おやぢの部屋2
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MANSURIAN/Requiem
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Anja Petersen(Sop)
Andrew Redmond(Sop)
Alexander Liebreich/
RIAS Kammerchor
Münchener Kammerorchester
ECM/481 4101


アルメニアの作曲家、ティグラン・マンスーリアンは、毎月新作を発表していますが(それは「マンスリー」)、2011年には「レクイエム」も作っています。
この年号を見て「もしや」とも思ったのですが、この年に日本で勃発した大災害とは何も関係はないようです。というより、作り始めたのは2010年ですから、まだあの悲劇は起こってはいませんでした。作曲家によれば、ほぼ1世紀前、1915年から1917年にかけての、トルコによるアルメニア人の虐殺の被害者の想い出のために作られたのだそうです。それは、彼自身の家族へもおよんだ事件だったのです。
委嘱は、このCDで演奏しているRIAS室内合唱団とミュンヘン室内管弦楽団からのものでした。初演はもちろんリープライヒの指揮するこの団体によって、2011年11月19日に、ベルリンのフィルハーモニーの室内楽ホールで行われました。それに続いて、23、24、25の3日間ドイツ国内で演奏が行われ、2013年1月16日には同じメンバーによるアルメニア初演も行われました。
それ以降、今日までに韓国、アメリカ、ポーランド、メキシコ、オーストリア、エストニア、スイスなど、世界中で演奏されています。
今回の録音は、作曲家の立会いのもと、献呈者、つまり初演メンバーによって2016年1月に行われました。会場はかつてカラヤンとベルリン・フィルが使っていたベルリンのイエス・キリスト教会です。ブックレットに写真がありますが、オーケストラは弦楽器だけが6.5.4.4.2で、左からVnI、Va、Vc、VnIIと並び、Vcの後ろにCbが来るという、変則的な対向配置になっています。合唱も、左からベース、アルト、テナー、ソプラノというやはりちょっと珍しい並び方です。楽譜には特に配置に関しての指定はないようなので、これは演奏家のアイディアなのでしょうか。特にオーケストラでヴァイオリンが左右に分かれているのは、同じ音のロングトーンを受け渡すようなシーンでとても効果的です。
まずは、その会場の響きを熟知し、完璧な音を記録した「トリトヌス」のペーター・レンガーとシュテファン・シェルマンの2人のエンジニアの仕事ぶりに圧倒されました。全体はしっとりと落ち着いたモノトーンに支配され、豊かな残響に包まれています。オーケストラはそれほどの人数ではありませんが、とても充実したサウンドが広々とした音場で広がっています。そして、合唱は40人ほどですが、全く歪のない透き通った音は驚異的です。
この「レクイエム」は、伝統的なラテン語のテキストによって作られています。ただ、作品は演奏時間が45分程度とちょっと短め。それは、テキストのうちの長大なSequentiaからは、「Dies iras」、「Tuba mirum」、「Lacrimosa」の3つの部分しか使われていないからです。
なんでも、アルメニアというのは、世界で初めてキリスト教を「国教」と定めた国なのだそうです。作曲家によれば、全く同じテキストでも、ローマ・カトリックの教会での受け止め方とはかなり異なっているということです。おそらく、それはこの曲を聴いたときにはっきりと聴衆には伝わってくるはずです。時折ユニゾンで聴こえてくる聖歌のメロディは、カトリックでの音楽がベースとしたグレゴリア聖歌とは、微妙なところで雰囲気が別物です。
とは言っても、やはり死者を悼む気持ちを表現する時には、そのような些細なことはあまり問題にならなくなってきます。「Reqiem aeternam」の冒頭の和声は、まるでメシアンのように響きますし、次の「Kyrie」でのリズミカルな変拍子の応酬は、まるでバーンスタインの音楽かと思ってしまうほどです。そして、全体の雰囲気が、大好きなデュリュフレの作品とどこかでつながっているような気がしてなりません。またお気に入りの「レクイエム」が増えました。
中でも、ヴァイオリンのソリストのグリッサンドによる下降音から始まる「Lacrimosa」は、直接的に「悲しみ」が伝わってくる感動的な曲です。心の震えを抑えることが出来ません。

