おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem
Rubens(Sop), Braun(MS)
Davislim(Ten), Zeppenfeld(Bas)
Christian Thielemann/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchner Philharmoniker
DG/00289 477 5797
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1339(国内盤)


正真正銘、現時点で最も新しい録音の「レクイエム」です。今年の2月にミュンヘンで行われたコンサートのライブ録音、合唱にバイエルン放送合唱団が入っていますが、その練習指揮を担当したのがペーター・ダイクストラというのが、注目に値するところでしょうか。本番での指揮者であるティーレマンよりもそちらの方に目が行くというのが、面白いところです。これは、言ってみればダイクストラのオーケストラ付きの合唱(普通は「合唱付きのオーケストラ」と言いますがね)での仕事のデビュー盤、確かに聴き逃せません。以前、合唱団だけのアルバムをご紹介した時には「決して楽観は許されない」と書きましたが、果たして、ここでの「下振り」の手腕はどうなのでしょうか。
ライブ録音とはいっても、最近ではかなり補正がきくようになっていますから、製品となったときにはそれほど大きなミスはまず見られないようになっています。しかし、この演奏のしょっぱなでの「ミス」とは行かないまでも、普通だったら編集されてしまうようなちょっとした「しくじり」が、そのまま残ってしまったのは、この指揮者(もちろん、ティーレマンですが)のアバウトさをいちいち修正していたのではたまらないという、プロデューサーの判断なのでしょうか。まさに冒頭、弦の軽やか(ちょっと意外)なリズムに乗ってファゴットが出たあとに、バセットホルンが明らか異なるテンポ感で入ってきたときに、やはりこの指揮者に精度の高い音楽を求めることは無理だったのだな、と悟るのでした。
そんな、テンポの管理すらままならない指揮者のもとでは、合唱の細かいニュアンスなどとても味わうことなど出来ません。コンビニの経営も、任せられません(それは、「店舗の管理」)。と言うより、この指揮者には合唱の力を引き出す能力など、まるで備わってはいないのではないでしょうか。大味なオーケストラの背後で、あえぎあえぎ歌わされている合唱団には、哀れみの情すらわいてきてしまいます。「Lacrimosa」など、無神経なオーケストラに隠れて、合唱はとことん存在感の薄いものになってしまっていました。そして、この曲の最後の「アーメン」での異常とも言える盛り上がり、そこには、合唱の美しさを決して信じることの出来ない、野暮なオーケストラ指揮者の姿しかありません。ですから、ここではダイクストラがいくら頑張ってみても、その成果を確かめるのは非常に困難になってきます。事実、ここで聴ける合唱団からは、「凄さ」のようなものは何も感じることは出来ませんでした。
ただ、ちょっと前までの「偉大な」指揮者には、大なり小なりそんな側面があったものです。スリムな編成で合唱から表情豊かな音楽を前面に押し出すようになったのは、それこそ「オリジナル楽器」が市民権を得るようになった、ごく最近のことなのでしょうから。言ってみれば、ティーレマンはそんな「巨匠」たちの重厚な姿を現代に蘇らせようとしている「ピエロ」なのかも知れません。確かに、この演奏にはある種の「悲哀」すらも漂っています。

そんな、昔からのこの曲の演奏を録音年代順にまとめたディスコグラフィーが、隔月の音楽雑誌「クラシックジャーナル」の最新号に掲載されています。ただ、表紙に大々的に掲げてある割には、それは実に質素なものでした。実質4ページ、なんの工夫もないテキストだけの羅列には、この仕事に対する熱意など、さらさら感じられません。最後の方に「06年」の録音が5本もあるので、「さすが、モーツァルト・イヤー」と感心したのですが、なんのことはない、それらは全てデータの間違いでした。唯一今年に録音されたこのアルバムさえも、「06年6月」となっているのですからね。そうなってくると、このリスト全体のデータを信用する人など、誰もいなくなってしまうことでしょう。
(9/12追記)
この雑誌の裏表紙の広告(BMGジャパン)で、とんでもないミスプリントがあることに、今気づきました。
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# by jurassic_oyaji | 2006-09-11 19:59 | 合唱 | Comments(0)
Johzenji Street Jazz Festival
