おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
WAGNER/Der Ring ohne Worte
c0039487_21152339.jpg




Hansjörg Albrecht/
Staatskaoelle Weimar
OEHMS/OC1872


かつてはこのレーベルからバッハのオルガン曲や、オルガンのために編曲されたさまざまな作曲家の曲をリリースしていたオルガニストのハンスイェルク・アルブレヒトは、いつの間にかミュンヘン・バッハ管弦楽団の指揮者になっていましたが、さらに最近では普通のシンフォニー・オーケストラも指揮する、「普通の」指揮者にもなっていましたね。なんでも、今ではモーツァルトのオペラの指揮まで行っているそうですから、その才能はもはやオルガンにはとどまらない広範なジャンルへと及んでいるのでしょうね。
ですから、今回ワーグナーの「指環」の全曲を収録したアルバムが出ても、別に意外な感じはありませんでした。まあ、なるべくしてなった当然の帰結だ、と思いましたね。ただ、「指環」のアルバムなのに1枚しか入ってなかったので、変だと思ってタイトルをよく見てみたら、「Der Ring des Nibelungen」ではなく「Der Ring ohne Worte」、「Der Ring」までは同じですが、そのあとが違ってます。そう、これは前にも聴いたことのある、「言葉のない『指環』」という、指揮者のロリン・マゼールが作った「ハイライト版」でした。これはマゼールが自分で演奏するために作った版なのでしょうから、よもや他の指揮者が指揮をするというケースなどありえないと思っていたのですが、それをアルブレヒトがやってしまったんですね。
ですから、本来だとCDでは14枚ぐらい必要なものが、たった1枚に圧縮されてしまいました。ところが、なぜか日本の代理店が貼付したバーコードでは「2枚組」となっていますね。
確か、マゼールのBDでは演奏時間は「83分」もありましたから、これを作った人は、まさか、この曲がCD1枚に収まるとは思っていなかったのかもしれませんが、現物はそれより10分も短くなっていましたから、楽々1枚に収まっていたのでした。別にマゼール版をカットしたような形跡は見られませんでしたから、これは単に全体のテンポが速かったからなのでしょう。
ただ、部分的に比較してみると、中にはマゼールの方が速いところもありました。しかし、「ワルキューレ」の「ヴォータンの別れ」のシーンや、「神々の黄昏」の「ジークフリートの葬送行進曲」といったゆったりしたところでは、アルブレヒトがかなりあっさり目に演奏しています。おそらく、マゼールの演奏では、テンポの変化を際立たせるように、速いところはより速く、遅いところはより遅くと、大きな起伏を作っていたのでしょう。
ですから、マゼールを聴いた後にこのアルブレヒトの演奏を聴くと、なんかのっぺりとしていて、その中に入って興奮したり、しっとりした情感を味わったり、ということが出来にくくなっているのではないでしょうか。それと、どちらもライブ録音なのですが、今回のワイマール・シュターツカペレの場合は、金管楽器が終わりごろになると明らかにばてているような感じになっています。彼らは通常はオペラのピットに入っているオーケストラですから、それこそ「指環」全曲を演奏したことだってあるのでしょうが、やはりオペラの中で休み休み吹いているのと、このマゼール版のように最初から最後まで全力で吹きっぱなしというのでは、スタミナの配分が違うのでしょうね。その点、BDのベルリン・フィルは決して途中で力がなくなることはありませんでした。
なんせ、超短縮版ですから、この曲だけで物語のあらすじをたどろうというのは無理な話です。今回改めてその「編曲」の実態を調べてみると、最後の「神々の黄昏」だけで半分近くの時間を費やしていることが分かりました。ですから、「ワルキューレ」などは15分しか時間がもらえてませんし、その中でも第1幕はたった4分で終わってしまいます。ジークムントとジークリンデは1分ちょっと経って出会うのですから、彼らは愛の語らいもそこそこに、その3分後にはベッドインしているということになりますね。なんという早さ。丸亀製麺みたい(それは「イートイン」)。

