おやぢの部屋2
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DINESCU/Tagebuch
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Carin Levine(Fl)
Dauprat-Hornquartet, Sephan Rahn(Pf)
Cynthia Oppermann(Hp), Susanne Zapf(Hp)
WERGO/WER 7324 2


ヴィオレタ・ディネスクという、1953年にルーマニアに生まれた女性作曲家によるフルートのための作品集です。ここで演奏されている曲は、1曲を除いてすべて世界初録音となるのだそうです。
彼女自身の言葉によると「他に選択肢がなかったから」作曲家になったディネスクは、ブカレスト音楽院でミリアム・マルベの教えを受けます。国内の作曲コンクールで「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」が1位を取ったことから、彼女はマルベから他のヨーロッパでのコンクールへの参加を勧められ、マンハイムでのコンクールにも入賞します。そして、授賞式のために訪れたドイツにそのまま留まることになってしまいました。1996年からは、オルデンブルクの大学で作曲科の教授を務めています。
彼女の音楽のベースは、故国ルーマニアの民族音楽なのですが、作品の中にはそれをあからさまに出すことはなく、もっと精神的な次元での作業によって音楽を作っているようです。今回はフルートをメインにしたアルバムですが、その中で演奏されているごく最近の作品では、そんな姿勢が極限までに追及されて、とても密度の高いものに仕上がっているという印象を受けます。
ここで演奏しているフルーティストは、アメリカ生まれのカリン・レヴァインです。多くの国際コンクールに入賞した後は、ドイツの各地の音楽大学で教鞭を取ってきましたが2015年からはワイマールの音楽大学で現代音楽のクラスを主宰しているのだそうです。特に現代音楽に関しては、なんと900曲もの作品を初演しているという、まさにスペシャリストです。
彼女は、このアルバムでは5種類の楽器を使っています。普通のC管フルート、ピッコロ、アルトフルート、バスフルート、そしてコントラバスフルートです。まずは、それぞれの楽器だけのソロが披露されているのが、アルバムタイトルとなっている「Aus dem Tagebuch(日記から)」という、2011年に「I」から「V」までの曲がまとめて作られた連作小品集(ツィクルス)です。それぞれはほんの1分足らずの作品ですが、その内容は驚くほどの多彩さを秘めています。もちろん、様々な現代奏法が駆使されていて、甘ったるいメロディなどはどこを探しても見つかりませんが、それだからこそ直接情感に訴えるものがとても強く感じられます。ディネスクは「魂の世界に入っていく」と述べています。
「V」はコントラバスフルートのソロですが、この楽器が1本だけで演奏されているところを聴くのは、極めて特異な体験なのではないでしょうか。このあたりの楽器になってくると、もはや「フルート」という概念からは遠く離れた、まるで「呪術」のような雰囲気さえ漂ってきます。
もう一つのツィクルスは、やはりフルートだけのための5曲から成る2015年の最新作「Blick(眺め)」です。こちらはもう少し長めですが、やはり3分ほどの短い曲の集まりで、「Tagebuch」とは密接な関係にある作品です。このツィクルスでは、全ての曲でレヴァインは複数の楽器を同時に演奏しています。作曲者によるとここでは「記憶の距離感」がモティーフ、それぞれの楽器、あるいは奏者の持つ全く異なる「記憶」が、同じ時間軸の中で語られます。ですから、おそらく本来は複数の演奏家が同時に同じ場所で演奏するものなのかもしれませんが、ここで多重録音を行っているレヴァインは、その意味をきちんと踏まえた、あたかも自分自身の演奏たちと対峙するかのような姿勢をとっています。何しろ、最大の編成はC管、ピッコロ、アルト、バスがそれぞれ2本に、コントラバスという「9人」の合奏ですから、その中で生まれるインタープレイはほとんどカオスのようなとてつもないエネルギーを放っています。
それ以外に、他の楽器との共演による作品を4曲聴くことが出来ますが、その中では4本のホルンとの共演による「Die Glocke im Meer(海の中の鐘)」が、適度にキャッチーで和みます。

CD Artwork © Wergo

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by jurassic_oyaji | 2017-01-31 23:29 | フルート | Comments(0)
今度は「ジークフリート」かな?
