おやぢの部屋2
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新しいヘッドフォン
 この間山下達郎のラジオ番組を聴いていたら、視聴者の「普段はどんなスピーカーで音楽を聴いてるんですか?」という質問に答えていました。達郎と言えばレコードやCDの膨大なコレクションを誇るミュージシャンですから、そんな人が使っているオーディオには興味がありますね。確か以前、「お気に入りのシュアのカートリッジを、一生使えるだけの分だけ買いこんである」と、同じ番組の中で言っていたぐらいですから、スピーカーにもかなりのこだわりがあるはずです。ところが、その時の達郎の返事は、意外なものでした。「家では、まずスピーカーは使わないで、ヘッドフォンで聴いてますね」というのですよ。そう言えば、昔そんなことを言っていたような気もしますが、それはあくまでスタジオでのことだと思っていました。家でレコードを聴く時にもヘッドフォンだけだったとは。
 その時に、きちんと型番まで言ってました。それ自体は、さっきの「昔の話」の中にも出てきたものでしたから、おぼえていました。それはSONYのMDR-CD900STという、スタジオ用のモニターとして広く使われているヘッドフォンですね。そういう使い方をされるものですから、聴いていて楽しくなるような音ではないけれど、忠実に音を再現することにかけては定評があるものだということは、知っていました。ですから、それを日常的にメインに使っているという達郎のチョイスからは、逆に達郎の目指している音が良く分かるような気がします。確かに、あれだけの緻密な音づくりをする人であれば、生半可なスピーカーよりはヘッドフォンを選ぶというのは、充分に理解できます。
 その時に「そんなに高いものではありません」と、価格まで言ってました。それは確かに、まともなスピーカーより2ケタぐらいの安さ、ヘッドフォンでももっともっと高いものはいくらでもある、という価格帯でした。ですから、それだったら「達郎が聴いている音」を実際に体験したいという気になってしまいましたよ。まあ、果たしてそれが私の好みに合うかどうかは分かりませんが、この値段だったら別にそれで後悔することもなさそうですし。
 そこで、さっそくAmazonで見てみると、それは、達郎が言っていたのよりさらに値引きされていました。これは買わないわけにはいきません。在庫もあるようですから、すぐ届くでしょうし、その場でクリックです。ところが、その時には翌日には届くような案内だったものが、しばらくすると「発送手続きが遅れております」というメールが届きました。もしかしたら、達郎のラジオを聴いて注文が殺到したのかもしれませんね。
 それでも、現物は今日届きました。
新しいヘッドフォン_c0039487_15111962.jpg
 一応「業務用」のヘッドフォンだということで、こんな、無地で殺風景な箱に入っていましたよ。普通は入っている取説とか保証書の類も一切ありません。「業務用なので、修理は有償となります」というような但し書きが箱に貼ってありました。逆に、そんな風に言われると、品質には絶対の自信を持っていることが感じられますね。
 さっそく色んな音源を聴いてみました。いやあ、これは、今まで聴いていたヘッドフォンとは次元が違います。というか、今使っているスピーカーと良く似た音の傾向、それをさらに精緻にしたような音が聴こえてきます。これだったら、スピーカーを使わずにヘッドフォンだけという「山下流」も納得です。同じ音源をCDとBAとで比較なんて時も、面白いように違いが分かります。すごいのは、ハイレゾ・データで、WAVとFLACの違いがはっきり分かったこと。スピーカーでは、いまいち違いが分からなかったので、いかに忠実に再生出来ているかが分かります。
# by jurassic_oyaji | 2014-06-12 21:32 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Requiem
MOZART/Requiem_c0039487_20462518.jpg
Genia Kümeier(Sop), Bernarda Fink(Alt)
Mark Padmore(Ten), Gerald Finley(Bas)
