おやぢの部屋2
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MCもハイレゾだとはっきり聴こえます
 先週は台風の影響で練習はお休み(正確には「自由参加」)だったので、きのうは1週間ぶりのニューフィルの練習でした。その日がお休み(正確には「自由参加」)になってしまったので、私としてはスケジュールが散々なことになってしまいました。もうきのうには間違いなく発行できるだけの準備が出来ていたのに、肝心の写真を撮ることが出来なくて、泣く泣く発行日を延期せざるを得ませんでした。ニューフィルの場合、毎週全員の合奏をやっているわけではないので、単純に1週間伸びるだけでは済まないんですよね。結局、6日に発行できたはずのものが18日まで延期されることになってしまいましたよ。実は、その次の号の予定もすでに決まっていて、それはほぼ予定通り出すので、1ヶ月も間を空けないで次が出る、ということになってしまいました。私としては、いわば「自由参加」に決まったことで「被害」を受けた、という形なのに、なぜか、「練習が始まるころには台風の心配はなくなっていたのに、休んだりする人はニューフィルに対する愛情が足りない」などと言われてしまうのですから、たまったものではありません。
 ですから、本当は先週入手できたはずのものを、1週遅れで手に入れる、ということになってしまいました。それは、この間の「真夏のアンサンブル大会」のブルーレイです。あの時にやったモーツァルトなんて、なかなか自分が演奏する映像なんて撮ってもらえる人はいないでしょうからね。もちろん、あの時には自分でもボロボロの演奏を披露してしまったな、という印象しかありませんでしたから、本当のことを言えばもうあんなものはなかったことにしたい、という気持ちの方が強いんですけどね。ほんと、第2楽章なんてあそこまでコントロールがきかなくなってしまうなんて思ってもみませんでしたから。
 ですから、家へ帰って、まさに「怖いもの見たさ」で見てみたのですが、いやあ予想通りヘコみましたねえ。あそこまでひどかったとは。もう指は回ってないしピッチはいい加減だし、ブレスだってあんなに頻繁に取っていたなんて、自分のことながら本当にいやになってしまいました。
 実は、きのうは映像だけではなく、録音もいただいていました。Nさんが最近買ったハイレゾのレコーダーで24/96で録音したデータを貸してくれたのですよ。それを今朝になって自宅のPCで聴いてみたら、なんだか映像の音ほどひどくないんですね。なぜか、すごく走っていると思っていたところも全く気にならないほどですし、何より音に伸びがあります。これはいいな、と思って、職場できちんとFoobarとDACを使って聴いてみたら、結構いいんですよ。まあ、さっきの第2楽章なんかは、ごまかしているところはよりはっきり分かりますが、出てくる音はとてもあんなに苦労しながらやっとのことで出していた音には聴こえません。やるじゃない、って思ってしまいましたね。Nさんのお蔭で、すこしヘコミが和らぎました。まあ、課題はまだまだあることだけは分かりましたけどね。
 実は、前回新聞広告で見ただけで、そんなモーツァルトのフルートよりひどい、と思ってしまったさる「音楽図鑑」を、amazonの案内で見てみたら、ページのサンプルが公開されていました。その中に、こんなイラストがありましたよ。
 これはシロフォンでしょうが、なんだか「黒鍵」の部分が少しずれてませんか?遠近法で少し歪んで見えることを差し引いても、これでは白鍵の「真上」に黒鍵があるように見えますよね。
 実物の写真はこんな感じです。これだったら、ピアノなんかと同じように白鍵の「間」に黒鍵があることがよく分かりますよね。
 ここまでいい加減なことをやっているとなると、私としてはぜひ現物を手に取って詳細に調べたくなってしまいます。そこで、とうとうこの「図鑑」を買ってしまいましたよ。そうしたら、さらに信じられないようなことがあとからあとから出てくるわ。もう、うれしくなってしまいます。まさか、こんなところでこんな素晴らしい「ネタ」が見つかるなんて。近いうちに、窓ガラスに石をぶつけられるのを覚悟で、この「図鑑」の「商品テスト」の結果を公表する予定です。
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by jurassic_oyaji | 2016-09-07 22:20 | 禁断 | Comments(2)
