おやぢの部屋2
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M.C.Escher
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 いわき市でエッシャー展をやっていると知ったのは、少し前の新聞広告ででした。ハウステンボスのコレクションを各地で公開しているものの一環だそうで、確か去年あたりは横浜でもやっていました。その時もぜひ行ってみたいと思ったのですが、つい機会を逃して残念だと思っていたところに、この情報です。すぐお隣の福島県で横浜と同じ、というか、長崎と同じものを見ることが出来るのであれば、これに行かないわけにはいきません。なにしろ、仙台からならば「常磐線」で乗り換えなしでいけますからね。
 最近はもっぱら新幹線ばかり利用しているので、在来線、しかも「常磐線」などというマイナーな路線は全くのノーマークでした。時刻表を調べて分かったのは、仙台からいわきまで行っている特急は3時間に1本しか無いということです。しかも、その「スーパーひたち」といういかにも早そうな名前を持つ特急でさえ、丸2時間もかかってしまうのですよ。新幹線だったら、東京を通り越して新宿まで楽々行けてしまう時間です。なんという。
 それしかないのでは仕方がありません。仙台を10時に発って5時に帰ってくるという電車を選び、いわきで美術館に行く時間を作る、というスケジュールを立てて出発です。車中4時間、現地3時間という無駄の多い時間配分ですが、これ以外にないのですからやるしかありません。
 指定券を取った時に「11号車」とあったので、一番後ろの車両だと目星を付けて駅のホームへ向かうと、電車ははるか前の方にありました。なんと、それは「8号車」が一番前、全部で4両しかない「特急」だったのです。車中のアナウンスを聞くと、いわきで前の7両を連結するのだとか、つまりあれですね、「はやて」の後ろに付いている「こまち」の立場、秋田の人の気持ちが良く分かったような気がします。しかし、この電車の冷房の凄さったらどうでしょう、「もしや」とおもって長袖のシャツを用意していたのですが、とてもそんなものではこの寒さはしのげません。いわきまでの2時間、震えっぱなしでしたよ。これでは「スーパーひやし」です。
 そういえば、仙台から常磐線に乗ったのなんて何十年ぶりでしょう。それも、相馬より先には行ったことがありませんから、これも私の「初体験」、いわきが近づいて海がすぐ目の前に見えてきた時には感激ものでした。
 エッシャー展は、本当に素晴らしいものでした。実は、ハウステンボスが出来るずっと前に、日本では最初の本格的なものが池袋の西武美術館で開かれた時に行ったことがあったのですが、その時には見たことがなかった初期の作品がたくさん展示されていました。エッシャーと言ってすぐ連想される「だまし絵」が確立される前の、風景とか本の挿絵、これがとても素敵でした。それと、版木の現物、これが見られただけでも、寒い思いをしてはるばるやってきた甲斐がありました。ボリュームもかなりのもの、一つ一つていねいに見ていたら、帰りの電車の時間はすぐに来てしまいましたよ。でも、この美術館は駅から歩いて10分ほど、前もってネットで調べておいたので全く迷うことなく往復できました。ただ、昼食だけはいくらネットで調べてもこれぞというところがなかったので、行ってから探そうと思ったのですが、たまたまランチの看板があったので入ってみたお店が大当たり、ドリンクが付くので「ジンジャーエール」と頼んだら、あのウィルキンソンが出てきたのですからね。思わずお店の人に「これ、ウィルキンソンですよね」と聞いてしまいましたよ。そうしたら、「はい、辛口でございます」ですって。なんか、「つながってるな」と感じられた一瞬、いわきにまで来てこんなお店に出会えるなんて。
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# by jurassic_oyaji | 2006-07-29 21:34 | 禁断 | Comments(0)
エスクァイア日本版 9月号








エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-09


