おやぢの部屋2
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「運命」をオケと共演するんですって
 きのうニューフィルの練習に行く前に持ち物をチェックしていたら、なんだかあるはずのものが見当たりませんでした。それは濃紺のトートバッグ。ヴィオラのNさんから頂いた薬屋さんのノベルティなんですが、いつも「かいほうげん」を持っていくときに重宝しています。100部入れていくのにちょうどいい大きさなんですよね。それで、先週は発行日だったのでそれに入れて持って行って、帰りには展示していたチラシなどでもう必要がなくなったものとか、少したまりすぎた「かいほうげん」のバックナンバーなどを入れて持ってきた、つもりでした。ここにないということは、練習場に忘れてきたのでしょうか。確かに、何も残っていないことを確認したはずですが、見落としたのでしょうかね。あるいは自宅にまだ置いてあるとか。
 もし、会場に忘れていたのであれば、メンバーで最後に出た人の目につくはずですし、そうでなくてもいずれは係員の人が見つけて受付に持っていくでしょうから、それは大丈夫でしょう。だいぶ前に、そうやって忘れ物が返ってきたことがありますから。でも、きのうの練習では、誰からも忘れ物の話はありませんでした。帰ってきて自宅を見ても、やっぱりありません。まあ、中身はいずれ資源ゴミで出そうと思っていたものですから、別になくなっても構わないんですけどね。でも、本当に忘れたのかどうかが分からないのは、ちょっと気になります。
 気分を変えて、今度新しい車が届いたら、今の車は引き取ってもらわなければいけないので、今のうちにトランクの掃除でもやっておこうと思いました。11年間、まともに片づけたことはありませんでしたからね。そこでトランクを開けてみたら、そこに、探していたトートバッグがちょこんと置いてあったではありませんか。やっぱり、ちゃんと持ってきてたのですね。それにしても、練習の荷物はバックシートにしか置かないのに、なんでこんなところにあるのでしょう。それがちょっと気にはなりますが、これでこの問題は解決しました。よかったですね。
 おそらく、年中そんなことで悩んでばかりいるようなお年寄りばかりのアマチュア・オーケストラを舞台にした小説が「オケ老人!」でしたね。映画にもなりました。その映画化にちなんでなのでしょうか、それの「スピンオフ」のような本が出ていたことに、この間東京へ行く前に寄った改札の中の本屋さんで気づかされました。
 今度は、クラシックからガラリと変わって「ヘビメタ」ですって。まあ、あの作者だったら面白いのではないかと、それを買って、往復の新幹線の中で読もうと思いました。読み始めたら、期待以上の面白さ、仙台に帰ってきた時には読み終えていましたね。同じ音楽でも、こちらは「ヘビメタ」のバンドが主人公、この作者はこういう方面にも詳しいようですね。というか、クラシックの演奏家でこんな「ヘビメタ」とか「プログレ」が好きな人って、結構いるんじゃないでしょうか。私も、それほど詳しくはありませんが、この本に出てくるような「ヘビメタ」のアーティストの名前は全部知ってますし、かなり馴染みの曲も登場するので、そういう意味での違和感は全くありませんでした。
 このお話は、4人組のバンドのそれぞれのメンバーの「普段の」姿を描いていくものです。かつては盛り上がっていた「ヘビメタ」も、今では人気は完全に落ちている、というのが大前提。ちょっとさびしいことですが、それは本当のことなのでしょう。ですから、そんな、今ではマイナーになってしまった音楽に熱中できる「中年」ということで、一抹の哀愁感がバックに流れていることになります。しかし、この作者は、メンバーの声を通して、まだまだ熱くなれるこの音楽の魅力を語っているようにも思えます。
 そんな彼らがたまたま関わったそれぞれの「事件」について、ちょっと謎めいた物語が始まります。最初のうちは、それだけのほんのりしたお話なのかな、と思っていると、やがてそれぞれのメンバーの話がきちんと関連性を持つようになってきます。そして、楽しいことには、「梅響」のメンバーまでもさりげなく登場して、物語の重要な役を担ったりしているのですね。
 それだけでも十分に面白い本だとは思いました。でも、この作者ならそれだけで終わるわけはない、とずっと思いながら読んでいくと、最後に来て、やはりとんでもないどんでん返しが待っていました。予想はしていても、これはあまりにハマりすぎで、涙さえ湧いてきましたよ。これも、今度はきちんとこのプロット通りに映画化されるといいな、と思いましたね。「5人組」のヘビメタ・バンドを、ぜひ実際に見てみたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2016-11-30 21:50 | 禁断 | Comments(0)
STRAUSS/Eine Alpensinfonie, Tod und Verklärung
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Mariss Jansons/
Syphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR/900148




きのうまで来日していて、西宮、名古屋、川崎、そして東京(2日間)でコンサートを行っていたヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団の、最も新しいCDです。シュトラウスの「アルプス交響曲」と「死と変容」のカップリングですが、「アルプス交響曲」は先月のミュンヘンでのコンサートのライブ録音ですから、それこそ、あのウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」並みのスピードでのリリースですね。店頭に並ぶのは12月になってからになってしまうのですが、たまたまおとといのサントリーホールでのコンサート(曲はマーラーの9番)に行ったら、そこで先行発売されていました。