CD Artwork © Deutschelandradio/OehmsClassics Musikproduktion GmbH

[PR]
# by jurassic_oyaji | 2017-09-07 21:18 | オーケストラ | Comments(0)
モンブランはおいしかったですね
 秋ですね。果物がおいしい季節になりました。梨とかブドウとか栗とか。え、栗?栗って果物だったの?
 私も、「栗ごはん」なんかを見ているとなんだか栗は野菜っぽいと思えたので調べてみたら、「木になるものは果物」なんですって。単純明快ですね。でも、そうなるとスイカは野菜なんですかね。新たな謎が生まれます。
 ということで、以前にもご紹介した「山江栗」の季節となりました。実は、こんなもろにその栗のことを扱ったFacebookをフォローしているものですから、「今年のやまえ栗の収穫が始まりました」などというタイムラインが次々と目につくようになっているのですね。なんでも24日には「やまえ栗まつり」なんてイベントも開催されるそうですよ。
 もちろん、これは熊本県にある「山江村」で収穫される栗をブランドにして売り出しているのでしょうが、この際だからと、色々調べてみたら、WIKIにその名前の由来が載っていました。そこには「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、山田村と万江村が合併して村制施行」とありましたよ。ということは、「山江」というのは昔からあった名前ではなく、「山田」の「山」と「万江(まえ)」の「江」を組み合わせた造語だったのですね。「万江」というのは、近くに「万江川(まえがわ)」という川が流れていたから付いた名前なのでしょう。「国分寺と立川の間にあるから国立」みたいな軽いノリだったとは。ですから、ここには「山江さん」がたくさん住んでいるわけでは決してないんですね。かなりがっかりです。
 ということで、もはやルーツでも何でもないことが分かってしまったのですが、いつかは実際に行ってみて、「山江村役場」の前で写真でも撮ってみたいものですね。ストリート・ビューで見てみても、役場の入り口までは行けませんでしたから。いずれこんな「村」は合併吸収されてその名前もなくなってしまうのでしょうね。
 この間のニューフィルのイベント、「アンサンブル大会」のCDは、先々週の練習の時にパート1、パート2とも10枚ずつ作って机の上に置いておいたのですが、私は後半の曲は降り番だったので、それまでに集まった11枚分のお金を回収して、そのあとは買う人がいてお金を置いて行ったらそのままケースの中に入れて倉庫にしまっておくように頼んでおきました。あとで聞いてみたら、私が帰ったあとでも何人か買った人がいたようで、残りはもう2、3枚になっていた、ということでした。その時は、どちらが何枚なのかは聞かなかったのですが、パート1の方が出演者が多かったので、それは完売して、パート2が3枚ぐらい残ったのだろう、と推測しておきました。そこで、パート1だけもう1枚作って、きのうの練習の時に置いておこうと思いました。
 そして、きのう、倉庫からそのケースを出してみたら、そこには想像通り6枚分の代金と、パート2のCDが3枚残っていました。ですから、そこに新しい1枚を加えてまた置いておいたら、1と2を、同じ人が両方買ってくれましたね。その人は、どちらのCDでも演奏していたのでした。衣装まで替えて。
 ということで、売れたCDは全部で何枚だったでしょうか。
 同じように、机の上に置いてあった定期演奏会のチラシとポスターですが、とうとうポスターが「完売」してしまいました。おそらく、もうみんなの分担分は行き渡っているはずですが、私が持っている分では3本ぐらいだったら余りそうです。次回からは、もう少し増やしてもらいましょうかね。
 そういえば、この間のオペラの時に、プログラムにニューフィルのチラシは挟み込まれてなかったですね。市民響のはあったのに。
[PR]
# by jurassic_oyaji | 2017-09-06 22:54 | 禁断 | Comments(0)
REINECKE/Flute Concertos, Flute Sonatas
c0039487_23081312.jpg


