Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/60 100もはや新譜ではないのですが、この前ご紹介した
ミスリヴェチェクの「受難曲」との関連で、取り上げることになりました。メタスタージョのテキストによる受難曲ということで、クリストフ・シュペリングが体系的に掘り起こしを行っているプロジェクトの、これは最初に手がけられたものになります。録音されたのは、ミスリヴェチェクのほんの
10ヶ月前ですから、まあ、新譜のようなものでしょうし。
ミスリヴェチェクのものから6年ほど後に作られたこの作品、もちろんテキストは一緒ですから、曲の構成は殆ど変わりません。ただ、物語を進行するペテロがテノール、アリマテアのヨセフがバスによって歌われることで、ソリストがきちんと4声揃うことになり、それぞれのキャラクターがはっきりしてきています。音楽的な内容も、無意味なコロラトゥーラやカデンツァなどが少し減って、より、物語に即したアリアに変わってきているな、という印象はあります。しかし、これはあくまで作曲家個人の趣味の問題、時代様式的には殆ど変わらないと見て差し支えないでしょう。
サリエリという人、どうしても中華料理(それは「
エビチリ」)、ではなく、「アマデウス」のイメージが強いものですから、あの映画でF・マーリー・エイブラハムが演じたキャラクターが思い起こされてしまいます。あそこでトム・ハルスが演じたモーツァルトとは、かなり年が離れているような印象があって、子供相手に嫉妬を抱くなんて大人げない、などと思っていたのですが、実際には年齢は6歳しか違わなかったのですね。ですから、作曲を始めたのは、本当は小さい頃からやっていたモーツァルトの方が先だったことにもなるわけです。というより、あの精神病院のシーンで懺悔を聞くためにやってきた神父の、「モーツァルトの曲は誰でも知っているが、サリエリの曲を知っている人などいない」という認識を、一般通念として固定化してしまったことの方が、問題なわけです。私もそんなに多く彼の作品を聴いたわけではありませんが、以前の
「レクイエム」やこの作品を聴くにつけ、彼の作品がメジャーにならなかったのはあくまでチャンスがなかっただけのことで、「質」という点からはモーツァルトに何ら引けを取るものではないという印象を強くしています。この曲に見られる数々のアリアは、それは魅力的なもの、1度聴いただけで好きになってしまえるものも多くあります。中でも、最初のペテロのアリアのような短調で作られている曲のちょっと俗っぽいテイストは、現代においても十分通用するような「ツボ」を刺激されるものです。
ミスリヴェチェクの時に苦言を呈した合唱ですが、ここでは見違えるような素晴らしさ、メンバーを見てみると、各パート7人ほどの中で、同じ人は1人か2人、固定化されていないことから、ムラが出てしまったのでしょうか。ソリストもこちらの方がワンランク上、特にバスのミューラー・ブラックマンのドラマティックな歌いっぷりが印象的です。さらに、最初の序曲から生き生きとした情感をたっぷり披露してくれるオーケストラ、アリアの伴奏でも、とことん積極的な表現で歌手を食ってしまうほどの場面もあって、この知られざる曲から精一杯の魅力を引き出そうとする気持ちがヒシヒシと伝わってきます。確かに、この演奏を聴けば、サリエリのことをモーツァルトにはとても及びも付かない凡庸な作曲家だなどとは、誰も思わなくなることでしょう。とは言っても、来年はまたもや「生誕
250年」で盛り上がりそうな兆し、世界中の音楽業界が結託して持ち上げる「モーツァルト・ブランド」を覆すのは、容易なことではありません。