何しろ、生でこのオーケストラの圧倒的なサウンドを体験してしまった直後ですから、はたしてCDで同じような体験が味わえるのかが、とても心配でした。しかし、ガスタイクで録音された「アルプス交響曲」は、しっかりとまだ耳に残っているあのサウンドを届けてくれていました。もちろんCDですから限界はあります。たとえば、弦楽器の瑞々しさなどは、聴きはじめたあたりでは「なかなかやるじゃん」とは思ってみても、長く聴いているとやっぱりCDの音だな、という気にはなってきます。でも、それはほんのちょっと頭の中で修正を加えれば、コンサートで聴いた音とほぼ同等なものに変わります。
一方の管楽器や打楽器は、マイクのセッティングのせいでしょうか、ひょっとしたらコンサートよりも明晰な音が聴こえていたかもしれません。
サントリーホールでこのオーケストラを聴いた時に気が付いたのが、ティンパニの何とも言えぬ存在感です。それは、単にアクセントを付けるだけではなく、他の楽器が音を伸ばしている間でもその和音の中にピッタリはまりこんで、まるでオルガンの低音のような持続音としての役割まで担うという、打楽器とは思えないような不思議な雰囲気を醸し出していたのです。
そんな印象が、この「アルプス交響曲」からも伝わってきました。言ってみれば「物静かなティンパニ」といった佇まいでしょうか。これはとても魅力的なことだったのですが、さらにすごいのは、本来の「リズム楽器」という特性もきっちりと主張していた、ということです。この曲では何度も何度もオーケストラ全体がクライマックスを迎える場面が登場します。そこでのティンパニは、その盛り上がりを支えると同時に、そのエクスタシーがたどり着く頂点を明確に知らしめる役割も持っていました。そして、特にライブでは興に任せるあまりその頂点がいくらか鈍くなりがちなのですが、このティンパニだけは冷静に、まさにあるべきポイントで正確にパルスを入れていたのです。
「死と変容」は2014年の録音。これは会場がヘルクレス・ザールですし、エンジニアも別の人なので、なんともインパクトに欠ける録音になっていました。弦楽器の音などはしょぼすぎます。
リリースを急いだせいでしょうか、CD制作時のミスが結構見られます。まず、トラックナンバーの表記が間違っています。ブックレットでは「18 Gewitter und Sturm, Abstieg」とありますが、これは「19」の間違い、

そして、ジャケット裏では「死と変容」のトラックが「22」となっていますが、これも「23」の間違いです。

さらに、これはライブとは言っても複数のテイクをつなぎ合わせているので、正しくはトラック「19」の3分12秒付近で、つなげた際のクロスフェードがうまく行かなかった跡がはっきり分かります。
トラックナンバーの件をFacebookページ経由で代理店に教えてあげたら、それなりの措置を講じるようなコメントが返ってきましたが、以前こんなひどい対応に終始した代理店ですから、どうなることやら。そこが作った帯では「死と変容」の録音会場がこんなことなっていましたし。

発売前に「フライングゲット」出来たのはうれしいのですが、代理店にとっては泣きたくなるような結末でしたね(それは「クライングゲット」)。


CD Artwork © BRmedia Service GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-11-29 23:29 | オーケストラ | Comments(0)
コートはクロークに預けましょう
 きのうの禁断、ブログ版のタイトルには説明が必要でしたね。バイエルン放送交響楽団のコンサートは、マーラーの交響曲第9番のみという「一曲プロ」でしたから、当たり前の話ですが、途中に休憩は入りません。ですから、開演前のアナウンスでは何度も「この演奏会には休憩がございません」と繰り返していました。アナウンスの情報はそれだけのことですが、その中には「お年寄りの方は、前もってトイレに行っておいて下さい」という意味が込められているのは明白です。映画館ではないのですから途中で席を立ってトイレに行く、などということは許されませんからね。ですから、それを聞いてみんなトイレに殺到していたんですね。それが、男子の場合は外にまではみ出て列ができるなんてことはまずないのに、それがロビーいっぱいに伸びていたのが、ちょっと珍しいことでした。
 ただ、そんな列が目に入ったのは2階のロビーだけ、あとで座席表を見てみたら、このホールは2階席の方が席数が多いのですね。ですから、プログラムを買う列も、2階ではものすごく長かったものが、1階ではほとんど並んでいる人なんかいませんでした(だから、その人にCD即売のことも尋ねることができたわけで)。
 演奏が始まるころになると、座席はほとんど埋まってきましたが、いくらかは空席がありました。やはり、人身事故の影響で電車が止まって開演時間に間に合わなかった人がいたのでしょうか。この都会ではそんな事故は毎日起こっていますからね。実は、私が座った席の隣も、空席でした。でも、そこには黒いコートが置いてあったので、ロビーに出ているのかな、と思っていました。ところが、演奏が始まってもそこには誰も戻っては来ませんでしたよ。コートだけ置いてロビーに出たものの、それこそ私みたいに1階への入り口が分からなくなってしまって締め出されてしまったのでしょうか。
