おやぢの部屋2
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MADERNA/Don Perlimplin



Roberto Fabbriciani(Fl)
Mauro Ceccanti/
Contempoartensemble
ARTS/47692-2



ノーノやリゲティと同世代のイタリアの作曲家ブルーノ・マデルナは、あるいは指揮者としての方がよく知られているのかもしれません。53歳という若さで亡くなってしまったのが惜しまれますが、もし存命であればもしかしたらコンポーザー/コンダクターとしては、あのブーレーズ以上のキャリアを築いていたかもしれませんね。そういえば、彼の弟子のシノポリもあっけない生涯でした。
マデルナが1962年に、国営放送RAIのためにラジオ用のオペラとして作った「ドン・ペルリンプリン」という作品を、実際に舞台で上演したもののライブ録音が登場しました。この曲のCDとしては、おそらく2枚目になるのではないでしょうか。原作は、スペインの文豪フェデリコ・ガルシア・ロルカの「ドン・ペルリンプリンがベリサと庭で恋をする話」という戯曲、それをヴィットリオ・ボディーニがイタリア語に直したもので、タイトルも「ドン・ペルリンプリン、あるいは愛と想像力の勝利」と変わっています(「あるいは~」というのが、いかにもオペラ・ブッファっぽくていいですね)。
主人公のドン・ペルリンプリンは、シャイな老人。広い屋敷で本に囲まれ、静かに暮らすことが無上の喜びでした。しかし、女中のマルコルファは、そんな主人を若くて美しいベリサという女性と結婚させようとします。ベリサも、ペルリンプリンの財産に惹かれ、結婚を承諾、お屋敷に住むことになります。ペルリンプリンはベリサの若い肉体に夢中になってしまいますが、ベリサの方はこの老人をペットのようにかわいがるだけ、彼女の愛の対象は、妄想の中に住む赤いマントの若い男だったのです。その事を知ったペルリンプリンは、妄想の男と同じ赤いマントに身を包み、仮面に顔を隠して庭でベリサの前に現れます。そこで彼は、彼女の目の前で自らの命を絶つのです。
まあ、梗概はこんな感じ、なかなか身につまされるお話ではあります。もちろん、この時代の「ゲンダイオンガク」界の先頭を走っていたマデルナのことですから、ここに単なる「オペラ」というイメージを求めるのは正しいことではありません。何しろ、当のペルリンプリンは、ステージに登場してはいるものの、一言も歌を歌ったりセリフをしゃべったりはしてはいないのですから。彼の「音楽」を担当するのはフルートソロの役目。フラッター・タンギングや、いかにも12音丸出しという完璧「60年代」のフレーズが、「Si?」とか「Perché?」といったセリフを表すということになります。それは、次に本物のセリフをしゃべる人が、「そう言ったんだね?」と確認することで、お客さんには分かるという仕組みになっています。このレーベルに多くの現代音楽のアルバムを録音しているファブリチアーニの超絶技巧が、ここでは一つの聞き物でしょう。それと同じように、ベリサの母親の心情も、サックス五重奏で奏でられます。
新婚夫婦の初夜の場面で、2人の妖精が現れてリズミカルな会話でエロティックな雰囲気を盛り上げるというのが、音楽的な一つの見せ場でしょうか。ここでは、テープによる「電子音楽」がバックに流れ、妖精のセリフが、「ヴォコーダー」のようなものを使って(初演当時はどのように処理していたのかは分かりませんが)、一人の人が同時に異なるピッチでしゃべっているような効果を出しています。もっとも、そんな扇情的な場面とは裏腹に、ベリサが寝たふりをしていたために、ペルリンプリンは思いを遂げることが出来なかったのですから、何ともかわいそう。
余白に入っている「衛星のためのセレナータ」も、ある程度の枠を決めて即興演奏を行うという、60年代のテイストにあふれたものです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-06 23:13 | 現代音楽 | Comments(0)
SCHÜTZ/Matthäus-Passion