 結構、生のオペラって観たことがありました。ベルリン国立歌劇場とかバイエルン国立歌劇場、そしてメトロポリタン歌劇場とか。バイエルンなどはクライバーの指揮でしたから。ただし、私はパートナーと一緒に外国に行ってオペラを観るなどという羨ましいというか、憎らしい機会などありませんでしたから(愚妻は飛行機が苦手)、それらは全て日本にやってきたオペラハウスでのことでした。まだ独身の頃、そんな一流のオペラハウスでもリーズナブルな価格で行くことが出来た時代の話です。ただし、そのころはまだ「字幕」などは付いていませんから、そのオペラのあらすじなどは前もってきちんと頭に入れておく必要がありました。まあ、私にとってはそれは何の障害にもなりませんでしたけどね。
 しかし、当時は日本にはオペラ専用の劇場はありませんでしたから、上演されるのは東京文化会館(上野)かNHKホール(渋谷)という、ばかでかいホールでした。不思議なことに、今ではちゃんとしたオペラ劇場があるというのに、外国から来るオペラは未だにそういう普通のコンサートホールで上演を行っているのですね。まあ、それはたくさんの客を入れなければギャラが払えないという事情からなのでしょう。当然入場料もとんでもないことになっていますから、そんなところに行きたいとは全く思いません。文化会館はまだましですが、NHKホールは最悪でしたね。
 そんな、ちゃんとしたオペラ劇場は、出来てからもう20年も経ったというのに、私はまだ行ったことはありませんでした。まあ、30年前に作られたサントリーホールにやっとこの間行ってこれたぐらいですからね。でも、やはりこの「新国立劇場」には一度は行っておかなければ、まずこれから外国に行くこともないでしょうから、ホールまで含めた「本物の」オペラを観る機会がなくなってしまうのでは、と思って、おととい行ってきました。
 夢にまで見た「新国」の入り口ですが、いったいこれがオペラハウス?というぐらい無機的な外観には、ちょっとがっかりですね。これから楽しいことが起こりそう、という気持ちが全く湧いてきませんね。なんか、やたら高圧的な建物、という気がしませんか。
 中に入ってすぐのところも、なんとも殺風景、まあ、まだ開場には時間があったので、人が少ないせいもあるのでしょうが、サントリーホールでは確かにあった「華やかさ」は全く感じられませんね。
 もう少し行ったところが他のホールへの連絡の場所なのですが、ここもなんと言う重苦しい空間なのでしょう。そして、オペラ劇場の前に行ってみたら、結構たくさんの人が待っていましたが、その先にシャッターが下りているんですね。一瞬、場所を間違えたのか、と思ってしまいました。そうしたら、開場時間になったらそのシャッターが上がり始めたではありませんか。もう、目を疑いましたね。銀行なんかが、開店する時にシャッターをあげるというあの風景が、オペラハウスの前で繰り広げられているんですよ。あんまり驚いたので、写真を撮ることも忘れてしまいましたよ。今まで数多くのコンサートホールに行ってきましたが、その前にシャッターが下りているホールなんて、1回も行ったことはありません。もしかしたら、どこかにはあるのかもしれませんが、私の中ではもうこれだけでここはオペラハウスとしては終わっているな、と思ってしまいましたね。
 でも、それとは全く別の世界が、ホールの中にはちゃんと広がっていたので、一安心です。なによりも、この恐ろしく高いプロセニアムを見たら、「こうでなくっちゃ!」と思ってしまいましたね。コンサートホールでは絶対この高さは出せませんし、逆に間口が広すぎて装置が間抜けになってしまいます。
 オケピットを覗いてみたら、弦は14型でした。地方オケ(東京の一部のオケも含む)の定期演奏会の標準サイズですよね。座ったのは2階席ですが、オケも歌手もとてもよく聴こえてきました。でも、一番素晴らしかったのは、合唱です。正直、オペラを観てこれだけすごい合唱を聴いたのは初めてです。
 とても気持ち良い体験が出来たのに、終わってからクロークに行ったら、またまた目を疑うような光景に出くわしてしまいましたよ。クロークそのものはかなり広いのに、係員が少ないので恐ろしく手際が悪く、待っているお客さんの列は伸びるばかり、そこでは「割り込みするな!」という、およそオペラを観た後の客とは思えないような罵声が飛び交っていましたからね。20年もやっていて、まだこんなことも解決できていないのでしょうか。この次にも来ることがあれば、コートは絶対預けないで客席に持っていこう、と、固く誓うのでした。ここが、そこまで含めた「本物」のオペラハウスではなかったことが、とても残念です。
 ここに来る前に、お隣のオペラシティのチケットオフィスに寄って、今度のニューフィルのポスターを貼らせてもらいました。このホールでのコンサート以外は受け付けてくれないとか、そもそもポスターの印刷はまだ終わっていないのだとか、そんな細かいことはいいじゃないですか。
 赤丸の中、これはきちんとここで3月19日に行われる、私も乗ったことのある合唱団のチラシが置いてありました。旅立ってしまうんですね。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-30 22:13 | 禁断 | Comments(0)
スカラ座の思い出/コンサートマスターから見たマエストロの肖像
