おやぢの部屋2
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Deutsche Barocklieder




Annette Dasch(Sop)
Membres de l'Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMN 911835



ルネ・ヤーコブスが録音した「フィガロの結婚」のCDは、これほど手放しで褒められるのも珍しいと思われるほど、各方面で絶賛されたものでした。もちろん、わが「おやぢの部屋」でも褒めまくっていたのはご存じの通りです。ところで、そのヤーコブスが、パリのシャンゼリゼ劇場でこの作品を上演した模様が、最近テレビで放映されましたね。バロックの絵画で彩られた舞台装置と、ジャン・ルイ・マーティノティの軽快な演出がヤーコブスの音楽と見事にマッチした、素晴らしいステージでした。ただ、オーケストラがコンチェルト・ケルンなのは同じですが、キャストはケルビーノのキルヒシュラーガーを除いてはCDとは総入れ替えになっていました。その中でちょっと気になったのが、伯爵夫人を演じていたアンネッテ・ダッシュです。およそ「伯爵夫人」らしからぬ蓮っ葉な物腰は、例えば第2幕の最初のモノローグでヒステリーを起こして手当たり次第に食器を投げつけるというショッキングな演出には見事にハマってはいたものの、やはりこの役としては違和感を抱いてしまうものでした。
実は、彼女はオペラの他に、バロックあたりの声楽曲の分野でも盛んに活動しているということを知り、そんなドイツのバロックの歌曲ばかりを集めたこのアルバムを聴いてみる気になりました。HARMONIA MUNDIのいわば「新人紹介」といった趣のシリーズ、しかし、これはなかなか手のかかったアルバムです。まず全体を、「愛」、「移ろいゆくもの」、「平和」、「自然」、「幸運」という5つのコーナーに分け、それぞれのテーマに沿った作品を数曲ずつ歌うという趣向です。最初の「愛」で、すでにダッシュの魅力は全開となります。一口に「バロック」と言っても、時代によって様式は大きく変わっていますが、この中ではもっとも「古い」ハインリッヒ・アルベルトの、まるでシュッツを思わせるような端正な歌い口に、まず引き込まれます。と思うと、次のかなりバッハあたりに近い時代のヨハン・クリーガーの作品ではうってかわった軽快さが味わえます。彼女の魅力はなんといってもリズム感の良さでしょう。このコーナーでは喜びにあふれた技巧的なコロラトゥーラがふんだんに使われていますが、それがいとも軽やかに処理されているさまは爽快感すら味わえるほどです。
これが、次のコーナーへ進むと、ガラリと印象が変わってしまうのですから、すごいものです。特に、フィリップ・ハインリヒ・エルレバッハの「私たちの人生はたくさんの苦悩に囲まれている」という曲で、ベルリン古楽アカデミーのメンバーによる、一音一音かみしめるまるでため息のような伴奏に乗って、切々と歌い上げる場面は真に心に迫ってくるものがあります。決してこの時代の様式を逸脱しない、しかし、その中で最大限のエスプレッシーヴォを披露しようという、まさにバロックリートの真骨頂を味わう思いです。「自然」のコーナーでは、同じハインリッヒ・アルベルトの作品を、全く違う歌い方で歌うという離れ業も見せています。これは、当時の歌を表現する際の可能性の幅を自ら示してみたもの、と見ました。最後のコーナーは、ご想像のようにまたもやコロラトゥーラの応酬、最後の曲には「合唱」まで入って、にぎやかに幕を閉じるというもの、このアルバム1枚でこの時代のリートの様々な表情を、完璧に伝えきっている素晴らしい仕上がりになっています。
これを聴けば、ヤーコブスがなぜ彼女を伯爵夫人に抜擢したか、分かるような気がします。事実、テレビで見た「フィガロ」では、外見こそミスキャストでしたが歌の方は完璧に指揮者の要求に応えていたのですから。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-20 20:58 | 歌曲 | Comments(0)
BOLCOM/Songs of Innocence and of Experience

Soloists
Choirs
Leonard Slatkin/
University of Michigan School of Music
Symphony Orchestra
NAXOS/8.559216-18



