おやぢの部屋2
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BEETHOVEN/Piano Concertos 4 & 5
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Nicholas Angelich(Pf)
Laurence Equilbey/
Insula Orchestra
ERATO/0190295634179


かつて、ロランス・エキルベイは、自身が作った「アクサンチュス」という合唱団とのアルバムをたくさんちゅくって(作って)いました。ですから、彼女は合唱しか指揮ができない「合唱指揮者」だとずっと思っていたのですが、2014年に録音したモーツァルトの「レクイエム」では、なんとその2年前に作った自らのオーケストラ、「インスラ・オーケストラ」の指揮をしていましたね。しかも、そのオーケストラはピリオド楽器を使っていたのですから、驚いてしまいました。
ただ、その時はあくまで主役は合唱団でしたから納得は出来ましたが、今回は合唱が全く入らないピアノ協奏曲、しかもベートーヴェンの「4番」と「5番」という王道中の王道のピアノ協奏曲のオーケストラを指揮しているではありませんか。またもやびっくりです。
彼女も先日のミンコフスキ同様、NAÏVEから ERATOに変わってしまったアーティスト、どちらのレーベルの趣味なのかは分かりませんが、このジャケットにあるそのベートーヴェンの肖像画は、なんかとても爽やかな感じですね。これらの協奏曲が作られたのは1805年から1809年にかけてですから、1770年生まれのベートーヴェンは30代後半、実際はこんな感じの若々しさだったのかも知れませんね(ということは、このブックレットに書いてある通り、再来年の2020年は彼の「生誕250年」ということになるのですね。個人的には、オリンピックよりもこちらの方がそそられます)。
このピアノ協奏曲が作られた時期には、交響曲では「4番」、「5番」、「6番」が作られています。まさに彼の作曲家としての黄金期ですね。当然、この2曲のピアノ協奏曲はコンサートもレコーディングもおびただしい数のものが存在していますから、そこで注目を集めるためには何らかのセールスポイント(「奇策」とも言う)が必要になってくるのでしょう。そこで、エキルベイとピアニストのニコラ・アンゲリッシュは、ピリオド・オーケストラとモダン・ピアノを協演させることにしました。ただ、いくらなんでも現代のスタインウェイではあまりにもアンバランスですから、「1892年に作られたプレイエル」というのを持ってきました。これは、ベートーヴェンの時代の「フォルテピアノ(=ピリオド・ピアノ)」とは一線を画した新しい楽器ではありますが、まだまだ鄙びた音色を残していて、ピリオド・オケとの共演もそれほど違和感がないものなのでしょう。何よりも、「この楽器だったら、ベートーヴェンが表現したかったことが完全に伝えられるだろう」という指揮者とピアニストの思惑が、ここには込められているはずです。
確かに、「4番」がピアノ・ソロで始まった時に、そのなんとも軽やかで輝きのある音には、先ほどの「爽やかな」ベートーヴェン象が眼前に広がりました。そこに入ってくるバックの弦楽器も、こちらはもちろんガット弦のソフトな感触でそのピアノを包み込みます。少なくとも、このあたりまでは音色的にはこの19世紀初頭と19世紀末とのコラボは成功しているかのように思えます。
しかし、「5番」になると、ピアノとオーケストラの間になにか相容れない溝のようなものが感じられるようになってきました。音色はソフトでも、ピアノはメカニカルな面では堂々たる押し出しを誇っていて、まさにベートーヴェンの時代を超えた大きな音楽を作ろうとしているのですが、オーケストラがなんともサロン的なまとまりに終始しているのですよ。特に木管パートの主体性のなさといったら、もう歯がゆくなってしまうほどです。例えば第2楽章でフルートがテーマを吹くシーンでは、ピアノに隠れてそのメロディが全然聞こえてきません。エキルベイは、「大ホールでも通用するようなピリオド・オケ」を目指しているのだそうですが、そもそもそのような用途に対応していない楽器を使っているのですからそれは無理なことだとは気が付かないのでしょうか。