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エンリーコ・ミネッティ著
石橋典子訳
スタイルノート刊
ISBN978-4-7998-0140-6



1918年にミラノのスカラ座のオーケストラに入団、1933年から1965年までの間の32年間はコンサートマスターを務めた著者が、その間に指揮台に立った指揮者のことを語った回顧録です。その間には2つの世界大戦も体験するという、まさに「歴史」の中で演奏活動を続けてきた著者の言葉には、陳腐な言い方ですが「重み」があります。
その間のスカラ座の音楽監督には、トゥリオ・セラフィンから始まってアルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィクトル・デ・サバタ、カルロ・マリア・ジュリーニ、グィド・カンテッリ、ジャナンドレア・ガヴァッツェーニまでの巨匠(マエストロ)の名前が並びます。その他にも、客演指揮者としてドミトリー・ミトロプーロスとヘルマン・シェルヘンについても語られています。こんな人まで、スカラ座には客演していたのですね。
ミトロプールスについては、完璧な記憶力を持っていて、例えばベルクの「ヴォッツェック」のような難解な楽譜でもしっかりオーケストラにその意味が分かるように指揮をする姿が語られます。
それとは対照的に、シェルヘンとの思い出としては、スカラ座ではなく、彼のスイスの自宅に作られたスタジオでの、いとも家族的なレコーディングの様子が語られています。シェルヘンの録音と言えば、ウィーンでのWESTMINSTERによるものしか知られていませんが、こんなこともやっていたのです。スカラ座の団員は、ここでは「アルス・ヴィヴァ・オーケストラ・グラヴェザーノ」という名前で、録音を行っていましたね。そのシェルヘンは、現代音楽にも造詣が深い指揮者として知られていますが、ミトロプーロスが急死したために、代わりにスカラ座でマーラーの「交響曲第3番」をすかさず指揮しなければならなくなった時には、なんと準備不足でリハーサルが出来なくなり、結局その演奏会は中止になってしまったのだそうです。そんな一面もシェルヘンにはあったのでしょう。
そして、圧巻はやはりトスカニーニとのリハーサルのものすごさです。なんせ、彼が自制心を失った時には「私たちを侮辱し、指揮棒を折り、ハンカチは引き裂かれ、楽譜を客席や舞台に向かって投げつけたり」したのだそうですからね。しかし、団員たちは彼を恐れながらも、心から尊敬していたこともよく分かります。
このような、まさに伝説的な指揮者との現場の様子が克明に語られている中で浮かんでくるのが、当時の指揮者とオーケストラとの主従関係です。そう、まさにこの時代では、現在ではまず見ることのなくなった「指揮者=主、オーケストラ=従」という関係が、当然のものとして存在していたのです。
しかし、時代は変わっていきます。ベルリン・フィルから「終身」指揮者などというポストを与えられていたカラヤンなどは、まさにそのようなオーケストラの「主」でした。しかし、そのカラヤンでさえ、団員との軋轢が元で辞任に追い込まれ、それ以後の指揮者には常にオーケストラ団員の顔色を窺うような「小物」しか就任できないようになってしまいました。
トスカニーニに関しては、以前からプッチーニが亡くなったために未完に終わった「トゥーランドット」を初演した時の有名なエピソードが伝えられています。それは、「マエストロはここまでで筆を絶ちました」(Qui il Maestro finí.)」と言って、それ以降の演奏を行わなかった、というものですが、著者によればその時に彼が言った言葉は実際はちょっと違っていたのだそうです。それは、「ここでオペラは終る。マエストロの死で未完となったから(Qui finisce l'opera, rimasta incompiuta per la morte del Maestro)」というもの。微妙に意味が変わってきますよね。なんせ、実際に彼が語った一番近いところで聴いていたのですから、著者の記憶さえ確かであったのならば、これが真実だったのでしょう。

Book Artwork © Stylenote

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by jurassic_oyaji | 2017-01-29 09:50 | 書籍 | Comments(0)
人吉市のそばです
 モンブランが大好きな私は、新聞の折り込みの中にモンブランの写真があったのを見逃しませんでした。ところが、その横にはこんな文字(赤い傍線)が躍っていたではありませんか。
 「山江栗」ですよ。こんなおおっぴらに「山江」なんて文字が躍っているのには、驚いてしまいますね。
 でも、この「山江」の由来である「山江村」という、熊本県にある村のことは昔から知っていました。やはり、どんなところなのか興味がありますからね。でも、「栗」が名産だとは知りませんでしたよ。調べてみるとかなりの知名度のあるブランドのようですね。ここにある「パティスリー麓(ろく)」というお菓子屋さんも、お店は黒川温泉という阿蘇山の近くで、山江村からはかなり離れたところにあります。宮城県で言うと古川と白石ぐらいの距離感でしょうから、「パパごのみ」と「温麺」ぐらいの違いがありますからね。
 ネットで調べてみると、これと同じ名前のモンブランが、九州地方限定でローソンで売られているそうですよ。
