おやぢの部屋2
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BEETHOVEN/Sinfonia No 9


Roberto Minczuk/
Coro da Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
Coral Paulistano
Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 212



この前聴いた時にとてもハッピーな気分にさせてくれたサン・パウロ交響楽団の、今回は「第9」です。指揮者があの時とは別の人、ミンチュクと読むのでしょうか、なんでも「ジョビン・シンフォニコ」という彼のファースト・アルバムで2004年のグラミー賞のラテン部門を受賞したそうです。ボサノバの父、ジョビンの曲をシンフォニックに演奏したものなのでしょう。ガラス製の(それは「シビン」)。「ラテン」にかけては、筋金入りのセンスを持っているのだ、と見ました。
しかし、意外なことに、楽譜に関しては割と無頓着だと思われていたこのオーケストラが、今回はしっかり「ベーレンライター版」を使って演奏していましたよ。これは、この指揮者の意向なのでしょうか。ただ、よくある使い方なのですが、全ての部分できちんとこの楽譜に従うのではなく、あまりにも違和感がありそうなところは従来の楽譜で演奏するという、折衷的なことをやっています。具体的には、第4楽章のマーチのあとのオーケストラの部分が終わって合唱が入る前のホルンのリズムと、最後にカルテットが入る時の歌詞です。ですから、彼がこの楽譜を使ったのは、ひとえに第1楽章の真ん中よりちょっと後、この楽章の最大の盛り上がりを導くトランペットのリズムで、従来よりも音符の数が増えて派手になっているのが気に入ったからなのでは、などと考えたくもなってしまいます。実際、この部分は、他の演奏で何度も聴いていたはずなのに、つい油断してびっくりさせられたぐらい、そのビートには熱いものがこもっていました。それは、ここぞとばかりに吹き込んだトランペット奏者の「血」のなせる技だったのでしょうか。
ですから、指揮者が変わったからといって、オーケストラのノリはこの前のアルバムと何ら変わるところはありません。全てのフレーズが、生き生きとしたラテンの感覚で磨かれて輝いているさまを、ここでも大いに堪能することが出来ます。中でも特筆すべきはティンパニ。かなり柔らかめのマレットを使っているのでしょうか、全体を包み込むようなその巨大な音は、まさにラテンパーカッションのようなエネルギーあふれるものです。これがフィーチャーされた第2楽章は、この世のものとも思えないほどのにぎやかさを醸し出しています。
そして、声楽陣が参加した第4楽章では、また新たな魅力が加わっています。そもそも、低弦によるレシタティーヴォが、深刻さなど微塵も感じられない脳天気な歌い方で始まった時から、この楽章がお祭り騒ぎの様相を呈することは予想できていたのです。その同じ旋律を歌うバス歌手の、なんという色っぽさ、殆ど「もっと楽しい歌を歌おうぜ、イェーイ」といった趣です。続く合唱も元気いっぱい、一人一人の声も大きそうですし、それがまとまった時の迫力もすごいものです。特に、男声の力強さには圧倒されてしまいます。二重フーガでの高音Aで始まるテーマをこれほど迷いなく歌える合唱団など、なかなかありません。
実は、これはライブ録音、終わりに近づくにつれてオーケストラも合唱もギンギンに燃え上がり、白熱の演奏が繰り広げられます。お客さんも、さぞ盛り上がっていたことでしょう。しかし「ジャジャジャジャ、ジャン」と全曲が終わった瞬間、耳を疑うようなことが起こりました。Dのユニゾンの「オーケストラ・ヒット」のあと、なんと、そこには2秒ほどの静寂があったのです。そして、そのあとに起こった割れんばかりの拍手、その中には「ピーピー」という指笛まで混じっていましたよ。きちんと「静寂」を受け止めた上でのこの大騒ぎ、ラテンは深いです。