 きのうと今日は、定禅寺ストリート・ジャズフェスティバルが開催される日です。きのうは練習に行く途中にチラッと市役所前を通ったので、盛り上がっているな、と分かりました。45号線へ行くために東へ向かって、かつて「レジャーセンター」などというものがあった本町公園のそばを通ったら、そこでもやっていたので、「定禅寺じゃないじゃん」と思ったものです。西公園から駅前まで、幅広くやっていますし、ループバスが会場の間を通っているぐらいですから、ほとんど街中全域でやっている、という感じでしょうか。もちろん「ジャズ」というのも、今では単なる記号に過ぎません。確かにビッグバンドやジャズコンボもありますが、沖縄音楽やらゴスペルまで含めるのですから、「ミュージック・フェスティバル」と言っても構わないくらいです。もちろん「クラシック」でエントリーしている人もいますし。
 ですから、実際にそれを味わうのは、今日になってからになるのですが、その前に、もう一つの予定がありました。それは、モーツァルトの「レクイエム」のコンサートです。ついこの間チェコのオペラハウスの演奏を生で聴いたばかりだというのに、今度はアマチュアの演奏です。どんなものでも「レクイエム」でありさえすれば、私にとっては価値のあるものなのですから、まずは、それを味わってみましょう。
 会場は青年文化センター。ホールの駐車場は当然満車でしょうから、隣の市民センターの駐車場に並びます。待っている間に目に付いたのが、いつもここに来るたびに気になっているこの看板。これ、絶対「テナソト」ですよね。
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 このコンサートは、出来たばかりの合唱団の最初の定期演奏会だそうです。それでこの曲とは、かなりの意気込みが感じられます。それは、ほとんど、この合唱団と、今日もその伴奏で参加しているオーケストラを立ち上げた指揮者の意気込みなのでしょう。と言うのも、今日の演奏にはこの合唱団の他にもう一つ、やはりこの指揮者の方が関係している「なんたら」と言う合唱団が「賛助出演」しているのですが、名簿を見てみると本体よりもそちらの方が多いのですよ。まあ、でも、プログラムのライナーを書いているのはこの合唱団の人のようですから、かろうじて主体性は確保していたのでしょう。その解説の中で「バセットホルンとファゴット」などと書いてありますから、ちょっと期待をしてしまいますが、アマチュアでそれはあり得ないこと、実際、このオケはクラリネットを使っていました。
 合唱は人数が多いので、かなりの音が出ていました。特に、男声は立派、あるべきところであるべき音がしっかり確保できていたのではないでしょうか。それに比べると、女声はかなり見劣りがします。まあ、アマチュアですから。ただ、バリバリのプロである指揮者の方の音楽が、えらくアマチュアっぽいのはちょっと気になります。この曲であんなに盛り上げてどうするのだ、と。ですから、真に「プロ」として聴けたのは、アルトのソリストだけでした。
 アンコールも聴かずに(「アヴェ・ヴェルム・コルプス」をやることは分かっていましたから、ちょっとそれはこのメンバーではご勘弁願いたいと)会場を出て、地下鉄で「定禅寺」へ向かいます。いつものような、本当にやりたいことをやっている人たちの、あふれるばかりのグルーヴ、これは、たとえアマチュアでも決して失望させられることはありません。
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# by jurassic_oyaji | 2006-09-10 21:42 | 禁断 | Comments(0)
A Chorus Line
 劇団四季が、「コーラス・ライン」を持って全国巡業を行っています。そしてその最終地が仙台、今日から11日間のショート・ランを県民会館で行います。前に書いたように、この演目はかなり人気があるようで、チケットは早々とソールド・アウトになっていましたし、そのために追加公演が入ったりもしていました。もちろん、これはブロードウェイのミュージカルなわけですが、映画にもなっていますから、その映画を見た人がステージも見てみたい、と、この盛況となったのでしょう。
 私も映画は見ていましたから、大いに期待をして、この初日の会場に足を運ぶことになるのです。ただ、映画を見たのはだいぶ前のことですから、ほとんど細かいところは忘れてしまっています。音楽も、一番有名な「One」以外は全く記憶に残っていません。ほとんど初めて見る感じで、舞台に臨みます。
 物語の大筋は、覚えていました。コーラスのダンサーを選ぶオーディションの中で、それぞれのダンサーの過去を語る、というお話でしたね。しかし、映画ではそれなりに引き込まれるものがあったような印象だったのですが、このミュージカルではなにかそのドラマの部分からは退屈な印象しか与えられません。というか、登場人物が多すぎて、誰が誰だか分からなくなってしまうのです。特に、今回は3階席で見ていましたから、顔なんかほとんど分かりませんし(その分、体つきがかなり強調されてはいましたが)。そもそもこの話は、かなりシニカルなものではないでしょうか。一番の見せ場、最後に合格者が決まる場面でのとてつもなく意地悪な演出家の仕打ちが、それを端的に象徴しています。有名な話ですから、バラしても構わないでしょうが、「次に名前を呼ぶ人は、一歩前に出て下さい」と言われて、呼ばれた人は本当に嬉しそうに前へ出てきます。そして全員が呼ばれた時に、「その人たちは不合格です。帰ってよろしい」と言われるのですからね。