Françoise Lasserre/
Akademia
ZIG-ZAG/ZZT 050402



もはや1000アイテム目も視野に入ってきたという「おやぢ」ですが、それだけ続いているにもかかわらず、シュッツを取り上げるのはこれが初めて、というのはちょっと意外な気がします。これだけ合唱関係に選曲が偏っているのですから、とっくの昔にしゅっと書いていてもおかしくはないのですが、一応「新譜紹介」を謳っていますので、たまたま新しい録音で引っかかるものがなかったのでしょう。
大バッハのちょうど100年前、1585年に生まれた、初期バロックの大家ハインリッヒ・シュッツは、なんと87歳まで生き延びたという、当時としては記録的に長命の方でした(テレマンが86歳と聞いてびっくりしたことがありましたが、もっと上がいたのですね)。しかも、ただ年だけを無駄に重ねていたのではなく、亡くなる直前まで「白鳥の歌」や「ドイツ語マニフィカート」といった素晴らしい曲を作っていたのですから、これは凄いことです。この「マタイ受難曲」も、81歳の時の作品なのですから、驚いてしまいます。
年を取ってからの作品だからなのか、当時の様式なのかは私には分かりませんが、この曲はまるで水墨画のような引き締まったシンプルさに支配されています。それというのも、この曲には楽器による伴奏は付かず、しかも、大半の部分はエヴァンゲリストが一人で歌うという場面によって占められているからです。バッハあたりでは「レシタティーヴォ・セッコ」という形で、通奏低音の伴奏が付きますのでまだ間が持てますが、一人の歌手だけによるそれは、「歌」というよりは殆ど「語り」に近いものがあります。別の歌手によって歌われるイエスやピラトの言葉も、テイストは同じ、群衆の言葉の部分がわずかにポリフォニーとハーモニーの処理が施されている程度、そこに広がるのは、モノクロームの禁欲的な世界なのです。最初の導入と、最後におかれた終曲の合唱以外は、全て聖書のテキストがそのまま歌われるというのも、潔いものです。
フランソワーズ・ラセール女史の指揮による「アカデミア」の演奏、ここでは、例えばバッハの同じタイトルの曲を思い浮かべた時に、途中でアリアやコラールなどが聴きたくなる心情を配慮してか、部分的に同じ作曲家の「クライネ・ガイストリッヘ・コンチェルト」や「カンツィオーネス・サクレ」といった合唱曲を挿入するという試みを行っています。確かに、物語のハイライト「ペテロの否認」のあとにオルガン伴奏の入ったポリフォニックなモテットが続くのは、ドラマティックな効果を与えるには充分なものがあります。
エヴァンゲリストとイエスを含めて、全部で10人からなる「アカデミア」のメンバーは、あまり得意ではないドイツ語のディクションを逆手にとって、言葉の持つ意味をことさらに強調し、平坦になりがちなテキストから実に起伏に富んだドラマを導き出しています。合唱の部分も「ハモる」よりは「語る」といった方があたっているような生々しさ、変な喩えですが、今までセリフをしゃべっていたものが急に歌を歌い出すミュージカルのような、良い意味での唐突さを連想してしまったものです。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-04 19:52 | 合唱 | Comments(2)
CIMAROSA, MOLIQUE, MOSCHELES/Wind Concertos


Mathieu Dufour(Fl)
Alex Klein(Ob)
Paul Freeman/
Czech National Symphony Orchestra
CEDILLE/CDR 90000 080



風をいっぱいに受けた帆船がジャケットに描かれているとはいっても、これは「風の協奏曲」というアルバムタイトルではありません。「Wind」というのは、フルネームは「Wood Wind」で、「木管楽器」という意味、ですから、もちろんこのアルバムは「木管楽器のための協奏曲」ということになり、フルートとオーボエのための協奏曲が収録されています。ソリストは、録音が行われた2003年には、揃ってシカゴ交響楽団の首席奏者だったフルートのマテュー・デュフーと、オーボエのアレックス・クレインです。ちなみに、クレインは2004年にこのポストを去っています。
バロックの時代には、管楽器のための協奏曲はたくさん作られていますが、ロマン派の時代になると、協奏曲の主役はもっぱらピアノとヴァイオリンに限られてしまった感があります。事実、「シューマンのフルート協奏曲」とか「ブラームスのオーボエ協奏曲」なんて、聞いたことがありませんものね。なんと言っても、ソリストとしてこの時代の技巧に富んだ音楽を託されるには、管楽器にはちょっと荷が重いという一面があったのかもしれません。確かに、フルートなどが現代の楽器と同じような低音から高音までムラのない響きと、輝かしい音色を獲得できるようになったのはごく最近のこと、その始まりとなったベームの楽器が完成を見たのは19世紀も半ばを過ぎてからのことだったのですから。従って、本当の意味での技巧的な管楽器の協奏曲が作られるようになるのは、20世紀に入ってから、さらに、「ソリスト」として独り立ち出来る管楽器演奏家が出てくるのは、その世紀の殆ど終わりに近づいた頃だったのです。
しかし、そんな管楽器にとっては「不毛」の時代でも、確かに可能性を信じて曲を残してくれていた人はいました。このアルバムで聴くことが出来るヴィルヘルム・ベルンハルト・モリックという、手品師みたいな名前(それは「マリック」)の作曲家の作品も、そんな愛好家の渇きを癒してくれるような素晴らしいフルート協奏曲です。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるような短調の第1楽章では、デュフーの力強い低音と、揺るぎのないテクニックで、ヴァイオリンに勝るとも劣らない多彩な表現を見せてくれています。そして、何よりも美しいのが第2楽章、甘く歌われるテーマは、まさに「ロマン派」、そして、そのテーマが回想される部分のソット・ヴォーチェは絶品です。第3楽章のロンドも、3つのテーマが入り乱れて楽しませてくれます。もう一人、同じ時代のこちらはピアノ関係で有名なイグナツ・モシェレスの「コンチェルタンテ」は、ソロがオーボエとフルート、まるでヴァーグナーを思わせる半音進行の前半と、ベル・カントのオペラのような後半の対比が素敵です。いずれの曲でも、デュフーとクレインは肩の力の抜けたファンタジーあふれる音楽を聴かせてくれています。
時代的にはもう少し早くなるドメニコ・チマローザの、有名な2本のフルートのための協奏曲を、ここではフルートとオーボエの二重協奏曲として聴くことが出来ます。ソロ楽器のアンサンブルにはいささかの崩れもないのですが、この曲に関しては鈍い反応のオーケストラとも相まって、ちょっと他の2人の曲ほどの生気が感じられなかったのが、残念です。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-02 19:54 | フルート | Comments(0)
PROKOFIEV/Romeo & Juliet




佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032



レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。
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# by jurassic_oyaji | 2005-07-01 19:23 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Requiem


Larsson(Sop), von Magnus(Alt)
Lippert(Ten), Peeters(Bas)
Simon Schouten/
Ensemble Lyrique
PREISER/PR90670



輸入CDのレビューで困るのは、演奏者の読み方が分からない時です。たとえ英語であっても、法則などの通用しない特別な読み方をする場合がありますから、油断は出来ません。「Maazel」を「マゼール」と読んだりするのは、かなり勇気がいることだとは思いませんか?ちなみに、「Renée」という名前は、「ルネ・フレミング」のように、「ルネ」という発音が実際の音に近いものなのですが、映画の世界では同じスペルでも「レニー・ゼルウィガー」のように「レニー」という、アクサンを無視した乱暴な読み方が通用していたりします。「Halle Berry」も、「ハル・ベリー」ではなく、「ハリー・ベリー」が正しいことが最近になってようやく知られてきたとか。
馴染みのある英語でさえ、このぐらいの「誤読」があるのですから、オランダ語などになったらとても手が付けられません。今回の指揮者の名前も、輸入業者の資料を見て初めて「スハウテン」というダイエット食品みたいな読み方だと知ったぐらいですから(それは「トコロテン」)。ただ、これも全面的に信用することは極めて危険です。かつて、やはり同じオランダの演奏家のモーツァルトのレクイエムが出た時も、CD店のコメントに書いてあった読み方を採用したら、別のところでは全く違う読み方だったということもありましたので。
とりあえずのスハウテンさん、ご自分が指揮者とクレジットされたアルバムはおそらくこれが初めてなのでしょうが、だいぶ前からトン・コープマンの「右腕」として、合唱の指導に当たっていたという実績があるそうです。リサ・ラーション(これも、読み方が難しい)などの、コープマン・プロジェクトの常連が参加しているのは、そのあたりの人脈なのでしょうね。
「アンサンブル・リリック」という団体名は、スハウテン(とりあえず)が1999年に自ら創設した、オリジナル楽器のアンサンブルと、小規模の合唱団の総称として使われています。それぞれのメンバーは、スハウテン(とりあえず)が個人的によく知っている人ばかりを集めたということで、ある意味、指揮者のやりたいことに極めて敏感に反応できる演奏集団を目指しているのでしょう。確かに、その成果は見事な形で演奏に現れていることはすぐ分かります。オーケストラと合唱が一体となった緊密な表現を、あちこちで聴くことが出来ます。ただ、それは良くも悪くも指揮者の趣味がそのまま反映されるということになるわけで、彼のかなりアクの強い歌わせ方には、正直なじむことは出来ません。そんな中で「Lacrimosa」だけは、その趣味がたまたま良い方向に向いたのか、ちょっと凄い演奏になっています。イントロのヴァイオリンの緊張感あふれる響きからして、それまでの音楽とは別物、合唱も最初から最後まで集中力が切れることはありません。
問題は、合唱だけの時にはそこそこ緊密な音楽が聞こえてくるのに、ソリストが入ったとたん、その張りつめたものが無惨にも壊れてしまうことです。ラーションがこんなにリズム感が悪いのも意外ですが、テノールのリッパートは最悪。「Tuba mirum」では、ライブということもあってオブリガートのトロンボーンもちょっと、なのですが、その2人の危なっかしい絡みには笑う他はありません。4人のアンサンブルも、それは悲惨なものです。
カップリングの「聖母マリアのためのリタニア」では、さらにコンディションが悪かったのでしょうか、ソリストのアンサンブルの酷さはまさに耳を覆いたくなるほどでした。つくづく、こういう編成の曲の難しさを思い知らされます。
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# by jurassic_oyaji | 2005-06-29 19:57 | 合唱 | Comments(0)