CD Artwork © Parlophone Records Limited

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# by jurassic_oyaji | 2018-10-16 23:12 | オーケストラ | Comments(0)
「ワード」は欠陥アプリ
 「かいほうげん」作りは、どうやら終わったみたいです。「みたいです」というのは、私の場合、一旦完成させたものでも、見直しているうちに気に入らないところが出てきて、また直してしまうということが、頻繁にあるからです。おそらく、そのままにしておくと止めどもなく改訂作業を繰り返してしまいそうになるので、ある時点で「終わったこと」にしないことには、どうしようもないのですよ。
 今回も、やはりそうでした。一応全部のファイルが出来たので、それをまとめて20ページ分の完パケを作り、もうこれを最終稿にして、明日印刷をやろうと思っていました。実は、発行日の火曜日は、先週のように午前中まるまるつぶれてしまう用事が入っているので、なんとしてでも月曜日中には印刷と製本を終わらせる必要があるのですよ。
 PCのディスプレイで見る限り、それは完璧なものに思えました。そこで、それを実際に印刷してみて、最終的なチェックを行うために職場まで行って実際の「かいほうげん」を作ってきました。こればっかりは、自宅ではできませんからね。
 そこで、「実体」として読み返してみると、なんだか写真のバランスが悪いんですよね。それで、大幅に写真のレイアウトを変える必要に迫られてしまいました。写真のサイズを変えると、また最初から作り直さなければいけないので、ちょっと面倒ですがそんなことは言ってられません。それから1時間半ほどで、やっとすべての作業が終わりました。もう、これ以上は気に入らないところがあっても直すことはないはずです。
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 こういう作業は、普通の場合はほとんど職場だけで済んでしまうのですが、今回のように自宅との2ヶ所で行おうとすると、それぞれのアプリのバージョンが違っているので、戸惑うことが頻繁に起こります。たとえば、自宅で「表」を作ろうと思ったら、全然手順が違うだけではなく、いつもやっている「罫線を引く」とか「罫線を消す」といった作業が全くできないのですよ。いや、別にできないわけではなく、そういう作業に対する考え方が、自宅の新しいバージョンでは変わってしまっているのです。つまり、全く同じことなのに、「罫線を引く」のではなく、「セルを分割する」というコマンドになっているんですよね。同様に「罫線を消す」は、「セルを結合する」に変わります。さらに、罫線の太さや色を変えるのも、別のツールが必要になってきます。
 結果的には全く同じことになるのですから、なぜこんなところでわざわざ手順を変えなければいけないのか、理解に苦しみます。というか、こんな基本的なことを変えるのは、決してバージョン・アップではないと思うのですがね。
 いや、それ以前に、本当に基本的なことが全くできないという欠陥を、この文書作成アプリは抱えているのです。これまでに、何度となく「バージョン・アップ」したものを使ってきましたが、それらは全て同じものを同じ状態でコピーするといった単純なことさえ、出来ないのですからね。
 「かいほうげん」で言うと、それぞれのページにはバックグラウンドとして色を付けていますが、これは今のプリンターでは端までベタで印刷することはできないので、わざと余白が出来るように、ページより小さめの図形を貼り付けています。それを、すべてのページに貼り付けてあるのですが、新しいファイルを作ってそこにその図形を貼り付けようとすると、1回目はちゃんと同じ場所になるのに、2回目以降は必ず右下にずれてコピーされるのです。これは、テキストボックスなども同じこと、ここではノンブルにテキストボックスを使っていますが、それをコピペしていちいち場所を修正するのはかなり煩わしい作業です。
 さらに、ここに作ったファイルを印刷用に一つにまとめる時にも、「挿入」という作業で別のファイルをコピーしていくのですが、その際に行内文字数などの書式が変わってしまうんですね。せっかくレイアウトを決めて作ったものが、コピーしたとたんにガタガタになってしまうんですよ。それを、いちいち修正しなければいけないんですから、たまりません。これに関しては前にも書きましたが、何度でも訴えたいですね。こういう欠陥をMicrosoftは知らないのでしょうかね。
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# by jurassic_oyaji | 2018-10-14 20:43 | 禁断 | Comments(0)
BERLIOZ/Grande Messe des Morts
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Bror Magnus Tødenes(Ten)
Edward Gardner/
4 Choirs, Eikanger-Bjørsvik Musikklang
Musicians from Bergen Philharmonic Youth Orch. and Crescendo
Bergen Philharmonic Orchestra
CHANDOS/CHSA 5219(hybrid SACD)


