おやぢの部屋2
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雲の歌 風の曲




安野光雅(絵と詞)
森ミドリ(曲)
岩崎書店刊
(ISBN4-265-81012-8)


安野光雅さんは、私にとって殆どアイドルに近い絵本作家です。オランダの画家M・C・エッシャーに触発された「ふしぎなえ」などの初期の作品群は、本家エッシャーの世界を継承しながらも、安野さん独特の温かい絵柄でより親しみやすい魅力を持つものでした。「ABCの本」や「あいうえおの本」のように、全ての文字について何らかの仕掛けを施すという緻密な仕事には、なにか人の能力を超えた叡智のようなものさえ感じさせられたものです。そして、衝撃的だったのが「もりのえほん」。一見何ごともないのどかな森の風景が、実はさまざまなものが巧みに隠された「騙し絵」だったと知った時の驚きは、今でも忘れません。その流れから生まれたのが「旅の絵本」です。その第1巻はまさに「騙し絵」のオンパレード、隠されたものを探し出す作業は、なんと知的な体験だったことでしょう。
その一方で、安野さんは国内やヨーロッパなどの風景を独特の水彩画で綴った画集を数多く生み出しています。そこには、絵本に見られたある意味刺激的な要素とはちょっと異なる、素朴な懐かしさを呼び覚ましてくれるような、温かいたたずまいが漂っていて、こちらの安野さんも私は大好きです。一方で、安野さんの書くエッセイも、とても魅力のあるものです。その中に垣間見られる大きな世界観と柔軟な人間性は、私達を惹き付けて止みません。
そんな安野さんの、「作詞歌」としての新たな一面を見せてくれるものが、今回の新刊です。そもそものきっかけは、彼の生地である津和野にある「安野光雅美術館」に展示してあった、「つわのいろは」という一編の詩でした。2001年に作られた「夢に津和野を思ほえば」で始まるこの詩は、実は「いろは歌」、つまり、いろは48文字全てを重複なく使い切るという非常に技巧的なものだったのです。その様な制約の中で見事に故郷津和野の情景を歌いきっているというのですから、とてつもない、言い換えれば、いかにも安野さんらしいものであると言えるでしょうね。ここを訪れた作曲家の森ミドリさんが、この詩を見て曲を付けたのが、安野さんと森さんとのコラボレーションの始まりでした。作曲家の求めに応じて、ワンコーラス分しかなかったこの詩にさらに2コーラスとサビを2コーラス追加したのが、作詞家安野光雅のデビューとなりました。このロングバージョンは、「津和野の風」というタイトルとなり、2003年にリリースされた森さんのチェレスタ独奏の5枚組アルバムにも収録されることになりました。さらに2005年には混声合唱に編曲され、来年の3月にさる合唱団によって初演(合唱版はそれこそ世界初演!)されるということです(この演奏会では、もう1曲「つわのの子守歌」も演奏されます)。
ここに収録されている「作品」は、全部で31曲。巻末には森さんが作った曲の楽譜も添えられています。もちろん、それぞれの曲には安野さんの絶妙の「挿絵」が添えられていますから、彼のイメージが言葉と絵から伝わってくることになります。「津和野」こそ、夕暮れ迫るもの悲しい情景ですが、大半は子供がたくさん登場する「童謡」の世界、安野さんの子供の歌に対する一つの見識が存分に発揮されています。
そして、まるで「旅の絵本」を思わせるヨーロッパの風景をバックに歌われているのが、安野さんの面目躍如といった「ロンドン頌歌」と「行ってみたいの」という、2つの「いろは歌」です。もっともこれは「津和野」とは異なり、「いざ手をとりて ローマの都 花のバチカン 虹の丘」とか、「行ってみたいの ロンドンパリィ 花の帽子が 似合うでしょ」といった具合に、フレーズの頭を「いろは」でまとめたという別の技法が駆使されたものです。
せっかくですから、楽譜ではなく「音」となったCDが一緒にあんのが良かったのに、とは誰しも思うことでしょう。いずれ、その様なものも出ることを、期待しましょう。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-30 13:45 | 書籍 | Comments(0)
GOLIJOV/Ayre