ソリストだけで13人、それに児童合唱を含む5つの合唱団と、リズム・セクションを持つシンフォニー・オーケストラという、総勢450人にもなろうかという、まるでマーラーの「8番」のような巨大な編成の音楽です。この作品は、アメリカの作曲家ウィリアム・ボルコムが、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩集に曲を付けたというものなのですが、そもそもボルコムがこの詩を知ってそれを音楽にしようと思い立ったのが、彼が17歳の時、そして、全曲が完成して初演されたのがそれから30年近くたった1984年だったといいますから、その作曲のスパンは半端ではありません。まるであのヴァーグナーの大作「ニーベルンクの指環」に勝るとも劣らない壮大な創作意欲の継続の賜物と言うべきでしょう。しかも、演奏時間が2時間17分、それだけで聴き通す気力などなくなってしまいそうになります。
しかし、実際のところ、殆ど「折に触れて」といったスタンスで作られた曲の数々は、せいぜい2分から3分程度の長さのコンパクトな仕上がり、聴き始めてみるとそんな身構える必要など全くないことに、すぐ気づくはずです。この曲のタイトルは「無垢と経験の歌」と訳されていますが、実際には「無垢の歌」と「経験の歌」という2つの部分からなっています。そして、それぞれの部分がさらに3つの部分と6つの部分に分かれていて、実際は「無垢~」は、「経験~」の半分ほどの長さしかありません。そこで、それぞれ3つの部分を3枚のCDに分けた結果、おのおのが40分から50分という、聴き通すには手頃な長さになっていますし。
この作曲家の持ち味は、様々なジャンルの音楽を分け隔てなく作品の中に取り込むという貪欲な姿勢です。したがって、この曲でも、最初にネイティブ・アメリカンの伝承歌のようなもので始まったかと思うと、その次に来るのは他人を排斥するような無調の音楽、そして、なんの脈絡もなくカントリー・アンド・ウェスタンが流れるといった節操のなさ。しかし、それも、これだけ開き直られると、有無をいわせぬ力となって迫ってきます。例えば武満徹のように、思い切りシリアスな「現代音楽」から、「死んだ男の残したものは」のようなフォークソング、さらには「燃える秋」などの最初からヒットチャート入りを目指した曲まで書き分けることが出来たような才能が、この人にも備わっていたのでしょう。ただ、ボルコムのユニークなところは、その全ての要素を一つの作品の中に盛り込んだところ。その結果、一見ごった煮のようなこの大作を虚心に聴くことによって、私たちは一人のアメリカ人が自己の中に持っている音楽の様々な側面を、一望の下に知ることとなるのです。彼の場合、最も根底にあるのはカントリーっぽいテイストではなかったのか、などと、勝手に想像できてしましまいます。そんな彼が、一番最後の曲「A Divine Image」では、初演当時に隆盛を極めたレゲエを導入したあたりが、この作曲家の好奇心のスゲエところなのでしょう。ですから、おそらく作曲時にはシェーンベルクの「シュプレッヒ・ゲザンク」を念頭に置いて作ったことは明らかな、メロディを持たない「語り」でまとめられたいくつかの曲も、もし彼が現在もう1度同じアイディアで作ろうとした時には、そこには間違いなく「ラップ」の要素が入ってくることでしょう。
オーケストラは、学生が主体なのでしょうが、この曲に欠かせない無意味に困難なパッセージを楽々と演奏しているのには感心させられます。合唱にも、大人数の割には、大味にならない緻密さがあります。ただ、問題なのがリズムセクション。「○○ポップス」によくあるゆるいビート、特に前のめり気味のベースが妙に「クラシック風」で、カントリーやロックの味が薄まってしまっています。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-17 19:10 | 現代音楽 | Comments(1)
FANTAISIE




