おやぢの部屋2
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MAHLER/Symphony No.2 'Resurrection'
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Adriana Kucerova(Sop)
Christianne Stotijn(MS)
Vladimir Jurowski/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0054




あの震災以来、巷には「復旧」や「復興」という言葉が踊っています。被災地にとって、これらの言葉は一つの目標となるものなのでしょうが、その実現の前に立ちはだかる幾重ものハードルは、時として絶望的な気持ちを呼び起こすものでしかありません。私たちが迷いなくこれらの言葉にしたがっていけるような環境を整えることが、実はそれらの言葉を連呼する以前に必要だということに気が付いていない人たちが、あまりにも多すぎるような気がしませんか?
マーラーが「復活」交響曲を作った時には、まさかこのような事態を想定していたなどということは考えられません。しかし、そのタイトルだけに注目してこの曲を「復興」の意味を込めて演奏する、という場面には、これからはさぞ頻繁に出会えることでしょう。確かに、長々と「葬礼」やら「最後の審判」やらの描写が続いた後に、合唱によって歌われる「復活」のコラールは、なんと感動的なものでしょう。少なくともベートーヴェンの「第9」ほどノーテンキではないその深刻さには、もしかしたら涙さえ浮かべる人だっているかもしれません。
そのような「効用」を狙ってのことでは、もちろんないのでしょうが、このところ立て続けに「復活」のアルバムがリリースされています。今回のユロフスキ盤(2009年9月録音)と、OEHMSから出たシュテンツ盤(201010月録音)です。録音されたのはいずれも震災前ですから、これは全くの偶然に違いありませんが、どちらのレーベルも日本での販売元は同じ、そこには何らかの「意思(=思惑)」が働いているのでは、と考えるのもあながち見当外れではないはずです。
はたして、そんな目論見はあたっているのか、実際に聴いてみて検証です。
ユロフスキの「復活」は、なんともマーラーらしくない自信に満ちた表情で始まりました。冒頭の弦楽器のトレモロは、まるでワーグナーの「ワルキューレ」の前奏曲のように聞こえます。それは、確か「嵐」を表現したものだったはず、そのひたすら攻撃的な表現からは、マーラーならば必ず備わっているはずの「はかなさ」は全く感じ取ることは出来ませんでした。これは、あたかも力ずくで全てを奪い去ってしまった「津波」そのものではありませんか。そのあと、トゥッティで現れる「ドッ、シラッ、ソファッ、ミレッ、ド」という下降音型などは、瓦礫を撤去する勇ましい重機の描写のようには聞こえませんか?こんなものを被災者に聴かせるには、勇気が必要。
第2楽章は、うってかわって平穏なたたずまいが広がります。しかし、このユロフスキの仕上げはなんと作為的な滑らかさに満ちていることでしょう。これを聴いて、なぜかブルース・ウィリスが主演した映画「サロゲート」に出てくるとても美しいのだけれどのっぺりしていて味わいに乏しいロボットの顔を思い出していました。あまりの甘美さに少しうとうとしたりすれば、第3楽章のまさにサプライズでしかないティンパニの轟音で、目を覚まさざるを得なくなります。
そんな風に、音自体はとても明瞭で豊かな響きなのに、なにか不自然なところのある演奏は続きます。「原光」で聞こえてくるメゾ・ソプラノの深い声だけが、そんな中での唯一の救いでしょうか。そして、いよいよ「復活」たる所以の合唱が始まります。しかし、いたずらに弱音にこだわり、ピュアと言うにはほど遠い濁った響きの合唱からは、なんの緊張感も味わうことは出来ません。しかも、オルガンも加わって高らかに歌い上げられるはずの最後のクライマックスでは、CDの悲しさ、ピークが一目盛り下がってしまって、せっかくの高揚感が損なわれてしまいました。嘘でもいいから、ここだけは盛り上げて欲しかったのに。
残念ながら、このCDは到底「復興」の役には立ちそうにありません。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd
by jurassic_oyaji | 2011-06-28 23:24 | オーケストラ | Comments(0)