おやぢの部屋2
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MAYUZUMI/Bugaku, Mandala Symphony etc.
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湯浅卓雄/
New Zealand Symphony Orchestra
NAXOS/8.557693J



1966年、テレビ朝日がまだNET(日本エンタメテレビ、ではなく、日本教育テレビ!・・・本当ですよ)と言っていた頃に始まった「題名のない音楽会」は、作曲家の黛敏郎が司会を担当するだけではなく、企画の段階から彼自身、あるいは彼のブレーンが制作にタッチしていた、非常に高いレベルを持った音楽番組でした。黛といえば、政界、財界には幅広い人脈を誇っていたちょっと右寄りの論客、その影響力で、視聴率など気にすることなく、良質の企画を送り出すことが出来たのでしょう(黛の没後も現在まで続いている「題名のない音楽会21」、確かによく似た体裁を持ってはいますが、ほとんどアーティストのプロモーションの場に堕してしまっているこの番組は、当初のものとは全く別の姿に変貌してしまった、巷にあふれるバラエティと何ら変わらないものなのです)。
残念ながら、私たちが黛について知っているのは、この番組の司会者としての顔がほとんどで、本来の作曲家としての側面は、「涅槃交響曲」とか「『天地創造』の映画音楽」以外にはほとんど伝わっては来ません。事実、1970年以降は「右翼であることが災いとなって(黛)」ほとんど作曲の依頼がなく、必然的に寡作となってしまったのだと言われています。
予想以上の大ヒットとなっているNAXOSの「日本作曲家選輯」、今回は、そんな黛の初録音2曲(しかも、そのうちの1曲はこれが初演)を含む4曲が収録されています。その、今まで実際に音になったことすらなかったという、作曲家がまだ10代の時の作品「ルンバ・ラプソディ」を聴けば、彼が若くしてすでにオーケストラから芳醇な響きを導き出す技術に精通していたことが分かります。ほとんど天才的と言っていいそのセンスは、テレビで見られるとおりの「カッコ良さ」、ラヴェル、ストラヴィンスキーあたりの語法を完璧に手中にしたダイナミックはサウンドは、時代を超えた普遍性をもって迫ってきます。
「涅槃交響曲」で確立された彼独特の「日本的」な語り口、しかし、それ以後に作られた「舞楽」と「曼荼羅交響曲」をここで聴くことにより、彼の音楽の本質はやはり「カッコ良さ」にあるのではないかとの印象は強まります。「舞楽」で聴かれるのは雅楽の模倣、しかし、それは「春の祭典」を彷彿とさせる本編への導入にすぎないのです。「曼荼羅」でも、仏教的なテイストはちりばめられてはいるものの、圧倒的に印象を支配されるものと言えば、彼が留学したフランスのボキャブラリーです。そう、第2部にあたる「胎蔵界曼荼羅」の後半などは、何も知らずに聴いたらメシアンの未発表の曲だと思ってしまうほど、この、鳥の声を偏愛したフランスの作曲家の語彙に充ち満ちています。
黛の音楽の持つ感覚的な魅力を前面に押し出してくれた湯浅卓雄の指揮するニュージーランド交響楽団、その、しなやかでリッチなサウンドを聴いてしまえば、黛が後半生にほとんど曲を産まなかったことが、日本の作曲界にとって大きな損失であったという事実を、受け入れないわけにはいかなくなってしまうことでしょう。
by jurassic_oyaji | 2005-03-28 19:52 | 現代音楽 | Comments(0)