Emily Beynon(Fl)
上野真(Pf)
CRYSTON/OVCC-00014



ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの日本制作による2枚目のソロアルバムです。レーベル名が1枚目と微妙に違っていますが、もちろんこれは実体は全く同じ、なんでも管楽器関係ではこのようなサブレーベルを使用するということです。
1枚目での、まさにソリストの顔に泥を塗りまくっていた粗悪なピアニストのことが念頭にありますから、このアルバムでも最大の関心事は、伴奏者の良否になってしまうのは、致し方ないことなのでしょう。しかし、ご安心下さい。昨年このレーベルからリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューをしたピアニスト上野真は、そんな確かなテクニックをひけらかすこともなく、しっかりソリストに寄り添った、絶妙な伴奏を聴かせてくれていました。録音会場のせいなのか、楽器のせいなのかは分かりませんが、そのピアノの音色もとてもソフトなもので、それはしっかりバイノンのフルートと溶け合っていたのです。
例えばフォーレの「子守歌」というよく知られている曲で、ソリストと伴奏者との間の的確なバランスを見て取ることが出来ることでしょう。このシンプルなメロディーに込められた様々な仕掛けを、バイノンはていねいに掘り起こしていきます。それはちょっとしたルバートであったり、あるいは意識されないほどの音色の変化であったりするのですが、そこから導き出される、それこそ「ファンタジー」あふれる音楽はどうでしょう。それを支えるゆりかごのようなピアノの音型が、決してフルートに媚びることなく、冷徹なほどのビートをキープしているからこそ、それは際だって聴き手に伝わってくるのでしょう。
先日ルーランドで聴いたケックランの作品が、あのアルバムとは全くダブらない曲目で収録されているのも、嬉しいことです。ここで聴けるのは、「ソナタ」と「14の小品」。「ソナタ」で広がる霧の中のような世界は、バイノンの信じられないようなピアニシモでリアリティあふれるものになりました。ほんと、この人のピアニシモは、どんな弱い音でもしっかり生命力が宿っているのですからすごいものです。現実には、他のオーケストラの首席奏者クラスでも、ただ「弱い」だけで、完全に「死んだ」音しか出せないプレーヤーの、何と多いことでしょう。もう一つ、屈託のないテイストが心地よい「小品」では、彼女の低音の豊かな響きを満喫することにしましょう。最後から2番目の「葬送行進曲」というタイトルの曲が、日本の子守歌のように聞こえるのも、ご愛敬。
今回のアルバムの選曲は、一見するとかなり脈絡のないもののように思えます。サン・サーンスの「白鳥」や、ラヴェルの「ハバネラ」のような「名曲」があったかと思うと、ケックランのようなかなりコアなレパートリーが入っていたり、一体どういう聴衆に向けて作られたのか分からなくなるような曲の配列になっています。今、クラシック音楽の作り手が一様に抱えているターゲットの設定の難しさと言う問題が、図らずも露呈してしまった形で、結局どっちつかずのものになってしまったという印象は免れません。その結果、収録時間は80分近くになってしまい、フルートも、そしてバイノンも大好きな私でさえ、一気に聴き通すのはかなり辛いものがあったことを白状しなければなりません。これだけのアーティストが用意されていながら、それを用いて芯の通った密度の高いアルバムひとつ作ることが出来ないのが、今のクラシック界なのです。ポン・デ・ライオンには芯はありませんが(それは「ミスド」)。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-13 19:47 | フルート | Comments(2)
MOZART/Requiem(Ed.Beyer)



Lorin Maazel/
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen
Rundfunks
DREAMLIFE/DLVC-8020(DVD)



モーツァルトのレクイエムが続きますが、今回は映像も付いていますからご勘弁を。これは、1993年にアウグスブルグの聖ウルリッヒ教会で行われたコンサートの模様を収録したもの。ただ、こういう場所でこういう曲ですから、「コンサート」というよりはやはり「礼拝」といった趣の方が強くなっています。演奏が始まる前の拍手もありませんし、終わった後では、なんと教会の上にある鐘が一斉に鳴り出すという「演出」、もちろん鐘が鳴り止めば、そのまま演奏者も聴衆も三々五々会場を立ち去ることになるという、ちょっと日本では味わえないような光景が待っていることでしょう。
ここで演奏しているバイエルン放送交響楽団と合唱団は、1988年にもバーンスタインの指揮でこの曲の教会でのコンサートの模様を映像に残しています。よっぽどこういうことに縁があるのでしょうね。しかも、両方ともバイヤー版を使っているというのも、面白いところです。ただ、今回ついでにそのバーンスタインの映像と見比べてみたのですが、オーケストラも合唱団も、同じ団体だとはとても思えないほど、異なった様相を呈していたのはちょっとした驚きでした。まず、オーケストラを見てみると、これが映像の良いところなのですが、マゼールは金管楽器にちょっと変わったチョイスを与えているのがすぐ分かります。なんと、トランペットはロータリーなしのナチュラル管、そして、トロンボーンもベルが開いていないバロックタイプの楽器を使わせているのです。つまり、限りなく「オリジナル」に近い選択を行っているということになります(バーンスタインの時には普通のモダン楽器を使っているのですから、これがマゼールの意向であるのは明らかです)。もちろん、マゼールのことですから、本格的にオリジナルっぽいアプローチを試みようなどというつもりはさらさら無かったのでしょうが、ここで聴くことの出来るトロンボーンの柔らかな音色は、なかなかなものがあります。ただ、トランペットの場合はそれが裏目に出てしまって、演奏上の困難さだけが耳に付いてしまったのが、ちょっと「惜しい」ところです。
逆に、バーンスタインの映像を見直して気が付いたのが、バセット・ホルンとファゴットを倍管、つまり4本ずつ使っているというとんでもないこと。虎刈りにされてはたまりません(それは「バリカン」)。おそらく、彼の生涯には、「オリジナル楽器」との接点は全く存在していなかったことでしょう。
合唱も、バーンスタインのように、「熱く」コテコテに歌うことを要求されると、基本的なアンサンブルに破綻をきたしてしまうのでしょう。マゼールのちょっと醒めた、しかし、要所ではきっちり盛り上げるというパターンのはっきりした指揮の方が、彼らの実力が存分に発揮できるようです。そう、このライブ映像でもっともよく伝わってくるのが、マゼールのそのような明確なパターンの有り様です。彼の作り出す音楽にそれほどの共感を得ることが出来ない人でも、そのようなはっきりとした道筋が見えてくる前では、ある種の畏敬の念すら抱きかねません。ツィーザクを初めとするソリストたちのアンサンブルが、まるで奇跡のような精度を見せているのは、あるいはそんな指揮者のオーラが作用していたせいなのかもしれません。
カップリングがストラヴィンスキーの「詩編交響曲」、これも秀演です。もちろん、ヴァイオリンとヴィオラがなくて、2台のピアノが入っているという変わった編成を、実際に「目」で確認することが出来ます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-11 19:44 | 合唱 | Comments(0)
TATUM/Improvisations