CD Artwork © ECM Records GmbH

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# by jurassic_oyaji | 2017-05-23 22:57 | 合唱 | Comments(0)
ネタバレはありません
 子供のころは、「少年サンデー」と「少年マガジン」を創刊号からずっと読んでいましたが、大人になってからはそういう習慣はなくなっていました。かろうじて「ビックコミックオリジナル」だけは、毎週欠かさず立ち読みをするだけです。それも、最近では読むものが極端に少なくなっていて、「黄昏流星群」と「どうらく息子」しか読まないようになっていましたね。それ以外のものは、全く読もうという気にならないのですよ。特に絵が、生理的に受け入れられないようなものばかりで。とりあえず「どうらく」の方は読みごたえがあるので、毎号楽しみにしていました。
 ところが、きのうの最新号を見てみたら、その「どうらく」が載ってません。よくよく考えてみると、その前の号でも読んだ覚えがありません。そう、それでもう1度読み返して確かめてみようと思っていたら、すでに次の号が出ていたんですね。休載なのかな、と目次を見ても何の告知もありません。そうしたら、なんとこれはもう終わっていたというのですね。ですから、その「最終回」は確かに読んでいました。でも、記憶をたどると、とてもこれが最後とは思えないような内容だったような気がしますけどね。物語からしても、まだまだ先があるような作り方でしたし。
 ということは、これは体のいい「打ち切り」だったのでしょうか。なんか、とても気になります。
 もう一つの「黄昏」も、もうただ習慣で読み続けている、というだけですね。最近は完全に予想通りの展開、つまり、全く当たり前の結果しか出てこないというのには、本当にがっかりさせられます。もうストーリーを作り出すことが出来なくなっているのですから、潔く引退したらいいのにな、と思ってしまいますね。今の養殖漁業の話が終わったら、もう「オリジナル」を立ち読みすることはなくなるでしょう。これも創刊号以来という長い付き合いでしたが、これが潮時というものです。何事にも終わりはあります。
 こんな先が見通せる安直なコミックではなく、もっと強固なプロットを持った本は、やはり読んでよかったと思えるものがたくさんあります。最近読んだのが、この2冊。
 「京都寺町三条のホームズ」は、なんか軽いものが読みたくて「ジャケ買い」した第1巻がとても面白かったので、続巻が出るたびに読んでいます。それが今では7巻目、高校生だった主人公がそろそろ大学生になってしまうので、もうこのシリーズも終わりかな、と思って読んでみると、あとがきにはまだ続ける用意があるようなことが書いてあったので、まずは一安心。この作者だったら、いたずらに長引かせて「黄昏」の轍を踏むようなことはないでしょう。というのも、巻を重ねるにつれて、どんどん中身が濃くなってきていますからね。最初のころは、なんとも他愛のない話だったのが、今回などは恐ろしいほどの深いところまで行きついていましたよ。ある意味、登場人物の成長譚なのですが、作者自身も成長しているというのがよく分かります。
 成長はやはりどんな人にも必要なものなのではないでしょうか。それをやめてしまった人には、もう何の興味もなくなってしまいます(〇谷〇喜とか)。
 もう一つの東野圭吾については、もう完成されている世界ですから、新しい本を読んで裏切られたことはありません。ただ、この「虚ろな十字架」では、途中でちょっと「これは」と感じてしまうような場面がありました。ちょっと、「主張」が強すぎるんですよね。それも、かなりデリケートな問題で、相当の断定的な主張が登場人物から発せられるんですよ。ちょっと引いてしまいましたね。でも、それにはきちんと意味があったことが、最後になると分かります。いつもながらの、どこにも無駄のない伏線がきちんと張られていたのでした。つまり、清貴くんが葵ちゃんと別れたようなものなんですね。
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# by jurassic_oyaji | 2017-05-21 21:27 | 禁断 | Comments(0)
唱歌・童謡 120の真実
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竹内喜久雄著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-91064-3


