おやぢの部屋2
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バーコードが消えてました
 3連休も3日目ともなると、さすがにどこへも行きたくなくなるので、外に出ないで部屋の中でたまったビデオ三昧と行きましょう。なにしろ、オペラなんかはもう全然見ているような時間は取れないので、録画即ダビングでディスク容量を増やさないと、録画が出来なくなってしまいます。だいぶ前のレコーダーなので、500GBしか容量がありませんから。出来れば最新の2TBぐらいのが欲しいのですが、全然故障する気配も見せないので、仕方なく使っています。
 年末にはあの「24」の新作をまとめて放送していたので、それを録るためにも、ダビングは欠かせませんでした。「24」は、シーズン1から見ていたのですが、「4」あたりでもう同じことの繰り返しに嫌気がさして見るのをやめていました。でもこれが最後のシーズンだとか言っていたので、せっかくだから「9」を見ることにしました。なんと、これは「24」ではなく「12」ですから、少しは見るのも楽でしょう。
 見始めたらやっぱり面白くて、続けて2回分ぐらいずつ見ていたら、すぐに終わってしまいました。しかし、さすがにブランクは大きくて、「見ないでいたうちに、いろんなことがあったのだなあ」という感慨に浸ってしまいましたよ。クロエはとんでもないメークをしているし、なんとオードリーのお父さんがアメリカ大統領になっていましたからね。でも、まあ登場人物が変わってもやっていることは全く同じですから、それはそれほどの問題ではありませんでした。でもやっぱり、敵は簡単に死んでしまうのに味方はなかなか死なないし、死んでも手厚く扱ってもらえるという、この手のドラマのお約束には、なんとも嫌悪感が募ります。そんなことを言っていたら、アクションドラマは成り立たないのでしょうがね。
 もちろん、年末年始といえば、普段やらないクラシックの番組もたくさん放送されていましたね。そんな中で、「第9」が2種類ありました。一つは、ラトル指揮のベルリン・フィル。去年行ったベートーヴェン・ツィクルスの一環ですが、その前にそのツィクルス全体を取材したドキュメンタリー・フィルムが入っていました。余談ですが、前にも書いたことがあるようにこの「ツィクルス」という言葉は、あるひとつながりのものを何回かに分けてすべて演奏することを指し示します。「『リング』のツィクルス」といったら、ワーグナーの「指環」4作をすべて演奏することですね。バイロイトあたりだと1週間ぐらいでツィクルスは完了しますが、普通のオペラハウスだと大体4年かかります。もちろん、オーケストラが「ベートーヴェン・ツィクルス」といった場合には、彼の9つの交響曲を全て演奏することになります。でも、中にはこの言葉を勘違いしていて、同じ作曲家の曲ばかり演奏する1回のコンサートのことを「ツィクルス」という人も、実際にはいたりしますから、そういう人には「それは違うんだよ」と、親切に教えてあげましょうね。
 このラトルの演奏は、なにしろベルリン・フィルがうまいのには舌を巻きます。もう、指揮者の指示には忠実に、いや、もしかしたらメンバーが自主的にやっていることに指揮者が合わせているだけのことなのかもしれませんが、もう一瞬たりとも目が離せないような豊かな表情がすべてのパートから提供されているのですから、すごいものです。ただ、それで音楽が素晴らしいものに感じられるか、といったら、それはまた別の問題。確かにすごいことをやっているな、という気にはなれますが、そこに一貫した意志、というか哲学が存在しているか、と言うとちょっと首をかしげたくなってしまいます。素晴らしいものを聴いた、という感じがあんまりしないのですよね。贅沢ですが。でも、合唱は素晴らしかったですね。
 そして、大みそかにやっていた、ブロムシュテット指揮のN響もやっと聴くことが出来ました。こちらはラトルのような無茶なことはやらずに、「大人」の音楽を聴かせてくれていたでしょうか。同じベーレンライター版を使っているのに、その受け止め方は正反対だったような気がします。こちらはあくまで作曲家の意思を尊重する姿勢でしょうか。でも、ピッコロの菅原さんは、アシは吹かずにずっと居眠りをしていましたが、4楽章になったらもうオクターブ上げの応酬、なんと最後のDまで1オクターブ高い音を出していましたね。ですから、最後は「うちのごはん」にはなりませんでした。
