おやぢの部屋2
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TCHAIKOVSKY/Symphony No.4, Capriccio Italien




Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907393



ガッティとロイヤル・フィルのHARMONIA MUNDI USAへの2番目の録音が出ました。以前はBMG系列のCONIFERからマーラーなどをリリースしていたこのコンビ、実は前作のチャイコフスキーの5番では、カップリングの「ロメオとジュリエット」が、まだこのBMG時代のものだったのですが、今回の4番では、「イタリア奇想曲」も含めて、全て、この新天地でのプロダクションとなっています。
その、このレーベルへのデビュー盤、チャイコフスキーの5番は、以前聴いたマーラーの5番があまりに素晴らしかったので大いに期待したのですが、どうもあまりピンとくるものがなく、聴いてはみたもののここにレビューを書けるほどのものではありませんでした。一つには、あの曲が持っているある種の「重さ」が、ちょっとこの指揮者にはなじまない面があったのかもしれません。
その点、この「4番」は、彼の特質がよく出た、非常に見晴らしの良い仕上がりとなっていて、なかなか楽しんで聴くことが出来ました。まず、彼らが取っている楽器の配置がちょっとユニークなものです。弦楽器は、いわゆる「両翼」という、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが向かい合って座るもの、チェロがファーストの隣に来て、本来はその後ろにコントラバスが来るものが、彼らの場合は最後列に横一列に並んでいます。そして、ホルンが、木管楽器のすぐ後ろの列にやはり1列に並ぶというのも、ヨーロッパのオケとしては珍しい配置です。つまり、普通だと右か左のどちらかから聞こえてくるホルンが、真ん中から聞こえてくることになります。この曲のように、ホルンが大活躍する場面が多いものでは、この配置が非常に効果的になってきます。何しろ、冒頭からこのホルンのファンファーレですからね。
ところが、このホルンのあとに同じ形でトランペットと木管が入ってくると、そこでちょっと面白いことが起こります。その前のホルンの流れとは全く別の、1段階高いところにギアチェンジして、シフトアップした状態で音楽が進んでいくのです。これは、この楽章の至るところで見られるガッティの仕掛け、特に、小節の一番最後の拍は常に短めに処理されて、殆ど前のめりになっているかのような音楽の運びは、スリリングとも言える高揚感を与えてくれます。これがあるからこそ、ほんのたまに出てくる穏やかな部分を、とても気持ちよく感じることが出来るのでしょう。しかし、それも束の間、そんなしばしの平穏も、そのあとに襲ってくるアッチェレランドによって、元の緊張感溢れる世界に引き戻されるのです。
第2楽章になると、オーボエソロによるテーマの、あまりの淡泊さに驚かされることになります。しかし、これは前の楽章からの流れでは、決して違和感のあるものではありません。それどころか、淡々と流れるかに見えてその中には余計なセンチメンタリズムを極力廃した、意志の強ささえ垣間見ることが出来ることでしょう。しかし、最後に出てくるファゴットのソロには、それだけ拒絶してもやはり残っている「本音」のような甘さが漂っているという仕掛け、これで心を打たれない人はいないのではないでしょうか。
そんな具合に、適度にコントロールされたスマートなチャイコフスキー、これは「4番」だからこそなし得た成果でしょう。「イタリア奇想曲」では、さらにラテン的な情感が素直に発揮されていて、より心地よいものに仕上がっています。押しつけがましくてくどい演奏が嫌いな人にはねがってぃもない、爽やかな演奏です。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-14 19:39 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Messe en Ut Mineur

S.Piau(Sop), A.-L.Sollied(Sop)
P.Agnew(Ten), F.Caton(Bas)
Emannuel Krivine/
Acceutus
La Chambre Philharmonique
NAÏVE/V 5043