桑野信介さんという建築デザイナーが、最近のクラシック界の話題を独占しています。たしかに、彼の持つ確固たる自己の世界と、それを頑なに貫き通そうというスタイルは、全てのクラシックファンの共感を呼ぶに違いありません。彼が好んで聴くマーラーやショスタコーヴィチ、ヴァーグナーなどは、まさに偏屈なクラシックファンの嗜好の王道ではありませんか。そこに日本語による「魔王」などでフェイントをかけられたりすれば、ますますファンは増えることでしょう(あ、「結婚できない男」というドラマの話です)。
そんな信介(つまり、阿部寛)あたりが定期購読していそうな「ちょっとリッチな趣味」が売り物のこの雑誌がクラシックを特集するなどというのは、あまりにも出来すぎた話ではないでしょうか。そのタイトルも「発見、クラシック音楽。」、表紙を飾る写真の、サンクトペテルブルクのフィルハーモニーでリハーサル中のサンクトペテルブルク・フィルという渋さには、信介ならずともつい手が伸びてしまいます。
このような、あまたの「ハウツー本」とは一線を画した、あくまで高いクオリティの情報を提供しようとする媒体の場合、必要になってくるのが程良く高飛車な視点です。たとえ理解できなくても、そして、実体が伴わなくても、ワンランク上の情報に接するというだけで、自分は良い趣味を持っていると思いこんでいる読者は満たされた気分になるものなのです。そんな、読み手のプライドを適度にくすぐるだけのグレードの高いアイテムの供給こそが、ここでは最優先で求められています。それは、博学な信介にバカにされないだけの、「おっ、それいいね!」と言わせられるような素材です。そこで、この雑誌がクラシック特集を組むに当たって用意したものが、「ロシアピアニズム」と「古楽」という、何とも「タカビー」なブランドでした。
まず、「ロシアピアニズム」。これは本当にいいところを突いています。そういうものがあることは知っていても、誰もその本当の意味を知るものはいないという言葉の代表のようなもの、「知らない」と言えばバカにされそうだけど、今さら他人には聞けないと言う意味で、これほど「プライド」を満足してくれる言葉もないのではないでしょうか。そもそも「ピアニズム」とは一体なんなのでしょう。露出狂でしょうか(それは「チラリズム」)。
そして、「古楽」です。これも、額面通り「古い音楽でしょう?」などと言ったりしたらたちまち石をぶつけられそうな、ある特定のマニアの間でしか通用しない言葉、本当のクラシックファンの仲間に入れて欲しいと願っていれば、間違っても「オリジナル楽器」などとは口にせず、ひたすら「古楽、古楽」と連呼することが必要になってくるという、まさに究極のブランドです。しかも、嬉しいことに、その「古楽」界のスーパースター「ニコラウス・アーノンクール」までもしっかりフィーチャーされているではありませんか。なんとこの特集の巻頭に。
ご存じのように、この人物の名前ほど、その「ブランド」が実体と遊離して独り歩きしているものもありません。単なる気まぐれな年寄りに過ぎないものを、周りの人がこぞって「巨匠」などと奉り上げるものですから、何も知らない人はそれが本当だと信じてしまうという、まさに「裸の王様」状態に陥っているのが真実の姿だというのに。言うまでもありませんが、この実体の無さこそが、この雑誌の読者層の「プライド」を最大限にくすぐるもの、そして、それを見事に演出した編集者のセンスには、素晴らしいものがあります。
その他の小ネタとして、オペラ関係の「ペーター・コンヴィチュニー」と、「ステファニア・ボンファデッリ」を選んだセンスなどは、もう最高。どちらも、実体はともかく、これさえ押さえておけば誰からもバカにされないで済む、という絶妙のスタンスの「ブランド」なのですから。
そして、お決まりの「お薦め作曲家のお薦めCD」などというコーナーも用意されています。そこでは、マーラーやヴァーグナーが削られた代わりにショスタコーヴィチと武満が入っています。それを「タカビー」の極みと見るか、編集者の良心のあらわれと見るかによって、もしかしたら聴き手としての資質が問われることになるのかしれません。ところで、信介は武満は好きなのでしょうか。
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# by jurassic_oyaji | 2006-07-28 20:45 | 書籍 | Comments(0)
XENAKIS/Synaphai, Aroura, Antikhthon