こちらも合唱はあまり人数は多くありませんが、特に男声がしっかりしていましたね。でも、ルックス的には、ベルリン放送合唱団はちゃんと服装を揃えていたのに、こちらは女性はみんな違うブラウスでしたし、男声もウィングカラーにタキシードという人が多い中で、レギュラーカラーが何人か混ざっているというのはちょっとみっともなかったですね。
それと一緒に次の番組も録画していたのですが、そのオープニングでゲストが出てきたとき、これはいったい誰なんだ、と思ってしまいましたね。

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by jurassic_oyaji | 2017-01-09 21:29 | 禁断 | Comments(0)
昔のLPはもう手元にありません
 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲といえば、名曲中の名曲ですから、ニューフィルあたりでもすでに演奏しているのではないか、と思われるかもしれませんが、まだやったことはありません。というか、ヴァイオリン協奏曲自体があまり演奏する機会がありませんでした。やったことがあるのはブルッフの1番、メンデルスゾーン、モーツァルトの5番、シベリウスぐらいでしょうか。いつかはやってみたいですね。
 もちろん、ずいぶん昔から聴いてはいました。小学生ぐらいの時に家にレコードがあったんですね。私の記憶ではCBS原盤のPHILIPS盤、25㎝LPに1曲だけ入っていたような気がします。A面が第1楽章、B面が2、3楽章でしたね。演奏していたのはオイストラフ、オケはオーマンディ指揮のフィラデルフィア管だったはずです。そのころはFMラジオなんてありませんから、私がこの曲に接したのはこのLPだけだった、ということになりますね。この曲の隅々まで、このLPによって私の中に入ってきた、ということでしょうか。
 しばらくして大きくなったころ、テレビでこの曲を見ることがありました。でも、それはなんだか今まで聴いてきたものとは微妙に違うものでした。第1楽章の最初のソロがずっと弾いているところが終わって、オーケストラだけの間奏が始まります。ここはこの曲の中で一番好きなところ、金管楽器は華やかにリズムを刻むとてもカッコよく派手な音楽が続きます。そして、そのあとにちょっとした経過的な部分があって、またソロが入ってくる、というところで、なんか言い知れない違和感があったのですね。その経過部がやたらどんくさいんですよ。それは、派手な音楽が終わった後にほんのちょっとだけ出てきて、瞬時に場面が変わり、続くヴァイオリン・ソロを導き出す、という役割を果たしていたはずのものが、なんだかあっちに行ったりこっちに来たりしていったいどこへ行こうとしているのか分からなくなってしまい、もがきにもがいた末にそのヴァイオリン・ソロにたどり着く、という感じ、これはいったいなんなんだ、と思ってしまいましたね。その頃はまだクラシックの曲にいくつかのバージョンがあるなんてことは知りませんでしたから、これはLPの方が収録時間を超えてしまったので(なんせ25㎝ですから)このかったるいところをカットしてしまったのだな、と納得してしまいましたけどね。でも、それからこの曲を聴くたびに、やはりその部分の違和感は募るばかり、最初に聴いてしまった音源の影響は大変なものがあることを実感していました。
 そして、つい先日、この曲の最新録音のSACDを聴く機会がありました。そのライナーノーツの中で、「アウアー版」というものに触れていました。今ではそういうものがあったな、と思えるようになっていましたが、具体的にどう違うのかは全然知らなかったので、それを読んでみると、このアウアーという人はこの曲を「演奏不能」と言ったその人だというのは思い出しました。しかし、そのあとは理解を示すようになり、自分の校訂したリダクション・スコアを出版しています。ただ、その中に、「ここはカットして演奏しても構わない」という指示を多数入れていたのですね。IMSLPでも公開されていたので現物を見てみたら、そのカットされたところというのが、まさにあの最初のLPでカットされていたところだったことが分かりました。つまり、アウアーさんは私と同じように、この部分を「かったるい」と感じて、そのような指示を付けたのでしょう。これで積年の疑問がやっと晴れました。
 せっかくなので、もう1度それを聴いてみたいと思い、NMLでオイストラフのアルバムを聴いてみたのですが、数種類あったそれらの録音ではノーカットで演奏していましたね。あいにくCBSはここには入っていないので確かめようがないのですが、だれか聴いたことある人、いませんか?
