なども入っています。あいにく日本語はありませんが。
ただ、この中で、きちんと作曲家によって「編曲」された「作品」は、それほど面白くありません。バルトークとかラヴェル、さらにはハイドンとかベートーヴェンなどが手をかけた曲は、どうしてもその作曲家のテイストが前面に出てきて、キャシーの持ち味がなかなか生かされていないのでは、という気になってしまいます。中でもコープランドが採譜した子供の歌の「I Bought Me a Cat」などは、「猫を買った」から始まって「アヒル」、「ガチョウ」と続く中でだんだん動物が増えていき、最後には「女房」まで登場するというナンセンスな歌で、その時の動物たちの鳴き声がやはりだんだん増えていくというところが聴かせどころなのでしょうが、その鳴き声の部分が全然面白くないんですね。キャシーだったらありきたりの擬音ではなく、もっと高度なことをやってくれてもいいのに、という、まさに期待はずれの出来でした。
ですから、やはりおもしろかったのは、特に編曲者のクレジットが入っていない、クロアチアやブルガリアの民謡です。ここでは地声丸出しの発声で歌われていますから、普通には「民族唱法」と言うべきなのでしょうが、彼女がそれをやると俄然「現代音楽」の味が出てくるから不思議です。最後のトラックのアルメニアの歌「私の歌」では、さらに力が抜けた共感のようなものが感じられます。
でも、「ホルディリ・ディア」みたいなタイトルで知られるスイスのヨーデル「ルツェルンへの道」は、彼女だったらさぞやファルセットが決まると思っていたら、全然冴えないのが意外でした。なんでも歌えそうでも、こんなところに弱点があったようでる

CD Artwork © Naxos Deutschland Musik & Video Vertriebs-GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-06-30 20:32 | 現代音楽 | Comments(0)
空襲警報のサイレンは、誰が鳴らしていたのでしょう
 今回の朝ドラも、半分が終わりましたね。これが始まった時には、出演者に関しては何の不安もありませんでしたからそんなにひどいものになるとは思っていませんでした。実際はそれは期待以上の出来でしたから、とても楽しく見ることが出来ています。ただ、テーマ曲をあの人が歌っているというところでかすかな不安があったのですが、それがこれほどのひどいものだったとは。まあ、あの1分間は、朝の忙しい時ですから例えば洗濯機をセットするとか、食器洗いのための下洗いをするとか、有効に活用させていただいていますから、いいんですけどね。それにしても、あの「手癖」丸出しのメロディは、とてもプロのソングライターの仕事とは思えません。歌詞も、聴けば聴くほど意味不明ですし。そもそも、この人の場合「きみ」という二人称代名詞は男性に向けて使われていたはずでしたから、頭から「普段からメイクしない『きみ』が薄化粧した朝」だったのには、のけぞってしまいましたね。どんなヘンタイかと。
 ドラマ本体の場合、なんたってモデルがいるというのは強みです。ただ、もちろん知っていたのは雑誌を作っていたということだけでしたから、その生い立ちなどは今回初めて知ることになりました。そこで、3人姉妹が小さい時に父親を失う、という最初の設定が登場した時には、もうそのシチュエーションだけで何か心をつかまれてしまいましたね。実は、私の家も男男女の3人兄弟で、彼女たちと同じ年頃で父親を亡くしているのですよ。しかも、私が一番上で、弟は1歳下、妹は6歳下ですから、このドラマの姉妹と同じぐらいの年の離れ方です。父親が亡くなったタイミングも、私が中学1年の時ですから、それも彼女たちとほぼ同じ、しかもその時に住んでいたのが静岡県というところまで共通しています。
 だからなんだ、と言わそうですが、たまになんだか共通の思い出みたいなものが登場してくるのが、ちょっと面白いというか。つまり、ドラマの3女は、上の二人ほどは父親の思い出が残っていないというところです。私の妹もそうでした。確かに、考えてみれば小学1年生ぐらいの時に亡くなったとすれば、ほとんど一緒にいた時のことなんか覚えていないでしょうね。私あたりでも、断片的なことしか頭には浮かびません。というか、実は亡くなる前の数年間は父親は外国に行っていたので、ほとんど一緒にいたことはなかった、というのもありますけどね。「外国に行った」なんていうとかっこいいですが、鉱山技師だった父親が行っていたのは、当時は「マラヤ」と言っていた、今のマレーシアの山奥のジャングルでしたけどね。それでも、たまにはイギリス支配が残っていたシンガポールあたりまで行って買い物もしていたようで、LPレコードもたくさん持ち帰って来てました。そんな中に、ジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団の録音が「PHILIPS」レーベルになっていたものなどがありましたね。もちろん当時は何も知りませんからそんなものだと思っていましたが、確かにこの頃はこの「PHILIPS」レーベルは、アメリカの「COLUMBIA」と提携していて、ヨーロッパでの販売の窓口になっていたのですね。