 結局、その席には最後まで誰も座ることはありませんでした。演奏が静かに終わり、一旦静まり返った客席が、ヤンソンスが腕を下すと同時に盛大な拍手で満たされます。まだ開演してから1時間半しか経っていませんが、当然アンコールはないでしょう。ですから、あとは思う存分拍手を送り続けるだけです。と、正面、ステージの裏側のP席の人が、結構大人数で動き出しました。こんな素晴らしい余韻も楽しまないで、もう帰ろうというのでしょうか。しかし、彼らはその階の扉から外、つまり2階のロビーに出るのではなく、私が迷った唯一の1階への通路めがけて走っていくようです。案の定、しばらくしたら1階席の入り口から、その人たちが入ってきました。ということは、これは「一般参賀」のための準備なのでしょうか。
 ご存知でしょうが、「一般参賀」というのは、こんな風にオケのメンバーがみんなはけたあとに、指揮者だけ呼び戻されて観客の拍手を浴びるという「儀式」です(この写真は本文とは無関係)。私は、大昔、カール・ベームとウィーン・フィルをNHKホールで聴いたときにこれを体験しました。座っている人も、わざわざ前に出てくるんですよね。でも、それ以来一度も遭遇する機会がありませんでした。もちろん、ニューフィルのコンサートでそんなことが起こったことなんか、一度もありませんでしたからね。それを見届けてから帰りたかったのですが、ここに来た時にクロークがあまりに広かったので、せっかくだからとコートを預けてしまいました。私は少し早く着いたのですぐ預かってもらえましたが、そのあとはものすごい人が押し寄せていたようなので、帰りはすぐに受け取れるように、ちょっと早めに出たかったのですよね。
 そこで、オケが引っ込むタイミングで席を立って、まずコートを受け取り(一番乗りでした)、また引き返して外から様子を見ていると、どうやら「一般参賀」は行われなかったようですね。
 さっきの、私の隣の席のことですが、演奏が終わると、その向こう側に座っていた高齢の女性が、そのコートを取り上げて着始めたではありませんか。別に黒だからと言って、男物とは限らなかったのですね。というか、そうやって堂々とコートを置いていたということは、彼女はそこが空席であることを知っていたのだ、ということになりますね。その理由はただ一つ、本当はご主人と一緒にコンサートに行くつもりでチケットを2枚買ったのですが、普段から病弱だったご主人は、この不順な天候でとうとうお亡くなりになってしまったんですね。ですから、奥さんはせめて好きだったマーラーをご主人にも聴いてもらおうと、遺影を空席の上に置いて、一緒に聴いていたのでしょう・・・・なわけはないですね。ただ風邪をひいただけなのでしょう。そこには遺影なんてありませんでしたから。
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by jurassic_oyaji | 2016-11-28 21:40 | 禁断 | Comments(0)
開演前は男子トイレも長蛇の列
 4日間JR東日本管内の列車に乗り放題で指定券も6枚までは取れる、という大人の休日倶楽部パスは、私はだいぶ前から利用させてもらっていますが、最近ではその利用者の数が相当なものにまで増えていることに実感されるようになっています。この週末、それを使おうとしたら、以前は指定席はごく普通に取れていたものが、全然取れなくなっていたのですからね。一応土曜日は愚妻と横浜、日曜日は私だけ東京ということで1週間前に買ったら、すでに乗りたかったノンストップの特急は軒並み満員、各駅停車は絶対嫌だというので、かなり不自由な時間になってしまいました。日曜日などは、マチネのコンサートに行くので、終わってすぐ帰ろうとしても、ノンストップは4時台、5時台、6時台とも、全くありません。かろうじて7時台だけ1本。2日前に見たら、各駅停車は5時台が1席だけ(それは、確かに私が取った直後に満席になりました)になっていましたよ。実際、帰りはもっと早く帰りたかったので各駅停車の自由席も狙ってみたのですが、これも東京発の時点でもう完全に定員オーバーでしたからね(諸般の事情で、私は上野から乗りました)。JRは、このパスの会員を増やすのには熱心ですが、それにきちんとしたサービスが追いつかないようになっているのでは、ほとんど「詐欺」ですよ。
 土曜日の横浜は、来年の4月に劇団四季が「オペラ座の怪人」をやるというので、そのチケットはもう取ってあったのですが、公演があるホールにはまだ行ったことがないので、下調べです。山下公園のそばなんですね。
 ここに行くのにみなとみらい線を使ったのですが、その深さが異常でしたね。地図を見たら海の下を通っているのでそれは納得ですけど、地上に出てくるまでの道のりがえらいことになっていました。帰り道は中華街から元町を通って石川町からJRに乗ろうとしたら、なんと、人身事故があったために運行停止ですって。いつ復旧するかわからないので、結局またみなとみらい線のの元町・中華街まで戻ったんですけどね。こんなことがあるから、都会は嫌です。
 日曜日も使わないと元が取れないので、なにかコンサートでもないかな、と調べてみたら、サントリーホールでヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団、曲目はマーラーの9番などという、とんでもないものがありました。よくチケットが残っていたな、と思ってゲットしたら、これも最後の1枚だったようですね。まあ、値段は法外ですが、私にとってのサントリー・デビューですから、やはりこのぐらいのものでないと。
 もちろん、このホール自体は、実際に行ったことがありますが、それはステージ(正確にはP席)に乗ったものでしたから、客席に座ってオーケストラを聴くのはこれが初めてなんですよ。このホール、出来てから30年も経っているのだそうですが、そんなになるまで来ることが出来なかったのが、逆に不思議なんですけどね。