ベルリオーズのいわゆる「レクイエム」(正式には「死者のための大ミサ」)は、なんたってその楽器編成の凄さが抜きんでています。さらに、それぞれの楽器や合唱の人数などはその何倍にも増幅しても構わないと、スコアでは指示されていますからね。そして、この作品にはたった一人のソリストが「Sanctus」にのみ登場するのですが、それは「10人のテノール歌手がユニゾンで歌っても構わない」とまで書かれていますからね。
もちろん、現在コンサートで演奏する時には、そこまで膨らませた人数で演奏することはまずありませんが、ティンパニ奏者だけは最低でも10人必要とされています。さらに、コルネット、トランペット、トロンボーン、チューバ(自筆稿では「オフィクレイド」)によるバンダが4組用意されて、それぞれオーケストラと合唱がいる場所から離れた会場内の4ヵ所に配置される、という点だけは譲れませんから、金管楽器奏者も間違いなく大量に必要になってきます。
ですから、ステージ上のオーケストラの金管セクションはホルンだけ、ということになりますが、曲によってはバンダの出番がない時にそこに他の金管が加わることもあるので、何人かのプレーヤーはその時には移動してくるのでしょう。実際、今回のSACDのブックレットに載っているライブ録音の写真を見ると、金管のスペースだけ空いていることが分かります。
それと同じように、なんと合唱までが「移動」している写真がそのブックレットにありました。
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その他の写真では、合唱は普通にオーケストラの後ろにいますから、何かの曲の時だけこんな風にステージの最前面に来て歌っていたのでしょうね。楽譜ではこんな指定はしていないはず。
ですから、それがいったい何の曲だったのかを知りたいとは思いませんか?さいわい、このアルバムはSACDのマルチチャンネルが聴けるものですから、サラウンドで再生してみると、なんとなく合唱が前にいるのではないか、という音場が感じられるところが見つかりました。それは6曲目の「Lacrimosa」です。この曲にはバンダが出てきますから、オーケストラの金管がホルン以外はいないのも、それの裏付けにはなるでしょうか。さらに、この前の曲の「Quaerens me」は合唱だけのア・カペラで歌われますから、もしかしたらその時にすでにこの位置に移動していたのかもしれません。
そんな、一味違う演出を取り入れたのは、アンドリュー・リットンの後を継いで2015年からこのベルゲン・フィルの首席指揮者を務めているエドワード・ガードナーです。彼はこのCHANDOSレーベルに、このオーケストラとともにシェーンベルクの「グレの歌」も録音していますから、このような大編成の曲はお手の物なのでしょう。
このコンサートが行われた会場は、ベルゲンにある「グリーグ・ホール」というコンサートホールです。キャパは1500人ですが、ワンフロアなので客席の面積はかなり広くなっています。ステージも、オケ・ピットに相当する部分まで広げて、指揮者の後ろに広い空間を設けていますから、そこにさっきのように合唱が全員(150人程度)立つことが出来ます。
さらに、普通に合唱が立つ場所を作るために、後ろの反響版が下げてあり、横の反響版との間に隙間が出来るのでそこに2つのバンダが入ります。もう2つのバンダは、客席の真ん中を横切る通路の壁際にセットされています。これで、聴衆のほぼ半数は、完全なサラウンドを体験できることになります。
それと同じものを、このSACDでもしっかり味わえます。「Dies irae」や「Lacrimosa」でのスペクタクルな音場を知ってしまうと、もう普通のステレオでは物足りなくなってしまうことでしょう。
合唱は「エドヴァルド・グリーグ合唱団」など全部で4つの団体の集まりですが、なかなかまとまった声で楽しめます。とくに、頻繁に出てくる男声だけの部分が、とてもスマートに聴こえるのは、かなりのハイ・トーンを楽々と出しているからなのでしょう。

