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MOZART/Great Mass in C Minor
MOZART/Great Mass in C Minor_c0039487_16044026.jpg

Camilla Tilling(Sop)
Sarah Connolly(Sop)
Paul MacCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/00289 277 5744
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1059(国内盤 1/25発売予定)


モーツァルトの「ハ短調大ミサ」は、彼の宗教曲の中では「レクイエム」に次いで人気のある曲ではないでしょうか。「大ミサ」と言うだけあって、オーケストラの編成も大きく、なにより合唱の規模が最大8声部と、大人数が必要になって、なかなか盛り上がる曲です。こういう人気曲が揃いも揃って未完である、というのが面白いところ、もちろん、こちらの場合はまだ作曲者はピンピンしていましたから、最後まで仕上げなかったのはその必要がなくなったからであって、健康上の理由ではありませんでしたがね。
そんなわけで、「未完」の曲を演奏する際には、色々の方法が出てくるわけで、それぞれの主張に沿った「版」が存在するのも、「レクイエム」と同じことです。「ランドン版」、「バイヤー版」、「モーンダー版」、そして最近出来た「レヴィン版」と、どこかで聞いたことのあるような名前が、「ハ短調ミサ」業界を賑わすことになるのです。いうまでもありませんが、ここには「ジュスマイヤー版」は存在しません。
マクリーシュがここで採用したのは、「モーンダー版」。今まで、この版での演奏はホグウッドとパロットのものしかありませんでしたが、こういうクセの強いマイナーなものは、マクリーシュのセンスには合っていたのでしょう。「レクイエム」のモーンダー版同様、あくまでモーツァルト自身が作ったもの以外は認めない、という頑なな態度は、ここでも貫かれています。ただ、自筆稿以外にも演奏された時の楽譜なども参考にして、「修復」を行った、というのがユニークな点です。一つの標準である新全集として出版されたエーダー版との一番の違いは、「クレド」に金管とティンパニが追加されたこと。華やかな曲調が一層強調されることになりました。
バッハあたりでは合唱は「1パート1人」などという挑戦的なことを実践していたマクリーシュですが、モーツァルトでは、幸い、そんなことはやらないでくれました。全部で30人程度の人数は、オーケストラとのバランスから言っても過不足のないところでしょう。複雑なフーガのメリスマなど、技術的には安心して聴いていられるものがあります。しかし、残念ながら、女声パートのまとまりなどは、今のイギリスの常設の合唱団の水準には到底及ばないものであることは認めないわけにはいかないでしょう。ただ、オーケストラも含め、こんなちょっと「雑」な感じは、もしかしたらマクリーシュの趣味なのかもしれませんから、一概に決めつけることは出来ないでしょうが。
その「趣味」を認めれば、ティリングとコノリーという2人のソプラノソロの起用も、ある程度理解できるかもしれません。高音はとても立派なのに低音は全く使い物にならないというのと、リズム感の欠如という大きな欠点をもつティリングと、コロラトゥーラがとてもお粗末なコノリーは、普通の趣味でしたらこういう様式を持つモーツァルトの演奏には使わないと思うのですが。ティリングの歌う「クレド」の2曲目、「エト・インカルナトゥス・エスト」などは、素朴なオリジナルの木管楽器とは全く溶け合わない立派な声だけが、異常に目立って聞こえてしまうアンバランスなものでした。
ただ、カップリングとして収録されているハイドンとベートーヴェンのソロカンタータでは、この2人はまるで水を得た魚のように生き生きとした、ドラマティックな歌を披露してくれています。「『シェーナ』と『アリア』」という、殆どオペラの1場面を切り取ったような劇的な作品、マクリーシュはこういう音楽と共通するセンスをモーツァルトのこのミサの中に痒い目で(それは「麦粒腫」・・・仙台では「バカ」と言います)見出したということを、強調したかったのでしょうか。

by jurassic_oyaji | 2005-11-30 20:21 | 合唱 | Comments(0)