今年のゴールデン・ウィークのあたりに、東京でユニークな音楽祭が開催されていましたね。「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」とか言う、同時に複数の会場でコンサートが開かれている中を、聴衆は自分の好きなところを選んで足を運べる、というものでした。この音楽祭、元々はフランスのナントで10年近く続いたものが、日本に移ってきたものなのですが、その、本場ナントの昨年の音楽祭でデビューしたのが、この「ラ・シャンブル・フィルハーモニク」という、オリジナル楽器のオーケストラです。そして、このオーケストラのデビュー・アルバムが、なんと、この「ハ短調ミサ」なのです。もちろん、レーベルはこの音楽祭と深い関係があるNAÏVE、したがって、合唱もこのレーベルの看板、アクサントゥスということになります。
このオーケストラ、創立にあたってのイニシアティブを取っていたのが、エマニュエル・クリヴィヌだというのは、ちょっと意外な気がします。元々ヴァイオリニストとしてそのキャリアをスタートさせたこの指揮者、その活動のエリアは完全にモダン・オーケストラの中だと思っていたので(確か、NHK交響楽団にも客演していましたね)、いまさらオリジナル楽器のオーケストラと深い関係を持つことなど、ちょっと考えにくかったのです。しかし、そもそもヴァイオリニストから指揮者に転向したこと自体が相当に異色なことなのですから、モダンからオリジナルに転向するのだって、本人にとってはそれほど奇異なことでもなかったのかもしれません。どんなフィールドを選ぶにせよ、最終的にはその人の音楽性が物を言うのですからね。
このアルバムを聴くと、そのようなある種の挑戦は、非常に良い形で実を結んだことが実感できます。ここには、「オリジナル」の専門家と呼ばれるような指揮者が見落としていたのか、もしかしたら故意に排除していたようなある種の「美しさ」が、確かに存在しています。それは、人間が当たり前の生活の中で無条件に「美しい」と感じられる、いわば自然に逆らわない情感のようなものなのかもしれません。
ただ、声楽陣に関しては、そこまでの注意が行き届かなかったのか、オーケストラほどの完成度が見られないのが、惜しまれるところです。合唱は、いつもながらのあと一歩の踏み込みが足らないじれったさが、ここでも現れてしまっています。特に、ソプラノパートが、ポリフォニーでの「入り」にことごとく失敗しているのが、非常にみっともないところ。さらに、「Qui tollis」で8声部となって、各パートの人数が少なくなると、とたんに粗さが目立ってくるのも残念です。
ソリストも、ピオーにしてもソリードにしても、変なクセがあってちょっと理想的とは言い難い人選ではありますが、部分的に、例えば「Et incarnatus est」で、3本の木管楽器とのアンサンブルを繰り広げているピオーなどは、なかなかのバランス感覚を披露してくれています。ハンタイのトラヴェルソを初めとする木管のソリストも聴きものです。
さすが、モーツァルト・イヤー、とうとう同じ曲を3種類も集中的に扱うことになってしまいました。ただ、これらは全て異なるコンセプトによって作られた版によるものだというのが、面白いところです。今回は「エーダー版」、あくまでも自筆稿を最大限に重視した生真面目な、それだからこそ「原典版」としては相応しいものなのでしょうが、その上にさらにイマジネーションを加えたマクリーシュの「モーンダー版」やリリンクの「レヴィン版」を聴いてしまうと、物足りなさは残ります。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-12 20:05 | 合唱 | Comments(0)
La flûte à la parisienne