 ただ、しっかり「アウアー・バージョン」というクレジットの入った録音は見つかりました。それは、メニューインがフリッチャイ指揮のRIAS響と1949年に録音した放送音源。バック・インレイにちゃんと書いてありますね。
 それを聴いてみたら、そこはほんとにLPそのものの音楽でした。いやあ、懐かしかったですね。やはりこの方がすんなり入ってきますよ。ただ、楽譜を見ながらよくよく聴いてみると、それはたまたまそのカットの場所は同じでしたが、第3楽章などはアウアーの指示を通り越してさらに大胆なカットを施しています。その結果、この楽章はほぼ半分近くがなくなっていましたね。そして決定的なのは、アウアーが楽譜を完全に書き換えてしまった部分が、さっきの第1楽章の間奏の前にあるのですが、そこをメニューインはアウアーが直す前のチャイコフスキーの楽譜で演奏しているのですよ。つまり、この「version:Leopold Auer」というのは、全くの「偽装表示」だということになります。こういう、ちょっと現物を聴けばすぐわかることをごまかす体質は、未来永劫この業界からなくなることはないんでしょうね。困ったものです。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-08 21:47 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Violin Concertos
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Isabelle Faust(Vn)
Giovanni Antonini/
Il Giardino Armonico
HARMONIA MUNDI/HMC 902230.31




レーベルのクレジットが以前は「harmonia mundi s.a.」だったものが「harmonia mundi musique s.a.s.」に変わりましたね。なにか、社内の組織替えのようなことがあったのでしょうか。そういえば、以前はノーマルCDでも、ハイレゾ音源を無料でダウンロードできるパスコードが付いてきたことがありましたが、あれもいったいどうなったのでしょう。今回のファウストのアルバムでは、ヴァイオリンがとても繊細な音を出していますから、ぜひハイレゾで聴いてみたかったのですが。
彼女が録音したのは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲でした。旧全集では全部で7曲のヴァイオリン協奏曲が存在していたはずですが、「6番」と「7番」は偽作の疑いが強く、最近ではまずこういう全集に入ることはないようですね。実際、この2つの協奏曲を聴いたことはありません。いや、「5曲」の中でも、もっぱら演奏されるのは「3番」、「4番」、「5番」の3曲だけでしょうから、「1番」と「2番」も聴いたことはないんですけどね。
今回ファウストと共演しているのは、ピリオド楽器の団体、ジョヴァンニ・アントニーニの指揮するイル・ジャルディーノ・アルモニコです。この指揮者とオーケストラの演奏は数多くのCDで聴いたことがあり、とても個性的で訴えるものの多い演奏が間違いなく味わえる団体として印象に残っています。ですから、そこと共演するにあたって、ファウストも同じ志向性を持ったスタイルを取っているのでしょう。そのために、彼女のモダン楽器にはガット弦を張り、奏法ではノン・ビブラートや装飾を取り入れるという、双方からのアプローチでピリオドのスタイルを作っているのでしょうか。
というような先入観で聴き始めたら、彼女はそんな中途半端なやり方ではなく、もうどっぷりとピリオド楽器そのものの音と、そして音楽を奏でていたではありませんか。これには、ちょっと驚いてしまいました。
そんな「なり切り」がとても効果的に聴こえるのが、さっきのあまり演奏されることのない「1番」や「2番」です。特に、真ん中のゆっくりした楽章での表現は、ぶっ飛んでいます。まずは、もしかしたらモーツァルトの時代様式を超越しているのではないかと思えるほどの自由な装飾です。バロック期の作品では聴き慣れていた華麗な装飾がモーツァルトで使われると、そこには「宮廷音楽」のぜいたくな世界が広がります。確か、フリードリッヒ・グルダも同じようなことをやっていましたね。ただ、彼女の場合はモダン・ヴァイオリンの音色からは逆に華麗さを取り除く、という大胆なやり方で、さらにその時代の音楽に近づいていきます。とりあえず比較してみたのがイツァーク・パールマン、どんな時にもビブラートを忘れないで甘~く歌うのがヴァイオリンという楽器なのだ、というのも一つの完成されたスタイルなのかもしれませんが、ここで彼女が聴かせてくれたまるでファルセットのようにハスキーなピアニッシモのセクシーさに抗うことなど、とてもできません。
アントニーニのチームも、骨太なモーツァルトを演出してくれています。特に強力なのが低弦。単なる低音ではない、しっかりと主張を持ったパートとして、確かなインパクトを与えてくれています。「5番」の終楽章に出てくるトルコ行進曲で使われるコル・レーニョの激しさには、思わずたじろいでしまいます。
モーツァルトには頻繁に出てくる前打音の扱いについても、ユニークなレアリゼーションが見られます。

「5番」の第1楽章のテーマですが、3回連続して出てくる前打音が、最初の2回は前の音が短く不均等(三十二分音符と付点十六分音符)なのに、最後だけは均等に(十六分音符が2つ)演奏しているのですね。このような自由さがとても魅力的。
それと、アンドレアス・シュタイアーが作ったカデンツァとアインガンクも、やはりそんな自由な雰囲気が満載の素敵なものでした。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.