Mariss Jansons/
Netherlands Radio Choir
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 14002(hybrid SACD)




マリス・ヤンソンスがモーツァルトの「レクイエム」を演奏したアルバムが出ました。しかし、ヤンソンスがモーツァルトを演奏したものなど過去にあったのか、というぐらいの、これは珍しい演目です。念のため某通販サイトで検索してみたら、ヤンソンスがモーツァルトを演奏しているアイテムはこれを含めて4品、他の3品は、全てメインの曲目ではなく、フルート協奏曲やヴァイオリン協奏曲の伴奏をしたものですから、もしかしたらこれが彼にとっての初めてのモーツァルトをタイトルとしたアルバムということになるのでしょうか。
さらに、彼が指揮をしているこのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団も、この検索ではモーツァルトの「レクイエム」のアルバムは他には見つかりませんでした。という、ある意味レアな顔触れによるSACDということになります。
そんな「不慣れ」なレパートリーに対して、彼らは特にスタンスを変えることなく、彼らの日常の演奏活動の土俵の上にモーツァルトを引きずりあげて勝負を仕掛けているように見えます。まず、弦楽器はかなりのプルト数を確保しているのでしょう、それはライブ録音の会場であるコンセルトヘボウの広い空間全体に煌めくような豊潤さをもって響き渡っています。さらに、最近ではもはや主流となった、リズム・セクション(つまり、ティンパニとトランペット)だけにはピリオド楽器を用いるといったようなチマチマしたことには関心を向けることはなく、あくまでマーラーやブルックナーを演奏する時に用いる楽器をそのまま使うというやり方を貫きます。
この、特にティンパニの存在感は、間違いなく18世紀の音楽には見られないもの。そう、単にリズムを強調するという役割を超えた、それ自身がクライマックスの核となるような強い主張は、まさにブルックナーに於けるこの楽器の役割そのものではないでしょうか。中でも「Dies irae」などは、まさにブルックナーの語法によって演奏されたモーツァルトに他なりません。しかし、その他の曲でも盛り上がるところでは例外なく披露されているこのティンパニの強打は、最初のうちこそ疲労感を抱くほどの戸惑いがあったものの、慣れてくればそれは見事な快感に変わります。かと思うと、「Tuba mirum」でのバスのソロなどは、まるでベートーヴェンの「第9」の終楽章での大仰なレシタティーヴォのよう。そこに、びっくりするほど奔放な装飾を付けたりすれば、もはやジョークにしか聴こえないほどの危うさを持ってしまいます。
さらに、やはり18世紀的なセオリーにのっとれば、トロンボーンなどはソロの部分はともかく、基本的に合唱と同じパートの補強という意味を持っているはずですが、ここではそんな役割には留まらず、積極的に厚ぼったいサウンドを作りだすことに貢献しているように思えます。同じことはオルガンにも当てはまります。「Quam olim Abrahae promisisti」で朗々と響き渡るペダルの音は、このホール備え付けの大オルガンからのものに違いありません。確かに、普通にこの作品に使われるような小ぶりのポジティーフでは、ブルックナーのサウンドを作り出すことはかないません。
面白いことに、いくらそんな大げさな身振りで飾り立てようとしても、それでモーツァルトの音楽自体が損なわれることはありません。というより、特に最晩年の作品が持つ、まさに時代様式を超えた充実した作風には、どんなアプローチにさらされようがびくともしないほどの確固たる主張が込められているのではないでしょうか。
つまり、ジュスマイヤーが作った「Benedictus」などでは、確かにモーツァルト固有の作風は巧みに取り入れられてはいるものの、それはモーツァルト自身がこの時期に達した霊感を宿らせるほどの高みには至っていないことが、このヤンソンスの「19世紀的」な演奏によって見事にあぶり出されているのです。

SACD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest
# by jurassic_oyaji | 2014-06-11 20:50 | 合唱 | Comments(0)
オタマジャクシの行方
 前回の「禁断」の原稿用紙の画像は、土曜日に1週間分の朝ドラをまとめて放送した時に録画してキャプチャーしたものですが、その時に、それとは全然関係ないところでちょっと気になるものを発見しました。それは、蓮子が夫を看病しているシーンの部屋の中、襖に描かれた絵です。
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 構図はちょっと違いますが、タッチとか色合いは、これとそっくりなような気がするのですが、どうでしょう。
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 もちろん、これは職場の本堂の襖絵の松の絵ですが、こんな見慣れたものがいきなりテレビに登場していたので、ちょっとびっくりしたということです。どちらも名のある画家の手になるものなのでしょうね。
 そんな、蓮子の家の襖絵と同じ襖絵の外に広がる中庭にある池の中には、なんと蓮の花が咲き始めたというのは、あまりに出来過ぎです。
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 しかし、そこに住んでいたオタマジャクシはどうなっているでしょう。このところ、まとまった雨が降っていたので気が気ではなかったのですが、月曜日にその池を見てみると、確かに水かさが大幅に増していました。この池の場合、そのまま溜めているとあふれてしまって、ひどい時には床下浸水になったりしますので、増えた分はきっちり排水溝から外に流すようになっています。ということは、こんなに大量の水が流れ出たのですから、そこにいたオタマジャクシが無事でいられるはずがありません。池の中からは、彼らの姿はきれいさっぱり消えてしまっていましたよ。きっちり、足が生えたあとはどうなるのか観察してみようと思っていたので、とても残念です。
 でも、彼らのことですから、きっと排水溝の中でたくましく生き続けているのではないでしょうか。それがいつの日かまたここに戻ってきて、大量の卵を産みつけることになるのでしょう。
 同じように、去年マンションの巣から飛び立って行ったつばおくんとつばこちゃんのカップル(ではないかもしれませんが)が産んだ雛たちも、順調に育っているようです。今年はどうやら3羽が巣の中にいるようで、こんな風にカメラのフラッシュに反応して、口を開けて餌をせがんでいましたよ。かわいいですね。
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 そんな梅雨の時期、霧雨が舞う中をニューフィルの練習に向かいます。結構蒸し暑いので、Tシャツの上に長袖のシャツを着て、胸ポケットにiPhoneを入れるというファッションです。駐車場に入る時にゲートでもらった駐車券も、同じ胸ポケットに入れておけば、どこに行ったか探すことはないはずです。
 しかし、練習場はとんでもない暑さになっていました。とてもこのままでは楽器が吹けないので、iPhoneは外に出して、シャツを脱ぐことにしました。半そででちょうどいい感じです。身軽になって合奏に臨もうとしていると、ヴィオラの○田さんが突然立ち上がって、「駐車券落とした人、いませんか」などと叫び始めました。あれをなくしてしまうと大変ですね。そんな間抜けは誰でしょう・・・と、よく考えてみると、入庫時間が私が入ったのと同じ頃、ということは、その間抜けは私じゃないですか。いやあ、本当に助かりました。シャツを脱いでiPhoneを出した時に落ちてしまったのですね。見つけてくれた○田さんに感謝です。
# by jurassic_oyaji | 2014-06-10 23:43 | 禁断 | Comments(0)
Kurt Eichhorn conducts Carl Orff
Kurt Eichhorn conducts Carl Orff_c0039487_20324280.jpgLucia Popp(Sop), John van Kesteren(Ten)
Hermann Prey, Thomas Stewart(Bar)
Gottlob Frick(Bass) etc.