Geoffrey Douglas Madge(Pf)
Elgar Howarth/
New Philharmonia Orchesrtra
EXPLORE/EXP0017



ちょっと聞き慣れないレーベル名、これはLP時代の珍しいカタログをCD化するために最近作られたものです。復刻の対象は特定のレーベルにはこだわりませんが、最初のリリースとなる今回はDECCAのものを集中して扱っています。このクセナキスはおそらく初CD化でしょう。これが、1976年にリリースされたLPのジャケット、当時DECCAが現代音楽のために設けていた「HEADLINE」というサブレーベルの中の1枚です。

      DECCA/HEAD 13
これはなかなか「時代」を感じさせてくれるジャケットなのではないでしょうか。影絵はもちろんクセナキスの横顔ですが、その上にデザインされているのはパンチングされた紙テープ、かつて「キーパンチャー」という職業の人(マンガも書いていました=それは「モンキーパンチ」)によってデータを入力されていた、その当時の記録メディアです。コンピュータ(「電子計算機」、でしょうね)を作曲のツールとしていたクセナキスをこんな形でデザインした、というところでしょうか。
収録されているのは、1970年前後の作品が3曲、その中には、少し前に大井浩明さんの演奏によるTINPANIの録音が大きな話題となった「シナファイ」が含まれています。つまり、これはあの「世紀の難曲」と言われたものの、世界初録音という「極めて貴重」なものなのです。
現代曲の場合、演奏者によってその曲の印象が変わる度合いは、普通のクラシックの比ではありません。それがまた、現代曲を聴く時の魅力となるわけですが、この曲の場合の違いはちょっと度を超しています。まず、演奏時間が、12分、大井さんの16分の四分の三しかありません。あの目の覚めるような大井さんのものより、さらに早い演奏が、この時点でなされていたのでしょうか。ところが、実際に聴き比べてみると、このマッジの演奏は、オーケストラともどもとても和やかなものでした。別に楽譜が改訂されている様子もないのに、最初にピアノソロが出てくるまでにすでに一分ほど短くなっています。それは、細かい音符を早く弾いたというのではなく、なんかいい加減にごまかして辻褄を合わせたような印象を与えられるものでした。もちろん、これは今聴くとそう思えるのであって、録音された当時はこれ以上のものは不可能だったのではないでしょうか。メディアがパンチングテープからDVDに変化して、画期的に記録データが増大したのと同じことが、演奏の世界でも起こっていたのが、まざまざと感じられます。その結果、かつてはなにかおどろおどろしいイメージでしかなく、全体としてのとらえどころがはっきりしていなかったものが、一つ一つの音、そしてそのつながりの中に、きちんとした「意味」なり「メッセージ」が込められているのがはっきり分かるようになってきます。曲全体の三分の二以降、ピアノのカデンツァ(10段の楽譜!)のあとに繰り広げられるオーケストラとピアノとの「対話」、あるいは「バトル」の意味は、残念ながらマッジたちの演奏からは伝わってくることはありませんでした。
同じことが、やはりTINPANI録音がある「アンティクトン」の場合にも感じられます。これは演奏時間はほとんど変わらない分、それぞれのテクスチャーの違いははっきりしてきます。本当に同じスコアに基づいているのかと思えるほど、その志というか、方向性には彼我の感が存在しているのです。言葉の綾ではない、「アナログ」と「デジタル」の違いが、これほどはっきり見分けられることも希です。なにしろ、始まってしばらくして聞こえる金管ののどかなテーマを、ハワースは本当に情緒たっぷりに歌わせているのですから。
従って、今のところ比較の対象が手元にない「アロウラ」の場合は、逆の意味でその叙情性をなんの抵抗もなく、たっぷりと味わうことが出来ることになります。弦楽器だけで演奏されるこの曲での、例えばグリッサンドあたりはなんと美しく心に響くことでしょう。もちろん、他の演奏に接した時には全く異なる印象を抱くことになるのでしょう。それでいいのです。それこそが、まさに現代曲を味わう時の究極の醍醐味なのですから。