 ですから、まずは館内の探検です。席は1階だったのですが、まず2階席からの眺めを見てみようと思って、どこかに階段がないかと探したら、それがありません。このホールは、入り口を入ったところが大きなホワイエになっていて、その先のモギリの時点で、1階と2階が振り分けられるようになっていたのですよ。ですから、中に入ってしまうと、客席の外から別の階に移動することはできないのです。不思議な設計ですね。ただ、左右それぞれ1ヵ所だけ、客席への通路が分かれていて、それが2階につながっている、というところがあるんですね。そこを見つけて、やっと2階に行けました。懐かしいP席にも行ってみました。
 ところが、そのあと1階席に戻ろうとしたら、どこから来たのか分からなくなってしまいましたよ。このままだと、演奏が始まっても席にたどり着けなくなる、と、マジで焦ってしまいましたね。結局、冷静に考えたら帰ってこれましたが、方向音痴の人なんか、どうするのでしょうね。
 それと、CDの即売も行われるという情報があったので、それも探したのですが、プログラムは売っていても、CD売り場はどこにもありません。仕方なく、そのプログラムの売り子さんに聞いてみたら、モギリの外だと分かりました。ですから、チケットを見せて一旦外に出て、やっと見つかりました。代理店の人らしきおじさんが満面に笑みをたたえて「録音されたばかりの新盤ですよ」なんて耳元でささやくので、まだここでしか入手できないらしい最新盤をフラゲすることになって大収穫。でも、これもほんとに不思議ですよね。というか、今まで数多くのホールに行ってきましたが、こんなところで即売をするようなホールは、初めてのことです。これは、完全な設計ミスなのではないでしょうか。
 そんないい加減な設計のホールですが、音響に関してはもう何もいうことはありません。ずっと、こんな音が聴きたかったのですよね。それぞれの楽器の音がきちんと聴こえる上に、オーケストラ全体の質感がそのままつたわってくる、という、あたりまえのことが、例えば仙台の青年文化センターでは全くできていませんでした。サントリーホールの音を聴いてしまうと、この仙台のホールの音響設計は欠陥品以外のなにものでもないと思えてしまいます。
 そして、このオーケストラ。もう、終楽章の最後の弦楽器のピアニシモなんて、涙が出てくるほどの素晴らしさです。あとは、トゥッティになった時の質感が、やはり日本のオーケストラとは全くの別物だと感じてしまいます。音自体の綺麗さからいったら日本のほうが整ってはいるのでしょうが、そこに得も言われぬ「隠し味」が含まれないことには、到底太刀打ちは出来ません。
 マーラーの9番って、やったことがあるんですよね。でも、こんなにも深く、心を打つ音楽だったことには、初めて気づかされたような気がします。
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by jurassic_oyaji | 2016-11-27 22:56 | 映画 | Comments(0)
RUTTER/Requiem, Visions
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Alice Halstead(Sop)
Kerson Leong(Vn)
John Rutter/
The Cambridge Singers, The Temple Church Boy's Choir
Aurora Orchestra
COLLEGIUM/COLCD 139




ジョン・ラッターの「レクイエム」は、特定の団体などから委嘱を受けて作られたものではなく、亡くなった彼の父のために、自発的に作曲したものです。1985年に作られた曲のうち1,2,4,7曲目は3月14日にサクラメントで、全7曲は10月13日にダラスで、アメリカのそれぞれの街の教会の演奏家と作曲家の指揮によって初演されました。ただ、6曲目の「The Lord is my shepherd」は1976年に作ってあった独立した詩編を、そのまま流用したものです。ですから、こちらで彼の「Psalmfest」を取り上げた時に「『詩編23(The Lord is my shepherd)』は、1985年に作られた彼の「レクイエム」のための曲です」と書いたのは、正確さに欠けていました。「Psalmfest」は2度目の「使いまわし」だったのですね。
それが最初に録音されたのは、翌1986年、やはりラッター自身の指揮でケンブリッジ・シンガーズの演奏です。そして、こちらにあるように、その後4種類の演奏によるCDがリリースされることになるのですが、初録音から30年経った2016年の7月に、ラッターは同じ合唱団と新たな録音を行いました。それに関して、彼はブックレットでこう書いています。
確かに、最初の録音はその時点では新しい作品の価値を広く知ってもらうためには役に立っていた。しかし、本当のことを言わせてもらえば、それはそろそろ古臭くなり始めている。この30年間のデジタル技術の進歩によって、新しいハイレゾのフォーマットによる録音が求められているのだ。それと、最初の録音のころにはまだほとんどの人が生まれてもいなかった今のケンブリッジ・シンガーズのメンバーに、今ではすっかり知られるようになったこの合唱作品に対してどのように接することが出来るかを確かめる機会を与えることにも、興味がある。