SACD Artwork © Chandos Record Ltd

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# by jurassic_oyaji | 2018-10-13 21:08 | 合唱 | Comments(0)
七夕でした
 定期演奏会もいよいよ本番が近付いて、プログラムの校正などという仕事が回ってくる時期になりました。それは、ゲラがPDFで送られてくるので、出先でもスマホを見ながら仕事が出来ます。ちょうど、それを受け取ったのが病院の検査待ちで時間を持て余している時でしたから、そのまま直しを入れてメールを送って終わってしまいましたよ。どこにいてもこんなことが簡単にできるようになったのですから、とても助かりますね。
 今回は私は何も書いておらず、曲目解説は新田さんに丸投げでした。ですから、その中で私が書いたものを引用されていたのは、なにかくすぐったい気持ちになりましたね。曲の中で使われているテーマの元となった歌のタイトルだって、英語のライナーノーツを見て適当に日本語に訳していたのですが、それをそのまま使っていただけましたからね。
 それで、最後の<参考資料>というところに、斯界の立派な資料に混じって、しっかり「かいほうげんNr.260」という名前がありましたからね。ただ、これでは読んだ人が何のことだかわからないだろうと思って、「かいほうげん(仙台ニューフィル会報)Nr.260」と直させていただきました。
 それと同時進行で、あたらしい、その「かいほうげん」の編集です。今回は、たっぷりの原稿が集まったので、私が書いた部分はとても少なくて済みました。なんたって、2人の方から、それぞれにエッセイが届いたのですからね。一人は久しぶりにJAO(日本アマチュアオーケストラ連盟)のフェスティバルに行ってきた方の体験記。もう一つはほぼ隔回に寄稿してくれる、コンサートの記録です。原稿はしっかりWordで送られてきましたから、量は多いものの編集は簡単でした。ただ、そこに、写真を入れるのにちょっと手間取りましたかね。そして、レイアウトが決まったところで、その写真をすこし飾ることになるのですが、その作業がとても時間がかかります。ただ、作業自体は決まったことのっ繰り返しですから、何も考えずにひたすらサイズを変えたり影を付けたりということを何十枚分も繰り返すだけです。これはさすがにスマホではできないので、HDDに入れたファイルを持ち運んで職場と自宅とでの作業になります。
 それも全部出来上がってページを数えてみると、やはりどうやっても16ページには収まらないので、今回も20ページになってしまいました。そして、あとは最初のページだけきちんと作ればほとんど出来上がりです。
 その最初のページは、だいぶ前からこの時期だったら来年秋の定期演奏会の指揮者が決まっているはずだ、と思って用意をしておきました。ところが、候補者選びに時間がかかってしまった上に、いつもの会場が軒並み取れず、そんな時のための萩ホールもかろうじて空いてはいるものの、使用可能かどうかが確定するまでには、結構時間がかかってしまいそうなので、どう頑張っても今回の発行時には間に合いそうもないのですね。ということで、今回の掲載は見送ることにしました。
 そうなると、今度は別のものを持ってきて最初のページを埋めなければいけません。それを今、一生懸命考えているところです。まあ、いくつか使えそうなネタはあるのですが、やはりトップページはそれなりの重みが欲しいところですから、たとえばこんな写真を使うわけにはいきませんからね。
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 いや、季節外れだ、というわけではなく・・・
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# by jurassic_oyaji | 2018-10-12 22:55 | Comments(0)
REICH/Drumming
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加藤訓子(Perc)
LINN/CKD 613(hybrid SACD)