 こちらは、その「山江栗」そのものが上に乗ってますね。「山江栗」は、九州全土に知られているんですね。なんかうれしくなってしまいます。
 「パティスリー麓」の方は、サイトに別の写真がありました。
 断面図によると、こちらは、「山江栗」本体は中に入っているんですね。それにしてもこのボリュームはすごいですね。ぜひ行って買ってこなければ。土曜日は行けませんから、日曜日にでも。
 と思っていたら、うちの社長が今日行ってきて、これを買ってきてくれましたよ。チラシを見てて、やはり「山江」に引っ掛かったんですね。「でっかく『山江栗』っていう看板が出てたぞ」ですって。早速食べてみましょうね・・・と箱を開けてみると。
 あれぇ、なんだかしょぼくないですか。アングルのせいではなく、実物もあの写真みたいなボリューミーさがありませんでしたよ。
 でも、味はなかなかでしたね。
 山江栗もちゃんと入ってましたし。

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by jurassic_oyaji | 2017-01-27 21:16 | 禁断 | Comments(0)
LIGETI/Chamber Music
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François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 26



ロトの指揮する「レ・シエクル」のメンバーが集まって室内楽を演奏しえくれたアルバムです。しかし、それが全てリゲティの作品ばかり、というのが不思議ですね。今まで、このオーケストラは作曲された当時の楽器を使ってその頃の音楽を再現する、というのが基本的な姿勢だったはずなのに。
それについては、ロト自身がブックレットの中のインタビューで、答えを述べているようです。ロト自身はこれまでに多くのリゲティのオーケストラ作品を、別のオーケストラで演奏していて、リゲティ本人とも交流がありました。そこで、リゲティが人を魅了するものが、その色彩感のあり方だと気づき、そこに自分のオーケストラで演奏することの意義を見出した、というのですね。このあたりはあまりに抽象的で、いまいち、よく分かりませんが、彼は「レ・シエクル」の方法論をリゲティに応用することに、大きな魅力を感じたことは確かなようです。
ですから、今回は今まであったようなそれぞれの使用楽器についてのクレジットは一切ありません。ただ、ブックレットの中のメンバーがそれぞれの楽器を持っている写真によると、ファゴットはフランス風のバソン、ホルンも今では珍しいフランス式のピストンのついた楽器であることだけはかろうじて分かります。ですから、めざとくそれを見つけた日本の代理店は、サイトのコメントで、管楽器の奏者がフランス風の楽器を使って「今や絶滅寸前の19世紀的なフレンチ・サウンドを聴かせ」ていることに驚いているようですね。しかし、それはさっきのロトの話からは全くの見当はずれの指摘であることが分かります。さらにロトは話の続きで、この、管楽器を多用したレパートリーを演奏するにあたって、「20世紀の音楽は、管楽器によって情感を強烈に表現できるようになった」と言い切っていますからね。
そもそも、ここで演奏されている「6つのバガテル」はハンガリー、「10の小品」はスウェーデン、そして「室内協奏曲」はウィーンでそれぞれ初演されていて、「フレンチ・サウンド」とは無縁のもの、ロトはもっと深いところでこのオーケストラの可能性を信じ、新しい挑戦を企てたのではないでしょうか。
ということで、ここで取り上げられたリゲティの作品は、まずは管楽器ばかりが使われている木管五重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、バソン、ホルン)のための曲が2つです。その、1953年に作られた「6つのバガテル」と、1968年に作られた「木管五重奏のための10の小品」とでは、作曲家の作風がまるで別人のように異なっていることには、誰しも驚かされるでしょう。「バガテル」はもちろんピアノ曲の「ムジカ・リチェルカータ」の中の曲を編曲したもの、音の選び方こそ先鋭的ですが、音楽自体は民族色の濃い、まさにバルトークの亜流です。そして、「10の小品」は、ウィーンに亡命後、当時の最先端の「現代音楽」に接してからの作品です。「10の小品」ではその偶数番号の曲で木管五重奏のそれぞれのメンバーがソリスティックに活躍するように作られていますが、そこでのメンバーのうまさには舌を巻きます。
「室内協奏曲」は1970年の作品。木管五重奏からファゴットが抜けてバス・クラリネットが加わった5人の管楽器に、トロンボーンと弦楽5部、さらにキーボードが2人(ピアノとチェンバロ)入った13人で演奏されます(さらに、ロトが指揮をしています)。この曲も技巧的なパッセージは数知れず、4曲目などはとても人間業とは思えません。チェンバロ奏者はハルモニウムかハモンド・オルガンも弾くように指定されていますが、ここではハモンド・オルガンが使われています。この曲の中で唯一和みが感じられる2曲目の静かな音楽のバックに流れるその楽器の音は、いかにも未来的、ここで19世紀のハルモニウムではなく20世紀のハモンドを選んだロトが目指したものは、やはりただの懐古趣味ではありませんでした。