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# by jurassic_oyaji | 2006-04-21 20:56 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Die Zauberflöte
D.Röschmann, E.Miklósa(Sop)
C.Strehl(Ten), H.Müller-Brachmann(Bar)
Claudio Abbado/
Arnold Schönberg Chor, Mahler Chamber Orchestra
DG/00289 477 5789(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1298/9(国内盤 5月24日発売予定)


ごく最近までNHKからかたくなに「アッバード」と殴られ続けていた(それは「アッパーカット」)「アバド」の「魔笛」です。モーツァルトの他のオペラはさんざん上演してきたアバドですが、なぜか「魔笛」に関しては慎重な態度をとり続けていて、何と、これが彼の最初の録音だということです。待たされた甲斐があったと言うべきなのでしょうか。
一部で「セッション録音」などという情報が流れていましたが、これはモデナのテアトロ・コムナーレに於ける、息子ダニエレ・アバドの演出によるプロダクションのライブ録音です。滑稽なセリフを受けて観客が笑い声を立てる生々しい情景がそのまま収録されていますし、なによりも一番最後には盛大なブラヴォーと拍手が入っているのですから、まちがいはありません。ただ、頻繁に音のバランスやまわりの雰囲気が変わるのがよく分かりますから、リハーサルなどのテイクも合わせて、かなり大胆に(と言うか、無神経に)編集しているのでしょう。
こんなやり方、今ではオペラのCDを作る時の手順としてすっかり定着してしまった感があります。もはやきちんとセッションを組んで精度の高い演奏を提供するというのはコスト的に不可能になってしまっているのは分かりますが、この、せっかくのアバドの「魔笛」の初物ぐらいは、せめてもう少していねいな作り方が出来なかったのか、という気がしてなりません。というのも、この演奏を少し聴いただけで、アバドがこの曲に寄せる思いには、とてつもなく深いものがあることを感じずにはいられないからなのです。これはまさに、オリジナル楽器の演奏家達のアプローチも視野に入れて、今まで彼が暖めていたアイディアが全てこの中に盛り込まれたのではないかと思える程のプロダクションなのですが、いかんせん、ライブ特有の歯がゆいまでの不完全さが、とてももどかしく感じられてしまうのです。「本当はこうやりたいのだろうな」と考えながら聴き続けるのは、かなり辛いものがありました。
具体的には、ソリスト達とアバドとのグルーヴの違いです。指揮者の求めているものは余計なものは極力そぎ落としたスマートなテンポ感。しかし、タミーノ役のシュトレールあたりは、それとは全く無関係なノリで全体をぶちこわしているのです。これなどは、セッションできちんとリハーサルをして注意深く録音を行えば、もう少し寄り添ったものが出来上がっていたことでしょう。
ですから、そんな中で指揮者の思いを完璧に受け止めたレシュマンの存在によって、この録音はあたかもパミーナが主役であるかのような、当初求めたものとは微妙に異なる形での完成度を見せつけることになりました。彼女は音楽的な面だけではなく、セリフだけで展開される「芝居」の部分でも、驚くべき存在感を主張しています。同様な存在感は、パパゲーノ役のミューラー・ブラッハマンにも見られます。全てのキャストがこの2人程の成熟度を見せていたら、このアバドの「魔笛」はとてつもない世界観を私達に届けてくれたことでしょう。