 ただ、朝ドラの主人公とは30年ぐらいのタイムラグがありますから、私は当然戦争などは体験していません。それにつけても、今まさにドラマで取り上げられている状況を、まるで別の世界のことのように思いながら見ている人が大部分なのだなあ、などと思えてしまうのが、とても悲しくなってしまいます。この時代に当然と考えられていた国家主義、そのもとでは個人の人権などは全く保障されないという状況をまさに一変させたのが日本国憲法だったわけで、その恩恵で私たちはとりあえずなに不自由なく暮らしているわけですが、この国の権力者たちはそれを真っ向からぶち壊そうと手ぐすねを引いているのですからね。
 朝ドラではこの戦争のシーンはよく登場します。そのたびに、なんだかその描き方が完全にパターン化しているように感じられるのは、もしかしたらそのような権力者たちの意向がそれとなく反映されているせいなのか、などと思えてしまいます。
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by jurassic_oyaji | 2016-06-29 22:20 | 禁断 | Comments(0)
STRAVINSKY/L'Oiseau de feu
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Dennis Russell Davies, 滑川真希(Pf)
Dennis Russell Davies/
Sinfonieorchester Basel
SINFONIEORCHESTER BASEL/SOB 10




ドイツとフランスの国境近くに位置するスイスで3番目に大きな都市バーゼルには、300年近く前から音楽文化が栄え、オーケストラの母体が存在していました。ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラーが、実際にそのオーケストラの指揮をしたこともあります。そのような流れは最近まではバーゼル交響楽団(Basler Sinfonie-Orchester )とバーゼル放送交響楽団(Radio-Sinfonieorchester Basel)という2つのオーケストラとして形になっていましたが、1989年に、これらを統括する財団が設立されたことにより状況が変わります。最初のうちはそれぞれのオーケストラは独立した活動を行っていたものが、1997年に新しい「バーゼル交響楽団(Sinfonieorchester Basel)」に集約されるという、事実上の合併が行われて、1つのオーケストラとして再出発することになったのです。その時に首席指揮者に就任したのは、マリオ・ヴェンツァーゴでした。
現在の首席指揮者は2009年に就任したデニス・ラッセル・デイヴィス。彼の許で、このオーケストラは2012年に自主レーベルを発足させ、今回のCDが10枚目のアイテムとなっています。しかし、デイヴィスの任期は2015/2016年のシーズンまでで、今年の秋からはアイヴォー・ボルトンが次の首席指揮者、このオーケストラの相棒に就任することが決まっています。
この、「古くて新しい」オーケストラは、ウェブサイトなどもかなり凝った造りになっていて、外部への働きかけに積極的なような印象を受けます。この自主レーベルを飾るオーケストラのシンボル・マークも、なんか斬新な気がしませんか?

これは、オーケストラのメンバーがステージに座っている様子を表わしたものなのでしょう。ただ、これだと実際の並び方には不具合が出てしまうのは、デザインした人がオーケストラのことを良く知らなかったからなのでしょう(あるいは、なにか別の意味が込められている?)。でも、さっきのサイトでは、これをきちんと修正して、メンバー紹介のページに使っていましたね。

2014年にこのレーベルからリリースされたのが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のオーケストラ版と4手ピアノ版とを一緒に収めたアルバムでした。今回はその続編、同じ作曲家の「火の鳥」が取り上げられています。前のアルバムは両方のバージョンが全部1枚のCDに入ってしまいましたが、今回は「火の鳥」が20分程度で終わってしまう組曲版ではなく、50分ほどかかる全曲版ですから、2枚組になってしまいました。もちろん、演奏は全く同じ、ピアノを弾くのは指揮者のデイヴィスと、その妻である現代音楽のスペシャリスト、日本人の滑川真希さんです。
まずは、ほとんど組曲版しか聴いたことのなかったオーケストラの全曲版をじっくり聴いてみます。録音がとても素晴らしく、個々の楽器がきっちり立って聴こえてきますから、組曲版とのオーケストレーションの違いなどもはっきり分かります。そんな録音のせいでしょうか、音楽全体がとても風通しが良くて、爽やかささえ感じられるのですが、この曲の場合もっとなにか泥臭いところがあった方が良いような気がします。これはライブ録音ではないようですが、ピッコロが肝心のところでいまいち冴えないのも気になります。
ピアノ連弾版を作ったのはデイヴィス自身だそうです。「春の祭典」では作曲家が用意したものがあったのでそれを演奏していたようですが、「火の鳥」ではピアノ・ソロの、単にバレエの練習用に作られたものしかなかったので、新たに作る必要がありました。デイヴィスは、オーケストラ版とこのピアノ・ソロ版とを適宜参考にして、編曲を行ったのだそうです。
