「レコード芸術」の5月号が発売になりました。相も変らぬ「名曲名盤500」などという愚にもつかないトップ記事でげんなりさせられてしばらく行ったところに、今はもう廃盤処分になっているはずの佐村河内守の「HIROSHIMA」のジャケットが目についた時には、目を疑ってしまいました。
それは、この雑誌に連載されている長木誠司氏のコラムだったのですが、そこでは読むに堪えないほどの醜悪な文章にお目にかかってしまったのです。ご存じのように、長木氏はこのアルバムにライナーノーツを寄せています。言ってみれば「現代音楽」のオーソリティである氏がライナーを書くということは、このアルバムに「現代音楽」的な側面からの箔付けをして、販売促進に加担することを意味します。以前、
「禁断」に書いたように、佐村河内守があんなことになってしまっては、その「犯罪」に加担した長木氏は、たとえそれが純粋に音楽的な意味の行為だったとしても、これは相当恥かしいことだったはずです。普通に考えれば、氏の現在の職を追われても仕方な無いほどの、いわば「風評被害」にさらされても当然のことです。しかし、この文章は、別に「世間」に対してお詫びをしているものではなく、徹頭徹尾、自らが書いたライナーを、詭弁を多用してひたすら擁護しているものに過ぎませんでした。つまり、氏が御神輿を担いだ張本人が記者会見で見せた「逆切れ」と全く同じ種類の、およそ程度の低い、もっと言えば恥知らずの自己弁護でしかなかったのです。
その骨子は、今の「現代音楽」のシーンでは、この作品のような「パスティッシュ」の手法は広く用いられているのだから、この作品の価値は誰が作ったとしてもしっかり認められる、というものです。それは、この事件の後に巻き起こった、「曲自体は『感動』を与えてくれるものなのだから、抹殺されるのはしのびない」という、無垢なクラシック・ファンの声を、「専門家」の立場から「理論武装」しているもののようにも見えます。しかし、そんなお粗末なロジックは、公開されたあの落書きみたいな「指示書」を見れば、もろくも崩れ去ってしまうはずです。佐村河内守には、氏が期待したような「現代音楽」のセンスなどは全くありませんでした。もちろん、新垣隆にしても、その「指示」に忠実に仕事をしただけで、そこからはたとえ「パスティッシュ」だとしても、まっとうな作品には必ず存在するはずの「オリジナリティ」などは微塵も認めることはできません。そもそも、かつて、まさに「パスティッシュ」に堕してしまったペンデレツキを「もう終わった作曲家」と評していた氏が、それ以下の出来でしかないこの作品を、なぜこれほど持ち上げるのか、到底理解不能です。
まあ、そのあたりは単なる整合性のなさ(「ボケ」とも言う)で片づけられる罪のないものですが、このコラムの最後で、あの事件の発端の一つとなった野口剛夫氏(実名は出していませんが、間違いなく野口氏のことです)の文章に対して「マイノリティに対するこれほどの不作法はない」と言いきっているのを見ると、情けなくなってしまいます。これは、自己弁護のためなら、自説に不利なものはなんとしても貶めようという、それこそ「不作法」そのものの論法であることに、氏は気付いていないのでしょう。この野口氏の文章を読みなおしてみましたが、これのどこが「マイノリティに対する不作法」なのか、私には全く分かりませんでした。長木氏こそ、評論家としてはすでに「終わって」いるのですよ。
「レコード芸術」は、
先月号でもほとんど「言い訳」でしかない告知を出していましたね。以前から感じていたこの雑誌の正体は、ここにきてはっきりしました。実際、毎月買ってはみるものの、まともに読める記事などほとんどなくなってしまっていますから、もはやこの雑誌は資料としての価値すらなくなってしまっています。そこにきて、こんなしょうもない文章を5ページにもわたって堂々と掲載するなんて、この雑誌は長木氏と心中でもするつもりなのでしょうか。いずれにしても、この雑誌が、ジャーナリズムの道から外れてどんどん堕ちて行ってしまうのに付き合うほど、無神経ではありませんから、けさTSUTAYAに行って、定期購読の契約を解除してきました。もう、書店で見かけても立ち読みしようという気にすらならないでしょうね。そう、この雑誌もまた、音楽情報誌としてはすでに「終わって」いるのです。