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by jurassic_oyaji | 2017-01-07 20:53 | ヴァイオリン | Comments(0)
最後は「虹に続く道」
 新しい新車のオーディオ関係のチェックは続きます。これが、ナビをAVモードにした時のディスプレイ。横にあるボタンを押すと、このディスプレイ自体が反転して、裏からCDとSDカードのスロットが現れます。いかにもなメカですが、なんだか壊れやすそう。果たして何年(何か月)持つのでしょうか。
 前回SDカードのスロットがあるというので確認してみたら、そこにはすでにカードが入っていました。それを抜いて、そこにまずはハイレゾ音源をコピーして、果たして再生できるかを検証してみましょうか。いろいろ取り揃えてありますが、まずDSDはだめだろうと決めつけて、FLACとWAVで試します。でも、これはまったく無反応、「音楽データは見つかりません」という表示が出るだけです。やはり、ハイレゾ関係はだめなんですね。そこで、CDと同じフォーマットの音源で試しましたが、それもやはり認識されませんでした。な~んだ、という感じで、MP3を入れてみたら、これは見事に再生できるようになりましたね。期待した私がバカでした。そもそも、カーオーディオでハイレゾなんて、全く意味がありませんからね。
 さらに、マニュアルを読んでみたら、対応ファイルはMP3とかAACといった圧縮ファイルしかないことも分かりました。というか、このSDカードは、このナビでCDを再生すると、それをそのままリッピングしてMP3で保存してくれるようになっているのでした(もちろん、保存のキャンセルもできます)。それを再生するのが「MUSIC STOCKER」というところです。ということは、かつてCDを何枚(何十枚)も収納して、それをランダムに再生できるという「CDチェンジャー」という機械がありましたが、あんな、トランクをいっぱいにするような装置が、このカード1枚に収まっている、ということになりますね。ですから、うれしくなって、シンガーズ・アンリミテッドのオリジナルCDを、持っているだけ全部リッピングしてしまいましたよ。1枚5分ぐらいで出来るんですね。
 その時に、アルバムタイトルとトラックタイトルが自動的に付けられていました。最近は、CDにもそういうメタ情報が入っているのかな、と思ったら、中には付かないものがあったので、手動でタイトルを付けたらなんだかナビが交信を始めましたよ。そうしたら、カタカナで入力したタイトルがちゃんと英語になっているだけでなく、トラックのタイトルも全部付いているではありませんか。そうなんですよ。このデータはCDに有ったのではなく、データベースと照合して付けていたのですよ。そんな時代になっていたんですね。これで、車の中でラジオがつまらない時には、シンガーズ・アンリミテッドで癒されることが出来ます。
 彼らは、録音専門のグループでしたから、アルバムを作らなくなったら自然に解散状態になり、今では半分のメンバーが故人になってしまいました。グループなんて、そんなもんですよ。SMAPが解散したということで日本中が大騒ぎしてますが、それほどのことだとは私には思えないんですが。というより、あの「世界に一つだけの花」という曲が大嫌いでした。なんで、歌で説教を聴かなければいけないのか、という気になってしまいますからね。
 ですから、そのあとを追うように発表されたいきものがかりの解散(ではなくて休業)のほうが、よっぽど気になりますね。その報道の中で「YELL」がたびたび流れますが、これは本当にいい曲だな、と心から思えます。「世界に~」とは比べ物にならない素晴らしい作品ですよね。
 実は、もう1件、そんなグループよりはるかに大切な人たちの「解散」のニュースを知って、激しく動揺しているところです。それは、私も4年間だけ参加したことのある「コール青葉」という東京の合唱団です。確か2005年に結成されて、毎年東京オペラシティのコンサートホールで演奏会を行ってきました。私が出たのは2006年から2009年まででしたね。その間には安野光雅さんの曲をもって、安野さんの故郷の津和野に演奏旅行に行ったりして、とても素敵な思い出が出来ました。そこが、13回目となる今年の演奏会で、その活動を終わらせる、というのです。この前東京に行って音楽監督さんに会った時には、そんなことは全然言ってなくて、ただ練習形態がちょっと変わるぐらいのことだったのに、いきなりこんな知らせが届いて、いったい何があったのか、と思ってしまいますね。だいぶ前には「25回までは続ける」と言ってましたから、その間にはやむを得ない事情が出来てきたのでしょうね。
