おやぢの部屋2
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チェロの森
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長谷川陽子著
時事通信社刊
ISBN978-4-7887-1068-9



日本を代表するチェリスト、長谷川陽子さんのエッセイが発売されました。その前半は彼女の生い立ちから現在に至るまでの歩みをつづった、いわば「自叙伝」、いつまでもお若いと思っていた彼女も、もうそのような過去を振り返るお年頃になったのでしょうか。熟女の年代へ、ようこそ。
しかし、それは単に今までのことを振り返るのではなく、これまでの自分の歩みを思い返す中から、将来の、更に充実した道を模索していきたい、という爽やかなスタンスを持ったものでした。一見、日本でのチェロ修行、そしてフィンランドへの留学と、なんの挫折もなくいともすんなりと成功を収めてきたように思えてしまいますが、その裏にあった苦悩などはほとんど感じさせないのは、彼女の思いやりのなせる業なのでしょう。そのような温かなまなざしは、彼女がこれまでに出会った人たちにも向けられています。中でも、二人の師匠、井上頼豊とアルト・ノラスへの思いは、とても美しく感じられます。さらに、そのまなざしが彼女の親族に向けられた時、読者は彼女のとびぬけて恵まれた境遇に、驚きを隠せないはずです。この本の表紙を飾っている肖像画は、母方の祖父である日本画家、加藤晨明が描いたもの、少女の凛とした表情と、彼女が奏でる、まさに音が響いているかのようにデフォルメされたチェロからは、なんという愛情が感じられることでしょう。父方の祖父の長谷川英三も、音楽にも造詣が深い高名な建築家です。そして、彼女の父親が、音楽評論家の長谷川武久だということも、初めて知りました。ここで描かれている、父親の娘に対するさりげない思いやりにも、心を打たれます。
実は長谷川さんとは、今から20年近く前、実際に共演する機会がありました。いえ、「共演」とは言っても、こちらはアマチュア・オーケストラのメンバーとしてドヴォルジャークのチェロ協奏曲のバックを務めた、というだけのことなのですがね。
それは、さる自動車メーカーのメセナの一環で当時頻繁に行われていた冠コンサートでした。指揮者とソリストを用意してくれて、そのギャラもすべて賄ってくれるというおいしい企画です。当初はチェロのソリストとして藤原真理さんが予定されていましたが、なぜかその予定が変わってしまって、代わりに「派遣」されてきたのが長谷川さんだったのです。当時、1992年という年は、長谷川さんがフィンランドのシベリウス音楽院を卒業し、いよいよ本格的にソリストとして活動しようという時期でした。しかし、まだまだ「駆け出し」という印象はぬぐえず、それが決まった時には正直がっかりしたものです。本番の前の日に我々の前に現れた彼女は、なんとも初々しい「お嬢さん」にしか見えませんでしたしね。タートルネックのセーターにチェックのスカートというおとなしい服装、首からは大きめのペンダントをぶら下げていたでしょうか。しかし、チェロを弾くのには邪魔になるのか、彼女はそのペンダントをやおら背中の方に回してしまいました。まるで、なにか気合を入れるようなその動作に続いて始まった演奏は、まさに度肝を抜かれるものでした。それは、なんという力強さ、そしてなんという繊細さを持っていたことでしょう。
実は、その時にあてがわれた指揮者は、なにか言動が屈折していて、ねちっこい態度を示す人でした。少しでもミスをしようものなら、容赦なく罵声が飛び交います。その指揮者の悪態は、信じられないことに、演奏会後の打ち上げの場でも続いていました。そんな嫌な空気を一掃してくれたのが、長谷川さんだったのです。指揮者の後であいさつに立った彼女は、「K分先生(指揮者)がムチだったので、私はアメになりましょう」とおっしゃって、見事にその場を和ませてくれたのです。そんな優しい気配りのバックグラウンドを、18年も経ってからやっと知ることが出来ました。

Book Artwork © Jiji Tsushinsha
by jurassic_oyaji | 2010-12-05 22:57 | 書籍 | Comments(0)