ふつう、同じ曲を演奏すると、どうしてもオーケストラ版の方がテンポが遅くなりがちなのに、ここではピアノ連弾版の方が時間がかかっています。それは、有名な「カスチェイの仲間たちの地獄の踊り」が、とんでもなくもたついているため。ただでさえ退屈なピアノ版が、これではだめでしょう。

CD Artwork © Sinfonieorchester Basel
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by jurassic_oyaji | 2016-06-28 22:46 | オーケストラ | Comments(0)
ドイツ留学までしたんですって
 「船に乗れ!」を読んでみました。全3巻という大作で、まとめて全部買ってしまったのですが、最初はなんともとっつきにくく、正直買ったことを後悔していました。しかし、ある時からスラスラ読めるようになり、結局一気に読み終えてしまったのですから、「第一印象」というものはそれほどあてにはなりません。とは言っても、この本に頻出するあまりに自己中心的な、些事をいかにも大事のように見せる書き方には、最後までなじむことはできませんでしたが。つまり、ほとんどが他の書籍からの引用である、ちょっと小難しい部分はためらわず読み飛ばしてしまったということです。そんなものがなくても、この小説は十分に楽しめるのに、それはおそらく著者自身には許せないことなのでしょうね。そんな風に間を空けて読んだために、読み終わったころには出版元が変わっていて、全く別の表紙の文庫本が店頭に並んでいることになってしまいました。私が買ったのは「ポプラ文庫ピュアフル」でしたが、いまではモニターにある「小学館文庫」が出回っているはずです。
 おそらく、実際に著者が体験したであろうことを元に、恵まれた音楽的な環境の中でチェロを学んでいた主人公が、すんなりとは名門音楽高校へは進学できず、「三流」の音高に進学するあたりが、物語の始まり。それからの彼が体験する(した?)ことが、赤裸々に語られるという、基本は「青春小説」なのでしょう。そこに、舞台である音楽高校の中での、まずはプロフェショナルなチェリストを目指す主人公の活躍ぶり、さらには挫折の様子が、詳細な音楽的なディーテイルを伴って描かれます。そこでは、学生によるオーケストラの練習風景などという、かつて「のだめ」などでさんざん紹介された情景も登場しれますが、「のだめ」と決定的に異なるのは、作者が実際にチェリストの教育を受けていたことがある、という点です。こればかりは、いくら音楽が好きで知識も豊富な人でも、太刀打ちできるはずはありません。もちろん、私だってチェロに関しては全くのシロートですから、そこに登場する練習曲や、弦のメーカーなどは、全く聞いたこともありませんが、それは「専門家」が書いているのだから間違いはないのだろう、というスタンスで、未知のものはそのままにしておこうという感じで読み進めていけます。
 ところが、こと、オーケストラに関しては、私はある意味「専門家」ですから、いろいろ気になるところが出てきてしまいます。まず、最大の違和感は「ゲネプロ」という言葉。これはもちろん「ゲネラル・プローベ General Probe」の略語ですから、「総練習」という意味、特にクラシックの場合は本番の直前に行われるリハーサルのことを指し示す言葉です。ところが、この小説ではそのずっと前、そもそもの譜読みの段階からこの言葉が出てきます。おそらく著者は「ゲネプロ」を、オーケストラが全員集まって行う「全合奏」という意味で使っているのでしょう。それはそれで書き手の流儀ですから別にかまいませんが、私の知る限り、そのような意味でこの言葉を使っている人は、クラシック界には誰もいません。
 さらに、著者はそのオーケストラが練習している「レ・プレリュード」の途中「ちょうど200小節」で、「『アー・ドゥア』に『移調』している」と書いていますが、これも「『エー・ドゥア』に『転調』している」の間違い(あるいは「勘違い」)です。些細なことですが。そして、もっと些細なことなのですが、気になってしょうがないのが、最後の年の学内演奏会でモーツァルトの「ハフナー」を演奏した後、その次に「ジュピター」を演奏するために木管の編成が変わる時の様子。そこでは「クラリネットやオーボエにまじって、沢さん(註:2番フルート)がひっそり舞台から立ち去って」行くのですが、オーボエがいなくなって、どうやって「ジュピター」を演奏するのでしょう。さらに、「ジュピター」の後にアンコールでもう1度「ハフナー」の第1楽章を演奏することになるのですが、その時には「沢さん」と一緒に「オーボエもファゴットも」戻ってきたんですって。オーボエはさっきいなくなったので分かりますが(いや、そういう問題ではありませんが)、ファゴットは「ジュピター」を演奏していたはずなのに、どこから戻ってきたのでしょう。これって、ミステリーでしたっけ。
 好きだった人が、突然目の前からいなくなってしまったというシチュエーションには、ほとんど泣き出したくなるような思いに駆られましたし、なんたって親友がフルーティストだというのですから、そそられるところはたくさんありました。お客さんを前にしての奇跡的な名演の体験などは、本当にこういうことを経験していなければ絶対に書けないことでしょう。素晴らしい小説だと思います。それだからこそ、こんなつまらないミスを犯しているのが、残念でたまりません。