加藤さんのLINNからのアルバム、毎回斬新なアイディアが込められていますが、ここではなんとライヒの「ドラミング」をたった一人で演奏しています。一本足ではありません(それは「フラミンゴ」)。まあ、これまでの彼女のライヒに対するアプローチを見てくれば、その可能性もありかな、という気はします。ただ、この作品で要求されているのは彼女の楽器である「打楽器」だけではなく、「ヴォーカル」や、さらには「ピッコロ」と「口笛」の演奏です。かなりのハードルの高さです。
ライヒが1971年に作った「ドラミング」は、全部で4つのパートに分かれている大作で、それぞれのパートで使われる楽器が変わります。最初のパートでは「調律された太鼓」という指定で、大小のボンゴをきっちりチューニングして使います。
このパートが、タイトルの「ドラミング」がそのまま演奏として行われている部分です。ここでは、4人の打楽器奏者だけが8個のボンゴを叩き続けるという、かなりストイックな情景が続きます。とは言っても、それはただ叩き続けるだけの単調なものではありません。一人一人は同じリズムパターンだけを叩いていますが、それが奏者ごとに微妙に「ズレて」行くというのが、ライヒの音楽の最大の魅力。8本のマレットによって叩き出される複雑に交錯したリズムと、それに伴って湧き上がってくる「メロディ」は、それまでの音楽の在り方に明確な風穴を開けるものだったのです。
さらに、この作品はボンゴだけのモノトーンの世界の中に、マリンバが入ってくることによって、色彩がガラリと変わります。最初はボンゴの後ろでかすかに聴こえてきたマリンバですが、それは次第に大きくなり、それに伴ってボンゴは徐々に消えていくという、一つの連続の中での「トランジション」が行われる場面、それは、聴いている者にとってはいったいいつの間に楽器が変わってしまったのだろうという不思議な感覚が湧いてくる瞬間となります。
それが、2番目のパートの始まり、そのころには、ボンゴを叩いていた人たちもマリンバのある場所に移ってきて、3台の楽器を9人の奏者が叩くことになります。さらに、このパートでは高い声と低い声の2人の女声ヴォーカリストが加わります。
同じように、3つ目のパートはマリンバからグロッケンへのトランジションによって始まります。ここでは、3台のグロッケンを5人の奏者が叩くとともに、一人は「口笛」をふき、さらに一人のピッコロ奏者が加わります。
そして、最後のパートにはすべての楽器の12人が全員参加して、一大スペクタクルが繰り広げられるのです。
そんな、とてつもなく複雑なことを、この録音では加藤さんが全部一人で行っているのですよ。もちろん、それは多重録音によるものですが、この音楽は言ってみれば「合わせない」音楽なのですから、普通に「一人ア・カペラ」のようなことを行うのとは全く異なる能力が必要になってくるのは明らかです。最後の方では、11人分の音を聴きながら、それに「合わせず」に、新たに別のリズムを刻むことになるのですからね。
それを、加藤さんはいとも楽しげにやってのけていたようです。しかも、ヴォーカルやピッコロまで、とても見事に演奏していました。ピッコロなどは、よくぞこんなにきっちりとした音が出せたものだと驚くばかりです。もしかしたら、うまくいったテイクをそのままサンプリングして使っていたのかもしれませんね。いずれにしても、これは世界で初めてこの作品を「一人だけで」録音したものとなりました。
そもそもこの録音は、ダンスとの共演でリアルタイムに演奏するために行われたものなのだそうです。一つのパートだけを抜いた「カラオケ」をバックに、一人で何種類もの楽器を叩き、歌い、それに合わせてダンサーが踊るというとんでもないことが、名古屋で行われていたんですね。
このアルバムが、サラウンドのSACDでリリースされたのも、日本国内だけなのだそうです。

SACD Artwork © Linn Records

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# by jurassic_oyaji | 2018-10-11 22:49 | 現代音楽 | Comments(0)