CD Artwork © Actes Sud

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by jurassic_oyaji | 2017-01-26 20:39 | 現代音楽 | Comments(0)
「フィガロ」だけ降り番です
 きのうの雪、大したことはなかったのですが、朝職場へ向かう時には時間的にまだ除雪作業は行われていなかったので、結構急な上り坂にはしっかり雪が積もっていました。こういうところを走るのは、新しい新車にとっては初めてのことだったのですが、今までの感触ではかなり雪道には強そうな気がしたので、思い切ってそのまま登ってみました。そうしたら、全く何のスリップ感もなく、乾いた道を上るのと同じように走れましたよ。前の車だと、大体いくらかは空回りするようなことがあったのですが、それが全然ありませんでした。あとで社長が走った時には、同じところに明らかにスリップしたような蛇行の跡があったそうですから、やはり普通の車ではそうそう簡単に登れるコンディションではなかったのでしょう。やはりこの車はなかなかのものです。
 そんな雪が降るぐらいですから、寒い日が続いています。風邪、というかインフルエンザというか、そういう感染性の病気がはやっているみたいですね。きのうのニューフィルでももろにそんな影響を受けてしまって、私のパートでは4人のうちの2人が「欠席」でした。さらに、お隣のパートでも一人休み、弦楽器もなんだか少なめの出席者ですね。ですから、今度の「かいほうげん」に載せるための写真を撮ろうと思っていた人も、やはりインフルエンザで欠席だったので撮れませんでした。
 フルートが半分いなかったので、その分私も、もう一人もそれぞれ代吹きに励みます。きのうは3曲全部やったので、「フィガロ」の2番も吹けました。ですから、この間1番を吹いたので、これで、私が絶対吹くことはない「新世界」の2番以外は、すべてのパートを制覇したことになります。まあ、「運命」の1番はほんの一部分でしたが。
 そんな3曲が曲目という、ニューフィルにしては珍しいコンサートのチラシが出来上がってきました。
 裏面はこうです。「フィガロ」「運命」「未完成」が並んでますから、ある意味インパクトがありますよね。
 というか、これがそのままキャッチコピーになってませんか?凄いですね。このラインナップ。今後ニューフィルがこんなベタなプログラムで演奏会を開くことなんかまずありえませんから、これを逃したら聴けませんからね。いや、実際こういう「超名曲」を練習していると、すごく楽しいですからね。本音を言えば。ですから、その次の演奏会でやることがきまっているエルガーなんて、いったいどうなってしまうのかと思ってしまいます。まあ、せいぜい第2楽章が「ダースベーダーのテーマ」の元ネタ(これは、さるエルガー・マニアも認めていました)だというあたりを頼りに頑張るしかないですね。
 で、表に戻るわけですが、こういう曲目にしたのは、演奏会場が仙台市内ではなくちょっと遠めのところになってしまったからなのですよ。少しでもお客さんを呼びたいと。お隣の名取市、まあ、車で行けばうまく行けば30分ぐらいで着くので、東京都内の世田谷区に住んでいる人が墨田トリフォニーまで行くのよりはよっぽど近いのですが、なんせ仙台市民はせっかちですからね。
 そこで、チラシにはこのようにアクセスの案内をでかでかと掲載してあります。車でなくても、すぐ近くまで電車が来てますから、その駅からだと徒歩8分、楽勝ですよね。これは最近できた駅ですから、知らない人のためにもこの地図は役に立ちます。そして、その下には、仙台駅の始発時間まで書いてありますよ。至れり尽くせりですね。
 実は、これは、もうすっかりチェックが終わって、次の日には印刷に回るという前の日に、私が突然思いついて印刷係のOさんに提案してみたことなんです。もう間に合わないだろうと思っていたのですが、Oさんは見事にそれを盛り込んでくれましたよ。そんな広報係と印刷係とののチームワーク、これで演奏会が成功しないわけがありません(実際にチラシが出回るのは2月に入ってからです)。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-25 22:22 | 禁断 | Comments(0)
BERIO:Sinfonia, MAHLER/BERIO:10 Frühe Lieder
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Matthias Goerne(Bar)
The Synagy Vocals
Josep Pons/
BBC Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902180



2003年に亡くなったイタリアの「現代」作曲家、ルチアーノ・べリオの、マーラーがらみの2つの作品です。メインは1968年に作られた(1969年に改作)「シンフォニア」、そして、前プロとして、マーラーの歌曲集「若き日の歌」を、ベリオがオーケストラ伴奏に編曲したバージョンから10曲が演奏されています。