 あ、もう一つありました。お金持ちの主人公の家には、30畳のリビングにベーゼンドルファーのグランドピアノが置いてあって、そこで「ブランデンブルク協奏曲第5番」の練習をするのですが、ピアノの音が大きすぎるのでピアニストに少し音を小さくするように求めると、彼女は「弱音ペダルをロック」するのです。そういう機能はアップライトピアノにはありますが、グランドピアノにはありません。
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by jurassic_oyaji | 2016-06-26 20:41 | 禁断 | Comments(0)
CALDARA/Morte e sepoltura di Christo
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Maria Grazia Schiavo, Silvia Frigato(Sop)
Martina Belli(Alt), Ancio Zorzi(Ten)
Ugo Gualiardo(Bas)
Fabio Biondi/
Stavanger Symphony Orchestra
GLOSSA/GCD 923403




アントニオ・カルダーラというのは、イタリア人の作曲家の名前です。パスタの名前ではありません(それは「カルボナーラ」)。1670年にヴィネツィアで生まれ、1736年にウィーンで亡くなりました。その生涯の最後の20年間はウィーンの宮廷楽団の副楽長という地位にあり、数多くのオペラや宗教曲を残しています。この「キリストの死と埋葬」というオラトリオは、おそらく1724年の4月7日、聖金曜日の1週間前に演奏されたとされています。
1724年といえば、あのバッハが「ヨハネ受難曲」を作った年です。しかも、それが演奏されたのも同じ4月7日ですから、ものすごい偶然ですね。300年近く前の全く同じ日にライプツィヒとウィーンで初演されていた、キリストの受難をテーマにした作品が、ともに現在まで残っているのですからね。もっとも、バッハの作品は日本でも年に何回かはどこかで演奏されていますし、CDも何十種類もありますが、このカルダーラの方はおそらく生演奏を聴いたことのある人なんて日本には誰もいないのではないでしょうか。それが「歴史の篩」というものです。
しかし、同じテーマとは言っても、このカルダーラの場合はバッハとは全く別のベクトルからキリストの死を描いています。それは、ほとんど「オペラ」と同じ形式で物語を進めるというやり方、マグダラのマリア、聖母マリア、アリマタヤのヨセフ、ニコデモの4人に加え、キリストの行動の一部始終を見てきたローマ軍の百人隊長(百卒長)という5人の登場人物は、フランチェスコ・フォツィオの台本に従って、それぞれの立場からレシタティーヴォ・セッコとダ・カーポ・アリアを歌い上げます。
演奏しているのは、ファビオ・ビオンディの指揮によるスタヴァンゲル交響楽団です。このノルウェーの団体の現在の首席指揮者はクリスティアン・ヴァスケスですが、このオーケストラのユニークなところは、そのようなモダン・オーケストラである以外に、ピリオド・オーケストラという側面も持っていることです。とは言っても、楽器までピリオドにしているわけではなく、あくまで「ピリオド風」の演奏を目指す団体、というぐらいのスタンスなのでしょうが、そんな方向性を持ち始めた1990年から、常任指揮者と同時にピリオド(ここでは、バロックと古典派までをカバー)専門の指揮者を置くようになっています。その初代指揮者はフランス・ブリュッヘン、それをフィリップ・ヘレヴェッヘが引き継いで、2006年からはビオンディがその地位にあります。
この作品では、通奏低音にオルガンとチェンバロの他にテオルボも加えられているので、より「ピリオド感」は増しています。さらに、アリアのオブリガートに使われている「シャリュモー」という楽器(クラリネットの前身、現在は使われることは極めて稀)のために、ピリオド・クラリネット奏者のロレンツォ・コッポラが参加しています。
ビオンディは、この作品に少しバラエティを持たせるためでしょうか、原曲にはないソナタやシンフォニアなどを挿入しています。それは、カルダーラと同時代の別の作曲家のものも含まれていて、このシャリュモーが入るアリアの前には、この楽器を紹介する意味もあるのでしょう、シャリュモーとトロンボーンが活躍しているヨハン・ヨーゼフ・フックスのシンフォニアが演奏されています。
ソリストたちはかなりオペラティックな歌い方ですし、この時代にしてはかなり大人数の弦楽器はそれほどピリオド臭くない爽やかなサウンドですが、ビオンディ自身がソロを取っているアリアのオブリガートは、さすが、という感じですね。最後に演奏される合唱(ソリストたちによる重唱)では、トロンボーンも加わって言いようのない壮大な悲しみが伝わってきます。曲の終わりがピカルディ終止になっているあたりが、未来への希望を示唆するものなのでしょうか。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-06-25 21:01 | 合唱 | Comments(0)