Steven Mayer(Pf)
NAXOS/8.559130



私たちに様々な幸せ感を届けてくれる楽器の音色、しかし、その楽器を演奏しているのは生身の人間ですから、他人に感動を与えられるほどの演奏を成し遂げるためには絶え間ない修練が必要とされます。華麗な超絶技巧の裏には、幼少の頃からの長い時間をかけたつらい努力という、他人が知ることはない苦しみが隠されているものなのでしょう。そして、一流の演奏家であり続けるために欠かすことが出来ないのは日々の練習の積み重ね、それを怠れば、たとえホロヴィッツほどのヴィルトゥオーゾでも、「ひびの入った骨董品(吉田秀和)」と揶揄されてしまうのです。
そのホロヴィッツが、まだバリバリの現役だった1940年代、顔を知られないように目深に帽子をかぶって「変装」し、お忍びでニューヨークのとあるジャズクラブに出かけたことがありました。そこでは、一人の黒人がピアノを演奏していたのですが、それを聴くなり、ホロヴィッツはこうつぶやいたといいます。「私は、自分の目と耳が信じられない」。そのピアニストの名はアート・テイタム、1930年代から1950年代にかけて活躍した(1956年に、46歳という若さで亡くなっています)ジャズピアニストです。あの超絶技巧を以て知られるホロヴィッツをも驚嘆させたというそのテクニックは、しかし、血のにじむような訓練で身につけたものではなく、殆ど天才的に備わっていた能力であった、というのがすごいところです。そして、その奏法も、クラシックとは無縁のところからスタートしています。それは「ハーレム・ストライド」と呼ばれる左手の奏法。「ラグタイム」のようなシンプルな伴奏に起源を持つこのベースとコードの奏法は、ハーレムのジャズマンの間で脈々と受け継がれ、ファッツ・ウォラーを経て、テイタムで驚異的な完成度を獲得します。強拍でベース、弱拍でコードを演奏するのですが、そのベースがすでに10度、つまりオクターブ+3度となっていて、コードまで担っているのが、すごいところ、もちろん左手だけで2オクターブ近い跳躍を目にもとまらぬ早さで繰り返すのです。そして右手が紡ぎ出すパッセージのすごいこと。まるで、時間軸を全て埋め尽くしたような細かい音符の連続、しかも、それらは1音1音確かな主張を持って鳴り響いているのですから。
そんなテイタムの名人芸、もちろん録音もありますが、その録音から採譜した楽譜というものも存在しています。つまり、別にジャズの修練などしたことのないピアニストでも、きちんと楽譜を再現できるだけの能力があれば、テイタムと同じ「音」を出すことが出来るというものです。おそらくそれを自分で作って、それを演奏、CDを作ってしまったのが、このスティーヴン・メイヤーというクラシックのピアニストです。こうして、最新のデジタル録音で「蘇った」テイタムのソロの数々を聴いてみると、その華麗なテクニックには圧倒される思いです。それだけでなく、アレンジの面でも新鮮なアイディアがあちこちで発見されて、驚かされます。ジャズのスタンダードに混じって、ドヴォルジャークの「ユモレスク」なども収録されているので、それは我々でもよく分かるのですが、原曲の良さを生かしつつ、ユーモラスな一面も持つこのアレンジは、ちょっとクラシックのセンスからは出てこない素晴らしいものです。
もちろん、このメイヤーの演奏が「ジャズ」とは全く無縁のものであることは言うまでもありません。言ってみれば、それは自然の一部を切り取ってそれに似せて作ったジオラマのようなもの、カプースチンの音楽が決して「ジャズ」と呼ばれることがないのと同様に、楽譜に起こした時点で、テイタムは「ジャズ」としての命を失ったのです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-09 19:43 | ポップス | Comments(0)