Tatjana Ruhland(Fl)
Eckart Heiligers(Pf)
Alexander Liebreich/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
CPO777 949-2/


カール・ライネッケという人は、作品番号の付いたものだけでも300曲近く残した作曲家ですが、指揮者としても活躍していました。よく「メンデルスゾーンのあとを継いで、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任した」という記述を見かけますが、正確には、メンデルスゾーンのすぐ後にはこの間ご紹介したニルス・ゲーゼが指揮者になり、さらにもう一人、やはり作曲家で、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの楽譜の校訂(ベートーヴェンの場合は、「ブライトコプフの旧版」という、今の原典版によってさんざんに否定されているもの)を行ったユリウス・リーツがいて、そのあとにライネッケという順番なんですけどね。彼は、1860年から1895年までという長期にわたって、このオーケストラの首席指揮者を務めています。そして、ライネッケの後にはニキシュ、フルトヴェングラー、ワルターといった錚々たる顔ぶれが続くことになるのです。
現在では、作曲家としても指揮者としても、全く無名になってしまったライネッケですが、フルート奏者にとっては、彼のフルート協奏曲とフルート・ソナタは、間違いなくレパートリーに入れなければならないものとしての地位を誇っています。もちろん、それは作品番号283の協奏曲と、「ウンディーヌ」というタイトルの付いた作品番号167のソナタだけなのですが、このCDでは、協奏曲もソナタも「もう一品」追加されていました。
もう一つの「ソナタ」は、実はフルートのためのものではなく、ライネッケが指揮者だった時期のゲヴァントハウス管弦楽団の首席フルート奏者だったヴィルヘルム・バルゲが、1873年頃に作られたヴァイオリンのための「ソナチネ」をフルート用に編曲したものです。1882年に作られた「ウンディーヌ」は、このバルゲに献呈されています。
もう一つの「協奏曲」は、「バラード」というタイトルの、フルート・ソロとオーケストラのための10分ほどの作品です。作品番号が288となっていますが、これはライネッケが85歳の時に作った、彼の最後の作品です。
いずれも、かつて録音していた人はいて(アドリアンとか)別にこれが初録音というわけではないのですが、実際に聴くのはこれが初めてでした。最も作曲年代の早い「ソナチネ」の方はいかにも「習作」風の、後のライネッケのベタベタなロマンティシズムがあふれる、ということは全くない、シンプルな作品です。それに対して、まさに「遺作」の「バラード」は、とても味のある作品でした。曲は3つの部分に分かれていて、最初はとても重苦しい、なにか「死の予感」のような物まで感じられるような音楽で始まりますが、中間部のスケルツォ風の、まるでメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲のような軽やかなパートを経た最後の部分では、なにか達観のような物さえ漂うような明るさに満ちた音楽に変わります。
このアルバムの中では、この「バラード」だけがライブ録音、多少ソロがオフ気味に聴こえてきますが、なにか観客と一緒になった熱いものが込められた演奏なのではないでしょうか。
それに対して、残りの3曲はスタジオ録音、ルーラントのフルートも、細部のニュアンスまで爛々と捕えられた精度の高い録音です。そんな音で聴く彼女の音は、低音から高音まで見事に磨き込まれた素晴らしいものでした。細かいパッセージでも目の覚めるようなテクニックを披露してくれています。これで、第2楽章からもう少し深い情感がただよっていれば、それほど多くない協奏曲の録音の中では、間違いなく最高のものの一つとなっていたでしょう。
協奏曲の楽譜は、2003年にブライトコプフからヘンリク・ヴィーゼの校訂で出版された時に、それまでの楽譜とは細かいところで異なっている自筆譜の楽譜が付け加えられていました。しかし、彼女はそれを使ってはいなかったのも、ちょっと残念。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