Dawn Upshaw(Sop)
The Andalusian Dogs
DG/00289 477 5414



WARNERというかNONESUCHのアーティストだと思っていたアップショーのアルバムが、DGから出ました。メインは、そのNONESUCH時代のアルバムでも取り上げていたアルゼンチンの作曲家、オスヴァルド・ゴリジョフが、2004年に彼女のために書いた「Ayre」という曲の世界初録音です。中世のスペイン語で「うた」とか「メロディ」を現すタイトルのこの作品には、実はゴリジョフがモデルとしたものがあります。それはルチアーノ・ベリオが1964年に、夫人のキャシー・バーベリアンのために作った「フォーク・ソングズ」、この、いわば「元ネタ」も、しっかりカップリングされているという配慮がうれしい、ニューアルバムです。
まず、そのベリオから聴いてみましょうか。タイトル通り、アメリカやフランスの「フォーク・ソング」をベリオが編曲したもの、なによりも1964年という、作られた時代がもろに作品の中に反映されているのが、ちょっと懐かしくなってしまうところです。歌自体はオリジナルを生かして素直に歌っているのに、伴奏でちょっとへそ曲がりな、というか、「現代作曲家」の意地のようなものが熱く迫ってくるのが、今となってはほほえましく感じられてしまうほどです。
この曲集、アメリカのフォーク・ミュージシャンのJ・J・ナイルズの曲で始まるのですが、2曲目のタイトルが「I Wonder as I Wonder」、なんと、これは先日ご紹介したばかりのキャロル集に入っていたものと同じタイトルではありませんか。歌詞も全く同じ。メロディは違いますが、いずれもしっとりとしたテイスト、リュッティ版の方が洗練されているでしょうか。「A la femminisca」という、シチリアの水夫の妻が「お天気が良くなりますように」と祈る歌では、シチリア風のだみ声で歌うという、バーベリアンばりの表現力の幅の広さを披露してくれているアップショーです。最後の「アゼルバイジャンのラブソング」で見られるリズミックなノリの良さからは、ベリオの本音のようなものも垣間見られることでしょう。
そして、最新のゴリジョフになると、もはや体裁などはかなぐり捨てた本音で勝負できる時代がやってきます。ここで扱われている素材は、ゴリジョフのルーツとも言うべき、スペイン系ユダヤ人と、アラブの世界です(ライナーには、アラビア文字の歌詞が載っています)。ここでは、伴奏のアンサンブルはしっかりとした必然性を持って、その素材の持つ世界観を表現しています。ビブラートたっぷりのクラリネットが奏でる哀愁のメロディ、「ハイパー・アコーディオン」などと言うわけの分からない楽器も登場しますし、「ラップ・トップ」とクレジットされているのは、言ってみればシンセサイザーのプログラミングでしょう。この二つの「楽器」がイントロを務める「私の愛」も聴きものです。
澄みきった声で歌われる、「母親は子供を丸焼きにして食べた」というタイトルからは想像できないような心に染みる美しい歌があるかと思えば、その次の「壁が土地を囲んでいる」では地声丸出しで殆どパンクのような激しさを見せてくれたり、まさに「虹色の声」でゴリジョフの世界を描ききったアップショー、バーベリアンとはまた違った意味で音楽の「ボーダー」を取り払ってくれました。
考えてみれば、バーベリアン、そしてベリオの時代に「ボーダー」だったものが、現在ではなんの意味も持たなくなり、新たな「ボーダー」が出現しています。それまでも取り払おうという「ボーダーレス」に挑んだゴリジョフとアップショー、その「ボーダー」の向こう側からのアプローチであるサラ・ブライトマンの「ハレム」と言うアルバムによく似た感触を醸し出しているのは、単なる偶然なのでしょうか。ジャケットのコンセプトも名前に似てますし(それは「ストリップショー」)。