 ですから、この「ラスト・コンサート」にはぜひ行きたいと思っているのですが、あいにくその日はニューフィルの指揮練ともろに重なっていました。でも、事情が許せばそれを他の人に替わってもらうことも出来なくはないので、今度新国に行った時に、お隣のオペラシティでチケットだけは入手しておくつもりです。そのコンサートでは、最後に「YELL」が歌われるのだそうです。そんなのを聴いてしまったら、間違いなく号泣してしまうでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-06 21:57 | 禁断 | Comments(0)
「ヒットソング」の作り方/大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち
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牧村憲一著
NHK出版刊(NHK出版新書506)
ISBN978-4-14-088506-2




ふつう「歴史」と言えば、過去の事実を忠実に述べているものだ、と思いがちですが、実際はそれほど単純なものではありません。それこそ「鎌倉幕府が出来た年号」のように、最近の研究によって昔学校で習ったものとは変わってしまうこともありますが、キレたりしないで下さいね(それは「ヒステリー」)。そもそもそのような歴史の元となるものが作られる場合に、公正中立な立場で行われることはあり得ませんから、様々な形での私見が反映されることは避けられないのです。
音楽の世界でも同じこと。過去に作られた信頼のおけない「歴史」がそのまま鵜呑みにされる状況は、なくなってはいません。ある時代のある国の研究者が、その国の文化の優位性を裏付けるために作為的に用意した、バッハを「音楽の父」、ヘンデルを「音楽の母」と崇め、まるでこの二人が「音楽」の創造主であるかのような偏見を植え付ける歴史観は、今でも脈々と生き延びています。現に、さる高名な作曲家がテレビの番組で「クラシック音楽はバッハから始まった」みたいなことを言っていましたからね。
同じ音楽でも、もっと歴史の浅い、いわゆる「ポップ・ミュージック」の世界でさえも、おなじような混乱はすでに起こり始めています。それぞれのジャンルに特化した様々な文献のようなものは数多く出回っていますが、それらは書いた人の立場、あるいは情報の収集能力の違いによって、全く同じ現象に対して正反対の見解が語られている、といったようなことが随所に見られるのです(たとえば、「ザ・ビートルズ」のレコーディング・プロデューサーだったジョージ・マーティンへの評価とか)。そのような混乱した一次資料を精査して、真に正しい事実だけを抜き出した「歴史」が語られるようになる時代は、果たして来ることはあるのでしょうか。
そんなわけで、将来の歴史家をさらに悩ますことになりそうな資料が、またここに追加されました。著者は、古くは六文銭の「出発の歌」(「出発」は「たびだち」と読むことを、今ではどのぐらいの人が知っているのでしょう)から始まって、大滝詠一や山下達郎、竹内まりやを経て、フィリーッパーズ・ギターに至るまで、その時代の最先端のアーティストの音楽制作に携わってきたレコーディング・プロデューサーが自らの体験を語っているのですから、これほど真実味にあふれる資料もありません。このあたりのアーティストについてはかなり知っているつもりでしたが、ここに書いてある新たな事実を前にして、軽い驚きを覚えているところです。例えば、山下達郎最初のソロ・アルバムのアメリカでのレコーディングの経緯とか。あるいは、竹内まりやのデビュー近辺の周囲の事情などは、初めて知ったような気がします。
さらに、実名を出して当時の製作者サイドのメンバーが紹介されているのも、貴重なものです。ただ、それらのデータが、単に著者の思い出話程度のレベルに留まってしまっているのが、残念です。
それと、この時代、1970年の前後の音楽シーンのさまざまな動きを指し示すタームにも、ちょっとした混乱が見られます。「フォーク」、「ニューミュージック」といった言葉の定義はかなり曖昧ですし、時には「シティ・ポップス」など、著者の感想だけでカテゴライズされている言葉が出てくるために、今までの資料とはすりあわないところが出てきているのですね。「歌謡曲と化したフォーク」というのは、いったい誰を指すのか、知りたいものです。
