連休の最大の目標、ニューフィルの定期演奏会の写真のネットへのアップが完了しました。いつものように、公式サイトの日程表の一番下からリンクされていますから、チェックしてみてください。認証は、掲示板と同じものです。特に団員以外でここを見てもらいたい人のためには、別のパスワード等を用意してありますので、それは掲示板でご覧になってください。篠崎さんにそれを教えてあげたら、とても喜んでおられ、近々の共演を楽しみにされているということでした。
そして、母が亡くなって、もう5ヶ月近くが経ってしまいましたが、きのうは故人の部屋にあった、もう使うことのない箪笥などの大きなものを、妹夫婦がトラックに載せて粗大ゴミとして葛岡まで持って行ってくれたので、住んでいた部屋はすっかり片付いてしまいました。遺産相続の手続きなどもやっと終わって、これで一区切りがついたことになります。
余談ですが、その葛岡にあるゴミを焼却する施設のことを「葛岡工場」というのだそうですが、これには強烈な違和感を持ってしまいます。やはり、「工場」というからには、なにか「製品」を作ってもらいたいものだと思うのですけどね。
そんな母に関する様々な手続きの最初のものが、死亡診断書を書いてもらうことだったのですが、それを受け取った時に弟が「字が違っている」と言い出したのです。戸籍では
こういう字で表記されている名前だったのですが、その死亡診断書では
という字になっていたのです。実際は、これは単にフォントが違っているだけで、文字そのものは全く同じものなのですが、「しめすへん」が「ネ」なのか「示」なのかというのはこういう書類の場合は大きな問題になっていたことに、弟は職業柄実際に遭遇したことがあって非常に敏感になっていたのです。最悪、死亡診断書がその効力を失うこともあったりするのだと。
そのことを病院側に伝えたら、結局同じフォントはPCでは見つからなかったようで、この字だけ手書きの診断書を書いてもらうことになりました。本当に、人の名前は一生、いや、死んだ後もしっかりついて回るものなんですね。
そんなことがあったものですから、今回「時代の名前」という、ひょっとしたら個人の名前よりももっと重要だと考える人もいるかもしれないものが、そのフォントに関してはかなりアバウトな扱いを受けているのが、とても不思議に思えてきました。こういうものは、それこそ、「一点一画」もおろそかにしてはいけないと思うのですが、あの「令」という字の、特に最後の画の扱いに関するあまりのいい加減さには、本当に大丈夫なのかな、と思ってしまいます。
なんたって
ちょっとネットで拾っただけでも、こんだけの「異なった」姿の「令」が見つかってしまうのですからね。
まあ、私が個人的に感じるのは、一番下のものが、これまで「命令」や「法令」などで見慣れた「令」の字に一番近い雰囲気を持っているような気がしますね。この、さいごがしっかり「トメ」で終わっているのが、なんとも「命令」のような他人に有無を言わせないような力を持っています。ですから、残念ながらこの字から「美しい」という感覚を得るのは非常に困難になってきます。
一番上のものが、おそらくオフィシャルなフォントなのでしょうね。でも、これは「分」という文字に見えて仕方がありません。「分和」というのは、仲よくしようとしている人を別れ別れにさせてしまうということでしょうかね。あと、真ん中の2つは「今」に見えませんか?「今和」だと、今は仲よくしていても、この先はどうなるかわからない、というニュアンスが漂いますね。
「昭和」とか「平成」では、そんなことは全く考えたことがなかったのに、なぜ今回はこんな紛らわしい字を使うことになってしまったのでしょうね。でも、なんにでも「令和最初の~」と言ったりするブームはそんなに長続きはしませんから、そのうちこの「美しくない」文字を目にすることも自然になくなっていくことでしょう。そうなった時が、本当の「新しい時代」の始まりです。