Christmas Songbook
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The King's Singers
SIGNUM/SIGCD459




まだまだ暑い日が続きますが、すでに「クリスマス商戦」は始まっていて、こんなクリスマスアルバムがリリースされました。その前から録音はされていて、それは今年の1月から始まっていたようです。ということは、クリスマスが終わったと思ったら、もう次の年のクリスマスの準備にかかっているということになりますね。でも、これはどんなお祭りでも見られることで、例えば仙台の七夕なども、8月にお祭りが終わると、次の年の飾り物のデザインなどを考え始めるのだそうです。青森の「ねぶた」なんかもそうですよね。
最近、この「キングズ・シンガーズ」は、急速にメンバーチェンジが進んでいるようです。本当につい最近、今年の9月初めには、26年間このグループに在籍して、これまでにアラステア・ヒューム(カウンターテナー)とサイモン・カーリントン(バリトン)が持っていた25年という記録を破ったカウンターテナーのデイヴィッド・ハーレイが、ついに引退したというニュースが伝わってきたばかりですが、これでメンバーはすべて21世紀になってから加入した人ばかりになってしまいました。しかも、2014年にはイギリス人と日本人のハーフであるジュリアン・グレゴリーがテナーのパートに新加入するという、基本的に純血主義を貫いてきたこのグループを見てきた人にとっては、うれしい反面ショッキングなメンバー交代があったばかりです。
しかし、今回引退したハーレイの後任者は、生粋のキングズカレッジ出身者、それこそ「キングズカレッジ合唱団」の最近のアルバムにも参加していたPatrick Dunachie(パトリック・ダナシー、でしょうか)というカウンターテナーなのですから、まだまだ伝統は生きていたということなのでしょう。
ということで、おそらくハーレイにとっては最後のアルバムとなったこのアルバムを楽しむことにしましょうか。グレゴリーくんのテナーがどんなものか、こういうレパートリーではソロの場面もたくさんありそうですから、きっちり聴き取ることが出来そうですし。
6人のメンバーは、左から順にカウンターテナー、テナー、バリトン、ベースと1列に並んでいるという音場でした。まず聴こえてきたとてもやわらかい声のソロは、一瞬テナーかと思うほどの明るさでしたが、やや右寄りに定位、どうやらこれはバリトンのソロのようでしたね。もう一人のバリトンの声もやはりソロで出てきますが、この二人はかなり音色が違うようです。テナーのソロは、きっちり左寄りのところから聴こえてきました。ちょっと想像していたのとは違っていて、なんとなくハスキーでそれほど張りのある声ではありません。個人的には2代目のビル・アイヴスが一番好きなのですが、ちょっとそこまでのレベルには達していない感じです。でも、まだ入りたてですから、そんなに出しゃばらないようにしているのかもしれませんね。実際、3代目のボブ・チルコットのような「邪魔になる」声ではなかったのには、一安心です。
カウンターテナーも、やはり二人の声はここでソロを並べて聴くとずいぶん違っています。しかし、どちらの人もとても立派な声なので、まだまだ引退するには惜しいような気がします。次のアルバムではダナシーくんの声が聴けるはず、どんな感じなのでしょうね。キンキンとした早口だったりして(それは「ふなっしー」)。
曲目は、それこそ「きよしこの夜」とか「ホワイト・クリスマス」さらには「サンタが街にやってくる」といったベタな曲が、何ともハイブロウな編曲で歌われているのが素敵です。さらには、「雪だるまのフロスティ」と「赤鼻のトナカイ」をマッシュアップした「リブート」などというしゃれたアレンジもありますよ。ホルストが作ったという「In the Bleak Midwinter」というのも、初めて聴きましたがいい曲ですね。
ブックレットのクレジットで「そりすべり」の作曲者がミッチェル・パリッシュというのは間違いでしょう。彼は作詞家、作曲はルロイ・アンダーソンです。

CD Artwork © Signum Records
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by jurassic_oyaji | 2016-09-06 23:23 | 合唱 | Comments(0)