曲順が間違っていたこともありました
 5.6MHzDSDまで何のストレスもなく聴けるような環境が整ったので、そうなるとどんどんハイレゾの音源を聴きたくなってきます。しかし、そういう時に立ちはだかるのが、ほかならぬハイレゾ専門のダウンロードサイトだというのは、不思議な話です。それは、おそらく、そのようなサイトでは最大のシェアをもっている「〇-Onkyo」のことなのですが、ここの「商品」に対するいい加減な態度には、何度腹を立てたことでしょう。つい最近も、MERCURYのサンプラーを購入したら、その中のお目当てだった「1812年序曲」がステレオではなくモノーラルだったということがありました。それを問い合わせたら、確かに同じ曲を同じアーティストがモノで録音したというものは存在しているという答えでしたから、引き下がるしかありませんでしたが、なぜサンプラーにステレオ版があるにもかかわらずわざわざモノ版を使ったのか、という疑問には答えてもらうことはできませんでした。
 そんな時に、このレーベルのハイレゾはどのぐらい出ているのか、このサイトで調べてみたら、その「1812年」のフルアルバムが見つかりました。それはこちらなのですが、もしかしたら将来内容が変わるかのしれないので、今日現在の画像を載せておきます。
 ちょっとデータが小さくて分かりにくいので、そこだけ原寸で。
 しかし、まず、ここに載っているジャケットの画像が、前の「禁断」でしっかり紹介しておいた通り、これは「モノ」のジャケットなんですよね。それにもかかわらず、録音データは「1958年」と、「ステレオ」を録音した時の年号になっています。まずこれで、どちらかが間違っている、あるいは故意に別のものを載せた、ということが分かります。次に、この音源は視聴できるようになっているので、聴いてみました。そうしたら、これは見事に「モノ」の音源でした。ステレオの音源も持っているので、単に音場だけではなく演奏の違いまで比較したうえで、これは1954年に録音された「モノ版」だということは断言できます。もっと言えば、この演奏時間のデータも、「モノ」のものです。
 ですから、以前のサンプラーも、ここから音源を取っていたことになりますね。ですから、それが「モノ」であるのは当然のことです。つまり、「〇-Onkyo」が扱っているデータに、そもそも「ステレオ版」なんて存在していなかったんですよ。それなのに、ここにステレオ版のデータを載せているのは、紛れもない「偽装表示」です。危ないところでした。試聴音源を聴かなければ、間違ってこれを買ってしまうところでした。3,200円ですって。
 そこで、もしかしたら、私と同じようにこれをステレオだと思って間違って買う人がいないように、このサイトの問い合わせフォームで、このアルバムのクレジットを正しいものに直すことと、私が以前買ったサンプラーの返金をお願いしてあります。それを書き込んでもう1週間経ちますが、先方からの返答はまだ届いてはいません。
 つまり、いまのハイレゾ配信サイトというのは、こんなデタラメが平気で横行しているところなんですよ。仮に奴らに悪意がないとしても、この程度の商品知識しか持っていない奴が、堂々と高額商品の売り買いに関与しているのですよ。こんなところで買い物なんて、安心してできますか?ハイレゾ市場はこれからも拡大していくことでしょうが、いつまでもこんな商売を続けられているのは、不安でしょうがありません。何とか真人間になってもらって、人の道から外れない「正しい」行いに励むよう、お願いするしかないのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2016-06-24 20:56 | 禁断 | Comments(0)
KHACHATURIAN, RAUTAVAARA/Flute Concertos
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Sharon Bezaly(Fl)
Enrique Diemecke/
São Paulo Symphony Orchestra
Dima Slobodeniouk/
Lahti Symphony Orchestra
BIS/BIS-1849(hybrid SACD)




シャロン・ベザリーの最新アルバム、ただ、ここに収録されている2曲のフルート協奏曲のうち、ラウタヴァーラは2014年の録音ですが、ハチャトゥリアンの方は2010年、録音スペックがまだ24bit/44.1kHzだった時代です。
そのハチャトゥリアンは、オリジナルのヴァイオリン協奏曲をランパルがフルートのために編曲した楽譜で演奏されています。ということは、曲の出だしがフルートにとっては必ずしも得意とは言えない低音によるテーマで始まることになります。そうなると、彼女の場合はそれほど魅力が感じられない、どこにでもいるフルーティスト、という感じがしてしまいます。しかし、何しろ、どんなところでも「循環呼吸」を使って、決してブレスで音を切ることはない、という彼女ですから、細かい音符が続くところでは、まさにオリジナルのヴァイオリンさながらに、全く均等に休みなく音符を並べるという芸当が軽々と出来てしまいます。これは、ある意味感動的、これで、息を吸う音が聴こえなければ完璧なのですが。