1つ目の理由は、レコーディング・エンジニアとしても活躍しているラッターの切実な思いなのかもしれませんね。そんなところも含めて、その2つの録音を聴き比べてみました。まず、確かに音が劇的に変わっています。別に新しいから良い録音になる、というものでは決してないのですが、最初に録音が行われた1986年あたりは、まだデジタル録音に切り替わりはじめていた頃ですから、当然フォーマットは16bit/44.1kHzぐらいのものでしょう。そうなると、最終的にはそのCDのフォーマットになってしまうとしても、やはり今のハイレゾ録音に比べると明らかに見劣りしてしまうものになっていました。特に弦楽器の音がとても安っぽくて、それだけでラッターのオーケストレーションまで安っぽいものに聴こえてしまっています。それが、この新録音では見違えるほどに柔らかくふくらみのある音が聴けますから、音楽そのものまでが全然別の、もっと格調のあるものに感じられてくるのですよ。
そして、演奏も全然違います。前回はかなり淡々と譜面を音にしている感じだったものが、ここではより深い表現で確かな訴えかけが感じられます。ラッターは、30年かけて積み上げられてきたこの作品の演奏史を、見事にこの録音に盛り込んでいて、まるで次元の違う世界を見せてくれていたのです。1つの作品が、長い時間をかけて録音と演奏の両面で成長している様を、ここではまざまざと見せつけられた思いです。
もう1点、ソプラノ・ソロのアリス・ハルステッドのすばらしいこと。聖歌隊出身で、「レ・ミゼラブル」や「イントゥー・ザ・ウッド」などのミュージカルにも出演していたこともある彼女のピュアな歌声は、完璧です。
カップリングは、この録音の3ヶ月前に世界初演が行われた「ヴィジョンズ」を、初演のメンバーによって録音したもの。ハープの入った弦楽オーケストラをバックに、ヴァイオリンのソロと聖歌隊の少年合唱が活躍する曲ですが、これも30年後にはもっと完成度の高いものになっていることでしょう。
ちょっとうれしいのは、日本語の帯がこうなっていること。

やっぱり、この方がなじみます。やったー
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by jurassic_oyaji | 2016-11-26 22:05 | 合唱 | Comments(0)
作曲家の没年を間違えていたCDもありました
 この間練習に行った時に、メンバーが配っていたチラシです。これは、毎年行っている、ニューフィルやそのほかのアマオケのメンバーが集まって開いているコンサートの案内です。私が参加している「杜の都合」とよく似たスタイルの室内オケですが、全くの別物です。いつも指揮者が自らデザインして凝ったチラシを作っているのですが、これもなんだか不思議なデザイン。でも、なんとか「ハイドン」という文字は分かりますね。ただ、その文字を近くで見るとなんだかインクのムラがあるのが気になります。プリンターの調子が悪かったのでしょうか。まさか、手で彩色した文字を取り込んだわけではないでしょうね。でも、彼のことですから、なにかきちんとした意味があったのかもしれません。
 これを、ニューフィルの公式サイトの演奏会案内からリンクさせるようにスキャナーで取り込んでいると、普通の設定ではコントラストが強すぎて、肝心の曲目の文字がよく見えなくなっていました。それではまずいので、ちょっと明るめにしてみると・・・
 どうでしょう。なんか人の顔のようなものが浮かんでいるような気がしませんか?これは、どうやらハイドンさんの顔のようですね。やってくれました。
 でも、こんなに明るくすると、他の文字は完全に薄くなって、読めなくなってしまいますよ。そこまでして伝えたいメッセージだなんて、さすがはEさんですね。
 ついでに、「杜の都合」の方もお見せしましょう。こちらは直球勝負のチラシですから、何もしなくても情報はきっちり伝わってきますね。
 こういうチラシは、サイトで宣伝するだけではなく、もちろん「かいほうげん」にも掲載します。最新号は火曜日に発行されたのですが、それにはさっきのは間に合わなかったので、こちらだけが載りました。「ハイドン」は次号ですね。その時には、上のように2タイプ並べて掲載しましょうかね。
 ところが、その最新号にとんでもない間違いがあったことが、それをみんなに配った直後に分かってしまいました。私が連載している(というか、ただサイトの記事を転載しているだけですが)CD紹介で、ベートーヴェンの交響曲ツィクルスのBDがあったのですが、その中の「9番」について、ある楽器のフレーズがベーレンライター版でしか出てこない形だ、と書いてありました。ところが、練習でその「9番」が始まって、その部分が始まったら、私は全く別のところと勘違いしていて、それをあちらに書いてしまったことに気が付いたのですよ。おそらく、あれを手にとって読んで、そのことに気が付いた人はまずいないのではないか、という気はするのですが、私自身は冷や汗ものですよ。念のため、サイトの方はちゃんと直して「証拠隠滅」を図りましたから、大丈夫でしょう。いや、逆に、そこに気が付いてサイトと見比べて、こっちの捏造に気が付いてしまうかもしれませんね。さあ、果たして、私が取ったのは最善の策だったのでしょうか。
 この「かいほうげん」は、そのままPDFにして、サイトからリンクするようにしています。その作業を最近は怠っているな、と思って確かめたら、もう3号分サボっていたことが分かって、あわてて作ったところです。その時にも、前の号でやはり豪快な間違いを犯していたことに気が付いてしまいましたね。しばらく経って見直すとすぐわかるのに、どうしてできたばかりの時には気が付かなかったのでしょうね。でも、最近聴いたCDのブックレットでも、明らかに間違いだろうな、というところがあったので、仕方がないものなのかもしれません。そこには、新しく作られたさるオーケストラ付きの大きな合唱曲が、「楽譜が出版されてから半年の間に、アメリカ国内だけで500回のオーケストラコンサートが開かれた」とあるんですよね。それは英語ですが、ドイツ語に訳したものも同じことが書いてありましたから、翻訳ミスではないようです。どう考えてもそれは無理だ、と思うのですがね、どうでしょう?