今回のCD、せっかく、オリジナルのライナーノーツも掲載したのですから、オリジナルのジャケットもどこかにあれば、もっと価値が増したことでしょうに。ちなみに、録音データもLPには「197511月」と表記されていますから、「197611月」という記載はまちがいでしょう。
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# by jurassic_oyaji | 2006-07-26 20:11 | 現代音楽 | Comments(2)
TAKEMITSU/A Flock Descends into the Pentagonal Garden




Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra
NAXOS/8.557760J



オリヴィエ・メシアンが自作に関しては非常に饒舌だったことは、よく知られています。新潟に行くんですね(それは「上越」新幹線)。自らの信仰と鳥の啼き声をキーワードとして語られるそれらの「言葉」は、もしかしたら実際の音楽以上に色彩的な魅力を振り撒いているのかも知れません。
メシアンの正統的な後継者と自他共に認める武満徹の場合、その饒舌さは師(もちろん、アカデミズムとしての意味ではありません)の比ではありませんでした。折に触れて綴られたその美しい言葉たちは、それ自体で音楽を語り始め、時として音そのものすらも感じられるものとなっていたのです。その「言葉」は、音楽に対する的確な耳を持たないもの、禿頭の詩人や長髪のフォークシンガーなどをも魅了し、時の文化の中で声高に物を言うすべを持った彼らの「言葉」によってさらなる崇拝者を産むことになります。それは、あるいは作曲家にとっては不幸な事態かもしれなかったことを否定することは、誰にもできません。
NAXOSの日本人作曲家シリーズとしては、以前の室内楽を収めたアルバムに続く2枚目の武満徹の作品集、今回はオーケストラ曲、それも後期の作風を反映したものが主になっています。まさに、メシアンと、そしてドビュッシーの語り口と肌合いを色濃く持つに至った最晩年1994年の「精霊の庭」に見られる、ほとんど甘美なまでのテイスト、すなわち「タケミツ・トーン」を存分に味わうには、このアルバムは格好のものとなっているはずです。細心の注意を払って集められた音階とリズム、それらを夢見るようなハーモニーと音色で包み込んだこの曲を聴く人は、それがフランス人の先達の語法が彼の手によって昇華された、まさに一つの人類の遺産であると言っても過言ではないことに気づくに違いありません。
この作曲家が行き着いた世界を、この曲によって知ってしまっているオールソップであれば、それよりはるか以前、1977年に作られたアルバムタイトル曲「鳥は星形の庭に降りる」からさえも刺激的な要素を注意深く抑制して、さらに磨きのかかった響きを産み出そうとするのも当然のことでしょう。例えば、1978年に録音された小澤盤には見られなかった包み込むような暖かなテイストが、ここにはあります。かくして、1981年の「夢の時」とともに、聴き手は極上のサウンドに彩られたフルオーケストラの世界に酔いしれることになるのです。
しかし、同じアルバムの中の、1958年に作られた彼の最初のフルオーケストラのための作品「ソリチュード・ソノール」の中に、すでにこの世界観がきちんと現れていることを発見した時、聴き手は、この甘美さが決して演奏家の方向性のみによって生まれたものではなかったことを知るのです。作曲家としてスタートした時点ですでに彼の中にあった原石は、長い時間をかけて磨き上げられ、この世のものとも思えない光を放つこととなったのです。
もう1曲、ここには、彼が映画のために作った曲を弦楽合奏用の組曲に編んだものが収められています。予想もしなかったことですが、これを聴いたとたん、その他の曲とは全く異なる魅力、言ってみれば音楽の持つ生命感のようなものを痛いほど感じることが出来てしまいました。もちろん、本来観客にきちんと特定の概念を伝える目的を持った音楽だという性質もあるのでしょうが、なにかを訴えるという力に関しては数段勝るものが、その中には存在していたのです。表面的にはブルースやワルツといった誰の耳にもなじむ感触、しかし、そこからは、「庭」だ、「夢」だと多くの「言葉」によって飾り立てられた大層な曲からはついぞ味わうことの出来なかった作曲家の「叫び」のようなものが、確かに伝わってきたのです。
