おやぢの部屋2
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MOZART/Flute Concertos
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Severino Gazzelloni(Fl)
Bruno Canino(Cem)
山岡重信/
カメラータ・アカデミカ東京
BMG
ジャパン/BVCC-37456/57


先日、テレビでバッハの「ロ短調ミサ」の演奏会の模様を見ました。それは、バッハが晩年を過ごしたライプチッヒの、その彼の職場であるトマス教会でのもの。そこで演奏していたのは、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバー、もちろん、全員モダン楽器を使っています。このミサ曲の中には、フルートによるオブリガートが入るナンバーがいくつかあります。その中の一つ、「グローリア」の4曲目、「Domine Deus」で、その女性奏者のソロが始まった時、私はしばし、そこで何が起こっているのか把握できなくなってしまいました。確かにそれはフルートという楽器によって演奏されているのですが、出てきた音はおよそフルートとは異なったものだったのです。最近はもっぱらオリジナル楽器で演奏されたものを聴く事が多くなってしまいましたからなおさらなのでしょうが、フルートが本来持っていたはずのまろやかな音色はそこからは全く聴き取ることは出来ませんでした。
もしかしたら、そこで聞こえてきた音は、モダンオーケストラの中でのフルートとしては、理想的なものだったのかもしれません。木管楽器の中で唯一リードを持たないフルートという楽器は、どうしても他の楽器よりはバランス的に弱いものと受け取られがち、現実に、そのような処理を施す作曲家もいます。しかし、実際のモダンフルートは、そんな柔なものではないことは、この楽器の卓越した奏者であれば知っています。それは、リード楽器とも充分に拮抗しうる強さを持った楽器なのですから。現代のオーケストラでは、そのような意識を持って精進した結果、この女性奏者のようなとてつもなく張りのある音を獲得したフルーティストが、求められるようになっているのです。
しかし、バッハに関しては、もっと柔らかい音で、それこそトラベルソのような感触の演奏を、同じモダン楽器を使って行える人もいます。それだけ、この楽器の表現の幅が大きいという事なのでしょう。
セヴェリーノ・ガッツェローニという往年のフルーティストが、1973年と1975年に来日した際に日本人のスタッフの手によって録音された2枚のLPが、この度CDとなって復刻されました。この30年前の録音を改めて聴いた時に、先ほどのフルートという楽器の持つ表現力の大きさというものを、はからずも再確認させられることになろうとは。
ガッツェローニという人は、同じ時代の新しい作品にかけては定評のあったフルーティストです。「現代音楽」シーンで、彼によって命を吹き込まれた作品は数知れません。そのような、特殊な奏法や敢えてカンタービレを廃した表現がつい表に出てしまうという彼の印象からは、ここで演奏しているモーツァルトやヘンデルはやや期待はずれ、というか、あまりにも真摯な「フルーティスト」が前面に現れているので驚いてしまうほどです。それは、フルートという楽器をとことん鳴らし切ったもの、そこからは、さっきのバッハとは違った意味でこの楽器の可能性を最大限に追求したプレイヤーの姿を見ることが出来るのです。その魅力を最もよく味わえるのが低音域。よくある、倍音を沢山加えて無理矢理響きを作るものではなく、殆ど基音しか含まれていないような恐ろしく純粋な音にもかかわらず、豊かな響きが発散されているという低音です。彼が、これほどの素晴らしい音の持ち主だったとは、「現代音楽」だけを聴いていたのでは到底分からないことでした。
ただ、細かい音符の処理には難があったり、華麗さにはほど遠いテクニックであるのが、残念なところ。もちろん、その「響きすぎる」音は、例えばヘンデルあたりでは、昨今の趣味とは全くかけ離れているため、広く受け入れられることはないでしょう。このような、ある種「モンスター」がいたことの記録としてのみ、手元に置いておく価値を見いだせるはずです。あるいはペットとしてとか(それは「ハムスター」)。
by jurassic_oyaji | 2005-12-02 20:43 | フルート | Comments(0)