もう1曲、フィンランドの重鎮作曲家、ラウタヴァーラのフルート協奏曲が作られたのは1973年のこと、このレーベルの創設者だったロベルト・フォン・バールと、その奥さんでフルーティストのグニラ・フォン・バールからの委嘱によるものでした。そうなんです。フォン・バールの最初の奥さんも、実はフルーティストだったのですよ。しかし、この二人は1977年に破局を迎えてしまいます。なんでも、彼女は2013年にお亡くなりになったそうです。
フォン・バールは1979年に2人目の妻を迎えますが、彼女とも2001年に離婚、翌年に3人目の妻となったのが、30歳以上年下のベザリーだったのです。つまり、一人目の妻が委嘱した作品を、彼女が亡くなった翌年に3人目の妻が録音した、ということですね。
しかし、この作品がこのレーベルに録音されたのは、これが最初ではありません。1995年にペトリ・アランコが、今回と同じラハティ交響楽団をバックに録音しているのです。

(BIS-687)

これがリリースされた時に、「Dances with the Winds」というサブタイトルが付け加えられることになりました。
さらに、タイトルそのものも、正確には「Concerto for Flutes and Orchestra」と、独奏楽器が「フルーツ」と複数表示になっています。つまり、ここではピッコロ、普通のフルート、アルト・フルート、バス・フルートという「4本」のフルートが使われているのです。果物じゃないですよ。もちろん、いくら名人でもいっぺんに4本は吹けませんから、順次持ち替えて、1本ずつ吹くことになるのですが。アランコももちろん、そういうやり方で4種類の楽器を操って、4つの楽章から成るこの作品を演奏していました。しかし、ベザリーが今回録音したのは、このオリジナル・バージョンの他に、なかなかこの4種類の楽器、特にバス・フルートは楽器も珍しく、それに習熟する機会もなかなかないということで、もっと手軽に演奏できるようにとの演奏家たちの要望に応えて作曲家がバス・フルートのパートをアルト・フルートに吹かせるようにした「改訂版」でした。正確には、第1楽章と第4楽章だけに、普通のフルートと持ち替えてバス・フルートが使われるシーンがありますから、その楽章だけが改訂されています。ピッコロだけで演奏される第2楽章と、アルト・フルートだけの第3楽章はそのままです。このアルバムでは「オリジナル版」と「改訂版」がそれぞれ全曲収録されていますが、おそらく2、3楽章は全く同じ音源が使われているのでしょう。
ですから、「改訂版」を聴く時には、その楽章はスキップしても構いません。というか、この曲ではバス・フルートがこの楽器ならではの深い音色と低音でしっとりと歌い上げる部分が最も美しいのに、それを別の楽器に替え、肝心の低音をカットして別の音に変えてしまった「改訂版」には、何の価値も見出せません。それと、アランコに比べるとベザリーのピッコロはとてもお粗末。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2016-06-23 20:30 | フルート | Comments(0)
スカイダイビングって・・・
 毎朝の食事に、果物は欠かせません。私は、季節に合わせていろいろなものを食べているのですが、最近まではそれは「甘夏」でした。なんたって、ご先祖が愛媛県の人ですから、みかん類は欠かせませんが、特に夏みかんは大好きです。そうなんですよ。「甘夏」というのは、今ではそれしか売っていないので仕方なく食べていますが、それは決して本命ではなく、できれば「甘くない」夏みかんを食べたいと思っているんですよね。
 私の小さいころには、夏場には実家からその「夏みかん」が箱で届きました。それはもう酸っぱいみかんでしたが、それがおいしくて、大きな玉を丸ごと1個は食べていましたね。ところが、最近ではそういう本物の夏みかんは、もうなくなってしまいました。最後にそういうのを食べたのはいつだったかも思い出せないほど、それは昔のことだったのでしょう。仕方なく、「こんなの、夏みかんじゃない」と思いながらも、もはや「甘夏」しかなくなったのではしかたないと、この季節には毎日のように食べているのです。
 でも、「夏みかん」という割には、この果物が出回るのは夏が始まるずっと前、本当の「夏」になってしまうともうスーパーの店頭からはなくなってしまいます。実は、私がほぼ毎日行っている近所のスーパーでは、このところ夏みかんの棚がどんどん縮小されてしまっていました。サクランボが出始めた時などは、それに追いやられて全く姿を見せなくなってしまったこともありました。でも、何とか細々とでも置いてあったので安心していたのですが、今日行ってみたら、遂にどこにもその姿を見ることができない状態になってしまっていましたよ。今年の夏みかんは、とうとう終わってしまったのです。おとといあたりはまだあったので、あれを買っておけばよかったなあ、と後悔しているところですが、いずれは別れがくるのですから、これは仕方がありません。