[PR]
# by jurassic_oyaji | 2017-09-05 23:09 | フルート | Comments(0)
第3幕ではクラリネットは出番がないんですね
 仙台オペラ協会の「フィガロ」を見てきました。なんでも、このカンパニーがこれを上演するのは、これが5回目になるのだそうです。まあ、昔から市民オペラの定番としてこの「フィガロ」が好まれていましたから、そういうことにもなるのでしょう。直近の公演は2004年、末廣さんの指揮でした。それも私は、プレ企画として小さなところで「サワリ」を演奏したものと、本番とを見に行ってましたね。末廣さんの指揮がかっこよすぎて、歌手がどうだったかなんて全然覚えていませんけど。
 今回は、半分義理で買わされたようなものでしたから、そんなに期待はしていませんでした。正直、私は「フィガロ」はあんまり好きではありませんでした。モーツァルトだったら「魔笛」か「ドン・ジョヴァンニ」か、と思っていましたからね。実際、今まで何度もCDで全曲を聴いてますし、生の公演も何度か行ったことがありますが、特に後半の2つの幕が退屈で、途中で飽きてしまうんですよね。第4幕などは、いまだに何がどうなっているのか分からないぐらいでしたから。
 ですから、県民会館に入って演奏予定時間を見たら、休憩を入れて4時間近くかかるとあったので、もううんざりしてしまいましたね。なんと言っても、ソリストが全員、例えば新国立劇場並みの水準の人ではありませんから、そんなのを4時間も聴いていられるか、という気がしますから。
 確かに、最初の頃はまず歌手の皆さんのあまりのレベルの違いにのけぞってしまいました。フィガロとスザンナ、そして伯爵はとても素晴らしいのですが、その他のキャストがいまいちなんですね。ケルビーノなどは殆どオンチですし。
 でも、それを我慢して聴いていると(たとえば、オケピットの木管を眺めているとか)、なんだか演出がとても心地よいことに気づいてきました。別に変なことをやっているわけではなく、ごく自然な演出なのですが、なんともしっくりくるんですよね。第1幕ではフィガロがケルビーノをからかって歌う「Non piu andrai」の時に、ケルビーノを座らせて髪の毛を切ったりするんですが、確かにフィガロは元は理髪師だったんですよね。こんな演出は初めて見たような気がします。今回の演出家は渡部ギュウさん、基本的に演劇畑の人ですから、ご本人もオペラの演出は得意ではないようなことをプログラムに書いていましたが、逆にオペラ専門の演出家では見逃すような、演劇人としての視野のようなものが、感じられるのです。
 それに気が付いてしまうと、苦手だった後半の2つの幕がとても面白く見られるようになってきました。なんか、第4幕の仕組みが初めてよく分かったような気がします。それとともに、ダ・ポンテが巧妙に仕組んでいた伏線にも気づくことが出来ました。いやあ、「フィガロ」って本当はこんなに面白いオペラだったんですね。
 その第4幕では、確か2004年の公演ではカットされていたマルチェリーナとドン・バジーリオのアリアがしっかり歌われていましたね。ですから、生でこのアリアを始めて聴くことが出来ました(CDでは大体演奏されます)。つまり、前回はアリアがなかったテノールのJ先生は、今回はちゃんと歌えた、ということでしょうね。
 後半に出てくるアントニオも、とてもいい声だし芝居もうまいので、「客演」とあるから東京あたりからわざわざ呼んだ人かな、と思ってプログラムを見たら、なんと、かつて同じ合唱団で歌っていた人だったではありませんか。そういえば、オペラに出たこともあると聞いたこともありますし、本当にいい声をしていましたね。
 結局、あんまり楽しいので4時間なんてあっという間に過ぎてしまいました。見事に「期待を裏切られた」オペラでした。
[PR]
# by jurassic_oyaji | 2017-09-03 22:14 | 禁断 | Comments(0)
MARTINI/Requiem pour Louis XVI. et Marie Antoinette
c0039487_20403773.jpg


Corinna Schreiter(Sop), Martin Platz(Ten), Markusu Simon(Bas)
Wolfgang Riedelbauch/
Festivalchor Musica Franconia
La Banda
CHRISTOPHORUS/CHR 77413


