おやぢの部屋2
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舞台は2011年の福島
 最近読んだ文庫本です。というか、私は小説類はハードカバーを買って読むという習慣はないので、どんなに読みたい本でも文庫になるまで待ってから読むタイプです。この3人は、文庫本はほぼ全部読破してしまったので、新刊が出ればまず買いますね。なんたって、読んで裏切られることはないという安心感がありますから。
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 近藤史恵の「スーツケースの半分は」は、短編集。ただし、それぞれの物語は共通のものでしっかりつながりを持っているという仕掛けがあるのは、彼女ならでは。ですから、主人公は「スーツケース」ということになるのでしょうね。表紙にもあるように、キャスターとハンドルが付いていて持ち運びが便利なカバンのことなのでしょう。でも、私あたりは「スーツケース」というとこれとは全く別のタイプのカバンを連想してしまいますからね。ですから、これは「キャリングケース」と言ってほしいものです。あと、昔は「ボストンバッグ」と言っていたカバンは、今は何と呼ばれているのでしょう。
 そんなツッコミは、この心地よい短編集にはどうでもいいことでした。要は、その「スーツケース」が多くの人の手に渡って行った時に、その人がどうなるのか、ということを、とても慈愛に満ちた筆致で語っていることの方が大事ですからね。そこにはちょっと苦いエピソードも登場しますが、それも含めて心が温かくなる本です。
 次の中山七里の「アポロンの嘲笑」は、そんなのんきなことは言ってられない、かなりヘビーな内容ですから、読むにあたっては覚悟が必要でしょう。一応はミステリー仕立て、この作者らしく最後になってそれが明かされるというパターンは変わりませんが、その中で描かれるまわりの状況が悲惨すぎます。もちろん、作者はそこに強烈なメッセージを込めていたのでしょうが、今となってはそのメッセージすらも色あせて感じられてしまうという事実の方が、とても悲しく思えてしまいます。
 つまり、あの頃は確かに大多数の人たちが抱いていたはずの思いを、克明に再現しているのに、それが「そんなこともあったんだね」という、まさに単なる「物語」にしか感じられないという、この今の状況が、とても歯がゆいんですね。
 そういう意味で、あれだけのことがたった7年で全く現実味を失ってしまったと感じさせるのが、もしかしたらこの本が目指したものだったのではないかとすら、思えてしまいます。
 これなんかは、映画にしたらどんだけすごいものが出来るのか、という気がしますが、まあそんなことは絶対にないでしょうね。
 東野圭吾の「人魚の眠る家」は、最初はストーリーがいったいどこへ向かっているのか全く分からない感じでした。読み進んでいくうちに、あることに対する価値観が全く変わってしまうことになってしまうのも、ちょっとついていきにくいところがありましたね。確かに、いつものようにそれぞれの人物の細かい心情などは丹念に描いてはいるものの、なにかテーマが上っ面だけのもののように思えてしまいます。まあ、たくさんの作品の中には、こんな、はっきり言って駄作もあるのだなあ、というところでしょうか。まあ、こういうこともあるので、文庫本しか買わないんですけどね。
 そういえば、前回のマンガの話ですが、あの時代には確かにスクリーントーンは漫画家の必需品だったのでしょうが、いまではそんなものは使わなくなってるんでしょうね。そもそも、ペンで紙に描く、なんてことは、もう今ではほとんどやられていないのでしょう。この間手塚治虫賞をとった、あの芸人の人ですら、ペンタブレットで描いていましたからね。
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by jurassic_oyaji | 2018-06-15 22:02 | 禁断 | Comments(0)