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# by jurassic_oyaji | 2005-12-28 20:53 | 現代音楽 | Comments(2)
Mozart Meets Cuba





Klazz Brothers & Cuba Percussion
SONY/82876762622



以前もご紹介した、ドイツのジャズ・トリオ、クラズ・ブラザーズ(「Klazz」というのは、KlassikJazzをつなげた言葉だとか)と、キューバの2人のパーカッション奏者のユニットによる、ラテン・ジャズによるクラシックの名曲の「再構築」である「Meets Cuba」シリーズ、今回は大方の予想通りモーツァルトがネタになっています。しっかりとクラシックの基礎を持つキリアン(ベース)とトビアス(ピアノ)のフォルスター兄弟に、ドラムスのティム・ハーンが加わったかなり知的なトリオ、そこにアレクシス・ヘレラ・エステヴェスと、エリオ・ロドリゲス・ルイスという、生粋のキューバン・パーカッションが加わって生み出されるラテンのグルーヴ、そこには、確かなボーダーレスの世界が広がっていました。あ、同じ海の生き物でも、こちらには吸盤はありません(それは「クラゲ」)。
こういう企画で曲を作る場合、いかによく知られたメロディーを用いるか、というのが一つのポイントになってきます。誰でも知っている有名なものが素材になっているからこそ、それをいかに料理したか、というおもしろみが味わえるのですからね。このアルバムでも、そのあたりは抜かりがないように見えます。本当に誰でも知っている「トルコ行進曲」を、ちょっと「外した」リズムで処理したり、「ド~ミソ、シ~ドレド」という有名なハ長調のピアノソナタを、一瞬元ネタが分からなくなるほど大胆にデフォルメしたりと、まずは予想通りの展開です。
しかし、さすがドイツ人、と思わせられるのが、確かに有名ではあっても日本人の中では必ずしも「誰でも知っている」というわけにはいかないオペラからの引用です。ファンキー・シャッフルに乗った「ザルツブルク・シャッフル」というのは、「魔笛」のポプリ、パパゲーノの2つのアリア、パパゲーノとパミーナのデュエット、タミーノのアリア、夜の女王のアリアなどが延々と続くのを楽しめるのは、もしかしたらかなりの「通」だけなのかもしれません。
「魔笛」ネタはもう一つあって、ここでは「愛の喜びは露と消え」という第2幕で歌われるパミーナの悲痛なアリアが使われています。そこになんと「ベサメ・ムーチョ」を同時に演奏する、というのがミソ、こんな全く別の世界の曲同士が、同じコード進行だと言うだけで結びついてしまうのは、殆ど奇跡です。ただ、「いっぱいキスして」というかなり情熱的なタイトルのこのラテンの名曲も、その歌詞は死の床にある夫からの、妻に対する永遠の別離を歌ったものであると聞けば、恋人が心変わりをしたと思いこみ、死を決意するというパミーナのアリアとの接点も見いだせようと言うものです。そこまで考えていたのであれば、ちょっと怖くなってしまいますが。
しかし、「死」をテーマにしたものがもう一つあるとなると、それも現実味を帯びてきます。それは、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲の序奏の部分だけをボレロに仕立てたナンバーです。暗く重苦しいテーマが続く中に、一瞬明るいメロディーが現れますが、それはショパンの「葬送行進曲」の中間部のテーマなのです。ここまで作り込んであれば、このアルバムがただのノーテンキな「ポップ・クラシック」とは一線を画していることが、自ずと分かってくるはずです。
彼らのシニカルな視点は、その「ドン・ジョヴァンニ」の「手を取り合って」という、主人公が村娘をナンパする時のデュエットが、けだるいバラードで、まるで罪深い不倫のように描かれていることからも、確認できることでしょう。同じオペラの「乾杯の歌」が、いとも軽快なモザンビークに変貌しているからこそ、その対比は際立ちます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-26 20:10 | ポップス | Comments(0)
One star, at last