「音楽はバッハから始まった」と言い切った番組ですから
 今朝の「題名のない音楽会」という、もう何十年も放送され続けていて、毎週素晴らしい演奏家が出演し、曲目も演奏も、そして構成も非の打ちどころがなく、これを見ずしてクラシック・ファンとは言えない、まさにいまどきのテレビ界には珍しい良心的な番組を見ていたら、全く音楽には関係のないことなのですが、ちょっと面白いことがありました。いえ、本当にクラシックとか音楽とかにはな~んの関係もないんですけど、曲名を読み上げたアナウンサーが、「シューマン作曲、交響曲第3番『ライン』」と言っていたんですよ。と書いても何のことか分からないでしょうが、彼女は「イン」と、普通は「ラ」にアクセントがあるはずのこの交響曲のタイトルを、「ライン」と、スマホの「ライン」のようなアクセントで発音していたのですよ。こうなると、シューマンの名曲が俄然軽薄な曲のような気がしてきますね。そんな言われ方に反発するように、指揮者はことさら重厚な演奏を心掛けていたように思えましたが。
 この日のプログラムには、この番組のスポンサーが主催する音楽コンクールの各部門での優勝者の紹介という意味がありました。そこには作曲部門というのもあるのだそうで、ここでも当然作曲家として優勝した方の作品が紹介されていました。演奏部門でしたら、その優劣を決めるのはそんなに難しいわけではないでしょうね。普通に音楽的な耳を持っている人でしたら、誰が最も優れているかは簡単に分かるはずです。でも、作曲部門というと、そんな簡単に決めることはできないのでは、と思いませんか?今まで誰も聴いたことのない曲を、おそらくまずは楽譜だけを見てどんな音楽なのかを判断し、それに「優劣」を付けるのですから、その審査員にはものすごいスキルが要求されることになります。そんな人たちが選んだ優勝作品というのは、ですから、審査員たちの審美眼こそが端的に反映されたものになってくるのでしょう。言ってみれば、この現代社会の中で「優れた」とされる音楽とはこういうものだ、と、聴く人たちに示すことになるのですからね。
 そんな選考を勝ち残ったその作品は、何とも「わかりやすい」音楽でした。技法的にはかつての「現代音楽」が持っていた刺激的なものは全く影を潜め、そのようなものが現れる以前に存在していた「伝統的」な技法のみで作られているものでした。せいぜい、その中にドビュッシーあたりの要素が混じっているあたりが「新しい」と感じられるぐらい、オーケストレーションも、それこそラヴェルの「ダフニスとクロエ」をそのままコピペしたのではないか、と思えうほどの馴染みやすさです。その結果、音楽全体はとても描写的で、具体的なイメージがはっきり浮かんでくるようなものに仕上がっていましたね。
 まあ、それはそれでこの時代の「需要」には見事に応えている作品なのでしょうが、その中にはこの曲にしか存在しない「オリジナリティ」というものがまるで見当たらなかったのですよ。これが、今の「現代音楽」の姿なのでしょうか?いや、これはあくまでもこの番組の「良心」に則って選ばれた結果なのだ、と思いたいものです。真摯に、音楽を作ることに命を懸けている人も世の中にはちゃんといるのだ、と思いたいものです。
 そんな、ちょっとおかしなことがクラシックの世界では起こるものですが、今朝の新聞広告にこんなのがあったのにも、ちょっと引いてしまいました。
 これは、見て分かる通り新しく出た「音楽図鑑」の広告です。まあ、タイトルの下にある音符のいい加減さなどは、笑って済ませられますが(それでも、これだけでそうとうにヤバいのではないか、という気にはなってしまいます)左上にある私がいつも使っている楽器のイラストには、ちょっと困ってしまいました。拡大すると、
 こんな感じ。たぶん、これは「ピッコロ」のイラストなんでしょうね。まあ、ある程度単純化して、例えば円錐状のボディーをまっすぐにするとか、ちょっと複雑なキーを簡略化して数を少なくするとか、その程度のことだったら、なにしろ「親子で学ぶ」という程度のレベルの本なのですから許しても構わないな、と思えるのですが、この楽器が左右逆になって描かれているとなると、事態は深刻です。ふつうはピッコロは右側に構えて演奏しますが、こんな楽器だったら左側に構えないと吹けないじゃないですか。「基礎からわかる」って、こんな絵を見て「基礎」を勉強されたりしたら、たまったものではありません。恥ずかしいですね。