 親子の別れを描いた東野圭吾の小説を映画化した「天空の蜂」を、やっとWOWOWで見ることが出来ました。いや、そうじゃなかったですね。親子は別れることはなく、ちゃんと再会できるのでした。でも、小説ではそれほど重要なシーンではなかった、その「別れ→再会」のエピソードが、この映画ではまるでクライマックスのように盛り上げた作り方になっていたので、もしかしたら本当のテーマはこれだったのかな、と思ってしまっただけのことでして。
 そんな風に、あまりに原作とかけ離れた描き方が続出しているので、改めて原作を引っ張り出して読み返してみたりしていましたよ。特に、登場人物の設定が、原作ではきちんと理解できたのに、映画では全く理解不能だったのは、私の鍛錬が足らないせいなのでしょうか。と思って、何度も録画を見直してみても、やはりこれだけでは理解できません。おそらく、脚本を書いた人はこの映画を見る人は全員原作を読んでいることを前提にしているのではないかと思えるほど、それは自分勝手な脚本のように思えます。
 ですから、これはもうテーマとかプロットとかを全く無視して、ひたすらそのVFXのすごさを体験するための映画なのだと割り切って見ることにしました。その限りにおいては、これはとてもよくできた映画ですからね。最初の巨大ヘリの登場シーンなどは圧倒されました。それから、リチャード・プリンの音楽もちょっと日本人には書けないような素晴らしいスコアでしたね。まるで「ゼロ・グラビティ」でも見ているような気分にさせられました。ですから、エンディングで日本人が作ったとことんお粗末な曲とお粗末な演奏が聴こえてきたときには、心底がっかりしましたね。プロットがいい加減な分、音楽だけでもちゃんと最後まで面倒を見てよ、というような気分です。
 原作が書かれたのは1995年ですが、私がそれを文庫本で読んだのは原発事故が起こってからでした。その時に感じたこの小説に対するすごさを、この映画では決して味わうことが出来ませんでした。映画的には最後のエピソードは良く出来てはいますが、それは間違いなく原作の力を削ぐものでしかありませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2016-06-22 21:20 | 映画 | Comments(0)
Holiday in Japan
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Ricardo Santos and His Orchestra
POLYDOR/UICY-1548




別に新譜でも何でもないのですが、思いがけなく入手することが出来たアイテムということで。個人的な思い出になるのですが、かつて我が家にはこんなLPがありました。

もう現物は紛失しているので、これはネットで同じジャケットのものを探した画像ですが、タイトルは「Cherry Blossom Time in Japan」だったような気がします。父親が外国に行っていたので、その時に買ってきたPOLYDORのドイツ盤だったのでしょう。それは、「Holiday in Japan」というタイトルで、国内盤も出ていて、当時はかなりヒットしていたようですね。もちろんモノーラルでしたが、それを安物のレコードプレーヤー(SPレコードと切り替えができる回転式の圧電型カートリッジ・・・なんのことだか分からないでしょうね)で聴いていましたね。それは「リカルド・サントス楽団」という「ラテン・バンド」が、日本の曲を様々なダンス音楽にアレンジして演奏しているものでした。恐ろしいアレンジではありません(それは「オカルト・サントス」)。よくあるパターンで、日本と中国の区別が全くついていないために、いかにもな中国風の5度平行のフレーズが頻繁に出てくるのにはものすごい違和感を持ちつつも、けっこうなヘビーローテンションで聴いていましたね。結局、好き嫌いにかかわらず、そのアレンジの細かいところまで体の中に刷り込まれてしまっていたのです。
最近、これを無性に聴きたくなって検索してみたら、ちゃんとCDになっているものがAmazonで販売されていたではありませんか。さっそく取り寄せてみたら、それは2001年にリリースされていたものでした。正確には、1985年にCD化されたもののリイシューのようでした。あの懐かしい音楽を、今度はちゃんとした音で聴くことができるようになりました。
そうなんですよ。まさかと思ったのですが、おそらく1960年台に作られたこのアルバムは、しっかりステレオで録音されていたのですよ。そして、音のクォリティも、昔サファイア針で聴いていたころには想像もできなかったような素晴らしいものでした。
リカルド・サントスというのは、ドイツの放送局のビッグ・バンドの指揮者とアレンジャーを長年続けていたウェルナー・ミューラーの「芸名」でした。1954年にはラテン色の強いバンドとしての特徴を示すためにこの芸名で自分のバンドを結成して、これが世界中で大ヒット、後に本名でのバンドでもやはりヒットを放ちます。