Stephen Cleobury/
BBC Singers
SIGNUM/SIGCD067



今宵はクリスマス・イブ、あなたの一番大切な人と、床暖房のきいた暖かい部屋で、肩を寄せ合いながら聴くには絶好のアイテムが届きました。あいにくSACDではありませんから、包み込むようなサラウンドは味わえませんが、今夜のメニューはカレ手作りの皿うどん、愛し合う2人にはなんの差し障りもないはずです。
副題が「A selection of carols of our time」、最近作られたキャロルだけを集めたアルバムであることが謳われています。元々は2000年にBBCがラジオ用に制作したものなのですが、それをこのレーベルがCDにしてリリースするという、まるでライブの放送音源のようなパターンですね。もちろん、この録音はきちんと教会でセッションを行ったものです。
看板の通り、全20曲のうち12曲が初録音、さらにその中の6曲はBBCが委嘱した作品ということで、いってみれば完璧に「有名でない」キャロルが集まったもの、かなりマニアックなアイテムではあります。しかし、ものは「キャロル」ですから、何も知らずに聴いても「クリスマス!」という感じを与えられる曲が大半であることは、仲の良いお二人には喜ばれることでしょう。最初のボー・ホルテンというオランダの作曲家による「Nowell Sing We Now」という新作が、まさにそんな趣をたたえたものです。ソプラノ・ソロがまるで少年のような無垢な声で歌われていて、流れるようなその曲に自然に入っていける心地よさを誘います。なぜか本体の合唱がちょっと重苦しいな、という印象も、それほど気にはなりません。
中には、殆ど「ポップス」と言っても構わないほどキャッチーな魅力を振りまいているものもあります。スイスの作曲家カール・リュッティの「I Wonder as I Wonder」など、シングル・ヒットしてもおかしくないような素敵な曲です(J・J・ナイルズのフォークソングに、同じタイトルの似たような曲がありましたね)。美人作曲家ロクサンナ・パヌフニクが編曲したポーランドの古いキャロル「Sleep,little Jesus,sleep」も、ソプラノ・ソロが、先ほどの人とはうってかわった毒々しさで迫りますが、曲の美しさを損なうほどのものではありません。ハワード・グッドールの「Romance of the Angels」は、歌詞はルネッサンス期のスペインのものだそうですが、それをなんと「ルンバ」に仕立て上げたというユニークさが光ります。パイプオルガンと混声合唱が教会の中でラテンの明るいリズムに乗って演奏する、こんなキャロルを作らせてしまうBBCも、なかなか太っ腹なところがあるのだな、と感心させられてしまいます。
そう、最初のうちは甘いムードに浸っていたお二人も、このBBCが仕掛けたとてつもないキャロル・プロジェクトには、そろそろ度肝を抜かれはじめている頃ではないでしょうか。ジェイムズ・マクミランの「Seinte Mari Moder Mode」あたりは、殆ど怒鳴り声に近い張った声から、まるでささやくような声まで瞬時に使い分けて、ちょっと民族的なコブシを聴かせるなどという、まさに作曲家の「自己表現」の世界、完璧に「キャロル」の範疇を超えている、と思わせられるものです。ポーランドの作曲家ジェルジ・コルノヴィツの「Waiting」も、サンプリングした声(母親と娘?)を挿入するなど、紛れもなく「表現」が勝った作品、のんびり聴き流すのではなく、真摯に曲に向かい合うだけの覚悟が必要になってきます。
そんな七面倒くさいことを言っていても、最後にジョン・ハールの「Mrs Beeton's Christmas Plum Pudding(average cost:3 shillings and 6d)」という長ったらしいタイトルの曲が流れてくれば、またもとの幸せな雰囲気が戻ってくるはず。いきなりSPレコードのスクラッチノイズの中から聞こえてくる貧弱な音(もちろん、そのように作り込んであるものです)は、紛れもないいにしえのバーバーショップ・スタイルのコーラスのコピー、こんなお遊びまでしっかり「委嘱」してしまう、またしてもBBCの懐の深さには、感服です。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-24 20:07 | 合唱 | Comments(0)
FAURÉ/DURUFLÉ/Requiems