「唱歌」や「童謡」についてはかなりのことを知っていると思っているのですが、本屋さんにあったこんなタイトルの本の帯に「名曲誕生伝説のウソを徹底調査!」などという挑発的なコピーが躍っていれば、手に取って読んでみないわけにはいきません。
タイトル通り、ここには全部で120曲の、主に子供が歌うために作られ、時代的には「唱歌」、「童謡」、さらには「こどものうた」とその呼ばれ方を変えてきた歌の詳細なデータが掲載されています。それぞれの歌は1曲ずつ見開きの2ページに印刷されているのが、とても見やすい工夫です。左のページには、歌詞と楽譜、そして作詞者、作曲者はもとより、その曲が初めて世の中に現れたデータまでもがきちんと載っています。特にうれしいのは、今までは「文部省唱歌」という表記だけで、個別の作家の名前が全く分からなかった曲に、しっかりクレジットが表記されていることです。
明治政府がどのような姿勢で「唱歌」を作り、流布させたかということに関しては、以前ご紹介した「歌う国民」という本に詳しく述べられていましたが、そこでは作詞家や作曲家の名前は明らかにしないという方針が貫かれていたのですね。みんなとてもよく知っている曲なのに、単に「文部省唱歌」とだけ表記されて、実際に作った人の名前のないものが、かつてはたくさんありました。それが、近年の研究によってかなりのものの作者がきっちり特定できるようになりました。その成果がここでは生かされています。たとえば、1987年に出版された「ふるさとの四季」という唱歌を集めた合唱のためのメドレーには11曲の唱歌が使われていて、そのうちの6曲が「文部省唱歌」となっていたのですが、ここではそのうちの4曲にしっかり作家の名前がありました。どんな歌にも必ずそれを作った人はいるのですから、それを明確に表記するのはとても大切なことです。
「唱歌」と「童謡」との境界線はなにかということに関しては様々な見解があるでしょうが、単に楽譜が出ただけではなく、それが実際に「音」となって世の中に広まった物が「童謡」だ、という見方もあるかもしれません。ということで、初出データも、ある時期からはレコードがリリースされた時のレーベルやアーティストになってきます。こんな扱いも、おそらく今までのこの手の本にはなかったことなのでしょう。
長年気になっていたことが、初めて腑に落ちた、というものも有りました。それは「おもちゃのチャチャチャ」の作詞家の件です。この曲では作詞家のクレジットは野坂昭如となっていますが、そこに「補作詞:吉岡治」と書いてあるものも有るのです。常々、野坂の小説の世界とこの曲の歌詞との間にはあまりにも大きな隔たりがあると思っていたのですが、その疑問は氷解しました。
ただ、気になることはいくつかあります。巻末には参考文献として「インターネット」というカテゴリーもあるのですが、その筆頭がWikipediaというのは、ちょっと情けないですね。さらに、それらの文献からの「参考」では済まない、ほとんどコピペのような文章にも、しばしば出会えます。先ほどの「おもちゃのチャチャチャ」などは、その一例です。
そして、これは2017年3月に刊行されたばかりの新しい書籍なのですが、実は2009年9月に、同じ著者による「唱歌・童謡100の真実 ~誕生秘話・謎解き伝説を追う~」という書籍が出版されているのです。この件に関して著者は「追記」として、「本書は、最初の構想では第1章から第4章までの100曲で完結していた。それが、さらに20曲について言及する『付章』を加えることになった」とは書いていますが、2009年版に関する言及は全くありません。これは、ちょっとアンフェア。
「カチューシャの唄」を「野口雨情作詞」としているちょっと恥ずかしい誤記(134ページ)もありますし(語気を強めて抗議しましょう)。

Book Artwork © Yamaha Music Entertainment Holdings, Inc.