レコーディングに関しても、「マルチチャンネルを最初に発想したのは日本人のレコーディングエンジニア」などという、びっくりするようなことが書いてありました。これが本当なら確かにすごいことなのですが、言っているのはそれだけで、その根拠や具体的な人名は一切述べられていないため、WIKIPEDIA並みの全く信用性に欠ける記述に終わっています。

Book Artwork © NHK Publishing, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2017-01-05 20:57 | 書籍 | Comments(0)
あまりに警報が多くて、なんだかわからなくなります
 お正月ももう終わりますね。ほんのちょっと前にやったはずなのに、ということが繰り返される感じ、あれは本当に1年前に起こったことなのか、と激しく思うように感じるのは、やはり年のせいなのでしょうか。とにかく、1年が終わるのが早いんですよね。
 まあ、そんなことも言っていられませんから、年中行事を一つ一つこなしていくことにしましょう。まずは初売りです。とは言っても、朝早く並ぶような根性はありませんから、適当な時間に行って適当に雑踏に混じる、といった感じですね。確かに、駐車場はほぼ満車という感じです。
 ただ、家電なんかは、「限定○台」ということで、それこそ開店前から並ばなければ手に入らないようなものが、結構まだ売れ残ってましたね。その中に除湿機があったので見てみると、今使っていて水タンクがひびが入っているのをテープで貼ってごまかしているのとまったくおなじものでしたから、この際買ってしまおうか、と思ってしまいましたね。結局その場では決められなかったのですが、やっぱり買っておこうか、ということになって次の日に行ってみたら、まだしっかり残っていましたね。こんなんだったら、夜明け前から寒い中を待っていた人の立場はどうなってしまうのでしょう。
 そこから別のショッピングセンターまで行って、お昼ご飯を食べていると、同じ敷地内にあるホームセンターの駐車場で、こんな人を見つけてしまいました。
 車でやって来て、なにか長い木材みたいのを買ったのでしょうね。ただ、それを車に乗せようとしたら、長すぎてバックドアが閉まらないようでした。確かに、先端はダッシュボードの上まで届いていますからこれ以上中には入らないのに、まだかなり長い部分が外に出ていますね。いったい何を考えていたのでしょう。彼らがこの後どうなったのかは、私には分かりません。
 そんな中で、新しい新車はかなり長時間運転することになります。あるいは、運転しないで、愚妻が初売りに一人で行っている間に路上駐車をして待っている、なんてこともあります。そこで思い出したのが、最初にコクピットの説明を受けた時に教えてもらったUSB端子です。グローブボックスを開けるとそこにUSB-Aのメスの端子がマジックテープで留めてありました。ですから、そこからライトニング・ケーブルでiPhoneにつなげば、ラジコのタイムフリーを車で聴くことができるのではないか、と思ったのですね。ケーブルはいつも充電器と一緒に持ち歩いていますから、すぐに出てきます。それをつないで、ナビをAVモードにすると、いろんな入力が選択できるようになるのですが、とりあえず「AUX」あたりを選んでみても、全く音は出ません。やはり、そんなことには対応していないのかな、とディスプレイを見てみると、それとは別に「iPod」というボタンが見つかりました。ここだったらもしかしたら、と思って切り替えたら、見事、ラジコの音が出てきました。「i」関係だったら、なんでも大丈夫なんですね。
 前の車を買った11年前には、もちろんこんなことはできませんでした。聴けるのはラジオと、あとはCDとMDでしたよ。MDなんて今はもう誰も使っていませんからね。新しい新車には、もちろんCDのスロットは付いていますが、それ以外にSDカードのスロットもありました。今度はこれでハイレゾ音源が聴けるかどうか、トライしてみましょうね。