Kurt Eichhorn/
Münchner Rundfunkorchester
SONY/88843015172




クルト・アイヒホルンがミュンヘン放送管弦楽団の首席指揮者に在籍中の1970年代前半に録音したオルフの作品が、まとめてボックスになってリリースされました。これは、1995年に作曲者の生誕100周年記念として5枚分のCDのためにマスタリングとカップリングが行われたもののリイシューです。録音された時はレーベルはAriloa-Eurodiscでしたが、1995年の段階ではBMG傘下に入っていてBMG Ariola、それが2014年になると、SONYはこんな風に旧BMGのレーベルをまとめて「RCA」と表示するようになっていました。「歴史」ってやつを感じてしまいますね。なんにしても、こんな貴重な録音が安価で広汎に提供されるようになったのはうれしいことです。なんたって、LP時代に買った最初の「カルミナ・ブラーナ」ですから、思い入れもハンパではありませんし。
それは、CDが出始めた頃にさっそくこんなジャケットでCD化されていました。そこからは、LPの刺激的な音づくりによるインパクトは全く感じられないようになっていましたが、それが本来の音なのだろうと納得していましたね。なんたってCDLPよりはるかに原音に忠実な再生が出来ると本気で信じていたころでしたから。
Kurt Eichhorn conducts Carl Orff_c0039487_15251950.jpg
もちろん、今ではそんな妄想はこれっぽっちも抱いていませんから、今回のCDを聴いてみると単に当時のマスタリングがあまりに幼稚だったことに気づくだけです。やはり、元の音は相当に高音を強調した派手なものだったのですね。それが見事にこの曲に合っていたので、強烈な印象が残っていたのでしょう。
それは5枚のうちの1枚、残りの4枚には、今まで全く聴いたことのない曲が並びます。まずはオペラが2曲、それぞれが1枚のCDに収まっています。「賢い女」と「月」という、さすがにタイトルだけは「オルフの代表作」という言い方で目にすることは良くあった2つの作品です。いずれもグリム童話を原作としたものですから、おぼろげにあらすじは知っているような気がします。もちろん、オペラでは細かい部分で手の入った台本が用意されていたのでしょう。ただ、こんなボックスですから、当然リブレットなどは付いていません。これがNAXOSあたりだと、ネットからダウンロード出来るようになっているものですが、SONYの場合はそんな配慮は一切ありません。そんな企業の都合によって、ほんのたまにしか意味の分かる単語が聴こえて来ないドイツ語の台本によるオペラを味わわなければならないのですから大変です。
ですから、「言葉」が分からない分、もっぱら「音楽」によってのみ、この作品を楽しむしか、とる方法はありません。そこでもろに音楽だけが前面に出てくると、なんか、こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、この作曲家はなんと少ない語彙で勝負をしているのだろうという気がしてきます。つまり、この2つのオペラの前に作られた「カルミナ・ブラーナ」で、もはや彼のオリジナルのフレーズは出尽くしてしまったのではないか、とまで思えてしまうのですね。「賢い女」で、ピッコロ、ファゴット、ピアノ(多分)による超高速のユニゾンが何度も繰り返されるのを聴いた時には、思わず笑い出してしまいました。もっとも、「カルミナ度」がより高いのは、「月」の方でしょうか。
もう少し後になって作られた「クリスマスの劇」と「復活祭の劇」になると、中身は殆どセリフで、音楽はほんの少ししかなくなってきます。こうなると、リブレットなしで延々とドイツ語だけのお芝居を味わうのは殆ど苦痛と化します。
しかし、そこでめげてはいられません。最後に収録された「アストゥットゥリー」になると、これは完全にモノドラマ、37分もの間、一人の俳優がただ喋っているだけというものすごいものなのですからね。こういう「音楽」をオルフが作っていたなんて、全くのサプライズでした。ちゃんと楽譜も出ているんですよ。これって、もしかしたら「ラップ」?