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# by jurassic_oyaji | 2017-05-20 20:51 | 書籍 | Comments(0)
今度はクロークは使いません
 身内に高齢の人がいて、ちょっと具合が悪くなると近くの病院に行って点滴を受けてもらったりします。もちろん、一人では行けないので 送り迎えは誰か手の空いた人が行います。今日は、他の人が都合が悪かったので、私が迎えに行くことになりました。ノートe-Powerを、ちょっと狭い病院の駐車場に、高齢者がすぐ乗れるように停めます。前の車だとなかなかギリギリまで壁に寄せたりできなかったのですが、これはソナーもバックモニターも完備しているので、後方視野は完璧です。
 待合室に入っていくと、もう終わって待っているはずなのに見当たらないので看護婦さん(死語)にきいてみると、「もう終わってますが、バッシンを行っているのでしょう」と答えてくれました。え、バッシン?バッシングのことでしょうか。何も悪いことはしていないはずなのに。いやいや、そんなわけはなく、私はすぐに「点滴の針を抜くことなんだな」と分かりましたけどね。「抜針」ですね。生まれて初めて聞いた言葉ですが、それで間違いはないはずです。ふだん、変な専門用語(「モツレク」とか「神たそ」)ばかり使う現場にいるものですから、こんな直球勝負の言葉だったら楽勝です。
 そのe-Powerですが、さすがに今日は暑かったのでエアコンを入れました。以前、この車はエンジンが暖まりにくいので暖房がなかなか入らない、と苦言を呈したのですが、冷房の場合は逆にこのシステムならではの快適さがあるようでした。エンジン車だと、エアコンの動力はエンジンから取っているので、エンジンがあまり回らない時、スタート時とかアイドリングの時にはあまり冷房が効きません。それが、こちらはエンジンに関係なくバッテリーでエアコンを動かすので、アイドリングの時でもしっかり冷房が効いてくれます。それと、エアコンを使っている時のエンジン車は、加速なども落ちてしまいますが、そんなことは全くありません。長いこと、そんな冷房時のパワーの変化を体験していたものですから、それに全く関係なく軽やかに走れるのは感動ものですね。
 でも、いいことばかりではありません。当然のことですが、バッテリーの消費が大きくて、今まではどんな時でも半分以上は充電されていたものが、エアコンを使ったらすぐに半分以下、あるいはもっと少なくなってしまいます。それを充電するためのエンジンが回るようになっているのですが、それは完全に自動で働くので、もうほとんどバッテリーがなくなって焦っているのにエンジンはさっぱり動いてくれなくて気が気じゃなくなる時がありますね。結局、いつの間にかフル充電されているようなので心配はないんですけど、なんかすべて機械任せというのは不安ですね。
 今月は、なんだかいつも忙しい思いをしていたようでした。気が付いたらもう来週は大きな行事が迫っていたのですね。懸案だった、グランドピアノの下に敷くコンパネも、昨日やっと買ってきました。持って帰るときにe-Powerに積むと、ちょうど中に入ります。ただ、天井に沿って運転席の上まで来るので、それを頭で支えていなければいけないかな、と思っていたら、ヘッドレストを上げればその上に乗ってくれました。ですから、何のストレスもなく運んで来れましたよ。ただ、後でヘッドレストの上を見てみたら、そこにコンパネの細かい木屑がいっぱい付いていましたね。それは払ったぐらいでは取れなくて、ガムテープで剥がさなければいけませんでした。
 来月になると、ほぼ毎週週末はコンサート、という予定になっています。特に、最初の週は東京まで日帰りで新国に「ジークフリート」を見に行く予定。日曜のマチネなので、楽々帰ってこれると思っていたのですが、サイトで演奏時間を見てみたら、休憩時間を含めて終演まで6時間かかるんですって。幕間の休憩がそれぞれ45分ずつあるんですよね。なんか中途半端。その間何をやって時間をつぶせばいいのでしょうね。2時から始まって8時に終わるのですが、帰りの新幹線も結局9時半までちょうどいいのがないので、ここでも時間が余りそう。でも、キッチン・ストリートは開いてますから、そこで遅めの夕食でしょうか。
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# by jurassic_oyaji | 2017-05-19 22:16 | 禁断 | Comments(0)
MESSIAEN/Quartuor pour la fin du temps
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David Krakauer(Cl), Matt Haimovitz(Vc)
Jonathan Crow(Vn), Geoffrey Burleson(Pf)
Socalled(Electronics)
PENTATONE/PTC 5186 560(hybrid SACD)