マルティーニが作った「ルイ16世とマリー・アントワネットのための」というサブタイトルが付けられた「レクイエム」の、世界初録音です。
「マルティーニ」のいう名前の作曲家は、音楽史には2人ほど登場しますが、こちらはモーツァルトの先生として有名なジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニではなく、ジャン・ポール・エジード・マルティーニという、あのエルヴィス・プレスリーが「好きにならずにいられない」(Can't Help Falling In Love )というタイトルでカバーした「愛の喜び」(Plaisir d'Amour)の作曲家としてのみ知られている人です。
フランス革命でブルボン朝のルイ16世が処刑されたのは1793年1月21日、その妻、マリー・アントワネットも10月16日に、やはりギロチンによって処刑されました。これは「罪人」としての処刑ですから、お葬式などが執り行われることはありませんでした。
しかし、1816年になって、王政復古で即位していたルイ18世によって、ルイ16世の命日にあたる1月21日に、この二人の葬儀が行われました。その時に演奏されたのが、この、マルティーニの「レクイエム」でした。この作曲家は1741年ドイツ生まれ、フランスで活躍したために、フランス風の呼び名に改名しています。1788年にはブルボン朝の宮廷楽長にもなりました。コンクールのために、楽団を鍛えたんですね(それは「ブラバン」)。革命でその職を失いますが、王政復古で「再雇用」されていたのでした。とは言っても、この「レクイエム」を作ったのは彼が74歳の時、この曲が演奏された直後、2月14日には亡くなってしまいますから、これは彼自身のための「レクイエム」でもあったのですね。
そんな「遺作」は、そのような注文があったのか、あるいは、まるで作曲家が生涯の締めくくりとして目いっぱいそれまでの技法をつぎ込んだのかはわかりませんが、なんとも力の入った、死者を悼むにはいささか大げさすぎるような作品になっていました。なんたって、最初の「Requiem aeternam」の冒頭は、ドラの強打で始まるのですからね。まあ、仏教のお葬式では太鼓やシンバルを鳴らしたりする宗派もありますから、そんな意味もあったのかもしれませんが、例えばモーツァルトの作品のような敬虔な趣は全く感じられません。
続く「Sequentia」では、この長大なテキストをモーツァルトとは別のところで区切って、5つの曲が作られています。それぞれの曲の作り方も、テキストに順次曲を付けるのではなく、興に乗って自由に順番を入れ替えたりするという作られ方になっています。ですから、最初の曲の「Dies irae」では4節目(「Mors stupebit」)まで使われていますが、「Tuba mirum」で出てくるとても陽気なトランペットのファンファーレが何度も登場することになります。なぜか、1節目の最後の行、「teste David cum Sibylla」が削除されていますし。
残りの4曲では、ソロ、デュエット、合唱と、ヴァラエティに富んだ編成で、とても雄弁な音楽が聴こえてきます。それらは、まさにこの作曲家が長く携わっていたオペラのスタイルで作られています。そう、マルティーニは、半世紀後にさらにオペラ的な「レクイエム」を作ったジュゼッペ・ヴェルディの、まさに先駆け的な存在だったのです。最後におかれた「Amen」では、ドラに加えてティンパニまで炸裂しますから。
演奏するのに1時間以上かかるこの大作は、そんな、とても中身の濃いものでした。ところが、ここで演奏している合唱団(と、オーケストラ)は、そんな作品のドラマティックな表現を試みているのでしょうが、それを「表現」と感じられるだけのスキルが完全に欠如しているために、なんともおぞましく悲惨な結果を引き起こしています。これがライブ録音だということを差し引いても、そのお粗末さには耳を塞ぎたくなります。出番の多いソプラノのソリストはかなり健闘しているのですが。
一緒に演奏されていたのは、こちらも作曲家のお葬式で演奏されたグルックの「深き淵より」です。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH

[PR]
# by jurassic_oyaji | 2017-09-02 20:42 | 合唱 | Comments(0)