その「若き日の歌」は、マーラーが3巻に分けて出版した14曲から成るピアノ伴奏の歌曲集です。ただ、第1巻と、2、3巻との間には作曲の時期が少し空いています。その後半の2、3巻では、テキストはすべてドイツの民謡詩集「子供の不思議な角笛」から採られています。ベリオはそれらから全くランダムな曲順で選んで1986年に5曲、1987年に6曲のオーケストラ編曲版を作りました。ただ、オリジナルの第1巻の2曲目「思い出」だけは、2度編曲を行っていますから、実際に編曲されたマーラーの曲は10曲となります。このCDでは、その「思い出」は1986年版が使われています。
ただ、6番目に演奏されているオリジナルでは第1巻の3曲目「ハンスとグレーテ」のテキストが、ブックレットのクレジットでは「子供の不思議な角笛から」となっていますが、これは誤りです。この曲はもっと早い時期に作られたものを改作したもので、マーラー自身が歌詞を書いています。もちろん、日本の代理店ごときがそのことに気づくはずもありません。この曲、実は彼の「交響曲第1番」の第2楽章の元ネタとなっていますね。
ベリオの編曲は、もちろん「現代」作曲家とは言っても例えばハンス・ツェンダーがシューベルトの「冬の旅」に対して施したような過激な改変は全くなく、至ってまっとうなものでした。ただ、やはり随所にベリオならではの味が見出せます。そんなオーケストラをバックに、ゲルネは多彩な音色を駆使してとてもドラマティックな歌を聴かせてくれています。
そして、今ではほとんどベリオの代表作となっている「シンフォニア」です。考えてみれば、もう作られてから半世紀も経っているんですね。そんな歴史の「篩(ふるい)」にかけられて、いまだに色褪せない魅力を誇っている名作です。オーケストラの中に8人の歌手が混ざるというユニークな編成が取られていますが、そもそもは「スウィングル・シンガーズ」がそのパートを歌うことを想定して作られたものでした。この団体、今でもイギリスで同じ名前で活躍していますが、この曲が作られた頃のグループはまだ創設されたフランスが本拠地でした。バッハの曲を「ダバダバ」と歌っていた頃ですね。
もちろん、ニューヨーク・フィルが行った初演にも彼らが参加していますし、それ以後もこのグループ、あるいはイギリスでリーダーのウォード・スウィングルが新たに作った別の「スウィングル」という名前の入った団体が、この作品には必ず出演していたのではないでしょうか。
しかし、その後は全く別のアンサンブルでも、この曲のこのパートを任されるようになっていました。そして、今回のアルバムで起用されているのが「ザ・シナジー・ヴォーカルズ」という、花輪クンの執事(それは「ヒデジー」)みたいな名前の団体でした。このグループは、1996年にロンドン交響楽団がスティーヴ・ライヒの「テヒリーム」(1981)を演奏する時に設立されたそうですが、その中心メンバーは当時の「スウィングル・シンガーズ」のメンバーだったミカエラ・ハスラムでした。時代が巡って、また同じ遺伝子を持つ団体にお鉢が回ってきた、ということでしょうか。
この曲の聴きどころは、なんと言っても第3楽章の、マーラーの交響曲第2番の第3楽章をベースにした壮大なコラージュのシーンでしょう。何度も聴いていますが、そこに引用されている曲にはいまだに「なんだったかな~」と思ってしまって、しばらく頭から離れないものがありますね。それが、ベリオがこの曲に仕掛けた罠なのでしょう。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.

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by jurassic_oyaji | 2017-01-24 23:30 | 現代音楽 | Comments(0)
ブルックナー:交響曲第8番のハース版第4楽章のフルート・ソリについて
 きのうの「おやぢ」でブルックナーの8番を取り上げたのですが、それの第4楽章のハース版にだけあるフルートのソリについて、とても面白いことが分かりました。スピンオフとして、かなりマニアックな話におつきあいください。
 あの1975年のカラヤン盤で、ゴールウェイが1番を吹いているフルートのトリオを聴いていると、まずはゴールウェイはこの長いフレーズを全くノンブレスで吹いていることに気づきました。それで、他の人でもそんなすごいことをやっているのかどうか知りたくて、色んな録音を聴いてみました。さいわい、手元にあるNMLではもう何百種類(それはウソ)もの録音を聴くことができます。まあ、100種類はないかもしれませんが、今ではワーナーとユニバーサルという、3大メジャーレーベルのうちの2つのレーベルまで網羅するようになったこのストリーミング・サイトだったら、まずはこういう比較を行うには十分なだけのサンプルが提供できるほどのアイテムは揃ってしまいますからね。さらに、最近配信のフォーマットが変わって、ビットレートのより高いAACになったということで、音質的にもそれほどストレスを感じることはなくなりましたから。
 その結果、ここをノンブレスで吹いている人はまずいない、ということが分かりました。実は私も数年前同じパートを吹いたことがあるのですが、その録音を聴いてみても、やはりブレスは取っていましたね。さらに、この部分は「ハース版」にしかありませんが、そのもとになっているのは「第1稿」なので、第1稿の録音も、これはやはりNMLにあったインバルのTELDEC盤を聴いてみました。ここでのインバルはかなり早いテンポだったので、さすがにこの部分もノンブレスで吹いていましたね(このテンポなら、私でも出来そう)。しかし、そこでは別のことで、ちょっと今までの演奏とは違っていることに気が付きました。そのフルーティストは、楽譜通りではなく、何か所かの音をタイでつないでいたのですよ。もしや、と思って手元にあった第1稿の楽譜を見てみたら、確かにそこにはタイが付いていたではありませんか。
