おやぢの部屋2
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SCHÜTZ/Matthäus-Passion




Françoise Lasserre/
Akademia
ZIG-ZAG/ZZT 050402



もはや1000アイテム目も視野に入ってきたという「おやぢ」ですが、それだけ続いているにもかかわらず、シュッツを取り上げるのはこれが初めて、というのはちょっと意外な気がします。これだけ合唱関係に選曲が偏っているのですから、とっくの昔にしゅっと書いていてもおかしくはないのですが、一応「新譜紹介」を謳っていますので、たまたま新しい録音で引っかかるものがなかったのでしょう。
大バッハのちょうど100年前、1585年に生まれた、初期バロックの大家ハインリッヒ・シュッツは、なんと87歳まで生き延びたという、当時としては記録的に長命の方でした(テレマンが86歳と聞いてびっくりしたことがありましたが、もっと上がいたのですね)。しかも、ただ年だけを無駄に重ねていたのではなく、亡くなる直前まで「白鳥の歌」や「ドイツ語マニフィカート」といった素晴らしい曲を作っていたのですから、これは凄いことです。この「マタイ受難曲」も、81歳の時の作品なのですから、驚いてしまいます。
年を取ってからの作品だからなのか、当時の様式なのかは私には分かりませんが、この曲はまるで水墨画のような引き締まったシンプルさに支配されています。それというのも、この曲には楽器による伴奏は付かず、しかも、大半の部分はエヴァンゲリストが一人で歌うという場面によって占められているからです。バッハあたりでは「レシタティーヴォ・セッコ」という形で、通奏低音の伴奏が付きますのでまだ間が持てますが、一人の歌手だけによるそれは、「歌」というよりは殆ど「語り」に近いものがあります。別の歌手によって歌われるイエスやピラトの言葉も、テイストは同じ、群衆の言葉の部分がわずかにポリフォニーとハーモニーの処理が施されている程度、そこに広がるのは、モノクロームの禁欲的な世界なのです。最初の導入と、最後におかれた終曲の合唱以外は、全て聖書のテキストがそのまま歌われるというのも、潔いものです。
フランソワーズ・ラセール女史の指揮による「アカデミア」の演奏、ここでは、例えばバッハの同じタイトルの曲を思い浮かべた時に、途中でアリアやコラールなどが聴きたくなる心情を配慮してか、部分的に同じ作曲家の「クライネ・ガイストリッヘ・コンチェルト」や「カンツィオーネス・サクレ」といった合唱曲を挿入するという試みを行っています。確かに、物語のハイライト「ペテロの否認」のあとにオルガン伴奏の入ったポリフォニックなモテットが続くのは、ドラマティックな効果を与えるには充分なものがあります。
エヴァンゲリストとイエスを含めて、全部で10人からなる「アカデミア」のメンバーは、あまり得意ではないドイツ語のディクションを逆手にとって、言葉の持つ意味をことさらに強調し、平坦になりがちなテキストから実に起伏に富んだドラマを導き出しています。合唱の部分も「ハモる」よりは「語る」といった方があたっているような生々しさ、変な喩えですが、今までセリフをしゃべっていたものが急に歌を歌い出すミュージカルのような、良い意味での唐突さを連想してしまったものです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-04 19:52 | 合唱 | Comments(2)
CIMAROSA, MOLIQUE, MOSCHELES/Wind Concertos


Mathieu Dufour(Fl)
Alex Klein(Ob)
Paul Freeman/
Czech National Symphony Orchestra
CEDILLE/CDR 90000 080



風をいっぱいに受けた帆船がジャケットに描かれているとはいっても、これは「風の協奏曲」というアルバムタイトルではありません。「Wind」というのは、フルネームは「Wood Wind」で、「木管楽器」という意味、ですから、もちろんこのアルバムは「木管楽器のための協奏曲」ということになり、フルートとオーボエのための協奏曲が収録されています。ソリストは、録音が行われた2003年には、揃ってシカゴ交響楽団の首席奏者だったフルートのマテュー・デュフーと、オーボエのアレックス・クレインです。ちなみに、クレインは2004年にこのポストを去っています。
バロックの時代には、管楽器のための協奏曲はたくさん作られていますが、ロマン派の時代になると、協奏曲の主役はもっぱらピアノとヴァイオリンに限られてしまった感があります。事実、「シューマンのフルート協奏曲」とか「ブラームスのオーボエ協奏曲」なんて、聞いたことがありませんものね。なんと言っても、ソリストとしてこの時代の技巧に富んだ音楽を託されるには、管楽器にはちょっと荷が重いという一面があったのかもしれません。確かに、フルートなどが現代の楽器と同じような低音から高音までムラのない響きと、輝かしい音色を獲得できるようになったのはごく最近のこと、その始まりとなったベームの楽器が完成を見たのは19世紀も半ばを過ぎてからのことだったのですから。従って、本当の意味での技巧的な管楽器の協奏曲が作られるようになるのは、20世紀に入ってから、さらに、「ソリスト」として独り立ち出来る管楽器演奏家が出てくるのは、その世紀の殆ど終わりに近づいた頃だったのです。
しかし、そんな管楽器にとっては「不毛」の時代でも、確かに可能性を信じて曲を残してくれていた人はいました。このアルバムで聴くことが出来るヴィルヘルム・ベルンハルト・モリックという、手品師みたいな名前(それは「マリック」)の作曲家の作品も、そんな愛好家の渇きを癒してくれるような素晴らしいフルート協奏曲です。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるような短調の第1楽章では、デュフーの力強い低音と、揺るぎのないテクニックで、ヴァイオリンに勝るとも劣らない多彩な表現を見せてくれています。そして、何よりも美しいのが第2楽章、甘く歌われるテーマは、まさに「ロマン派」、そして、そのテーマが回想される部分のソット・ヴォーチェは絶品です。第3楽章のロンドも、3つのテーマが入り乱れて楽しませてくれます。もう一人、同じ時代のこちらはピアノ関係で有名なイグナツ・モシェレスの「コンチェルタンテ」は、ソロがオーボエとフルート、まるでヴァーグナーを思わせる半音進行の前半と、ベル・カントのオペラのような後半の対比が素敵です。いずれの曲でも、デュフーとクレインは肩の力の抜けたファンタジーあふれる音楽を聴かせてくれています。
時代的にはもう少し早くなるドメニコ・チマローザの、有名な2本のフルートのための協奏曲を、ここではフルートとオーボエの二重協奏曲として聴くことが出来ます。ソロ楽器のアンサンブルにはいささかの崩れもないのですが、この曲に関しては鈍い反応のオーケストラとも相まって、ちょっと他の2人の曲ほどの生気が感じられなかったのが、残念です。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-02 19:54 | フルート | Comments(0)
PROKOFIEV/Romeo & Juliet




佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032



レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-01 19:23 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Requiem


Larsson(Sop), von Magnus(Alt)
Lippert(Ten), Peeters(Bas)
Simon Schouten/
Ensemble Lyrique
PREISER/PR90670



輸入CDのレビューで困るのは、演奏者の読み方が分からない時です。たとえ英語であっても、法則などの通用しない特別な読み方をする場合がありますから、油断は出来ません。「Maazel」を「マゼール」と読んだりするのは、かなり勇気がいることだとは思いませんか?ちなみに、「Renée」という名前は、「ルネ・フレミング」のように、「ルネ」という発音が実際の音に近いものなのですが、映画の世界では同じスペルでも「レニー・ゼルウィガー」のように「レニー」という、アクサンを無視した乱暴な読み方が通用していたりします。「Halle Berry」も、「ハル・ベリー」ではなく、「ハリー・ベリー」が正しいことが最近になってようやく知られてきたとか。
馴染みのある英語でさえ、このぐらいの「誤読」があるのですから、オランダ語などになったらとても手が付けられません。今回の指揮者の名前も、輸入業者の資料を見て初めて「スハウテン」というダイエット食品みたいな読み方だと知ったぐらいですから(それは「トコロテン」)。ただ、これも全面的に信用することは極めて危険です。かつて、やはり同じオランダの演奏家のモーツァルトのレクイエムが出た時も、CD店のコメントに書いてあった読み方を採用したら、別のところでは全く違う読み方だったということもありましたので。
とりあえずのスハウテンさん、ご自分が指揮者とクレジットされたアルバムはおそらくこれが初めてなのでしょうが、だいぶ前からトン・コープマンの「右腕」として、合唱の指導に当たっていたという実績があるそうです。リサ・ラーション(これも、読み方が難しい)などの、コープマン・プロジェクトの常連が参加しているのは、そのあたりの人脈なのでしょうね。
「アンサンブル・リリック」という団体名は、スハウテン(とりあえず)が1999年に自ら創設した、オリジナル楽器のアンサンブルと、小規模の合唱団の総称として使われています。それぞれのメンバーは、スハウテン(とりあえず)が個人的によく知っている人ばかりを集めたということで、ある意味、指揮者のやりたいことに極めて敏感に反応できる演奏集団を目指しているのでしょう。確かに、その成果は見事な形で演奏に現れていることはすぐ分かります。オーケストラと合唱が一体となった緊密な表現を、あちこちで聴くことが出来ます。ただ、それは良くも悪くも指揮者の趣味がそのまま反映されるということになるわけで、彼のかなりアクの強い歌わせ方には、正直なじむことは出来ません。そんな中で「Lacrimosa」だけは、その趣味がたまたま良い方向に向いたのか、ちょっと凄い演奏になっています。イントロのヴァイオリンの緊張感あふれる響きからして、それまでの音楽とは別物、合唱も最初から最後まで集中力が切れることはありません。
問題は、合唱だけの時にはそこそこ緊密な音楽が聞こえてくるのに、ソリストが入ったとたん、その張りつめたものが無惨にも壊れてしまうことです。ラーションがこんなにリズム感が悪いのも意外ですが、テノールのリッパートは最悪。「Tuba mirum」では、ライブということもあってオブリガートのトロンボーンもちょっと、なのですが、その2人の危なっかしい絡みには笑う他はありません。4人のアンサンブルも、それは悲惨なものです。
カップリングの「聖母マリアのためのリタニア」では、さらにコンディションが悪かったのでしょうか、ソリストのアンサンブルの酷さはまさに耳を覆いたくなるほどでした。つくづく、こういう編成の曲の難しさを思い知らされます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-06-29 19:57 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Die Flötensonaten




福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021


京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。
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# by jurassic_oyaji | 2005-06-27 19:40 | フルート | Comments(0)