Miah Persson(Sop), Malena Ernman(MS)
Olle Persson(Bar)
Mattias Wager(Org)
Fredrik Malmberg/
Swedish Radio Choir
BIS/SACD-1206(hybrid SACD)



フォーレとデュリュフレのレクイエムをカップリングしたCDは数多く出ていますが、普通はオーケストラ版、これは両方ともオルガン版という、珍しい(というか、フォーレのオルガン版は殆どこれしかないはず)組み合わせです。演奏しているのはスウェーデン放送合唱団、あのエリック・エリクソンに育てられ、最近ではトヌ・カリユステが首席指揮者を務めていたという、名門中の名門合唱団です。例えばムーティ、アバドやブロムシュテットといった指揮者が、合唱付きのオーケストラ曲を演奏する際にこの合唱団をわざわざ指名して起用するということからも、その実力はうかがい知ることが出来ることでしょう。
デュリュフレのオルガン版は数多くの名盤が存在していますが、このCDはその中にあってもひときわ「大人の」音楽を聴かせてくれています。各パートの音にはいささかの曖昧なところもなく、完璧に一つの「声」として伝わってきます。もちろん、それは非常に立派なこと、サウンドとしての完璧さから言ったら、これ以上は望めないでしょう。さらに、30人足らずという少ない編成とはとても思えないような広いダイナミックレンジには驚かされます。この曲、もちろん最初の形はフルオーケストラのためのものなのですが、例えばティンパニなどが入って大々的に盛り上がる、といったような場面が数多く用意されていて、フォルテシモの迫力はかなりのものがあります。それにかなり近い雰囲気を、この合唱団はオルガンだけの伴奏で充分に伝えることに成功しているのですから、すごいものです。
個人的な好みでは、もう少し曖昧なところがあった方がこの曲を聴く時にはより幸せになれるな、という感じはありますが、もちろん、それはかなり高次元な要求になってしまいます。この演奏からは、「Pie Jesu」さえも曖昧さを許さない立派な声と胸の谷間の持ち主のエルンマンにソロを託したということからも、その主張は明らかなのですから。

  Malena Ernman
フォーレの場合には、その完璧さはやや鬱陶しく感じられてしまうかもしれません。もちろん、「Kyrie」でもテナーのパートソロのようにこれ以上は望めない立派なものもある反面、「In paradisum」あたりのソプラノパートは、あまりに立派すぎて別なメッセージが伝わってしまうという危惧を感じないわけにはいきません。それ以上に問題なのが、この曲をオルガンだけで演奏するという姿勢です。それは、冒頭のDの音のディミヌエンドで露呈されてしまいます。オルガンという楽器では、本当の意味でのディミヌエンドは不可能、それらしく聴かせるために、ここでオルガンのための編曲を行い、自らが演奏しているワーガーは、次第にストップを減らすという方法をとっています。その、いかにも段階的な音の減衰は、興ざめ以外の何者でもありません。「In paradisum」など、最初からオルガンがフィーチャーされているところはそれなりに味わえるのですが、大半の部分では、フォーレがわざわざ用いた特異なオーケストレーションの妙が、残念ながら全く消え失せてしまっています。「Agnus Dei」でのヴィオラの響き(もちろん、ヴァイオリンが入っていない「第2稿」)がどれほどに魅力的だったのかと、こののっぺらぼうなオルガンの音を聴いて再確認したほどです。
近々、さる地方都市では、この曲をオルガンと弦楽器という編成で演奏すると聞いておるがん。以前NAXOSから出ていたデニス・アーノルドと同じアプローチ、ちょっとそそられます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-12-21 20:55 | 合唱 | Comments(2)