前田りり子(Fl.tr.)
市瀬礼子(Va. d. G.)
Robert Kohnen(Cem)
ALQUIMISTA/ALQ-0012



「パリのフルート音楽-華麗なるロココの饗宴-」というタイトル、ジャケットではパールのネックレスにシースルーの薄衣をまとったアーティストが、いかにも「有閑マダム」といった憂いを帯びたまなざしを投げかけていれば、そこにはある種倦怠感をともなった妖艶な世界が広がっていると思ってしまうことでしょう。しかし、そのジャケット写真の中で、飴色の素朴な輝きを持つトラヴェルソが、いかにも所在なげにその場違いな姿を主張していることに気づいた人は、このアルバムがただの華麗さを見せびらかしているものではないことにも、また気づくはずです。ブックレットの中には録音現場の写真が掲載されていますが、そこで見られるアーティストは、先ほどの「マダム」のイメージなど微塵も感じさせない、半袖のカットソーにパンツという軽快ないでたち、おそらく、こちらの姿の方が、このアルバムの活き活きとした音楽を伝えるには相応しいものに違いありません。
前田りり子さんという名前は、「バッハ・コレギウム・ジャパン」によるバッハのカンタータ全集の録音の中で、たびたび目にしていたものでした。もはや、オリジナル楽器の演奏者というものが、日本に於いてもさほど珍しくなくなってきた音楽状況の中で、さりげなく、メンバーの一人として名を連ねていた、という印象。というよりは、殆ど日本人によるこの団体が世界的にも評価されている、その一翼を至極当然のように担っているという印象でした。
このアルバムで、彼女のソロを聴くに及んで、今さらながら昨今のオリジナル楽器が到達したレベルの高さには、驚いてしまいます。クイケン、ハーツェルツェットという、現在望みうる最高のトラヴェルソ奏者の薫陶を受けた彼女は、それらの師をも凌駕するほどのテクニックと音楽性を、存分に披露してくれていたのです。
ここで取り上げられているのは、18世紀半ばのパリのサロンを彩ったさまざまな作曲家、ルクレール、ブラヴェ、ボワモルティエ、ブラウン、ラモーといった人たちの曲。彼女は、それぞれの個性を充分に吹き分けているだけではなく、そこに、もっと踏み込んでさながら現代でも十分通用するほどのメッセージを込めているようにすら、思えてきます。なかでも、ミシェル・ブラヴェの1740年のソナタで見られる生気あふれる表現からは、もはや「サロン」などという範疇を超えた深みのある主張を感じないわけにはいきません。終楽章の華麗な変奏も、見事なテクニックに裏打ちされて聴くものを惹き付けています。ここで特筆すべきは、共演者によるサポートの大きさでしょう。超ベテランのコーネンは言わずもがな、ガンバの市瀬礼子さんの深いニュアンスは、どれほど曲に陰影を与えることに貢献していることでしょう。実際、ガンバのほんのちょっとした表情で曲全体がガラッと趣を変えてしまう瞬間が、何度あったことか。
そんな3人のスリリングとも言えるアンサンブルが最大限に発揮されているのが、ジャン・フィリップ・ラモーのコンセールです。それぞれの楽器が繰り出す、殆どインプロヴィゼーションとも思えるような自由なフレーズたち、彼女たちが作り出す音楽は、とっくに「ロココ」などを飛び越えた宇宙を作り上げています。もちろんハワイにとどまっていることもありません(それは「ロコモコ」)。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-10 20:46 | フルート | Comments(0)
MOZART/Mass in C Minor(ver. Levin)

Damrau(Sop), Banse(Sop)
Odinius(Ten), Marquardt(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.227



モーツァルトの「ハ短調大ミサ」はついこの間取り上げたばかり、その際にこの曲が未完であることにも言及していましたね。「クレド」が最初の2曲しかなく(それも、オーケストレーションは未完、ちゃんと作っておいてくれど)、「アニュス・デイ」は全く作られていないというのが、この曲のありのままの姿なのです。かつては作曲されていない部分を補填して演奏する(「シュミット版」がこの形)という事が広く行われていたようですが、最近では作曲者が作ったものだけを演奏するという道が、主流になっています。「ランドン版」や、新全集である「エーダー版」が、その道を先導したものでした。
しかし、あと数週間後に迫った2006年に「モーツァルト・イヤー」を迎えることになれば、やはりこの曲を、ミサ曲が本来あるべき姿で演奏されるようにしてあげたい、という動きも盛り上がってこようというものです。その中心となったのが、宗教曲業界の重鎮ヘルムート・リリンク、彼は同じ志を持つ「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」と「カーネギー基金」の協力の下、このような「修復」には定評のあるロバート・レヴィンにその仕事を依頼したのでした。ご存じの通り、レヴィンは同じ作曲家の「レクイエム」の再構築にあたっても、リリンクとの共同作業で素晴らしい仕事を残していますね。
レヴィンによって出来上がったフルスペックのミサ曲、「クレド」の残りの部分は、この曲が作られた当時の現存する多くのスケッチから修復されました。そして、「アニュス・デイ」には、このミサ曲が作られた2年後に、この曲の「キリエ」と「グローリア」をそのまま使い回しした「悔悟するダヴィデ」という作品の中で、新たに作られたアリアを逆に使いまわすという、なかなか粋なことを行いました。この、本来はソプラノソロのためのアリア、短調で始まったものが後半長調に変わるのですが、そこから「ドナ・ノービス・パーチェム」のテキストが合唱で歌われるようになっています。その結果、このミサ曲は演奏時間7633秒と、まさに「大ミサ」と呼ぶに相応しい堂々たるものに仕上がりました。
この「レヴィン版」、初演は2005年の1月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われ、3月にシュトゥットガルトで行われた再演の模様が、ライブ録音されたものが、このCDという事になります。
その「再構築」の成果ですが、「クレド」の後半は、やはり馴染みがないせいか、ある種の違和感が伴うのは致し方のないことでしょう。この版が根付くかどうかというのは、ひとえに演奏される頻度、いわば「ヘビーローテーション」の有無にかかっているのではないでしょうか。ただ、テノールのソロによって歌われる「Et in Spiritum Sanctum」という装飾的なアリアは、オディニウスのあまりにも稚拙な演奏で曲自体の評価が下がってしまうのが懸念されてしまいます。
しかし、バンゼによって歌われる「アニュス・デイ」には、この大きなミサ曲の中での一つのハイライトと位置づけられるだけの確かな存在感を誰しも認めることが出来るはずです。このナンバーがあることによって、「レヴィン版」は将来もその存在価値をアピールできるだけのものを持ち得たのではないでしょうか。
ライブという事もあって、演奏面では不満足な点も多くなっています。しかし、一つの記念碑的な演奏として、持っているのも悪くはないかな、とは思えるものです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-08 19:24 | 合唱 | Comments(0)
BARTOK/Music for Strings, Percussion and Celesta