今回のCDは、もう、どれを聴いても涙が出てくるような素晴らしい(もちろん、かつて聴いていた音に比べたら、という意味で)音とアレンジのセンスが感じられます。基本的に「ラテン・バンド」の体裁をとっていますが、そんなジャンルにこだわらずに、ありとあらゆる当時のダンス音楽の手法が盛り込まれているんですね。「花」や「浜辺の歌」などは、ほとんどマントヴァーニか、と思えるほどの「ムード・ミュージック」の王道の甘ったるいストリングスで迫りますし。そのストリングスも、「お江戸日本橋」でフレーズの最後を埋めている華麗なスケールの応酬は、まるでチャイコフスキーのようですから。もろコンチネンタル・タンゴとして編曲されている「五木の子守唄」も、そのストリングスとタンゴのリズムが見事にかみ合って、まるで最初からあったタンゴの曲のように聴こえてしまいます。もちろん、「春が来た」などではストレートなスウィングが堪能できます。面白いのは「夕やけ小やけ」。最初はのんびりしたスウィングで始まったものが、途中でいきなりロックンロールのリズムに変わって、ノリノリのサックス・ソロが登場したりしますからね。
さっきのストリングスや、ソロ楽器が、例えばピッコロとバス・クラリネットのユニゾンというように、ここではクラシカルなオーケストレーションの素養も感じられます。そういえば、こんなアルバムでは、ミューラーはベルリン・フィルのメンバーへのアレンジまで提供していましたね。

CD Artwork © Universal International
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by jurassic_oyaji | 2016-06-21 23:18 | ポップス | Comments(0)
ファゴット協奏曲でした
 先週と同じ会場の、同じ席で、2週間連続してアマチュア・オーケストラを聴く、という機会がありました。先週は〇民響、今週は〇ンフォニエッタです。同じ席で別のオケを聴いたときに、どのぐらい違っているか、という比較ですね。これは、なかなか興味のある結果が得られました。それぞれのオーケストラの個性、プレーヤーの個性というのは、本当にいろいろあることがよく分かります。
 私が座ったのは、上手のバルコニー席の前のブロックの一番後ろ、という席だったのですが、ここだとステージも客席もよく見えます。ただ、逆にステージからも私のことがよく見える、ということにもなります。先週も私がよく見えたというのを、演奏していた人に聞きましたし、今日はなんたってこのバルコニー席に座っていたのは私だけでしたから、もう目立ってしょうがありませんでした。おそらく、私のことを知っている人は、全員そこに座っていることに気が付いたに違いありません。
 私は、この演奏会を聴き終わったら、さらに行くところがありました。8月に演奏会が行われる室内オケの最初の練習です。今回の曲目はシベリウスの3番とシューマンの2番という、何ともマニアックな組み合わせです。シューマンの方はだいぶ前にニューフィルでやったことがありましたが、シベリウスは全くの初めてですから、まだまだ不安なところが残っています。それで、この演奏会が終わってから少し早目に練習会場のそばにある、いつも練習に使っているパフォーマンス広場に行ってしっかり予習をしておこうと思っていたのです。
 しかし、駐車場に車を入れた時に、はたと気づきました。今はコンクールの真っ最中なので、そのパフォーマンス広場が使えなくなっているかもしれない、ということです。この期間は、コンクールが行われるホールに付随した施設は全てコンクールの関係者に使われてしまい、普通に練習室なども借りることも出来なくなってしまうという話を聞いていましたから、それは十分にありうることです。案の定、ホールに入る前に、「パフォーマンス広場は今の時期は閉鎖されています」という看板を見つけてしまいました。気付かなかった私がバカでした。
 練習会場が使えるようになるにはまだ時間がありますし、どうやって暇をつぶそうと駐車場の車に戻ると、そこに、さっきまでステージで演奏していたメンバーがやってきました。つまり、今日本番を迎えたオケのメンバーで、室内オケと掛け持ちをしている人がたくさんいるのですよ。てっきり、彼らは打ち上げなどがあって今日は休むのだろうと思っていましたから、ちょっと意外でしたが、やはりこちらは練習回数があまりないので、できれば出ておきたかったのでしょうね。
 ですから、彼らと楽器運びなどを手伝って、時間は無駄にはなりませんでした。予想通り、彼らは全員私が座っていたことが分かっていましたね。
 今日の練習会場は、毎週ニューフィルが使っているところです。この室内オケでここを使うのは初めてのことになります。私にとっては、いつもの場所なのですが、そこに、もちろんニューフィルのメンバーもいますが、微妙に別のオケのメンバーなどが混じった編成のオケがそこにいる、というのが、なんだかとても変な感じでした。
 どちらの曲も、まず全曲を通したのですが、特にシベリウスは予想通り大変な目に遭ってしまいました。次の練習までに、迷わず指が動くようにしっかり個人練習をしておかないことには。たぶん、今までの経験だと、これをクリアするのはそんなに難しくはないような気がします。
 私はクタクタになってしまったのですが、今日本番をやってここに駆け付けた(実は、もう一つ、別のオケの本番もありました)人たちは、それどころではなかったことでしょう。お疲れ様でした。
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by jurassic_oyaji | 2016-06-19 23:25 | 禁断 | Comments(0)