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by jurassic_oyaji | 2016-11-25 21:17 | 禁断 | Comments(0)
FEMINA MODERNA
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Maria Goundorina/
Allmännna Sången
BIS/SACD-2224(hybrid SACD)




前回は「女性作曲家によるフルート音楽」でしたが、今回は「女性作曲家による合唱作品」というアルバムです。タイトルが「フェミナ・モデルナ」という気取ったラテン語ですが、意味は「現代の女性」というシンプルなものです。別に犬に追いかけられていたら、前に犬の糞があったわけではありません(それは「踏むな、戻るな」)。さらに、「現代の女性」とは言っても、男性顔負けのワーカホリックで、たとえばデートの誘いも断るぐらい、何もかも犠牲にしてひたすら仕事だけに邁進する、という可愛いげのない女性のことでもありません。
つまり、このタイトルでは肝心の「作曲家」という言葉が抜けているのですよ。ということはCDを装丁したレーベルのせいにして、ここでは制作国のスウェーデンのみならず、アメリカ、イギリス、ロシアなど、世界中から集まった13人の「女性作曲家」の手になる無伴奏合唱曲を楽しむことにしましょう。
演奏しているのは、スウェーデンのウプサラ大学を母体にした合唱団「アルメンナ・ソンゲン」です。この合唱団のBISへの最初の録音は2008年、そのCDはすでにこちらで聴いていました。その時に書いていたように、その録音のすぐ後でそれまでの指揮者だったセシリア・ライディンガー・アリンが同じ大学を起源とする男声合唱団「オルフェイ・ドレンガル」に行ってしまったので、2010年からはロシア出身のマリア・グンドーリナが芸術監督に就任しています。どちらも「女性」ですね。
指揮者がずっと女性だったから、というわけではないのでしょうが、この合唱団は女性の作曲家の活動にも熱心に支援の手をさしのばしているのだそうです。そんなところから出来上がったのが、今回のアルバムです。ここで演奏されている作品で最も「古い」ものは1985年のもの、そして最も「新しい」のは、2015年に出来たばかりですから、まさに「現代の音楽」が集められていることになります。それらは、もちろん作曲家の個性が反映されて様々な形を見せてはいますが、いずれも、基本は古典的なハーモニーを大切にした中に、かつて「前衛音楽」と言われていたものが持っていた様々な表現様式をスパイス程度に加える、といったような、「古いのだけれど、新しい」という手法が採られていて、まさに最近の「現代音楽」の潮流が見事に反映されているように感じられます。
そんな中から、個人的に確かなインパクトを与えられた作品をいくつか。まずは、最年少、1991年生まれのクララ・リンドショーの「The Find」。彼女はかつてこの合唱団のメンバーだった人で、トラディショナル・シンガー・ソングライターとしても活躍しています。彼女自身がソロを歌っているこの曲は、まさにそんなフォーク・ポップといった、ヒット・チューンにでもなりそうなキャッチーなメロディを持ったものです。彼女のちょっとハスキーな声に、バックとしてとても分厚い合唱のハーモニーが加わっているのが、素敵です。
その次に若いアンドレア・タロディの「Lume」は、「光」という意味のこの単語だけが静かに流れてクラスターを作り上げるという、まるで「21世紀の『Lux aeterna』」といった趣の作品です。「本家」のリゲティよりもずっとカラフルな仕上がりなのは、やはり「女性」が作ったからなのでしょうか。
もう一つ、こちらはウクライナ出身のガリーナ・グリゴリエヴァが作った、男声だけで歌われる「In paradisum」が、意外性のある発想で気に入りました。フォーレやデュリュフレなど、繊細な女声のイメージのあるこのテキストを、まるでロシア民謡のような逞しいものに仕上げたのですからね。
おそらく、この合唱団はこういう作品に向いているのでしょう。ちょっとロマンティックなもの(たとえばリビー・ラーセンの「Songs of Youth and Pleasure」)では表現の浅さがみられるものの、大多数の「現代」のテイスト満載の曲では、とても積極的な音楽を楽しみながら作っているのがよく分かります。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2016-11-24 20:55 | 合唱 | Comments(0)
ずっと同じ楽器を使っています
 明日は東京でも雪が積もるのだそうですね。もちろん、仙台でも雪が降るだろうという予報は出ていたので、きのうのうちにタイヤを交換しておきました。この前から話題にしているソニックブルーのノートe-POWERは納車が12月の末になるというので、それまで待っているわけにはいきませんからね。もうちょっと早ければ、冬タイヤ付きの新車が届いていたのですが、ちょっと間に合いませんでした。なんせ、12月の初めには角田まで行って来なければいけませんから。
 その角田のコンサートのための指揮者練習、きのうは2回目でした。先週は「第9」だけでした。今回のローテーションでは私はピッコロ担当だったのですが、1番の担当がお休みだったので、その代吹きをやってました。終わってから指揮者と話を交わして、本吹きではないというと、なんか意外そうな顔をしてましたね。まあ、確かに去年GPの時に一瞬指揮とのタイミングが合わなくて私が出られなくなってしまったことがあって、本番では私に合わせて(?)間を取らずに振るようになっていたので、先週もその個所ではなんか「阿吽の呼吸」みたいのがあったからでしょうか。