 その意地悪な役が、映画ではマイケル・ダグラス、何ともニヒルで、「いかにも」という感じがありました。しかし、今回の加藤さんは、ちょっと「いい人」過ぎやしませんか?そう、ずっと感じていた退屈な思いというのは、加藤さんだけではなく、出演者全員がそんな「ダーク」な思いをきちんと表現出来ていなかったことから引き起こされたのではないかと、今気が付いたところです。特に、あの「新劇調」のセリフは、あまりにも明るすぎてこのミュージカルの世界にはそぐわない気がしてしょうがありません。
 それと、一部の人を除いて歌があまりにひどいのにも、ちょっとがっかりしてしまいました。もっとも、その分踊りにはかなり力が入っていたのでしょうから、それで差し引きゼロ、でしょうか。確かに、あれだけの踊りと歌を両立できる人は、なかなか居ないのでしょうね。
 シニカルな内容を引きずったように、エンディングも盛り上がらないでいつの間にか終わる、というちょっと寂しいものでした。あまりにひねくりすぎて、素直には楽しめない作品だな、というのが正直な印象です。
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# by jurassic_oyaji | 2006-09-08 23:41 | 禁断 | Comments(0)
DEBUSSY/Images etc





高橋悠治(Pf)
DENON/COCQ-84171



高橋悠治の70年代のDENONへの録音が、まとめて13アイテム紙ジャケット仕様でリイシューされました。これらのレコードが、LPとして世に出た形を知っているものとしては、これはまるでまるで「グリコのおまけ」、何とも情けなさの伴う郷愁があふれてきたものです。というのも、これらのLPは、まだCDが影も形もなかった時代に、世界で初めての「デジタル録音」を体験させてくれるものとして、他のLPとはひと味違った重さを持ったものだったからです。
一般的には、デジタル録音というものが行われるようになったのは1980年以降だというのが、広く知られている認識ではないでしょうか。しかし、それよりもずっと早い時期に、このレーベルを掲げていた日本のレコード会社は、世界で初めて「デジタル録音」を実用化するのに成功していたのです。今では「デジタル」の代名詞とも思われている「PCM」という略号も、この会社が商標登録しているものでした。
その「PCM」のレコーダーを携えて、この会社は世界各地で自主録音を行います。当時原盤契約のあったSUPRAPHONERATOのアーティストを起用して、デジタルならではのクリアな音を見せつけたのです。当然、国内でも制作は行われました。その中で、特にこの会社が重用したのが、それまで「天才ピアニスト」と騒がれて、海外で華々しい活躍をしていた高橋悠治です。彼が活動の拠点を日本に移し、「トランソニック」という作曲家集団を組織するのと相前後して、夥しい数のレコーディングを行ったのです。バッハからジャズミュージシャンとの即興演奏、そして自らの作品とレパートリーは多岐にわたりました。
そんな悠治の一連の「PCM」録音、ノイズがなくてダイナミック・レンジが広いという「桁外れな」特性(当時は、そう信じられていました)に見事にマッチした彼の「解像度」の高い演奏によって、それまで聴いたことのなかったような新鮮な驚きを与えられたものです。中でも、このシリーズの最初の頃に発表されたこのドビュッシーのアルバムは、衝撃的なものでした。後期のものは次第に間接音なども取り込んだゆるい音場に変わっていくのですが、この頃はまさにピアノの弦の中に頭を突っ込んだような生々しい音の炸裂を聴かせてくれていました。それまで聴いてきたドビュッシーといえば、それこそ霧の中からほのぼのと漂うような「雰囲気」を重視したもの、そこに、この、一つ一つの音が独立した命を持って飛び跳ねているような不思議な演奏を完璧に捉えきった録音に出会ったのですから、その虜にならないはずがありません。特にお気に入りは、「映像第1集」の3曲目「運動」でした。最初の八分音符の導入に続いて三連符の細かい動きが始まった瞬間から、そのノリの良さには引き込まれてしまいます。ほんのちょっとしたアクセントから異様にショッキングな印象を与えられるのも、ちょっとした驚きでした。そして、これ以上の鋭さはないと思えるほどのタッチで入ってくる、「ソソファミレドドソ」という平行5度と平行8度を伴う下降テーマの堂々としたたたずまい。この、まるでキース・エマーソンのような、およそドビュッシーらしからぬ演奏は、それから長い間、繰り返し味わうことになるのです。
それらのLPは、ほとんどのものがCD化され、サティなどは海外でも高い評価を得ていました。しかし、例えば今回のシリーズの中の自作「ぼくは12歳」あたりは、一向にCD化される気配もなく、しびれを切らして他のレーベルから発売されてしまったこともあるというように、録音したメーカーが必ずしも全てのアイテムに愛着を持っていた訳ではなかったことが、明らかになっていました。