その一例として垣間見られるのが、この2人によるデュエット(第1幕フィナーレ直前の「第7番」/CD1Track12)のイントロで、クラリネットとホルンによるアコードをまるまる1小節分カットしたという「勇気」です。そもそもこのアコードは自筆稿には書かれてはいなかったもので、その扱いに関してはさまざまな説が主張されていましたが、これも一つの解決策、もちろん、それを実際の演奏で用いたのは、私の知る限りこのアバドのものが最初のはずです。
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# by jurassic_oyaji | 2006-04-19 19:59 | オペラ | Comments(2)
TCHAIKOVSKY/Symphony No.6, Serenade for Strings




Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907394



「悲愴」と「弦楽セレナーデ」という、贅沢なカップリングです。ガッティならではの贅肉のないチャイコフスキー、存分に楽しむことにしましょう。最近はなかなか口に出来ませんが(それは「鯨肉」)。
「悲愴」の冒頭、不気味な低弦が左奥から聞こえてきた時、このオーケストラの配置を思い出しました。最近ロンドン交響楽団のライブに行った時も、やはり同じようなチェロとコントラバスがステージ下手に位置する「両翼」配置を体験したばかり、ロンドンではこの並び方が一般的になっているのでしょうか。ですから、この暗い序奏から、次の提示部の最初あたり、ヴァイオリンはお休みでもっぱらヴィオラが主導権を握っている部分では、ステージの奥だけで演奏が行われていることになります。そこから次第に前の方のヴァイオリンが加わり、段々音が客席に近づいて来るというのは、まさに映画のクローズアップの手法ではありませんか。チャイコフスキーの時代にはこういう配置しかなかったのでしょうから、もしかしたら彼はそこまで計算してオーケストレーションを考えたのでは、などと想像してしまうほど、スペクタクルな音場が、この配置のロイヤル・フィルから聴き取ることが出来ましたよ。
そうこうしているうちに、音楽の方は、甘く美しい第2主題が始まります。しかし、ここはガッティの持ち味であるさっぱりした歌い口が最大限に発揮されることになります。ベタベタと甘すぎることは決してない、楽譜の指示を忠実に守っていれば、その音からは自然にエモーションがわき出てくるはず、という姿勢が、非常に心地よく感じられます。その上で、演奏者個人の感情は大事にしようというスタンスは、この前の「4番」と同じことです。提示部の最後のp3つで始まるクラリネットのソロが、そんな場面、この楽章で唯一見られる「甘さ」でしょうか。それに続くp6つという有名な指示も、バスクラリネットの殆ど「気配」に等しい超弱音が、見事な緊張感を産んでいます。
ですから、それに続く展開部のサプライズも素晴らしい効果を上げるとともに、ここでのガッティのギアチェンジの鮮やかさにも舌を巻くことになるのです。それまでの少し気取った態度から一転して、尋常ではない早さでオーケストラを煽りまくる指揮者。こういうところに、私達は新鮮な感情の高ぶりをおぼえるのでしょう。そのあたりのさじ加減の絶妙さが、ガッティの最大の魅力です。
第2楽章の5拍子のワルツのあっさり感、第3楽章のマーチの冷静な高揚感も素敵です。フィナーレでは、やはり両翼配置が最大の効果を上げる場面が最初に訪れます。
弦楽セレナーデでも、甘ったるさを期待する人は肩すかしを食らうに違いない、引き締まった世界が展開されています。第1楽章序奏のコラールからして、その粘着性など微塵もないかなり早めのテンポからは、今まで聞いたことのないような、まるでオルガンのように和音の変わり目がはっきりした音楽を感じることが出来るはずです。第2楽章のワルツも、その素っ気なさから聞こえてくるのは、幾通りにも変化するテーマと、そのまわりの旋律が織りなす、まるで一編のドラマです。第3楽章のエレジーも、「臭さ」を排除することによって安っぽいムード・ミュージックとは無縁のしっかりとした構成を持つに至りました。そしてフィナーレ、1楽章のコラールに又戻ることが必然として感じられる、計算し尽くされた歩みが、そこにはあります。