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by jurassic_oyaji | 2016-09-04 21:45 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Die Entführung aus dem Serail
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Sally Matthews(Konstanze), Edgaras Montvidas(Belmonte)
Tobias Kehrer(Osmin), Brenden Gunnell(Pedrillo)
Mari Eriksmoen(Blonde), Franck Saurel(Selim)
David McVicar(Dir)
Robin Ticciati/
The Glyndebourne Chorus(by Jeremy Bines)
Orchestra of the Age of Enleightenment
OPUS ARTE/OA BD7204 D(BD)




2014年からユロフスキの後任としてグラインドボーン音楽祭の音楽監督を務めているティチアーティが、2015年7月19日に上演された「後宮」の指揮をした映像です。このカンパニーではモダン・オーケストラのロンドン・フィルと、ピリオド・オーケストラのエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の2団体がピットに入っていますが、バロック・オペラだけではなくこの音楽祭の看板であるモーツァルトのオペラも最近ではこのピリオド・オーケストラによって演奏されるようになっています。
映像の始まりは、開演前の客席、ドレスコードにはうるさいこの音楽祭ですから、タキシードやイブニング・ドレスに身を飾った紳士淑女がホール内をうずめています。初夏に行われた公演ですから、白いタキシードも目立ちますね。そこに、久しぶりに見る「動く」ティツアーティの登場です。なんだか恥ずかしそうにピットの隅から現れた指揮者は、とても物腰の柔らかい印象を与えてくれました。往年のマエストロのような威圧的にオーケストラと、そして音楽を支配しようとする姿は、ここからは全く見ることはできません。前に見た2006年のザルツブルク音楽祭の時にはちょっと緊張気味、その時は指揮棒をもっていましたが、今回は指揮棒はなし、とてもリラックスして軽やかな動きでした。
彼の作り出す音楽は、透明感があふれ、オーケストラの各パートの「歌」がまさに透けて見えるような心地よいものです。演出の方では「トルコ」という場所を強調していたようですが、音楽ではよくあるような「異国趣味」を変に強調するような見え透いたことはせずに、あくまでモーツァルトを前面に出し、その中にほんの少し「異国のテイスト」を持ち込むというクレバーなスタンスを取っていたのではないでしょうか。打楽器群がアホみたいに騒ぎ立てるようなことはしないで、ピッコロあたりのほんのちょっとしたトリルだけでシーンを飾るというようなスマートさですね。
デイヴィッド・マクヴィガーの演出は、デザイナーのヴィッキー・モーティマーとともにとてもリアリティにあふれたステージを作り上げていました。最近の「読み替え」の演出に慣れた目には、この、とことんトルコの後宮の現物に迫ろうというマニアックなほどにリアルで高級感あふれるセットには驚かされます。
そこでは、普段はカットされたり改変されたりしているセリフを、かなりオリジナル通りに使っているのだそうです。ですから、この前のCDでちょっとご紹介した、第3幕の最初だけに登場する「クラース」という人の姿をここでは実際に見ることができるようになっています。楽譜には一応「船乗り」という肩書でセリフ役としてこの名前があるのですが、彼が出てくるのは第3幕の第1場だけ、それも、いったいどこから現れたのか、という正体不明の人物なので、たいていの上演ではこの部分がカットされてしまうという情けないロールです。演出家のマクヴィガーは、きちんとその人を紹介するために、オープニングから登場させています。普通はベルモンテだけが登場するこのシーンに彼もいて、ベルモンテの世話を焼いているのですね。おそらくここまで彼を運んできた船の関係者なのでしょう。