このドビュッシーは、1991年に1度CDとなってリリースされています。しかし、その時のジャケットはなにやら取りすましたデザイン、LPのジャケットと、その録音、演奏が一体となったものとしての呪縛に取り憑かれていたものにとっては、なんの魅力も感じられないものでした。それが、晴れてオリジナルジャケットで復刻されたではありませんか。確かにLPのジャケットが持っていた存在感はないものの、そこから聞こえてきた音は昔の印象がただの物珍しさに起因したものではなかったことを、確認させてくれるものでした。それだけに、ミニチュアでしかない外観とのミスマッチは募ります。もっと言えば、BRIDGE盤のように、レーベルまできちんと復刻しなければ、せっかく復刻しても意味がないのでは。
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# by jurassic_oyaji | 2006-09-07 20:29 | ピアノ | Comments(0)
In Search of Mozart









Phil Grabsky(Dir)
SEVENTH ART/SEV 103(DVD)



モーツァルトの生涯についてのドキュメンタリーなどというものは、もちろんこの大騒ぎの日々ですから、それこそ「売るほど」世の中には蔓延していることでしょう。そんな「売り物」のDVDの一つを、さる知り合いの口車に乗せられて買ってしまったと思って下さい。ワクワクしながら見始めたそのDVDのあまりのつまらなさに、思わず口について出た「この無意味だった2時間を返してくれ!」という叫びは、一体どこへ向ければよいのでしょうか。
「番組」(だったんでしょうね、もともとは。あるいはテレビ映画?)の構成は、いたってシンプルです。モーツァルトが生まれてから亡くなるまでを、時系列を追って折々の手紙なども交えて紹介していく、というものです。良くあるドラマ仕立てのようなクサいものではなく、それはいかにも誠実味にあふれた手法のように見えます。「直球勝負」というやつでしょうか。しかし、しばらくこれに付き合っていると、何とも退屈な思いに駆られて、こらえようのない睡魔が襲ってくるのです。言ってみれば、何年も同じノートを繰り返して読み続けているだけという、大学の老教授の講義のようなもの、講義の内容は確かに学ぶべきものが沢山あるはずなのに、それを教える人がその事に対してなんの熱意も持っていない場合に起こる、不幸なコミュニケーションとまさに同じものが、このドキュメンタリーの制作者とそれを見る人との間に横たわっていたのです。
バラエティ番組ではないのですから、無理に盛り上げる必要はさらさら無いのですが、素材はあのモーツァルトですよ。こんな型通りの扱いを受けたのでは、さぞかし草葉の陰で悔しがっていることでしょう。そういえば、彼の息子は草場という名前でしたね(それは「クサヴァ」)。
一番いけないのは、高名なピアニストがモーツァルトの曲の一節を弾いてみて、「この和音やリズムは、モーツァルトにしかできないものでした」とか、「この部分はまるで恋人同士が語っているように、私には思えます」などという、愚にも付かない感傷的な主観の押しつけです。そんな番組を作った人が、「『アマデウス』には、多くの間違いがある」などと音楽学者に言わせているのですから、笑えます。このピアニストたちの勘違いのコメントは、「アマデウス」の罪もない無知よりもはるかにたちの悪いものであることを、この制作者は気づかなかったのでしょうか。
もちろん、そんな陳腐なコメントの間には、モーツァルトの名曲が実際に演奏されているクリップが挿入されるのは、この手の番組の常套手段でしょう。どんなに話が退屈でも、美しい音楽が流れてさえいれば、それだけで楽しむことが出来るはずですから。ところが、この音楽の部分がとても雑な扱いを受けているのですから、とても楽しむことなどは出来なくなってしまいます。曲のタイトルはとりあえず表記されるのですが、それを演奏している人の紹介が全くありません。これは、最後までこのDVDを見れば、そういう細かいことは「こちらのサイトで見てくれ」という案内があるので、あえて画面には出さなかった理由は分かるのですが、それは単に煩雑なことを避けただけの自分勝手なやり方としか思えては来ません。彼(ら)は本気で、いちいちインターネットにアクセスしながら、DVDを見るような人がいるとでも思っているのでしょうか。このような措置からは、演奏している人に対する制作者の敬意が全く感じられません。例えばオペラなど、今まで単独で見たことのあるクリップも使われているのですが、オリジナルに比べるとその画質と音質はとてもひどいものです。なぜこれほど劣悪なものを平気で使えるのか、それも、こういう制作姿勢を見ていると完璧に納得できてしまいます。
こんな番組の中にあると、ノリントンやブリュッヘンといった「真の」芸術家が語っていることまでが、妙に薄っぺらに聞こえてしまうのですから、不思議なものです。ブリュッヘンはともかく、ノリントンは自分が出ているこのDVDをジャケットで褒めちぎっているのですから、案外「俗物」だったのかも知れませんね。
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# by jurassic_oyaji | 2006-09-06 19:52 | 映画 | Comments(2)