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# by jurassic_oyaji | 2006-04-17 19:53 | オーケストラ | Comments(1)
RUTTER/The Choral Collection



John Rutter/
The Cambridge Singers
The City of London Sinfonia
UCJ/476 3068



昨年はイギリスの作曲家ジョン・ラッターが60歳の誕生日を迎えたという事で、イギリスではラジオの番組が作られたり音楽雑誌で特集を組まれたりと、何かと注目を集めていたようです。日本では合唱関係者の間でこそ知られてはいますが、一般的な知名度はそんなにあるとは思えないラッター、さすが本国ではかなりの人気を誇っているようですね。その雑誌でも紹介されていたこのアルバムもそんな「還暦記念」のアイテムだったのでしょう、もちろんイギリスでは昨年の内にリリースされていましたが、日本ではやっとこの頃店頭に出回るようになりました。
UCJ」と言うのはちょっと見慣れないレーベルです。どこかの銀行が出資して立ち上げたものなのでしょうか(それは「UFJ」)。そうではなく、これは「Universal Classics & Jazz」の略語、今までもUNIVERSALの中のクラシックやジャズのレーベルを総称してその様な言い方をしていたのですが、それをレーベル名に「格上げ」したという事なのでしょうか。いずれにしても、今まではCOLLEGIUMというマイナー・レーベルでしか入手できなかったラッターの自作自演が、このようなメジャーなところからリリースされるのは、ちょっとした事件ではないでしょうか。まさに「メジャー・デビュー」といったところでしょうか。先ほどの雑誌でも「ラッターの音楽が、UNIVERSALから発売」と、大いに期待を持たせる書き方をしていましたし。もちろん、これはシャルロット・チャーチやキャサリン・ジェンキンスが彼のナンバーを取り上げてヒットを放った、というのとは全く別の次元の出来事です。
と、このアルバムのことを知った時は思いました。そして、実際に現物を手にして、今まで録音されていた曲だけではなく、「世界初録音」のものまであると知って、「やった」と思った程です。ところが、封を切って中のブックレットを開けてみた途端、その様な喜びは失望へと変わりました。ここに収録されているものは、「世界初録音」という「The Gift of Music」を除いて、すべて今までCOLLEGIUMから出ていた音源を集めただけのもの、つまり、これは単なるコンピレーション・アルバムだったのです。言ってみれば、BRILLIANTMEMBRANのようなもの、ただ、あちらはライセンス先のレーベルがジャケットにきちんと表示されていますが、この場合はジャケットを見ただけではCOLLEGIUMの音源が使われている事は全く分かりません。
これは、私の勘違いだったのでしょうか。いいえ、例えばこちらの通販サイトに掲載されているインフォメーション(ほぼ同じものが他の場所でも見られますから、これは輸入業者が書いたものなのでしょう)には、しっかり「今回は、ユニバーサルUKへのレコーディングです」と明記されていますよ。それだけではなく、販売店の店頭でも「新録音」というコメントが、堂々と製品の前に掲げられているのです。これを読めば、誰でも、今回のアルバムは今までのCOLLEGIUMのものとは別に、新たにUNIVERSALのために録音を行ったものだ、と思うはずではないでしょうか。もちろん、そうではない事はブックレットを読めば分かる事なのですから、これは輸入業者の単なる事実誤認(しかし、扱っている商品に対する知識の欠如がこれほどのものとは、驚くほかはありません)なのですが、結果的には殆ど「詐欺」といっても差し支えない程の社会的な過ちを犯した事にはなりませんか?