もう一人、これは楽譜にもなく、もちろんセリフも全くないのですが、常にどこかに登場していて、それをカメラがとても意味ありげにアップで撮っている人がいるのですよ。セリムの側近という感じの女性でしょうか。これも、おそらく、最後のどんでん返しのあまりの唐突さを解消するための役割を持たせているのでしょうね。このように、あまりにリアリティを追求しすぎると、却って煩わしいことになってしまう、ということがよく分かる演出でした。
それにしても、オスミンだけがやたらファッショナブルなのは、なぜなのでしょう。

BD Artwork © Royal Opera House Enterprises Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2016-09-03 20:41 | オペラ | Comments(0)
昼ごはんはとんかつでした
 もう9月になってしまいましたね。8月は何ともあわただしい日々が続いていたものですから、本当に過ぎ去るのが早かったような気がします。その最後の週末に行ってきたのが千葉県でしたが、そこからの帰り道、新幹線に乗るために戻ってきた東京駅で少し時間があったので、一旦駅を出て近くのデパートの12階にあるレストランで、少し贅沢な一人ディナーを楽しんでみようと思いました。やはり肉系が食べたかったので、フロアの中を回ってみたら、今までここに入っているとは思っていなかったハンバーグレストランが見つかりました。結構外で待っている人がいたのですが、時間はたっぷりあったので待つことにしましょう。
 そうしたら、どんどん列は少なくなって、あとは私の前には4人連れだけ、となったとなった時に、店員さんが出てきてその人たちに「もう少々お待ちいただければ、お呼びできます」と声をかけていました。もうすぐだな、と思ったら、彼はそのまま私の前に来て、「お一人様の席が空きましたので、お先にどうぞ」ですって。一人だとこういうこともあるんですね。ラッキー。
 連れて行かれた席は、なんと東京駅を見下ろす窓際でした。12階からの眺めですからまさに絶景ですね。ただ、そこは2人連ればかり、私の席のまわりは男女のペアが仲よさそうに、というか、はっきり言ってイチャイチャしてましたね。「ハンバーグ、おいしいわね!」とか言ってますよ。いいんです、私はそんなおいしいハンバーグを食べに来ただけなんですから。
 と、その窓の下に広がる東京駅の、リニューアルされた駅舎を見てみると、真ん中の中央口の屋根の、正面から見ると陰になる部分がガラス窓のようなものになっていることが分かりました。こんな風になっているなんて、どんな写真を見ても分からないことなんじゃないでしょうか。そこで、これをぜひ写真に撮りたいものだ、と、iPhoneを向けたのですが、さっきまではまだ明るかったのできれいに見えたものが、もう日も落ちてもろにガラス窓にこちら側が反射しています。
 こんな感じ、でも、わかるでしょ?いつの間にか左の隣にいたアベック(死語)がいなくなって、やはり私みたいな一人ディナーを、ちょっと下品な食べ方で敢行しているおじさんがいたので、その姿がほんと、ジャマですね。
 このレストラン、注文を取りに来たウエイターさんが「ソーセージがおいしくできました」と言ってました。確かにここのソーセージはおいしくて、それがさらにおいしくなっていたのなら、と、少しそそられましたが、最近は塩分も控えめにしたいので、せっかくのお誘いもお断りして普通のハンバーグにしました。あとで気が付いたのですが、このお店では、どのウエイターさんも、すべてのお客さんに対してこのセリフを発していたのですね。たぶん、毎日同じことを言っているのでしょう。
 9月になって、ニューフィルの練習会場の抽選結果の発表があるので見てみたら、なんと、希望していた会場がすべて取れていましたよ。まあ、その月はパート練習などは入らないので、普通の大きな会場だけだったのですが、新しいスタッフがこの仕事を始めて、こんな風に一発で決まってしまうのは初めてです。勢いに乗って、12月初めの角田第9までの予定表を、全部作ってしまいましたよ。「第9」ですよ。もう、今年も終わってしまいますね。
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by jurassic_oyaji | 2016-09-02 21:51 | 禁断 | Comments(0)