 赤枠の中ですね。ただ、これはあくまで「カッコつき」ですから、自筆稿には無かったものを、校訂者のレオポルド・ノヴァークが付け加えたものなのです。確かに、自筆稿にはタイは付いていませんね。
 しかし、この部分に関しては確かにノヴァークの主張はそれなりの意味があるように思えます。つまり、そうすることによって、1番フルートを2番、3番フルートが、同じリズムで追いかける、という形が見事に出来上がるのですよ。私も、ここはタイを付けた方がずっと音楽的だと思いますね。
 そして、最初の話のゴールウェイが、見事にこの吹き方をしていたのです。もちろん、パート譜にはそんなタイはありませんから、このように吹くことを指示したのはカラヤン以外にはありえません。確かに、第1稿の楽譜が出版されたのはこの録音の3年前の1972年ですから、このタイの付いた楽譜を見たという可能性はあります。
 ところが、同じカラヤンが、1988年にウィーン・フィルと録音した時には、このタイを付けていないのですよ。これはいったいどういうことなのでしょう。ベルリン・フィルでは自分の主張は通ったのに、ウィーン・フィルでは通用しなかった、とか。しかし、です。そのウィーン・フィルが1996年にピエール・ブーレーズと録音した時には、しっかりタイが付けられているのですよ。不思議ですね。
 いずれにしても、私がハース版で「タイ」が確認できたのは、この1975年のカラヤン盤と、1996年のブーレーズ盤だけでした。それ以外は、ヴァントもハイティンクもケンペも朝比奈もティーレマンもネゼ=セガンもバレンボイムもシューリヒトもクーベリックも、そしてネーメ・ヤルヴィも、誰一人として「タイ」は付けてはいませんでした。
 しかし、惜しいことをしましたね。私が5年前にこのことに気が付いていたなら、ニューフィルの演奏がそんな貴重な録音の一つになっていたかもしれなかったのに。というか、末廣さんがどんな反応を示したか、とても興味がありますね。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-22 20:48 | 禁断 | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.8
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Karl Böhm/
Berliner Philharmoniker
TESTAMENT/SBT 1512




往年の名指揮者カール・ベームは、ドイツ・オーストリア系の作曲家の作品を演奏することには定評があり、数多くのレコーディングを残しています。しかし、それはもっぱらかつてのスタンダードであるベートーヴェンやモーツァルトに限られたことであって、ちょっと新し目のファンが喜ぶマーラーやブルックナーあたりはほとんど目に付かないのではないでしょうか。いや、確かに、マーラーに関してはおそらく交響曲のアルバムは全く出してはいないはずですが、ブルックナーに関しては、コンサートではちゃんと取り上げていました。なにしろ、ブルックナーの交響曲第4番を、世界で初めて録音したのは、ほかならぬベームなのですからね。それは、1936年頃にドイツのEMIであるELECTROLAに録音したもので、オーケストラはザクセン・シュターツカペレ(現在のドレスデン・シュターツカペレ)でした。しかも、その頃はブルックナーの弟子によって改竄された楽譜しか出版されていませんでしたから、当時の指揮者、フルトヴェングラーとかクナッパーツブッシュなどは、「改訂版」と呼ばれるそれらの楽譜を使って演奏していたのですが、ベームは新しく出版された原典版(その時はハース版)を使っていたのですからね。
ただ、その後はDECCAやDGといったレーベルはすでに他の指揮者によるブルックナーの交響曲の録音を持っていましたから、レパートリーが重なるためにベームに録音をさせることはありませんでした。それでも、1970年代になって、やっとDECCAで3番と4番、DGで7番と8番を、それぞれウィーン・フィルと録音することが出来ました。
ただ、8番ではそのような正規の「商品」ではない、ラジオ放送用の音源などを使ったブートレグまがいのものは、ウィーン・フィルのものをはじめ、ベルリン・フィル、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、バイエルン放送響、北ドイツ放送響、ニューヨーク・フィルなどとの録音が残っています。そのベルリン・フィルとの1969年の録音が、今回晴れてTESTAMENTから正規品としてリリースされました。
これには、もう一つポイントがあります。それは、ここで1番フルートを吹いているのは、このコンサートの数か月前に入団したばかりのジェームズ・ゴールウェイだ、ということです。ベームがDGでベルリン・フィルと精力的に録音していたのはゴールウェイが入団する前のことでしたが、1970年にかろうじて「ポストホルン・セレナーデ」で共演出来ていました。そこでのゴールウェイのソロは、とても伸び伸びとした素晴らしいものでした。
