おやぢの部屋2
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モーツァルトと東野圭吾
 丸1日オフになった時には映画、でしょうが、「テルマエ・ロマエII」でも見ようかと時間を調べていたら、なんと「コジ」が始まっていたではありませんか。「ゴジラ」じゃないですよ、METライブビューイングの「コジ・ファン・トゥッテ」。これを見ない手はありませんから、早々に家事を片づけてMOVIX仙台に向かいます。
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 久しぶりに行ったら、チケットカウンターの前にお客さんを向いたモニターが設置してありました。これで、空席を自分で指定できるようになったんですね。これは便利、と言っても、私は後と前を間違えて見てしまったので、危うくスクリーンの真ん前の席を買ってしまうところでした。本当は一番後ろ、しかし、今回はモーツァルトということもあって、この前のように両側が空席のところなんかは全然ありませんでしたよ。入ってみると、4番シアターの後ろ半分はほぼ満席、しかも、高齢者がかなりいます。
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 音は相変わらずの高音が頭打ちの、ハイレゾには程遠いもの、おそらくこれは再生装置のせいでしょう。それと、前回同様、5.1サラウンドのはずなのに、リアスピーカーからは全く音が出ていません。こんなオペラ・ブッファこそ、客席の拍手や歓声に包まれて聴きたいものだというのに。
 指揮者は、何かと健康状態が危惧されているレヴァイン。椅子に座ったままの指揮、おそらく立ち上がることも出来ないのでしょう、拍手を受ける時も椅子を客席の方に回すだけでした。オケはフルート、オーボエ、ホルンがアップになりましたが、フルートはブリアコフでしたね。レヴァインはとても病み上がりとは思えない、はつらつとしたモーツァルトを聴かせてくれていました。
 キャストは、聴いたことのある人はデスピーナのデ・ニースだけ、あとは、ほんとに若手の人で固められていました。特に、姉妹の2人がとても素敵な声、メゾのイザベル・レナードはルックスもいいし、これからブレイクするのではないでしょうか。男声2人もなかなかしっかりした人たちですが、ソロになるとちょっと物足りないところが残ります。演出はレスリー・ケーニッヒ、それこそミヒャエル・ハンペみたいなオーソドックス路線、エンディングも台本そのままという物足りなさです。しかし、ここでは衣装がそれを補っていました。チラシにあるように、姉妹は最初は殆ど同じと言って良いほど似たドレスだったものが、シーンが変わるたびにだんだん違いが増してくるという仕掛け。これは、男性に対する気持ちが最初はお互い全く同じだったものが、次第に片方が心情的に浮気を許し、ついには実際に浮気を行ってしまうという、姉妹間の「浮気感」のズレが次第に大きくなって行くことのメタファーだったはずです。
 デ・ニースを見るのは久しぶりでしたが、声も落ち着きを増し、演技もますます充実してきましたね。それだけ、他の人たちのようにはレヴァインの音楽の中に収まりきらない、自分の芸風が確立されているようでした。それにしても、この人、まるでマイケル・ジャクソンのように見えるのは、なぜでしょう。
 見損なった「テルマエ」は、時空のパラドックスがテーマの作品でしたが、この間読んだ東野圭吾の、その名も「パラドックス13」も、同じテーマで、もっとシリアスに迫ります。この前ちょっと書いたように、2009年に出版されたにしては、まさに2011年の大震災を予見したようなリアリティあふれる描写に驚かされます。間違いなく、これは2、3年前に文庫化されていたら、出版社の見識が疑われるものとなっていたはずです。今読んでも、ちょっと辛くなる人も多いのではないでしょうか。もちろん、東野さんの場合はそれだけで終わらないところがさすがです。そのような極限状態に置かれた人間の葛藤は、言わばこのままだと間違いなく起こりうる「大災害」のシミュレーションでしょうか。そして、この長ったらしいサバイバル・ゲームの最後にはきちんと「救い」が残されていますから、「金返せ!」ということにだけはならないはずです。
by jurassic_oyaji | 2014-05-25 19:52 | 禁断 | Comments(0)