CD Artwork © Sony Music Entertainment
# by jurassic_oyaji | 2014-06-09 20:34 | オーケストラ | Comments(0)
花子とアン
 最近心に響いたのは、「○○子の歴史なんか知りたくない」という新郎の言葉です。きのう、某所で「お友達」のご結婚を祝うパーティーが行われていたのですが、私は都合(「杜の都合」ではありません)で行けなかったら、新郎新婦のスピーチが丸ごと動画で送られてきたもので、なんか、男らしいな~、私にはこんなこと言えないな~、と感激しているところです。「気が付いたら、こうなっていた」なんてのも、カッコよすぎ。
 そんな動画を見ているころ、私はFacebookページのデザイン変更の後始末をしていました。先方がいきなり「6月20日から変わります」というので、早めに変えておこうとしたら、タイトルがこんなことになっていました。
花子とアン_c0039487_15280523.jpg
 ちなみに、もう元には戻せないので昔のタイトルをこの前の「禁断」から持って来てみると、
花子とアン_c0039487_15300331.jpg
 プロ写と、タイトルの文字の位置が違ってますね。というか、普通のFacebookと同じになってますね。
 これはもうカバーを交換した後なので問題はないのですが前のカバーではプロフィール写真にヴァイオリンのメンバーがかなり隠れてしまっていたんですよね。さらに問題は、タイトルの文字です。
 前は1行で全部表示されていたのが、幅に制限が出たのでしょうか、こんな風に3行に別れています。
花子とアン_c0039487_15275561.jpg
 これではあまりにみっともないので、カタカナを半角にしてみたら、
花子とアン_c0039487_15273104.jpg
 2行にはなりましたが、まだみっともないので、1行目の最後に空白を入れて、
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 やっとまともな表示にはなりましたが、これでも文字でやはりメンバーが隠れてしまいます。そこで、うちのもう一つの公式名称にして、やっと落ち着きました。
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 なんで、こんな面倒くさいことをさせられるのか、理解不能です。まあ、次の演奏会の宣伝用のカバーは1種類作るだけで良くなりますから、O田さんの仕事がほんの少し楽にはなりますが。
 朝ドラの「タイトル」である主題歌も、毎日聴かされるので、ついつい口づさんでしまいます・・・と言いたいところですが、今回はなんかとんでもなく聴きずらい歌い方なものですから、歌詞が殆ど聴こえません。いや、聴こえることは聴こえるのですが、それがほとんど意味をなさない単なる「音」としか認識されないのですよね。なんとかそれを文字に起こしてみると、こんなことになりました。

   これから始まるあなたの物語
   ずっと長く道は続くよ
   虹色の雨降り注げば
   そら、若くなる

   まぶしいね顔の奥に
   悲しい脅(おど)かする
   寄り添って、身罷(みまか)って
   こんなにも糸、しい~

   手をつなげば暖かいこと、嫌いに
   なれば1人になっていくこと
   一つ一つがあなたになる
   明治は続くよ

 いちおう「正しい歌詞」らしいものがネットでは見つかりますが、私には絶対そんな風には聴こえないんですよね。私にとっては、「脅かす」とか、「身罷る」とか、なんか朝の番組にはふさわしくない歌詞を半年間聴かせられることになるのは、たまらない苦痛です。
 まあ、そんなしょうもない主題歌にもかかわらず、ドラマ本体は結構楽しめています。ただ、たまにこんなつまらないミスがあったりするのが、ちょっと惜しいところ。
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 主人公が新しい小説を書き始めるシーン、真新しい原稿用紙を前にして、これから何か書こうとしているのですが、ちょっとこの用紙、おかしくないですか?普通、原稿用紙には本文を書くための四角い枠と、ルビを振ったりする補助の細い枠がありますが、その補助枠は普通は右側に付いてますよね。ところが、次の日に執筆が始まったシーンでは、見なれた原稿用紙になってましたよ。
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 その次のカットで、この用紙の全景が現れます。
花子とアン_c0039487_15263214.jpg
 これはもちろん、普通の原稿用紙、つまり、最初のシーンではこの原稿用紙をひっくり返して使っていたことになりますね。自分の商売道具である原稿用紙をきちんと使えない小説家志望の主人公って・・・。
# by jurassic_oyaji | 2014-06-08 20:21 | 禁断 | Comments(0)