おやぢの部屋2
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Live 1977





Steve Reich and Musicians
ORANGE MOUNTAIN MUSIC/OMM 0018



1971年に、ニューヨークのマンハッタンに設立された「ザ・キッチン」というアートセンターがあります。ビデオ・アートを中心に様々な芸術家に活動の場を提供するというものでしたが、スティーヴ・ライヒのような当時の最先端の音楽家もここの常連でした。ここで行われたコンサートの多くは、録音されて残っていたのですが、実はそのテープは倉庫にしまわれたままで、殆ど忘れ去られた状態にありました。それが3年前に「発見」され、この、70年代の生々しい息吹を伝える貴重な記録が、日の目を見ることになったのです。そんな、「フロム・ザ・キッチン・アーカイブス」の第2弾が、このCDです(「台所の、赤い顔をした美しくない女性」ではありませんよ)。
4日間にわたる「スティーヴ・ライヒと音楽家たち」のコンサートからピックアップされた5つの作品が、ここには収められています。「Six Pianos」(1973)、「Pendulum Music(振り子の音楽)」(1968)、「Violin Phase」(1968)、「Music for Pieces of Wood」(1973)そして「Drumming」(1971)のパート4という、いずれも彼の初期の作品ばかり、コンサートがあった1977年当時には、確かな評価を得ていたものなのでしょう。
いずれも、他のスタジオ録音ですでに聴くことが出来るものなのですが、私にとっては「Pendulum Music」が初体験でした。この作品は、他のものとは異なり、小さなパターンの正確な繰り返しというライヒ独自の手法を使っていない、ちょっとユニークなものです。ここで使われる「楽器」は、マイクとアンプとスピーカー。つまり、ケーブルで高いところからつるしたいくつかのマイクを「振り子」のように揺らし、床に設置してあるスピーカーの前を通過する時に発生するハウリングを再生するというものなのです。これは、まさにジョン・ケージの「偶然音楽」そのものではないですか。さらに、マイクが振れ始めた時が音楽の始まりで、それが自然に止まるのが音楽の終わり、という発想は、100台のメトロノームを、ゼンマイが切れるまで鳴らし続けるという、リゲティの「ポエム・シンフォニック」(1962)にインスパイアされたものであることは、容易に想像が付きます。もちろん、演奏するごとに異なるバージョンが披露されるというもの、楽譜にしたがって、ひたすら機械のように脇目もふらず演奏するものというライヒのイメージからはちょっと離れた、少し力の抜けた体験がもたらされることでしょう。
その、「ライヒらしい」曲でも、やはりライブとなるとそれなりのグルーヴが見えてくるのも面白いところです。「Drumming」のパート4は、実は全部ではなく後半から始まるのですが、DGにある1974年のスタジオ録音と比べてみると、各楽器のキャラの立ち方が全く違っています。特に、ボンゴの乗りまくったビートは、聴きものですよ。
この会場は、おそらく防音が不十分なのでしょう。外を走る車の音などのノイズがかなりやかましく聞こえてきます。しかし、これも、それこそジョン・ケージではありませんが、環境の自然音まで含めた上での音楽として味わうのも一興では。「Violin Phase」が、そんな環境音と一体化した世界を見せてくれています。
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# by jurassic_oyaji | 2005-05-26 19:23 | 現代音楽 | Comments(0)
MOZART/Don Giovanni






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4119(DVD)



