おやぢの部屋2
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Nordic Spell





Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499



「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。
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# by jurassic_oyaji | 2005-09-09 19:53 | フルート | Comments(0)
BOKSAY/Liturgy of St. John Chrysostom




Tamás Bubnó/
St. Ephraim Byzantine Male Choir
HUNGAROTON/HCD 32315



この曲を作ったヤーノシュ・ボクシャイというハンガリー人の名前は、その引っ込み思案な性格(ぼ、ぼく、シャイなんです・・・)のため(ではないだろう)、おそらく知っている人は誰もいないことでしょう。もちろん、私も初めて聞きました。1874年に、現在ではウクライナ領となっているフストという町の敬虔な正教徒の家に生まれたボクシャイさん、長じて教会での司祭や聖歌隊の指揮者を務めるようになった、いわば聖職者でした。そして、正教の典礼音楽として、以前ラフマニノフのものをご紹介した事のある「聖クリソストムの礼拝」を10曲も作ったという作曲家でもありました。そのうちの4曲が現在まで残っているそうなのですが、その中の男声合唱のために1921年に作られたものが、今回自筆稿を用いて2004年5月に録音されました。もちろんこれが「World Premiere Recording」となります。
この曲で特徴的なのは、男声パートだけの男声合唱で歌われるという事です。変な言い方ですが、さっきのラフマニノフの場合には、パートとしての「女声」はあるのですが、典礼の際に女性が歌う事が許されないという制約のため、そのパートは少年によって、つまり、全員男声によって歌われていました。しかし、このボクシャイの場合は最高音域がテナーという、本来の意味での「男声合唱」、かなり禁欲的な響きがもたらされるものとなっています。
例によって、中心となるのは「Litany」と呼ばれる司祭と合唱の掛け合いです。その司祭、いわばソリストを、ここでは指揮者のブブノーが努めています。というより、ボクシャイ自身がそうであったように、「司祭」と「(合唱の)指揮者」というのは同じ人が努めるのが、一つの習慣だったのでしょう。そのブブノーのソロ、もちろんベル・カントというわけにはいきませんが、かなり垢抜けたものであったのは、この手の曲ではラフマニノフのものしか知らないものとしては、ちょっと意外な驚きでした。それは、おそらく曲の作られ方にも関係しているのでしょう。いわゆるビザンチンの典礼音楽といったものよりは、ごく普通のヨーロッパの中心で綿々と続いている「古典音楽」のテイストが、この曲には非常に色濃く反映されているのです。ちょうど真ん中辺で聴かれる「The Creed」などが、そんな軽やかな「合唱曲」の典型的なものでしょう。
そのような、ある種爽やかな印象を持ったのは、ここで演奏している合唱団から、いわゆる「スラヴ的」な泥臭い響きではなく、かなり洗練されたものを求めているであろう姿勢を感じたからなのでしょう。ブダペストで2002年に創設されたという総勢13人の聖エフレム・ビザンチン男声合唱団からは、地を這うような超低音のベースや、叫びに近いテナーが聴かれる事は決してありません。そこにあるのはまるで日本の大学の男声合唱団のようなごく素直な発声から生まれる良く溶け合った響きです。その方面の音楽が好きな方には、喜ばれるものかもしれません。ただ、一応プロフェッショナルな団体とは言っていますが、しばしばテナー系の生の声が聞こえたり、アンサンブルの点で必ずしも充分なトレーニングがなされていないと感じられたのが、少し残念です。
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# by jurassic_oyaji | 2005-09-07 19:49 | 合唱 | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.3(1873 version)




Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



前にご紹介したヴァーグナーの前奏曲集と同じジャケット、同じ品番、元々は別のアルバムだったものを一緒にしただけですから、一つのアイテムから2度レビューが書けるという、おいしさです。
ヴァーグナーの方は、昨年国内盤で再発されたのでそれほど珍しいものではなかったのですが、このブルックナーは初出のEMI盤はすでに廃盤、長らくリイシューが待たれていたものです。花粉症には必需品(それは「ティシュー」)。何よりも、このアルバムにはレアな魅力が2つもあります。まず、オリジナル楽器で演奏しているという事、そして「第1稿」である1873年版を使用しているという事です。
ノリントン自身、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズというオリジナル楽器のオーケストラとの一連の録音の最後の到達点として、このブルックナーを捉えていたのではないでしょうか。現在までに世に出た全ての交響曲の録音を網羅したディスコグラフィーを見てみても、オリジナル楽器で演奏されたものは、ヘレヴェッヘによる「7番」と、このアルバムしかないのですから、いかに貴重なものかが分かるはずです。この録音が行われた1995年には、オリジナル楽器はすでに単なるこけおどしではなく、新しい表現の地平をひらくものとして認知されるようになっていました。モーツァルトから始まったそのムーブメントは、ベートーヴェンという既存の権威の塊すらも根本から揺るがすほどの力を持っていたのでした。その「力」は、19世紀後半の音楽にも通用するはずだ、と考えたのがノリントン、しかしその結果は・・・。
確かに、ガット弦による弦楽器の暖かい響きや、ビブラートを廃したことによって生まれた木管の純正のハーモニーなどは、今までのブルックナー演奏では見られなかった美点ではありますが、やはり重量感が決定的に不足していた事は、このテーゼを受容する上での大きな障害となったのでしょう。いかに本来使われていた楽器だといっても、その重量感が出せない事には、現代のブルックナー市場で通用するには大きな困難が伴ったのです。彼の後継者は、その「響き」をとことん前面に押し出した2004年のヘレヴェッヘ1人だったという事実が、その事を端的に物語っています。そして、ノリントン自身もモダンオーケストラによるオリジナル楽器的表現へのアプローチという新たな道を歩み出す事となるのです。
もう1点、「第1稿」については、前者とは違った積極的な意味を見出す事が出来るでしょう。1970年代にレオポルド・ノヴァークによって完璧に整備されたブルックナーの異稿の世界、しかし、録音に関してはいまだに初稿が陰の存在である事に変わりはありません。このアルバムが出た時点で「第1稿」による録音は、普通に流通しているものに限れば1982年のインバル盤しかなかったのですから。例えば、通常演奏される「第3稿」との違いがもっとも際だっている第4楽章でのちょっと荒削りなパッセージの扱いなどは、「ブルックナーはこんな面白い事をやっているんだよ」と得意げになっているノリントンの姿が目に映るような生き生きとしたものです。第3楽章のスケルツォのトランペットの合いの手は、この稿だけで聴ける細かいリズムのパターンなのですが、それもことさらに現行版とは違う事を強調するわかりやすさがたまりません。最近ではナガノやノットによる演奏も出揃い、このノリントン盤もやっと「第1稿」の中での位置づけをきちんと語る事が出来るほどの時代とはなったのです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-09-05 20:46 | オーケストラ | Comments(0)
MOOG
A Documentary Film by Hans Fjellestad










ナウオンメディア/NODD-00023(DVD)


今年の春先、東京でこのロバート・アーサー・モーグのドキュメンタリー・フィルムが公開されているという事を知った時、どんなにか見に行きたいと願った事でしょう。なにしろ、映画が始まる前に「テルミン」の生演奏まであるというのですからね。しかし、その映画は単館上映という上に、さらに、上映時間は夜中の9時過ぎだけという、超マイナーというかマニアックなものでした。とても日帰りで○○から出かけていくのは無理だと、涙を飲んだものでした。そんなコアなものが、なぜか連日満員御礼、ついにはこうしてDVDまで出てしまうのですから、すごい世の中です。
ロバート・モーグといえば、「シンセサイザー」という「楽器」の発明者として、おそらく後世の音楽史には必ず登場するに違いない人です。この映画では、彼自身がナレーターとして出演、まずは彼の最新の仕事が紹介されます。彼が作った「楽器」は、まさに音楽のあり方まで変えてしまうほどのすごいものだったわけですが、現在では何と言っても「デジタル・シンセサイザー」が主流、彼の「アナログ・シンセサイザー」などもはや誰も見向きもしない・・・と思っていました。しかし、彼は今でもこの「アナログ」にこだわって、名器「ミニモーグ」の改良型である「ミニモーグ・ヴォイジャー」を、本当に小さな工場(「工房」といった方がいいかも)で作り続けているのですね。そこで「回路」とか「基板」について語っている姿は、殆ど「楽器職人」といった印象がふさわしく思えます。彼の自宅の菜園なども紹介されますが、そこで語られる「オーガニック」指向と彼の楽器との結びつきも興味深いものです。
それに続くのが、この「楽器」を開発する際の協力者であったハーブ・ドイチとの対談に始まる、「モーグ」を世に広めたさまざまな音楽家たちとの対話です。中でも興味深いのが、リック・ウェイクマンとの話。彼は「モーグからは100%魅力を引き出す事が出来るが、デジタル・シンセでは10%程度の機能しか使っていない」と語っています(その後に、「それは女房と同じ事」と言いだして、ちょっと下ネタになるのですが)。単音しか出せない上に、いくつもある「ツマミ」を細かく調整して、やっと自分の求める音が出せるといった不自由さ、しかし、そこにはしっかり演奏者との暖かいつながりが存在しているのでしょうね。ただ、この楽器が世に出るきっかけとなった「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムを作ったウェンディ(ワルター)・カーロスからの協力が一切得られなかったため、彼女(彼)に関する映像が使用できなかったというのは、残念です。
後半では、やはり彼が、実はシンセサイザー以前から関わっていた「テルミン」が紹介されます。こちらでも述べられているように、最近になって日本でもブームを巻き起こしているこの不思議な楽器は、モーグなくしては今日まで生き延びる事は出来なかったものです。この楽器の演奏家の最先端、何とウォーキング・ベースそっくりの音までも出してしまうというパメリア・カースティンとの対談が見物です。
DVDだけの特典映像の中で、モーグは日本向けに、彼の会社の最新の製品を紹介してくれています。先ほどの「ヴォイジャー」や「テルミン」の最新モデル「テルミン・プロ」、いとおしげに自分の楽器を売り込むとともに、「まだまだ計画中のものがある」と語っていたボブ・モーグは、このDVDが日本でリリースされた直後の8月21日、脳腫瘍のため71歳で帰らぬ人となりました。もうぐ(喪服)を着て、ご冥福をお祈りします。
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# by jurassic_oyaji | 2005-09-02 19:44 | 映画 | Comments(1)
MacMILLAN/Seven Last Words from the Cross



Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA 67460



1959年生まれのイギリス、というかスコットランドの作曲家、ジェームズ・マクミランの合唱曲集、1993年に作られたタイトル曲の他に、これが初録音となる「聖母マリアのお告げ」(1997)と、「テ・デウム」(2001)が収録されています。
この世代で多くの宗教曲を作っている作曲家では、ジョン・タヴナーやもう少し上ではアルヴォ・ペルトが有名ですね。しかし、殆どヒーリングと変わらないほどの穏やかな風景の表出に終始している彼らに対して、マクミランの場合は、そのようないわゆる「聖なるミニマリスト」とは一線を画した、もっと厳しい作風を見ることが出来るはずです。彼にとって、「ミニマリスト」たちが築き上げた「安定した」技法は、数多くの表現手段の一つに過ぎません。そこにさまざまの技法を組み合わせることによって、ただの綺麗事ではない、彼が言うところの「喜びから悲劇までが存在する人間の日常生活」の諸相を、宗教音楽に於いても表現しているのです。
「十字架上の七つの言葉」の第1曲目で、そのようなマクミランの語法が明らかになります。ひっそりとした静寂の中から立ち上るかすかな弦楽合奏に伴われて、まさにイノセントそのものの女声合唱が聞こえてきますが、これは、まさにペルトあたりが用意する典型的な風景。しかし、しばらくしてその平穏なたたずまいは、リズミカルで攻撃的という全く異質のテイストを持つ合唱によって一変します。オーケストラ(弦楽合奏)が奏でるのも、また別の音楽、ここでは、相容れることのない3つの要素が独立してそれぞれの存在を主張するという、実にスリリングな光景を味わうことが出来るのです。
2曲目では、冒頭ア・カペラの合唱のとてつもない迫力にビックリさせられることになります。同じ歌詞で繰り返される短いモティーフが繰り返されるたびに微妙に味わいを変えるのが、とても魅力的です。それにしても、前の曲の全くキャラクターの異なるパートの歌い分けと言い、この曲での度肝を抜くような殆ど「叫び」に近い、それでいて完璧なハーモニーを持つ歌い方といい、この合唱団の表現力の幅の広さには驚かされます。時折見られる、スコットランドに固有の旋法(まるで、中世の音楽のような雰囲気を持っています)も、この合唱団の手にかかると見事にその土着性が失われずに新たな主張が生まれます。
オーケストラも、時には合唱に寄り添い、時にはことさら異質の要素として振る舞うという縦横無尽の活躍、殆ど「クラスター」に近いものでも、この音楽の中では確かな存在を見せています。そして迎えるエンディング、高音にシフトした繊細な弦楽器たちは、さまざまな過程を経て一度は終止形を迎えますが、それは音楽の終わりではありませんでした。その後に続く解決の出来ないアコード、そう、それはあたかもキリスト自身のため息でもあるかのように、永遠に終わることはないのかもしれないと思わせられるほど、延々と繰り返されるのです。
2002年の「ゴールデン・ジュビリー」のために作られた、オルガンと合唱のための「テ・デウム」では、まるでギリシャ正教のような(これは、タヴナーのツール)輪郭のはっきりした要素が加わります。この曲でも、オルガンによるエンディングには、ちょっと期待を裏切られるような新鮮な驚きが潜んでいます。このベジタリアンの作曲家(それは「ニクイラン」)、レイトン指揮のポリフォニーという最高の演奏を得て、確かに私の琴線に触れるものとなりました。
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# by jurassic_oyaji | 2005-08-31 20:06 | 合唱 | Comments(0)