 実は、今年は「第9」だけではなく、前プロで初めて演奏する唱歌を集めた組曲でも、ピッコロを吹くことになっていました。きのうはそれも練習したので、本番指揮者の前では初めて吹くことになっていました。なぜか1番奏者が持ち替えでピッコロという不思議な楽譜なんですが、それが「村祭り」のど頭で打楽器だけのイントロに続いて本当にピッコロだけで10小節という、ものすごいソロが用意されていました。すごく目立ちますから、吹き始めたら前にいたセカンド・ヴァイオリンの人が振り返っていましたね。
 ただ、そのソロはとても気持ちいいのですが、そのあとまたフルートに持ち替えてアンサンブルをやった後に、こんな風に3小節だけ休んですぐにまたピッコロでソロを吹かなければ行けないようになっています。この楽譜は。この曲はBPMが120ですから、1小節がちょうど1秒、それが3小節ですから、休みは3秒しかありません。その間にフルートを膝の上に置いて、前もってそこに置いてあったピッコロを持ち上げ、それを構えて音を出す、という一連の作業を行わなければいけないのです。これはもう曲芸技ですね。自分で言いうのもなんですが。その前のフルートのパートを他の人に替わってもらえればずっと楽になるのですが、あいにく2番も同じところで吹いているので、それは出来ません。あくまで、私一人の責任になってくるのですね。
 でも、よく見てみると、1番がEの音を吹いている時に、2番はDを吹いているんですよ。太鼓の音の模倣ですから、全音でぶつかっているんですね。ということは、Dだったら片手で押さえられますから、そこだけ2番と替われば、私はDを左手で吹いている間に、右手でピッコロをつかむことが出来ます。そうすれば、フルートを置くのと同時にピッコロを構えることができるはずですから、十分に準備が出来ます。来週までに、その「技」を習得できるように、頑張ってみましょう。
 このところ、ピッコロを吹く機会はほとんどありませんでしたが、この後はなぜかピッコロづいています。春の定期では「新世界」では1番ですが、「運命」でピッコロ、その前にある「杜の都合」でも、コンチェルトでピッコロを吹くことになっています。実は「運命」のピッコロは、私がニューフィルに入って初めての演奏会でのポジションでした。それしかありませんでした。オーディションまでやっておいて、全プログラムの中の1楽章しか出番がないピッコロだけなんて、なんなんだ、と、その時は腹が立ちましたね。それが1987年の4月のこと、それからちょうど30年経って、ニューフィルは2度目の「運命」を演奏することになりました。それは私にとっても「30周年」のコンサートになることに、今気が付きました。同じ曲の同じパートを演奏しても、その時の景色は30年前とは全然違っていることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2016-11-23 21:54 | 映画 | Comments(0)
Flötenmusik von Komponistinnen
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Elisabeth Weinzierl(Fl)
Eva Schieferstein(Cem, Pf)
Philipp von Morgen(Vc)
THOROFON/CTH 2577




「Komponistinnen」というのは、作曲家という意味のドイツ語「Komponist」の女性形の複数です。つまり「女性作曲家たち」という意味ですね。古今の女性作曲家が作ったフルートのための作品を、自身も女性であるエリザベート・ヴァインツィエルという方が演奏しています。
取り上げた作曲家は全部で13人、バロック後期、18世紀のアンナ・アマーリアから、21世紀に作られた作品が披露されているクリスティアーネ・ブリュックナーまで、4世紀に渡るフルート音楽の変遷を楽しむことが出来ます。
フリードリヒ大王の妹であるアンナ・アマーリア皇女が作ったヘ長調のフルート・ソナタは、そのフリードリヒ大王との絡みであまりあ(たまには)登場することもある作品です。フルートと通奏低音のために作られていますから、伴奏はチェンバロとチェロによって演奏されています。ヴァインツィエルはモダンフルートを吹いています。ここでの彼女のアプローチは、バロック特有の刺激的な表現などはまず見られない、穏健なものです。いや、正直、ただ楽譜をなぞっているだけでさほど「表現」を込めないような演奏が彼女の身上なのでしょうか、なにか煮え切らないまどろっこさが感じられてしまいます。
続く、イタリアの女性作曲家、アンナ・ボンのト長調のソナタも、同じような穏やかな音楽としてとらえられているのでしょう。最後の変奏曲なども、いともお上品なサロン風の優雅さは漂うものの、やはり何か今聴くものとしては物足りなさが募ります。
19世紀に入ると、オーストリア出身のレオポルディーネ・ブラヘトカという人が現れます。彼女の「序奏と変奏曲」は、この時代、フルートという楽器が改良されたことによって多くの作曲家によって作られた技巧的な作品の一つ、あくまで華麗なテクニックを披露するという目的が勝ったものです。ですから、本当はこれ見よがしのハッタリ的な演奏のようなものの方が聴きばえはするのでしょうが、ここではあえて慎み深い女性的な語り口を大切にしているような気がしてなりません。
そして、20世紀になると、セシル・シャミナード、メラニー・ボニ、ジェルメーヌ・タイユフェール、リリ・ブーランジェという、「女性作曲家」について語られる場では必ず引き合いに出される人たちの作品が続きます。この中では、フルートを吹く人であればだれもが知っている「コンチェルティーノ」の作者シャミナードの「星のセレナード」が、過剰な表現を込めない等身大の女性の情感が披露されていて、和みます。
ここまでの7人は、ちょっと詳しい音楽史にはまず登場する人たちですが、それ以降、20世紀末から21世紀にかけての作品を提供している6人の作曲家たちは、全く初めて聞く名前の人ばかりでした。それぞれに、この時代ならではのさまざまな「新しい」作曲技法やフルートの演奏法が駆使されていて、インパクトのある作品ばかりです。バルバラ・ヘラーの「Parland」は、微分音が使われているような気がしたのですが、それは単に演奏家のピッチが低めだっただけなのかもしれません。グロリア・コーツの「Phantom」は、そのタイトル通りのおどろおどろしいフラッター・タンギングや息音までも動員するという激しい曲で、ヴァインツィエルはそれまでの慎ましさをかなぐり捨てての熱演を繰り広げています。