ピーター・セラーズ演出の「ダ・ポンテ三部作」がいかにユニークであるかは、このシリーズのDVDのジャケットを見ただけで分かります。印刷されている文字は、作曲者とオペラのタイトル、そしてこの演出家の名前が全て、そこには、指揮者やプリマ・ドンナの入り込む隙間など、用意されてはいないのですから。ここで、もしかしたら、この映像の作られ方も、チェックしておかなければいけないのかもしれません。もともとはステージ用に作られたプロダクションでしたが、この収録に当たってはテレビ撮影用にスタジオが使われています。ただ、良くあるような、音楽だけ先に録音して、それに合わせて演技をするというようなものではなく、普通のオペラハウスと同じように、指揮者とオーケストラがいて、きちんと「生」で歌っている模様が撮影されています。前にご紹介した「コシ」では歌手が客席の中に入って歌うという演出があってその全貌が分かるのですが、その状況はおそらく他の作品でも同じことなのでしょう。スタジオといっても、かなりの客が入るスペースがあって、オケピットも備わっているという、昔のNHKホール(「お笑い三人組」とか、やっていましたね)のような感じのところです。
さて、この「ドン・ジョヴァンニ」では、舞台はニューヨークのハーレム、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが黒人という設定です。もちろん、彼らは貴族などであるわけはなく、このあたりを縄張りにしているチンピラ、クスリはやるは、ピストルはぶっ放すはと、かなり危ないキャラ。この2人を演じているのが、ユージン・ペリーとハーバート・ペリーという、(たぶん)兄弟です。容姿も声も瓜二つ、このキャスティングは、単に話の中でお互いが入れ替わってドンナ・エルヴィラをだます時にリアリティを持たせるという以上の意味があるのは明らかです。この2人は原作のような主従関係ではなく、もっと固い絆で結ばれている「仲間」、もしかしたら、お互いの一部を共有しているほどのつながりを持った関係なのかもしれません。その感触は、ゾンビと化したドンナ・アンナの父により、マンホールの中に「分身」が身を沈められたあとのレポレッロの取り乱し方からも確認できるはずです。原作のように、主人が死んだら悔い改めて新たな道を求めるというような脳天気なことは起こりえない、やり場のない「暗さ」を造り出すのが、このセラーズの演出の目論見の一つなのかもしれません。そのエンディングで、合唱団員の女性が豊満な胸を披露してくれるのも、決して単なるサービスカットではないむね、ご承知おき下さい。
ここで、字幕にも注目してみましょう。これは輸入盤ですから英語の字幕しかないのですが、それでも、原作通りに歌われている元のイタリア語に対して、かなり演出に沿った読み替えが施されているのが分かります。もともとは「お屋敷」だったものが「俺のシマ」みたいに(事実、2幕の晩餐は路上に座ってマクドナルドのハンバーガーをかぶりつくというものですし、バンダはラジカセなのですから)。
音楽的には、例えば、現在では殆どカットされることの多い第2幕のウィーン版によるレポレッロとツェルリーナのデュエットが聴けるのは嬉しいものです。しかし、クレイグ・スミスの作り出す音楽は、それだけではなんの力も持たないとことん生ぬるいものに終始しています。
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# by jurassic_oyaji | 2005-05-25 20:06 | オペラ | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphony No.1 & No.5




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.132



ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団のコンビ、今回はメンデルスゾーンに挑戦してくれました。声楽の入った「2番」を抜いた4曲を、ベートーヴェンの時のような「連番」ではなく、「1、5」と「3、4」というカップリングでリリースです。ここでは、あえて「売れ筋」の「3、4」を避けて、ちょっと渋い「1、5」を取り上げてみましょう。
ライナーを見て、ノリントンが面白いことをやっているのに気づきます。曲によってオーケストラのサイズを変えていて、その詳細をきちんと表示しているのです。それによると、「1番」では[VnI.VnII.Va.Vc.Cb][8.8.6.4.3]、「5番」では[14.14.12.10.8]、ただし、第3楽章のアンダンテでは[8.8.6.5.4]と小さくしているというのです。第3楽章で半分の弦楽器奏者が休むというのも珍しいことですが、それよりも第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同じ数だというところが、「現代」の編成に慣れた目には奇異に映ることでしょう。現在、世界中どこのコンサートホールでも見られる標準的な編成はこれよりも第1ヴァイオリンがもう2本増えた[16.14.12.10.8]という、いわゆる「16型」、人員がそろえられない地方オーケストラのように、それぞれのパートを2本ずつ減らした「14型」で我慢してもらっているところもありますが、第1ヴァイオリンが第2ヴァイオリンより人数が多くなっている点は変わりません。しかし、ノリントンは、メンデルスゾーンの当時のオーケストラの編成を反映した「オーセンティック」な道を取ります。あくまで第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは「対等」だという立場ですね。ですから、もちろん、ステージ上でもこの2つのパートはお互いに反対側に位置するという「当時の」スタイルになっています。ただ、コントラバスを、そんなときの定位置である向かって左奥を避けて、最後列に一列に並べるというのが、ノリントンのやり方です。
このノリントンのオーケストラ、そのアンサンブルはますます精密になってきました。それは、「5番」の第1楽章の最初、ちょっとした導入のあとの管楽器によるコラールを聴けば分かります。まるで一つの楽器のように完璧にそろえられたアインザッツとフレージングは、まさに神業です。その歌い方を聴いていると、それは、ノンビブラートの弦楽器と見事に呼応しているのも分かります。ダイナミックスの変化だけでインプレッションを表現しようとする「ノリントン流」が、ここまで徹底されるようになってきたのですね。そして、それに続く弦楽器の「ドレスデン・アーメン」の、まるで天国的な美しさはどうでしょう。後にこのメロディーが使われることになる「パルジファル」の世界を、ここから垣間見ることも出来るはずです。
ただ、確かにその澄み切ったアンサンブルは驚異的ではあるのですが、第3楽章のような長いフレーズをしっとり歌い上げるという場面では、このノンビブラートがやや物足りないものに思えてしまいます。というのも、ここでは木管はそれなりのビブラートで「普通に」歌っているので、同じフレーズを弦の「ノリントン流」で聴いてしまうと、いかにも素っ気なく聞こえてしまうのです。まるで、苦い薬をそのまま飲んだよう(それは「オブラート」)、このちょっとした「確執」が、「造反」につながらなければよいのですが。
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# by jurassic_oyaji | 2005-05-23 19:34 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Così fan tutte