それは、日本サイドの問題、しかし、ジャケットにコンピレーションとだけ書いてコレギウムのコの字も(もちろん、英語で、ですが)入れなかったUKUCJの姿勢も、決して公正なものとは言えません。このアルバムのために「特別に(ラッター)」作ったとされる新曲にしても、権利はUNIVERSALではなくCOLLEGIUMに属しているのですから。今までの仕事をUNIVERSALという大舞台で披露できる喜びを無邪気に綴ったラッター自身によるライナーノーツの精神を生かすことが出来なかったこのメジャー・レーベルへの信頼は、地に落ちました。「おお、わりい、わりいO Waly Waly=Track16」と謝って済むものではありません。
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# by jurassic_oyaji | 2006-04-15 20:04 | 合唱 | Comments(2)
ダ・ヴィンチ・コード

 全3巻の文庫本、読み終わりました。あまりにもベタで恥ずかしいのですが、その本は「ダ・ヴィンチ・コード」、ほんと、こんな、どこの本屋さんに行っても一番目立つところにディスプレイされている本を読むなんて、私の信条には反するのですが、ハードカバーが出た時から、そのいかにも知的な「謎」に満ちているような騒がれ方には興味があったものですから。それと、近々映画化されたものが公開されるというのも、読んでみようと思ったきっかけです。
 ダン・ブラウンの筆致は、まるで映画のような場面転換の小気味よさを持ったものでした。それは、カット割りまで想像できるような、殆どそのまま映画の台本になってしまえる程のスピード感を持っています。最初の様々な無関係に見えるシーンが現れるところなどは、まさにハリウッド映画の常套手段、そして、その手法は物語の最後まで続く事になるのです。正直、この小説のテイストは、私が期待していたものとは全く異なるものでした。知的な謎解きは随所に登場するのですが、それは私が想像していたのとは全然違う次元での謎解きでした。つまり、「ダ・ヴィンチ・コード」というタイトルから想像される、ダ・ヴィンチ自身が作品の中に仕組んだ謎を解明する(それは、別の扱いで登場はしますが)、というのではなく、そこにあるのはあくまで登場人物が新たに仕組んだ「謎」であり、ダ・ヴィンチというのは単なる彩りに過ぎないものだったのです。その「謎」にしても、「ミステリー」ほどの知的なものではなく、殆ど「パズル」の域を出ない幼稚な仕掛け、しかも、その「解答」にしても、言われなければ分からないというひとりよがりの世界、それを、いかにもその人でなければ解けないような顔をして解明していく姿は、まさにハリウッドのご都合主義そのものではありませんか。
 恐らく、読んでいる人たちは、そんなわざとらしい謎解きよりは、登場人物達の、まさに火花を散らすような逃亡劇に興奮をおぼえるのではないでしょうか。もちろん、そのあまりにもできすぎたお膳立ての周到さには、辟易するとしても、これが映画になった時のアクションシーンを思い浮かべながら読み進むときのドキドキ感には、なかなかのものがありました。
 そして、最後近くで登場するどんでん返し、それで終わりだと思っていたらそのあとにはもっとすごいどんでん返し、さすがにこれにはびっくりしてしまいました。というより、これは、まさに今のハリウッドのプロットそのものではないですか。今のアメリカ映画の脚本家達は、いかにして見ているもの欺くかという点に、最も執心しているように思われます。それは次第に手の込んだものになってきて、最近ではただどんでん返しを見せたいためだけにストーリーを組み立てるという、本末転倒のような状況に陥ってはいませんか?
そして、それはこのような文学(というのはちょっとためらわれますが)の世界にも蔓延しつつある、という事なのでしょうか。この場合、確かにインパクトはすごいものがありました。しかし、そこまでして、という思いは残ります。こんな持って回った言い方、映画と同じで「ネタバレ」にならないように配慮した結果ですのであしからず。これをバラされては、この本の最大の価値(それ以外にはないのか、と言われそう)がなくなってしまいますから。
 後半、舞台がロンドンに移った時に、テンプル教会などという懐かしい場所が出てきたのには嬉しくなりました。別に、そこに行った事があるというわけではないのですが、ちょっと前にこの場所で行われたジョン・タヴナーの「テンプルのヴェール」という長大な曲のライブ録音を聴いたばかり、その時はこの教会については何も知らなかったのですが、これを読んで「へぇ~」となったという。実際、映画ではこの曲が挿入されるという噂ですし。
 主演のトム・ハンクスとジャン・レノが来日するなど、映画の方も公開が近づいて盛り上がっています。ただ、警部役のジャン・レノが、会見で「信じていたものに裏切られた」と言っていたのが気になります。原作のベズ・ファーシュはそんな柔な設定ではありません。となると、映画ではさらなる驚きが期待できるというのでしょうか。
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# by jurassic_oyaji | 2006-04-13 19:51 | 禁断 | Comments(0)