 今回のナビは、そんなオーディオ関係も充実していて、グライコまで使えるようになっていました。前の車が「高音」と「低音」のボリュームだけだったのに比べると格段の差です。車の中の音響なんてひどいものですから、このぐらい自由度があるとかなり好みの音に変えられますね。ただ、肝心のナビは、今まで全く使ったことがないのでこれからも積極的に使うことはあまりないでしょう。でも、街中の駐車場に停めると、「犯罪多発地帯です。ご用心ください」なんてしゃべってくれますから、ちょっとかわいいですね。
 いや、なんたって「本業」の運転でも、なかなかいい仕事をしてくれています。基本的に、運転している間はアクセルペダルだけですべてコントロール出来てしまいます。モーターの負荷で、完全に停止するまで減速できるんですよね。ブレーキを踏むのは停止している時だけ、これで、熱エネルギーを無駄に放出しなくても制動できることになりますから、燃費も当然よくなるのでしょう。だから、地球環境にも優しいのだ、なんてことは、絶対に言いませんよ。どんなことをしても、車は自然に反するものだ、ということだけは、常に考えるべきですからね。矛盾してますが。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-04 21:52 | 禁断 | Comments(0)
THORESEN/Sea of Names
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Maiken Mathisen Schau(Fl)
Trond Schau(Pf)
2L/2L 127-SACD(hybrid SACD)




まるで「日本のお正月」という感じのこのジャケットですが、作ったのはノルウェーのレーベル「2L」です。今まで、この超ハイレゾのレーベルでは、合唱を主に聴いてきましたが、これはフルートとピアノによる室内楽です。2Lが本気になってフルートとピアノを録音するとこんなものが出来るという、まさにぶっ飛んだ音が聴こえてきます。
まずはフルート。以前のエミリー・バイノンの演奏などでもそれなりの素晴らしい音は体験していましたが、今回はそれとは全然違います。まるで、コンタクト・マイクでも使っているかのような、それこそ奏者の唇の動きや舌の動き、そして楽器から出ているすべての周波数の音が、もれなく生々しく聴こえてくる、というすごさです。それは、あたかも無響室で録音されたかのような、ノイズに至るディーテイルまでも詳細に聴き取れるものであるにもかかわらず、決して無機質には聴こえないふくよかさを持っているという、恐るべき録音でした。
ピアノも、まるで楽器の天板を外してその中に頭を突っ込んで聴いているような、途方もないリアリティを持った録音がなされています。したがって、スピーカーの間には低音から高音までの弦に当たるハンマー付近の音の粒が広がることになります。低音はまるで地の底から響いてくるような深さ、そして高音はアクションの音まで聞こえてきそうな繊細で粒よりの音色がとらえられています。最高音のあたりになると、もしかしたらプリペアされているのでは、とも思ってしまうほどの、日常的にピアノから聴きとっている音とは次元の違う音がしています。
ここでフルートのマイケン・マティセン・スカウと、ピアノのトロン・スカウの夫婦デュオによって演奏されるのは、ノルウェーの重鎮作曲家ラッセ・トゥーレセンの作品です。彼の合唱曲はこちらで聴いたことがありますが、確かなオリジナリティを持った逞しい作風だったような印象はありました。
しかし、ここでの器楽曲では、それとはまた別の印象、楽器のメカニズムを最大限に生かして、何物にもとらわれない自らの語法をしっかり伝えようとする姿勢が、とても強く感じられます。それはまず、フルートの特殊技法によって熱く表現されます。ピアノとの共演によるタイトル・チューン「Sea of Names」は、この二人によって委嘱された新作ですが、そこでは、このフルーティストは、そんな特殊技法を、まるでジャズ・フルーティストが演奏しているようなとてもフレンドリーな形で提供してくれています。それは、時には日本の尺八のようなテイストさえも演出して、さらに親密さを高めています。
フルートだけで演奏される「With an Open Hand or a Clenched Fist?」というのは、トゥーレセンが1976年に初めてフルート・ソロのために作ったものですが、そのテーマがなぜか1995年に作られることになる、やはりフルート・ソロのための武満徹の作品「エア」ととてもよく似ているのが面白いところです。ただ、武満はそのままの感じで終わりますが、こちらはそのあとに全く別の曲想の部分が入ります。これが、フルートを吹きながら足で結構難しいリズムをたたき続けるという「難曲」です。このあたりはもろノルウェーの民族音楽に由来するイディオムですから、これは武満には無関係。