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4139(DVD)



1990年頃に制作されて殆ど「大騒ぎ」状態になった、ピーター・セラーズの演出によるモーツァルトのダ・ポンテ三部作は、以前LDで発売されていましたが、いつの間にか市場からは姿を消していました。これらの映像を見てみたいと思い、長年DVD化を心待ちにしていた人は多かったはずです。その願いがやっと叶って、晴れて全作品のボックスセットがリリースになりました。これは、よく売れるでしょうね(ベスト・セラーズって)。もちろん個別の分売もありますが、ここは女房を質に入れてでも(あ、もちろんこれは単なる比喩ですよ)全曲買いそろえて、この奇才がモーツァルト/ダ・ポンテから導き出したグロテスクなまでのメッセージを、心ゆくまで享受しようではありませんか。
まずは、最近何かとはまっている「コシ」です。舞台を現代に置き換えたセラーズのプラン、ここでは舞台は海辺にあるデスピーナの名前を冠したダイナーです。そう、良くアメリカ映画などに出てくるコーヒーや手作りのパイ、あるいはハンバーガーなどを食べさせてくれる手軽なレストランであるダイナー(トイレのドアに、モーツァルトと、コンスタンツェのシルエットがあるのが、おしゃれ)、オリジナルでは「小間使い」だったデスピーナは、そこのウェイトレスという設定になっています。そして、なぜかドン・アルフォンソはデスピーナの恋人で、このダイナーのオーナーになっているのです。そうなると、お屋敷のお嬢さんだったフィオルディリージとドラベッラは、このダイナーの常連客ということにならなければなりません。ですから、彼女らのフィアンセたちも、「変身」して現れる時には「アルバニアの貴族」ではなく、海辺にたむろしているパンク野郎ぐらいにならないことには、収拾がつかなくなってしまいます。
とりあえず、この弾けきった設定だけでも、充分に楽しむことが出来ます。何しろ、グリエルモとフェルランドが女の気を引こうと飲む「毒」は、店の中にあったケチャップとマスタード、そして、それを治療しに来る「お医者様」は、なんとシャーリー・マクレーン(ドン・アルフォンソが、そういうカンペを出すのです)というのですから。彼女が使うバッテリーには「ダイ・ハード」の文字があり、ブースター・ケーブルでつながれる先は、男どもの股間という、ちょっとしたくすぐりも交えられていますし。序曲の部分で映される海辺では、「ガンズ・ン・ローゼズ」のロゴが入ったTシャツを着た若者が見られるように、ここで敢えてその時代でなければ通用しないようなネタを仕込んでいるのが、セラーズのセンスなのでしょう。
しかし、そのような表面的なファッションにただ驚いているだけでは、セラーズの仕掛けた巧妙な罠には気づかないかもしれません。彼のプランにしたがって動いている人物を見ていると、最初男どもは、ただ変装して「同じ」相手を誘惑してみて、その結果どうなるかを試したかっただけなのが分かります。しかし、女どもは、そんな思惑を超えて、「別の」男に惚れてしまうという、予想外の結果が待っていました。ほんのいたずらで仕掛けたことが、冗談では済まないような展開になってしまったのです。ですから、「結婚式」の場では花嫁たちは本気でうろたえるしかなく、そのあとには、デスピーナたちのカップルをも巻き込んだ大パニックに陥るしか、道はなかったのです。「喜劇」で終わるはずのものを「悲劇」に変えてしまった、これはセラーズのとてつもない着眼点、そこからは、なぜ現代に設定を移さなければならなかったかという必然性までも見えては来ないでしょうか。
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# by jurassic_oyaji | 2005-05-21 17:39 | オペラ | Comments(0)
MYSLIVECEK/La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo



Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/71 025/26(hybrid SACD)



クリストフ・シュペリングという丸い形の揚げ物みたいな指揮者(それは「イカリング」、私は「オニオンリング」の方が好きですが)は、昔からちょっと目が離せないようなCDをたくさん作ってくれています。代表的なものとしては、まず、メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を蘇演した際のスコアを実際に音にしたというものでしょう。このCDによって、私たちはメンデルスゾーンが、現代のレベルでは考えられないような改竄を行っていたことを初めて知ったのでした。もう一つの成果はモーツァルトの「レクイエム」の「自筆稿」、つまり、未完成な楽譜をそのまま演奏して録音したというCDです。研究者はとっくに知っていたことでも、このように実際の「音」になったものを聴く衝撃には、かなりのものがありました。
そんなシュペリングが今回紹介してくれた「秘曲」は、モーツァルトの初期のオペラ(シピオーネの夢など)の台本なども手がけたことのある宮廷詩人、ピエトロ・メタスタージョのテキストによる「受難曲」です。私たちに馴染みのある「受難曲」といえば、新約聖書の福音書をそのままレシタティーヴォで歌わせて物語を進行させるというパターンでしょうが、それが18世紀を代表する台本作家の手にかかると、全く異なる次元が広がって来るという、なかなか興味のあるものになっています。「福音史家」などは登場せず、進行役はあのペテロ、そう、「私はキリストのことなんか知らない!」と、3回も言い切ってしまったイエスの弟子です。そんな事情ですから、彼はイエスの磔や埋葬に立ち会うことは出来ませんでした。そこで、実際にそこに居合わせたヨハネ、マグダラのマリア、アリマテアのヨセフの3人に話を聞くという設定で、物語が進んでいくのです。
このテキストに曲を付けたのは、ヨーゼフ・ミスリヴェチェクという、ボヘミア生まれの作曲家です。モーツァルトとほぼ同時代に活躍した人で(モーツァルト自身とも親交があったそうです)、20曲以上のオペラを始め、多くの作品を残しているということですが、もちろん私がその作品を聴くのは、これが始めてのこと、果たして大枚(2枚組で6290円)をはたいた見返りはあるのでしょうか。
しかし、そんな心配は杞憂でした。ここで聴かれる音楽は、まさにモーツァルトそのもののような屈託のなさにあふれていたのです(こういうものを聴くと、モーツァルトの音楽性というものは、彼個人に由来するものではなく、時代の中の必然ではなかったかという思いに駆られます)。まるでイタリアオペラのようなレシタティーヴォ・セッコ、そして、アリアはコロラトゥーラの粋を極めた技巧的なものが次から次へと登場してきます。特に、マグダラのマリアを歌うソプラノのためのアリアは、華麗そのもの、宗教的な趣など、これっぽっちもありません。ここで歌っているゾフィー・カルトイザーが、それを完璧に歌いきっているのが聴きものです。
ただ、そのほかの歌手がちょっと冴えないのが残念ですが、もっと残念なのは、たった3ヵ所しかない合唱が、あまりにお粗末なこと。声が全く溶け合わないで、合唱の体をなしていません。この合唱団、以前聴いたものはこれほどひどくはなかったのに。オーケストラ(もちろん、オリジナル楽器ですが)の、今時珍しい乾ききったサウンドにも、ちょっと引いてしまいます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-05-20 22:00 | 合唱 | Comments(0)