おやぢの部屋2
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GOTTWALD/Transkriptionen
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Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
CARUS/83.181



お馴染み、クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲作品だけを集めたアルバムです。ここで演奏しているクリードとシュトゥットガルト・ヴォーカルアンサンブルが録音したゴットヴァルトというと、半年ほど前にご紹介したこちらのアルバムを思い出す方もいらっしゃることでしょう。実は、この中にはそこに含まれていたのとまったく同じ曲目も収録されています。特に最後のマーラーの「私はこの世に見捨てられ」は教会でのライブ録音ですから、もしかしたら同じ音源?と思ってしまうのは当然のことです。ただ、表示されている演奏時間がずいぶん違っています。しかし、聴き比べてみるとこれは全く同じもの、HÄNSSLER盤では拍手が入っていて、その分長くカウントされていた、というだけのことでした。もう2曲、ヴァーグナーの「ヴェーゼンドンク」からの曲も同じ音源、「温室で」の演奏時間が双方で異なっているのは、CARUS盤の単なるミスプリントです。
プロデューサーやエンジニアを比べてみても、この2枚の間には共通点が見られます。そもそもSWRが録音したものを「共同制作」という形で2つのレーベルに振り分けたものなのでしょう。HÄNSSLERはもちろんこの放送局とは密接な関係にありますし、CARUSの方はゴットヴァルトの楽譜を出版している、というつながりなのでしょう。もちろん、どちらのレーベルも本拠地はシュトゥットガルトですし。
その、「相互乗り入れ」を行っている曲を除いたドビュッシー、ラヴェル、カプレ、メシアンというフランスもの、そしてベルク、ホリガーというドイツものの編曲は、ほとんどが世界初録音となっています。1985年に作られた先ほどのマーラーの編曲が、今ではしっかり合唱団のレパートリーとして定着しているように、ゴットヴァルトが作り上げた多声部の無伴奏合唱による宇宙は、特異な存在感を主張して確固たる地位を築き上げました。ここで、その最新の成果に触れられる幸せは、例えばリゲティの「ルクス・エテルナ」を聴いて「イケテルナ」と、その魅力に取り憑かれた人にとっては何にも替えがたいものがあるはずです。
新しい地平を拓く、という意味で最も注目に値するのは、メシアンの「イエズスの永遠性に対する頌歌」ではないでしょうか。これは、ご存じ「世の(時の)終わりのための四重奏曲」の第5曲目、チェロとピアノによって演奏されるあの瞑想的な曲です。ピアノが刻むパルスをバックに、チェロが流れるようなゆったりとした無限旋律を奏でるというもの、それを合唱に置き換える際に、ゴットヴァルトはメシアン自身が「3つの典礼」という女声合唱曲のために作った歌詞を、コラージュ風に用いています。ここで必要とされるパートはなんと19声部、その厚ぼったい響きが主にピアノのパートを受け持った結果、この曲はオリジナルが持っていた単旋律の流れよりは、煌びやかな和声の移ろいの方がより強調されることになりました。言ってみれば、この曲の中にメシアンが遠慮がちに秘めていた輝きを、白日の下にさらしたようなもの、全く装いも新たな、ほとんど別な曲として生まれ変わりました。
カプレの「イエズスの鏡」からの3曲も、オリジナルでの控えめな合唱の使い方に物足りなさを感じていた人には嬉しい編曲でしょう。元の女声合唱を生かしつつ、器楽のアンサンブルや独唱を合唱に置き換えるという手法は見事です。
この合唱団は、ゴットヴァルトの編曲の持つ緊張感を、鋼のような硬質の音色で良く表現しています。ソプラノの一本芯の通った力強さはいかにも「ドイツ的」。ですから、フランス語のディクションの拙さもあってか、これらのフランスの曲の持っていたある種の「ゆるさ」が、もっと厳しいものに置き換わっているという印象は免れません。その点、アルバン・ベルクやハインツ・ホリガーの曲では、構成の逞しさまでも表現しきった編曲ともども、圧倒的な力を感じることが出来ます。
by jurassic_oyaji | 2007-02-24 07:03 | 合唱 | Comments(0)