ピアノとの共演で最後に演奏されている「Interplay」は、1981年にマニュエラ・ヴィースラーのために作られたものです。そのタイトルのように、最初のうちはフルートとピアノがそれぞれ単独に演奏し会っていますが、そのうちに互いに入り乱れて高揚する、という面白い曲です。
ピアノだけの作品も3曲紹介されています。最も新しい「Invocation of Crystal Waters」では、ジョン・ケージのように演奏者に委ねられた部分なども含めつつ、最後はフーガで締めくくるというユニークさ、さらに、彼が多大な影響を受けた「スペクトラム・ミュージック」の残渣が随所に感じられるざんす

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2017-01-03 21:10 | フルート | Comments(0)
年越し蕎麦は、大人数で食べなければいけません
 あけましておめでとうございます。今年一部の人にお届けした年賀状のデザインはこんな感じです。
 いつものように、これは出来合いの年賀状用のイラストを、私なりに「改作」したものですから、全く同じものは他の人は使えるはずはないのですが、一人だけこれの「元ネタ」を使っていたのでちょっと焦りました。なんにしても、娘も家を出ていって今ではお正月を迎えるのは夫婦だけ、という状況を表したものになっています。
 大みそかには街のお蕎麦屋さんに行って年越しそばを買ってくるというのが、最近の習慣になっていますから、きのうも朝早くからそのお店の前で並んでいました。そうしたら、テレビ局のクルーがカメラのセッティングを始めましたね。ここでお蕎麦を買う様子は「毎年の暮の風物詩」として定番のネタですから、各局が入り乱れています。
 しばらく並んだら目的のお蕎麦や天ぷらが手に入ったので帰ろうとすると、その中のS放送のアナウンサーが、マイクをもって私に近づいてくるではありませんか。私に、そのネタのためのインタビューをしようというのですね。そんな場面は想定していなかったので、そのアナウンサーに問われるままに至極素直な答えを話します。「今夜はどなたとお蕎麦を召し上がるのですか?」と聞かれれば、「妻と2人だけです」とか、「来年はどんな年にしたいですか?」と聞かれれば「まあ、今年と変わらずに頑張ります」といった感じです。しゃべっていながら、こんなのでは到底ニュースで使ってはもらえないな、と思いつつも、務めて明るくしゃべる私でした。
 あとで、その曲のニュースを見てみたら、案の定私のインタビューはボツになり、「お蕎麦は孫たちと一緒に食べます」みたいな、「適切な」コメントを寄せた人がテレビの中では語っていましたね。
 そんな無駄な仕事で年を終わらせるのは嫌だったのですが、4月に出た仙台フィルのFacebookページでは、私がしっかり写っている写真がアップされていましたね。これは、まだ見たことがなかったので、さっそくシェアさせていただきました。
 これは仙台でのカーテンコール。合唱は客席で歌いました。私は前列、下手から10人目です。
 そして、これはサントリーホール、私は前から2列目、上手から3人目です。どちらの写真も、もっと大きなサイズの画像にリンクしていますから、それぞれをクリックしてみてください。
 今年も、様々な音楽的な体験をしていきたいと思っています。サントリーホールでオーケストラを聴く、という積年の望みはかなったので、まずは新国立劇場でのオペラ・デビューを予定しています。今月の28日に、「おと休」を利用して「カルメン」を聴いてきます。それだけではパスがもったいないので、次の日も東京の楽譜店巡りなどをしたいのですが、その日は夕方から「杜の都合」の練習が入っていますから、それまでには帰ってこなければ。
 あとは、3月に、これが最後となる「コール青葉」の演奏会にも行きたいのですが、こちらはもろニューフィルの指揮練と重なっているので、ちょっと無理でしょう。でも、11月の「アッシジの聖フランチェスコ」の日本初演には、ぜひ行きたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2017-01-01 20:45 | 禁断 | Comments(0)