ベームという人は、ライブとセッション録音とではだいぶ演奏に対する姿勢が違っているようです。ブルックナーの8番でも、演奏時間を比べるとライブは72分とか74分といった感じですが、DGでのセッション録音は82分ですから、テンポだけでもかなり違っています。それだけ、ライブの方が勢いのある演奏になっているのではないでしょうか。
この1969年のベルリン・フィルとのライブも、かなりサクサクと進むスピード感にあふれるものでした。そこでのゴールウェイは、なんだかちょっと居心地が悪かったのでは、というような気がします。ソロで本当はもっと歌いたいのに、指揮者が先に行ってしまうもどかしさ、みたいなものが何となく感じられてしまいましたね。
実はゴールウェイは、1975年、このオーケストラを去るちょっと前に、この曲をカラヤンの指揮で演奏しています。それは、まさにゴールウェイのやりたかったことがカラヤンによって引き出されたような素晴らしいものでした。特に、カラヤンはハース版を使っていますから、ノヴァーク版で演奏されたベームの時にはカットされていた第4楽章の「O」と「P」の間にあるフルート3本の長大なソリを嬉々として吹いていました。

やはり、フルーティストであれば、この曲はハース版をつかってちょうだい、と言いたくなるのでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-21 20:51 | オーケストラ | Comments(0)
「モルダウ」のアレンジもひどかったですね
 「森のくまさん」を引用した歌を歌っていた人が訴えられたそうですね。この歌の訳詞の権利を振りかざしている人が過去にどんなことをしてその「権利」を手にしたかということ考えれば、なんと厚かましい、と思ってしまいますよ。盗っ人猛々しいとはこのことでしょうね。正直あの替え歌の出来はイマイチですが、あれを歌っている人は応援したくなってしまいます。まあ、でもあんなアホに付け込まれないように、きちんと許諾だけは取っておくべきだったんでしょうね。そういうギスギスした世の中なのですから仕方がありません。隙を見せれば終わりです。現実は、映画やドラマのように都合よく行くものではありません。いや、最近は、それすら完結していないものも多いかもしれませんね。
 1月も半ばを過ぎ、テレビドラマの新しいシーズンも始まり一通り出揃ったので、その中の何本かを見てみました。まずは、これは外せないと思っていたのは「カルテット」。なんたって「クラシック」の音楽家が主人公ですからね。例によって、これが始まる前には「番宣」がらみでいろんなバラエティに出演者が出ていましたから、その時に楽器の特訓を受けていたことも話していたので、その辺は安心できるな、とは思っていました。映画などでは、本当にそのあたりの「なり切り」ぶりはすごいものがあって、本当に楽器が弾けるんじゃないか、と思ってしまう人をたくさん見ていますし。
 でも、ちょっと今回はあまりにひどすぎ。私の守備範囲外の楽器なのでそんなに詳しくは分からないのですが、それでもこれはいくらなんでも、というのが多すぎましたね。せめてビブラートのふりぐらいはやってほしいものです。それと、弦楽器の人って、チューニングの時にはチューナーを使わないんですか?せめて音叉とか。
 ただ、それを除けば(いや、除いてしまったら、そもそも見る価値がなくなってしまう?)ドラマとしてはけっこうおもしろそうでしたね。時系列が脈絡なく前後するなんてのはお約束ですし、適度に謎を絡ませて次回への期待を誘う、というのも王道のテクニックです。それが果たしてテクニックに終わらずにしっかり意味のあるものに昇華できるのかは、見てみなければわかりません。私は、サンドウィッチマンの冨澤が鍵を握っていると思うのですが(笑)。
 もう1本は、「東京タラレバ娘」。なんたって榮倉奈々が出てるんですから、これは見ないわけにはいかないでしょう。とは言っても、吉高由里子まで出ているというところには、ちょっとしたためらいが加わります。案の定、ここでの吉高は最悪でした。これはもう捨てるしかないでしょう、とは思ってみても、もしかしたらこの先榮倉奈々がメインの回もあるのではないか、という気もするので、もう少し様子見ですね。期待はできませんが。最後のクレジットで「レバ」があ~ちゃんだったのは、軽いサプライズ。エンディング・テーマがPerfumeですからね。
 あとは、WOWOWであと3本見てますから、もうこれ以上増やすと見る時間がなくなってしまいます。それと、朝のBSでやっている昔の朝ドラ「ごちそうさん」は、リアルタイムで見てますからね。これは何回見てもしっかり楽しめますから外せません。朝の7時15分からなので、土曜日など朝寝をしたいときにはしっかり録画してますし。
 ですから、今やっている朝ドラのあまりのつまらなさには、年末まで我慢して付き合っていましたが、とうとう我慢が出来なくなって、今年の分からは見るのをやめました。主人公があんなに暗くては、辛くなるばかりです。というか、朝の忙しい時間をこんなものに15分も費やしていたなんて、後悔してもしきれません。でも、次回はかすみちゃんですから、ちゃんと見ますよ。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-20 22:11 | 禁断 | Comments(0)