いつものPENTATONEのSACDですが、ジャケットの下の方に「PENTATONE OXINGALE SERIES」とあるのが、ちょっと気になります。これは、このオランダのレーベルが、カナダの「OXINGALE」というレーベルと提携してリリースしたアイテムなのだそうです。2000年に創設されたOXINGALEレーベルは、先駆的なアーティストを擁してクラシックのカテゴリーを超えた斬新なアルバムをリリースしてきました。レーベルのメインのアーティストは、チェリストのマット・ハイモヴィッツと、プロデューサーとしてもかかわっている作曲家のルナ・パール・ウールフです。
このメシアンの有名な作品「時の終わりのための四重奏曲」が収録されたアルバムも彼女のプロデュースで2008年に録音されたもので、すでに2014年にOXINGALEからCDがリリースされていましたが、今回は同じものがSACDになってPENTATONEからもリリース、という形になっています。ただ、最近の録音では最初からPENTATONEからリリースされていますから、実質的にはOXINGALEはPENTATONEのサブレーベルになった、ということなのでしょう。
このアルバムのタイトルは「AKOKA」、そして、その下には「メシアンの『時の終わりのための四重奏曲』の再構成」みたいなコメントが加えられています。確かに、トラックリストには、このメシアンの作品の前後には「Akoka」と「Meanwhile...」という聴きなれない曲名がありますね。これはライブ録音で、これらの曲がメシアンを挟む形で続けて演奏されていたのだそうです。これはいったいどういうことなのでしょう。
「AKOKA」は、ここでクラリネットを演奏しているデヴィッド・クラカウアーの作品、曲名はメシアンの曲を初演したクラリネット奏者、アンリ・アコカへのオマージュが込められているのだそうです(あ、そうか)。ブックレットにはこの曲の楽譜までしっかり載っていますよ。たった1ページしかない走り書きのようなものなので、日本語の帯には「自筆譜の一部を掲載」とありますが、これは間違いなく「全曲」の楽譜です。というより、この曲はきっちり作りこまれたものではなく、プレーヤーの即興的な演奏で成り立つもので、この「楽譜」はその単なる「きっかけ」のようなものを記したものなのですから。
それはまず、クラカウアーのクラリネットとハイモヴィッツのチェロとジョナサン・クロウのヴァイオリンが高い音から低い音までをグリッサンドでつなげるというフレーズで始まります。おそらく、PAでディレイを入れているのでしょう、それぞれのパートは少し遅れてかすかに聴こえてきます。やがて、ジェフリー・バールソンのプリペアド・ピアノも加わり、変拍子のオスティナートの上でのインプロヴィゼーションが始まります。ヘブライ音楽のようなモードが聴こえるのは、アコカがユダヤ人だったことの反映でしょうか。やがて、静かな経過部の後に、アタッカでメシアンの四重奏の鳥の声が聴こえてきます。
もちろん、ここではピアノのプリペアは完全になくなっています。瞬時に外したような気配はありませんでしたから、このライブではピアノが2台用意されていたのでしょうか。
このメシアンは、それぞれの奏者の個性が前面に出てきた、とてもエキサイティングな演奏でした。そこには、あのTashiの録音と同質の、「醒めた熱気」が感じられます。
そして、エンディングを飾るのが、ここでは「Electronics」というクレジットで参加しているカナダのユダヤ系ラッパーSocalled(本名:ジョシュ・ドルギン)のパフォーマンス「Meanwhile...」です。メシアンの演奏をサンプリングしたもののリミックスなどを駆使して、ヒップ・ホップの世界が広がります。これが、どのような状況で「演奏」されていたのか(メシアンの演奏家たちはステージに残っていたのか、とか)、非常に興味があります。
このような形で「再構成」されたメシアンですが、「だからなんなんだ?」という感じ。この作品にこんな小手先の策を弄する必要は、何も感じられません。

SACD Artwork © Oxingale Productions,

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# by jurassic_oyaji | 2017-05-18 20:07 | 現代音楽 | Comments(0)