ドロテー・エーベルハルトの「Tra()ume」は、うって変っての折衷的な作風、キャロリーネ・アンシンクの「Epitaph für Marius」は、2002年にもなってまだ無調にこだわっている不思議な作品、アンネッテ・シュルンツの「tastend, tränend」は、ピアノの内部奏法の方が目立っていて、フルートは影の薄い曲です。
最後のブリュックナーの「Tsetono」になって、ネオ・ロマンティックの手法が出てきます。そうなると、またヴァインツィエルのおとなしい、というか、正直ぶら下がり気味のピッチがとても耳障りな欠点が、また目立つようになってきました。

CD Artwork © Bella Musica Edition
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by jurassic_oyaji | 2016-11-22 23:48 | フルート | Comments(0)
歌詞の最後の部分も、意味不明
 テレビドラマなんて、昔は全然好きではなかったのですが、今ではかなり見るようになっていました。最初に見始めたのが、WOWOWでの海外ドラマ。日本のドラマとは全然違う作り方で、同じシリーズがいつの間にか10年以上も続いていた、なんてのもありますから、そもそも作品としてのレベルが違います。まあ、そのうち、そんな中にあるパターンが分かるようになってきて、それが鼻を衝くようにもなりますが、まあそれも含めて楽しめるところの多いドラマにたくさん出会えました。
 でも、そのうち、日本のドラマでもちょっと我慢をすれば十分楽しめるものもあることが分かってきましたね。「MOZU」なんかは本当によくできたドラマでした。後半ではちょっと整合性がとれなくなっていましたが。これはWOWOWでしたが、それからは地上波でも面白そうなのを探して見るようになりました。基本的に選択のポイントは役者、つまり、地上波の場合は作品よりあくまで出演者が楽しめるかどうかで見るかどうかが決まります。私の場合。
 今のシーズンで地上波で見ているのは、「カインとアベル」、「レディ・ダ・ヴィンチの診断」、「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」、「コピーフェイス~消された私~」、「スニッファー・嗅覚捜査官」です。シーズン初めにはもう3つほど見ていたのですが、それぞれ最初の回を見てつまらないと思ったのでやめました。後ろの2つはNHKなので、あんまりおもしろくはありませんが、まあそれなりのレベルは保っているので見ています。
 残りの民放勢では、「校閲ガール」が飛びぬけて面白いですね。最初は「校閲」という仕事がおもしろそうだったので見始めたのですが、主演の石原さとみのキャラクターにすっかりハマってしまいました。実は彼女はこの前まで放送されていた10年以上前の朝ドラで結構おバカな役を演じていたので、それがそのまんまスケール・アップしているのがいいですね。とことんスタイリッシュに迫っているCGにも脱帽です。あと、オープニングがユーミンのカバーなんですが、本人よりクオリティの高い曲に仕上がっていますし。
 「カインとアベル」は、音楽が「MOZU」の菅野祐悟だというのが最大のポイントだったのですが、初回を見てショスタコーヴィチの5番の終楽章が聴こえた時には、ゾクゾクしてしまいましたね。ドラマのクレジットでは曲名すらも全く表記されていないのですから、何の曲だか知らないで聴いている人も多いことでしょうね。試しにShazamに聴かせた見たら判別できなかったので、出来合いの音源ではなくわざわざ録音したのでしょうか。たしかに、ちょっとこの曲にしてはユルいところがある演奏ですね。
 BSの方では、「クリミナル・マインド」、「グレイズ・アナトミー」、「エレメンタリー/ホームズ&ワトソン」、「CSI:サイバー」、そして日本版の「コールドケース」です。ですから、吉田羊主演が2つになります。これは単なる偶然。「コールドケース」は、本家との共同制作ということでいったいどんなことになるのかと思ったら、どうやらフォーマットを全て本家のものをそのまま使っているようですね。ですから、オープニングテーマやそれぞれのシチュエーションでの画面の質感の管理、演出のポイントから、さらには登場人物の設定まで、気持ち悪いほどおんなじものに仕上げています。脚本などはアメリカと日本の2人が担当しているようですから、実際はどのようにして作られているのでしょう。とにかく、そんなものですから、演じているのはとてもおなじみの人ばかりなのに、なんかとても居心地が悪く感じられてしまうんですね。ちょっと、これはやり過ぎのような感じがします。おそらく、1シーズンで終わってしまうのではないでしょうか。
 でも、ここまで行かなくても、なんだか今シーズンのものは外国のものが原作になっているものが多いですね。NHKの2つのドラマがそうですからね。それと、「カインとアベル」だって、一応「外国の作品」が「原作」だと言ってますからね。
 でも、1週間に10本というのは、明らかに私の能力を超えています。ですから、外国ドラマなどは録画したっきりまだほとんど見てません。それよりも、ストーリーがごちゃごちゃになってしまうのが、困ったものです。あ、あと、朝ドラが2本ありました。今回は初回の方は、タイトルすらも思い出せないほどの駄作ですが、仕方なく見てます。もちろん、オープニングは音を消して。
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by jurassic_oyaji | 2016-11-20 21:31 | 禁断 | Comments(0)