明治のワーグナー・ブーム/近代日本の音楽移転
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竹中亨著
中央公論新社刊(中公叢書)
ISBN978-4-12-004841-8




学生の男声合唱団として有名なところは、西では「関学グリー」、東では「早稲田グリー」と「慶應ワグネル」と昔から相場が決まっていました。ただ「グリー」というのは「グリークラブ」の略で合唱団というのは分かりますが、「ワグネル」とは一体何なのだ、という疑問はずっと抱いていました。この学校には、合唱団だけではなくオーケストラもやはり「慶應ワグネル」というタイトルが付けられています。フルネームは「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ」なのだそうです。合唱団は「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・男声合唱団」。
おそらく、これはかなり昔に命名されたもののはずですから、ワグネル=ワーグナーという連想は出来ました。でも、確かにあのリヒャルト・ワーグナーは大作曲家でそれなりの人気は誇っていますが、そんな、大学のサークルの名前になるほどの「人気」なんてあるものなのでしょうか。オーケストラはともかく、男声合唱でワーグナーといったら、せいぜい「タンホイザー」や「オランダ人」の合唱ぐらいですから、レパートリーとしてはかなりのマイナーどころ、多田武彦あたりを差し置いてそんな名前を付けるなんて。
ですから、まずこの本のタイトルを見た時には驚きました。明治時代に「ワーグナー・ブーム」があったというのですからね。きちんと中を読んでみると、そのブームに乗って大学の中に作られたサークルが「ワグネル・ソサィエティー」だ、というのですよ。なんでも、それが創設されたのが1901年だとか、そんな時代にワーグナーがもてはやされたことがあったなんて全然知りませんでした。
それが、実際はどのようなものだったのかは、この本で詳しく紹介されています。それを読んでまたびっくり。そのようなブーム、いやムーブメント、火付け役だった人物こそ実際にドイツにいた時にワーグナーの楽劇を体験していたのですが、その人が書いた論文を読んで「ワーグナー・ブーム」を作り上げた他の人々(錚々たる名前が並んでいます)は、ワーグナーの「音楽」なんかはほとんど聴いたことがなかったのですね。彼らが心酔したのは、ワーグナーの「音楽」ではなく「思想」だったのです。
実は、著者の本当の目的は、別にワーグナーに関しての熱狂ぶりを詳述することではなく、そんな、音楽を聴くことなく「作曲家」であるワーグナーを祀り上げる「ブーム」が巻き起こってしまうことが出来たというほどいびつだった、日本における「洋楽」の導入に際しての人々の思考経路をつぶさに描くことだったのです。そして、重要なことは、著者自身は音楽に関する知識や体験がほぼ皆無だ、ということです。つまり、言ってみれば「門外漢」の語る「音楽史」なわけですから、へたな主観が介在しないだけ、説得力のある「事実」が描かれることになるはずです。そして、その試みは間違いなく成功を収めています。
それは、もしかしたら今までの「音楽家」がこのあたりの歴史を語る時に、意図的に無視したのではないか、と思えるような事柄も、ここではあからさまに述べられているのではないか、ということです。いや、単に個人的に勉強不足だというだけのことなのかもしれませんが、いずれにしてもこれまで描いていた明治期の洋楽導入のイメージがかなり変えられてしまうだけのものは、この本には潜んでいました。
その最たるものは、そのような音楽の導入の最初期に、教育的な目的で量産された、いわゆる「唱歌」に関する言及です。今では、それこそ「日本人の心のふるさと」みたいな評価すらされているこれらの曲は、ほとんどが国威発揚の目的で作られていたのですね。あまりにあからさまな歌詞は後に修正されることもありましたが、初期の目的が変わることはありません。甘い郷愁になんか浸っている場合ではなかったのかもしれませんね。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2016-09-01 20:32 | 書籍 | Comments(0)