そういえば、彼の「うた」も、全く別の、魅力的な世界を持っていたことに気づきました。あらゆる国に於いてオーケストラのレパートリーとして完全に定着した感のある武満作品、その空虚さを突き抜けて真の訴えかけを届けてくれる演奏には、出会えることがあるのでしょうか。
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# by jurassic_oyaji | 2006-07-24 20:37 | 現代音楽 | Comments(0)
Il linguaggio dei fiori
 「ロッセリーニ」という人が作った「花言葉」というオペラ、知ってますか?「ロッシーニ」じゃありませんよ。そんな珍しいものを仙台オペラ協会が上演するというのですが、それのプレイベントがあったので、行ってきました。確か去年までは指揮者の末廣誠さんがご自身で解説をしながら演奏(ピアノ伴奏)するということをやっていました。「禁断」でも取り上げたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。今年からこの団体の音楽監督(芸術監督?)が別の人に代わったので、どういう形になるのだろうと思っていたら、お話はあの佐藤淳一さんがなさっていました。指揮者は、本番の星出さんではなく、副指揮の渡辺修身さんです。
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 その淳一さんが、開口一番「こんなオペラも作曲家も知りませんでした」とおっしゃっていたので、少し安心、CDにすらなっていない(1種類あるそうですが、ほとんど入手不可能だとか)曲ですから、私が知らなかったのは恥ずかしくもなんともなかったのですね。お話の内容は、淳一さんや、その場の出演者のお話でとても良く理解できました。ロルカの戯曲が原作、何ともシリアスなお話ですが、これは「ヴェリズモ」としては格好の題材ではないでしょうか。そう、初演が1963年と、時代的にはほとんど「現代」といって構わない作品ですが、その音楽はまさにプッチーニあたりから綿々と続いたそんな様式のイタリアオペラを彷彿とさせられるようなものでした。甘く美しいメロディを身上としているのは、このレンツォ・ロッセリーニという人は、イタリア映画界の巨匠ロベルト・ロッセリーニの弟で、兄のために多くの映画のスコアをものにしたということと、無関係ではないのでしょう。まさに、ニーノ・ロータや、エンニオ・モリコーネが、その映画音楽のテイストのままオペラを書いたら、こんな風になるのではという感じです。
 現実には、この2人は「クラシック」では全く別の作風を示しています。ところが、そのような「現代」作曲家に例外なく認められる建て前と本音の使い分けが、幸運なことにこのロッセリーニの場合には当てはまらなかったようです。そこからは、作曲年代からはとても信じられないような、純粋培養された「イタリアオペラ」の世界が広がっていました。そして、ほんの少しフランス風の味わいを加えたあたりが、彼のアイデンティティだったのかもしれません。
 このオペラ、数年前に新国立劇場で上演されたことがあったそうです。しかし、その時には縮小されたオーケストラが使われていました。ですから、今回はフルオーケストラでの「日本初演」ということになります。ピアノ伴奏でも十分うかがえたその甘美なサウンドは、オーケストラによってどれほどの輝きを聴かせてくれるのでしょうか。本当に楽しみです(って、まだチケットは買ってませんが)。
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 帰り道に、スーパーで見つけたのが、こんな「東北夏祭り」バージョンのプリッツです。全部のお祭りがある中の、これが「仙台七夕」編、でも、吹き流しはともかく、こんな、「纏」みたいな、人が持って練り歩くような飾りは、私は見たことがありません。おそらくこれは、多くの心ある市民が「七夕」とは認めてはいないパレードかなにかで登場するものなのでしょう。味は「ずんだ味」、これはなかなかですがね。少なくとも「うに」よりはずっとまともです。
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# by jurassic_oyaji | 2006-07-23 22:57 | 禁断 | Comments(0)