Christian Ostertag(Vn)
Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.127



「バーデン・バーデン&フライブルクSWR交響楽団」というよりは、未だに「南西ドイツ放送交響楽団」という言い方の方がぴんと来る、このオーケストラは、もちろん、南西ドイツ放送付属の3つのオーケストラのうちの一つです。ハンス・ロスバウト、エルネスト・ブールといった、「現代音楽」ファンにはお馴染みの指揮者が首席指揮者を務め、「ドナウエッシンゲン音楽祭」という、まさに現代音楽のメッカで華々しい活躍をしてきたこのオーケストラには、何と言っても現代音楽で培ってきた精緻な演奏が期待されています。かつての首席指揮者、現在でも常任客演指揮者として密接な関係にあるミヒャエル・ギーレンは、そんなオーケストラの力をここで存分に発揮してくれました。
ギーレンとこのオーケストラとの演奏で忘れられないのは、ブルックナーの交響曲第4番の第1稿の録音(INTERCORD/1994年)です。現在では殆ど演奏されることのない、この若書きの、言ってみれば「怖いもの知らず」といった趣さえ漂う版は、オーケストラにとっては、とてつもない難所がいくつもあって実際に演奏しようとすると多くの困難が伴うものです。特に、最終楽章の最後の部分などは4拍子と5拍子が入り乱れての「ポリリズム」の饗宴、とても楽譜通りに演奏することなど不可能に思えるほどのものです。実際、数種類出ているこの版の録音で、ここをきちんと演奏しているものは殆どありません。その中にあって、このギーレンたちは、信じがたいほどのリズム感とアンサンブル能力でもって、この部分から、正確に演奏した時にのみ味わえる「モアレ効果」を出現させてくれたのです。焼そばの中には出現して欲しくありませんが(それは「モヤシ」)。そう、ギーレンの演奏が私達をとらえる最大の要因は、まさにその完璧なリズム感なのです。
このアルバムでギーレンが取り上げたのはバルトーク、リズムが大きな要素となっている彼の作品では、そのギーレンの特質は間違いなく大きな魅力となってきます。それが最大限に発揮されているのが「弦チェレ」の、特にリズミカルな2、4楽章ではないでしょうか。2楽章は、意表を衝いてかなりあっさりしたテンポで淡々と始まります。過剰なアクセントや極端な切迫感などはその中には全くないにもかかわらず、深いところから確かに迫ってくるグルーヴ、これは、まさにきちんとしたリズムが背景にあるからこそできる芸当に他なりません。楽譜に忠実に演奏しているだけなのに、そこからはさまざまな衝撃が実体のある訴えかけとなって伝わって来るという、ある意味「おしゃれ」な演奏、こんな素敵なものは、力ずくで無意味なアクセントをでっち上げている○ーノンクールあたりでは味わえるわけがありません。
4楽章も、最初の部分がシンコペーションの効いた軽やかなダンスがずっと続いていることなど、この演奏を聴くまで感じたことはありません。今まで、情緒的な側面に気を取られて、いかに基本的なリズムをおろそかにしていた演奏が多かったかということが、図らずも露呈されてしまったわけです。ギーレンのすごいところは、そのようなある意味冷徹な処理を取っているにもかかわらず、歌うべきところではしっかり歌っているということです。この4楽章でも、その対比がどれだけ音楽を深みのあるものにしていることか。
「ヴァイオリン協奏曲第1番」では、うってかわって叙情的な面が強調されています。これも、作曲家のメッセージを真摯に受け取った結果でしょう。そして、まるで同じ作曲家のオペラ「青髭公の城」のようなテイスト満載の「管弦楽のための4つの小品」で見られる、ナイフのように鋭い表現こそは、まさにギーレンの真骨頂と言えるのではないでしょうか。「プレリュード」の冒頭で聞こえてくるフルートソロのひんやりするほどの不気味さはどうでしょう。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-05 20:13 | オーケストラ | Comments(0)